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2004 [8th] Japan Media Arts Festival Device Art Symposium "How We Create Media Art Works"

Introduction

by Machiko Kusahara

平成16年度(第8回)文化庁メディア芸術祭

デバイスアートシンポジウム「メディアアートはこう作る!」

イントロダクション:草原真知子

2005年3月3日@東京都写真美術館

アナウンス:本日は文化庁メディア芸術祭にご来場いただきまして、誠にありがとうございます。只今より、デバイスアート・シンポジウムを始めさせていただきます。それでは本日のご出演の方々をご紹介させていただきます。筑波大学教授、岩田洋夫様です。明和電機の土佐信道様です。メディアアーティストの児玉幸子様です。デバイスアーティストのクワクボリョウタ様です。そして、司会進行をお願いしております、文化庁メディア芸術祭アート部門主査、草原真知子様です。それでは草原様、お願いいたします。

1◆イントロダクション

1◆イントロダクション

草原:このデバイスアートという言葉を今日初めて聞いたという人も多いと思うのですが、今日はたいへん豪華なメンバーにお集まりいただいて、そのデバイスアートについて、お話しできたらと思います。ちなみに土佐さんは「大見せびらかし大会をやろう!」と言っていたのですが(笑)、凄いことになりそうな感じです。

デバイスアートに関しては、我々もすでに何回かミーティングをして、討議もしているのですが、これがどこから出てきたかというお話を最初にしておきます。ちなみに、今日パネリストとして来ていただいている方々は全員、このメディア芸術祭で作品が展示されている方ばかりです。クワクボさんは去年の大賞受賞作家で、土佐さんは今年の文化庁メディア芸術祭のアート部門の審査員でもあります。

主に先端デジタル技術とメディアアートを扱う国際公募展として、たとえば《SIGGRAPH》や《Ars Electronica》といった展示がありますが、それらの会場に行くと日本人の作品がどっと出ているのが、このところ毎年の状況です。そして私自身、過去に《SIGGRAPH》や《Ars Electronica》の審査員をやったことがあるのですが、そこで「こんなにユニークかつとんでもない作品やプロジェクトが、なぜ日本からたくさん出てくるのか?」という質問を毎回受けるわけです。ここに来ている方たちも、たぶん同じような質問を海外で受けていると思います。なので、その「なぜか?」という問いに答えるために、“デバイスアート”という新しい概念を提出したわけです。この言葉が定着するか、あるいは別の言葉が今後出てくるかはまだ分かりませんけれど、我々は「何かがそこにある」と考えているわけです。今日はその「何か」について、それぞれの視点から、各自の作品を紹介しながらディスカッションできたらと思います。

ちなみに、そこの低いテーブルの上にあるのは、お茶の道具です。これは児玉さんが持ってきてくださったもので、茶碗など一式あります。まずは「なぜ、こういうものがあるのか?」ということに関して……そもそも誰が「お茶の道具」って言い出したんでしたっけ? 岩田さん? 土佐さん?……とまれ、最初は自由に発言してくださってかまわないので、そのあたりからお願いします。

土佐:日本人って、道具を使って色々な「道」を深めるのが得意な民族だなって、僕は常々思っていました。例えば書道とか、茶道とか、華道とか……。字を書いたり、お茶を飲んだりという日常生活で普段やっている行為を、こういった道具を使って深めていくのは、これは日本人の特徴だと思っています。だからそういう道具=デバイス(device)を使うということは、日本人が昔からやってきたことではないか、ということで、これらのものを出してきたのだと思います。

草原:茶碗と『セーモンズ』(注:明和電機の作品、後述)が並んでいる、というのが、すごい取り合わせですよね(笑)。これはプレスリリースでも出したものですが、実はここ[スクリーン]に、我々の考えているところをまとめた図がありますので、ちょっとご覧ください。こういう要素を持っているものが、我々が考えているデバイスアートではないか、ということです。で、ここにいる人たちは、こういった作品の作り方が、どこかにあるのではないかと考えている人たちです。

ひとつひとつ見ていきますと……一番最初に「コンテンツとツールや技術、素材が一体化している」。そして「作品体験が、プレイフルネスを持っている」。それから「従来の芸術の枠にはまらない」。あと「日本文化の伝統が先端技術と結びつく」というようなことも、ディスカッションしている間に出てきたポイントですね。

それぞれについてもう少し詳しく見ていくと、「アートとテクノロジーが分断されていない」、「モノとコトとが分断されていない」。つまり目的が先にあって、ハードウェアはその手段でしかないのではなくて、今土佐さんがおっしゃっていたような、ツールやデバイスに対する愛着やこだわりが、作品と一体化しているのではないか。

それから「プレイフルネス」……これは日本のメディアアート作品について非常によく言われることですが、それが単に面白おかしいだけではなくて、そこに非常に新しい概念があるのではないか、と。あとこの「コンセプトを押しつけるのではなく」というのは、インタラクティブ・アート全般に通じる話なのですが、デバイスアートにおいては、ある意味ではさらに純粋な形で出てきているのではないか。それから「素材や科学技術の面白さ、おかしさ、ユーモア」というようなことですね。

そういうことを考えていくと、メディアアートの中でも、インタラクティブ・アートといった分野が、従来のアートを打ち破るかたちで出てきているわけですが、今我々がここで見ているような作品は、そういう意味でも、アートの意味を問い直す先端的な部分を非常に含んでいます。

それからテクノロジーの問題だけではなくて(今日これから色々と出てくるはずですが)「アート作品が商品化される」、あるいは「エンターテインメントとアートを直接的・積極的に結びつけていく」ということ。これはアートの歴史の中で、以前から起こってきた変化を、新しい技術を使ってさらに推し進めているとも考えられます。

そういうことをやっている背後にある、我々の気持ちを考えてみると、そこには伝統的な日本文化との結びつきがかなりの部分で見えてくるのではないでしょうか。もちろん、こういう作品を作っているのは日本人アーティストだけではないし、無理にそれを日本人の専売特許にするつもりもないのですが。しかしこういった茶碗に見るようなこだわり……。あるいは今画面上に出ているいわゆる李朝の茶碗というのは、朝鮮半島の雑器だったもの、普通に日常的に使っていたものを「お茶の茶碗として使ったら素晴らしいのでは?」ということを見立てられて、価値を持っていくような、そういった日本独自の価値観。あとこれは大工さんの墨壷ですが、これもただ線を引ければいいのではなくて、ここまで凝ってしまう。これは生け花の鋏ですが、これも流派によって形が色々と違うらしいのですが、やはり枝が切れればいいわけではない。こういうような日本人の道具に対するこだわりが一番活きているのが、実はデバイスアートなのではないか……というようなことを考えているわけです。

いかがでしょうか? 私の前振りはこのくらいにして、それぞれのプレゼンテーションを始める前に、まず発言したいことがあれば、お願いします。

土佐:ええと……、実はここにいる三人が、全員筑波大学の出身であることを、まず言いたいですね(笑)。先輩・先輩・先輩……そして先生!(笑)。これはどうしてこういう人材が筑波大から出てくるかという問題ですけれど、クワクボ君、どうでしょうか?(笑)

草原:いわゆる「ツクバ系」ですか(笑)。

クワクボ:あの……たぶん、今思うと、僕らは大学時代、すごく泥臭い生活をしていたので、モノと情報がいっしょになるといった生活が、あそこにあったのかもしれませんね。僕は電子回路を作りながら、米かつぎのバイトもしていましたから。

児玉:私は筑波大学に来る前は北海道大学にいたので、純粋に筑波大学出身というわけではないのですが、つくばには7年も住んでいました。その間、土佐さんやクワクボさんとは2年間、同じ時期を過ごしていて、大学の工房にいつもいるような生活を送っていました。ちなみに普通女性はフライス盤とかいじらないと思うのですが、私も私以外の女性たちも、旋盤やフライス盤を使って工作をやっていました。その時はそれが自然だと思っていたのですが、後で振り返ってみると、すごく貴重で得難い体験だったと思います。

岩田:私が現在、筑波大学の教員をしているのは、彼らが筑波大を卒業したのと全然関係はないのですが、そのデバイスアートという概念を提案して、色々な人を集めようとした時、たまたま彼ら3人がそれにぴったり合うという話になったわけです。ちなみに司会の草原先生は、筑波大学の附属高校の卒業生でいらっしゃいまして、全員ツクバ系ということで(笑)、そういう地域性も大事にしたいなぁ、と思っています。

草原:ちなみに筑波大学付属高校は、東京にあるのですけれど……(笑)。たしかにツクバ系、この界隈には多いですよね。

実はこのデバイスアートというものを考えた時、ここにいる方々だけではなくて……例えばこれは私が神戸で展覧会を企画した時に出品していただいたモリワキヒロユキさんの作品ですが、モリワキさんも筑波の人ですよね。彼はこういう「モリワキット」というものを作って、自分で作品を作るだけではなく、こういうデバイスを他の人たちが使うことで、色々な作品を作れるというような試みをやっています。

でも、別にこれは筑波の専売特許というわけではないと思います。先ほども言いましたように、国際的にもそういうアーティストがいるし、日本のアーティストでも色々な人がいます。たとえばこれは、『PostPet』でおなじみの八谷和彦さんの作品です。(スクリーンの)左下にいるのは、私の「モモちゃん」であります。八谷さんは『視聴覚交換マシン』を作っていますが、八谷さんの『ThanksTail』という作品は、車を運転していて道を譲られたら、車の後ろにあるしっぽのような形状がピコピコ揺れて「ありがとう」というメッセージを送るというもので、つい最近、これは商品化もされました。画面の右側のものが商品化されたものですが、八谷さん自身は「まだ自分でもお店で(現物を)見ていないのですけれど」と、あるメーリングリストに書いていましたけれど……。こういう活動にも共通している部分があると思います。

それから、例えばMITメディアラボの石井裕さん。石井さんは情報工学の専門家で、以前はNTTにおられたのですが、『ミュージックボトル』など、ヒューマン・インターフェイスについての考察から生まれた作品が《Ars Electronica》に展示されていますよね。そのへんにもデバイスアートとの共通性があるような気がするのですが、そのあたり、いかがでしょうか?

土佐:たしかに同じ「匂い」を感じますよね。

草原:ところが海外に行くと「これはエンターテインメントだから、アートではないのでは?」とか「アーティストが商品を売るなんて何事か!」みたいな意見が、けっこうあったりするでしょう?

土佐:「明和電機」は、もともと商売で始めたので(笑)それはないのですが、《Ars Electronica》に行った時、ほんとうに「明和電機」だけ、商売をしていましたね。ショップで「はい、いらっしゃい!」って明和電機のオモチャを売っていて、そうしたらみなさんもそれに乗ってきて、面白がっていました。逆に僕が質問されたのは「“明和電機”はアートなのか、エンターテインメントなのか? どっちだ!」と訊かれて、非常に困ったのですが。

草原:その「どっちだ?」という質問は、どちらかひとつでなくてはいけないというのが、たぶん西欧的な考え方なのではないかというのが、何ヶ月か前にやったシンポジウムで、あるヨーロッパの人が自己批判的に言っていました。だけど日本人は「どちらでもいいじゃない」とか「両方でいいじゃないか」と思えるような気がするのですが。

土佐:たしかによく「(日本には)芸術はないけれど、芸能はある」と言われますからね。

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