東海村に係る水戸光圀(黄門様)の足跡と漢詩と和歌
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河本 紀久雄
自分の住む地域のことを知ることは
、地域を愛する原点であると思う。東海村に住む私としては、文化人でもある水戸光圀がこの東海村にどんな足跡と詩歌を残したかに興味を持ち、調べたので以下に紹介する。
← 久慈川の図:(クリックすると拡大)
作図時期不明となっているが、少なくとも江戸時代中期と思っている。当時の久慈川は図のように4回蛇行をしていた。そして寛政5年(1793)の地図にはこの蛇行は無くなっているのでこの間に改修工事がなされている。それでも水害は多く付近の家では避難用の船を軒下につるしていたようだ。
← 久慈川河口(久慈浜)の写真:”向渚"は白く光っている
この写真は1952(昭和27年)の航空写真で久慈川は大きく北に蛇行し久慈浜の市街地の前を通って海に流れていた。川向こうは”向渚”と呼ばれ、東海村の土地であった。
勿論、今の245号線は無く、舟で川を渡った。那珂川も同様な形状で潮流と風の関係で、川が運んできた砂は北へ北へと流され写真の様な形状(砂嘴)となっていた。
ってる。
1.水戸光圀の生涯
TV「水戸黄門」の放映で知られる水戸藩第二代藩主徳川光圀は初代藩主頼房の三男であったが、故あって誕生は隠され、今の水戸駅近辺にあった家臣の家で生れた。世子となって江戸に呼び寄せられた後も、カブキ者だったが、中国の書『史記』伯夷伝を読み感動、改心して立派な藩主となった。
立派な武人であるとともに、生涯で漢詩約1500首、和歌約1000首を作った文人でもあった。光圀は定府制のため江戸の藩邸に住んでいたが、元禄三年63歳で隠居し、以後は常陸太田の西山荘に移り住み、しばしば出掛けて藩内を巡っていた。こんな生涯から往時の東海村を紹介する。
現在では、久慈川はまっすぐに海に流れこみ、”向渚”は日立市に編入され日立港とな
2.光圀と東海村
(1) 34歳で藩主となった光圀は二年後の寛文元年(38歳)、北河原村(現在の豊岡)に隠居していた元水戸藩附家老の中山風軒(信正)の古稀祝いに訪れ、久慈川の風景を詠んでいる。この詩からは久慈川の水の綺麗さが知れるし、35歳若い光圀が風軒と雑魚寝(枕藉)をしたり、船好きの光圀が沖に出すぎた時、風軒が鉄砲を撃ち帰れと指令した、との逸話もあり両人の親しい関係が知れる。光圀の遊んだ当時の久慈川は右図の如く蛇行し、河口は北向きに流れていた。
(2) 村松の大神宮を再建し、伊勢から分霊を奉遷して、阿漕ケ浦を大神宮の御手洗とした光圀は、元禄九年村松を訪れ左の歌を残した。
(3)光圀の和歌
元禄5年頃と思われるが村松の海の景色を和歌に残している。即ち「松の下枝をも乗り越えてくる白波に、沖の小舟が、打ち寄せられないだろうか」と激しい波を詩に残している。
3.その他の漢詩
光圀は記録に残るだけでも、少なくとも東海村に6回足を運んでおり、「村松」と題した漢詩で、「海の上の月の美しさ、正木浜の風の心地よさ、白沙の上での酒宴の楽しさ」を詠い、石神外宿に存在した観音寺への思いを「観音寺の鐘を聞く」とか「観音寺の花を賞す」と詩に残し、親しかった僧との思い出を綴っている。
4.光圀の終焉
TVでは諸国漫遊している光圀であるが、隠居後、藩の外へ出たのは江戸に一度行ったきりで、逆に領内は思いのまま巡視している。そして古稀を前にし「駢拇(へんぽ)*」の単語を詩に残して、突然落飾し仏縁に帰依してしまった。何がその原因であったのかは明らかではない。 *:役に立たないもの(荘子)