学級通信
皆さん、友達はいますか?
僕は、高校も大学もそこそこ友達はいました。が、今でも定期的に連絡を取る友達は2人しかいません。高校で仲良くしていた男子グループの友達なんかは、携帯を変えたタイミングで連絡先も消しました。もう今後会うこともないし、これといって会いたいとも思っていません。
こういうとすごく冷淡で嫌なやつに聞こえると思いますが(実際そうかもしれないけど)、それには理由があります。僕は、友達には3つの種類があると思っています。
1つ目は「一生繋がっている友達」です。僕でいうところの先ほどの2人です。恥ずかしげもなく言うと「親友」というやつです。
2つ目は「機会があれば遊ぶ友達」です。僕はこの友達が10人くらいいます。親友という感じではないけど、好きな友達。自分の結婚式に呼ぶような人たちです。
3つ目は「その時の友達」です。これがちょっと分かりにくいかもしれません。あくまでも僕の個人的意見ですが、その時のコミュニティで仲良くしていた友達、僕でいうところの高校の男子グループの友達のことです。その友達とは、その時本当に仲が良かったです。いつも教室で遊んでいました。じゃあなぜ卒業してから会わなくなったのか。それは大学で新しいコミュニティの友達ができたからです。高校の友達がどうでもよくなったわけではありません。皆さんにも「小学校4年生の時はすごく仲良かったけど、なぜだか知らないうちに全く話さなくなった」という友達はいませんか?
「4月はそのグループにいて仲良く喋っていたのに、気づけばそのグループから外れていた…」と悩む生徒に、僕はこんなアドバイスをします。
「小さい頃に着ていた服でも、大きくなれば着なくなる。大きくなった自分が悪いわけでも、大きさが変わらない服が悪いわけでもない。無理に小さな服を着る必要もないから、今の自分に合う服を探せばいい。友達付き合いはそれと同じだと思います。」
沢山の人とずっと関係を持ち続けることができる人もいますが、僕にはそれができません。なので大学で友達が沢山できると、必然的に高校の友達とは繋がりが薄くなっていったわけです。
長々と話しましたが、ここで僕が伝えたいのは「一生付き合う必要はないけど、人生のどの瞬間においても、友達というのは大切な存在である」ということです。もう繋がりはないですが僕にとって高校の男子グループの友達はその時とても大切な存在でしたし、彼らとの時間は今でも僕の中で良い思い出として残っています。今皆さんが一緒にいる友達。数ヵ月後、数年後には関係が途絶えるかもしれません。ですが、だからと言って「友達なんていらない」ということではないと思います。せっかく同じクラスになったのだから、友達は多い方がいいです。僕がここでいう友達とは「一緒に遊びに行く人」のことではなくて、「隣にいれば話せる人」のことです。朝クラスに入った時や、その人の前を通る時に「おはよう」と全員が全員に言える関係。そんな集団になってくれたら嬉しいです。
・友あるものに挫折なし。〔映画『素晴らしき哉、人生!』〕
・われわれを救ってくれるものは、友人の助けそのものというよりは、友人の助けがあるという確信である。〔エピクロス(ギリシア 哲学者)〕
・友人のために私がしてあげられること。それはただ友人でいてあげること。〔ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(アメリカ 思想家)〕
以前友達と遊んだ時、「タイムマシーンがあるならいつに戻りたい?」と聞かれました。自分のこれまでを思い返すと、高校では教室という居場所があって、些細なことでも毎日笑っていた記憶があります。大学では色々と自由になって、毎日遊んでいました。最高に楽しかったです。
社会人になると「学生時代に戻りたい。働きたくない」という人もいますが、僕は先生という仕事が好きなので毎日楽しいですし、学生時代よりお金にも余裕があって自分の思い通りの生活ができるし、家族にも恵まれたし、現状にとても満足しています。なので、先ほどの友達の質問には「今が楽しいから戻らなくていい」と答えました。
教員になって2年目の時、何かの話の流れで先輩の先生が「毎日がピーク」と言っていました。昨日よりも常に今日がいい。僕の座右の銘の1つになりました。
ヴィクトール・フランクルという作家がいて、『夜と霧』という本を残しています。フランクルは第二次世界大戦中にナチスの強制収容所に収監されました。いつ死ぬか分からない過酷な状況の中で、収監されている人の多くは生きる気力を失っていましたが、フランクルはその中に、歌を歌いながら陽気に過ごしている収監者を目撃します。そこでフランクルはこのような言葉を書き残しています。
「与えられた事態に対してどういう態度をとるかは、誰にも奪えない、人間の最後の自由である」
どのような環境に置かれたとしても、その状況をどのように捉え、どのように振る舞うかは、誰にも強制することのできない、その人の自由である、ということです。絶望の中で、絶望に打ちひしがれるか、希望を見出すかは、その人次第です。
昔の方が良かった、と言い出せばキリがないですし、昔には戻れないんだから今を楽しんだ方がいい。現在の環境に不満がある時は、自分の力でその環境自体を良いものに変えてしまうか、それができない場合は、その環境を抜け出してしまうか、抜け出すことができない状況であれば、自分の心の在り方を変えて楽しむしかない。そんなことを意識して僕は生活しています。
まだ新しいクラスになってから日が浅いので前のクラスが恋しい人もいるかと思いますが、せっかく新しいクラスになったのだから思う存分楽しんでほしいなと思います。そのためにはクラスの人とどんどん交流しましょう。お昼は今のクラスの人とご飯を食べてほしいなと思います。
人を好きになるためには、まず「知る」ことが大切です。仲良くなってみたいな、と思う人がいれば、遠慮せずに声を掛けてみてください。どんな人でも、誰かに声を掛けられるのは嬉しいものです。
僕の好きな言葉に、「未来は僕らの手の中」という言葉があります。今を楽しむかどうかは自分次第です。今ある環境を、全力で楽しんでみてください。
・幸せな子を育てるのではない。どんな境遇に置かれても幸せになれる子を育てたい。〔美智子上皇后陛下(日本)〕
・喜びはなにかのなかにあるのではなく、私たちの内側にある。〔リヒャルト・ワーグナー(ドイツ 作曲家)〕
・美しい景色を探すな。景色の中に美しいものを見つけるんだ。〔ゴッホ(オランダ 画家)〕
・幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合ったときだ。〔映画『イントゥ・ザ・ワイルド』〕
・何より大事なのは、人生を楽しむこと。幸せを感じること、それだけです。〔オードリー・ヘップバーン(イギリス 女優)〕
・幸せを数えたら、あなたはすぐ幸せになれる。〔ショーペンハウアー(ドイツ 哲学者)〕
人は誰のために他者を注意するのでしょうか。中学2年生の時の担任の先生に言われたことで、今も意識していることが2つあります。
その1つが「目上の人の前で自分のことを『俺』と言わない」ということです。僕は先生にタメ口を使ったり馴れ馴れしく接するタイプではなかったのですが、先生と話す時は自分のことを普段通り「俺」と言っていました。もちろん悪気はありません。それに対して、その先生はいつも「『僕』ですね」と訂正を入れてきました。その先生は女性の国語の先生で、本が好きそうだな…という感じの人でした。きっちりしている先生だったので、だらしない女子生徒たちからは理不尽にも嫌われていました。僕も中学生で多少は意地っ張りだったので、構わずに「俺」と言い続けていたのですが、何度でも「『僕』ですね」と訂正してきました。今思うと、あの根気強さは尊敬できます。
それからは、目上の人の前では自分のことを「僕」というようになりました。どんなに仲良くなった先輩に対しても「僕」と言うようにしています。不思議なことに「僕」の後は自然と敬語が続きます。「親しき仲にも礼儀あり」という言葉がありますが、上下関係は大切だと思っている僕にとって、この習慣を身に付けさせてくれたその先生には感謝しています。
もう1つが「目上の人から物を受け取る時は両手で受け取る」ということです。その先生は、物を受け取る時は「ありがとうございます」と言うようにも指導していました。先生からプリントをもらう時に片手で受け取ろうとすると、プリントを返却してもらえませんでした。だらしない女子たちは反骨精神むき出しだったので、プリントを受け取らずに席に戻ったりしていましたが、それでもその先生はそのルールを譲りませんでした。僕も教員になってからは両手で物を受け取るように生徒に伝えています。「ありがとうございます」と言うようには強制していませんが、その代わりに物を渡す時にはこちらが軽くお辞儀をするようにしています。そうすると生徒もそれにつられてお辞儀を返してくれたり、「ありがとうございます」と言ってくれるので気持ちの良い関係が築けます。
教員になってから、先生間でプリントを受け渡しする時に急いでいるあまり片手で物を受け取ってしまうこともしばしばあります。その都度「やってしまった…!」と反省するのですが、その代わりに「ありがとうございます」と言うことは徹底しています。何にせよ、誠意が伝わればそれでいいと思います。
小学4年生の時の担任の先生は、プリントを後ろに回す人は「お願いします」と言い、受け取る人は「ありがとうございます」と生徒間でも言い合うように指導していました。そこまでやらなくていいとは思いますが、プリントを回す時は必ず身体を相手に向けましょう。後ろを振り向かずに背中越しでプリントを渡してしまうと非常に印象が悪いので、そこも意識してほしいなと思います。
正直、いちいち細かく注意されるのは面倒だと思います。もちろん先生方も面倒です。何も言わずに見過ごす方が絶対に楽ですが、それではいけないと思って僕は仕事をしています。社会人になると誰も注意なんてしてくれません。「こいつダメだな…」と思われて関係を絶たれるだけです。そうならないように、鬱陶しいと思われるかもしれませんが、ダメなことはダメだと僕は皆さんに注意します。皆さんも周りで明らかにおかしいことをしている人がいたら、その人のためにも注意してあげてください。その瞬間の空気は悪くなるかもしれませんが、その後の空気は絶対に良くなるはずです。
・たとえ、女王の子どもでも決まりを守ることが、国を守ることになるのです。〔ユリアナ(オランダ 女王)〕
・これくらいは…が一番怖い。〔ラムゼイ・マクドナルド(イギリス 政治家)〕
・あなたの心が正しいと思うことをしなさい。どっちにしたって批判されるのだから。〔エレノア・ルーズベルト(アメリカ 人権活動家)〕
卒業を控えた3年生の生徒に「大人ってなんですか?」と聞かれたことがあります。僕は「良い意味では自分の行動に責任が取れる人。悪い意味では『普通』という言葉を使う人」と答えました。
皆さんはしっかりとした考えを持っていますし、僕よりも優れたところが沢山あると思いますが、「大人」ではありません。それは自分の行動に責任が取れないからです。保護者や国のお金で生きており、何かマズいことがあっても誰かが救ってくれます。そのため、責任が取れない皆さんは、大人よりも自由が少ないわけです。
大人は責任がある一方で、それだけ自由な存在です。色々と大変なこともありますが、大人はとても楽しいです。
一方で、大人は常識というものに縛られる傾向があります。自分の人生経験が太いタイヤ痕のように足元についていて、そこから伸びる道を歩き続けることで安心しようとします。裏返すと、その道から外れることが怖く、その道から外れている人に対して声を掛けたくなります。なので、僕は大学に行かないと言っている人を見ると声を掛けてしまいます。大学には行っておいた方がいい、今の時代「普通は」大学に行くものだ、と言ってしまいます。
ただ、よく考えると僕の普通は「僕にとっての普通」なだけで、他の人にとっては異常なこともあるでしょう。
世の中には「利き感覚」というものがあり、利き手と同じように、人には自分が得意とする感覚があるそうです。試しにやってみましょう。
あなたはいま、海にいます。目をつぶって、その場面を想像してください。
さて、あなたは何を想像しましたか? 以下のどれに当てはまりますか?
①視感覚タイプ――真っ白な雲や、青い海を思い浮かべた人。
②聴力感覚タイプ――波の音や、人がはしゃぐ声が聞こえた人。
③体感覚タイプ――太陽がジリジリと肌を焼くイメージや、砂浜を踏む感覚が思い起こされた人。
このように分類されます。例えば、服屋に行った時、「視感覚タイプ」は服のデザインを真っ先に見て、「聴感覚タイプ」はタグをすぐに確認して(耳だけではなく文字で情報を確かめる傾向もあるらしい)、「体感覚タイプ」はとりあえず生地を触ってみるのだそうです。
つまり、「視感覚タイプ」は目で、「聴感覚タイプ」は耳と文字で、「体感覚タイプ」は触って情報を確かめる傾向にあるということです。
したがって、ある作業を覚えてもらう時には、「視感覚タイプ」には見て覚えてもらい、「聴感覚タイプ」には説明書を渡して文字で覚えてもらい、「体感覚タイプ」には実際にやらせて覚えてもらう方がいいとのことです。
もちろんこの話は100%信じることはできないですが、僕が言いたいのは「自分が見て覚えるのが得意だからといって、他の人がそうとは限らない」ということです。自分の「普通」を押し付けるのではなく、それぞれの個性に合わせたやり方が大切なわけです。
さて、皆さんの個性は何なのでしょうか? 皆さんが将来やりたいことは何なのでしょうか? 親や先生から、大人の「普通」が押し付けられることもありますが、大切なのは「自分」が何をやりたいかということです。そのためには、情報を収集しなければいけません。今一度自分の進路について考え、収集してみてください。
ただし、大人の「普通」を疎(おろそ)かにしてはいけません。大人の経験を甘く見てはいけません。最初に伝えたとおり、いまの皆さんは自分で責任を負って生きていくことができませんし、学費などは保護者の方が出してくれます。なので、必ず保護者の意見を聞くようにしましょう。また、先生方は教育のプロフェッショナルです。それなりに情報は持っていますし、色々な生徒を見てきました。先生方のアドバイスも聞いてほしいなと思います。そのうえで、自分はどうしたいのか。しっかりとした考えが持てるように、今から行動してみてください。
もう一度繰り返します。大人は楽しいです。大人になれるように、今を精いっぱい生きてください。
・夢を持つと苦難を乗り越える力が湧いてくる。〔ハインリヒ・シュリーマン(ドイツ 考古学者)〕
・人生とは自分を見つけることではない。人生とは自分を創ることである。〔バーナード・ショー(アイルランド 劇作家)〕
今回は僕が高校の国語の先生になろうと思った経緯をお話します。
僕の家系に教員はいません。両親ともに高卒で、「勉強しなさい」と言われたことは一度もありませんでした。実は、僕は6人兄弟の末っ子です。上の3人は私立大学、4番目は専門学校、5番目は推薦で国公立大学に行きました。国公立大学に一般受験で進学し、教員になった僕はイレギュラーな存在です。なぜだか分かりませんが、中学生の時から何となく教員になりたいなと思っていました。理由はよく分かりません。ただ、なんとなくです。
高校2年生の時、日本史の勉強が面白くて日本史の教員になろうと考えていました。生物の勉強も楽しかったのですが、すでに文系に進んでいたので諦めました。ただ、日本史が好きだとしても「日本史だけを教える先生」というのは存在しないので、「社会の先生」にしかなれません。世界史も地理も政治経済も倫理も全く興味がなかったので、その時の僕はどうしようかと悩んでいました。
3年生の時、クワバラ先生という国語の先生に出会いました。その先生は野球部の顧問で、身体も大きくて、ちょっと怖い見た目をしています。ただ、めちゃくちゃ授業が分かりやすい。感覚で解いていた古文の問題が、その先生のおかげで論理的に解けるようになっていきました。僕は小中高と先生の授業で面白いと思ったことはあまりなく、機械的に話を聞いて自分で勉強するタイプで、嫌いな先生もいないけど、好きな先生もいない、という生徒でした。それが、どんどん知識が繋がっていくクワバラ先生の授業を受け、自分もこういう先生になりたいと思い始めました。
高校受験は中学校での評定と当日の試験の点数で合否が決まりますが、大学受験は当日の試験一発勝負です。僕は高校の授業を真面目に受けていたので(優等生ではなかったですが、授業中に寝たことは一度もありません)、評定はそこそこありました。「日頃の頑張りを受験で活用できないなんてもったいない」と思い、推薦で教育大札幌校を受験することにしました(ここだけの話、単純に受験勉強が面倒くさいという思いもありました)。大学受験の推薦は3年生の秋から冬の頃で、10月に担任の先生に推薦願を提出し、中旬に「校内選考が通ったから推薦の準備をしていいよ」と言われました。
そんな時、クワバラ先生から突然呼び出されました。ちなみに、クワバラ先生は僕のクラスの担任でも副担任でもありません。僕は陰ながら尊敬していましたが、積極的にクワバラ先生に話しかけるということもありませんでした。それなのに呼び出されたので、戸惑いながら行ったところ、クワバラ先生にこんなことを言われました。
「ツシマは自分が思っているよりも能力が高い。受け答えが他の生徒と違う。しっかりと勉強をして、北海道大学に行きなさい。」
北海道大学なんて考えたこともなく、雲の上の存在で自分なんかが目指す大学ではないと思っていました。それでも、尊敬するクワバラ先生にそんなありがたい言葉をかけていただいたので、北海道大学を受験しようと決心しました。
その後どのように勉強したかは、次回お話します。北海道大学を目指してから受験までは時間が全然なかったのですが、死に物狂いで勉強し、なんとか合格しました。そこで、このようなことを思いました。
「今の自分があるのは親のおかげで、人生を変えてもらったのはクワバラ先生のおかげだ。これは必ず恩返ししなければいけない。クワバラ先生に直接お返しすることもできるけど、それよりも自分がクワバラ先生にしてもらったように誰かの人生を変えるきっかけとなれば、クワバラ先生のスピリッツが多くの人たちに伝わっていくんじゃないか。それがクワバラ先生への恩返しにもなるし、自分の使命なのかもしれない。クワバラ先生からもらったバトンを、自分が次の世代に渡していこう」
このような経緯で、高校の国語の先生になろうと決心しました。クワバラ先生には「教員なんて大変だから辞めておけ。とりあえず大学の4年間は教員にこだわるな。色々な職業を考えておけ」と言われましたが、結果的に僕は今こうして高校の先生をやっています。
高校生で将来自分が就きたい職業を具体的にイメージするのは難しいことです。理系であれば「看護師になりたい」とか「プログラマーになりたい」などのイメージを持って進学することはできますが、文系は進学してから職業を考えることが多いです。むしろ、いま「こういう職業に就きたい!」と思ってしまうと、視野が狭くなってしまう可能性があります。クワバラ先生が「教員にこだわるな」と言っていたのは、そういうことだったんだと思います。
それでも、現時点での夢をとりあえずは持っておいた方がいいと思います。もしどうしても職業が考えつかなければ、「何を勉強したいか?」ということを考えてください。そして、「それを勉強するためにはここに進学しよう」という夢を持ってください。
世の中には色々な職業があります。「どんな職業に就くか」と考えることは、大きな視点で言えば「どんな人間になるか」ということです。自分のため、そして誰かのために生きる大人になってください。そんな視点で将来のことを考えてみると、違った世界が見えてくるかもしれません。
・僕は自分たちの仕事をリレーのように考えています。僕らは子供の時に誰かからバドンを貰ったんです。そのバトンをそのまま渡すのではなく自分の体の中を一度通して、それを次の子供たちに渡すんだという。〔宮崎駿(日本 アニメーション作家)〕
・人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる。〔アインシュタイン(ドイツ 物理学者)〕
・お子さんに「何のために生きるの?」と聞かれたら、「誰かを幸せにするために生きるのよ」と答えてあげてください。〔瀬戸内寂聴(日本 尼僧・小説家)〕
僕は常に何か新しいことにチャレンジして、自分自身に刺激を与え続けたいタイプの人間です。意識高い系とかそういうことではなく、単純に飽きっぽいのか、色々と取り組んでいないとつまらなく感じてしまう性格だからです。
先生方と「今年はどんな授業をしようか」という話をするのが僕は好きです。話しているうちにアイディアが出てきて、ワクワクします。以前、現代文と英語のコラボ授業をしました。というのも、暇だったので英語の勉強を家でしていたのですが、高校時代に比べると英語の知識が薄れているはずなのに、学生の時よりも英文が読めるようになっていました。その理由を色々と考えたところ、大人になって「推測する力」がついたため、英語のフレーズがいくつか分かれば「たぶんこんな内容なんだろうなあ」と推測できるようになったからだ、という結論に至りました。そうであるならば、国語力があれば英語力も効率的に身につくはずで、英語の授業で扱う内容と同じような文章を国語の授業で教えれば、英語の授業がより分かりやすくなるのではないかと思い、コラボ授業を実践してみました。
最近では、自分の教育実践をまとめたホームページを作成したり、雑誌を自主制作したりと、面白そうと思ったことは何でもやっています。何かにチャレンジするには労力が必要ですが、その分楽しいです。「めんどくさい」という姿勢で生きていると損をすると僕は思っています。
とは言うものの、僕は常にエネルギッシュに生きているわけではありません。平日は基本的に22時には寝ます。早ければ21時に布団に入っています。ゴロゴロしながらyoutubeを見ている時間が最高に幸せです。
僕は、オンとオフの使い分けが大切だと思っています。やる時はやる。やらない時はやらない。これは高校生の時からそうでした。前回お話した通り、僕は大学を推薦で受けようとしていたので、受験勉強はほとんどしていませんでした。クワバラ先生に「お前はちゃんと勉強して一般受験で大学を受けろ」と言われたので、高校3年生の10月から受験勉強を始めました。共通テストまでは残り2ヶ月ほどで、そんな期間じゃ間に合わないだろうとも思いましたが、恩師が言うのだからやってみようと決心したわけです。
他の受験生に比べて圧倒的に時間が足りない。どうすればいいか悩んだ結果、人の2倍勉強することにしました。数学の授業では先生の解説の中でも自分が分からない範囲は重点的に聞き、分かっている範囲の解説が始まれば別の問題に取り組みました。この間高校の友達に会った時、「ツシマは3年の日本史の授業で耳栓をしながら生物の問題集をやっていたくせに、先生に当てられても普通に答えていた。どうやって答えていたのか今でも謎だわ」と言われました。そんなことは覚えていないのですが、日本史は得意科目なうえにその先生の授業が好きで、ほとんどの内容はすでに2年生のうちに覚えていたので、3年生の演習中心の授業はあまり聞かなくてもいいと判断していたのだと思います。それでも授業中に耳栓をしていたなんて、大変失礼なことをしていたと反省しました…。とにかく僕は、常に二刀流で勉強していたようです。(ちなみに内職を勧めているわけではありません。ちゃんと先生の話は聞くけど、すき間時間を無駄にしないということです。)
ただし、これだけ自分を追い込んで勉強していたものの、抜くところは徹底的に抜いていました。周りには10分休憩や昼休みに誰とも話さないで勉強し続けていた人もいましたが、僕は授業以外は友達と話したり遊んだりするようにしていました。また、勉強は21時までと決めて、それ以降は何をしてもいいという生活を送っていました。その代わり、休日は9時から21時までほぼぶっ通しで勉強しました。
誰とも話さず、やりたいこともやらず、日付をまたいでまで勉強するのはとても辛いことだと思います。なので、僕はオフを大切にしています。そのためにオンをよりいっそう大切にしています。やる時はだらだらしない。テキストを開いているのにスマホをいじったりしない。10分勉強して30分休むなんてことはしない。やる時はやる。休む時は休む。その方が効率もいいですし、なにより気持ちがいいです。
「オフのためにオンを頑張る」という勉強方法をオススメします。皆さんにとっては、スマホが一番の敵です。時間を決めてスマホを保護者に預けておくことが効果的でしょう。「スマホをいじらない」という環境作りがオンを作り出します。勉強が終わってオフになったら、思う存分スマホをいじればいいわけです。
進路実現に向けて、意識を変えて取り組んでほしいなと心から思っています。
・燃えることを忘れていたら、自分で自分に火をつけろ。〔長嶋茂雄(日本 野球選手)〕
・疑わずに最初の一段を登りなさい。階段のすべて見えなくてもいい。とにかく最初の一歩を踏み出すのです。〔キング牧師(アメリカ 牧師・指導者)
〕
・最も重要な決定とは、何をするかではなく、何をしないかを決めることだ。〔スティーブ・ジョブズ(アメリカ 実業家 アップルの創業者)〕
一口に「勉強」と言っても、沢山の種類があります。社会生活上必要な知識を獲得するための勉強もありますが、高校は「自分を見つけるための勉強」をするところだと僕は思っています。高校では小中学校とは比べものにならないほど幅広い分野の勉強をします。大学や専門学校では勉強の深さは増しますが、高校ほど幅広くは勉強しません。僕の経験では、高校が一番手広く勉強をする時期だと思います。それではなぜ、高校では様々な科目を勉強するのでしょうか?
それは、「自分が興味のある分野は何か」ということを知るためです。「数学なんか取らなければよかった」という人がいますが、それは高校で数学を学んだ結果、自分には合わないことに気づいたから言えることです。数学を学ばなければ数学が苦手だということすら感じ取れなかったわけです。その人は卒業後、一生数学を勉強しないかもしれませんが、高校で数学を勉強したことは無駄にはなりません。
さらに言うと、その人は本当に数学が苦手だったのでしょうか? もっと勉強してみると、数学の面白さに気づく可能性だってあります。僕は高校での勉強をお菓子に例えています。先生方は皆さんにお菓子をあげます。ただし、そのお菓子は袋に入っていて味も見た目も分かりません。それなのに、「何か美味しくなさそうだからいらない」という生徒がいます。今後そのお菓子を食べられるチャンスはないのかもしれないんだから、とりあえず袋を開けてみてほしいです。そして、一口食べる。美味しくないかもしれません。ですが、もう少し食べ続けてみる。すると、そのうち美味しいと思える時がくるかもしれません。もしくは、やっぱりマズいと思うかもしれません。その時はもう二度と食べなければいいだけの話です。
自分が美味しいと思うかマズいと思うかに関係なく、それを食べ続けるのが高校時代の勉強です。美味しいと思えば卒業後もそれを食べ続け、もっと美味しく食べられる方法がないか研究してみてください。マズいと思えば卒業後は食べなくていいです。それを、マズいと思ったからといって高校の間に食べるのをやめてしまうのは、少し決断が早い気がします。高校はいい所です。タダで、無条件にお菓子をくれるからです。しかも、それを食べやすいように先生方が味付けをしてくれます。勉強するのにこんなにも恵まれた環境は、人生でも高校以外にはないと思います。
マズいと思うのは、生まれつきの味覚なのかもしれません。あるいは、先生の味付けが下手だったからなのかもしれません。一方で、皆さんの食べ方が悪かったのかもしれません。チビチビ食べていたら、美味しいものも美味しく感じられません。ガブッと、丸かじりすれば美味しいのかもしれない。「自分の好き嫌いを判断するために勉強する」「どうすれば楽しく学べるか試してみる」という気持ちで取り組めば、授業の受け方も変わるのではないでしょうか。
この高校生活を「人生経験を積むための3年間」にしてください。自分の好きなものだけに手を伸ばしていては、幸せは掴めないかもしれません。色々な分野に触れたうえで、「好きかも」と思えるものに出会えれば、進路選択もスムーズにいくことでしょう。
最後に、太宰治の小説『正義と微笑』の一節を紹介させてください。
勉強というものは、いいものだ。代数や幾何(きか)の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。生徒時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!
・人生の夢は手をのばしてつかむんだ。〔映画『イントゥ・ザ・ワイルド』〕
・人間いくつになっても新たな道へ踏み出す時が来る。それまでの苦労や人生体験はその時のための基本教育。〔美輪明宏(日本 俳優)〕
僕は日頃、「まずやろう」という言葉を自分に言い聞かせて生活しています。
多くの人は、「変わる」ということに消極的です。それは動物として仕方のないことなのかもしれません。というのも、変わるためには労力が必要で、なおかつ失敗するかもしれないという恐れがあり、現状維持の方が楽だからです。
ただし、「変わらない」というのは「なにも始まらない」ということだと僕は思います。もちろん、何でもかんでも変えればいいという訳ではなく、これまで培ってきたことを尊重したり、変えてもいいのか慎重にチェックすることは重要です。が、だからといって、やってもいないのに「どうせ無理だ」とか「そんなことして問題が起きたらどうするんだ」とかああだこうだ言っていても、なにも成長しません。なので、僕は「まずやろう」というキャッチフレーズを自分の中で大切にしています。やってみてダメなら戻せばいいだけです。
自分が面白そうだと思うことに対して、僕は必ずチャレンジします。その積み重ねが自分の力になると信じているからです。チャレンジした結果、「やらなきゃよかったな…」と思うことはあっても、やって後悔したことはありません。やらなければ後悔すらできないからです。
実際は、やろうと思っても一歩踏み出すのに躊躇することはあります。ただ、無理矢理にでも一歩踏み出してみると、案外すんなりと進展していくものです。なので僕は、一歩踏み出すまでのスピード感を意識しています。それが先ほど言った「まずやろう」ということです。
この学校に赴任してから、僕がチャレンジしてみた取り組みはいくつかあります。それが良いのか悪いのか分かりませんが、間違いなく自分の経験にはなっています。僕が出来るくらいだから、皆さんも絶対に出来ます。なぜなら、皆さんはまだ高校生だからです。大人になってからでもチャレンジすることはできますが、体力的にも精神的にも厳しくなるのが現実です。チャレンジするなら早いほうがいい。しかも若いうちの方が取り返しがつきやすい。皆さんにリスクなんてものはありません。ああだこうだと頭を悩ませている時間があるんだったら、まず、やってみては?
「まずやろう」 この言葉を頭の片隅に置いてみてください。
・何かを変えたいと思うのであれば、まず、自分自身から変わらなければならない。〔ワンガリ・マータイ(ケニア 活動家 ノーベル平和賞を受賞した)〕
・変化は別の変化を準備する。〔マキャベリ(イタリア 政治思想家)〕
・やればやるほど、できるようになるものです。〔クリストファー・リーブ(アメリカ 俳優 脊髄損傷によって後年は車椅子で生活した)〕
・自分が行動したすべてのことは、つまらないことかもしれない。だが、行動したというそれ自体が、重要なのである。〔ガンジー(インド 政治家)〕
・何もしないさきから、私はダメだと決めてしまうのは、そりゃあ怠惰だ。〔太宰治「みみずく通信」(日本 小説家)〕
・その失敗は君の勉強代だ。〔豊田英二(日本 実業家 トヨタ自動車名誉会長)〕
前回は「まずやろう」と伝えましたが、その時に僕が意識していることが1つあります。それは「柔軟になる」ということです。
頭が固い状態で「まずやろう」と思うと、失敗する可能性が高くなります。色々な角度から物を見るようにしておかないと、うまくはいきません。実際にそう思った出来事があります。
数年前、面白い授業をやろうと思って国語と英語のコラボ授業を計画しました。色々とアイディアは出るものの、授業に使えそうな資料が手に入りません。やっとの思いで一つの資料を見つけました。『源氏物語』に関する英語の資料です。物語に登場する「朝顔の姫君」という女性について、日本とイギリスのジェンターに対する価値観の違いから考察していくというものでした。お気づきの通り、いまいち意味が分からない。こんなものを使って生徒が面白いと思えるような授業ができる自信がない。それでも、他に資料が見当たらないのでこれでやるしかない…。僕の頭の中は、当初考えていた「面白い授業をする」ということではなく、いつのまにか「なんでもいいからコラボ授業をする」ということでいっぱいになっていたのです。
持ち前の「まずやろう」精神でチャレンジしたものの、頭が固くなっていたせいで本来の目的から外れた授業になりかけていました。が、一度落ち着いて頭を休ませ、「柔軟に、柔軟に」と自分に言い聞かせたことによって、この無謀な授業を回避することができ、結果的には違う資料を見つけ出して自分なりに満足できる授業をすることができました。生徒の評判もそれなりに良く、この授業を含めた数年間の実践が評価され、何年か前のことですが、ある教育賞の最優秀賞を受賞することができました。(過去の栄光を引きずりたくないのでこのことは自分から話題にしないようにしているのですが、機会があればお話します)
「これをやろう」という思いが強すぎると、視野が狭くなることがあります。クラスで協力する行事では、思いが強くなるあまりに周りが見えなくなることもあるでしょう。そんな時、「ちょっと待って。頭を柔らかくして考えよう」と言える人たちが何人かいれば、きっとうまくいきます。言われた方は「俺の考えを否定する気か!」とムキにならず、「たしかに、冷静になろう」とクールダウンすることで物事を円滑に進めることができます。
“融通無碍(ゆうずうむげ)”という四字熟語があります。「ひとつの見方・考え方にとらわれるのではなく、自由自在にものを見て、考え方を変え、よりよく対処していく」という意味です。僕の座右の銘の1つです。
「これはこうだ」と決めつけないその柔軟さが、僕にも、皆さんにも、求められることだと思います。
・素直な心とは、自由自在に見方、考え方を変え、よりよく対処していく、融通無碍の働きのある心である。 / 人の意見を聞いて、それに流されてはいけないが、お互いにまず誰の意見にも感心し学び合うという、柔軟な心を養い高めていきたいものである。〔松下幸之助(日本 実業家 パナソニックの創業者で「経営の神様」と呼ばれている)〕
・柔軟であれ。人は生きている時は柔軟である。死ねば人は固くなる。人の肉体であれ、心であれ、魂であれ、柔軟が生であり、硬直は死である。〔ブルース・リー(アメリカ 俳優)〕
・生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは、変化に最もよく適応したものである。〔ダーウィン(イギリス 科学者)〕
「疑問を持つ」ということは今後の社会で必要な力だと思います。疑問を持つということは、ブレーキを掛け、チェックし、新たなことを生み出すことに繋がります。
前の学校で顧問をしていた軽音楽部は、その学校の中でも伝統的な部活の一つで、北海道の高校で軽音楽部といえばその学校の名前が真っ先に挙がるほどでした。素晴らしい部活でしたが、この部活の顧問になった当初、不思議なしきたりがたくさんあることに気が付きました。そこでその疑問を生徒にぶつけたところ、「先輩からこうやるように教わったので」という答えが返ってきました。「でも、こうした方がいいと思わない?」と伝えたら、「あー、たしかにそうですね。なんでこんなことしているんだろう」と生徒も疑問に思い始めました。
伝統を重んじることは大切ですが、「言われたからやっている」というのはマズいです。「なぜこれをやっているのか?」と考え、自分たちの行動に意味を見出す。そして、そこに意味が見出されないのであれば周りの人や身近な大人に相談し、それでも無意味だと感じられれば変化していくべきだと僕は思います。授業を聞いている時も先生の言葉を鵜呑みにしないで、「先生はこう言ったけど、それって本当なの?」と疑問を持って調べたり聞いたりして、判断していく姿勢を身につけてほしいです。「これって何でなんですか?」と生徒に質問されると、僕はとても嬉しいです。
現代社会はフェイクニュースで溢れています。メキシコでは「誘拐犯が捕まった」というフェイクニュースによって無実の男性2人がリンチにあい、亡くなりました。集まった聴衆は男性たちに暴力を振るいながら「これは正義だ」と言っていたそうです。もし、「この情報は正しいのか?」とブレーキを掛けていれば、この事件は起きなかったと思います。
これは決して他人事ではなく、皆さんの日常でも同じことが言えます。疑問を持つこともなく、真偽を問うこともなく、目の前の情報に飛びついて他者を批判する。多かれ少なかれ、僕も皆さんも経験したことがあるでしょう。
あるいは、おかしいと思いながらも「ルールだから」という理由だけでそれに従っていることもあります。ルールは守らなければいけませんが、絶対ではありません。ルールがおかしいと思えば、声を挙げるべきです。その結果、自分の認識が甘かっただけでルールは正しかった、ということもあります。それはそれでそのルールの意味を見直すことになるので、意義のあることだと思います。
このルールはおかしいと思っているのに黙って従う人。ルールを変える努力もせずに文句を言ってルールを破る人。そんな人たちを見ていると、僕はその人の人生が心配になります。疑問を持ち、考え、意見し、他者と相談する。そのようなことを通して、皆さんには人から不当な支配を受けない大人になってほしいなと思います。
このようにブレーキを掛けチェックしていくと、新たなことを生み出すことができるようになります。「もっと良いルールは作れないのか?」「今よりも良いシステムを築けないのか?」という意見に繋がって、集団としての成長が進むわけです。
何かに従うのは楽なことですが、楽なことばかりしていると「豊かな社会」にはならないと思います。「それ、本当?」という疑問を持って、行動してみてください。
・悪とは、システムを無批判に受け入れることである。〔ハンナ・アーレント(ドイツ 哲学者)〕
・前進をしない人は、後退をしているのだ。〔ゲーテ(ドイツ 詩人)〕
・伝統をそのまま写していてはダメですよ。写すのではなく個性と現代を盛り込まねば。〔第十三代 酒井田柿右衛門(日本 陶芸家)〕
・同じ方法で悪くなる。だから捨てなきゃいけない。せっかく長年築きあげてきたものでも変えていかなくてはならない。〔羽生善治(日本 将棋棋士)〕
疑問を持ち行動に移す際に必ずやらなければいけないことがあります。それは「誰かに相談する」ということです。
ものの見え方は人それぞれです。どの見え方が良いとか悪いとかいう話ではありません。ピラミッドは地上から見れば三角形ですが、上空から見れば四角形です。どちらも間違ってはいませんが、正しくもありません。二つの情報を合わせると、ピラミッドは四角錐であることが分かります。つまり、複数の角度からものを見ることによって正しい認識に近づけるということです。
「自分にとっての正義は誰かにとっての悪」ということがあります。「ありがた迷惑」という言葉もありますが、良かれと思ってやったことでも相手が嫌がっているのであれば、それは良くなかったということです。やろうとした時に一言声を掛けておけば、嫌がられずに済んだかもしれません。
また、人に相談するメリットは「失敗した時にフォローしてもらえる」ということです。一人でやったことが失敗した時には「自分でなんとかしてね」と言われることもありますが、相談したうえで失敗した時は「一緒になんとかしよう」と言ってくれる可能性が高くなります(そもそも一人でやった失敗でもフォローしてくれる関係がベストですが、世の中には冷たい人もいます)。誰かに相談しておくと、失敗した時の責任だけではなく、成功した時の喜びもシェアできるので一石二鳥だと思います。
その他にも、悩んだ時は誰かに相談しておいた方がいいです。悩んだ時は視野が狭くなりがちなので、他の人の意見を聞くと解決しやすくなります。何年も前に僕の姉が、スマホが見つからないと困っていました。電話を掛けてあげると着信音は聞こえるのですが、スマホは見つかりません。バッグの中を探していると、姉の背後から音が聞こえるようで、振り返って後ろの棚を見ると、次はバッグの方から音が聞こえてくると言っていました。近づいてみると、姉のジーパンのお尻のポケットが光っていました。そりゃあ振り向けば後ろから音が聞こえてくるよな、そんな漫画みたいなことあるのかい、と思いましたが、近すぎると分からないものなのでしょう。「灯台もと暗し」とはよく言ったものです。自分の足元は見えづらいので、誰かに見てもらうと悩みも解消されるかもしれません。
もちろん最終的には自分の判断となりますが、「誰にも相談しない自分の判断」というのは信用ならないものです。細かいことでも人に聞いてみることが大切です。面倒くさがって「まあ、いいだろう」なんて思っていると、大変な事態に発展することもあります。自分が困らないためにも、そして人を困らせないためにも、相談してください。何かをする時、困った時、助けてくれるのは周りの人たちです。相談は「とりあえず」でいいからしておきましょう。
・自分の判断以上に自分を欺くものはない。〔レオナルド・ダ・ヴィンチ(イタリア 芸術家)〕
・光の中を一人で歩むよりも、闇の中を友人と共に歩むほうが良い。〔ヘレンケラー(アメリカ 教育家)〕
・何かがおかしくなりはじめた時に指摘してくれる人間を人生で一人でも見つけられれば、とても幸運だ。〔マイルス・ディヴィス(アメリカ ミュージシャン)〕
・視野の狭い人は、我が身を処する道を誤るだけでなく、人にも迷惑をかける。〔松下幸之助(日本 実業家 パナソニックの創業者)〕
・誰もが自分自身の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる。〔ショーペンハウアー(ドイツ 哲学者)〕
「朱(しゅ)に交(まじ)われば赤くなる」という言葉があります。朱色とは、少し黄色っぽい赤色のことです。「朱色が混ざれば全体的に赤みを帯びるように、関わる相手や環境によって人は良くも悪くもなる」という意味です。
「泥中(でいちゅう)の蓮(はす)」という言葉があります。蓮は泥の中に生息する植物で、ピンク色の美しい花を咲かせます。「泥の中に咲く美しい蓮のように、清らかな人はどんな環境にいても悪に染まらない」という意味です。
この2つの言葉は対比的な意味合いにも取れますが、どちらも良い言葉だなと僕は思います。「泥中の蓮」は自分を持っている感じがしてカッコイイ感じがします。一方で「朱に交われば赤くなる」は良い意味でも悪い意味でも取れるので、僕は「環境のせいで悪い方向にいかないように気をつける。そして良い環境に身を置こう。もしも環境がイマイチなら、その中でも良い人と関わろう。そして自分も相手に良い影響を与えられるような人間になろう」というようにこの言葉を解釈しています。
そこで、この2つの良いところを取って「朱に交われば赤くなる泥中の蓮」という言葉を考案しました。「環境に左右されずに自分が正しいと思う生き方をするとともに、素敵な人と関わることで互いに良い影響を与えながら、自分が思う正しさを過信せずに磨きをかける」という意味です。(ちょっと長くなりましたが)
これまでにお話したことを要約したような言葉だと思います。疑問を感じたらそのままにすることなく、まずやろうとするチャレンジ精神を持ち、行動する時は誰かに相談することで、自由自在に考え方を変えてよりよく対処していく。そんな人間になりたいです。
僕の座右の銘はこれまで紹介したもので3つあります。
①毎日がピーク
②未来は僕らの手の中
③融通無碍
その他に④「人事を尽くして天命を待つ」(胡寅『読史管見』)、⑤「まは、さてあらん(まあ、そんなものだろう)」(鎌倉時代の僧 親鸞)、⑥「初心忘れるべからず」(室町時代の役者・作家 世阿弥)も僕の座右の銘です。機会があれば今度お話します。
皆さんの座右の銘は何でしょうか? 1つでも持っておくと、生きる指針になります。心動かされる言葉が自分の中にあると、ふと思い出した時に心が軽くなります。
僕は植物が好きで、一人暮らしをしていた時は自分の家に飾るために毎週花を買っていました。家族には「ひとり暮らしの家で何してんの…」と引かれましたが、部屋に花があるだけで豊かな生活を送っている感じがして気分がいいです。
そして、僕としては言葉もそれと同じです。好きな詩や座右の銘があるだけで、心が豊かになります。なので、皆さんには「言葉を大切にする人」になってほしいです。その一歩として、座右の銘を持ってみてください。
これまでに紹介した偉人の言葉で、心に響いたものはありましたか?
・やさしい言葉は、たとえ簡単な言葉でも、ずっとずっと心にこだまする。〔マザー・テレサ(インド 修道女)〕
僕は仕事をするうえで意識していることが2つあります。「スピード感」と「クオリティ」です。仕事に追われたくないので、基本的に僕は3ヶ月後の仕事をするようにしています。やるべきことはさっさと終わらせる。そうしていると、「あれやんなきゃ、これやんなきゃ」という嫌な忙しさから解放されます。突然の仕事が降ってきた場合にも、本来やるべき仕事はすでに終わらせてあるので、突然の仕事の対応に時間を掛けることができます。そういう心掛けをしているので、言われた仕事はその日のうちに終わらせるようにしています。「締切は来週だからまだやらなくていいか…」なんて思っていると、やるべきことが増えた時にパンクしてしまうからです。
この間、ボーっとしていてある仕事の締切に当日気づきました。「やべっ。この仕事終わらせてなかった…」と思って資料を見返してみると、3か月前の自分がその仕事を終わらせていました。「俺、ありがとう…」と過去の自分に感謝しました。与えられたことに取り組む時の「スピード感」を、皆さんも意識してみてください。
また、早めに仕事を終わらせておくと見直しができます。その時は完璧に仕上げたつもりでも、時間をおいて見直してみると修正点が見つかります。それを繰り返しているうちに、自然と「クオリティ」も上がるので一石二鳥です。
このことは、皆さんの勉強にも当てはまります。「定期考査までまだ1週間ある。この土日から手を付けよう。」なんて思っていると、やるべきことを積み残したまま一瞬のうちにテスト当日を迎えることになります。本来であれば、2週間前にサラっと全教科の勉強を終わらせておいて、1週間前に苦手な部分を重点的に勉強する。1日前に翌日にテストがある教科の全体を眺めながら、漏れがないか確認して仕上げる。
「時間がない」わけではありません。「時間を無駄にした」だけです。1日1日を大切にして、満足のいく結果を出しましょう。何事もスタートが大切です。「今日」からではなく、「今」から始めてみましょう。
・いちばん忙しい人が、いちばんたくさんの時間をもつ。〔アレクサンドル・ビネ(スイス 心理学者)〕
・仕事を追え。仕事に追われるな。〔ベンジャミン・フランクリン(アメリカ 政治家 アメリカの100ドル紙幣に描かれている)〕
・うまく使えば、時間はいつも十分にある。〔ゲーテ「詩と真実」(ドイツ 文学者)〕
・1日を大切にしよう。その差が人生の差につながる。〔デカルト(フランス 哲学者)〕
・人生とは、今日一日のことである。〔デール・カーネギー(アメリカ 実業家)〕
・お前がいつの日か出会う災いは、お前がおろそかにしたある時間の報いだ。〔ナポレオン(フランス 皇帝)〕
・時間だけは神様が平等に与えてくださった。これをいかに有効に使うかはその人の才覚であって、うまく利用した人がこの世の中の成功者なんだ。〔本田宗一郎(日本 実業家 ホンダの創業者)〕
・苦しいから逃げるのではない。逃げるから苦しくなるのだ。〔ウィリアム・ジャームズ(アメリカ 心理学者)〕
僕の親友の1人に「だっち」という男がいるのですが、エネルギーの塊みたいなやつで、信じられないくらい陽気な人間です。そして、賢い。車や時計が好きなのですが、異常な程の知識があります。また、会話していても理解力に優れていることが分かります。
ただ、大学には行っていません。英語の理解度は中学1年生レベルです。「be動詞って分かる?」と聞いたら、「am、his、her!」と自信満々に答えます。間違っていることを伝えると「そんなの習っていない」とキレだします。漢字の音読みと訓読みの違いも分かっていません。それも習っていないと言い張ります。そして彼はいつもこう言います。「自分には勉強する才能がなかった」と。
そんな彼は社会人になってから何年かして、大学に行きたくなったのだそうです。家庭の事情で金銭的に大学には行けないとのことで工業高校に入学し、高校卒業後すぐに就職しました。奨学金というシステムを知らなかったそうで、そのことを今でも後悔しています。先ほど言ったとおり賢いので、学ぶことは好きだそうです。それは近くにいても感じます。知識を吸収するスピードが抜群に速いし、その知識の幅広さといったら驚きます。そんな彼だからこそ、「高校生に伝えたい。大学には行っておいた方がいい。そして学生の間にしっかり勉強しておいた方がいい」と言っていました。彼は高校卒業後に転職を重ねましたが、高卒では転職先の選択肢が少なくなると嘆いていました。そういう経験からも「大学には行っておいた方がいい」と言っていたのでしょう。この言葉を伝えたいから講師としてツシマの高校で雇ってほしいと言われましたが、しっかりと断っておきました。
そんな彼ですが、何年か前、一念発起して勉強を始め、なんと公務員になりました。「勉強する才能がなかった」と言っていましたが、そんなことはありませんでした。彼を見ていると、勉強する才能とは「諦めずに努力する才能」のことだと思います。
「自分は勉強ができない」と諦めている人はいませんか? 皆さんは、勉強ができます。なぜなら、皆さんは藻岩高校に入学したからです。この学校に入学できた人の中で、世間的に「勉強ができない」という人は絶対にいません。「自分は勉強ができない」と思っている人は、「勉強していない」だけです。才能のせいにしてはいけません。問題があるとしたら、それは姿勢です。諦めるには100万年早いということを、皆さんには伝えたいです。
・天才とは、根気である。〔ビュフォン(フランス 博物学者)〕
・意欲のある者のほうが、能力のある者よりも多くをなす。〔ガブリエル・ムーリエ(フランス 警句家)〕
・人に貴賎はないが、勉強したかしないかの差は大きい。〔福沢諭吉(日本 教育家)〕
・努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。〔王貞治(日本 野球選手)〕
・つらい道を避けないこと。自分の目指す場所にたどりつくためには進まなければ。〔キャサリン・アン・ポーター(アメリカ 小説家)〕
・できると思えばできる。できないと思えばできない。これは、ゆるぎない絶対的な法則である。〔パブロフ・ピカソ(スペイン 画家)〕
何のためにテストを行なっているのかというと、現時点での皆さんの力を評価するために行なっています。では何のために評価しているのかというと、「現状を把握し、課題を見つけ、今後の学習の計画を考える」ために評価しています。
あなたがパン屋の店員だとして、店長に「パンを100個売り上げてください」と言われたら、まず何をするでしょうか。とりあえずパンを100個作り始めますか? 僕だったら、まずどのようなパンが求められているのか情報を収集します。その情報をもとに甘いパンと甘くないパンを作り、お客さんに試食してもらいます。甘いパンの方が人気だったら、さらにその甘いパンから生クリームをたっぷり使ったパンと、あえて少し塩を入れたパンを作り、またお客さんに試食してもらいます。少し塩を入れたパンの方が人気だったら、次はそれをどのように売り出すのか考えます。カラフルな紙に包んで出すのか、モノトーンの紙に包んで出すのか。それもその地域の客層から判断します。このように、目標を達成するためにはまず「現状を把握し、課題を見つけ、計画を立てる」ことが重要です。
テストを日頃の勉強の終着点だと考えている人がいるかもしれませんが、テストは次への始発点です。結果に一喜一憂するのではなく、次のスタートを切れるように「どこがどうダメだったのか」ということを確認してください。英語が出来なかったのであれば、英語のどこが出来なかったのかを確認しましょう。単語は大丈夫だったけど文法がダメだったのであれば、さらに文法のどこがダメだったのか考えます。不定詞は大丈夫だったけど関係詞がダメだったのであれば、文法書で関係詞の勉強をしなおす必要があります。まずは大雑把に「甘いパン」がいいのか「甘くないパン」がいいのか考え、そこから細分化していくやり方と同じです。このやり方は社会人になってから絶対に役に立つので、今のうちに慣れておきましょう。振り返ることなしに成長はありません。
テスト前に「勉強している?」と聞くこともありますが、テスト後に「勉強している?」と質問した方がその人の力が分かると思います。テスト前は寝る間も惜しんで勉強していたと思いますが(思いたいですが)、そこまでではなくとも、テスト後もゆるやかに勉強を続けてほしいです。それもやみくもにやるのではなく、テストの結果を踏まえた勉強です。先生方もそれなりに気合を入れて作った問題なので、たった50分間の受検で投げ捨てるのではなく、その後の勉強に役立ててください。
・結果にはすべて…原因がある。〔ガリレオ・ガリレイ(イタリア 物理学者)〕
・私は、対局が終わったら、その日のうちに勝因、敗因の結論を出す。〔羽生善治(日本 将棋棋士)〕
・人と比較して劣っているといっても、決して恥ずることではない。けれども、去年の自分と今年の自分とを比較して、もしも今年が劣っているとしたら、それこそ恥ずべき事である。〔松下幸之助(日本 実業家 パナソニックの創業者)〕
振り返りによって課題を見つけた後は、その課題をクリアするために計画を立て、実行しなければいけません。この流れをPDCAと言います。Plan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Act(改善)の頭文字を取った言葉で、皆さんも一度は耳にしたことがあると思います。
突然ですが、学校の先生になるためには教員採用試験を受けます。1次試験と2次試験があり、1次試験の難易度はそこまで高くないのですが、2次試験で難易度が上がります。1次試験と比べ、2次試験ではその場の対応力が求められるからです。
僕が受けた時には2次試験で「集団討論」というものがあり、その対策として「体罰の根絶に向けて」というお題で大学の人たちと練習したことがあります。「体罰は絶対にしてはいけないもので、どう根絶していくか」ということが前提のお題でしたが、ある人が「時には体罰も必要なんじゃないのかな」と言い出しました。このように前提を覆す発言をする人が1人でもいると、集団討論が失敗する確率は一気に上がります。この場合明らかにおかしい発言なので「なに言ってんの?」とバッサリ切り捨ててしまえば楽なのですが、そういう発言もうまくすくい上げることができるかどうかが評価のポイントになります。一方で、その意見を下手にすくい上げてしまうと、議論がおかしな方向に進んでしまいます。なのでいつも僕は、場をコントロールできる司会を担当することにしていました。(集団討論の形式に決まりはないので司会を立てないこともありますが、僕はあえてそうしていました。)
さて、ここからがPDCAの話です。僕が司会をするうえで行なっていた、話を進める時の便利な手順を紹介します。それは「定義→現状→原因課題→対策」というものです。
①定義
先ほどの例で言うと、まずは「体罰とは何か?」ということを確認します。詳しくは述べませんが、文部科学省は「体罰とは何か」ということをしっかりと定義しており、僕はそれを覚えていたので体罰の定義を他の人たちに伝えました。そのうえで、「今回は『体罰の根絶に向けて』ということなので、『体罰は絶対にしてはいけない』という方向性で話を進めていいですか?」と確認します。先ほどのような前提を覆す発言が出てきた時に対応できるよう、議論の方向性を最初に確認しておきます。
②現状
「絶対にしてはいけない」のに「根絶に向けて」というお題が出ているということは、体罰が起きている現状がそこにはあるはずです。そういった現状における体罰の具体例をここでは挙げていきます。
③原因課題
次に「なぜそのようなことが起きてしまうのか?」ということを話し合います。「(A)昔の価値観を持っている古いタイプの先生がいるから」なのか、「(B)言葉では指導できなくて感情的になり手が出てしまったから」なのか、様々な原因とその課題(問題点)を考えていきます。
④対策
最後に「じゃあどうすればいいのか?」ということを考えます。(A)であれば「校内で研修会を開いて体罰に対する正しい知識を教員が身に付ける」という対策が考えられ、(B)であれば「一人で抱えずに他の教員に相談して複数人で冷静に対応する」という対策が考えられます。その他にも様々な視点から話し合いを行なっていけば、自分だけでは考えつかなかった意見が出てきて有意義な討論となるので、集団討論の成功率はグッと上がります。
この「定義→現状→原因課題→対策」というのは小論文にも使える手順です。また、学校行事などクラスで協力して問題を解決する時にも使えます。ぜひ覚えておいてください。
PDCAで言うと、定義と現状を確認するのがCheck(評価)、原因課題を見つけるのがAct(改善)、対策を考えるのがPlan(計画)です。そしてDo(実行)に移します。このように考えると、PDCAはPlanから始まっていますが、本来はCheckから始めなければなりません。まずは現状を把握(Check)しておかなければ、計画(Plan)は立てられないからです。なので、最近ではCheckを頭に置いて、CAPDo(キャップドゥ)と呼ばれるようにもなってきています。その方がふさわしいと思うので、皆さんもPDCAではなくCAPDoという言葉を覚えておいてください。
学校の中の話であれば、テストや模試がCheckに該当します。振り返りがActです。問題を解き、振り返ることによって、皆さんは自分の課題を見つけることができます。なので、テストや模試の後には急いで振り返りをしてください。その次に行うのがPlanです。見つけた課題をクリアするためにPlanを立てましょう。そこまでいけばあとはDo、実行するだけです。
どのようにやるのか。ここを考えるのが成長する人としない人の差だと思います。
・我々の計画というのは、目標が定かでないから失敗に終わるのだ。どの港へ向かうのかを知らぬ者にとっては、いかなる風も順風たり得ない。〔ルキウス・アンナエウス・セネカ(ローマ帝国 政治家)〕
「評論が苦手でどう勉強すればいいか分からない」と生徒からよく相談されます。なので今日は、評論はどう読むのか、テストはどのように作られているのか、ということを話したいと思います。
僕が評論を読む時に最も意識していることは、「筆者は何の話をしたいのか」ということです。いま僕が書いている文章のように、これから何を話すのか明示している文章だと比較的内容が頭に入ってきやすいのですが、ぼんやりとした書き出しから徐々に焦点が絞られてくる文章もあります。数年前の模試の問題なんかは、最初はお祭りや地域社会の話をしていたのに、最終的なテーマは「服装の役割」という文章でした。したがって、まずは全体のテーマを把握することを意識しましょう。これは段落についても同じことが言えます。最初のうちはそれぞれの段落の上のスペースに「○○について」と、いま何の話をしているのか大雑把にメモしておくといいです。
次に、全体のテーマに対する一般論をイメージします。「勉強とは何か」という文章だったら、知識を身に付けることが勉強なのかな、と自分なりの考えを持っておきます。ただし、評論は「皆が気づいていないことを筆者独自の視点で説明する」というものが多いです。イメージした自分の考えとは異なる主張がなされるはずなので、「自分はこう思うけど筆者はこう考えるんだ。なるほど、面白いな」くらいの気持ちで読むことができれば、評論は刺激的で楽しいものになるはずです。
そう感じるためには、テーマについて多少の知識を持っておく必要があります。「オブジェクト思考における動的メソッドと静的メソッドの違い」みたいな文章を読んでも、「…は?」となるに違いありません。内容をイメージできれば文章は読みやすくなりますし、筆者独自の視点に対して驚きや共感を持つことができるため、物事に対する知識を身につけておくことが重要なポイントです。
そう考えれば、「評論が苦手」という人には「何事にも関心を持つ」ということをオススメします。テレビを見ている時や会話の中で初めて聞く言葉があればすぐに調べる癖をつけてみましょう。スマホによって勉強時間が削られるという悩ましい問題もありますが、スマホは有効活用できれば最強のツールとなります。「分からない」をそのままにしない、ということが大切です。分からないことがあればすぐに調べることができる時代なので、スマホをうまく活用してみてください。(いま「ツール」という言葉が分からなかったらすぐに調べましょう。)
あとは「語彙を増やす」ということも非常に重要なのですが、いま言ったとおり分からないことがあればすぐに調べる癖をつけておくと自然と語彙力もついてきます。英文を読めるようにしたければ英単語の勉強をすると思いますが、それと同じで、評論を理解したければ日本語の語彙力をつけてください。現代文の授業では漢字の小テストを実施していますが、漢字の「形」だけを覚えようとしている人が多いので、「意味」も併せて覚えてください。それだけで評論がみるみる読めるようになります。
さて、語彙力を増やすことは問題を解くことにも密接に関わってきます。なぜなら、評論の選択問題は「類義語の問題」といっても過言ではないからです(もちろん内容を理解したうえでの話ですが)。というのも、選択肢を作る時に先生方は本文の言葉をそのまま使いません。そのまま使ってしまうと難易度が下がりすぎるからです。僕は問題を作る時にいつもインターネットの類語辞典を使います。例えば、本文で「この資料は誰によってどんな意図で書かれたのか、他の既存の資料と矛盾する点があるとしたら、その違いを生み出した背景に何があったのか。そうした資料の成り立ちそのものを問うことが不可欠です」と書かれていた場合、選択肢を作る際には「問題の妥当性を評価しながら、問いやその周辺にある要素を整理し、自ら設定した課題について考察する」という表現にして、「資料の成り立ちそのものを問う」という本文の言葉を「問題の妥当性を評価しながら」というフレーズに変えてみます。これらのことからも分かるように、読むためにも解くためにも語彙力が鍵を握っています。
残念ながら、古典と違って評論はすぐには力がつきません。その人の基礎学力が出来不出来を左右します。なので、受験間近になって「評論が分かりません」と言われても、先生方が教えられることは限られてしまいます。いまのうちから、何事にも関心を持ち、調べ、語彙力を伸ばし、知識を身につけてください。
・すべての知識には可能性がある。〔レオナルド・ダ・ヴィンチ(イタリア 芸術家)〕
・勉強したいと思う源泉は、新しいもの、珍しいもの、自分とは違うものに対する好奇心です。〔柳井正(日本 実業家 ユニクロの創業者)〕
・好奇心が一番、学問を育てる。〔カズレーザー(日本 お笑い芸人)〕
僕はよくオススメの本を人に聞いて回っています。以前、ある先生から『いい言葉は、いい人生をつくる―ラストメッセージ』(斎藤茂太 成美文庫)をオススメしてもらいました。精神科医である斎藤茂太氏の生前最後の取材をもとに、偉人の名言を載せながら自身の出来事を紹介する形で、今を生きる私たちにポジティブなメッセージを送ってくれる本です。実はこの本を読んで、僕も名言を紹介するスタイルのエッセイを書くことにしました。
別の先生からオススメしてもらったのは『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』(山口周 光文社新書)という新書です。(ちなみに新書とは堅苦しくない教養本のことです。文庫より細長い形をしています。新しい本という意味ではありません。)
「美意識」というのは見た目のことではなく、自分の「感性」のことです。今の世の中では論理や知識が重視されていますが、これからは「なんかイイと思った」という感性も大切だという内容です。「ワクワクするものを大切にしよう」ということが書かれていたのですが、僕も自分がワクワクし、生徒もワクワクする授業を目指しているのでとても共感しました。今の世の中では合理性が求められていますが、「無駄」を切り捨て続けると人生は面白くなくなると思います。無駄なことの積み重ねが文化になるので、無駄を無駄だと思わないように僕はしています。無駄だと思えることでも、自分が「なんかイイ」と思ったら、それを大切にしようと改めて思いました。ちなみに、この本が良かったのは「でも、感性だけだとダメ。論理や知識も大切にしよう」とバランスが取られていた点です。
人がオススメしてくれる本を読むのは効率が良い読書法だと思います。「オススメされた本を読んだけど自分にはあまり合わなかった」ということもありますが、その人がこれまでに読んできた沢山の本の中でのオススメの1冊なので、上質な本であることがほとんどです。また、自分が決して触れることがなかったであろう本を読むことができるのも、本をオススメしてもらう良い点です。僕は無意識に自分の好みに偏った読書をしてしまうので、新たなジャンルに触れることができる経験はとても貴重です。
僕は大人になってから本を読むようになりましたが、高校生の時から本を読んでおけば良かったと後悔しています。周りの友達と本をオススメし合う高校生なんて、カッコイイなと思います。しかも、学校には図書室があります。教員をやっていて良かったと思うことの1つは、いつでも図書室に行けることです。こんなに読書に恵まれた職業はなかなかありません。図書室をいつでも利用できるという点では、皆さんも僕と同じ環境にいます。ぜひ、本を手に取ってみてください。
・読書とは、自分で考える代わりに他の誰かにものを考えてもらうことである。〔ショーペンハウアー(ドイツ 哲学者)〕
・私は、自分がこれまでに読んだすべてのものの一部である。〔セオドア・ルーズベルト(アメリカ 大統領)〕
小説の読み方には3つの種類があると僕は思っています。
1つ目は「好きなように読む」です。ただの趣味です。どんな読み方をしたって怒られません。タイムマシーンやどこでもドアがあるのだとすれば、それは読書だと思います。小説を読んでいると、家にいながら平安時代にタイムスリップできたり、ヨーロッパの田舎町に瞬間移動することもできます。
2つ目は「共通理解として読む」です。これは皆さんが授業で行なっている読み方です。「テストの答えでは『主人公は悲しんでいる』ってなっているけど、この主人公は怒っているんじゃないのかな。俺にはそう読めるんだから、正解なんて1つじゃないだろう」と疑問に、あるいは不満に思ったことはないですか? ちなみに僕は高校生の時にそう思っていました。だから小説のテストが大嫌いでした。ただし、これには誤解があります。学校の先生になってようやくこの謎が解決したので、説明しようと思います。
小説のテストで出るような問題には、「あなたの考えを述べなさい」というものはほとんどありません。「あなたの考え」は人それぞれで、丸つけがしにくいからです。そこで、「共通理解として答えられる問題」を基本的には出題しています。例えば、「道の真ん中で転んだ主人公が走っていったのはなぜでしょうか」という問題があるとします。この場合、そのヒントが必ず本文のどこかに書かれています。その前の文で「学校に遅刻してしまう」と書かれていたら、「主人公が走っていったのは、遅刻しそうで急いでいたから」と答えられますし、「見ていた人に笑われた」と書かれていたら、「笑われて恥ずかしかったから」と答えられます。あるいは「好きな女の子が転校することになり、いま教室で彼女が泣いていることを知った」と書かれていたら、「早く会って抱きしめたかったから」と答えられるかもしれません。
それなのに、「見ていた人に笑われた」と書かれている本文に対して「早く会って抱きしめたかったから」と答えるのは意味不明です。「そんなこと書いている? 違うよ」と言われたことに対して、「俺はそう思ったんだ!」なんて言うのは理不尽ですよね。つまり、小説のテストでは必ずヒントが書かれているので、そのヒントをもとに「共通理解としてはこうなるだろう」と答える必要があるわけです。
これは生きていくうえでとても大切な力です。何かが起きた時に「お前に悪気はないのかもしれないけど、俺は不愉快になったんだから謝れ!」なんて言う人がいたら嫌ですよね。このように、高校の現代文では「自分の意見は大切にしつつも、状況から考えて一般的にはこういう意見が出てくるだろう」と推測する、いわばコミュニケーション能力を育てようとしているわけです。
それでも、「あなたの意見は聞いていません。一般的な考えを答えてください」なんてことが続けばつまらないですよね。なので、僕は小説の授業でレポート課題を提示し、「あなたはこの小説を読んで何を感じましたか?」と聞く活動を取り入れるようにしています。オリジナリティ溢れるレポートを読むのはとても楽しいです。ただし、何を書いてもいいわけではありません。なぜそう思ったのか、根拠を示すことが必要不可欠です。「本文にこう書かれている。多くの人はここをこう解釈するかもしれないけど、自分はこう解釈した。なぜなら…」という形です。この「なぜなら…」の部分が重要です。それが独りよがりの意見ではなく、作者の来歴やその当時の社会情勢などの情報を収集して、それらをもとに記述すると一気にレポートのレベル、さらには読書のレベルが上がります。それが3つ目の読み方、「情報をもとに独自の視点で読む」というものです。
気楽に読む。コミュニケーション能力を身に付けるために読む。情報をもとに独自の視点で深く読む。小説には様々な読み方があります。それを知っているだけで小説の楽しみ方は2倍にも3倍にもなります。「小説は好きだけど小説の授業は嫌い」と言う人もいるかと思いますが、「モードを変えて読む」ということを意識すれば、小説の捉え方も変わるかもしれません。
・読書で生涯を過ごし、さまざまな本から知恵をくみとった人は、旅行案内書をいく冊も読んで、ある土地に精通した人のようなものである。ショーペンハウアー(ドイツ 哲学者)〕
・本の中には、まったく新しい世界が広がっているんだよ。旅行に行く余裕がなくても、本を読めば心の中で旅することができる。本の世界では、何でも見たいものを見て、どこでも行きたいところに行ける。〔マイケルジャクソン(アメリカ アーティスト)〕
読書によって得られる力の一つとして、「批判的思考力」というものが挙げられます。「批判」と聞くと誰かを責めるようであまり良い印象を持っていないかもしれませんが、批判的思考力とは「相手の立場に立って考える力」のことを指します。批判するためには、対象を理解することが重要で、その対象をしっかりと見つめ、情報を収集・整理し、複合的な視点から答えを導き出さなければいけません。加えて「その場の感情に左右されない」ことや「複数の解釈を想定する」ことも大切です。
さて、SNSの発達によって誰もが気軽に公の場で意見を言えるようになりました。これは民主主義の観点からいうと評価できることです。なぜなら、言論の自由が民主主義の根幹を支えているからです。しかし、SNSでの発言には問題点があります。それは「発言に責任を持たなくてもいい」ということです。名誉毀損などの犯罪は別ですが、多少のことだと何か問題が起きた場合でもアカウントを消せば問題を起こした人の実生活にまで影響が出ることはありません(一方で被害を受けた人の実生活には影響が出るのでひどい話です)。百歩譲って責任を持たないのはいいとしても、責任を持たないにも関わらず「自由に」発言できることが問題だと思います。自由と責任は表裏一体です。責任は負いたくないけど自由はほしい、というのは都合が良すぎます。以前にもお話したことがありますが、大人はそれ相応の責任を負って生きているので、子供よりも自由を手にしています。
よく知りもしないのに、誰かを非難している人を見ると気の毒になります。言われている側もそうですが、言っている側も不幸です。最近はテレビでコメンテーターが不倫する芸能人を叩いていますが、不倫するのは問題だとしても、当事者双方の話を聞いたわけでもないのに何故非難できるのでしょうか。もしかすると相手も不倫しており、それぞれ別の家庭を持ってもいいと夫婦間で合意していたのかもしれません。あるいは、不倫していたという報道自体が誤っているのかもしれません。このように、その対象を十分に理解していないのにも関わらず、そして相手の立場に立って考えようともせずに、他者を非難するのは悪だと僕は思います。
芥川龍之介の『藪の中』という小説があります。ある男が殺されるのですが、その現場にいた人の証言がそれぞれ食い違っているという話です。また、『12人の怒れる男』という映画があります。ある少年が殺人事件の犯人として逮捕され、複数の証人の発言から陪審員の11人は有罪だと決め付けるのですが、1人の陪審員が「無罪の可能性はないのか?」と考え始めます。様々な検証をしているうちに、次々と疑問点が出てきて物語は進んでいきます。
同じ出来事でも、受け取り方は人それぞれです。自分の都合の良いように受け取ってしまうこともあります。もちろん僕も詳しい状況を知りもせずに人を非難したことはありますが、読書を通して少しずつ視野が広がることによって、以前よりはそのような失敗が少なくなってきました。誰かから「あいつムカつくんですけど」と言われた時は、とりあえず「うんうん」と聞きはするものの、その場で結論は出しません。もう一方の話を聞いたり、周りにいる人の話を聞いたうえで、自分の意見を言うようにしています。
意見を言いたくなった時、しかもそれが誰かを傷つける可能性がある時は、相手の立場に立って考えてみましょう。そうすれば、トラブルは起きずに済むかもしれません。「非難」ではなく、「批判」の意識を持つ。批判的思考力は平和を生みます。そのために、本を読んでください。
・その席にいない人を非難してはいけない。〔ジョージ・ワシントン(アメリカ 大統領)〕
・誰かのことを批判したくなったときには、世間のすべての人がおまえのように恵まれているわけではないということをちょっと思い出してみるのだ。〔スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(アメリカ 小説家)〕
・親切にしなさい。あなたが会う人はみんな、厳しい闘いをしているのだから。〔プラトン(ギリシア 哲学者)〕
・どんな愚者でも批判し、非難し、文句を言うことはできる。そして、多くの愚者がそうする。〔デール・カーネギー(アメリカ 作家)〕
なぜ本を読むのかと聞かれれば、「違う世界を知り、人生を豊かにするため」と僕は答えます。
恥ずかしながら、教員になるまでに僕が自発的に読んだ本は2冊しかありません。中学生の時にたまたま家にあった太宰治の『人間失格』と、大学の時に見た映画が面白かったので原作を読もうと思って買った道尾秀介の『カラスの親指』のたった2冊です。もちろん、大学は文学部にいたので色々な本を読みましたが、それは授業のための調べ物であって、純粋にその本を楽しもうと思って読んでいたわけではありませんでした。ここだけの話、僕はあまり活字が好きではありませんでした。読んでいたら疲れるし、眠くなるからです。
しかし、国語の教員になるにあたってさすがに本を読んでおかないとマズいだろう…と思い、小説を読み始めました。そうすると、案外小説は面白いものだということに気がつきました。最初は東野圭吾などのミステリーを読み、伏線の回収が気持ちよく、もともと映画好きだった僕にフィットしました。そのうち日本の純文学(簡単に言うと、ストーリー性を重視するのではなく、作者のメッセージ性を重視した、皆さんが授業で読むような作品)を読み始めました。そうすると、ドキドキハラハラする面白さはないのですが、主人公の気持ちに共感したり、自分がぼんやりと持っていた感情を的確に表現するフレーズに出会ったりなど、新たな世界が広がっていく感覚を覚えました。また、最近では新書などの教養を身に付けるための本を読んでいます。今まで知らなかったことを知る喜びを、読書を通して日々感じています。
2015年に文部科学省が「国公立大学の文系学部を廃止する」というようなことを発表しました。「役に立たない文系は切り捨て、役に立つ理系に税金をつぎ込み発展させる」と報道しているメディアもあり、文系の学者から猛反発され、世界的にも批判されました。
たしかに僕も「文系ってなんの役に立つんだろう」と思った時期があります。経済学部や法学部であれば実用性もありそうですが、僕がいた文学部なんかは世の中の役に立ちそうもありません。特に僕は大学で古文を勉強していました。周りの友達が医学部で医療の研究を、薬学部で薬剤の研究を、工学部で技術の研究をしている中で、「在原業平がまた別の女に手を出した…」とか「この助動詞は完了ではなく存続で訳した方がいいな…」とか、自分は何て無駄なことをしているんだろうと悩みました。
そんな時、ある教授から「どうでもいいことを優雅に学ぶのが文学部」と言われて、心が軽くなりました。そこで僕が思ったことは、生活を豊かにするのは理系だけど、人生を豊かにするのは文系なんだということです。理系のおかげで僕たちは便利な生活を送ることができていますが、便利なだけでは幸せにはなれません。その便利さの中で、「どう生きるか」ということを考えるのが文系の役割です。教授は「どうでもいいこと」と言っていましたが、文系か理系かのどっちか片方だけでいいというわけではなく、両方あるから人類は発展していくのだと思います。
「どう生きるか」ということを考えるには、読書が必要不可欠です。なぜなら、私たちは基本的に自分の狭い世界で生きているため、本を読んで他者の考えに触れなければ、1つのものさしでしか物事を考えることができないからです。読書を通して他の世界に触れることで、「こういう考えもあるのか」と別のものさしを持ち、それらを比較することで前に進むことができます。
「人生を豊かにする」ために、暇な時には本でも読みながら、優雅に過ごしてみてはいかがでしょうか。
・書物の新しいページを1ページ、1ページ読むごとに、私はより豊かに、より強く、より高くなっていく。〔チェーホフ(ロシア 小説家・劇作家)〕
・本のない部屋は、魂のない肉体のようなものだ。〔キケロ(共和政ローマ 政治家・哲学者)〕
・良き書物をよむことは、過去の最も優れた人物と会話をかわすようなものである。〔デカルト(フランス 哲学者・数学者)〕
・一冊の本に人生を丸ごと変えてしまう力があることを、みんな理解していない。〔マルコムX(アメリカ 活動家)〕
これまでに「オフのためのオン」「好きを増やす」「無駄を無駄だと思わない」「どうでもいいことを優雅に学ぶ」という言葉を伝えてきました。
経済学の言葉で「スラック」というものがあります。「余裕」や「遊び」という意味です。企業のリスク管理においては、「AかBのどちらか一方の事業に取り組む場合は、AとBの両方を準備する」ということが重要です。最終的には片方だけに取り組むことになるので、準備したもう片方は無駄になってしまうわけですが、「準備したが使用しなかった資源」のことを「スラック」と呼びます。スラックのあるシステムは危機体制が強く、スラックのないシステムは弱いと言われています。
つまり、無駄だと思われることも、よく見てみると「必要な無駄」である可能性があるということです。無駄とは「役に立たないこと」という意味なので、「必要な無駄」とは矛盾する言葉かもしれませんが、世の中にはその時は無駄だと思ったけど、今になると必要だったと思うことが存在します。無駄かどうかということは結果論に過ぎません。「役に立つ」というのはたまたまそうなっただけのことです。そう考えると、無駄と思えることを積極的に行なっていった方が、その人の経験値は上がっていくと思います。
これは勉強でも同じことが言えます。「苦手だから」「受験で使わないから」と言って特定の教科の勉強をやめることは正しいことなのでしょうか。本当にその教科は「無駄」なのでしょうか? 「無駄と思いたい」だけなのではないでしょうか? 教科選択を考えるうえでも、意識しておいた方がいい考え方だと思います。
僕は初対面の人に必ず「いまハマっていること」を聞きます。趣味や特技と聞くとちょっと身構えてしまいますが、「ハマっていること」は簡単に答えられます。また、「ハマる」というのは強制的にやらされているものではなく、自分から進んでやっているものなので、その人の人間性が垣間見えます。高校生は時間があります。時間を無駄にすることがないよう、無駄なことにハマってみてください。そのために、色々なことに関心を寄せてみてください。
ただし、無駄ばかりに偏るのはマズいです。僕は学生時代にギターを弾いていましたが、ギターの弦は張りすぎても緩めすぎても良い音が出ません。ほどよい加減が良い音色に繋がります。皆さんにとっては、「学校の勉強」と「ハマっていること」を両立させることが大切です。学校の勉強だけに偏っていると、それはそれで面白みに欠けると僕は思います。一方でそっちを疎かにして自分のハマっていることにだけ没頭している人も、決して魅力的ではありません。やるべきことはきちんとやりつつ、遊びも大切にする。その両立を目指してほしいなと思います。
・一つもバカなことをしないで生きている人間は、彼が自分で考えているほど賢明ではない。〔ラ・ロシュフコー(フランス 貴族・文学者)〕
・人生とは、人生以外のことを夢中で考えているときにあるんだよ。 / 楽しんで無駄にした時間は、無駄じゃない。〔ジョン・レノン(イギリス ミュージシャン)〕
・あなたは人生を無駄に過ごしてると思うわ…あなたに出来る千ものことがあるに違いないというのに…。〔ルーシー(スヌーピーのキャラクター)〕
・怠けていることは喜びかもしれないが重苦しい状態である。幸せになるためには何かをしていなくてはならない。〔ガンジー(インド 政治家)〕
もし教員になっていなかったら、僕はロックンローラーになりたかったです。こんなことを言っているとヤバい大人だと思われるかもしれませんが、今でもずっとロックンローラーに憧れています。
ブルーハーツというバンドが昔あって、僕はそのボーカルの甲本(こうもと)ヒロトというロックンローラーが大好きです。ライジングサンロックフェスティバルというフェスに行った時、初めて生で甲本ヒロトを見たのですが、そのパフォーマンスを見た時に「おお、俺はいま生きている…」と思いました。あの感動は言葉では表現できません。
あるインタビューで「人生のピークはいつでしたか?」と聞かれた甲本ヒロトは「中学1年」と答えました。その時何があったのか聞かれた甲本ヒロトは「ロックンロールというものに大感動した瞬間」と言い、続けてこう答えました。
「ロックンロールが大好きでロックンロール人生というものがあるとしたら、その人の人生でピークってどこかというと、ロックンロールに出会った瞬間なんですよ。僕らはずっとそこにいるんじゃないかな。」
僕はこの言葉を聞いて、「中学1年の時が人生のピークでそこから落ちている」という意味ではなく、「ロックンロールに出会った瞬間が人生のピークで、その衝撃が今もずっと続いている」と解釈しました。そういう意味では、以前お話した「毎日がピーク」という言葉と共通するところがあると思います。
また、他のインタビューで「若者に向けてメッセージをください」と言われた時、甲本ヒロトはニコニコしながらこう答えました。
「色々不安だろぉ。イライラするしな。それ、大人になっても不安だし、50歳過ぎてもイライラするから、そのまんまでいいんじゃないか。物事解決するよりも、イライラしたまんまさ、ロック聞けばいいじゃん。」
甲本ヒロトの曲で『十四才』という曲があります。ロックンロールを初めて聞いた14才の時の衝撃が歌われており、いつでもどんな時でもその曲を聞けば14才に戻れる、というようなことが歌われています。文面にするとこの曲の良さがあまり伝わりませんが、僕がこの曲を聴いたのがまさに14才の時で、曲の出だしの一音目を聞いただけでその時の光景が鮮明に蘇ります。僕は他にも、春の生暖かい風が吹いた時は、高校に入学した翌週の帰り道に自転車で坂を下っていた時のことを思い出したり、暖かい春の夜に草の匂いを感じると、大学に入学してサークルの新入生歓迎会に行った時のことを思い出します。また、雨が降った夏の日に地下鉄の入口付近の地上を歩いていると、湿った風が地下鉄の空気を地上に運んできて、その時にはなぜだか学生時代の学校祭準備のことを思い出したりします。
さて、僕が今回伝えたかったことは、「一瞬でその当時に戻れるような経験を積んでほしい」ということです。些細なことでも構わないので、そう思えるように毎日を確かに生きてください。周りに関心を持って、毎日を大切に過ごしてほしいです。そして、人生を左右する衝撃に出会ってください。僕にとってはロックンロールとの出会いもそうでしたが、高校の時のクワバラ先生との出会いがそれでした。あの衝撃が今でも僕を突き動かしています。
そのような衝撃がいつくるのか、それは誰にも分かりません。大切なのは、その衝撃を見過ごさないことです。いつか必ずその衝撃はやってきます。その日のために、毎日を大切に過ごしてください。
・人生とは今日一日一日のことである。確信を持って人生だと言える唯一のものである。今日一日をできるだけ利用するのだ。何かに興味を持とう。自分を揺すって絶えず目覚めていよう。趣味を育てよう。熱中の嵐を体じゅうに吹き通らせよう。今日を心ゆくまで味わって生きるのだ。〔デール・カーネギー(アメリカ 実業家)〕
セレンディピティ(英語: serendipity)――素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ること。
僕は運が良いです。くじ運とかが良いのではなく、「引きが強い」と自分では思っています。
授業の準備をしていると、最初に手にした資料が求めていたものだったり、全然違うところで手に入れた情報が面白いように繋がっていくことがあります。また、人との出会いにおいても、僕は引きが強いです。この人と出会ったおかげでうまくいった、という不思議な出会いがたくさんあります。
「出会い」ということについて、僕の親が言っていた印象的な言葉があります。
「あの時あそこに行かなかったらこの人とは出会えていなかった、という偶然の出会いが人生では起きるけど、もしそのタイミングで出会えなかったとしても、それは必ず人生のどこかで出会う運命だったんだと思う。」
自分の親ながら、なかなかカッコいいことを言うもんだなと感心しました。
この間読んでいた本で「セレンディピティ」という言葉を知りました。前から自分は引きが強いと不思議に思っていましたが、それはセレンディピティに恵まれていたんだ、ということに気がつきました。
さて、皆さんは今回、偶然にも藻岩高校の生徒として200人以上の同級生と、20人以上の先生方に出会うことになりました。出会い自体が大切なことはいうまでもないですが、本当に大切なのは、偶然の出会いに気がつけるかどうかということです。
僕たちの目の前には、同じように幸運が転がっています。運が良いとか悪いとかは、それを見逃してしまうかどうかの差に過ぎないと思います。ボーッと生きていたら、暗い顔をしていたら、顔を下げていたら、幸運は逃げてしまいます。アンテナを張って、生活してみてください。意識と行動がポイントです。
たまたま皆さんは藻岩高校の生徒になりました。この偶然を「セレンディピティ」にすることができるかは、皆さん次第です。色々な人と関わって、楽しんでください。未来は僕らの手の中です。
・自分自身を幸福だと思わない人は、決して幸福になれない。〔サイラス(アケメネス朝 ペルシャの王)〕
・幸福とは幸福を探すことである。〔ジュール・ルナール(フランス 小説家・詩人・劇作家)〕
・幸福は毎月やって来る。だがこれを迎える準備ができていなければ、ほとんど見過ごしてしまう。今月こそ幸福を見逃すな。〔デール・カーネギー(アメリカ 作家)〕
・幸福の便りというものは、待っている時には決して来ないものだ。〔太宰治(日本 小説家)〕
・なんだ、あれが僕たちの探している青い鳥なんだ。僕達はずいぶん遠くまで探しに行ったけど、本当はいつもここにいたんだ。〔メーテルリンク(ベルギー 詩人・劇作家)〕
・幸せは途切れながらも続くんです。〔草野マサムネ(日本 ミュージシャン))
・幸せとは「瞬間」的なものだ。ほとんど毎日、幸せな瞬間なら、少なくとも一度はある。〔メイ・サートン(ベルギー 小説家)〕
・幸せを手に入れるんじゃない。幸せを感じることのできる心を手に入れるんじゃ。〔甲本ヒロト(日本 ミュージシャン)〕
・人間の幸福は、決して神や仏が握っているものではない。自分自身の中にそれを左右する鍵がある。〔ラルフ・ワルド・エマーソン(アメリカ 思想家・哲学者)〕
はじめに、保護者の皆様、この度はお子様のご卒業誠におめでとうございます。私は親の立場に立ったことがないのですが、6人兄弟の末っ子で8人の甥姪がいるため、その子達の節目に立ち会う度に「ヨチヨチ歩きだったのにこんなに成長して…」といつも目頭が熱くなります。お子様が高校卒業という大きな節目を迎え、胸を張って体育館を歩いている姿をご覧になり、保護者の皆様におかれましては様々な想いに駆られたことだと思います。このような晴れの日を迎えられましたのも、ひとえに保護者の皆様のご尽力によるものです。3年間本校の教育にお力添えいただき、誠にありがとうございました。
改めて、生徒の皆さん、ご卒業おめでとうございます。最後のエッセイでは、皆さんに2つのことを伝えたいと思います。
1つ目は、元気に生きていてほしい、ということです。僕は教師という立場で皆さんに接してきたので、社会が求めることを沢山皆さんに伝えてきました。「挨拶をする」「時間を守る」「人の気持ちを考える」「勉強する」などなど。
もちろん、これらはそのどれもが大切なことです。ですが、教師という立場を離れ、一個人として本音を言うと、そんなことはどうでもよかったです。僕がいつも思っていたことは、今日も学校に来てくれてよかったな、ということでした。正確には、ただ、生きていてくれてよかったなと思っていました。
この先の人生、楽しいことと同じくらい、辛いことも沢山あるでしょう。そういった辛さに耐えることで大きく成長することも多々あります。ですが、一番大切なのは、自分の命です。自分を見失ったり、体調を崩すくらいなら、困難に立ち向かう必要なんて全くありません。迷わず逃げてください。
生きていれば何とでもなります。簡単に諦めろ、ということではありません。そのバランス感覚はこれから養うことになります。人は無意識のうちに自分に負荷をかけてしまうので、「いつだって逃げてもいい」と思っておくことでようやくちょうどいいバランスを保つことができると思います。健康を第一に、これからも生きていてください。
2つ目は、いまここに自分がいる、その文脈を意識してほしい、ということです。いま皆さんがこの教室にいるのはなぜですか? それは保護者の方々のおかげです。あるいはちょうど3年前の今頃、受験という競争を制して合格を勝ち取った皆さん自身の力によるものです。ですが、それだけではありません。高校教育を提供している日本という国のおかげでもあるし、藻岩高校の管理者である校長先生をはじめとした教職員の方々のおかげでもあります。もっというと、皆さんがこの教室で快適に過ごしていられるのは、この建物を作ってくれた大工さん、服や椅子を作ってくれた工場の方、それを流通販売してくれた方々のおかげです。
使い古された言葉にはなりますが、人は一人では生きていけません。それにも関わらず、そういったことはすぐに忘れてしまいます。特に人生がうまくいっている時は、自分の力でここまでやってこれたと勘違いしてしまいます。繰り返しますが、いま皆さんがここにいるのは、数え切れないほど多くの人たちのおかげです。その文脈を、意識するようにしてください。そうすれば自然と、感謝の気持ちが湧いてきます。
過去に何の意味があるんだ、歴史なんか学ばずに、今と未来に関係すること、つまり実生活に役立つことだけに目を向けるべきだ、という合理主義的な考え方の人も世の中には多くいます。ですが、そういう人は恐らく、いま自分がここにいる、その文脈を捉えきれていないのだと思います。過去の人たちの積み重ねで今があります。その過去に敬意を払わないなんてあまりにも失礼です。古典や歴史を学ぶ意味はここにあるのだと僕は思います。現実に直結しないからといって、簡単に切り捨てるべきではありません。皆さんは人類の一員です。だとすれば、人類の歴史を大切にするということは、周りの人たちを大切にするということです。そして、あなた自身を大切にするということです。
さて、あなたがいまここにいるのは、誰のおかげでしょうか。それは紛れもなく、保護者の方々のおかげです。今日家に着いたら、心の中でありがとうと呟いてみてください。それが、いまここに自分がいる、その文脈を意識するということです。
僕はこれまで、この年次の担任として本当に楽しく仕事をすることができました。それもこれも、皆さんのおかげです。3年間、本当にありがとうございました。
皆さんの人生の文脈に、少しでも寄り添えていたら幸せです。