明治31年に第十代校長により植樹されたといわれるこのクスノキは、昭和20年に戦火により校舎と共に焼失しました。しかし、3年後に再び芽吹いて、街の復興と共に双幹の大樹に生長し、仙台市の名木100選や仙台市都市景観賞にも選定されています。
困難にくじけず、着実に根を張り、枝葉を茂らせ、志を持つ子供の育成を目指す東二番丁の象徴としての校木であると共に街のシンボルにもなっています。樹齢は125年を超えます。
吹き抜け教室「ひかりの広場」は、七夕飾りの作成やミニコンサートの開催など、様々な教育活動を行える場所です。毎年、仙台七夕祭りに出品している七夕飾りが飾られています。
昇降口に「ひとと小鳥(滑空術)宮城輝夫氏作」の大きな壁画があります。
現校舎の落成記念として、当時の保護者、同窓会、地域の皆様のご厚意により制作されました。
仙台空襲で亡くなった本校児童の冥福を祈るために昭和23年に建立された石碑。裏には「限りなくいとし子を抱く親心」と彫られ、校舎を見渡せる位置に建てられています。土井晩翠氏の画を鈴木武雄氏(本校卒業生)が彫金しました。
昭和8年(1933年)より、毎年刊行されている学校文集『ひかり』。
毎年、全校児童の作品が掲載され、お互いに読み合い、作文力を高めています。
校舎と養賢図書館をつなぐ渡り廊下。校木のくすのきを囲むように半円形になっていて全面の窓ガラスからは校木のくすのきがよく見えます。
創立100周年を記念し、昭和48 年に建立された記念碑。「われら ここに まなび そして はばたけり」と書かれています。本校を卒業し、仙台の経済・文化を支えた先輩たちの愛校心が伝わってきます。
明治8年、本校は伊達藩の藩校 養賢堂にちなんで、一時「養賢小学校」と改称しました。このことから「養賢」の名を様々な活動に使用しています。
「養賢図書館」は昭和24年、終戦後に校舎を建て直した際、新築した図書室に名付けられました。学校図書館法が制定されたのがその2年後ですから、当時の保護者や学校職員の意識の高さがうかがえます。
仙台空襲で亡くなった子供たちも、戦後の新しい校舎で一緒に勉強させたかったとの親たちの思いを汲んで、ある保護者の方が寄贈された27体の観音像。一体一体に、空襲で亡くなった児童23名と交通事故で亡くなった4名の名前が書かれています。現在、在校児童に平和の尊さを感じてほしいとの思いから「くすのき通り」に安置しています。
「和而不同」(わじふどう)とは「協調して物事に当たるが、道理に合わないことは安易に妥協しない。」という意味です。自分の意見を持ち、お互いの意見を聞き合い、児童のためにより良い学校を作っていく東二番丁小の教職員集団の座右の銘として職員室の前面に掲げられています。外務大臣、大蔵大臣などを歴任した愛知揆一氏の書です。
この像の作者、翁盛朝氏は明治39年8月30日宮彫師翁家の三代目として仙台市に生まれ、本校を卒業しました。 代表作に「伊達正宗公像」(青葉神社御神体)、「土井晩翠像」(晩翠草居)、「平和母子像」(県庁前広場)、「黄金の館」(仙台市庁舎内)、新聞少年の像(河北新報本社前、他全国の主要都市)等があります。
この作品は昭和30年に本校に寄贈された。
昭和28年、創立80周年時に体育館入り口に備え付けられた「健康第一」のレリーフ。文字は当時の学校医、亀掛川英吾先生の書によるものです。
その後二回ほど体育館が建て替えられましたが、このレリーフは大切に保管され、現在も体育館の入り口に付けられています。
東北地方の夏祭りの一つとして全国に名高い仙台七夕まつり。まつりの中心地が本校の学区であるため、本校児童と教職員、保護者も毎年、七夕飾りを製作して、このまつりに出品しています。児童にとっても誇りを感じる行事です。