メディア表現学研究会:第1期

テクノロジーの〈解釈学〉

技術の哲学に取り組んだ哲学者のBernard Stieglerがギリシャ神話の例を用いて説明したように、テクノロジーは人類にとって不可欠な存在です。テクノロジーの進化と社会に対する影響を不可避なものであるとする決定論的な考え方は、ビジネスにおいて機会を創出するためのロジックとしてしばしば用いられます。例えば、2021年後半から今年にかけ、〈メタバース〉を独自に定義した上で不可避な変化であるかのように紹介する言説は数限りなく観測されました。こうした場面において、高度に複雑化したテクノロジーはブラックボックスとして扱われ、固定したものであるかのように語られがちです。

しかしながら、テクノロジーは固定されたものではなく、様々に解釈可能なものであるはずです。例えば、DIYの祭典「Maker Faire」においては、テクノロジーをそれぞれの視点で解釈し、制作し、具体的な作品として表現する「Maker」たちの多様な活動に触れることができます。こうした機会を通じて、テクノロジーはブラックボックスではなく、自分たちと共に在ることを実感できるのです。また、メディア表現研究を標榜する本学においても、テクノロジーと深く向き合いつつ様々な解釈を試み、実際に作品を制作することを通じて批評する活動を継続してきました。

こうした背景を踏まえ、このシリーズは「テクノロジーの〈解釈学〉」を主題として開催します。制作や取り組みに関する話題提供では、先駆的な現場における実際の経験から見出した可能性と課題を共有することを試みます。理論に関する話題提供からは、混沌とした経験を解釈するための眼差しを学ぶことを試みます。これにより、テクノロジーと向き合い、様々に解釈し、深く議論できるような基盤を醸成することを目指します。

第1回

概要(募集時):
技術に着目した20世紀の哲学者たちは、ヨーロッパ近代に生まれたテクノロジーが、単なる道具に留まらない大きな影響力を有していることを問題視しました。例えばMartin Heideggerは、技術をギリシア的な概念であるテクネーとヨーロッパ近代に生まれたテクノロジーに分け、2つがまったく異なると指摘した上で、本来的なものへと回帰することを提唱しました。また、京都学派を代表する一人の三木清は、技術を道具技術と近代の機械技術に分け、それらが根本的に異なることを示した上で、道具技術への回帰ではなく発展させるべきだと主張しました。許煜(ユク・ホイ)は2016年の著書『中国における技術への問い』において、Heideggerは本来的なものへと回帰しようとしたことで形而上学的ファシズムに陥ったと指摘しました。その上で、こうした議論が前提としている、技術は普遍的なものであるという見方に対し、「宇宙技芸」という概念を用いて、技術の多様性こそが重要であると主張しました。同書では、宇宙技芸を実現するためにどうすればいいかまでは論じられていません。ここで私が着目したいと考えたのは、テクノロジーを柔軟に解釈し、その解釈に基づいて作品を制作するという行為です。なぜなら、テクノロジーをブラックボックスとして認識する態度から脱し、近代よりも前に回帰するのでも、近代を超克するのでもなく、現在と地続きのまま技術の多様性を実現できる可能性を柔軟な解釈と制作に見出しているからです。そうした解釈と制作が起きる現場として、私が注目したのはDIYの祭典「Maker Faire」です。宇宙技芸という概念を手がかりに、Maker Faireにおいて見られる解釈の多様性と、Maker Faire自体の多様性に着目し、そこに見出した可能性を参加者に共有することを試みます。第1回では、テクノロジーの〈解釈学〉に関するこの試論を紹介し議論を開くことにより、本シリーズの狙いやその背後にある問題意識を提示します。

(小林茂)

第2回

概要(募集時):
第2回のメディア表現学研究会では、メタバースとWeb3.0 について取り上げます。なお、世間ではしばしば同一視されがちですが、この2つは分けて話をします。

現在のメタバースとWeb3.0の盛り上がり(バブル感)を見ると、かつて同じような状況を何回か見てきたことを思い出します。一番印象に残っているのは、黎明期のインターネット時代にWebが広がっていくとき、同時期の第1次VRブーム、その後にもUGCや動的なWeb、スマートフォンの登場などなど、あるいは第1回目のテーマであったMakerムーブメントもその一つかと思います。

今回取り上げる2つの動きは、特にインターネット黎明期の頃の状況に近いものを感じます。単に新しいテクノロジーによって変化が齎されるということ以上に、経済的な理由、つまり新しい市場として魅力的に見え、そのために多く(いろんな種類)の人が集まってきている。これは、研究者の集まりだったインターネットが大衆化/商業化されていく過程によく似ています。このような過剰な盛り上がりは、実際に社会に実装されていく中で、当初の予想や期待とは違った形に変容しつつ落ち着いていき、やがて当たり前のインフラとなっていくものでしょう。ただし、過剰な盛り上がりが変な方向に行ってしまうと、期待される良い部分を含めて崩壊する、一部の問題によって瓦解し終わってしまう可能性も含んでいます。

瓦解を起こさないようにうまく発展させていくにはどうしたら良いか? 今期待していることをどのようにすれば社会に実装できるのか? 今回は、メタバース、Web3.0によって変化していくこれからの社会を担うであろう、現在これらを研究テーマとしている2人をゲストに迎えて、現状と期待、そして問題点を見つけながら、どう対応していくべきなのかのヒントを探したいと思います。メタバースに関しては、IAMAS M1の新垣隆海さん、JACKSON Kakiの名義の方が有名ですね。もう一人は今年IAMASを修了した中南賢治さん、sanmal名義で自身の音楽レーベルを運営しWeb3.0的な仕組みを活動に取り入れる研究をしています。

トピックとしては、メタバースに関しては、空間としての意味と可能性、アバターとして人格、今後の制約や法的問題など、Web3.0に関しては、DAOの可能性と限界、DeFi大丈夫?、コミュニティあるいは共同体として可能性、トークンや信頼など適宜上げつつ、参加者を含めて自由に議論を進めたいと思います。次回以降の私の担当回では、今回の議論を元にさらに深掘りしていく予定です。

数年後に今回の議論を振り返った時に、「あの時あんな事を考えていて実際こうなったのか…」という程度のことかもしれませんが、今後、多分近いうちに同じような状況に対峙する時に、多少なり役に立つことをちょっと期待しています。

(平林 真実)

第3回「メタバース社会を構成するもの」

概要(募集時):
第2回のメディア表現学研究会では、メタバースおよびWeb3.0について、私の個人的に感じていた、インターネット黎明期との類似性に対する疑問から始まり、様々な立場の方からどのように見えているのかについてディスカッションを行うことができました。

現状ではメタバースという言葉が極めて曖昧に各々の立場によって使われているということもあり、アバターの位置付けや、SNS的側面、インターネットならではのアクティビティ、ネットアート的な見え方など広く展開していきました。

第3回となる今回は、特にメタバースにおける社会はどうなっていくのかについて、黎明期である現在とこれから見えてくるだろう問題と期待・展望について考えたいと思います。

特にメタバース社会において重要な役割を担うであろうアバターを起点に、その意味と身体との関係、今後の研究によるどのような進化がなされるのかを概観しながら、メタバース社会に対して我々はどう対応していくことになるのか考えていきたいと思います。

話題提供者には、VRの研究者であり、VRChat等の世界においてアバターとしての生活が日常でもある明治大学の三武裕玄先生、前回に続きメタバース社会をテーマにした作品制作を目指している、本学M1のJACKSON Kaki (新垣隆海)さんに参加して頂きます。三武先生は、キャラクターの振る舞い等についても研究されているので、アバターのあり方とその可能性についての興味深いお話を聞けるのではないかと思います。アバターによって構成される社会からメディア表現へ繋がる議論ができたらと考えています。

主なトピックとして、

などを適宜考えながら進めていきます。

(平林真実)

第4回「時間論からメディアアートの再起動を考える:哲学・人工知能・アート」

概要(募集時):
技術の哲学を中心に積極的な活動を展開し日本でも注目を集める香港出身の哲学者ユク・ホイは、2021年の著作Art and Cosmotechnicsにおいて、ギリシアにおける悲劇と中国における山水画について対比しながら詳細に論じ、さらにテクノロジーとアートの関係について西田幾多郎や三木清にも言及した先で、次のように述べています。

アートは認識をめぐる革命(epistemic revolution)の先頭に立たなければならない。それは、AR、VR、AIを使って新しいメディアアートを生み出すことではなく、AR、VR、AIを生み出すためにアートをどう使うかということなのだ。メディアアートは、デジタルメディアの使用を促進しながらも、これまでそれを構成していた概念的な枠組みをまだ超越していないのかもしれない。

振り返ってみれば、アートとテクノロジーが交差した領域において20世紀後半に生まれたメディアアートには、ホイが指摘したような役割が期待された時期があったはずです。しかしながら、広告やエンターテイメントなどに一定の影響を与えたことは認められるものの、アート一般に吸収され終焉を迎えたと言っても過言ではないでしょう。特に、2022年の日本においては、文化庁メディア芸術祭の終了と結びつけて考える人が多いかもしれません。この段階において、メディアアートとは何だったのかを振り返り、新たな制作の基盤として「再起動」することが求められているのではないでしょうか。これは、かつてメディアアートに特化した学校として知られ、現在もメディア表現研究を標榜するIAMASこそが取り組むべきだと私は考えます。

とはいえ、この問題は大変に大きく複雑であり、私たちだけで実現することはできません。しかしながら、21世紀に入ってから20年以上が経ち、注目すべき動きが出てきています。例えば、独自の時間論で知られるフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの研究者であり哲学者の平井靖史さんが2022年に出版した『世界は時間でできている』はその一例です。本書において平井さんは、ベルクソンの時間論を拡張したマルチタイムスケールの時間論を展開し、ベルクソンの認識論とARを接続しうる大変興味深い議論を提示していらっしゃいます。また、科学・工学・哲学が交差する現場として人工知能を捉えることを提唱する人工知能研究者の三宅陽一郎さんは、『人工知能のための哲学塾』などの著作において様々な可能性を提示し、ゲームAIやスマートシティにおけるメタAIを提唱し実践し続けていらっしゃいます。

今回は、お二人の力をお借りしつつ、哲学・人工知能・アートに共通する観点として時間論を設定し、メディアアートの再起動を考えることに取り組んでみたいと思います。

(小林茂)

第5回:超学際(transdisciplinary)領域における研究の評価とは?

概要(募集時):
IAMASは、芸術的感性と科学的知性の融合を理念として掲げ、領域に縛られない実践的な活動によって「制作の知」を見出しながら、学術的な研究と高度な表現者の育成を目指しています。当初より本学では多様な領域の教員が集まり研究や議論を行う領域横断的な活動を行ってきており、学際(interdisciplinary)的である必要がありました。時代の変化に合わせてIAMASにおける研究活動領域はさらに広がり、学際(interdisciplinary)を超えて、多様な領域に関わるだけではなく、それらを融合した新しい領域と言えるものになって来ています。

学際を超えるような超学際(transdisciplinary)研究では、各々の研究領域において一般的、定番とされるような研究成果の評価方法だけでは判断し得ない、もう一段超えたメタな視点から研究を評価しなければならない状況が発生しています。本学も博士課程を開設して3年目を迎え、研究を評価するため、既存の研究領域に寄り添いつつも、メディア表現学という学位を位置付けを改めて示して行けるような領域、学際(interdisciplinary)を超えた研究のあり方を示していかなければなりません。

そこで、今回は、情報処理学会エンタテイメントコンピューティング研究会の主催シンポジウムにて実施されているQualificationというエンタテイメント研究のための評価手法を発案された関西学院大学理工学部人間システム工学科 片寄晴弘教授をゲストに迎え、Qualificationの発想および実践状況について伺いながら、超学際的領域における評価の方法について議論したいと思います。(平林 真実)

6回:人工知能の時代の芸術——「表現」とはなんだろうか?

概要(募集時):
人工知能が人類存亡の危機をもたらす。私たちは今もなお、人工物創造を神への反逆とする「フランケンシュタイン・コンプレックス」に怯えているようだ。哲学者の吉岡洋は、チューリングテストや課題解決能力による人間の定義を乗り越える新たな思想を提案する。本学教員の小林茂は、大規模言語モデルによる生成系人工知能が台頭する時代の〈知〉と〈作者〉の在り方を問う。人工知能の時代に、いかにして芸術表現は可能だろうか。(大久保 美紀)

資料

特別講義:Les Immatériaux展とは何か——Jean-Louis Boissier & Liliane Terrier

基本情報

概要

1985年、ポストモダンの提唱者であるジャン=フランソワ・リオタールが芸術監督を務めた、ポンピドーセンター(パリ)での展覧会「Les Immatériaux」は、メディアアートの展覧会として歴史上最も重要な展覧会の一つである。しかし、展覧会はある意味神話化され、その重要性が深く理解されてきたとは言えない。「Les Immatériaux」は2023年7月よりポンピドーセンターで再構築展として開催中である。1985年の展示に参加したJean-Louis BoissierとLiliane Terrierという2名のアーティストを招き、本展覧会を軸にメディアアートの30年の軌跡を思考し、未来への視座を問う。

第7回:サイバネティック・パラダイムをめぐる議論からメディアアートの再起動を考える

基本情報

開催趣旨

人工知能など現代のテクノロジーを考える上で、人間を含む生物と機械は同じ原理で捉えられ制御しうるものだとする考え方は極めて重要です。その基になったのは第二次世界大戦直後にノーバート・ウィーナーが名付けた「サイバネティクス」という学際的研究領域です。人間・生物と機械は同様の原理で制御できるとする見方は、どこでもない視点から世界を眺め、全ては計算可能であるとする考え方を招きました。80年近くが経過しサイバネティクスという言葉はほとんど耳にしなくなりましたが、それは減衰し消滅したからではなく、浸透し無意識化してしまったからです。

世界を覆い尽くすコンピューティング・パラダイムの問題を考えるにあたり、サイバネティクスに胚胎していたもう一つの可能性に着目するのが「ネオ・サイバネティクス」です。ネオ・サイバネティクスにおいては、人間を含む生物の自律性に着目して生物と機械を峻別し、あくまで世界の中に位置付けようとする立場を取ります。ネオ・サイバネティクスをさらに発展させようとする基礎情報学の提唱者である西垣通は、同じサイバネティクスに根ざしつつも、まったく異なる2つの立場を「コンピューティング・パラダイム」「サイバネティック・パラダイム」と呼びます。この2つをめぐる複雑に入り組んだ議論の見取り図は、基礎情報学研究者の西田洋平による『人間非機械論』(2023)で示されました。

人工知能が台頭する中、サイバネティック・パラダイムへの注目は高まりを見せています。例えば、記号創発システム論およびその工学的実践としての記号創発ロボティクスの研究者たちとネオ・サイバネティクスの研究者たちによる『未来社会と「意味」の境界』(2023)では、実践と理論の双方の観点から、人工知能の時代における人間と機械の関係を考える上で重要なヒントが示唆されました。

もしメディアアートがアートとテクノロジーの交差であるとするなら、こうした議論の場に参加し、理論と実践の間の作品により先導し得たはずです。しかしながら、少なくとも現状では深く関与することができていません。この問題を考えるにあたり、原島大輔さんに話題提供をお願いしたいと考えました。原島さんは表象文化論と基礎情報学を専門とする研究者で、メディアアートへの造詣も深く、ユク・ホイ『再帰性と偶然性』(2022)などの翻訳者としても知られています。また、サイバネティック・パラダイムを考える上での方策として、メディアとして捉えることにより人間・機械複合系の負の側面だけでなく正の側面にも着目しようという「メディア・アプローチ」を提唱されています。今回は、原島さんから話題提供をいただいた上で、サイバネティック・パラダイムをめぐる議論からメディアアートの再起動を考えます。

これまでと同様に、研究会への参加にあたっては特に資格などを設けておりませんので、この話題に興味のある方であればどなたでもご参加いただけます。より深い議論にするため、『人間非機械論』を読んだ上で参加されることを強く推奨いたします。(小林茂)

資料

参考文献

登壇者プロフィール

原島大輔

早稲田大学次世代ロボット研究機構研究助手。著書に、『未来社会と「意味」の境界』(共著、勁草書房、2023年)、『メディア論の冒険者たち』(共著、東京大学出版会、2023年)、『クリティカル・ワード メディア論』(共著、フィルムアート社、2021年)、『AI時代の「自律性」』(共著、勁草書房、2019年)、『基礎情報学のフロンティア』(共著、東京大学出版会、2018年)など。訳書に、ユク・ホイ『再帰性と偶然性』(青土社、2022年)、ティム・インゴルド『生きていること』(共訳、左右社、2021年)など。
https://digital-narcis.org/Daisuke-HARASHIMA/

第8回:変性意識と表現:歴史と可能

基本情報

開催趣旨

変性意識状態は、瞑想や修行によって自らその状態になることを体得する、あるいは薬物等により外部からの作用によって、または儀式やイベントにおける熱狂状態によって、その状態になる通常とは異なる意識状態です。

人類の歴史を遡ると、変性意識状態は古代から重要な役割を果たしてきました。儀式や祭りでは、この状態を引き起こすための方法が探求され、多くの文化で重要な役割を果たしました。このような状態は、神聖な経験や啓示を引き起こす手段として使用され、個人やコミュニティの精神的な進化と成長を促しました。変性意識状態は、人間の経験と精神的な探求の一部であり続けています。

これらの儀式に置いては特別な環境を作り上げることや自然由来の幻覚性や向精神性のある植物らが使用されてきました。

近代以降においても、修行や薬物によって得られた体験をもとにした絵画等における表現や、オカルトに類するような体験をもとにした表現、特に西洋的な宗教と東洋的な思想が混ざることによって神秘主義的なオカルティズムはカウンターカルチャー的な潮流と合わさり、様々な表現に大きな影響を与えました。

LSDの発見を発端としたサイケデリックアートでは、絵画やデザイン、音楽、文学等幅広い表現領域において多数の作品が制作され、大きなムーブメントとなりました。

このように変性意識は人類にとって不可欠とは言わないが常に隣にあるものです。瞑想等の効果が再認識され流行となっている一方、特に日本においては薬物に対して過剰なまでの忌避される環境が作られてきました。

しかし、世界では大麻やLSDの医療目的の研究が進み、医療目的の使用が解禁されている地域も増えています。さらに自由化(非犯罪化)の進んでいるところもあります。

このような大きな変化が起きようとしている中で、変性意識状態とは何かを再認識し、それによってもたらされる表現の可能性について考えてみたいと思います。

今回の研究会では、話題提供として人類学の立場から変性意識状態について研究をされている明治大学情報コミュニケーション学部の蛭川立准教授と、本学の修了生でVRによるLSD体験を実現する作品を制作した永井歩さんをお呼びして、人類と変性意識の歴史と現在の薬物の利用における課題を理解しながら、どのように表現へ適用可能かを議論していきます。

(平林 真実)