弓町本郷教会週報付録
【 真砂坂上十字の路から 】
(まさごさかうえ じゅうじの みち から)
弓町本郷教会週報付録
【 真砂坂上十字の路から 】
(まさごさかうえ じゅうじの みち から)
【2026年2月1日発行】
「手袋をはく」
西岡裕芳牧師
寒さ厳しい時が続いているので、防寒対策として外出時にはマフラー、手袋をするようにしています。手袋をつけていて、ふと思い出しました。以前暮らした北海道では「手袋をはく」という言い方をしていました。「靴をはく」のと同じように、北海道では手袋もはくのです。変わった言い方ですが、北海道にいるとそれが自然に感じられるから不思議です。
ところで、「手袋をはく」は、青森や香川でも使われていると言います。どうやら、もともとは香川の言葉らしいのです。日本ではかつては手につけるのは手甲で、手を全面的に覆う手袋は明治以降に入ってきた、そして手靴とも呼ばれていたのだそうです。香川はその手袋の一大産地です。そこで、「はく」という言い方が生まれたというのは自然です。また、明治期に、香川から北海道にわたる人々の中で、青森に集合した人が多かったのだそうです。それで香川の方言が北海道、そして経由地の青森にも定着したというのです。面白いですね。本日の説教者、武井さおり牧師は香川県出身で最初の任地は札幌でした。やっぱり手袋ははくのでしょうね。
さて鬼形牧師は愛媛、わたしは高知の出身、四国四県のうち三県が揃いました。ただ風土の違いからか四県の県民性は随分違うと言われます。愛媛は温和で勤勉、香川は緻密・合理的で協調的などと。瀬戸内側は気候が穏やかで降水量が少なく、香川は水資源の計画的な分配が必要で、それが県民性になったとも。対照的に高知は太平洋側で、水に苦労せず勝手きままができるかわりに台風で作物が一晩でダメになることも多く、人の干渉を嫌って頑固、なのにあきらめが早く、白黒はっきりしているのだとか。その典型が「いごっそう」です。。。県民性なんてあてになりませんねえ
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【先週(2026年1月25日)の説教要旨】
「同じ釜のめし」
マルコによる福音書14章10-26節
西岡裕芳牧師
一同席について過越の食事をしていたとき、イエスは言った。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」 すべてのことは、すでに決まっていたこと、いや神が定めていたこととしてイエスは語る。
しかし、人間が主体的に動く余地が残されていないのではない。捕らえられて殺されることはもう間違いない。だが、イエスは、愛する弟子の一人であるユダが、裏切りの役回りを演じてほしくはなかったのだ。
イエスはユダの名前を出していない。しかしユダにはわかったはずだ。あなたとわたしは一緒に食事をするような親しい仲間ではないか、思い直せ、という言葉にならない訴えかけが。
過越の食事の途中、「主の晩餐」にユダが同席していたどうかはわからない。明らかなことは、イエスはユダに出て行くようにと、はっきりとは言わなかったということである。後の教会の人々は、聖餐すなわち礼拝をささげる度に、ユダと変わらない自分たちもイエスに招かれていることに感謝してこれに応えた。そして、やり直すことができる、と希望を得た。
イエスはまた「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」と言った。世の終わり、神の国が地に完成する時、イエスは祝いの食卓を準備して神の民を招く。今、わたしたちが招かれているこの食卓=この礼拝は、来るべき神の国の宴の先取りである。来るべき時には、イエスの姿を間近にはっきりと見ながら、真の喜びのうちに祝いの宴につく。これこそは昔から定められていたこと、ずっと先まで決まっていることである。
【2026年1月25日発行】副牧師室 園庭の見える窓から
Ⅻ ゴッホ展
鬼形惠子牧師
最近ゴッホの美術展が多く開催されているように思います。私は、昨年2つの美術展を見に行きました。一つは箱根のポーラ美術館で行われた「ゴッホ・インパクトー生成する情熱」で、もう一つは東京都美術館で行われた「ゴッホ展―家族がつないだ画家の夢」です。2024年に寺田倉庫ビルで行われたデジタルアート展覧会の「ゴッホ・アライブ」も印象的でした。特別ゴッホだけが好きなわけではないのですが、その会だけに展示される作品があると聞くとつい行きたくなります。今年は「大ゴッホ展 夜のカフェテラス」が上野の森美術館で5月から開催されます。「夜のカフェテラス」は好きな作品なので、楽しみにしています。
絵を見るのが好きになったのは、高校生の頃先輩に誘われて美術部に入ったのがきっかけです。下手ながら油絵と水彩画を描いていました。数年前にまた挑戦したいと思い、水彩絵の具とスケッチブックを買ったのですが、いまだ手をつけてなくて。今年は描いてみたいと思っています。
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【先週(2026年1月18日)の説教要旨】
「生き方への問い」
マルコによる福音書10章17-22節
西岡裕芳牧師
イエスのもとに一人の青年がやってきた。この青年のことはマルコ、ルカ、マタイの3つの福音書に伝えられている。それによると、この人は若い男性で金持ちであり議員でもあった。当時は親の職業を継ぐのが一般的なので、もともと裕福で地位の高い家庭に生まれたのだろう。青年はイエスに「永遠の命を受け継ぐには何をすれば良いでしょうか」と質問した。神の御心にかなう生き方をするにはどうすればいいかと問うたのだ。やり取りの中で、イエスは青年を見つめ慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい。」このイエスの言葉は、あと一つ何かを加えれば良いというものではなかった。今持っている財産や地位をすべて捨てる、それは今の生き方を捨てるという事である。生き方の方向を大きく変えて、わたしに従いなさいと言われたのだ。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。
この青年は子どもの頃から親に従い、良いものをたくさん身に着けて生きてきた。しかし今、自分には何か欠けているのではないかと思い始めた。いつも周りにいる大人に相談しても満たされないものを感じて、イエスに相談に来たのだ。イエスは旅に出かけるところだったが、引き留めてでも相談したいという強い思いが青年にはあった。イエスも若者らしいまっすぐな思いを感じ取り、真剣に向き合った。投げかけた言葉は厳しいものだったが、愛をもってかけた言葉だった。親の敷いたレールをそのまま歩んできた青年に、自分の生き方を主体的に考え続けることを投げかけたのではないだろうか。またこれまでにたくさんのものを獲得し、あと何を手に入れれば満たされるのか?と問いかけてきた青年に、その手を放すように伝えた。自分だけのものにしてきた多くのものを手放し、捨てること、そして他者と分かち合って生きることを示した。分かち合うことで損をするのではなく、むしろ豊かになる生き方があることを伝えたのだ。青年は悲しんで立ち去るが、それからもイエスの言葉の意味を考え続けただろう。イエスのもとにやって来た時から、この青年は新しい生き方の一歩をスタートしていたと思うからだ。立ち去ってしまうが、イエスにとってもこの若者との出会いは印象に残るものだったのではないだろうか。
イエスの言葉は、私たちにも向けられている。若い世代だけでなく、いくつになっても、私たちは自分の生き方を問いながら生きているのではないだろうか。聖書の青年と同じように、私たちも自分のものを手放すのは簡単ではない。そんな時イエスは「天に富を積みなさい。わたしに従いなさい」と言われる。天に富を積むというのは、自分のよりどころを天に置くということである。自分の存在の根拠を自分が獲得してきたものではなく、神に求めることである。自分の力ではなく神によって生かされていることを謙虚に受け止め、与えられたものを他者と分かち合って生きることの平安と豊かさをイエスは示された。
どう生きるのか?私たちも、主イエスの言葉を聞きながら考え続け、歩んでいきたいと思う。
【2026年1月18日発行】
「プロフェッショナル 仕事の流儀」
西岡裕芳牧師
午前9時15分の開始時間から、まるで号砲一発猛ダッシュでした。鍛え上げられた腕と強靭な足腰はアスリートそのもの。まさかの2〜3個持ちで、駆けるがごとき足取りで階段をリズミカルに降りると、すぐさま折り返し、休む間もなく次にとりかかる。眼前に積み上げられた100個のダンボール箱は瞬く間に姿を消し、部屋は伽藍洞になりました。午前9時50分終了。記録 35分と19.2秒(西岡調べ)。ちなみに作業員はたった3人。
先週月曜日、牧師室の書籍の引越を行いました。小石川の仮住まいと分けて、こちらの引越を年明け早々に行うことにしたのは、いずれにしても荷物は2箇所から出さねばならず、それなら執務室の本だけは繁忙期前に運んだ方が安いし、2箇所からの引越を一日で行って、引越先が書物の箱で溢れて片付けが進まなくなる事態は避けたいと考えたからです。
それにしても引越業者の運び出しの早さと言ったら。実は、ダンボール箱に書籍を詰める作業は、年末から年始にかけて、あらかじめ自分で行ったのです。何時間も何日もかかったのです。それに本は要するに木でできているので、一つ一つのダンボール箱の重さときたら半端ではない。それを軽々と3箱重ねて運び出すとは、引越屋さんの体力と技術に脱帽します。
次は3月、小石川の仮住まいからの引越となります。こちらも何社か見積もりをとりました。業者曰く「物量多めですね」。言われなくてもわかってます。こちらにも50箱分の本があり、他にもガラクタだらけなのです。
今、牧師室は本と書棚がなくなって、見たことないほどすっきりしています。新牧師館の内覧もよいですが、今のうちに牧師室も見学においでください。牧師がどんなところで仕事しているかがよくわかりますよ。
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【先週(2026年1月11日)の説教要旨】
「香油と愛と死と」
マルコによる福音書14章1-9節
西岡裕芳牧師
緊迫感が漂っている。祭司長たちや律法学者たちはイエスを捕らえて殺そうと考えていた。イエス自身、自分に死が迫っていることを知っていた。
イエスはエルサレム郊外のベタニア村にいた。そこで忘れられないことが起こる。食卓につくイエスに女が近寄り、壺に入ったナルドの香油を全量注ぎかけた。弟子たちは、香油を無駄遣いした、300デナリオン以上に売って貧しい人々に施すことができたのに、と憤る。しかしイエスは「するままにさせておきなさい」と受け入れた。イエスに残された時はわずかであること、そしてイエスの気持ちがこの女にはわかったのだ。だからこの時を用いてできる限りのことをしようとしたのだ。そんなことがあってはならないと、イエスの死を受け入れない弟子たちとは対照的である。
女はイエスこそがメシア(=油注がれた者)であると信じた。それを示すために油を注いだ。イエスは、この女の思いがよくわかったのだ。そして、女の行為について「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と意味づけた。かの地方では、埋葬のために死体に香油を塗る習慣がある。もうすぐ地上を去るわたしの埋葬の準備をしてくれた、ありがとう、と。
女の行動は型破りであったが、そもそもイエスの行動は型破りであった。殺されるとわかっていて逃げなかった。そして、香油と比べものにならないほど高価な神の子の生命を、自分を憎む人々への愛のために用いた。
イエスを十字架に向かわせたのは憎む人々ではない。香油を注ぎ、愛を示して寄り添ったこの女である。その愛に励まされ、イエスは十字架に向かった。女の行動はイエスの心を動かしわたしたちの心を揺さぶり続ける。
【2026年1月11日発行】
「プロフェッショナル 仕事の流儀」
西岡裕芳牧師
福岡女学院教会で会議があると、帰りに近くのスーパーマーケット「D」で買い物しました。昔ながらのローカル・スーパーで、いろんなものが安く買えました。特に惣菜コーナーは、美味しいと人気でした。ある日、福岡のローカル番組で、全国お惣菜大賞に選ばれたと報じていて驚きました。
その惣菜を作ったKさんが年末のNHKの番組に登場して嬉しくなりました。大手スーパーなら新商品の開発に何週間もかけるところ、Kさんは、朝、お客さんから「こんなものが食べたい」とリクエストされると、店頭にならぶ魚、野菜、肉などから食材を調達してすぐに試作、うまくいけばお昼には店頭に並べるのです。遠慮せずに「ウマさ」を追求した料理は圧倒的においしい。Kさんは「食べる人のことを思い浮かべながら作る」「一流になろうとは思っていない」と言います。とても共感します。
礼拝の準備は食事作りに似ています。日曜朝に集まる人達のことを思い浮かべ、最もよいものを提供しようと思って準備するからです。準備が早すぎてもいけません。それではレトルト食品のようで鮮度が落ちるのです。説教名人の真似がありきたりになりやすいのはそのためです。万人向けのメッセージは、「今」「ここ」にいる人には響かないことも多いのです。
食事で大事なことは、自分の身体がそこにあることです。グルメ番組を見て面白がることはできても、実際に味わうのとは違います。教会は御言葉を糧として分かちあうため、一箇所に集まることを大切にしてきました。プロテスタント教会の場合、毎回の礼拝で必須としない聖餐をなお大切に執行しています。それは身体をもって集まれとの指示だと思うのです。料理と同じで、御言葉には身体によるほか味わえないものがあるのです。
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【先週(2026年1月4日)の説教要旨】
「キリストはわたしたちの平和」
エフェソの信徒への手紙2章11-22節
西岡裕芳牧師
2026年の年間聖句は「実に、キリストはわたしたちの平和です」(エフェソ2:11)である。初期の教会に、律法をどう理解するかを巡ってユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の壁があった。最初は、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者に対して救いに与るために割礼を施すよう強要した。けれどこの箇所では、異邦人キリスト者に、教会が一つであることを思い起こすよう呼びかけている。
異邦人が律法によらず、神に近づく新しい道が開かれたのはイエス・キリストの血による。これはユダヤの律法だけのことではない。イエス・キリストは、もっともらしい何かを根拠にして、人間の優劣が決まるなどということは神の前ではありえない、ということをはっきり示したのである。
その場合、違いそのものが無くなったのではない。つまり、ユダヤ人が律法を守ることを禁じたわけではない。ユダヤ人はユダヤ人のまま、異邦人は異邦人のまま、神の前で等しく大切なものとされ、一つとされる。それがここで言われる平和である。
ここで教会は神殿にたとえられ、そのかなめ石はキリスト・イエスであると言われている。教会は、様々な違いをもった人々が共に生きる共同体として存在してきた。しかし違いが原因でしばしば教会の中に争いも起こってきた。教会はその度にかなめ石であるイエス・キリストを仰ぎ見た。そしてキリストにあって、すでに敵意の隔てが取り除かれているという事実を確認した。世のすべての人々が違いを超えて、共に生きる平和な世界を形作るための雛形となることが、教会に生きるわたしたちの使命である。
【2026年1月4日発行】
「ニューイヤーコンサート」
西岡裕芳牧師
お正月の楽しみの一つは、1月1日夕刻にライブで放送されるウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを視聴することです。特別にクラシックが好きとか、詳しいとかではないのですが、毎年指揮者が変わるので、今年はどんな演奏になるのか、とわくわくしながら見ているのです。
今年は、ヤニック・ネゼ=セガンという1975年生まれの指揮者が登場しました。全体的に実に躍動的で、これまで聴いてきた中では最も素晴らしいと思えるコンサートでした。このコンサート、ヨハン・シュトラウスをはじめシュトラウス一家に代表されるウィーンゆかりの曲を中心に演奏されるのが恒例なのですが、今回はアメリカ出身の女性作曲家フローレンス・プライスという人のレインボー・ワルツが演奏されました。他に女性作曲家の曲がもう一曲演奏され、新しさを感じました。実は、ネゼ=セガン自身がカナダ生まれで、北米大陸出身者が初めてこのコンサートの指揮をすることに加え、自身同性愛的傾向をもっていると公言しているとのことで、人種やセクシュアリティーの壁を超えて、レインボーな世界を目指そうとのメッセージがこめられた演奏会だったのだと思われます。
圧巻は、最後に演奏されたラデツキー行進曲でした。指揮者が突如観客席に現れて指揮をはじめ、総立ちとなった観客と演奏者が一体となって大団円となりました。人々の歓喜がテレビ画面を通しても伝わってきました。
演奏会の終盤、指揮者がメッセージを語るのも恒例です。ネゼ=セガンは「ただ、平和を願います。皆さんの心の平和と世界の平和を。そして、異なる意見の人々に対して寛容であってほしい」と語りました。この日の演奏と共に届けられた、心のこもったメッセージです。
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【先週(2025年12月28日)の説教要旨】
「逃げるは恥だが役に立つ」
マタイによる福音書2章13-23節
西岡裕芳牧師
占星術の学者たちの訪問後、ヨセフはヘロデを避けてエジプトに逃げるようにと夢で天使のお告げを受けた。その後ヘロデはベツレヘム周辺の2歳以下の男児を一人残らず殺してしまう。イエスは間一髪助かった。メシアが生まれ、救いの光が輝いても、世の闇はすっかり消えたのではない。
ヨセフ一家は天使のお告げを繰り返し受けて、エジプトへ、そしてナザレへと移り住む。その様子は、荒れ野を40年旅して約束の地にたどりついた人々とモーセを思い起こさせる。マタイはそこに預言の実現があったと語る。神の意図によって、新しい出エジプトが始まったのだ。ただし幼児虐殺の出来事は、預言の「実現」(2:17)としながらも、2:15や2:23の預言が「実現するため」というのと言葉遣いが違う。「ため」は神の意図を指し示すが、幼児虐殺は結果的に預言が実現したというニュアンスなのだ。
件の箇所はエレミヤ書31:15の引用である。その続きにこうある。「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。・・・」エレミヤは苦難の先の希望を見ていた。福音書記者マタイも幼児虐殺事件の先にある希望を示唆したのではないか。
「逃げるは恥だが役に立つ」は「自分の戦う場所を選べ」という意味のハンガリーのことわざである。自分に与えられた戦いのため、逃げるべきときには逃げよというのだ。イエスにとっては言葉と行いによって神の国を伝えることが与えられた戦いだった。最後にイエスは、十字架につけられ殺された。そこに、自身を与えても惜しくない、わたしたちへの神の愛が示されている。この愛の光に捕らえられ、隣人を愛して生きる者となる時、その人の内の闇は払われる。エレミヤの希望の預言は本当に実現する。
【2025年12月28日発行】
「きよしこの夜」
西岡裕芳牧師
壮年会クリスマス会で讃美歌「きよしこの夜」のお話をしました。原曲はドイツ語のこの歌、日本語歌詞の翻訳の変遷をたどると面白いですよ。
ドイツ語原詞直訳(1816年)
「静かな夜、聖なる夜。すべては眠り、目覚めているのは、ただ、信頼し合う聖なる夫婦と、かわいい巻き毛の幼子だけ。眠れ、天の憩いの中で」
『クリスマス讃美歌』(1894年)
「よるやふけぬ やまもをかも ねぶりにつくか いびきにまがふ みづのおと たにゝきこゆ」
『讃美歌第二篇』(1909年)
「きよしこのよる ひかりてりきぬ エスはきませり みこはきませり いはへ主を うたへ主を」
『讃美歌』(1931年 由木康訳)
「きよしこのよる ほしはひかり すくひの御子は みははのむねに ねむりたまふ ゆめやすく」
『讃美歌』(1954年 由木康改訳)
「きよしこのよる 星はひかり すくいの御子は まぶねの中に ねむりたもう いとやすく」
『カトリック聖歌集』(1966年)
「静けき真夜中 貧しうまや 神のひとり子は み母の胸に 眠りたもう やすらかに 」
『讃美歌21』(1997年)
「きよしこのよる 星はひかり すくいの御子は まぶねの中に ねむりたもう やすらかに」
御子は眠っているのか起きているのか、どこにいらっしゃるのか、違いますね。なお原曲では歌詞は6節まであったそうです。4節の直訳は次の通り。「静かな夜、聖なる夜 今夜、父の愛のすべての力を注いで、私たちすべてを兄弟として恵み深く、イエスは世界の民をだきしめる」世界の民を兄弟姉妹として抱きしめてくださる平和の主の到来を祝いましょう
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【先週(2025年12月21日)の説教要旨】
「賢者の贈り物」
マタイによる福音書2章1-12節
西岡裕芳牧師
O・ヘンリーの短編に『賢者の贈物』がある。クリスマス、妻は長く美しい髪を売って懐中時計にあう鎖を夫に贈り、夫は懐中時計を売って髪にあう髪飾りを妻に贈ったというお話。「2人は愚かなことに、互いのために宝物を台無しにした。しかし、すべての贈り物をする者たちの中で、この2人が最も賢い人たちであった。賢者であった」と締めくくられる。
この小説の原題は「the gift of the magi」である。magiとは聖書の占星術の学者のことである。彼らは幼子に黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。これらは学者たちが星占いに使った道具と推測される。彼らは、いわば自分の生涯を無力な幼子にささげた。それは賢者のすることであろうか。けれど、彼らは星に導かれ、この幼子こそ神からの高価な贈り物であることを発見したのだ。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とある通りに。そして彼らの生き方は変わった。
それにしても神が贈り物を贈るやり方は愚かしかった。占星術の学者たちのような人々は少数で、多数は救い主に不安を抱き、そのもとに行こうともしなかった。それは愚かなこととわかっていたのだ。そして成長したイエスの愚かな行いや言葉に敵意を燃やし、十字架につけて殺してしまう。
しかし、この神の愚かさに愛のしるしを見出す人々が少数ながらいた。その人々は愚かにも「わたしについてきなさい」との招きの声を聞いて本当に従った。そんな生き方に入ろうとする人が今も現れ、洗礼を受ける。
さて、今日この礼拝に幼子を拝むために集まってきたわたしたちは、いったい愚かなのだろうか。賢いのだろうか。
【2025年12月21日発行】副牧師室 園庭の見える窓から
Ⅻ クリスマスの思い出
鬼形惠子牧師
クリスマスに、印象深く思い出すのはイブ礼拝とキャロリングです。
愛媛の宇和島信愛教会では、小学生の頃からイブ礼拝とその後のキャロリングに参加するのが楽しみでした。教会員のお宅に訪問し、歌の後でお茶やお菓子を一緒に頂くのは嬉しかったです。最後は老人ホームの中庭で歌いました。毎年真っ暗な中庭で歌っていると、入居されている教会員の方が、部屋の窓のカーテンを少し開けて、点灯したろうそくを持ってじっと聞いておられる姿が見えました。心が温かくなる時間でした。大学時代を過ごした京都の錦林教会では、青年会メンバー全員が聖歌隊員だったので、20人位いて賑やかなキャロリングでした。鎌倉恩寵教会では、鎌倉駅西口を出た広場で、他の教会の方々と一緒にキャロリングをしていました。駅前なので行き交う人が多く少し恥ずかしかったですが、楽しかったです。その頃は24日も仕事があったので、連れ合いも私も仕事帰りにキャロリングに参加しました。息子も中高時代は部活帰りにそのままキャロリングに合流し、その後は3人でイブ礼拝に出ました。弓町本郷教会のイブ礼拝は教会員以外の方も大勢来られ、参加者の多さに驚きました。昨年は、私が以前勤務していた学校のお2人の先生の姿を見つけて、横浜から来てくださったことが嬉しかったです。
コロナ以降キャロリングは難しくなりましたが、イブの夜にはあちこちの教会で賛美の歌が響くことでしょう。良いクリスマスとなりますように。
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【先週(2025年12月14日)の説教要旨】
「言のうちに命があった」
ヨハネによる福音書1章1-18節
鬼形惠子牧師
ヨハネによる福音書1章は、神学的序文と呼ばれる。ヨハネによる福音書全体のテーマを言い表しているような箇所である。
聖誕劇にもなるイエス誕生の物語は、マタイとルカに記されている。ヨハネは「言」の誕生という文章で、イエス誕生のできごとを言い表した。「言」は「言葉」よりも、より神学的な概念を表す時に使われる。どちらもギリシャ語では同じ「ロゴス」である。「ロゴス」は、当時のユダヤ教やギリシャ哲学においては神の知恵や計画を具体的に示すもの、あるいは神そのものを表す時にも使われていた。神である「言」が肉となって現れたのがイエス誕生の出来事であると、ヨハネは伝えている。ヨハネによる福音書が書かれたのは、紀元90年前後である。この頃から、イエスのことを伝える初期のキリスト教会は異端とされ、ユダヤからもローマ帝国からも厳しい弾圧を受けることになる。教会は、それでもイエスこそ神と告白し、イエスの教えを伝えていくことを決意する。それは困難を伴うことだったが、むしろこの決断を契機に、キリスト教はユダヤという一つの国を超えて、広がっていくことになるのだ。
「学校法人日本聾話学校 きこえの学校 ライシャワー学園」という、耳が聞こえない、あるいは聞こえにくい子供たちのための、日本で唯一のキリスト教主義のろう学校が町田市にある。昨年までは学校名は「日本聾話学校」であったが、今年4月から「ライシャワー学園」になった。ホームページには「難聴の子どもが、手話を使わず『聴くこと、話すこと、学ぶこと、歌うこと』を楽しむ日本で唯一のキリスト教精神による私立きこえの学校」とある。私は10年位前に、当時の聾話学校へ見学に行かせていただいた。授業を見学し、小学生の礼拝に参加した。礼拝は本当に水を打ったように静かで、生徒たちはお話しする先生をじっと見て、一言も言葉をもらすまいとするかのように聞き入っていた。言葉の一つひとつが染み渡るようだった。生徒たちは、自分の耳に聞こえてくる音、聖書の言葉を全身で、大切に受け止めようとしているのが感じられた。
ヨハネ1章4節には「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」とある。クリスマスの夜、暗闇に輝く星の光。言葉を光に例えるなら、光はこの聾話学校の礼拝堂に響くみ言葉のようであったのではないかとその時感じた。主イエスの言葉が命を持ち、光を放つ瞬間を実感した。
主イエスは、クリスマスに一人の人として生まれ、その生涯をかけて私たちを生かす神の言葉を伝えてくださった。その命の言葉は、弟子たちによって命を懸けて語り継がれ、長い2000年の時を超えて、今を生きる私たちの心をも揺り動かし、力を与えて下さっている。
【2025年12月14日発行】
「クリスマスの思い出」
西岡裕芳牧師
クリスマスの思い出は、「歓迎」からはじまります。
1989年のクリスマス、初めて教会に足を踏み入れ、主日礼拝に出席しました。学生聖書研究会の仲間2人が洗礼を受けるというので、見に行ったのです。野次馬のつもりでしたが、出席者の讃美歌の声の大きさに熱気を感じ、ちょっと感動しました。礼拝後、クリスマス愛餐会にお誘いを受けました。新来者でしたので歓迎され、無料でサンドイッチを頂きました。
翌1990年のクリスマス、1年あまりの求道を経て、わたしは洗礼を受けました。当然のことながら、礼拝の後に愛餐会がありました。洗礼を受けたので、もちろん大歓迎されました。
その翌年、1991年のクリスマス、大学を卒業して東京で働いていたわたしは、出席教会に転会しました。やっぱり礼拝の後で愛餐会がありました。転入したので、またまた歓迎されました。
教会で迎えた最初の3回のクリスマスは、いずれにおいても教会の皆さんから歓迎されるという経験をしました。ですので、わたしのクリスマスのイメージは「歓迎」なのです。それは、教会だけのことでなく、神ご自身が無条件にわたしを受け入れてくれていることを、明らかに示すものでした。自分が歓迎されたから、今度は自分が歓迎する方にまわろう。わたしが伝道者を志したそもそもの理由はこのようなものです。
こんなことを話したら、聞いていた皆が楽しそうに大笑いしました。神学校に入る準備のため、会社を辞めて東京から仙台に舞い戻り、再び母教会に転入、またしても歓迎を受けた1993年のクリスマス愛餐会の席でのことでした。
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【先週(2025年12月07日)の説教要旨】
「救い主の系譜」
マタイによる福音書1章1-17節
西岡裕芳牧師
マタイによる福音書の最初に記された系図は、名前の羅列で多くの人は退屈に感じるかもしれない。しかし旧約聖書に通じている人なら別の感想を抱くであろう。アブラハムをはじめとする人々の物語を知っており、イエスが彼らの子孫であると紹介されるなら、親しみを覚えるであろう。
イエスは「アブラハムの子」と言われる。アブラハムにはじまるイスラエルへの神の祝福は、イエスにおいて実現する。ただ、祝福はイスラエルだけにとどまるものではない。系図の中には、タマル、ラハブ、ウリヤの妻ら、女性で異邦人が登場する。アブラハムへの祝福は、ユダヤ人の枠を超えて異邦人へ、すなわち全人類に及ぶのだ。
またイエスは「ダビデの子」とも言われる。それは、人々の待望した救い主であることを示す。しかし、そのダビデは家臣を殺してその妻を我がものにしてしまうなど、罪を犯した。また、ダビデに続く王たちは偶像礼拝にふけった。系図に登場する男たちは罪の中にあった。神の子であり、罪なきはずのイエスは、罪にまみれた人々のただ中に生まれたのだ。
ところで系図は、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」で結ばれる。メシアはダビデの子、ダビデの血筋だと強調してきたのに、最後に、イエスはダビデの血筋とは切れていることが明らかにされる。
福音書の冒頭に、「イエス・キリストの起源の書物」(1:1 私訳)とある。罪人たちの真っ只中に、神はメシア、神の子を送り込んだ。それは新しい創造の業なのだ。そして、その方を主として受け入れるわたしたち自身も新しく創り変えられる。そのことを信じて歩みを進めよう。
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