研究分野の紹介
ニューロエンジニアリング(神経工学)とは,神経科学(脳や神経系に関わる研究分野)と工学の学際的な研究分野の総称.そのルーツは古いが,2000年頃から神経工学(Neural Engineering; Neuroengineering)に特化した国際会議の開催や専門誌の発刊が相次いだ.たとえば,IEEE/EMBS Conference on Neural Engineering(米国電気電子学会/医用生体医工学部会 神経工学に関する会議)は2003年に第一回大会が開催された.神経工学の専門誌として,IEEE Transactions on Neural Systems and Rehabilitation Engineering(米国電気電子学会)とJournal of Neural Engineering(IOP science (英国物理学会の出版部門))は,それぞれ,2001年と2004年に発刊されている.なお,これらの学会や専門誌が設立される前は,電気電子工学や医用生体工学(たとえば,IEEE Engineering in Medicine and Biology Society (IEEE EMBS))の一分野として発展してきた.
国内では,日本医用生体工学会ニューロ・インフォマティクス研究会,電気学会電子・情報・システム部門医用・生体工学技術委員会,電子情報通信学会MEとバイオサイバネティックス研究会 (MBE),計測自動制御学会ライフエンジニアリング部門(LE)などで積極的に推進されてきた.また,脳の数理的なモデルに関する研究は,神経回路学会や物理学会でも古くから扱われている.最近では,AIの発展に伴い,脳とAIを対比する研究が盛んになり,人工知能学会やロボット学会でも,神経工学の裾野は拡がっている.脳に機器やネットワークをつなぐ研究開発は,FacebookやNeuralink (イーロン・マスク創業) でも進められており,その技術動向が注目されている.
神経工学に含まれる研究領域は広範囲に渡り,明確な定義があるわけではない.神経工学の代表的な専門誌であるJournal of Neural Engineeringは,科学者・臨床医・エンジニアを対象とし,神経系を理解 (understand),置換 (replace),修復 (repair),強化 (enhance) する研究を扱うとしている.その具体例として,下記のような研究テーマが挙げられている.
革新的ニューロテクノロジー(Innovative neurotechnology)
ブレイン-マシン・インターフェース(Brain-machine (computer) interface)
神経インターフェース(Neural interfacing)
生体電子工学(Bioelectronic medicines)
ニューロ・モデュレーション(Neuromodulation)
神経デバイス(Neural prostheses)
神経制御(Neural control)
ニューロ・リハビリテーション(Neuro-rehabilitation)
ニューロ・ロボティクス(Neurorobotics)
光学的神経工学(Optical neural engineering)
神経回路(Neural circuits: artificial & biological)
ニューロ・モーフィック工学(Neuromorphic engineering)
神経組織再生(Neural tissue regeneration)
神経信号処理(Neural signal processing)
理論・計算論的神経科学(Theoretical and computational neuroscience)
システム神経科学(Systems neuroscience)
トランスレーショナル神経科学(Translational neuroscience)
神経イメージング(Neuroimaging)
歴史を顧みると,物理学や化学の進歩に伴い,革新的な技術が開発され,神経科学を支えてきたことは言うまでもない.古くは18世紀末,ルイージ・ガルバーニが神経を電気的に刺激し,筋肉を収縮できることを発見し,生体内の電気現象の研究が始まった.その後,検流計 (1820年),陰極線オシロスコープ (1920年頃),単線検流計による脳波計 (1929年),活動電位計測のためのガラス微小電極 (1949年) や金属微小電極 (1958年) など,電気的な神経信号を計測する手法が開発され,電気生理学・神経生理学の発展を支えた.神経解剖学の発展も,19世紀の光学顕微鏡や染色技術の確立,さらには電子顕微鏡の発明 (1931年)に支えられていることは言うまでもない.これらの技術革新に支えられた先駆的かつ学際的な神経科学が,神経工学のルーツである.
20世紀の半ばになると,神経科学の知見に基づき,数理的な研究分野も確立され発展した.たとえば,1943年,ウォーレン・マカロックとウォルター・ピッツが,神経細胞の数理モデルを提唱し,人工ニューラルネットワークの礎を築いた.1948年,ノバート・ウィーナが,制御工学と通信工学により,生物と機械を統一的に論じる「サイバネティクス」という研究分野を提唱した.1952年,アラン・ホジキンとアンドリュー・ハクスレーは,実験データに基づき,活動電位の発生メカニズムを微分方程式で説明した(1963年ノーベル生理学・医学賞).1956年,ダートマス会議で「人工知能(AI)」と呼ばれる研究分野が創立された.人工知能のなかでも特に人工ニューラルネットワークの研究は,実験的な神経科学と互いに影響を及ぼしあいながら発展した.これらの研究をルーツとして,脳の動作原理を理解するために発展した数理的な研究は,現在の神経工学の主要テーマとなっている.
さらに1950年代には,人工心臓の術中利用(1952年),人工内耳(1957年),体内埋め込み型心臓ペースメーカ (1958年)などの初症例が報告されており,生体医工学分野の研究が目覚ましく発展した.国内でも,1962年に日本エム・イー学会(現在の日本生体医工学会)や人工臓器学会が設立され,医工連携の重要性が認識された.
1960年代から1970年代にかけて,超音波検査装置,コンピュータ断層映像(CT),ポジトロン断層法(PET),核磁気共鳴画像法(MRI),脳磁図(MEG)など,さまざまな診断装置の開発が相次いだ.このような生体医工学分野の発展に伴い,専門分化も進み,脳や神経系の活動の計測・刺激方法や神経信号の解析方法の開発も盛んに進められた.脳の解明を目指す神経科学も盛んになり,1969年には北米神経科学会 (Society for Neuroscience; SfN),1974年には日本神経科学会が設立されている.
1980年代から1990年代にかけて,経頭蓋磁気刺激法(TMS),機能的MRI,近赤外線分光法(NIRS)など,非侵襲的に脳を刺激・計測する技術が確立され,臨床的な検査だけでなく,脳機能の解明にも積極的に利用されるようになった.さらに情報機器や計算機の発達に伴い,時空間的な脳活動を多点同時計測・解析し,脳の計算原理の解明を目指す基礎研究も盛んになった.
米国では1990年から1999年まで「脳の10年」という標語の下,神経科学分野への集中的な研究投資が始まった.その後,欧州や日本でも,神経科学の大型プロジェクトが国策として推進された.そのような中,神経インターフェース,神経信号処理・解析,ブレイン-マシン・インターフェース,感覚・運動機能のリハビリテーションなどの研究では,工学と神経科学の連携の機運が高まった.これらの研究は,さまざまな学会で「神経工学」として扱われるようになり,現在に至っている [1].
2021年1月6日初版
2021年3月28日 Web公開版