弓町本郷教会週報付録
【 真砂坂上十字の路から 】
(まさごさかうえ じゅうじの みち から)
弓町本郷教会週報付録
【 真砂坂上十字の路から 】
(まさごさかうえ じゅうじの みち から)
【2026年1月11日発行】
「プロフェッショナル 仕事の流儀」
西岡裕芳牧師
福岡女学院教会で会議があると、帰りに近くのスーパーマーケット「D」で買い物しました。昔ながらのローカル・スーパーで、いろんなものが安く買えました。特に惣菜コーナーは、美味しいと人気でした。ある日、福岡のローカル番組で、全国お惣菜大賞に選ばれたと報じていて驚きました。
その惣菜を作ったKさんが年末のNHKの番組に登場して嬉しくなりました。大手スーパーなら新商品の開発に何週間もかけるところ、Kさんは、朝、お客さんから「こんなものが食べたい」とリクエストされると、店頭にならぶ魚、野菜、肉などから食材を調達してすぐに試作、うまくいけばお昼には店頭に並べるのです。遠慮せずに「ウマさ」を追求した料理は圧倒的においしい。Kさんは「食べる人のことを思い浮かべながら作る」「一流になろうとは思っていない」と言います。とても共感します。
礼拝の準備は食事作りに似ています。日曜朝に集まる人達のことを思い浮かべ、最もよいものを提供しようと思って準備するからです。準備が早すぎてもいけません。それではレトルト食品のようで鮮度が落ちるのです。説教名人の真似がありきたりになりやすいのはそのためです。万人向けのメッセージは、「今」「ここ」にいる人には響かないことも多いのです。
食事で大事なことは、自分の身体がそこにあることです。グルメ番組を見て面白がることはできても、実際に味わうのとは違います。教会は御言葉を糧として分かちあうため、一箇所に集まることを大切にしてきました。プロテスタント教会の場合、毎回の礼拝で必須としない聖餐をなお大切に執行しています。それは身体をもって集まれとの指示だと思うのです。料理と同じで、御言葉には身体によるほか味わえないものがあるのです。
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【先週(2026年1月4日)の説教要旨】
「キリストはわたしたちの平和」
エフェソの信徒への手紙2章11-22節
西岡裕芳牧師
2026年の年間聖句は「実に、キリストはわたしたちの平和です」(エフェソ2:11)である。初期の教会に、律法をどう理解するかを巡ってユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の壁があった。最初は、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者に対して救いに与るために割礼を施すよう強要した。けれどこの箇所では、異邦人キリスト者に、教会が一つであることを思い起こすよう呼びかけている。
異邦人が律法によらず、神に近づく新しい道が開かれたのはイエス・キリストの血による。これはユダヤの律法だけのことではない。イエス・キリストは、もっともらしい何かを根拠にして、人間の優劣が決まるなどということは神の前ではありえない、ということをはっきり示したのである。
その場合、違いそのものが無くなったのではない。つまり、ユダヤ人が律法を守ることを禁じたわけではない。ユダヤ人はユダヤ人のまま、異邦人は異邦人のまま、神の前で等しく大切なものとされ、一つとされる。それがここで言われる平和である。
ここで教会は神殿にたとえられ、そのかなめ石はキリスト・イエスであると言われている。教会は、様々な違いをもった人々が共に生きる共同体として存在してきた。しかし違いが原因でしばしば教会の中に争いも起こってきた。教会はその度にかなめ石であるイエス・キリストを仰ぎ見た。そしてキリストにあって、すでに敵意の隔てが取り除かれているという事実を確認した。世のすべての人々が違いを超えて、共に生きる平和な世界を形作るための雛形となることが、教会に生きるわたしたちの使命である。
【2026年1月4日発行】
「ニューイヤーコンサート」
西岡裕芳牧師
お正月の楽しみの一つは、1月1日夕刻にライブで放送されるウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを視聴することです。特別にクラシックが好きとか、詳しいとかではないのですが、毎年指揮者が変わるので、今年はどんな演奏になるのか、とわくわくしながら見ているのです。
今年は、ヤニック・ネゼ=セガンという1975年生まれの指揮者が登場しました。全体的に実に躍動的で、これまで聴いてきた中では最も素晴らしいと思えるコンサートでした。このコンサート、ヨハン・シュトラウスをはじめシュトラウス一家に代表されるウィーンゆかりの曲を中心に演奏されるのが恒例なのですが、今回はアメリカ出身の女性作曲家フローレンス・プライスという人のレインボー・ワルツが演奏されました。他に女性作曲家の曲がもう一曲演奏され、新しさを感じました。実は、ネゼ=セガン自身がカナダ生まれで、北米大陸出身者が初めてこのコンサートの指揮をすることに加え、自身同性愛的傾向をもっていると公言しているとのことで、人種やセクシュアリティーの壁を超えて、レインボーな世界を目指そうとのメッセージがこめられた演奏会だったのだと思われます。
圧巻は、最後に演奏されたラデツキー行進曲でした。指揮者が突如観客席に現れて指揮をはじめ、総立ちとなった観客と演奏者が一体となって大団円となりました。人々の歓喜がテレビ画面を通しても伝わってきました。
演奏会の終盤、指揮者がメッセージを語るのも恒例です。ネゼ=セガンは「ただ、平和を願います。皆さんの心の平和と世界の平和を。そして、異なる意見の人々に対して寛容であってほしい」と語りました。この日の演奏と共に届けられた、心のこもったメッセージです。
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【先週(2025年12月28日)の説教要旨】
「逃げるは恥だが役に立つ」
マタイによる福音書2章13-23節
西岡裕芳牧師
占星術の学者たちの訪問後、ヨセフはヘロデを避けてエジプトに逃げるようにと夢で天使のお告げを受けた。その後ヘロデはベツレヘム周辺の2歳以下の男児を一人残らず殺してしまう。イエスは間一髪助かった。メシアが生まれ、救いの光が輝いても、世の闇はすっかり消えたのではない。
ヨセフ一家は天使のお告げを繰り返し受けて、エジプトへ、そしてナザレへと移り住む。その様子は、荒れ野を40年旅して約束の地にたどりついた人々とモーセを思い起こさせる。マタイはそこに預言の実現があったと語る。神の意図によって、新しい出エジプトが始まったのだ。ただし幼児虐殺の出来事は、預言の「実現」(2:17)としながらも、2:15や2:23の預言が「実現するため」というのと言葉遣いが違う。「ため」は神の意図を指し示すが、幼児虐殺は結果的に預言が実現したというニュアンスなのだ。
件の箇所はエレミヤ書31:15の引用である。その続きにこうある。「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。・・・」エレミヤは苦難の先の希望を見ていた。福音書記者マタイも幼児虐殺事件の先にある希望を示唆したのではないか。
「逃げるは恥だが役に立つ」は「自分の戦う場所を選べ」という意味のハンガリーのことわざである。自分に与えられた戦いのため、逃げるべきときには逃げよというのだ。イエスにとっては言葉と行いによって神の国を伝えることが与えられた戦いだった。最後にイエスは、十字架につけられ殺された。そこに、自身を与えても惜しくない、わたしたちへの神の愛が示されている。この愛の光に捕らえられ、隣人を愛して生きる者となる時、その人の内の闇は払われる。エレミヤの希望の預言は本当に実現する。
【2025年12月28日発行】
「きよしこの夜」
西岡裕芳牧師
壮年会クリスマス会で讃美歌「きよしこの夜」のお話をしました。原曲はドイツ語のこの歌、日本語歌詞の翻訳の変遷をたどると面白いですよ。
ドイツ語原詞直訳(1816年)
「静かな夜、聖なる夜。すべては眠り、目覚めているのは、ただ、信頼し合う聖なる夫婦と、かわいい巻き毛の幼子だけ。眠れ、天の憩いの中で」
『クリスマス讃美歌』(1894年)
「よるやふけぬ やまもをかも ねぶりにつくか いびきにまがふ みづのおと たにゝきこゆ」
『讃美歌第二篇』(1909年)
「きよしこのよる ひかりてりきぬ エスはきませり みこはきませり いはへ主を うたへ主を」
『讃美歌』(1931年 由木康訳)
「きよしこのよる ほしはひかり すくひの御子は みははのむねに ねむりたまふ ゆめやすく」
『讃美歌』(1954年 由木康改訳)
「きよしこのよる 星はひかり すくいの御子は まぶねの中に ねむりたもう いとやすく」
『カトリック聖歌集』(1966年)
「静けき真夜中 貧しうまや 神のひとり子は み母の胸に 眠りたもう やすらかに 」
『讃美歌21』(1997年)
「きよしこのよる 星はひかり すくいの御子は まぶねの中に ねむりたもう やすらかに」
御子は眠っているのか起きているのか、どこにいらっしゃるのか、違いますね。なお原曲では歌詞は6節まであったそうです。4節の直訳は次の通り。「静かな夜、聖なる夜 今夜、父の愛のすべての力を注いで、私たちすべてを兄弟として恵み深く、イエスは世界の民をだきしめる」世界の民を兄弟姉妹として抱きしめてくださる平和の主の到来を祝いましょう
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【先週(2025年12月21日)の説教要旨】
「賢者の贈り物」
マタイによる福音書2章1-12節
西岡裕芳牧師
O・ヘンリーの短編に『賢者の贈物』がある。クリスマス、妻は長く美しい髪を売って懐中時計にあう鎖を夫に贈り、夫は懐中時計を売って髪にあう髪飾りを妻に贈ったというお話。「2人は愚かなことに、互いのために宝物を台無しにした。しかし、すべての贈り物をする者たちの中で、この2人が最も賢い人たちであった。賢者であった」と締めくくられる。
この小説の原題は「the gift of the magi」である。magiとは聖書の占星術の学者のことである。彼らは幼子に黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。これらは学者たちが星占いに使った道具と推測される。彼らは、いわば自分の生涯を無力な幼子にささげた。それは賢者のすることであろうか。けれど、彼らは星に導かれ、この幼子こそ神からの高価な贈り物であることを発見したのだ。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とある通りに。そして彼らの生き方は変わった。
それにしても神が贈り物を贈るやり方は愚かしかった。占星術の学者たちのような人々は少数で、多数は救い主に不安を抱き、そのもとに行こうともしなかった。それは愚かなこととわかっていたのだ。そして成長したイエスの愚かな行いや言葉に敵意を燃やし、十字架につけて殺してしまう。
しかし、この神の愚かさに愛のしるしを見出す人々が少数ながらいた。その人々は愚かにも「わたしについてきなさい」との招きの声を聞いて本当に従った。そんな生き方に入ろうとする人が今も現れ、洗礼を受ける。
さて、今日この礼拝に幼子を拝むために集まってきたわたしたちは、いったい愚かなのだろうか。賢いのだろうか。
【2025年12月21日発行】副牧師室 園庭の見える窓から
Ⅻ クリスマスの思い出
鬼形惠子牧師
クリスマスに、印象深く思い出すのはイブ礼拝とキャロリングです。
愛媛の宇和島信愛教会では、小学生の頃からイブ礼拝とその後のキャロリングに参加するのが楽しみでした。教会員のお宅に訪問し、歌の後でお茶やお菓子を一緒に頂くのは嬉しかったです。最後は老人ホームの中庭で歌いました。毎年真っ暗な中庭で歌っていると、入居されている教会員の方が、部屋の窓のカーテンを少し開けて、点灯したろうそくを持ってじっと聞いておられる姿が見えました。心が温かくなる時間でした。大学時代を過ごした京都の錦林教会では、青年会メンバー全員が聖歌隊員だったので、20人位いて賑やかなキャロリングでした。鎌倉恩寵教会では、鎌倉駅西口を出た広場で、他の教会の方々と一緒にキャロリングをしていました。駅前なので行き交う人が多く少し恥ずかしかったですが、楽しかったです。その頃は24日も仕事があったので、連れ合いも私も仕事帰りにキャロリングに参加しました。息子も中高時代は部活帰りにそのままキャロリングに合流し、その後は3人でイブ礼拝に出ました。弓町本郷教会のイブ礼拝は教会員以外の方も大勢来られ、参加者の多さに驚きました。昨年は、私が以前勤務していた学校のお2人の先生の姿を見つけて、横浜から来てくださったことが嬉しかったです。
コロナ以降キャロリングは難しくなりましたが、イブの夜にはあちこちの教会で賛美の歌が響くことでしょう。良いクリスマスとなりますように。
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【先週(2025年12月14日)の説教要旨】
「言のうちに命があった」
ヨハネによる福音書1章1-18節
鬼形惠子牧師
ヨハネによる福音書1章は、神学的序文と呼ばれる。ヨハネによる福音書全体のテーマを言い表しているような箇所である。
聖誕劇にもなるイエス誕生の物語は、マタイとルカに記されている。ヨハネは「言」の誕生という文章で、イエス誕生のできごとを言い表した。「言」は「言葉」よりも、より神学的な概念を表す時に使われる。どちらもギリシャ語では同じ「ロゴス」である。「ロゴス」は、当時のユダヤ教やギリシャ哲学においては神の知恵や計画を具体的に示すもの、あるいは神そのものを表す時にも使われていた。神である「言」が肉となって現れたのがイエス誕生の出来事であると、ヨハネは伝えている。ヨハネによる福音書が書かれたのは、紀元90年前後である。この頃から、イエスのことを伝える初期のキリスト教会は異端とされ、ユダヤからもローマ帝国からも厳しい弾圧を受けることになる。教会は、それでもイエスこそ神と告白し、イエスの教えを伝えていくことを決意する。それは困難を伴うことだったが、むしろこの決断を契機に、キリスト教はユダヤという一つの国を超えて、広がっていくことになるのだ。
「学校法人日本聾話学校 きこえの学校 ライシャワー学園」という、耳が聞こえない、あるいは聞こえにくい子供たちのための、日本で唯一のキリスト教主義のろう学校が町田市にある。昨年までは学校名は「日本聾話学校」であったが、今年4月から「ライシャワー学園」になった。ホームページには「難聴の子どもが、手話を使わず『聴くこと、話すこと、学ぶこと、歌うこと』を楽しむ日本で唯一のキリスト教精神による私立きこえの学校」とある。私は10年位前に、当時の聾話学校へ見学に行かせていただいた。授業を見学し、小学生の礼拝に参加した。礼拝は本当に水を打ったように静かで、生徒たちはお話しする先生をじっと見て、一言も言葉をもらすまいとするかのように聞き入っていた。言葉の一つひとつが染み渡るようだった。生徒たちは、自分の耳に聞こえてくる音、聖書の言葉を全身で、大切に受け止めようとしているのが感じられた。
ヨハネ1章4節には「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」とある。クリスマスの夜、暗闇に輝く星の光。言葉を光に例えるなら、光はこの聾話学校の礼拝堂に響くみ言葉のようであったのではないかとその時感じた。主イエスの言葉が命を持ち、光を放つ瞬間を実感した。
主イエスは、クリスマスに一人の人として生まれ、その生涯をかけて私たちを生かす神の言葉を伝えてくださった。その命の言葉は、弟子たちによって命を懸けて語り継がれ、長い2000年の時を超えて、今を生きる私たちの心をも揺り動かし、力を与えて下さっている。
【2025年12月14日発行】
「クリスマスの思い出」
西岡裕芳牧師
クリスマスの思い出は、「歓迎」からはじまります。
1989年のクリスマス、初めて教会に足を踏み入れ、主日礼拝に出席しました。学生聖書研究会の仲間2人が洗礼を受けるというので、見に行ったのです。野次馬のつもりでしたが、出席者の讃美歌の声の大きさに熱気を感じ、ちょっと感動しました。礼拝後、クリスマス愛餐会にお誘いを受けました。新来者でしたので歓迎され、無料でサンドイッチを頂きました。
翌1990年のクリスマス、1年あまりの求道を経て、わたしは洗礼を受けました。当然のことながら、礼拝の後に愛餐会がありました。洗礼を受けたので、もちろん大歓迎されました。
その翌年、1991年のクリスマス、大学を卒業して東京で働いていたわたしは、出席教会に転会しました。やっぱり礼拝の後で愛餐会がありました。転入したので、またまた歓迎されました。
教会で迎えた最初の3回のクリスマスは、いずれにおいても教会の皆さんから歓迎されるという経験をしました。ですので、わたしのクリスマスのイメージは「歓迎」なのです。それは、教会だけのことでなく、神ご自身が無条件にわたしを受け入れてくれていることを、明らかに示すものでした。自分が歓迎されたから、今度は自分が歓迎する方にまわろう。わたしが伝道者を志したそもそもの理由はこのようなものです。
こんなことを話したら、聞いていた皆が楽しそうに大笑いしました。神学校に入る準備のため、会社を辞めて東京から仙台に舞い戻り、再び母教会に転入、またしても歓迎を受けた1993年のクリスマス愛餐会の席でのことでした。
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【先週(2025年12月07日)の説教要旨】
「救い主の系譜」
マタイによる福音書1章1-17節
西岡裕芳牧師
マタイによる福音書の最初に記された系図は、名前の羅列で多くの人は退屈に感じるかもしれない。しかし旧約聖書に通じている人なら別の感想を抱くであろう。アブラハムをはじめとする人々の物語を知っており、イエスが彼らの子孫であると紹介されるなら、親しみを覚えるであろう。
イエスは「アブラハムの子」と言われる。アブラハムにはじまるイスラエルへの神の祝福は、イエスにおいて実現する。ただ、祝福はイスラエルだけにとどまるものではない。系図の中には、タマル、ラハブ、ウリヤの妻ら、女性で異邦人が登場する。アブラハムへの祝福は、ユダヤ人の枠を超えて異邦人へ、すなわち全人類に及ぶのだ。
またイエスは「ダビデの子」とも言われる。それは、人々の待望した救い主であることを示す。しかし、そのダビデは家臣を殺してその妻を我がものにしてしまうなど、罪を犯した。また、ダビデに続く王たちは偶像礼拝にふけった。系図に登場する男たちは罪の中にあった。神の子であり、罪なきはずのイエスは、罪にまみれた人々のただ中に生まれたのだ。
ところで系図は、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」で結ばれる。メシアはダビデの子、ダビデの血筋だと強調してきたのに、最後に、イエスはダビデの血筋とは切れていることが明らかにされる。
福音書の冒頭に、「イエス・キリストの起源の書物」(1:1 私訳)とある。罪人たちの真っ只中に、神はメシア、神の子を送り込んだ。それは新しい創造の業なのだ。そして、その方を主として受け入れるわたしたち自身も新しく創り変えられる。そのことを信じて歩みを進めよう。
【2025年12月07日発行】
「 Imagine」
西岡裕芳牧師
ビートルズを知ったのは小学3年の頃です。同級生の女の子の家に遊びに行くと、子ども部屋にビートルズの4人のポスターが貼ってありました。すでに解散していたはずですが、部屋を一緒に使っていた中学生のお兄さんがファンだったようです。ポスターで、わたしはなぜか4人の名前を覚えさせられました。長髪の西洋人の顔は見分けづらく何度も間違いながら。
中学2年の冬、1980年12月8日、ジョン・レノンがニューヨークの自宅、ダコタ・ハウス前で殺害されたとのセンセーショナルなニュースが報じられ、久しぶりにあの子ども部屋のポスターの顔を思い出しました。
翌日、英語の先生が予定とは異なる授業を始めました。ショックを隠せない先生は、ジョン・レノンがどんな人であったかを語り、彼の作った曲イマジンを大きなラジカセで聞かせてくれました。そして、英語の原文と先生が翻訳した日本語の歌詞が記されたプリントを配布し、歌の意味を教えてくれました。先生のジョン・レノンへの思いが伝わってきました。中学3年間の授業で記憶に残っているのは、ほぼこの授業だけです。14歳だったわたしたちに、先生が自分の気持ちを全面に出して語ってくれたことで、45年たった今も記憶が鮮明に残っているのです。
Imagine there's no Heaven 「想像してごらん 天国なんてないと」から始まる歌詞は、国がなく戦争がない、宗教も財産もなく、だれもが飢えることなく平和に暮らす世界を想像しようと呼びかけます。すばらしい歌詞です。「宗教もない」は、預言者やイエスの宗教批判を思い起こさせます。
12月8日は、日米開戦の日でもあります。平和の主の到来を待ち望むアドベント、平和を造り出すために祈りをあわせたいと思います。
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【先週(2025年11月30日)の説教要旨】
「神は我々と共におられる」
マタイによる福音書1章18-23節
西岡裕芳牧師
婚前にみごもったマリアは、律法によれば、石打にしなければならない。正しい人=律法に忠実なヨセフは悩みのうちに決心する。正しくなくてもいい。人に知られない内に、マリアを離縁する、と。それからヨセフは夢で天使の言葉を聞く。マリアを迎え入れよ。マリアの子は聖霊によって宿った。その子をイエス(=「主は救い」)と名付けよ、と。ヨセフはこの言葉により、マリアと結婚した。これも律法どおりではない。しかし、ヨセフはもはや正しさにはこだわらない。こどもが生まれたとき、ヨセフは自らイエスと名前づけた。それは、その子を自分の子とすることである。
預言者イザヤの言葉に「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ7:14)とある。この言葉どおりのことがマリアに起こる。インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味である。これは、イエスのニックネームのようなものであろう。
イザヤの言葉は、戦争が続く時代に、大きな国の強い軍隊に頼る王への批判の言葉である。武力に頼るのではなく神に頼れ。そうすれば、戦争はまもなく終わる。平和の時代が来る。平和の時代が来れば、人々は安心して大勢赤ん坊を生む。そして、神への感謝として、「インマヌエル」と名づける。小さく弱い赤ん坊は平和と希望のしるしである。
イエスは長じて後、正しくないことだと言われても、弱く小さい人々、律法を守ることも困難な人々と共に歩んだ。イエスと一緒にいると、だれもが主の救いのうちにいる、神が共におられるとわかった。イエスはその名の通りの方だった。その始まりは、マリアとヨセフが正しさを捨て、イエスを受け入れたことにあった。わたしたちもこのイエスを心に迎えよう
【2025年11月30日発行】
「 フィールドワーク」
西岡裕芳牧師
さすが国技館がある場所は地名まで横綱町かと感心したのですが、住宅表示をよく見ると横網町でした。そうだ、今から行くのは横網町公園だ。
11月24日、外国人住民基本法の制定を求める関東キリスト教連絡会(関東外キ連)主催の関東大震災朝鮮人・中国人虐殺を考えるフィールドワークに参加し、この公園を訪ねました。ここは、陸軍被服廠跡地で空きであったため、1923年9月、関東大震災で被災した人々4万人が避難、火災旋風のために38,000人が命を落とした場所です。今は公園となり、東京都慰霊堂や東京都復興記念館、さらに朝鮮人犠牲者追悼碑があります。
朝鮮人犠牲者とは虐殺された人々です。「朝鮮人が放火している」「井戸に毒を入れた」「集団で襲ってくる」などの流言飛語が流れ、政府や新聞もそれを積極的に広めたため、朝鮮人そして中国人が大勢虐殺されたのです。
震災後、広範囲で火災が発生し、亀戸、大島、八広などには大勢の人々が逃げてきたのだそうです。大島では、この地の工場の労働者の中国人たちが、軍隊、警察、自警団によって殺されました。亀戸警察署とその周辺では、社会主義者とされる日本人ら十数名、中国人、朝鮮人が大勢殺されました(亀戸事件)。荒川放水路にかかる旧四ツ木橋(墨田区八広)では自警団が検問所を設け、朝鮮人を捕らえて殺しました。殺されたのは、いずれの場所でも何百人という大人数だったとの目撃証言が残されています。
どこも今ではよくある街角、のどかな川堤です。けれどその場所を訪ねてそこに立ち、起こった出来事について説明を受けた時、急に生々しく迫ってくるのを感じました。震災までに醸成されていた差別や偏見が、人にこれほどのことをさせたのだと思うと、恐れを感じないではいられません。
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【先週(2025年11月23日)の説教要旨】
「信仰の父」
創世記15章1-21節
西岡裕芳牧師
「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。パウロはこの聖句をガラテヤの信徒への手紙で引用し、自身の信仰理解の土台とした。パウロによれば、救いは信仰によるのであって、律法の行い(=割礼)によるのではない。これは、わたしたちの信仰理解の中心にある。
実は、パウロの当時、「義認」とは犠牲の動物の供え物や、振る舞いが適当であることを意味すると考えられていたという。パウロはアブラハム物語によって、「義認」を新しく解釈しなおしたのだ。
むろん、パウロのような解釈が可能となる余地が、アブラハム物語に最初から含まれていたことも事実であろう。「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束について、神は「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」「あなたの子孫はこのようになる」と言う。この神の言葉は、決して説得的ではない。証拠も保証もない。だが、聖書は唐突に、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と語る。
信じるとは一種の飛躍であり、外的な保証をあてにすることではない。それゆえに信じても、恐れ、疑い、苦しみ、悩みは残る。これらを抱えたまま神の前に生きる、それが「アブラハムは主を信じた」の意味であろう。
ここで犠牲の動物を真っ二つに切り裂き、向かい合わせに置いたところを神が通った。当事者二者通るのが契約の儀式である。しかし、ここでは神だけがそうした。神はアブラハムを信じて一方的に約束をしたのである。
なんの根拠にも拠らず、神を神として歩むアブラハムの信仰。神がアブラハムを信じてなした一方的な約束。いずれも常識はずれである。神の真実と人の信仰との響き合い、それをこそ信仰と呼ぶ。
【2025年11月23日発行】副牧師室 園庭の見える窓から
Ⅺ みかんの思い出
鬼形惠子牧師
俳優の仲代達矢さんが亡くなったと報じられました。大好きな映画『影武者』(黒澤明監督)を久しぶりにDVDで見ました。(以下ネタバレ注意)
冒頭シーンから驚かされます。武田信玄役の仲代さんを中央にして左に山崎努さん演じる信玄の弟の信廉、そして右には一人二役の仲代さん演じる盗賊、この三人が並んでいるのです。しかも皆同じ衣服を着て、人相もそっくり。そっくりさんが三人並んで奇妙な図なのですが、実に面白い。
盗賊は信玄亡きあと影武者となり、敵も味方も欺いて信玄健在を示します。評議の場で、信玄の嫡男勝頼が主戦論を唱えた時、影武者が信玄らしく一喝する場面はこの作品のハイライトです。「動くな。山は動かぬぞ」。信玄の旗印には孫子の兵法の一節が記されていました。「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」。常に動じぬ信玄は「お山」と呼ばれていたのです。
影武者であることが露見し、盗賊が追放された後、勝頼に率いられた武田軍は長篠の合戦に臨みます。信長は「山が動いた」と出陣します。武田が誇る騎馬軍団は、釣瓶打ちで迎え撃つ鉄砲隊擁する織田・徳川連合軍に破れます。仲代さん演じる盗賊は、死屍累々の戦場を彷徨い、最後は撃たれて死んでいきます。盛者必衰、諸行無常の感を強くします。戦国最強と謳われた武田は、新興勢力の織田・徳川にとってかわられるのです。
イエスの言葉を思い出します。「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」(マルコ11:23)。動かないものが動くとはわたしたちの信仰です。困難の中でもしなやかで、なお動ぜず、変わることのない信仰にわたしたちは留まり続けることができるでしょうか。
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【先週(2025年11月16日)の説教要旨】
「わたしは戸口に立って、たたいている」
ヨハネの黙示録3章14-22節
鬼形惠子牧師
ヨハネの黙示録は、この世が終わり新しい神の時代が来ることをたとえや幻を用いて表した黙示文学の一つである。1世紀末キリスト教徒に対するローマ帝国の弾圧が厳しい時代に書かれた。そのため比喩や隠された表現を使って、苦しくても信仰を失わないように、人々を励ますことを目的に書かれた。今日の聖書はパトモス島で流刑に服していたヨハネが、キリストの言葉として、アジア州にあるラオディキアの教会に宛てて書いた手紙である。ラオディキアの町は経済的に豊かな町であり、教会も裕福であった。しかし信仰的には「熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるい」現状があったようだ。迫害が強まる中、自分を見つめなおし、熱心な信仰を持つように呼び掛けている。これは、現代に生きる私たちにも投げかけられている言葉である。弾圧の中で信仰を貫いた当時の人たちを思うと「なまぬるい」という言葉は、今の私たちにこそ問われているのかもしれない。まず自分を守ろうとすることが多い私たちだが、今の豊かな社会の中で、イエスが示された平和を守り、本当に隣人と共に生きようとしているのかと考えさせられる。そんな私たちに、イエスは「わたしは戸口に立って、たたいている」と言われる。イエスは私たちの前に立ち、私の心に、存在そのものに、呼びかけ、扉を叩いている。その扉はイエスの側から無理に開けることはできない。中にいる者が自ら扉を開く時、イエスに出会うことができるのだ。
勤務していた学校では社会福祉施設を訪問する行事があり、中学生と一緒に知的な障がいをもった大人と子どもが生活する施設に訪問したことがあった。そこは大人の作業所もあり、子どもたちはそこから近くの学校に通っていた。私たちは午前中に施設の掃除をし、お昼は食堂の半分を借りて持参したお弁当を食べた。その食堂では施設に住む大人の人達も昼食を取っていた。食堂の方が、私たちに食堂のお味噌汁を出してくださった。みんなで感謝していただいたが、一人の生徒は口をつけずに返していた。午後になって施設の子どもたちが学校から戻り、一緒に交流会を行った。最初は緊張していたが、次第にアイドルの歌を一緒に歌い、踊って、楽しい交流会を持つことができた。その後私たち学校の生徒だけで反省会をした。みんなで感想を出し合った時、昼食の時にお味噌汁を返した生徒が自分から発言した。「私は、お昼に出してくださったお味噌汁を飲めなかった。施設の方が食べているのを見て、同じものを飲むことができなかった。内緒で口をつけずに返した。すごく失礼だった。今ならあのお味噌汁を一緒に飲みたい。」と泣きながら話した。その子の気持ちはみんなによく伝わった。神は様々な形で、私たちの心をノックする。生徒の心も、神さまは出会いを通してノックしてくださったのだ。私たちは自分を守るために、自分を閉ざしてしまう時がある。閉ざすつもりはなくても、知らず知らずのうちに偏見を持って扉を閉めてしまうこともある。そんな私たちの心を主イエスはノックする。もっと広い世界に出るように。自分の世界に閉じこもらないで、多様な、沢山の人に出会うように。扉を開けて成長していきなさいと、心の戸を叩くのだ。主イエスの呼びかけに気づき、自分を開いていく歩みをしていきたいと願う。
【2025年11月16日発行】
「 山が動く」
西岡裕芳牧師
俳優の仲代達矢さんが亡くなったと報じられました。大好きな映画『影武者』(黒澤明監督)を久しぶりにDVDで見ました。(以下ネタバレ注意)
冒頭シーンから驚かされます。武田信玄役の仲代さんを中央にして左に山崎努さん演じる信玄の弟の信廉、そして右には一人二役の仲代さん演じる盗賊、この三人が並んでいるのです。しかも皆同じ衣服を着て、人相もそっくり。そっくりさんが三人並んで奇妙な図なのですが、実に面白い。
盗賊は信玄亡きあと影武者となり、敵も味方も欺いて信玄健在を示します。評議の場で、信玄の嫡男勝頼が主戦論を唱えた時、影武者が信玄らしく一喝する場面はこの作品のハイライトです。「動くな。山は動かぬぞ」。信玄の旗印には孫子の兵法の一節が記されていました。「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」。常に動じぬ信玄は「お山」と呼ばれていたのです。
影武者であることが露見し、盗賊が追放された後、勝頼に率いられた武田軍は長篠の合戦に臨みます。信長は「山が動いた」と出陣します。武田が誇る騎馬軍団は、釣瓶打ちで迎え撃つ鉄砲隊擁する織田・徳川連合軍に破れます。仲代さん演じる盗賊は、死屍累々の戦場を彷徨い、最後は撃たれて死んでいきます。盛者必衰、諸行無常の感を強くします。戦国最強と謳われた武田は、新興勢力の織田・徳川にとってかわられるのです。
イエスの言葉を思い出します。「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」(マルコ11:23)。動かないものが動くとはわたしたちの信仰です。困難の中でもしなやかで、なお動ぜず、変わることのない信仰にわたしたちは留まり続けることができるでしょうか。
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【先週(2025年11月09日)の説教要旨】
「兄弟の諍い」
創世記2章1-16節
西岡裕芳牧師
ある時、兄カインは土の実りを、弟アベルは肥えた小羊を神に献げた。神はアベルの献げものに目をとめ、カインの献げものに目をとめなかった。カインは激しく怒り、アベルを殺す。カインは神の前から追放される。
神は、誰に対しても同じように対応するという意味では、必ずしも公平ではない。それが妬みのもととなる。互いに異なる者たちが共に生きるには、他者との違いを受け入れ、嫉妬心をコントロールするほかないだろう。
それにしても、なぜ神はアベルのものを喜び、カインのものは喜ばなかったのか。カインという名には「得る、設ける、形作る、産む、創造する」という意味があり、一説には矢、槍などの意味もあるという。カインは生命力にあふれた力強い人物を思い起こさせる。他方、アベルは「溜息、はかなさ、空虚さ、無意味さ、無価値、虚無」という意味の名だという。想定されているのは、溜息のようにはかない、虚弱な人物であろう。ならば、アベルの供え物を神が喜んだのはわかる。神は弱く小さいものを偏り愛す。だからこそ、弱く小さな民族であるイスラエルを自分の民として選んだ。
神が強いカインに弱いアベルを弟としてくれたのは、カインに優しさを身に着けてもらいたかったからではないだろうか。わたしたちの周りの異なる個性をもった仲間は、比較や嫉妬の対象とすべきではなく、その人々を通して豊かなものをわたしたちに与えるための神の恵みなのだ。
神はカインも愛していた。だから、カインが激しく怒ったときに、罪を犯さないようにと語りかけた。カインの罪を罰し、神のもとから追放したが、傷つけられることがないように神のしるしをつけもした。神のもとから離れても、カインから神の守りがなくなることはなかったのである。
【2025年11月09日発行】
「 書物は永遠」
西岡裕芳牧師
またしても本の話で恐縮です。先日、神田古本まつりに行ってきました。正確に言えば、2度行ってきたのです。本は減らさなければならないのだから、「見るだけ」というつもりで。
一軒の古本屋にポスターが貼ってありました。「本の整理は当店にご相談ください。」とあって、大きな文字で「蔵書は一代 書物は永遠」と書かれています。蔵書は一代だけのもの、書物は必要な人に渡していけばよい。本を処分する人を後押しする一言です。
古本まつりとあって、どの書店も店先のワゴンに特価本をたくさん出していました。あるワゴンにキリスト教関係の本がたくさんありました。一冊手にとってみると、おっと、著者からの献呈本です。宛先は最近亡くなった某牧師。もう一冊手に取ったら、また同じ先生の名前が。ご遺族が蔵書を処分したのでしょう。その先生の名前が書かれているだけで価値がありそうですが、すでに所有している本ばかりなので、買うのはぐっと我慢。
自分が持っている本がたくさん並んでいるのはいい古本屋だと感じます。つまり、そういう本屋はどんな本が価値あるかがわかっているのです。とりわけ宗教関係の書籍には、ときどきトンデモ本があり、そういうものではない、しっかりしたものが並んでいると、信用できるのです。そこでずっと見ていてまだ手に入れていない良書を見つけたら儲けものです。
さて、これは良いと思った本がありました。定価2,800円+税のところ400円。こういう本を見つけると、「わたしを待ってくれていた」としか思えなくなります。よし、と決心して購入。喜んで家に帰って本棚に収めようとしたら、すでに同じ本が並んでいる。またやってしまいました。
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【先週(2025年10月26日)の説教要旨】
「人ー共に生きる存在」
創世記2章4節b-25節
西岡裕芳牧師
創世記2章は、1章とは対照的な創造物語を伝える。ここで神は土の塵で人間を形作る。その体に「命の息」を吹き込んで、人間は生きるものになった。土の塵から造られた人間は塵に帰る。人間は死ぬ存在なのだ。
ところで、神は「人が独りでいるのは良くない」「彼に合う助ける者を造ろう」と言い、人のあばら骨からもう一人を造った。最初の人と新しく造られた人とは同質であることがわかる。この点、1章とは対照的である。1章では「男と女に創造された」となっていて、最初から異なる性、いや多様な個性をもった者が造られたと言われているから。
1章2章を通じて、人間は互いに異なる者として創造された、と同時に、同質の者として創造されたことになる。ところで、「彼に合う助ける者を造ろう」の「合う」とは、「向き合って」「対応して」「差し向かい」などの意味を持つ。これは、人が対話する存在だということを示していると思う。
対話に必要なのは、自分とは別の誰かがいることである。その対話の相手は、異なる個性を持っていないといけない。そうでないと対話の意味がない。けれど同時に、相手が自分と全く異なっていれば、語る言葉は互いにどこまでも平行線で、やはり対話にならない。人間が異なる者でありながら、しかも同質であるという人間理解は、対話という人間の基本的なあり方を示しているのではないか。こうして人間は、他者と共に生きるのだ。
それなのに、わたしたちは自己中心に生きようとしてしまう。それが罪である。そのようなわたしたちのために、神はイエス・キリストを送ってわたしたちの罪を赦してくださった。そしてイエス・キリストが人と共に生きたように、わたしたちも他者と共に生きるようにしてくださったのだ。
【2025年11月02日発行】
「みんなで食する平和」
西岡裕芳牧師
あるクイズ番組で、合体漢字というのがありました。「一、口」でできる漢字は?という問題の答えは「日」。「十、口」なら「田」。他に「由」「甲」「古」も正解です。面白いと思って自分でも合体漢字のクイズを作りました。「一、八、八、十、千、口」で二文字の熟語なーんだ? 答えは「平和」。ある時この問題を出したら「一番」という答えが帰ってきました。なるほど「一番」もできます。2つあわせて「平和」が「一番」となって面白い。
平和の和の字は、禾へんに口と書きます。禾というのは米や麦などの穀物のことだそうです。お米やパンをみんなで分かちあって食べる。それが平和なのだ、とある人から聴きました。なるほどすばらしい。
秋は神からの稔りをいただくときです。大勢で分かち合って食べると嬉しいですね。そこに一番の平和があります。
幼稚園では、27日(月)に親子で芋掘り遠足にでかけました。昨年は佐倉の方までバスで出かけたのです。今年は諸事情あって、石神井の住宅街の中の農園に、現地集合で出かけることになりました。すぐ近所に石神井教会があったので、同教会の村上牧師にお願いして、石神井教会の礼拝堂を集合場所として使わせてもらいました。総勢約70名、みんなで礼拝していざ農園に出発。昨年は不作で根っこそのものみたいな細いのしかとれなかったけど、今年はどうだろう。。。なんと思いがけず大豊作でした。一番重い「でぶいもちゃん」大賞は1400グラム超えの超大物。大満足の内に芋掘りを終え、石神井公園に移動。武蔵野の面影を残す木々の下で、どんぐりを拾ったり遊具を楽しんだりした後は、みんなでお弁当を食べました。なんとも言えない平和を味わいながら、穏やかな秋の一日を過ごしました。
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【先週(2025年10月26日)の説教要旨】
「はじめにーこの素晴らしい世界」
創世記1章1-5節、1章26-2章4節a
西岡裕芳牧師
天地創造物語をつむぎだしたのは紀元前6世紀、バビロン捕囚の民である。国を失い、闇の中を生きていた彼らは、どんなに困難な状況であっても、神は「光あれ」と言葉を発して光を輝かせるのだ、と希望を語った。
「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、暴風が水の面を吹き荒れていた」(1:2私訳)状態から始まる創造の業は、洪水が襲った世界からの回復の過程と一致する。真っ暗闇の世界に陽が差し、水はあるべき場所に収まり、灰色一色の大地に草花が芽吹き、動物たちが現れ、人間の暮らしが始まる。あの東日本大震災で津波が襲った地域もそうであったように。
ここで欠かせないのは、人間の、神に対する応答としての、世界への積極的な関与である。東日本大震災では、人類史上最大級の核事故が起こった。神は人間に、この世界を「支配させよう」と語ったが、これは本来、「管理」について語る言葉である。世界を好き勝手に浪費し、破壊することではなく、保つために配慮し、世話をすることが人間の務めなのだ。
神は人間を、自分にかたどって創造された、とも言われる。古代オリエント世界では、「神の似姿」とは王を指す言葉であった。王以外は王の支配に服する劣った者たちと理解されていた。けれど、人は皆、地上にたてられた神の似姿だという。王と言えども、人々の尊厳を奪うことはできない。
世界の支配者のように振る舞い、環境破壊を行ってきた人間は、実は、科学万能主義や経済至上主義などの偶像に支配されていたのではないか。人が神にのみ捕らえられ、世の支配するものから解放され、自由に生きる存在として立つ時、灰色に塗り込められた世界は、「見よ、それは極めて良かった」と神が語られたとおりの色鮮やかで美しい世界として回復する。
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