弓町本郷教会週報付録
【 真砂坂上十字の路から 】
(まさごさかうえ じゅうじの みち から)
弓町本郷教会週報付録
【 真砂坂上十字の路から 】
(まさごさかうえ じゅうじの みち から)
【2026年2月22日発行】
「しかし、マチルダと言えばあの映画も思い出す」
西岡裕芳牧師
ドラマ「ラムネモンキー」が面白い。1988年当時、映画研究部で映画作りに熱中する中学生だった中年三人組が、部の顧問で失踪した女性教師の行方を追うというお話。あいまいになった40年前の記憶を辿るうちに、あのころの気持ちがよみがえり、今を生きる力を取り戻していく。
面白いのは80年代のサブカルチャーが満載であること。「ラムネモンキー」は制作した映画のタイトルで、元ネタは「ドランクモンキー」=酔拳。ジャッキーチェンの映画のタイトルそのままで制作しようとしたら、中学生に酒はふさわしくないという教師の指摘で、ドランクをラムネに変えたという次第。それに顧問の先生のあだ名はマチルダ、同級生の女子生徒はミンメイでアニメ好きなら吹き出してしまうネーミングです。
ただ、わたしの同居人は何のことやらという顔をして見ています。思えば、共通の文化・知識・体験に基づく了解があってはじめて理解したり面白がったりできることがなんと多いことか。そのような了解がないところで、いろいろ解説してみたとて、肝心なことは容易には伝わりません。マチルダは「機動戦士ガンダム」の女性士官、ミンメイは「超時空要塞マクロス」に出てくるアイドル歌手と説明はできても、彼らのキャラクターまでは伝えきれませんから。やはり元ネタを見てもらうほかないのです。
常々思うのは、聖書の物語もこれとよく似ているということです。はじめて教会に来た人は、しばしば説教がわかりにくいと言います。わたし自身が教会に通い始めたころもそうでした。説教は、聖書に関する共通の了解を身に着けて、腑に落ちるものとなります。したがって、ベースとなる「聖書体験」を積み重ねてもらうことがとても大切なのです。
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【先週(2026年2月15日)の説教要旨】
「立て、行こう」
マルコによる福音書14章32-42節
西岡裕芳牧師
イエスの宣教は、人が神に造られたものにふさわしく生きられるようにと導くものであった。だから、その歩みは、神から人を引き離そうとする者=サタンを退ける戦いだったと言ってよい。
最初の受難予告で明らかになったのは、イエスが多くの苦しみを受け、殺されることは神のみ心であるということである。したがって、それに反抗するのはサタンの仕業である。
ところが、ついにその時が来ると、イエスはゲツセマネにおいて「この杯を取りのけてください」「しかし、御心に適うことが行われますように」と祈り続けた。「杯」は神の憤りの杯であり、神から見捨てられ、全く切り離されることを示している。捕らえられ殺され、結果、神から切り離される。それが神の御心だというなら、サタンの思う壺ではないか。だから、本当に御心なのか、イエスは祈り続けた。けれど、神は沈黙していた。
最後に、イエスは共に祈っているはずの弟子たちが眠っているのを見て「あなたがたは眠っているのか、休んでいるのか。よくわかった」(私訳)と言った。弟子たちの様子を通してイエスは神の応えを受け取ったのだ。
一番親しい弟子たちからも切り離されて、イエスは極めて孤独であった。この先にあるのは、神からも切り離される、絶対的な孤独である。神の応えがわかって、イエスは「立て、行こう」と先頭に立って進んだ。
神の子が、神から切り離される孤独と痛みの極みを身に受けるまでに神に従ったがゆえに、もはやこれ以上には、決して誰一人神から切り離されたり、見捨てられたりすることのない、新しい時代が切り開かれたことがはっきりとわかったのは、三日目の朝のことであった。
【2026年2月15日発行】
「プロフェッショナル 仕事の流儀3」
西岡裕芳牧師
「そこにある新聞紙を敷いちょいて」 年末の手術によって人工肛門になった母は、訪問看護師のお世話になっています。帰省した翌朝、とりつけたストーマ装具と肌の隙間から突然便が漏れ始め、急遽、看護師に来てもらうことになり、準備のために母から新聞紙を敷くよう頼まれたのです。
新聞紙を広げると社会学者の上野千鶴子さんのインタビュー記事に目が止まりました。「老いは『権利』 介護保険は『家族革命』」の見出しがついた昨年5月の高知新聞の記事です。上野さんは、「制度の欠陥や介護報酬の切り下げなど改悪もあるが、介護保険のない時代には戻れない」と言います。ただ高齢化率の上昇とともに、介護保険料の月額も上がり続け、今では6000円を超えました。その結果、老いを悪とする風潮が思想界に波及したと見ていると言います。それに対して、「人間は、下の世話も含めて無力な状態で生まれ、無力な状態で死んでいく。それでいい。私は今、弱いまま生き切る『アンチ・アンチエイジングの思想』を考えている」と。
上野さんはずっと「なぜ人間の生命を産み育て、その死を看取るという労働が、その他のすべての労働の下位におかれるのか」と問うて来られました。確かにケアの働きは社会的評価も待遇も今なお高くないと思います。
さて、母のケアのため、約30キロ離れた訪問看護ステーションから1時間足らずで看護師が駆けつけてくれました(こちらは医療保険の範疇)。丁寧な仕事ぶりは本当にプロだと感じました。プロフェッショナルの起こりとなった聖職者(宗教者)や法律家や医者と同じ意味でプロだと。
身近なところで、こどもたちのための幼稚園教諭の働きも常々プロの働きだと感じてきました。わたしたちの価値観はどうなっているでしょうか。
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【先週(2026年2月8日)の説教要旨】
「つまずきの予告」
マルコによる福音書14章27-31節
西岡裕芳牧師
イエスが「あなたがたは皆つまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ」と語ると、ペトロは自負心も露わに語った。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」
イエスは「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言う。「あなたこそは」つまずくと。ペトロは、この後、イエスの裁判の様子を見ようと大祭司の屋敷の中庭に入る。自分の実力がわかっていれば、そんなことはしなかっただろう。そこで女の一言に引っかかり、イエスとの関係を繰り返し否定することになった。
ここでイエスが弟子たちのつまずきを伝えたのは、責めるためではない。イエスは、弟子たちのことをよく見、声をよく聞いていた。本当に弱いと言わざるをえない弟子たちを、イエスはありのままに受け止めた。そこには、弟子たちに対する限りない愛があった。
ゼカリヤの預言において、羊飼いとはイスラエルの指導者、羊は神の民のことである。悪い羊飼い=指導者に民が苦しめられている、だから羊飼いを打って人々を解放せよ、というのが本来の意味である。イエスはこの言葉を引用し、神が羊飼いである自分を打つ、そして羊=弟子たちは散り散りになると語った。むろん、イエスは良い羊飼いである。したがって、羊飼いが打たれても手詰まりになるのではない。イエスが、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたの先頭に立ってガリラヤへ行く」(私訳)と語ったことを見落とすべきではない。イエスは復活し、良い羊飼いとして、弟子たちを率いてガリラヤに行く。イエスは自分の死と弟子たちの離反と共に、その先を見通して語ったのだ。神の手筋は人の思いを超えている。
【2026年2月8日発行】
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【先週(2026年2月1日)の説教要旨】
「喜ぶ人、泣く人と共に」
ローマの信徒への手紙12章9-21節
武井さおり牧師
牧師としてのわたしの在り方を形づくった二人の女性がいます。ひとりは病院で出会った60代の女性です。ある時、「警察を呼んで」と錯乱して叫ぶ彼女の話を聞くことになりました。わたしは彼女の話を聞いているつもりで、その実、この事態をどう収めるかばかりに気を取られていました。彼女はそんなわたしに「あんた、さっきからうんうんって話を聞いてるけど、本当にそう思っているの?」と怒りを向けてきたのです。自分の「善を行っている」という仮面をはがされた瞬間でした。彼女が求めていたのはその場しのぎの人ではなく、出口のない苦しさのただ中に降りてきてくれる人だったのです。傾聴とは、相手の人生のひとときを共に味わうことだと教えられました。
パウロが「愛には偽りがあってはなりません」と言う時、それは完璧な愛を求める命令ではありません。仮面をつけた善行ではなく「あなた自身として他者を愛しなさい」という招きです。
もう一人の女性、晴美さんは、彼女のお母様の葬儀をきっかけに関係が続いた方でした。ご自身もがんになり、激しい痛みに苦しむ中、連絡をくれ、わたしは病院へ向かいました。「神様、あなたなら痛みを取れるはずです」と祈る中で、「だからあなたを遣わすのだ」という御声を聞きました。なぜ、と思いながら病院に着き、彼女と共に過ごすうちに、彼女の痛みが和らぎました。奇跡のようなできごとでしたが、わたしたちの現実はそのようなことばかりではありません。わたしたちにできるのは、ままならない現実の中で、出会った人と一緒に泣いたり、笑ったりすることくらいです。しかし、そこに神様がいてくださると思いながら、泣いたり笑ったりできる。その一点を信じて、わたしたちはクリスチャンとして生きているのではないでしょうか。
愛そうと意気込んでいたわたしたちが、すでに神様に愛されていたことを知ります。その愛によってあなたを生かそうと、神様は招いておられます。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と。
【2026年2月1日発行】
「手袋をはく」
西岡裕芳牧師
寒さ厳しい時が続いているので、防寒対策として外出時にはマフラー、手袋をするようにしています。手袋をつけていて、ふと思い出しました。以前暮らした北海道では「手袋をはく」という言い方をしていました。「靴をはく」のと同じように、北海道では手袋もはくのです。変わった言い方ですが、北海道にいるとそれが自然に感じられるから不思議です。
ところで、「手袋をはく」は、青森や香川でも使われていると言います。どうやら、もともとは香川の言葉らしいのです。日本ではかつては手につけるのは手甲で、手を全面的に覆う手袋は明治以降に入ってきた、そして手靴とも呼ばれていたのだそうです。香川はその手袋の一大産地です。そこで、「はく」という言い方が生まれたというのは自然です。また、明治期に、香川から北海道にわたる人々の中で、青森に集合した人が多かったのだそうです。それで香川の方言が北海道、そして経由地の青森にも定着したというのです。面白いですね。本日の説教者、武井さおり牧師は香川県出身で最初の任地は札幌でした。やっぱり手袋ははくのでしょうね。
さて鬼形牧師は愛媛、わたしは高知の出身、四国四県のうち三県が揃いました。ただ風土の違いからか四県の県民性は随分違うと言われます。愛媛は温和で勤勉、香川は緻密・合理的で協調的などと。瀬戸内側は気候が穏やかで降水量が少なく、香川は水資源の計画的な分配が必要で、それが県民性になったとも。対照的に高知は太平洋側で、水に苦労せず勝手きままができるかわりに台風で作物が一晩でダメになることも多く、人の干渉を嫌って頑固、なのにあきらめが早く、白黒はっきりしているのだとか。その典型が「いごっそう」です。。。県民性なんてあてになりませんねえ
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【先週(2026年1月25日)の説教要旨】
「同じ釜のめし」
マルコによる福音書14章10-26節
西岡裕芳牧師
一同席について過越の食事をしていたとき、イエスは言った。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」 すべてのことは、すでに決まっていたこと、いや神が定めていたこととしてイエスは語る。
しかし、人間が主体的に動く余地が残されていないのではない。捕らえられて殺されることはもう間違いない。だが、イエスは、愛する弟子の一人であるユダが、裏切りの役回りを演じてほしくはなかったのだ。
イエスはユダの名前を出していない。しかしユダにはわかったはずだ。あなたとわたしは一緒に食事をするような親しい仲間ではないか、思い直せ、という言葉にならない訴えかけが。
過越の食事の途中、「主の晩餐」にユダが同席していたどうかはわからない。明らかなことは、イエスはユダに出て行くようにと、はっきりとは言わなかったということである。後の教会の人々は、聖餐すなわち礼拝をささげる度に、ユダと変わらない自分たちもイエスに招かれていることに感謝してこれに応えた。そして、やり直すことができる、と希望を得た。
イエスはまた「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」と言った。世の終わり、神の国が地に完成する時、イエスは祝いの食卓を準備して神の民を招く。今、わたしたちが招かれているこの食卓=この礼拝は、来るべき神の国の宴の先取りである。来るべき時には、イエスの姿を間近にはっきりと見ながら、真の喜びのうちに祝いの宴につく。これこそは昔から定められていたこと、ずっと先まで決まっていることである。
【2026年1月25日発行】副牧師室 園庭の見える窓から
Ⅻ ゴッホ展
鬼形惠子牧師
最近ゴッホの美術展が多く開催されているように思います。私は、昨年2つの美術展を見に行きました。一つは箱根のポーラ美術館で行われた「ゴッホ・インパクトー生成する情熱」で、もう一つは東京都美術館で行われた「ゴッホ展―家族がつないだ画家の夢」です。2024年に寺田倉庫ビルで行われたデジタルアート展覧会の「ゴッホ・アライブ」も印象的でした。特別ゴッホだけが好きなわけではないのですが、その会だけに展示される作品があると聞くとつい行きたくなります。今年は「大ゴッホ展 夜のカフェテラス」が上野の森美術館で5月から開催されます。「夜のカフェテラス」は好きな作品なので、楽しみにしています。
絵を見るのが好きになったのは、高校生の頃先輩に誘われて美術部に入ったのがきっかけです。下手ながら油絵と水彩画を描いていました。数年前にまた挑戦したいと思い、水彩絵の具とスケッチブックを買ったのですが、いまだ手をつけてなくて。今年は描いてみたいと思っています。
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【先週(2026年1月18日)の説教要旨】
「生き方への問い」
マルコによる福音書10章17-22節
西岡裕芳牧師
イエスのもとに一人の青年がやってきた。この青年のことはマルコ、ルカ、マタイの3つの福音書に伝えられている。それによると、この人は若い男性で金持ちであり議員でもあった。当時は親の職業を継ぐのが一般的なので、もともと裕福で地位の高い家庭に生まれたのだろう。青年はイエスに「永遠の命を受け継ぐには何をすれば良いでしょうか」と質問した。神の御心にかなう生き方をするにはどうすればいいかと問うたのだ。やり取りの中で、イエスは青年を見つめ慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい。」このイエスの言葉は、あと一つ何かを加えれば良いというものではなかった。今持っている財産や地位をすべて捨てる、それは今の生き方を捨てるという事である。生き方の方向を大きく変えて、わたしに従いなさいと言われたのだ。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。
この青年は子どもの頃から親に従い、良いものをたくさん身に着けて生きてきた。しかし今、自分には何か欠けているのではないかと思い始めた。いつも周りにいる大人に相談しても満たされないものを感じて、イエスに相談に来たのだ。イエスは旅に出かけるところだったが、引き留めてでも相談したいという強い思いが青年にはあった。イエスも若者らしいまっすぐな思いを感じ取り、真剣に向き合った。投げかけた言葉は厳しいものだったが、愛をもってかけた言葉だった。親の敷いたレールをそのまま歩んできた青年に、自分の生き方を主体的に考え続けることを投げかけたのではないだろうか。またこれまでにたくさんのものを獲得し、あと何を手に入れれば満たされるのか?と問いかけてきた青年に、その手を放すように伝えた。自分だけのものにしてきた多くのものを手放し、捨てること、そして他者と分かち合って生きることを示した。分かち合うことで損をするのではなく、むしろ豊かになる生き方があることを伝えたのだ。青年は悲しんで立ち去るが、それからもイエスの言葉の意味を考え続けただろう。イエスのもとにやって来た時から、この青年は新しい生き方の一歩をスタートしていたと思うからだ。立ち去ってしまうが、イエスにとってもこの若者との出会いは印象に残るものだったのではないだろうか。
イエスの言葉は、私たちにも向けられている。若い世代だけでなく、いくつになっても、私たちは自分の生き方を問いながら生きているのではないだろうか。聖書の青年と同じように、私たちも自分のものを手放すのは簡単ではない。そんな時イエスは「天に富を積みなさい。わたしに従いなさい」と言われる。天に富を積むというのは、自分のよりどころを天に置くということである。自分の存在の根拠を自分が獲得してきたものではなく、神に求めることである。自分の力ではなく神によって生かされていることを謙虚に受け止め、与えられたものを他者と分かち合って生きることの平安と豊かさをイエスは示された。
どう生きるのか?私たちも、主イエスの言葉を聞きながら考え続け、歩んでいきたいと思う。
【2026年1月18日発行】
「プロフェッショナル 仕事の流儀」
西岡裕芳牧師
午前9時15分の開始時間から、まるで号砲一発猛ダッシュでした。鍛え上げられた腕と強靭な足腰はアスリートそのもの。まさかの2〜3個持ちで、駆けるがごとき足取りで階段をリズミカルに降りると、すぐさま折り返し、休む間もなく次にとりかかる。眼前に積み上げられた100個のダンボール箱は瞬く間に姿を消し、部屋は伽藍洞になりました。午前9時50分終了。記録 35分と19.2秒(西岡調べ)。ちなみに作業員はたった3人。
先週月曜日、牧師室の書籍の引越を行いました。小石川の仮住まいと分けて、こちらの引越を年明け早々に行うことにしたのは、いずれにしても荷物は2箇所から出さねばならず、それなら執務室の本だけは繁忙期前に運んだ方が安いし、2箇所からの引越を一日で行って、引越先が書物の箱で溢れて片付けが進まなくなる事態は避けたいと考えたからです。
それにしても引越業者の運び出しの早さと言ったら。実は、ダンボール箱に書籍を詰める作業は、年末から年始にかけて、あらかじめ自分で行ったのです。何時間も何日もかかったのです。それに本は要するに木でできているので、一つ一つのダンボール箱の重さときたら半端ではない。それを軽々と3箱重ねて運び出すとは、引越屋さんの体力と技術に脱帽します。
次は3月、小石川の仮住まいからの引越となります。こちらも何社か見積もりをとりました。業者曰く「物量多めですね」。言われなくてもわかってます。こちらにも50箱分の本があり、他にもガラクタだらけなのです。
今、牧師室は本と書棚がなくなって、見たことないほどすっきりしています。新牧師館の内覧もよいですが、今のうちに牧師室も見学においでください。牧師がどんなところで仕事しているかがよくわかりますよ。
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【先週(2026年1月11日)の説教要旨】
「香油と愛と死と」
マルコによる福音書14章1-9節
西岡裕芳牧師
緊迫感が漂っている。祭司長たちや律法学者たちはイエスを捕らえて殺そうと考えていた。イエス自身、自分に死が迫っていることを知っていた。
イエスはエルサレム郊外のベタニア村にいた。そこで忘れられないことが起こる。食卓につくイエスに女が近寄り、壺に入ったナルドの香油を全量注ぎかけた。弟子たちは、香油を無駄遣いした、300デナリオン以上に売って貧しい人々に施すことができたのに、と憤る。しかしイエスは「するままにさせておきなさい」と受け入れた。イエスに残された時はわずかであること、そしてイエスの気持ちがこの女にはわかったのだ。だからこの時を用いてできる限りのことをしようとしたのだ。そんなことがあってはならないと、イエスの死を受け入れない弟子たちとは対照的である。
女はイエスこそがメシア(=油注がれた者)であると信じた。それを示すために油を注いだ。イエスは、この女の思いがよくわかったのだ。そして、女の行為について「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と意味づけた。かの地方では、埋葬のために死体に香油を塗る習慣がある。もうすぐ地上を去るわたしの埋葬の準備をしてくれた、ありがとう、と。
女の行動は型破りであったが、そもそもイエスの行動は型破りであった。殺されるとわかっていて逃げなかった。そして、香油と比べものにならないほど高価な神の子の生命を、自分を憎む人々への愛のために用いた。
イエスを十字架に向かわせたのは憎む人々ではない。香油を注ぎ、愛を示して寄り添ったこの女である。その愛に励まされ、イエスは十字架に向かった。女の行動はイエスの心を動かしわたしたちの心を揺さぶり続ける。
【2026年1月11日発行】
「プロフェッショナル 仕事の流儀」
西岡裕芳牧師
福岡女学院教会で会議があると、帰りに近くのスーパーマーケット「D」で買い物しました。昔ながらのローカル・スーパーで、いろんなものが安く買えました。特に惣菜コーナーは、美味しいと人気でした。ある日、福岡のローカル番組で、全国お惣菜大賞に選ばれたと報じていて驚きました。
その惣菜を作ったKさんが年末のNHKの番組に登場して嬉しくなりました。大手スーパーなら新商品の開発に何週間もかけるところ、Kさんは、朝、お客さんから「こんなものが食べたい」とリクエストされると、店頭にならぶ魚、野菜、肉などから食材を調達してすぐに試作、うまくいけばお昼には店頭に並べるのです。遠慮せずに「ウマさ」を追求した料理は圧倒的においしい。Kさんは「食べる人のことを思い浮かべながら作る」「一流になろうとは思っていない」と言います。とても共感します。
礼拝の準備は食事作りに似ています。日曜朝に集まる人達のことを思い浮かべ、最もよいものを提供しようと思って準備するからです。準備が早すぎてもいけません。それではレトルト食品のようで鮮度が落ちるのです。説教名人の真似がありきたりになりやすいのはそのためです。万人向けのメッセージは、「今」「ここ」にいる人には響かないことも多いのです。
食事で大事なことは、自分の身体がそこにあることです。グルメ番組を見て面白がることはできても、実際に味わうのとは違います。教会は御言葉を糧として分かちあうため、一箇所に集まることを大切にしてきました。プロテスタント教会の場合、毎回の礼拝で必須としない聖餐をなお大切に執行しています。それは身体をもって集まれとの指示だと思うのです。料理と同じで、御言葉には身体によるほか味わえないものがあるのです。
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【先週(2026年1月4日)の説教要旨】
「キリストはわたしたちの平和」
エフェソの信徒への手紙2章11-22節
西岡裕芳牧師
2026年の年間聖句は「実に、キリストはわたしたちの平和です」(エフェソ2:11)である。初期の教会に、律法をどう理解するかを巡ってユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の壁があった。最初は、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者に対して救いに与るために割礼を施すよう強要した。けれどこの箇所では、異邦人キリスト者に、教会が一つであることを思い起こすよう呼びかけている。
異邦人が律法によらず、神に近づく新しい道が開かれたのはイエス・キリストの血による。これはユダヤの律法だけのことではない。イエス・キリストは、もっともらしい何かを根拠にして、人間の優劣が決まるなどということは神の前ではありえない、ということをはっきり示したのである。
その場合、違いそのものが無くなったのではない。つまり、ユダヤ人が律法を守ることを禁じたわけではない。ユダヤ人はユダヤ人のまま、異邦人は異邦人のまま、神の前で等しく大切なものとされ、一つとされる。それがここで言われる平和である。
ここで教会は神殿にたとえられ、そのかなめ石はキリスト・イエスであると言われている。教会は、様々な違いをもった人々が共に生きる共同体として存在してきた。しかし違いが原因でしばしば教会の中に争いも起こってきた。教会はその度にかなめ石であるイエス・キリストを仰ぎ見た。そしてキリストにあって、すでに敵意の隔てが取り除かれているという事実を確認した。世のすべての人々が違いを超えて、共に生きる平和な世界を形作るための雛形となることが、教会に生きるわたしたちの使命である。
【2026年1月4日発行】
「ニューイヤーコンサート」
西岡裕芳牧師
お正月の楽しみの一つは、1月1日夕刻にライブで放送されるウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを視聴することです。特別にクラシックが好きとか、詳しいとかではないのですが、毎年指揮者が変わるので、今年はどんな演奏になるのか、とわくわくしながら見ているのです。
今年は、ヤニック・ネゼ=セガンという1975年生まれの指揮者が登場しました。全体的に実に躍動的で、これまで聴いてきた中では最も素晴らしいと思えるコンサートでした。このコンサート、ヨハン・シュトラウスをはじめシュトラウス一家に代表されるウィーンゆかりの曲を中心に演奏されるのが恒例なのですが、今回はアメリカ出身の女性作曲家フローレンス・プライスという人のレインボー・ワルツが演奏されました。他に女性作曲家の曲がもう一曲演奏され、新しさを感じました。実は、ネゼ=セガン自身がカナダ生まれで、北米大陸出身者が初めてこのコンサートの指揮をすることに加え、自身同性愛的傾向をもっていると公言しているとのことで、人種やセクシュアリティーの壁を超えて、レインボーな世界を目指そうとのメッセージがこめられた演奏会だったのだと思われます。
圧巻は、最後に演奏されたラデツキー行進曲でした。指揮者が突如観客席に現れて指揮をはじめ、総立ちとなった観客と演奏者が一体となって大団円となりました。人々の歓喜がテレビ画面を通しても伝わってきました。
演奏会の終盤、指揮者がメッセージを語るのも恒例です。ネゼ=セガンは「ただ、平和を願います。皆さんの心の平和と世界の平和を。そして、異なる意見の人々に対して寛容であってほしい」と語りました。この日の演奏と共に届けられた、心のこもったメッセージです。
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【先週(2025年12月28日)の説教要旨】
「逃げるは恥だが役に立つ」
マタイによる福音書2章13-23節
西岡裕芳牧師
占星術の学者たちの訪問後、ヨセフはヘロデを避けてエジプトに逃げるようにと夢で天使のお告げを受けた。その後ヘロデはベツレヘム周辺の2歳以下の男児を一人残らず殺してしまう。イエスは間一髪助かった。メシアが生まれ、救いの光が輝いても、世の闇はすっかり消えたのではない。
ヨセフ一家は天使のお告げを繰り返し受けて、エジプトへ、そしてナザレへと移り住む。その様子は、荒れ野を40年旅して約束の地にたどりついた人々とモーセを思い起こさせる。マタイはそこに預言の実現があったと語る。神の意図によって、新しい出エジプトが始まったのだ。ただし幼児虐殺の出来事は、預言の「実現」(2:17)としながらも、2:15や2:23の預言が「実現するため」というのと言葉遣いが違う。「ため」は神の意図を指し示すが、幼児虐殺は結果的に預言が実現したというニュアンスなのだ。
件の箇所はエレミヤ書31:15の引用である。その続きにこうある。「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。・・・」エレミヤは苦難の先の希望を見ていた。福音書記者マタイも幼児虐殺事件の先にある希望を示唆したのではないか。
「逃げるは恥だが役に立つ」は「自分の戦う場所を選べ」という意味のハンガリーのことわざである。自分に与えられた戦いのため、逃げるべきときには逃げよというのだ。イエスにとっては言葉と行いによって神の国を伝えることが与えられた戦いだった。最後にイエスは、十字架につけられ殺された。そこに、自身を与えても惜しくない、わたしたちへの神の愛が示されている。この愛の光に捕らえられ、隣人を愛して生きる者となる時、その人の内の闇は払われる。エレミヤの希望の預言は本当に実現する。
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