【 弓町本郷教会週報付録 】
【 弓町本郷教会週報付録 】
【2026年5月31日発行】
◆先週(2026年5月24日ペンテコステ礼拝)の説教要旨
「人を生かす言葉」
使徒言行録2章1‐13節
武井さおり牧師
使徒言行録に描かれるペンテコステでは、霊と風が同じ単語であらわされています。「激しい風の音」というのは、聖霊が勢いよく降ったということでしょう。また舌と言葉も同じ単語ですから、「炎のような舌の幻」というのは、心を熱くし、人を動かすような言葉が与えられたということでしょう。弟子たちは与えられた言葉を様々な言語で語り始めました。
聖霊の音を聞いた人々は弟子たちの滞在していた家に集まってきます。彼らは外国で生まれたユダヤ人、あるいはユダヤ人ではないけれどもユダヤ教に改宗した人たちでした。彼らはヘブライ語が第一言語ではありません。日常で使う言葉は共通語のギリシア語や自分が暮らしている国や地域の言葉でした。彼らは巡礼のためにエルサレムに来ていました。巡礼の期間は過越祭から五旬祭の間でしたから、彼らも過越祭のころに起こったイエス様の十字架を知っていたでしょう。彼らの中には周囲の雰囲気に流されて十字架に賛成した人もいたでしょうし、自分には関係のないこととして無関心のまま通り過ぎた人もいたでしょう。しかし、神様は彼らこそ、メッセージを伝える相手だと思われたのです。
この時語られた内容は書かれていませんが、後のペトロの説教に出てくる「主の名を呼びもとめる者は皆、救われる」が中心だったのではないかと思われます。
よそ者で、居場所がなかった人たち。自分のルーツは確かにこの場所なのに、ここでも「外国人」であった人たち。彼らはイエス様の弟子を通して「どこにいようと、どこで生きようと、どんなあなたでも、主の名を呼び求める者はみな、救われる」と聖霊によって知らされたのです。十字架を見過ごし、その重みも意味も知らぬままの彼らに、神様はそうおっしゃってくださいました。
わたしたちもそうです。自分の罪のすべても、それを救ってくださる十字架の全容も知らぬまま。よい子にも善良にも変われないわたしのまま。それでも、「わたしの名を呼ぶ、あなたをわたしは救う」。聖霊によって告げられたこの言葉にわたしたちは生かされているのです。
----------
◆エッセイ「牧師室より」
武井さおり牧師
5月26日(火)、27日(水)に富士見町教会で東京教区総会が行われました。富士見町教会の礼拝堂は白を基調としたもので、正面には石の壁面、両側には木製の吸音板があり、色彩の調和が取れていて、温かみがありました。天上はノアの箱舟の木組みを思わせるデザインで、まるで大きな船の中にいるようでした。一歩外は高層ビルが立ち並ぶ都会なのに、教会の中は静けさと安心感あって、「神様のもとにいる」とはこういう感じなのだろう、と思いました。
総会では信徒数・受洗者の減少、献金額の減少、献身者(牧師志望)の減少ということが話題にされ、なんだかどんよりと暗い気持ちになりました。もちろん機構改定、予算縮小も大切なことですが、くよくよしていても仕方ありません。神様がこの地に教会をお立てくださり、今もこの地にあり続けているのですから、感謝しつつ、ひたすらに御言葉を語り、祈り、愛を行うしかありませんね。
ブルームハルトというドイツの神学者の有名なエピソードがあります。晩年のブルームハルトは、ある講演の中でドイツの教会がどれほど堕落し、間違っているか痛烈に批判したそうです。それを聞いていた若きトゥルナイゼン(後に牧師・神学者となります)は、ブルームハルトに言いました。「先生、講演でおっしゃったことがよく分かりました。わたしはもう神学校を出て、牧師になろうとは思いません。教会に関わろうとも思いません」。それを聞いたブルームハルトは答えました。「きみはぼくの話を誤解しているようだ。このような時代だからこそ、このような教会だからこそ、神は“神と人とのために何事かを期待しながら立ち続けている者”を必要としているのだ。それを神は待っておられる」。
終末へと向かう箱舟のような教会。わたしたちの存在はその歴史の中でほんの一瞬かもしれませんが、“何事かを期待しながら立ち続ける者”としてありたいと思いました。
【2026年5月24日発行】
◆先週(2026年5月17日)の説教要旨
「隣人とはだれですか」
ルカによる福音書10章25節-37節
鬼形惠子牧師
良いサマリア人のたとえは、よく知られているイエスのたとえ話です。律法学者が「わたしの隣人とは誰ですか?」と問いかけました。当時のユダヤ社会には、隣人にあてはまらない、罪人と規定された人たちがいました。貧しいため、あるいは障がいや病気、職業等のために律法を守りたくても守れない人たちを「不信仰である、汚れている」という理由で社会から排除していたのです。律法学者の問いかけは、「どんな人が隣人の枠に入るのか」という問いでもありました。それに対してイエスが語ったのが、サマリア人のたとえです。
旅人が追いはぎに襲われ倒れているところに、祭司やレビ人が通りかかります。でもその人を見ると、道の向こう側を通って行ってしまいます。祭司やレビ人は、地位が高く知識も豊富な人たちでした。でも旅人の痛みを感じ取れず、自分の都合を優先したのです。しかしサマリア人は、旅人を助け、介抱し宿屋に連れて行きます。ユダヤ人とサマリア人は歴史的な経過の中で、交流を避けるようになっていました。でもサマリア人は、この旅人が何人かどうかに関係なく、その痛みに共感し、憐れに思って旅人を助けました。「この3人の中で旅人の隣人になったのは誰か」と問うイエスに、律法学者は「その人を助けた人です」と応えました。
隣人とは倒れている人の痛みに共感し、実際に助けた人です。「隣人とはだれなのか」を知ることよりも、出会いや共感をとおして、隣人ではなかった人が隣人になっていくことが大切なのです。「行ってあなたも同じようにしなさい」とイエス様が言われたように、わたしたちも出会う人に正直に向き合い、互いに助け合っていく歩みをしていきたいと思います。
----------
◆園庭の見える副牧師室より 2 「安野光雅展」
鬼形惠子牧師
GWの5月4日に、立川のPLAY MUSEUMで行われた「生誕100周年記念 安野光雅展」に行きました。私は安野光雅のファンで、学校を定年退職した春休みには、長年の夢だった津和野(安野光雅の故郷)を訪れ、「津和野町立 安野光雅美術館」に行きました。津和野は小さな町ですが雰囲気がある町並みで、町の案内図も安野光雅が書いたものでした。でも展示は、思ったほど多くはなかったのです。今回は、沢山の作品展示があると聞いて楽しみにしていました。安野光雅の作品は、騙し絵のエッシャーのような不思議な絵や、隠し絵のように絵の中に動物や物語が隠れているものがあります。『旅の絵本』シリーズは全部で 10冊出ていますが、それぞれの国の風景の片隅に、不思議の国のアリスやオオカミ少年がいたり、シンデレラが階段を駆け下りていたりします。私の好きな『天動説の絵本』、『おおきなものの すきなおうさま』の展示もあり、また「ふしぎな たね」という物語は初めて知りました。最近の美術展は体験型の展示も多く、『旅の絵本』に出てくるアヒルや子どもたちなど、小さな登場人物を主人公にしたミニ動画があり、夢中になって見入ってしまいました。ミュージアムショップも充実していて、楽しい一日を過ごしました。
『旅の絵本 Ⅱ』のイタリア編には、イエス・キリストの生涯が出てきます。受胎告知から十字架まで、イエスさまの生涯が各ページにさりげなく描かれています。見る機会があれば、ぜひ開いてみてください。
【2026年5月17日発行】
◆先週(2026年5月10日)の説教要旨
「奪われることのない喜び」
ヨハネによる福音書16章12節~24節
武井さおり牧師
母の日の起源となったアナ・ジャーヴィスはアメリカ南北戦争後、「母の友情の日」という名の和解の会を開きました。そこに招かれたのは戦争に従軍した人々、その家族、隣人たちでした。戦後も憎しみと緊張の中にあった人々に和解してもらいたいという強い願いが彼女にはあったのでしょう。
この聖書箇所でイエス様は「女は子供を産むとき、苦しむものだ」と言い、「今あなたがたは悲しんでいる」と言います。この苦しい、悲しいという言葉は、悲哀、悲痛、叫び出したくなるような悲しみという重たい意味を持つ言葉です。それが喜びに変わるというのですから、とんでもない変化です。その変化はどこから来るのでしょう。イエス様が共におられるということ、それを概念ではなく、自分の生活の中で実感することを通して、叫びが喜びに変えられていきます。
アナ・ジャーヴィスの開いた「母の友情の日」では、和解の握手が交わされ、最後に「オールド・ラング・サイン(蛍の光)」が歌われました。その5番の歌詞は「さあ、頼もしい友よ、手を差し伸べてくれ!君も手を差し伸べてくれ!そして、古き良き時代を偲んで、心からの乾杯をしよう」というものです。
和解はこれまでのことを忘れることではありません。そして片方だけで成り立つものではありません。わたしがイエス様によってここに赦されて生きているように、あなたもまた赦されて生きている、そう思えるからこそ、互いに勇気をもって手を差し伸べるのです。
わたしたちの現実の中で生きて働くイエス様の愛、イエス様の赦しを感じて、わたしたち自身が動かされること。互いに動かされていくこと。その先には奪われることのない喜びがあるとイエス様は約束しておられます。
----------
◆エッセイ「牧師室より」
武井さおり牧師
先週、皆様に就任式や献堂式のお祝いメッセージの寄せ書きにご協力をいただき、ありがとうございました。遠方の教会には郵送いたしましたが、5月11日に原宿教会で行われた准允式には寄せ書きを直接持って伺いました。
准允式 は補教師(伝道師)になる式です。日本基督教団は神学校を卒業して補教師試験を受けて、補教師になり、補教師として2年以上教会で仕えた後、正教師試験を受けて正教師(牧師)となります。召命を受けて教師になるのだから、補教師、正教師と2種類に分けるべきではないという考え方もありますが、今のところはそのような制度となっています。
式は西南支区長の北川正弥牧師が司式をしてくださり、説教の最後に使徒言行録を引用しながら「『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる』とある。わたしたちが目指すべきところがあるとすれば、一時の強勢の増加や成功などではなく、地の果てです。一緒に地の果てを目指しましょう」と力強く語ってくださいました。
伝道師となられた小林恭平先生は、式の中で証をしてくださり、「受験や、就職で自分の望んだ道に進むことはできなかったけれども、だからこそ神様と対話し、神学部に進み、そして教会に仕えるという道が与えられた。神様が与えてくださったこの場で懸命に仕えていきたい」とお話されました。そのみずみずしさと誠実さに心打たれました。
牧者となる…それは嬉しくもあり、これから心折れることも、自分の足りなさに落ち込むこともあるだろうと思うと、ただただ「なんとか神様につながりつづけてほしい」と、祈りたくなることでもあります。自分の准允式のことはもうよく覚えていないのですが、きっとわたしも先輩や教会の方たちからそう祈られて、伝道師となり、牧師となったのだろうと思いました。祈りに支えられて、この日も牧師として立てていることに感謝です。
【2026年5月10日発行】
◆先週(2026年5月3日)の説教要旨
「つながって」
ヨハネによる福音書15章1節~11節
武井さおり牧師
人と関わり、その関わりを継続することはできるでしょうか。わたしたちがつくる「つながり」は、ときに途切れたり、絡まったりします。しかし、この聖書箇所でイエス様は、農夫・ぶどうの木・ぶどうの枝という比喩を用いて、そのつながりは決して絶えないと語り、わたしたちがイエス様のうちにあり、イエス様もまたわたしたちのうちにおられるとまで言ってくださいます。
それは嬉しい知らせですが、同時に「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と厳しい言葉もあります。旧約聖書ホセア書10章1節以下にも「のびほうだいのぶどうの木を罰せられる」という比喩がありますが、そこで神様が厳しく扱われたのは、人の見栄や虚栄心、傲慢さでした。これを踏まえてイエス様の言葉を読むと、「神様に従いたいと願っていても、なお絡みついて息苦しくさせる見栄や力の誇示、虚栄心を神様が取り除いてくださる」という意味が見えてきます。
ぶどう栽培には手間がかかります。現在でも、豊かな実りのために、剪定、薬の塗布、防虫、摘果と、ぶどう農家の方は日々働き続けます。この箇所は厳しい言葉でありながら、原文では韻を踏み、まるで歌うような響きがあります。手入れを喜んで行う農夫、神様のお姿が浮かんできます。
わたしたちはイエス様につながり、イエス様のうちに置かれた一枝です。実を結ばない脇枝があれば、神様が手入れしてくださる。そして必ず主が実を結ばせてくださるのです。
わたしたちは、生きている意味、頑張っている意味、苦労している意味を神様に問いたくなることがあります。その答えはすぐには見えません。それでも、徒労と思えるところで、実りが見えない現実の中で、主は必ず実を結んでくださいます。わたしという命の動き、命の流れを主が慈しんでくださる。この御言葉を信じて歩みたいと思います。
----------
◆エッセイ「牧師室より」
武井さおり牧師
毎年、ゴールデンウィークは畑仕事をしていました。幼稚園で借りている畑の草を刈り、土をおこし、肥料を混ぜ、畝を作り、種芋を植えます。もともと田舎育ちのわたしにとっては好きな作業でしたが、なにぶん土地が広く、なかなか大変な仕事でもありました。今年は畑仕事がない分、時間に余裕があり、何をしようかと考え、東京ドームへ野球観戦に行くことにしました。野球には全く詳しくないのですが、せっかくドームが歩いて行けるほど近いのだから、一度は行ってみようと思ったのです。
夫から「観戦に行くなら、ルールくらい覚えないと」と言われ、初心者向けの本を探しました。こどもも読む少年野球のルール本なら、わたしにもわかりやすいのではないかと思い、『少年野球教室』という本を買ったのですが、開いてみると「いきなりヒットは打てない」「最初からノックを捕るのは、小学1年生が億の単位の足し算をするようなもの」と書かれており、その本が“野球をする側”のための本であることに気づきました。
どうしてこうそそっかしいのかと思いながらも、なんとかボールとストライク、ヒット、フォアボール、そしてスリーアウトで攻守交替すること(これも知りませんでした)を頭に入れ、観戦に臨みました。
球場全体の様子が見えるので、テレビで見るよりも現在の状況がよく分かりました。チームによって応援の方法があることも初めて知りました。わたしが観戦したのは巨人対ヤクルト戦だったのですが、巨人が得点した時にはオレンジ色のタオルをくるくる回し、ヤクルトが得点した時には小さな傘を掲げていました。たくさんの人がタオルを回し、傘を掲げる様子は圧巻で、この景色を見ると、きっと選手たちは頑張ろうと思えるのだろうなと感じました。
応援には人をもう一歩頑張らせてくれる力があります。わたしもまた、多くの方々の応援に支えられてここまでこられたのだと思い、改めて感謝でした。
【2026年5月3日発行】
◆先週(2026年4月26日)の説教要旨
「わたしがあなたがたを愛したように」
ヨハネによる福音書13章31~35節
武井さおり牧師
イエス様が最期にお命じになったことは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということでした。これが語られたのは、ユダが席を立って出て行った後のことです。「ユダには聞かせなくてよかったのだろうか」と思わされますが、聖書を読み進めると、イエス様がユダをないがしろにしておられたわけではないことが分かります。ユダはイエス様を敵に引き渡した人物ではありますが、弟子集団の中では会計係を任されていました。そこには、彼に対する一定の信頼もあったのでしょう。
一方、この場に残った十一人の弟子たちは、直接イエス様を裏切りはしなかったものの、それぞれの心に後ろめたさや弱さを抱えていたはずです。悪と思われる人の中にも善があり、善と思われる人の中にも悪がある。そのように善と悪が入り混じる「人」という存在を、本当に愛することができるのか。さらに、わたしたち自身もまた善悪入り混じる存在であるにもかかわらず、愛を実践できるのか。それがこの箇所で問われています。
わたしたちが誰かを愛そうとするとき、本来は美しいはずの愛の業の中で、むしろ自分の至らなさや嫌な部分が浮かび上がってくることがあります。しかし考えてみると、愛の象徴である十字架においても、イエス様のお姿は決して美しいものではありませんでした。神様は、まさにそこに愛があるのだと示されたのです。愛の業を行おうとするその時、そこには必ずイエス様の十字架があります。「愛そうとして愛せない。そのあなたのために、わたしの十字架がある」と。
限界を知り、自分の十字架を知る。けれども、それでも神様が「わたし」をあきらめておられないと知っている。その確かさに支えられながら、何度でも愛へと促されていく姿こそ、わたしたちがイエス様の弟子として生きる姿なのです。
----------
◆エッセイ「牧師室より」
武井さおり牧師
4月21日(火)、東京同信会に出席しました。開会礼拝の説教を担当することになり(新着任の牧師が担当するのが習わしだそうです)、当日まで非常に緊張していました。初めて説教する教会、周りは先輩牧師ばかり、しかも私は長く同信会の集まりに出席していませんでしたので、知らない方がほとんどでした。それでも、北海教区でお世話になった先生と再会し、鬼形先生や弓町本郷教会の皆さんのお顔を見たとき、安心することができました。
講演会の講師は、同志社大学神学部准教授の三輪地塩先生でした。タイトルは「これからの教会 ―牧師の働き・やりがい・謝儀について考える―」。その中で印象に残ったのは、「開かれた教会が当然の姿だと言われるけれども、教会によって“閉じた教会”があってもよいのではないか」という言葉でした。耳にすると驚きますが、その真意は「外に向けての伝道も大切だが、コミュニティの中で信仰と信頼を深めていくこともまた教会の大切な働きであり、それを選ぶ教会があってもよいのでは」というものでした。賛否はあるかもしれませんが、賜物が一人ひとり異なるように、その“人”が集う教会の賜物や使命もまた様々であることを改めて思わされました。
三輪先生はまた、召命を受けて牧師となったものの、途中で辞めてしまう方もいるというエピソードを紹介され、続けていくために大切なのは「楽しさ」だと語られました。ヨハン・ホイジンガ著『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)』を引用しながら、子どもたちが泥遊びをいつまでも続け、ご飯の時間になってもやめないのは、そこに「楽しさ」があるからだと話されました。牧師もまた、その働きの中に“楽しさ”を見いだしていくことが、長く(あるいは短い期間であっても)神様に仕えていく支えになるのではないかということでした。
弓町本郷教会で、神様を賛美する礼拝を喜び、皆さんと共に過ごせることを楽しみながら、日々の歩みを重ねていきたいと改めて思いました。。
【2026年4月26日発行】
◆先週(2026年4月19日)の説教要旨
「少しずつ歩み出す」
使徒言行録1章3節-11節
鬼形惠子牧師
新しい年度が始まり、教会も、教会学校・幼稚園も、新しい歩みを始めています。今日の聖書は、使徒たちが宣教活動を始めようとする、最初の出来事を伝えています。
福音書の最後には、復活したイエスが様々な方法で弟子たちに姿を現したことが記されています。使徒言行録は、ルカによる福音書の続編として書かれました。福音書では「弟子」と書かれていますが、使徒言行録では「使徒」と言う言葉が使われています。おおまかにまとめると、「弟子」はイエスの生前にイエスから教えを受けた人たち、「使徒」はイエスの12弟子を含むイエス復活後の伝道を担った人たちです。使徒言行録は、文字通り使徒たちの活動の記録です。
復活したイエスは40日間使徒たちに姿を現した後、「あなたがたは、まもなく聖霊による洗礼を授けられる。エルサレムを離れずに、待ちなさい。」と伝えました。ペンテコステの出来事を約束したのです。そうして、使徒たちが見ている前で天に上げられ、やがて雲に覆われて見えなくなりました。使徒たちはイエスの姿が見えなくなっても、天を見上げて立ち尽くしていました。白い服を着た2人の人が「ガリラヤの人たち、なぜ天を見あげて立っているのか」と声を掛けました。「さあ、イエスさまから教えられたことを人々に伝えなさい、歩み始めなさい。地の果てまで、イエスを証ししなさい」と促したのです。
復活したイエスは40日間かけて、使徒たちが活動を始める備えをしました。迫害と弾圧の中で宣教活動をすることは命がけのことでした。それでもイエスを宣べ伝えていくために、使徒たちは、恐れや不安という壁を乗り越えていくのです。イエスの大きなご計画と備えの中で、使徒たちは新しい一歩を歩み出しました。
使徒たちとは時代も状況も違いますが、私たちもそれぞれの課題をもって生きています。時には自分の存在をかけて、大きな山を乗り越えようとすることもあります。立ち止まることや、休むことがあってもいいのです。でも勇気を出して歩み出そうとする時、主イエスはその一歩を支えてくださいます。道を備えてくださることを信じて、歩みたいと思うのです。
------------------------------------------------------------
◆エッセイ「園庭の見える副牧師室より 」1
鬼形惠子牧師
気持ちの良い季節になりました。私は週に2度ほど、夫の運転で隣の駅まで買い物に出かけます。近くにはイチョウ並木や色とりどりのツツジの植え込みが続く道があり、今の季節は、行くごとに景色が変わって楽しみです。今まで気が付かなかったのですが、イチョウは春になって芽吹いてくる時から、葉は同じ形なのですね。あの独特の形の小さなイチョウの葉が、そのままの形でだんだん大きくなるのがかわいらしいと思うのです。黄緑色の新緑の時期は短いですが、爽やかです。ツツジの並木も、最近道を通るごとに沢山花をつけるようになってきました。
私の日々のストレス解消は、スーパーで買い物することです。自宅の最寄り駅にも小さなスーパーが4つありますが、隣の駅には3つの大型スーパーが入った商業施設があります。あまりおしゃれなお店はありませんが、スーパーによって特売品が違っていて、それを見て回るとなんだか元気が出てくるのです。人の暮らしのパワーを感じるからか理由はわかりませんが、気持ちが落ち着きます。これからの季節は、メロンや桃、枇杷、さくらんぼ等、好きな果物がお手頃価格で買えるようになるので、それも楽しみです。季節を楽しんで生活したいと思っています。
【2026年4月19日発行】
◆先週(2026年4月12日)の説教要旨
「それぞれの出会い」
マルコによる福音書16章12節~18節
武井さおり牧師
復活されたイエス様は、まずマグダラのマリアに現れ、その後、二人の弟子に現れてくださいました。イエス様は彼らに「復活を伝えなさい」と命じられましたが、その知らせを聞いた他の弟子たちは、彼らの言葉を信じようとしませんでした。マグダラのマリアも、二人の弟子も、弟子集団の中で中心的な存在ではなかったのかもしれません。そう考えると、イエス様は「自分はここにいてよいのだろうか」と感じているような人たちに、まず出会ってくださったのだと分かります。
復活を信じようとしなかった弟子たちの前に現れたイエス様は、彼らの頑なさと不信仰を明らかにされました。そこには、弱い立場に置かれている人の言葉を信じようとしなかったというできごとも含まれています。わたしたち自身の生活を振り返ると、胸が痛むような指摘でもあります。それでもイエス様は、そんな弟子たちに「わたしのことを伝えなさい」と使命を託されました。信じなかった者たちに、あえて福音を委ねられたのです。
イエス様は、わたしたちの罪を責めるために現れたのではありません。神様は、わたしたちが頑なさも不信仰も抱えていることを十分にご存じであり、そのために独り子を十字架につけられました。だからこそイエス様は、わたしたちが不信仰を嘆き、悔やむところで留まらなくてもよいとされます。「あなたが悔むその罪を命がけで赦したのはわたしなのだから。赦された者として、進んでいきなさい」と促しておられるのです。
------------------------------------------------------------
◆エッセイ「牧師室より」
武井さおり牧師
新しい趣味を始めようと思い、ジョギングをすることにしました。登山にはなかなか行けないので、その間の体力づくりにもなると思ったからです。最初なので短い距離を、半分以上は歩きながらのジョギング(?)です。これまでは夜に走っていましたが、先日の月曜日、初めて朝に走ってみました。走っているうちに特色ある小さな商店、大きな会社、学校、公園などを発見し、この地域の様子が分かって楽しくなりました。
小学校の前を通ると、こどもたちの登校を見守る先生方が正門に立っていて、こどもたちだけでなく、道行く人々にも朝の挨拶をしておられました。わたしにもしてくださったその挨拶がとてもさわやかで、この街のひとりになれたような嬉しい気持ちになりました。
わたしも平日は幼稚園の玄関でこどもたちを迎えていますが、道行く人に挨拶してよいものか迷っていました。都会ではしないのではないか、忙しい人にはかえって迷惑ではないか、園の前に面倒な人が立っていると思われたら困る…などと考えていたのです。でも、小学校で先生方から挨拶をされて嬉しくなったわたしは、翌日から道行く人にも挨拶をするようになりました。もちろん返してくださらない方もいますし、今は音楽を聴きながら出勤される方も多いので気づかれないこともあります。でも、時々笑顔で挨拶を返してくださる方もいて、こちらも嬉しくなります。
ジョギングが三日坊主にならないようにと思い、エッセイに書きました。この地域を知る喜びとともに、続けていけますように。
【2026年4月12日発行】
◆先週(2026年4月05日)の説教要旨
「ガリラヤで待つ」
マルコによる福音書6章1節~8節
武井さおり牧師
3人の女性たちはイースターの朝早く、イエス様が納められていた墓へ向かいました。彼女たちの心配ごとは、重い墓石を動かせるかどうかということでした。当時の横穴式の墓は、大きく重い石で蓋をしていたからです。ところが、墓に着いてみると、その墓石はすでに脇へ転がしてありました。そこには若者(天使)が立っていました。深い悲しみと動揺の中にいた女性たちが復活の知らせを受け取れるよう、神様が道を整えてくださっていたのです。天使は告げました。「イエス様は復活なさって、先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかれる」。
人生の行き止まりのように思える「墓場」。しかしイエス様は、復活の命によってその墓を打ち破り、すでに先へと進んでおられる。そして、ガリラヤという人々(わたしたち)の日常の場で再び出会えるのだというメッセージでした。
わたしたちも人生の行き詰まりを経験することがあります。自分の力ではどうしても抜け出せないような時、イエス様はその場所を訪れ、復活の命によって風穴を開け、先へと導いてくださいます。わたしたちは、その復活の命をいただいて生きています。うずくまっても、立ち止まってもいい。イエス様が必ずそこを訪れ、先へ進んでくださるから。そんなイースターのメッセージを深く受けとめて歩みたいと思います。
------------------------------------------------------------
◆エッセイ「牧師室より」
武井さおり牧師
4月1日より弓町本郷教会の主任担任教師として着任いたしました、武井さおりです。イースター礼拝では夫・宣哉と共に転入会をさせていただき、弓町本郷教会の一員として歩めることを心から感謝しています。また、皆様のお支えによってすばらしい牧師館を備えていただき、ありがとうございました。日々、「こんなところで暮らせるなんて、本当に感謝だね」と夫と話しております。
イースター前日、HS科で作ってくださったイースターエッグは、なんと700個。その数の多さに、改めて大きな教会に来たのだという実感が湧きました。
イースターエッグは、集う人々に復活の喜びを伝える贈り物です。病院チャプレンとして働き始めた初めての年、病院の隣にある教会のイースター礼拝に出席したことがありました。それまでとは全く異なる病院という現場で、飛び交う言葉も分からず、自分に何ができるのかも見えず、意気消沈していた時期でした。礼拝に来ても話す相手もいない。そんな中、教会学校のこどもたちが作ってくれたイースターエッグをプレゼントとしていただきました。クレヨンで描かれた犬のような絵でしたが、とても可愛らしく、思わず笑顔になりました。ささやかなできごとでしたが、復活の命に触れたような気持ちになりました。
そのイースターエッグの写真は、今でも大切にとっています。イースターの忘れられない思い出です。
【2026年4月5日発行】
◆先週(2026年3月29日)の説教要旨
「棕櫚の主日」
マルコによる福音書11章1-11節
鬼形惠子牧師
今日は棕櫚の主日である。イエスは、弟子と共にエルサレムに入城した。人々は棕櫚の木の葉を道に敷いて出迎えた。棕櫚の葉は、古代から勝利や喜びのシンボルとして使われていた。戦いに勝利した王を迎える時、人々は棕櫚の葉や洋服を道に敷いて絨毯の代わりのようにした。人々はそんな風にイエスを出迎えた。そのためこの日は棕櫚の主日と呼ばれている。
当時のユダヤはローマ帝国に支配されていた。閉塞した暮らしの中で、人々はローマ帝国を倒し、ユダヤを解放してくれる王を待っていた。ユダヤの新しい王と噂されるイエスに期待した。ゼカリヤ書9章には「見よ、あなたの王が来る。高ぶることなく、子ろばに乗って来る」とある。子ろばに乗ってエルサレム入城したイエスを、人々は旧約の時代から待ち望んだ救い主であると思い、「ユダヤ人の王、万歳、ホサナ」と叫んで歓迎した。ホサナとはヘブライ語で「主よ、救ってください」という意味。ここでは「万歳」とか「栄光あれ」という歓喜の言葉として使われている。しかし、この出来事からわずか5日後に人々は「ユダヤ人の王、万歳」という同じ言葉でイエスを侮辱し、十字架につけていくのである。イエスはすべてを受け入れてエルサレムに入り、人々の歓迎を受けた。当時は外国へ凱旋した王が帰還すると、立派な軍馬に乗り部下や捕虜を率いて行進した。しかしイエスは子どものろばに乗った。それは旧約の預言通りにしたというよりも、立派な軍馬ではなく人々の手伝いをする小さなろばを選んだということだ。小さなものを愛される平和の王としての姿だった。
2月末に弓町本郷幼稚園で「大きくなった会」が行われ、年長組が「ブレーメンの音楽隊」の劇を演じた。長い間重い荷袋を運び人に仕えてきたロバは、年を取り「役立たずのダメロバ」と言われ、餌をもらえなくなる。音楽が好きだったロバは、ブレーメンに行って音楽隊に入れてもらおうと旅に出る。同じような境遇の犬、猫、鶏に出会い、4匹で幸せに暮らすようになる物語だ。ミュージカル仕立ての劇になっていて、「ぼくはダメロバ」というロバに「そんなことない、あきらめないで」という子どもたちの歌声を力強く感じた。ブレーメンの音楽隊のロバと聖書の子ろばは状況は違うが、小さくてあまり役に立たないろばがイエスに用いられてエルサレム入城を果たす姿と、少し重なるように私は感じた。
イエスは、わざわざ離れた村から人を乗せたことのない子ろばを連れてきてもらった。華やかなエルサレム入城の先にある十字架を見つめながら、小さなろばに乗った。受難の始まりの時にイエスにお供する役割を与えられ、子ろばは力強く歩んだ。軍馬のように立派でなくても、小さなものを愛され用いられるイエスと共に歩むことは、恵みだったと思うのだ。弱く小さくても、役に立たないと人から言われても「そんなことはない、あなたが必要である」とイエスは選び出し、用いられる。
私たちも自分を小さく無力だと思うことがある。役に立たないと感じる時がある。しかしイエスは「わたしにはあなたが必要である」と、私たちを用いてくださる。その主イエスの招きに応える歩みをしていきたいと願う。
------------------------------------------------------------
◆副牧師室 園庭の見える窓から No.14
イースター
鬼形惠子牧師
イースターは春の初めの祝日です。学校勤務の頃は、新年度が始まってイースター礼拝を守り、小学校と中高の合同で「イースター早天祈祷会」という学院行事を行っていました。朝7時45分から礼拝堂で15分間、児童や生徒による短いメッセージと自由祈祷の時間をもちました。遠方から通う子どもも多いのですが、とくに小学生の参加が多く、中高生の参加は多くはありませんでしたが宗教委員という礼拝の係の生徒を中心に参加し、教職員と合わせて400人以上が集まる祈祷会でした。小学生は退場時に配られるイースターのカードを楽しみにし、中高生はそのカードを小学生に配る役割をするのが好きでした。小学生のお祈りの声はかわいらしく、中高生のお祈りはしっかりしていました。日頃は小学生と中高生が交流する機会は少なかったので、そんな様子を見ているとほのぼのとした気持ちになりました。
昨年6月の日曜日に、教会の承認をいただいて卒業生の結婚式の司式をしました。その卒業生は、在学時に早天祈祷会でいつも奏楽を引き受けてくれた生徒だったのです。朝早くても文句も言わず、前奏にさりげなく私の好きな曲を選んでくれる生徒でした。
春の訪れと共にイースターを祝い、新しい年度を感謝して歩みたいです。
【ホームに戻る】