弓町本郷教会週報付録
【 真砂坂上十字の路から 】
(まさごさかうえ じゅうじの みち から)
弓町本郷教会週報付録
【 真砂坂上十字の路から 】
(まさごさかうえ じゅうじの みち から)
【2025年11月09日発行】
「 書物は永遠」
西岡裕芳牧師
またしても本の話で恐縮です。先日、神田古本まつりに行ってきました。正確に言えば、2度行ってきたのです。本は減らさなければならないのだから、「見るだけ」というつもりで。
一軒の古本屋にポスターが貼ってありました。「本の整理は当店にご相談ください。」とあって、大きな文字で「蔵書は一代 書物は永遠」と書かれています。蔵書は一代だけのもの、書物は必要な人に渡していけばよい。本を処分する人を後押しする一言です。
古本まつりとあって、どの書店も店先のワゴンに特価本をたくさん出していました。あるワゴンにキリスト教関係の本がたくさんありました。一冊手にとってみると、おっと、著者からの献呈本です。宛先は最近亡くなった某牧師。もう一冊手に取ったら、また同じ先生の名前が。ご遺族が蔵書を処分したのでしょう。その先生の名前が書かれているだけで価値がありそうですが、すでに所有している本ばかりなので、買うのはぐっと我慢。
自分が持っている本がたくさん並んでいるのはいい古本屋だと感じます。つまり、そういう本屋はどんな本が価値あるかがわかっているのです。とりわけ宗教関係の書籍には、ときどきトンデモ本があり、そういうものではない、しっかりしたものが並んでいると、信用できるのです。そこでずっと見ていてまだ手に入れていない良書を見つけたら儲けものです。
さて、これは良いと思った本がありました。定価2,800円+税のところ400円。こういう本を見つけると、「わたしを待ってくれていた」としか思えなくなります。よし、と決心して購入。喜んで家に帰って本棚に収めようとしたら、すでに同じ本が並んでいる。またやってしまいました。
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【先週(2025年10月26日)の説教要旨】
「人ー共に生きる存在」
創世記2章4節b-25節
西岡裕芳牧師
創世記2章は、1章とは対照的な創造物語を伝える。ここで神は土の塵で人間を形作る。その体に「命の息」を吹き込んで、人間は生きるものになった。土の塵から造られた人間は塵に帰る。人間は死ぬ存在なのだ。
ところで、神は「人が独りでいるのは良くない」「彼に合う助ける者を造ろう」と言い、人のあばら骨からもう一人を造った。最初の人と新しく造られた人とは同質であることがわかる。この点、1章とは対照的である。1章では「男と女に創造された」となっていて、最初から異なる性、いや多様な個性をもった者が造られたと言われているから。
1章2章を通じて、人間は互いに異なる者として創造された、と同時に、同質の者として創造されたことになる。ところで、「彼に合う助ける者を造ろう」の「合う」とは、「向き合って」「対応して」「差し向かい」などの意味を持つ。これは、人が対話する存在だということを示していると思う。
対話に必要なのは、自分とは別の誰かがいることである。その対話の相手は、異なる個性を持っていないといけない。そうでないと対話の意味がない。けれど同時に、相手が自分と全く異なっていれば、語る言葉は互いにどこまでも平行線で、やはり対話にならない。人間が異なる者でありながら、しかも同質であるという人間理解は、対話という人間の基本的なあり方を示しているのではないか。こうして人間は、他者と共に生きるのだ。
それなのに、わたしたちは自己中心に生きようとしてしまう。それが罪である。そのようなわたしたちのために、神はイエス・キリストを送ってわたしたちの罪を赦してくださった。そしてイエス・キリストが人と共に生きたように、わたしたちも他者と共に生きるようにしてくださったのだ。
【2025年11月02日発行】
「みんなで食する平和」
西岡裕芳牧師
あるクイズ番組で、合体漢字というのがありました。「一、口」でできる漢字は?という問題の答えは「日」。「十、口」なら「田」。他に「由」「甲」「古」も正解です。面白いと思って自分でも合体漢字のクイズを作りました。「一、八、八、十、千、口」で二文字の熟語なーんだ? 答えは「平和」。ある時この問題を出したら「一番」という答えが帰ってきました。なるほど「一番」もできます。2つあわせて「平和」が「一番」となって面白い。
平和の和の字は、禾へんに口と書きます。禾というのは米や麦などの穀物のことだそうです。お米やパンをみんなで分かちあって食べる。それが平和なのだ、とある人から聴きました。なるほどすばらしい。
秋は神からの稔りをいただくときです。大勢で分かち合って食べると嬉しいですね。そこに一番の平和があります。
幼稚園では、27日(月)に親子で芋掘り遠足にでかけました。昨年は佐倉の方までバスで出かけたのです。今年は諸事情あって、石神井の住宅街の中の農園に、現地集合で出かけることになりました。すぐ近所に石神井教会があったので、同教会の村上牧師にお願いして、石神井教会の礼拝堂を集合場所として使わせてもらいました。総勢約70名、みんなで礼拝していざ農園に出発。昨年は不作で根っこそのものみたいな細いのしかとれなかったけど、今年はどうだろう。。。なんと思いがけず大豊作でした。一番重い「でぶいもちゃん」大賞は1400グラム超えの超大物。大満足の内に芋掘りを終え、石神井公園に移動。武蔵野の面影を残す木々の下で、どんぐりを拾ったり遊具を楽しんだりした後は、みんなでお弁当を食べました。なんとも言えない平和を味わいながら、穏やかな秋の一日を過ごしました。
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【先週(2025年10月26日)の説教要旨】
「はじめにーこの素晴らしい世界」
創世記1章1-5節、1章26-2章4節a
西岡裕芳牧師
天地創造物語をつむぎだしたのは紀元前6世紀、バビロン捕囚の民である。国を失い、闇の中を生きていた彼らは、どんなに困難な状況であっても、神は「光あれ」と言葉を発して光を輝かせるのだ、と希望を語った。
「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、暴風が水の面を吹き荒れていた」(1:2私訳)状態から始まる創造の業は、洪水が襲った世界からの回復の過程と一致する。真っ暗闇の世界に陽が差し、水はあるべき場所に収まり、灰色一色の大地に草花が芽吹き、動物たちが現れ、人間の暮らしが始まる。あの東日本大震災で津波が襲った地域もそうであったように。
ここで欠かせないのは、人間の、神に対する応答としての、世界への積極的な関与である。東日本大震災では、人類史上最大級の核事故が起こった。神は人間に、この世界を「支配させよう」と語ったが、これは本来、「管理」について語る言葉である。世界を好き勝手に浪費し、破壊することではなく、保つために配慮し、世話をすることが人間の務めなのだ。
神は人間を、自分にかたどって創造された、とも言われる。古代オリエント世界では、「神の似姿」とは王を指す言葉であった。王以外は王の支配に服する劣った者たちと理解されていた。けれど、人は皆、地上にたてられた神の似姿だという。王と言えども、人々の尊厳を奪うことはできない。
世界の支配者のように振る舞い、環境破壊を行ってきた人間は、実は、科学万能主義や経済至上主義などの偶像に支配されていたのではないか。人が神にのみ捕らえられ、世の支配するものから解放され、自由に生きる存在として立つ時、灰色に塗り込められた世界は、「見よ、それは極めて良かった」と神が語られたとおりの色鮮やかで美しい世界として回復する。
【2025年10月26日発行】副牧師室 園庭の見える窓から
Ⅹ 秋の散歩
鬼形惠子牧師
急に秋が深まり、金木犀があちこちで香り、自宅近くのイチョウ並木も紅葉してきました。
先日大船フラワーセンターに夫と出かけました。大船駅から徒歩15分程の場所にあります。春のバラ園や牡丹、芍薬の時期は見応えがありますが、花が少ない季節でも楽しめます。ここは日比谷花壇が管理していて、広場の花壇などもセンス良く整えられています。でも、いつも人は多くありません。簡単なカフェがあり、外のベンチでコーヒーを飲んでいると、のんびりした気持ちになります。先日は広場にハロウィンのおばけかぼちゃが沢山置いてあって、小さな子供たちが転がして遊んでいました。この時期はクイズラリーもやっていて、参加すると秋植えの花の種をくれます。昨年は「矢車草」の種をもらい、春に様々な色の花が咲いて楽しめました。今年も「なでしこ」と「アスター」の種をもらい、早速蒔きました。冬を越して春にちゃんと花が咲くのが不思議な気がして、楽しみにしています。
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【先週(2025年10月19日)の説教要旨】
「モーセの生涯」
申命記34章1-12節
鬼形惠子牧師
旧約聖書を代表する預言者モーセの生涯。エジプトに移住したヘブライ人は、奴隷として強制労働をさせられていた。モーセはヘブライ人の子どもとして誕生するが、エジプトの王女によって拾われ、エジプトの王子の一人として育つ。成長して自分の出自を知ってから、ヘブライ人を助けたいと願うようになり、ある時奴隷をかばってエジプト人を殺してしまう。そのまま砂漠へと逃亡し、砂漠の遊牧民であるミディアンの人達と出会う。結婚し家族を得て、モーセはそこで神への信仰を知る。そして「エジプトに戻り、ヘブライ人を奴隷から解放し、故郷であるカナンに連れ帰るように」との神の召命を受ける。モーセは躊躇しながらも、神から与えられた「神の杖」を手に取り、エジプトに戻って行く。ファラオとの交渉は難航するが、モーセは神の杖を使って奇跡を起こし、ファラオは奴隷の解放を承諾する。ヘブライ人は自由を得てエジプトを脱出し、約束の地カナンに向けて出発する。しかし、その旅路には困難が多かった。ファラオの軍隊が追跡して来たり(紅海徒歩)、食料や飲み水が尽き、そのたびに人々はモーセに不満を訴えた。モーセは神の杖を使って難を逃れながら、人々を導き、共に旅を続けた。途中神から「十戒」を与えられ、目的地カナンは近づく。モーセと人々はモアブの平野からネボ山、エリコの向かいにあるピスガの山頂に上った。そこからカナンの地を見下ろす。ここを降りて行けば目的地カナンに入れる。しかしモーセの生涯はここで終わりを迎えた。神は、どうしてモーセに約束の地を踏ませなかったのか。モーセに何か足りなかったのだろうか。しかし聖書には、モーセは主が顔と顔を合わせて選び出された預言者であり、ふたたびモーセのような預言者は現れなかったとある。神は目標を達成したかどうかではなく、神の導きをただ信じて、忍耐しながら人々共に歩んだモーセの働きを、それで十分であり、大きな価値があると言われるのだ。
1960年代のアメリカで、公民権運動の指導者として活動したキング牧師は、このモーセの最後の場面を引用した演説を行っている。1968年に暗殺される前夜の説教の一部抜粋を紹介する。「神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方が見渡せた。私は約束の地も見た。私は、みなさんと一緒にその地に到達することができないかもしれない。しかし今夜、これだけは知っていただきたい。すなわち、私たちは一つの民としてその約束の地に至ることができる、ということである。だから、私は今夜幸せである。」翌日の暗殺を知っているかのような内容だが、常に死を覚悟していたと思われる。キングが「神は私に山に登ることをお許しになった」と語るのは実際に山に登ったのではなく、ネボ山に登ったモーセのことを例えている。キングは、モーセのように私もまた目的地に行けなくてもそれでいいと語ったのだ。道半ばであっても、キング牧師の歩みはその後の歴史を変えていく大きな歩みとなった。
私たちも日々の生活の中で、仕事、家のこと家族のこと、教会の業、それぞれに取り組んでいる。大きなことを成し遂げたかどうかに関わらず、努力してきたことは十分に価値があると神は言われる。神は、結果や成果を見る方ではない。私たちの歩みの一歩、一歩を見てくださるのである。日々の小さな働きを大切にしていきたい。
【2025年10月19日発行】
「本のなれの果て」
西岡裕芳牧師
転居の度に困るのが本の始末です。以前も書いたことがあるように、自分のライブラリーを作るつもりで、本を買い漁ってきました。それだけに、書棚に溢れる本を全部持って転居するのは、量が多すぎて困難なのです。
以前の転居のおり、本を減らすために一部を「自炊」することにしました。「自炊」とは本をスキャナーで読み取り、デジタル化=PDFデータにすることです。『信徒の友』『福音と世界』などの雑誌は1年12冊、10年分以上もたまって書棚を占領していたので、原則として自炊したのです。まず、大型裁断機とスキャナーを購入しました。大型裁断機は、本の背表紙を切り落とすために使います。スキャナーは、自動原稿送りで紙を次々に吸い込み、両面を一気に読み取ることができるスグレものです。PDFデータがあっという間に作れます。データ化しても結局は読む機会はないかなと思っていましたが、さにあらず。雑誌は、記事を調べることが時々あって、パソコンの前で居ながらにして探すことができるので重宝しています。どんどん増殖を続ける新書も大半を自炊しました。
先週、次の転居が近づきつつあるので、本の準備をせねばと書棚を眺めて決心しました。今回、①持って行く本 ②実家に送って保管する本 ③自炊してPDFデータにする本 ④廃棄する本 の4種類に分けようと。そしてまずは新書の自炊を開始しました。
当たり前ですが、何枚もの紙がちゃんと背表紙でつながっているから本は本なのだと気づかされます。本の背表紙を裁断機でザクッと切り落とすと途端にまとまりを失い、ただの紙束になります。そのさまは、見ていて切ない。「おれは本だ!」と断末魔の叫び声が聞こえてくるようです。
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【先週(2025年10月12日)の説教要旨】
「選ばれた人たち」
マルコによる福音書13章28-37節
西岡裕芳牧師
イエスは世の終わりの時について語って、いちじくの木の比喩を示した。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」。世の終わりの時の接近は、いちじくの木の変化で、季節を知ることができるようにわかるのだ、と。
パレスチナでは冬から春になったと思ったら一晩で夏になるという。いちじくの木は、冬は枯れてしまったかのように葉を落とすが、暖かくなると青々と芽吹く。いちじくは夏の到来を告げる。それは収穫の季節も近いことを示す。収穫は、旧約預言者によれば、神の裁きの比喩でもある。
ところがイエスはこうも言った。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。終りの時、この世のすべては滅びる。しかし、終わりの時を越えて残るものがある。それは「わたしの言葉」であるとイエスは言う。イエスの出来事を通してなされた神の救いの約束は真実である。だから、終りの時は裁きの時でありつつ、救いの時なのだ。わたしたちの古いものが滅ぼされ、新しい真の命に生かされる、始まりの時なのだ。
世の終りの時を形容するのに、イエスが、いちじくによって夏を用いたことが、この消息を示している。夏は、命の溢れる喜びの季節なのだから。わたしたちは終わりの時を望み見て、目を覚まして喜んで励みながら待つ。
弓町本郷教会は創立139年を迎えた。これまでの歴史に向き合い、省みることは必要であろう。一方、「過去の栄光」にこだわるべきではない。教会は決して完成しておらず、なお途上にある。今、わたしたち自身が、その生き方で神の国が始まっていると証しするならば、いちじくの枝や葉のようにまもなく終わりの時が来る、神の国が完成すると示すことになる。
【2025年10月12日発行】
「年長児キャンプ」
西岡裕芳牧師
夏にお泊まり会をする幼稚園は多いですが、外に出かけてキャンプを行うのは少数と思います。弓町本郷幼稚園では毎年この時期、富士宮市の富士山YMCAで1泊2日のキャンプをしています。今年も10月7日から8日にかけ、年長児9人と教諭5人ででかけてきました。心配された台風の影響もほとんどなく、2日間良い天候に恵まれました。1日目の日中、隣接する馬飼野牧場で動物と触れ合い、夕刻キャンプ場に着くと広々とした草原で虫探しに興じ、夜はキャンプファイヤーを楽しみました。2日目午前はネイチャープログラムがあり、特にすすきの迷路に挑戦することもできました。布団の準備や片付けなども協力しあって行うことができました。
キャンプでは、年長児たちの成長の様子を垣間見ることができます。そして、この後も年長児の出番が続きます。11月にはハンドベル音楽会が、12月には聖誕劇が行われます。ただ、成長は確かに嬉しいのですが、急がず焦らず、ゆっくり成長してほしいとも思います。こども時代を十分に楽しんでほしいと思うのです。
夕刻、富士山が赤く染まってすばらしかったので、今日は特別にカラー写真付でお届けします。(配布された週報付録の紙面をご覧ください)
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【先週(2025年10月5日)の説教要旨】
「選ばれた人たち」
マルコによる福音書13章14-27節
西岡裕芳牧師
「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら」と、ダニエル書と同じ言葉を用いてイエスが語ったことを伝えながら、マルコによる福音書13章は、まるで注のように「読者は悟れ」と言葉を差し挟んだ。それは、マルコの時代、立ってはならない神殿の聖なる場所に立った憎むべき破壊者がいたことをほのめかしている。
じっさい、紀元70年、ローマ帝国の軍隊はエルサレムを攻撃し、神殿は粉々に破壊された。この時、ローマの将軍ティトゥスが至聖所に入ったというのだ。マルコ福音書が記された時から遡ること数年、未だ現在進行中のことであった、と言ってもよいであろう。
「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」以下、戦乱の中ではとるものもとりあえず、まずは全力で逃げるようにと勧められている。こんなことが起こったら、もはや世も終わりと浮足立つのが世の常であろう。しかし、冷静に行動しなければならない。苦難は確かに「神が天地を造られた創造の初めから今までない」ほどのものでも、「今後も決してない」というのだから、まだこの後があって世はしばらく続く。むしろ、この際に受ける未曾有の苦しみこそが、一定の期間で終わると言う。長く苦しまなくてよいように、主がその期間を縮めたとも言う。
イエスは「選ばれた人たち」と繰り返し語った。この苦難の中にあっても、あなたがたは神に選ばれた者たちなのだ、神に選ばれた者として神に守られているのだ、と。これほど、勇気を与えられる言葉はない。
今、わたしたちは「選ばれた人たち」と呼びかけられている。だから、苦難が繰り返すとも希望を持って生きる。終わりのときが来るまで。
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