私たちのこと
OUR MESSAGE
開催にあたってのミホの思い
主催者のミホがウェブマガジン「IDEAS FOR GOOD」にてインタビューを受けました
・原爆展開催に至った思い
・高校生が描いた原爆絵を選んだ理由
・今回の展示にかける思い
などを、写真を交えて記事にしていただいています。
"絵で伝える「原爆展」渋谷で開催。広島と長崎のことを“自分ごと”に" - 社会をもっとよくする世界のアイデアマガジン IDEAS FOR GOOD https://ideasforgood.jp
主催者のミホが鎌倉のえしかる屋・プロデューサーの稲葉さんにインタビューを受けました
・なぜ原爆展をやろうと突然思ったのか?
・どんな絵を展示するの?
・いつどこで展示をするの?
・なんで東京でやろうと思ったの?
・なんで若者に向けて?
・みなさんに協力してほしいこと
などなどをお話しています。
わたしたちの思い
私は、横浜で生まれ育ちました。
私は、横浜で生まれ育ちました。
小学校や中学校では歴史の一部として原爆に触れ、時に被爆者の方の証言を聞く機会も数回あったと記憶しています。
でも当時、地元の図書館や一駅先の街に行くくらいが私の行動範囲だったので、広島や長崎の話は外国の事のように遠く感じていました。
大学に入り、広島から上京してきた友人達と会った時に初めて原爆や戦争に対する意識の違いを強く感じました。
それは子どもたちが悪いのではなく、関東にはまだまだ原爆について知る機会や考える機会が少ないからだと感じます。
そして大人になって海外に出るようになり、先日ギリシャの火山へ行った時に「この山の火山噴火の威力は広島原爆の100万個分だった」という解説を受けましたが、周りの海外の人たちの反応はとても曖昧なものでした。
原爆の威力をよく知らないからです。
「原爆は酷いものだった」という事しか知らない人がほとんどなのです。
とても悲しくなりました。
広島や長崎の人々が感じている、他の地域への落胆はこのようなものなのかもしれないと感じました。
私は今後海外を拠点とすることになります。
その前に日本で行かなければならない場所を周る予定を立てました。
広島に行く前に「はだしのゲン」という漫画を読み始めたり、YouTubeで被爆者の語りを聞いたりしています。
「昔のこと」「あの時のこと」を勉強するつもりだったのに、原爆がもたらした地獄は今も続いていると知りました。
移住先は、核保有国です。
恥ずかしながら、私自身もやっと原爆や核兵器について「自分ごと」として考えなければと危機感を持ち始めたのです。
人にはそれぞれ、
知るタイミングと知りたい範囲と内容と角度があり、それを選択できるべきだと思っています。
ただ、知りたいと思った時に知れる場が身近に用意されている事が、どの地域であっても必要だと強く感じます。
そんなことから、原爆についての知識や悲しみを、関東の若い人たちにも「自分ごと」として感じてほしい、知りたいと思った時に立ち寄れる場所を作りたいという思いが生まれました。
今回が初めての展示開催となりますが、原爆が今も人を苦しめ続けているように、8月だけで完結させるのではなく、毎月毎年この悲しい事実にたくさんの方が少しでも触れられるような活動をしていきたいと思っています。
大森美穂
私は東京生まれ東京育ちです。
台湾がまだ日本だった頃、そこに住んでいた祖母から戦争の話を聞いたことがありました。
その頃の私はまだ小さくよくわかりませんでした。
それでも、
「私が亡くなった後は伝える人がいなくなるから、戦争が無かったことになってほしくない。」
と祖母が言っていた事は強く覚えています。
その後、社会科見学等で行った原爆の展示も想像するだけで胸が痛くなり、怖くて見れないほどでした。
私は知れば知るほど怖くなり、戦争や原爆のことを深く知ることをずっと避けていました。
東京に住む祖父の戦争の話も怖くて聞けませんでした。
そんな中、主催者の大森さんの原爆展への思いを聞いて
「彼女となら一緒にやりたい。
今回を自分が学ぶきっかけにもしよう‼︎」と思いました。
私のようにまだ原爆を知らない人も、知りたくないまま大人になった人だってきっといるはずです。
ちょっとだけ知ってみようかな??
少しでもそんな気持ちがあれば今回の原爆展にきていただきたいです!
きっかけはなんでも良いです。
「来てみて、展示を見て、
その時の自分どのように感じるか。」がとても大切なことだと思います。
ぜひこの夏、原爆展でお待ちしています。
上澤美樹
私は、18歳まで広島で育ちました。
上京して初めての夏、8月6日がいつもと違うと感じました。
テレビをつけても、いつも通りの朝のニュース。
黙祷のための町内放送も聞こえてこない。
自分の中に根付いている広島を意識するきっかけになりました。
瀬戸内海の島育ちの私の祖父は、あの日まだ10歳で、校庭で貴重な食料だった芋掘りをしていたそうです。
空に大きなキノコ雲が上がるのを見て、防空壕に逃げたと聞いたことがあります。
母校の前身である市立高等女学校の生徒は、あの日朝から建物疎開作業に動員されていました。
原爆で最も多くの生徒が亡くなった学校だと教えられました。
建物疎開作業をたまたま休んだことで、自分だけが生き残ってしまったという思いに苦しんでいるという方の話を聞きました。
いつも当たり前に、原爆の話が身の回りにありました。
音楽の時間に「青い空は」や「原爆を許すまじ」を歌ったこと。
夏になると慰霊碑の掃除に行ったこと。
国際交流の前に"Hypocenter(爆心地)"の発音を練習したこと。
ただ、学んできたことを話すことにはずっと抵抗がありました。
広島だけが負の歴史を背負っているわけではないのに、大手を振って発信するのは自分たちだけが被害者ぶっているように思われるのではという気恥ずかしさすらありました。
でも、先日「原爆展」をやりたいと発案者の友人から聞いた時、なんとなく、呼ばれているような気がしました。
広島を出て10数年。広島の過去に興味を持ってくれた人たちとの出会いが、いつの間にか自分を変えてくれた気がします。
原爆がもたらしたものはなんだったのか?
戦争を終わらせるために原爆は必要だったのか?
原爆がなければ終わらせることができない「戦争」ってなんだろう?
そんなことを幅広い世代の人に考えてもらえるちょっとしたきっかけになったらなと密かに思っています。
問いへの答えは、それぞれにあると思います。
いつか私たちが選択を迫られた時に「原爆について知っていること」「それについて考えてみた経験」が役に立つことを願っています。
西原理佐子