李 白 東海村 河本 紀久雄
1.李白の生涯
盛唐の詩人。字は太白。号は青蓮居士。中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。奔放で変幻自在な詩風から、後世「詩仙」と称される。李白の生母は太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ、名前と字はそれにちなんで名付けられたとされる。
1)5歳頃から20年間ほどの青少年期、蜀の青蓮郷を中心に活動した。
2)25歳の頃、李白は蜀の地を離れ、以後10数年の間、長江中下流域を中心に、洛陽・太原・山東などの中国各地を放浪した。
3)742年宮廷の翰林供奉(天子側近の顧問役)として玄宗に仕えることになる。以後の3年間、李白は朝廷で詩歌を作り、詔勅の起草にもあたった。楊貴妃の美しさを牡丹の花にたとえた「清平調詞」三首などの作品が作られ、宮廷文人として有名になるが、逆にそのために失脚した。
杜甫が「李白一斗 詩百篇、長安市上 酒家に眠る。天子呼び来たれども 船に上らず、自ら称す 臣は是れ 酒中の仙と」(「飲中八仙歌」)と詠うように、礼法を無視した放埒な言動を続けたことから、宮廷人との摩擦を引き起こし。744年、宦官高力士らの讒言を受けて長安を離れることとなった。
長安を去った李白は、洛陽辺りで杜甫と出会って意気投合し、1年半ほどの間、高適を交えて山東・河南一帯を旅するなど彼らと親しく交遊した。また阿倍仲麻呂とも親交があり、754年には、前年に仲麻呂が日本への帰国途中、遭難して死去したという知らせ(誤報)を聞き、「晁卿衡を哭す」を詠んでその死を悼んでいる。
4)安史の乱勃発後の757年、廬山に隠棲していた時、誤って反乱軍と見なされ捕らえられて、夜郎(現貴州省北部)への流罪となったが、途上白帝城付近で罪を許され、もと来た道を帰還した。この時の詩が「早に白帝城を発す」である
5)以後の李白は、長江下流域の宣城を拠点に、各地を放浪し当塗県で病死した。
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