1. 概要
近年,認知科学研究においては画像情報の視覚認知過程の研究が盛んになっている。従来,研究機器,実験技術の制約から,記憶,認知の研究においては文字,単語などの言語材料が圧倒的に多く用いられてきたが,コンピュータを用いた実験が日常化し,複雑な図形刺激が容易に作成できるようになって,絵,幾何学的パタン,無意味図形などを用いた画像の認知,記憶の研究,特に人間の形態認知の研究が増加している。また,こうした人間の形態認知の研究は,画像情報通信技術の開発,改良,とりわけ画像情報を用いたマンマシンインタフェイスの開発にとって非常に重要である。さらに,人工的視覚システムを開発する上での大きな問題点は形態認知などの高次の視覚認知過程の実現であり,人間の形態認知のメカニズムの理解はこの目的の達成のための重要な要素である。しかし,形態認知の分野では色認知の研究のように知覚を支える心理学的構造が明らかにされていないため,研究で用いられる図形は研究者個人の直観によって選択,作成されているのが現状であり,このことが異なる研究間での比較検討,および得られた知見の一般化を妨げている。言語材料を用いた研究においては,文字や単語の出現頻度,類似性,具体性など様々な心理学的要因を調査し,標準化されたデータベースが早くから作成され,研究に用いられてきた。一方,画像材料については,Snodgrass & Vanderwart(1980)の日常的物体の画像のデータセットしか研究で実用化されていない。
一方,最近,新奇で無意味な図形を用いて視覚認知過程を検討する研究が増えている。この動きは視覚認知の研究から人間のボトムアップ的にかなり複雑な形態の処理をしていることが明らかになっていることと関連している。しかし,無意味図形に関しては標準化されたデータベースは一切存在していない。このため,高次形態認知,記憶の研究では,得られた効果のどこまでが一般的でどこまでが刺激セットに固有のものかが議論になってきた。刺激セットの様々な心理特性が不明なため,この議論に明確な結論は与えられず,形態認知研究の進歩を妨げる1つの要因になっている。新奇な無意味図形といえども,人間にとって全く新奇で無意味なものは作り得ないこと(既存の物体との類似性),また新奇図形同士の類似性,新奇図形自体の複雑性などが人間のパフォーマンスに影響を与えることを考慮すると,これらの心理的な変数を定量的に測定し,標準化した新奇図形のデータベースが不可欠である。このようなデータベースは主として心理学実験のための刺激セットとして用いられるが,それ以外に形態認知の理論を構築するための重要な資料を提供すると期待される。図形の幾何学的構造を示す諸指標に加えて,様々な心理的指標を測定することで理論,モデルの妥当性を検証するための材料とすることもできる。
こうした現状を踏まえ,本研究では,類似性,複雑性,有意味性等の心理量を含んだ形態パタンデータベースを作成した。形態パタンとしては心理学研究で特に最近比較的よく用いられる無意味輪郭図形を選び,その心理量と幾何学量を測定した。このデータベースに関して,心理量と幾何学量の関係を体系的に分析した。このようなセットを用いて,異なる研究間での結果の比較を可能にし,画像認知における心理諸変数の効果の定量的測定を行う基盤を形成した。
(1)無意味輪郭図形の心理量を含んだ刺激セット
形態パタンと言っても,その種類は多岐にわたる。ランダムドットから,幾何学パタン,3次元的なスティックパタンから顔図形,日常物体の線画に至るまで全て形態パタンである。考察の範囲を“無意味図形”に限定しても,その自由度は非常に大きい。本研究の最初の課題は,どのようなタイプの形態パタンに対してデータベースを作成するかを決めることであった。
分析する形態パタンの選定にあたっては,以下のような条件を考慮した。
物体認知,視覚記憶,視覚的注意などの高次視覚過程の研究に有用な形態パタンを選定する。これは,この分野において特に標準的な刺激セットの欠如が顕著だからである。
無意味図形ではあっても,外界の典型的な物体が持つ諸特徴をできるだけ保持しているものを選定する。
先行研究において比較的よく用いられているタイプの形態パタンセットを選定する。
図形の持つ幾何学的特徴を定量的に測定しやすいもの,あるいは既によく用いられている指標が存在するものを選定する。
以上の条件を最もよく満たすものとして,無意味輪郭図形を本研究では取り上げることにした。無意味輪郭図形は視覚記憶や正,負のプライミング研究で比較的よく用いられており(条件1,3),無意味ではあっても,閉じた輪郭であるので,外界の実際の物体の2次元空間への射影としてみることができ(条件2),また従来用いられてきた円形度などの幾何学的指標に加えて,フーリエ記述子による幾何学的な記述が可能である(条件4)。
考察の範囲を無意味輪郭図形に限定しても,まだ様々な異なるタイプのセットが生成可能である。例えば,このクラスに属する図形のうちでは無意味多角形が従来比較的よく用いられてきた。また,木の葉,石などの自然物の輪郭を収集し,刺激セットにすることもできる。逆にフーリエ記述子の各周波数成分の係数をある制約のうちでランダムに変動させることで,無意味輪郭図形を生成することも可能である。本研究では,人間に,ある制約のもとでフリーハンドで描かせた図形を材料として用いた。もちろんこの方法で作成した図形が最良ということではなく,今後他の方法で作成した図形セットとの比較検討なども興味深い課題である。人間が描画した図形を用いることにより,我々が“無意味”と考えて作成する図形の無意味性を定量的に評価するなどの発展を考え,今回はこの方法で刺激セットを作成した。
(2)無意味輪郭図形における幾何学量と心理的類似性,心理的複雑性の関係
(1)のような方法で作成した無意味輪郭図形セットに対して,幾何学量と心理量を両方測定し,それらの間の相互関係を分析した。幾何学量としては,従来の形態知覚研究で用いられてきた指標と,フーリエ記述子を算出した。心理量としては図形間の類似性評定と各図形に関する複雑性,対称性,傾き等の心理量を測定した。
この研究から明らかになったことは以下の諸点である。
100個の図形セットに対する類似性評定値をもとに,多次元尺度法により心理学的な類似性空間を導出したところ,3次元でよく表現できることが示された。図形の布置は,1つの次元が図形の全体的な形状を反映し,第2の次元が図形の局所的な凹凸構造を反映している,と解釈可能であった。
各図形のフーリエ記述子を求め,その複素表現の振幅情報をもとにして図形間の類似性を計算して,多次元尺度法により幾何学表現の上での類似性空間を導出した。心理学的な類似性空間と,幾何学的な類似性空間を比較するために正準相関分析を行ったところ,第1,第2正準相関が統計的に有意であった。特に,第1正準相関は高い値であり,それぞれ図形の全体的な形状を反映する軸が対応していた。
複雑性,対称性などの心理的諸特性と,幾何学特性の間の相関関係を分析した。主として,心理学的複雑性と幾何学特性の間には有意な相関関係が認められた。また,フーリエ記述子の振幅情報を用いた指標は,複雑性,滑らかさなどの心理量と有意な相関を持っていた。位相情報を用いた指標はほとんど他の心理量,幾何学量と相関を持たなかったが,唯一,傾きの評定値と有意な相関を持っていた。
全体として,心理量間の相関関係は,フーリエ記述子を用いて作成された少数の刺激セットを用いたCortese & Dyre(1996)に比べてかなり弱いものであった。
100個のフリーハンドで作成された無意味輪郭図形に関して,類似性,複雑性,対称性などの心理量とフーリエ記述子の振幅情報,円形度等の幾何学量の間に様々な有意な関連が見い出された。これらの多くは従来の研究において見い出されていた関係と一貫性を持つものであった。一方,統制された少数の刺激セットを用いた先行研究と比較すると,指標間の関連性はかなり弱かった。この違いは,使っている図形数の違いのみならず,フリーハンドで作成した図形とフーリエ記述子の周波数成分を体系的に変化させて作成したセットの質的な差異を反映している可能性もあり,今後,フーリエ記述子の無意味輪郭図形の幾何学的指標としての妥当性をより詳細に検討していく必要がある。
(3)無意味輪郭図形の連想構造の分析
上述したように無意味図形といっても我々にとって全く何者も連想させないという意味で無意味な図形を作成することは著しく困難である。むしろ,どんなものを見てもそこにある有意味なものを見てしまうのが我々の視覚認知の特徴である。本来無意味であるはずの雲の形が様々な物体に“見えてしまう”経験を考えればこのことは明らかであろう。本研究では,無意味輪郭図形に対する連想反応を収集し,その特徴を分析した。被験者に図形から最初に思い浮かぶ具体物の名前を1つ挙げてもらい,その分布を調べ,すでに調査した幾何学特徴,複雑性などの心理特徴との関係を分析した。また,従来用いられていた連想価,内容価等の単なる連想反応の頻度を反映した指標のほかに,連想反応の分布を反映した連想拡散価という指標を考案し,連想構造を分析した。
その結果,以下のようなことが明らかになった。
無意味多角形を用いた先行研究と比較すると,曲線輪郭を含む本研究では,一般に連想価の値が高くなった。
連想価,内容価と連想拡散価の間に有意な相関は見られたが,その値は0.7程度であり,同じものを測定しているとは言えない。これらの指標は図形の連想性の異なる側面を反映していると考えられる。
連想性の指標と心理的複雑性の値に負の相関があった。すなわち,複雑と知覚される図形ほど具体物を連想しにくい。この関係は先行研究と一致している。
傾きの評定と連想性に負の相関があった。すなわち,傾きがない,正立していると知覚される図形ほど連想性が高かった。
連想価では幾何学特性との有意な相関は見られなかったが,連想拡散度は円形度,周囲長と有意な相関を示した。
無意味図形を用いた連想性の測定はあまりデータが多くないが,今回の結果からは先行研究との類似性,差異両方が観察された。連想の強さと複雑性の関係については先行研究と同様の結果が得られたが,連想価自体は先行研究よりも強い関係性は見られなかった。また,連想拡散価という新たな指標を導入した。この指標は従来の連想価と共通部分もあるが,連想価ではあまり明確にならない周囲長や円形度との有意な相関を示すなど,無意味図形の連想構造に関してより多くの情報を含んでいると考えられる。今後,その特性についてさらなる分析が望まれる。
本研究の主目的であるデータベース作成と関連して,無意味輪郭図形,または類似の無意味図形を用いた様々な心理学実験による研究を行った。これらの実験で用いられた図形は,本研究で作成されたものとは異なるが,今後本研究で明らかになった知見を応用し,無意味輪郭図形のセットを用いた実験,あるいは幾何学量,心理量を統制した上での同様の実験の実施が可能である。具体的には以下のような研究を行った。
無意味輪郭図形を用いて,注意が積極的に向けられていない状況で図形の形態情報がどのように符号化されているのかを負のプライミング法を用いて検討した。両眼視差による奥行きを用いて,重ね図形からの選択図形の選択容易性を操作すると,選択容易性が低い場合にのみ負のプライミングが生じることがわかった。しかし,追加実験の結果,負のプライミングの生起を規定するのは重ね図形における無視図形と,同異判断課題での標準図形の間の選択容易性であることが明らかになった。
無意味輪郭図形を用いて,図形の複雑さと図形の視覚短期記憶特性の関係を実験的に検討した。その結果,先行研究で示唆された“周囲長の2乗と面積の比(P2/A)”のような指標は,複雑性判断や再認成績をそれほどよく説明できず,凹凸数や凸部の長さのような変数のほうが重要である可能性が示唆された。
無意味な2次元パタンを用いて,構造的な形態情報と形態の回転,箭断変換情報がどのように表象されているかを検討した。類似性判断のデータから形態情報と変換情報はほぼ独立の次元として表現されていることが示された。
複数の部分からなる無意味輪郭図形の形態弁別およびカテゴリ学習において,部分間の物理的結合性が有意な効果を持つことがわかった。同一の図形でも部分が物理的に結合している場合は,それらが非常に小さなギャップで分離している場合よりも形態弁別,カテゴリ学習ともに容易になることが明らかになった。
物体知覚と視覚的注意の関係を調べるために,無意味図形を用いた視覚的注意の実験的研究を行った。その中で,先行研究で主張されたアモーダルな補完により群化された図形が,単一物体として機能するという知見が図形の対象性の効果と交絡しており,現時点では分割的注意課題においてアモーダルな補完の効果を説得的に示す証拠はないことを明らかにした。