文化人類学者は、現地社会でのフィールドワーク(参与観察やインタビュー)によって人間の活動に関する調査を行う。私は1984年よりカナダ・イヌイットやアラスカのイヌピアットらの極北地域の狩猟採集社会において狩猟・漁労活動や社会・文化変化に関する調査を行ってきた。この40年のうちに社会は大きく変化してきたが、彼らの間では現在でも食物分配が実践され続けている。
食物の分配はボノボやチンパンジーなどでも知られているが、「与える分配」や「交換」は人間に特徴的な行動であると言われている。本講演では、世界各地の狩猟採集社会の食物分配の多様なやり方や形態について紹介した後、イヌイットとイヌピアットの食物分配の事例を紹介し、その変化と多面的機能・効果について検討する。
イヌイットやイヌピアットの食物分配には下記のような多面的な機能・効果そして変化が認められる。
(1)経済的機能・効果:食料が無い人もしくは世帯が入手でき、生存の可能性を高める。また、コミュニティ内や拡大家族内での食料資源の平準化の効果がある。
(2)社会的機能・効果:食物分配を通して特定の社会関係が確認され、生成・維持される。
(3)文化的機能・効果:食物分配は、コミュニティのアイデンティティやイヌイット/イヌピアットとしてのアイデンティティを生成・維持させる。
(4)政治的機能・効果:食物の送り手は、コミュニティ内で名声や社会的評価を受け、より大きな影響力を持つ。
(5)心理的機能・効果:食物の送り手は他の人に食物を与えることによって文化的満足を得る。一方、食物を受け取る方は負債感や負い目を持つ可能性が高い。
(6)現金経済の浸透によって食物分配の範囲が狭くなり、頻度が減少しつつあるが、現在の生業・現金混交経済システムのもとでは、食物分配は有効な社会的・経済的・環境的適応手段であり、当面は実践され続けられると予想できる。
参考文献
岸上伸啓 (2007)『カナダ・イヌイットの食文化と社会変化』世界思想社。
Kishigami, N. (2004) A New Typology of Food Sharing Practices among Hunter-Gatherers, with a Special Focus on Inuit Examples. Journal of Anthropological Research 60: 341-358.
Kishigami, N. (2021) Food Sharing in Human Societies: Anthropological Perspectives. Springer.