Kikou YAMATA (1897-1975)

フランス人の女性・文人


キク ヤマタの生涯 (矢島 緑 キクヤマタの時代 1999年)

キク ヤマタ - 山田萄、という日本の名前を持つ女性作家は、日本とフランス、スイスに交互に暮しながら、少からぬ数の著作をのこした。すべて、フランス語で書かれてい る。日本ではキク・ヤマタの仕事は終始無視され、1999年まで日本語訳で刊行されたのは、日本の読者向けにフランスの作家たちの横顔を描いたエッセー集 『パリの作家達』(林孝一訳、1950年)だけである。

十九世紀の終りに日本人とフランス人の国際結婚の家庭に生まれたヤマタは、〈母語)としてフランス語 を維持し、ほとんどつねに、日本と日本人のことを題材にして書き続けた。文筆家としての活動期が二十世紀の中期にあたっていたことが、最初は彼女にはなや かな幸運を、あとでは予期せぬ不幸をもたらした。

キク ヤマタ (フジタ画ー1926)

『マサコ』をはじめ、彼女がフランス語圏の読者に向けて次々に送り出した作品は、日本と いう国家が国際社会に好意をもって迎えられていた時代、そして美術におけるジャポニスムに続いて、日本の文学、文化一般に対しても新鮮な関心が向けられて いた両大戦間期には、歓迎され、愛され、賛辞をあびた。しかし戦争は、混血の女性作家の運命を狂わせずにはいなかった。ヒットラーのドイツと結び、好戦的 な性格を急速にあらわにして行く極東の国は、フランス語圏の読者にとってあこがれの村象どころではなくなった。そして偶然、まさに第二次大戦中、スイス人 の夫とともに日本に居合せたキク・ヤマタは、特高の嫌疑をうけて逮捕され、二カ月間拘留された。その体験のなかで彼女は、自分がそれまで愛着をもって語り 続けてきた優美な日本のもうひとつの貌に偏狭で、凶暴な、恐ろしい貌に、まともに出会ったのである。

戦火がやみ、日本がふたたび国際社会に復帰したとき、ヤマタにとっては返り咲きの季節が訪れたかにみ えた。彼女はまた、フランス語で、日本について書くことを求められた。しかし戦時中の深い幻滅は心に消えぬまま、彼女は年老い、生活に疲れていた。戦争を はさんで、パリの文壇も、読者も変っていた。さらに戦後には、彼女よりも正確に日本語を読みこなし、日本の歴史と文化についてより体系的な、充実した知識 を持つ新しい世代の研究者や翻訳者たちが育っていた。

戦後の一時期、『麗しき夫人』をはじめ自分が知っていた古きよき日本への挽歌といえる 作品をいくつか書いたあとは、キク・ヤマタは急速に変る時代からとり残されて行く。(国際交流)がたからかにうたわれるなかで、戦前にはそのさきがけとし て活躍した人は、スイスで貧しく、さびしい晩年を送り、老人性痴呆になって、ひつそりと死んだ。そして忘れられた。

リヨン・東京・パリ

キク・ヤマタは1897年3月15日、リヨンで、当時日本領事だった長崎出身の山田忠澄を父に、リヨンの庶民階層の出であるマ ルグリツトを母に生れた。ひとつ違いの妹の花、五つ違いの弟の順太がいた。忠澄が本省勤務を命じられたため、1908年(明治41)、一家の暮しは東京に 移る。

キク・ヤマタにとっての〈母語)は、一貫してフランス語だった。日本語の能力は日常会話にはさしっかえない程度には身につけたものの、読むことと、特に 書くことにおいては、フランス語のみに頼った。国際結婚の家庭に生れ、フランスで五年たらずの間初等教育を受けたという条件だけでなく、そこには父親と彼 女自身の選択が強く働いていたと思う。山田忠澄は明治初期の留学生として渡仏し、名門の工業学校であるリヨンのラ・マルティニェール校で応用化学を専攻し たあと、同市に開設されたばかりの日本領事館に入った。やがて領事に昇進し、留学生時代から数えて通算三十年間をリヨンで過した。

家庭内での会話は、リヨン時代ばかりでなく、日本に来てからもフランス語だった。母親のマルグリツトは家にいることの好きな、保守的な生活態度のひと で、異文化に進んでなじもうとはしなかったし、それにいわば〈今浦島)の忠澄の方も、激変した環境のなかで、せめて家庭においてはなつかしいフランスの小 宇宙を護り続けたかったのだろう。

日本での中等教育は父親の方針によって、妹とともに、帰国子女や外国人のために開校したばかりだったカトリック系の聖心女子学院内の(語学校)で受け る。在学中にキクは受洗した。英語が主で、フランス語は従の授業だったが、東京で職を得るためには欠かせない英語を修得できたのは、彼女にとって大いに利 となった。忠澄が投機に手を出して失敗したのが山田家の家計にひびき、ハイティーンだった長女は卒業してすぐに働くことを求められたのである。仕事は米国 のAP通信社東京支局長の秘書だった。外交官の令嬢が(職業夫人)の道を選んだという点で、キク・ヤマタは日本での先駆者のひとりでもあった。

本省では不遇に終った父、忠澄が胃ガンで世を去り、仲のいい美人の妹の花が富裕な家に嫁いだあと、1923年春、二十六歳になったキクは母親とともに、 パリに向った。

パリで彼女はまず、知人の紹介状をたよりに、両大戦間期に最後のはなやかさを競い合っていた文学サロンをたずねる。ミユールフエルド夫人、ラ・ロシユ フーコー公爵大人、フエルス伯爵夫人等、冨と才気を兼ねそなえた女主人たちのもとに多勢の作家や詩人たちが集り、プティ・フールをつまみながら知的な会話 を交していた。派手な意匠のキモノ姿で登場し、乞われれば活花や日本舞踊さえ披露できる小さな〈ムスメ)の登場に、人びとは目を見張った。しかもピエー ル・ロティが自分とは別世界に生きている女として、差別の視線を隠さずに描いた(お菊さん)とは異り、このものおじしない娘は、菊という同じ名前を名乗り ながらもフランス語を自由にあやつり、フランス文学にも通じているのだった。彼女が〈ラ・ジャポネーズ(日本の女))と呼ばれて、いくつかのサロンの常連 としてうけいれられるまでに、時間はかからなかった。もの珍しさからだけとは思われない。彼女の気取らない、素直な性格も、好感をもたれたのだろう。

サロンで彼女はあこがれのジツドに、そして女主人たちから格別の敬意をうけていたヴアレリーに出会った。稚い筆で日本の詩歌や昔話を翻訳して編んだ Sur des Levres Japonaises, 1924(『日本人の唇の上に』)にヴァレリーは書簡体の序文を寄せてくれ、それがキクのパリでの最初の出版となった。

『マサコ』

大詩人の後楯を得て文筆業の第一歩を踏み出したヤマタは、小説 Masako『マサコ』を持ち 込んだ出版社ドウラマン・エ・プトウロー(のちにストック社となる)でも、予期せぬ幸運に めぐまれた。同社の共同経営者だった小説家シヤルドンヌはこの小品を一読して気に入り、契約が成立すると、早口の質問をあびせかけながら〈ラ・ジャポネー ズ)のフランス語を推敲してくれたのだった。

「鉛筆というよりむしろメスを手にしたような」作家兼出版者は、原稿を一枚一枚めくりながら、容赦なく指摘したという。このきびしい調教をうけたヤマタは 「フランス語では正確に表現された明快な思想が必要だということを覚った」と回想している。父親と、そして自分自身とが選んだ(母語)の、晴れがましい再 確認だった。

その後さらに一年がかりで、〈ファントマ)というよび名だけ知らされ、キクには姿を見せない校閲者が、シヤルドンヌに替って原稿に手を入れた。『マ サコ』は校閲者と作者のあいだを何回となく行き来した上で、完全主義者のシヤルドンヌの「まずまず出来上っている」ということばを待ってから、 1925年に刊行された。

『マサコ』は単純な物語を繊細な簡潔さで語った、愛らしい小 品である。大正時代の東京の上層中産階級の娘が、お見合で好青年にめぐり合い、二人のあいだに愛情が育つ。恋愛と結婚は別のこと、と主張する旧弊な伯母た ちの横槍が入って一時は仲をさかれるが、波瀾の末に、めでたく、名栗の里で、古風な結婚式をあげる。

西洋人にとって日本の代表的な記号となっていた浮世絵の美女の永遠に静止した姿ではなく、はるかな東方の異境においてたしかに生き、愛する対象を求めて心 を疼かせている娘がいた。ひとりの日本女性と彼女が置かれた環境を描写しながら、西洋人の紋切り型の日本観にも、また一方では日本的な表現の伝統に束縛さ れることなくマサコがみずみずしく生れ出たのは、作者がフランス語を母語として日本社会の周縁に生きていたひとだったからにほかならない。

『マサコ』 は書評で讃辞をあびた。文壇の大御所の詩人、アンリ・ドウ・レニェはその「味わい深いレアリスムと繊細な詩想」を評価し、フランス語については「キク・ヤ マタ嬢はわれわれの言語をたくみに我が者のとして使いこなしている。彼女はすぐれたフランス作家である」(フィガロ紙、1925年5月27日)と太鼓判を 捺した。日本の(ハイカイ=俳詣)に擬っていた詩人のひとり、ルネ・モーブランは、極東の文化に着いて知ることの少い読者のために日本人の心性を解説しな がら、長文の書評を書いてくれた(『N・R・F』誌、1925年10月)。

『マサコ』は三重の教えを理解していた。神道は彼女に典礼と礼節をまもること、祖先を祀ることを教えた。仏教は憐れみと善性を、儒教は気力 を教えた。この三通りの薫陶のうちどれひとつとして、われわれの諸宗教がそうするようには、彼女を自然から遠ざけることはなかった.....」。そうした 心性の「色褪せぬ生地」の上に美しいぬいとりをしたヤマタ嬢は、「魅力的なフランスの小説のかたちで、われわれに日本の心をゆたかに呈示してくれる」と モープランは結論する。

1920年代は『マサコ』の登場にふさわしい時期だった。国家としての日本は第一次大戦では連合国の一員として戦い、後は英仏の要請に応じ て、『マサコ』のなかにも間接的に出てくるように(シベリア出兵)に参加し、国際社会において次第に目に見える存在となっていた。

キク ヤマタ (メイリ画ー1933)

大戦以前の著作

文化の面でも、十九世紀後半の美術・工芸におけるジャポニスムのあと、第二波として、文学におけるジャポニスムともいうべき傾 向が生れていた。『マサコ』の刊行と同じ二五年にはアーサー・ウエーリーの英訳『源氏物語』の出版がはじまり、フランスでも知識人の注目を 惹いていたはずである。大半はそのウェーリー訳を下敷にしたヤマタ自身のフランス語による部分訳『源氏』(Le Roman de Genji) が世に出るのは1928年。 同時期の文芸ジャーナリズムでは、駐日大使の任にあった(1921から26年)クローデルが能や石庭をはじめ、日本の伝統文 化について語っているインタヴユーやエッセ-が目を惹く。詩人大使の独自の日本文化論は、27年に『朝日の中の黒い鳥』に集成された。

『マサコ』のあとはエッセ-や翻訳の仕事が続いているが、Les Huits Renommees, 1927(『八景』)では、日本の風物詩といった内容の彼女の文章に沿って藤田のスケッチが四十七枚入ってお り、ふたりの共作に近い。ヤマタには新聞・雑誌への寄稿や、パリだけでなくフランスの地方やスイスヘの講演旅行の機会もふえ、ドウラマン・エ・ブトウロー以外の出版社からも単行 本執筆の依頼を受けるようになった。

フランスに初めていけばなを紹介したキク ヤマタ

(ポール・ゴビ ヤル画ー1930)

ガリマール社から伝記叢書の一冊に乃木大将を、と注文を受けたとき、彼女は材料をあつめに二九年春から一年間、日本に 戻っている。この一時帰国の成果が La Vie du General Nogi(『乃木将軍の生涯』)となって出る前に、シヤルドンヌのドウラマン・エ・ブトウロー社から日本再見のル ポルタージュ Japon Derniere Heure『日本の最新事情』と小説第二作 La Trame au Milan d'Or『金鶉の緯』が 30年に相次いで刊行されている。講演族行で知り合ったスイス人画家、コンラッド・メイリと32年初夏に結婚した。

戦時中の日本で

日本は満州事変のあと大陸に居座り、やがて国際連盟を脱退して、狂信的な国家主義と軍国主義の道を突き進む。身近に迫りつつあったヒットラーのファシズム の脅威と合せて、フランスではそれまでなごやかな視線で遠く眺めていたミカドの国に対する警戒心と反感が生じてきた。ヤマタの主題の選び方も、この時期と して適切とはいえなかった。伝記『乃木将軍』はもとより、第一次大戦後のフランス留学生である日本人青年の一人称形式で書かれた『金鶉の 緯』もまた、(武士の日本)を強調していた。タズミという主人公の名前はすぐにキクの父親、忠澄を思い起させる。 続いて小説第三作毒、Mille coeurs en Chine(『中国へ千の心を』)も書き上げられていたが、シヤルドンヌは出版を渋り、この作品は第二次大戦 後まで陽の目を見ぬままだった。無理もなかった。日本の娘と中国の志士との結婚、その志士と娘の兄との友情を主軸に、この小説は歌舞伎めいた大時代な趣向 さえまじえながら(日中協調)をうたいあげ、つまりは日本の大陸侵攻を肯定している印象を与えたのである。パリで日本を代表する存在と見られるに至ったキ ク・ヤマタであったが、1930年代が進むにつれ、文学サロンでは「ほら、戦争キクだ」という悪意あることばで迎えられ、なじみのストック社にさえ敬遠さ れる事態になっていたのにもかかわらず。

(ラ・ジャポネーズ〉がいだいていた理想像が決定的に瓦解したのは、戦時期の日本においてだった。国際文化振興会から招待をうけたヤマタは夫とともに 1939年(昭和14)、欧州で第二次大戦の戦端が開かれる直前に日本に向けて出発し、そのまま滞在を余儀なくされた。妹と弟それぞれの住居にも近い鎌倉 の長谷に借りた日本家屋で、国籍としては中立国スイス人である夫妻は、送還、軟禁、強制収容の措置もうけずに、太平洋戦争の開戦から日本の敗戦、そして占 領期を入れてほぼ十年間を、日本人と一緒に体験した。

「出版者への手紙」中の特高による検挙は、43年(昭和18)11月のことだった。夫のメイリはモデルに対する(強姦未遂)の言いがかりで鎌倉署に四十日 間、留置された。一方、横浜臨港警察署に連行されたヤマタは通訳付きで根掘り葉掘り訊問をうけ、留置場生活は三カ月に及んだ。その体験記である「独房に て」は、タイプ用紙五十枚の草稿で残されている。

それによると、特高の標的は前年に刊行されていたAu Pays de la Reine『女王の国で』は「日本文化と女性の研究」という副題が示す通り、日本史をたどりながら文化の形成と伝統の 椎持に女性が果した役割について述べている。当初は主としてアジアのフランス語圏向けに、国際文化振興会による宣伝活動の一環として企画されたのだろう が、結局はハノイでの民間出版となった。

結局キクは、皇室に対する敬意等を確認した〈手記)を書かされてから、おそらく起訴猶予となって釈放された。

「独房にて」にはフランス語の読者に向けての配慮からか、肉体的な拷問の記述はいっさいない。しかし披女がうけた精神的な拷問は、残酷だった。取調べのな かで刑事は「お前が一番好きなのは、どこの国なんだ?」とたずねたのである。

反射的に「フランス」の名が彼女のロをつき、「日本」は二番目にしか、出て来なかった。自分が分ち難く愛していた二つの(くに)、かつてヴアレリーが 「菊お嬢さん」のなかに見出してよびかけてくれた二つの(くに)が、戦時においては相容れない二つの(国家)となり、忠誠という名でその帰属が問われるこ とを、彼女は五十に近い年ごろになって思い知らされたのである。

戦後、新たな日本ブーム

1945年春、懐しいヨーロッパに帰ってから(ラ・ジャポネーズ〉が生計をたてるためには、やはり、失望とともにあとにして来 た日本について書くよりほかなかった。メイリの絵は売れず−というより、売ろうともしない画家だった。パリでアパルトマン暮しをしていた時期もあったよう だが、やがてスイスのジユネーヴ郊外の小さな村、アニェールに借りた田舎家が、ふたりの本拠となった。

皮肉なことに、51年のヴエネツィア映画祭での黒沢明監督『羅生門』のグラン・プリ受賞をきつかけに、新たな日本ブームが起った。黒沢に続いて溝口健二、 衣笠貞之助の作品が同じくヴエネツィアで、あるいほカンヌで受賞し、敗戦国日本が映画で示した創造のエネルギーに対する驚きは、文化の他の分野への関心の よび水となった。日仏関係で第三波のジャポニスムともいえる時期が来る。キク・ヤマタは1920年代の「マサコ」のころ耳にしたせりふを、 ふたたび、編集者たちから聞くようになった。「日本のことなら何でもいいから、書いて下さい」「麗しき夫人」はこうした雰囲気のなかで生れた。同じ53年 には Trois Geishas(『三人の芸者』)が、56年には母マルグリットをモデルに国際結婚の家庭を描いたLe Mois sans Dieux(『神無月』)が刊行された。日中戦争が拡大しつつあった当時シヤルドンヌが出版を押えた『中 国に千の心を』さえ、世に出る機会を得た。

このなかでとぴぬけた売れ行きを示したのは、旧稿に手を加えたノン・フィクション『三人の芸者』である。唐人お吉、桂太郎の愛人だったお 鯉、(手なし芸者)妻吉それぞれの生涯の叙述は、フランス語圏の大衆のゲイシヤに対する好奇心にこたえたばかりか、三年後に英訳が出ると、キクはカリフォ ルニア州の海辺からファン・レターというのに近い、熱心な手紙をたびたびもらうようになる。差出し人の名はへンリー・ミラーだった。

キク ヤマタ (メイリ画ー1953)

『麗しき夫人』

作家としてのヤマタの幸運は、一時彼女にとって「日本のあらゆるもの」を死灰のように蔽っていた幻滅を生き延びて、『麗 しき夫人』を53年に完成できたことだろう。『マサコ』のういういしさと対照的に、ここには、さまざまな喪失の記憶をふくめて、実 人生における長い時間の体験を積んできたひとの眠が生きている。いまでは彼女は幻想による粉飾も、希望にもとづく反転もなしに、リアリスティツクにひとり の女性の生と死を眺めている。

後年、ヤマタヘの追悼文のなかで『麗しき夫人』について「美しくととのい、同時に胸をえぐらずにはおかない小説」(『両世界評論』誌、 1977年3月)とその印象を語っているかつてのヤマタの庇護者、エドウメ・ドウ・ラ・ロシェフーコー夫人は、53年、自分が審査員をしていたフエミナ賞 の候補にこの作品を推してくれたが、成均しなかった。その代り早くも翌年にはパール・パックの序文付きの英訳 Lady of Beauty が出て、主要な新聞や雑誌の書評がいっせいにとりあげているのが注目される。

「日本人は最高のお茶であれば、そこに使われた水の味も味わえるという。麗しき夫人は文学におけるそうしたお茶の一服である」(『タイム』誌、1953年 8月30日)「部分的にはどこにでも見られる守旧派の話だが、キク・ヤマタによって語られると、全くの日本の話となる。その国籍にもかかわらず、彼女は距 離を置いた書きかたをとることができる[このあとに彼女の生い立ちの紹介が続く…とはいえ、この肖像画を完全に西洋的な基準で判断するのは不当である。 パール・バックが序文に書いているように、美しいノブコの話は『進んで魅惑されたいと思う』人たちによって読まれるべきなのだ」(『ニューヨーク・タイム ズ』紙、同8月23日)

戦勝国の読者たちは、占領によって身近に感じられるようになった日本の内部からの心情吐露を、心待ちにしていたのだろう。フランス語で書かれた作品の英 訳には時間はかからず、「戦争の結果避け難かった彼女(ノブコ)の国と彼女の暮しかたの敗北を象徴する話」(同)は、すぐに英語圏にも届いたのだった。

1957年、六十歳になったキク・ヤマタにフランスはレジョン・ドヌールの栄誉を与えた。その二年後、やはりラ・ロシユフーコー夫人が会長を していた「文芸の友」会の賞が、全作品を対象に贈られた。ヤマタの母語の国と文芸界は、彼女のなし遂げた仕事を、正式に認めてくれたのである。

このあとの彼女の主な仕事は、『神無月』以外には注目すべき創作はなく、谷崎潤一郎の『蘆刈』『春琴抄』、 大沸次郎の『帰郷』と、日本の現代文学の翻訳になる。

次第に書けなくなった作家と売る気のない画家の老夫妻は、レマン湖畔の静かな風景のなかで、貧しい生活に耐えていた。キクには老人性痴呆の症状が出始 め、65年春メイリに先立たれたときには、もうひとり暮しはできない状態だった。周囲の人びとの助けでジユネーヴ州立のベレール精神医学療養所に収容さ れ、75年3月12日、七十七歳の生涯を終えた。

アニエール村の墓地にある墓には、「キク・ヤマタ 文人 −八九七−一九七五」ときざまれている。キクの頭がまだはっきりしていたころ、自分の墓碑銘は こうしてほしいと、友人に頼んだものである。(文人)femme de lettresという名乗りは、晩年に世間から見捨てられた思いのキク・ヤマタにとって、誇りある支えになっていたのだろう。 一九九八年、ヤマタの生地 であるリヨン市フォッシユ通り五番地の建物に記念プレートが掲げられ、その上には、同じ〈文人)の肩書とともに、両親の名前もしるされた。(フランスにお ける日本年)の記念行事の一環として、リヨンは公式に、日本人の父をもち、リヨンの女性である母のことばで書き続けた女性作家の名を、街にとどめてくれた のである。

Lyon市のMaréchal Foch通りで

キクの お墓 - アニエール村

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