連盟の歩み

連盟設立状況と現在までの歩み

①連盟設立の経緯

剣道の歴史には、太平洋戦争の敗戦によって、米軍の軍政下において、剣道禁止が発令され一時期出来ない時があった。

その後、昭和23年に剣道は撓競技として認められ、この尼崎でも市村貞三範士とそのご子息の

市村友一氏、それに古賀恒吉範士らが中心となり「曉競技は将来は剣道の復活になるだろう」と決意をされ、同好の士を求めると共に市内の実業界にも働きかけた結果、最初に寺本和一郎市会議員の同意を得たほか、同好の士として大竹敏三郎氏、田河茂男氏、大岸寛氏らが馳せ参じて、尼崎市撓競技協会結成の準備が進められた。その後においても、諸先生達の寝食を忘れての努力の甲斐あって、旧尼崎中央警察署の道場を借りての稽古が始められるに至った。

また、「中央警察署での稽古はならぬ」との指令が出て、中止となった後も、阪神尼崎駅北側の空き地を利用して稽古が続けられ来たという経過があって、各界の協力者も増え、加えて尼崎港運株式会社社長鴻池勝治氏の会長就任を得たことから昭和25年に尼崎市撓競技協会、

尼崎市剣道協会(現尼崎市剣道連盟)を設立した。同時に尼崎市体育協会に加盟した。

②道場使用の変遷

連盟は、組織の基盤とも言える道場建設を目指す一方、現在の尼崎市青少年体育道場を稽古の本拠地とするまでには、旧尼崎中央警察署の

連盟が管理して稽古が出来た時期はあったが各種の事情と平成7年1月の震災なども重なって、述べ7度にわたって稽古場の移動を

余儀なくされて来た歴史がある。

現在の道場を使用するに至ったことも、歴代の会長、理事長をはじめ諸先生方が尽力されてきたお陰であることを我々は忘れてはならない。

③少年剣道研修会発足と活動

連盟の連盟たる組織化に向けた第一歩が少年団体の統一であった。北川嘉秀氏、事務方の鈴木貫一氏及び少年団体選出の指導者理事が各団体

への説明、働きかけを重ねて、昭和56年に尼崎市少年剣道研修会を発足し、第1回少年剣道大会を開催した。

以後、研修会は定期的稽古会の開催、連盟全体の組織化等の活動を行って来た。

そして、平成4年の第12回大会をもって、連盟組織化のため発展的に解消した。

④団体登録制度発足による連盟組織の確立

昭和61年、少年剣道研修会は、剣道青少年協会(8団体)、尼崎市スポーツ少年団(8団体)のほか、フリーであった12団体を

尼崎市夾竹桃剣友会として発足し、尼崎市剣道連盟の元に統一して組織化を図った。

少年団体に続き、連盟はこれまで個人会員制による愛好会的な会の運営を改め、平成5年に、団体登録制に移行し、一般団体、高等学校、

中学校、少年団体等に呼びかけて、団体登録を募集し、その登録会費で会を運営する本来の連盟としての組織体制を確立した。

従って、今までの個人会員は、連盟道場会会員として連盟の傘下に入ることになった。

この連盟確立への組織化と若手役員の登用には、当時の安田勝会長、戸田誠理事長、田中聡副理事長、藤田巧事務局長及び作久間粂夫顧問ら

による大きな力添えがあって実現したものである。