江戸時代、享保13年(1728年)中国商人が2頭の象を長崎に持ち込み、八代将軍吉宗に献上することとなり遥かなる江戸へ向かいます。
京都では「広南従四位白象」と叙任され天皇に拝謁しました。
その後、京都を出発し中山道垂井宿から美濃路に入り揖斐川(佐渡川)=長良川(墨俣川)=境川(小熊川)を渡り最大の難所である木曽川(起川)を渡り起の宿場に入りました。
長良川では象船に乗ろうとしない象を無理やり乗せようとした際、象が暴れたという失敗があり、木曽川では象使いが「てんてんほんほん」と掛け声をかけ、象は落ち着いて乗船することができ、無事に木曽川を渡りました。
起宿には本陣がおかれ宿泊先となりました。前もっての尾張藩作事奉行が検分の結果、起宿には本陣の敷地内に象小屋が新設されていました。
象が宿泊する起の宿場は驚くほど静かでした。象が音に敏感であるというので、音を出す商売はもちろん家の普請の音、はては社寺から出る音も禁止されたのでした。見物の人も道路から10m離れて大声や高笑いをしないとしました。また、象が宿泊する本陣も火事の心配から、食事の賄い所は長屋に設け、そこから運び込むようにし、湯なども隣家から運びました。
起の宿場で一晩を過ごした象一行は、翌朝、萩原に向けて出発しました。
行列には、起村のみならず起宿を支えていた東、西の五城、小信、富田の各村の庄屋たちが同道したのです。
行列する象のために、道筋のほぼ100メートごとに水を入れた手桶が用意されていました。行列の
途中で象が暴れると困るので、牛や馬は姿や声が聞こえないように道から遠ざけられました。
しかし、街道ははじめて見る世紀の珍獣を一目見ようとする人であふれました。近郷近在から噂を聞いた人が朝早くから場所取りして並んでいたようです。そして、行列は永遠と続く人垣の中を進み江戸へ向かいました。