質 問 ゼミ

本ゼミは,北海道大学/大学院理学院/自然史科学専攻/科学コミュニケーション講座/STEAM教育研究室で行なっているものです。指導教員は池田文人です。本ホームページを運営しています。私が質問に興味を持ったのは,以前勤めていた(株)NTTデータでの業務を通じてのことです。当時,NTTデータは約1万人のSE(システムエンジニア)を抱えていました。SEは日々様々な工程のシステム開発に取り組んでいますが,日常的にトラブルが発生し,その中には自分たちだけでは解決できないものもあります。そうした解決困難なトラブルは,ヘルプデスクと呼ばれる,専門家集団に主にメールによる質問で問い合わせ,回答をもらうことで解決していました。質問したSEはもらった回答を評価し,これら質問と回答と評価をセットとしてデータベースに蓄積していました。私がいた時には約1万件のデータがありました。これらのデータの7割ほどの評価は「期待以上」または「期待通り」といったものでしたが,残りの約3割は「期待以下」でした。私の任務は,この3割の「期待以下」の回答を減らすことでした。まず調べたのは回答です。「期待以上」と評価された回答と,「期待以下」と評価された回答にどのような差があるのかを調べました。しかし,分量や内容など差はありませんでした。そこで次に,「期待以上」と評価された回答の元になった質問(「良い質問」)と,「期待以下」と評価された回答の元になった質問(「悪い質問」)とにどのような差があるかを調べました。具体的には,質問内容を以下の3つに構造化し,それぞれのパーツに含まれる専門用語の数を調べ,質問ごとの比率を割り出し比較しました。

すると,良い質問と悪い質問とでは,基本情報の比率に差はありませんでしたが,背景情報とトラブル情報の比率には優位な差が見られました。すなわち,良い質問は背景情報の方がトラブル情報よりも比率が高く,逆に悪い質問はトラブル情報の方が背景情報よりも比率が有意に高かったのです。つまり,あるトラブルが発生する原因やプロセスには様々なものがあるため,トラブル情報ばかり書かれてもヘルプデスクは原因を特定することが難しくなり,一般的な回答しか返せません。逆に背景情報がしっかりしていればトラブルの原因をスムーズに特定でき,的確な回答を返すことができます。実際,SEが質問をしてから回答を得るまでの時間は,良い質問の方が悪い質問よりも有意に短かったのです。

さらに,このQ&Aデータベースは社内のネットワークを通じてSEが検索し参照できるようになっていました。そして参照したQ&Aに対して役に立ったかどうかという評価を加えていました。するとここでも,良い質問とその回答は,悪い質問とその回答よりも,検索・参照された際に「役に立った」と評価される比率が有意に集ったのです。検索は質問に対してかけられていましたので,質問も回答も内容が適切に絞り込まれている方が役に立つということです。

以上のことから,質問一つで組織全体の生産性が左右されることがわかりました。そこで私が取った方策は,質問をさらに細かく構造化して,より詳細に背景情報を聞き出すというものでした。このようなQ&Aの分析により博士号を取得しました。しかし,私が疑問に感じたことは,なぜ悪い質問をしてしまう人がこんなにいるんだろうか?ということです。ヘルプデスクのことを考えれば,背景情報をしっかり書いた方が適切な回答をもらえることぐらい,わかりそうなものです。しかも当時のNTTデータが新卒で採用していたのはほぼ修士修了者ですので,かなりの高学歴です。そこで,質問したSEが回答をいつまでに欲しいかという回答要求期限を,良い質問と悪い質問とで比較したところ,悪い質問の方が良い質問より有意に回答要求期限が短かったのです。つまり,悪い質問をしてしまうのは,トラブル解決を急ぎ焦っているSEが多いということです。

そこでまた疑問です。焦ってしまうと適切な質問ができなくなるということは,適切な質問の仕方が習得されていないことではないか?そういえば,学校では「答え」は教わるけれども,「問い方」はまったく教わってきていません。しかし社会に出てから本当に必要な力は,適切な質問をいつでもできることではないか?そう思いました。ではどうすればそのような教育に変えられるか?と考えました。日本は大学入試が非常に大きな力を持っていました。大学入試で,「問う力」が問われる試験が行われるようになれば,「問い」が意識され,「問う力」が醸成されるはずだと考えました。そして当時,北海道大学が新しく導入したAO入試を契機に設立された入学者選抜に関する研究部に転職しました。2001年の4月のことです。

それから約20年,「問う力」を問うテストの開発を具体化する糸口が見つからないまま暗中模索の状態が続きました。そこに新型コロナが流行します。授業はすべてオンラインになり,理学院で開講していた「科学技術社会構成論」という授業もオンライン対応する必要がありました。この授業は,科学や技術に関するすべての知識は,広い意味での「ことば」によって社会的に構成されるものだということを受講者に考えてもらうことを意図しています。科学や技術の知識は自然から導き出したもののように思われがちですが,そうではなくて,私たち人間が「ことば」を使って構成したものです。このことを理解してもらうために,科学とは何かという定義をまず最初に考えた「論理実証主義」を調べて,グループでディスカッションしていました。この論理実証主義を唱えたウィーン学団は,オーストリア出身の科学哲学者であるウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』と,英国のラッセルとホワイトの『数学原理』とを根拠にしていました。これまでは,どちらの本も斜め読みして概要だけを受講者に伝えて,各自で調べてもらっていのですが,オンラインになるときちんと資料を用意する必要があり,しっかり読む必要が生じました。

そして『論理哲学論考』を読んだことが,大きな転機となりました。この本は,科学的な知識についての定義について詳細に記述されています。私たちが未来永劫にわたって知り得る,すなわち「ことば」で表現可能な知識の総体を「論理空間」と名づけました。そして知識は命題と論理によって構成されており,命題は原子命題という最小単位に分割されるとしています。ウィトゲンシュタインは後年,『哲学探究』という本の中で,この原子命題という概念は誤りだったことを認めていますが,知識は命題と論理から構成されることに変わりはありません。何が転機になったかというと,知識というと命題,すなわち「AならばB」という記述ばかり考えていましたが,「論理」があるではないかと気づいたのです。

どういうことかというと,試験あるいはテストは解答を評価する必要があります。つまり,「AならばB」という解答であれば○とか×とか,何点だとかといった評価指標が必要です。しかし「問う力」の評価指標としてこのような命題を設定してしまう,すなわち「AならばBであるか?」という質問をしたら○にするとか,何点だとかとしてしまうと,問いの持つ自由さが損なわれます。

Judge a man by his questions, rather than his answers.

という格言があるように,問いは自由であるが故にそれを発した人そのものが現れます。そして問いの自由さはその人の創造性につながります。したがって,問う力を評価する指標として命題を使うことはできません。そこで20年余り逡巡していたのですが,知識のもう一つの構成要素である「論理」を問えばいいじゃないか!と閃いたのです。その瞬間がこの質問ゼミの新しい一歩となりました。