✑ふらりと訪れたい高松
縁もゆかりもなかった街、高松を訪れるようになったのは2年前のことです。きっかけは、瀬戸内海の多島美を眺めながら船で高松港へ向かう映像でした。その景色に惹かれて「一度行ってみたい」と思ったのです。それまでの高松の印象は、うどんの街、栗林公園がある場所、という程度でした。高松港から少し歩くと、海に向かって伸びる赤灯台、せとしるべがあります。その先には穏やかな瀬戸内の海と島々がひろがり、離島へ向かう船がひっきりなしに行き交っています。見上げれば高層ビル、足元にはどこか懐かしい瀬戸内のゆったりした空気。新しさと素朴さが心地よく混ざり合っています。美味しい食事、港町の空気、そして人の優しさ。レンタサイクルでゆっくり走るだけでも、この街の魅力が伝わってきます。気づけば、私はもう何度も高松を訪れています。次はいつ訪れようかとふと考えてしまう街です。
✑ひとり旅のすすめ
きっかけは、連れの予定が合わなかったことでした。ひとり旅の最初のハードルは、人それぞれだろう。私はたまに、ひとり旅に出る。ひとりで歩いていると不思議なことがある。見知らぬ土地でも地元の方や私と同じような旅行者が気軽に声をかけてくれるのだ。「どちらから来られたのですか」「この先にいい景色がありますよ」そんな何気ない言葉を交わすことがある。こちらも遠慮なく道を尋ねたりする。連れがいないからこそ生まれる会話なのかもしれない。どこへ向かうのか、どこで立ち止まるのか、何を食べるのか、誰にも忖度せず選びきれるのも、ひとり旅のよさだろう。もっとも、いいことばかりでもない。ひとりで食べるご飯は、好きなものを選びきっても少し寂しい。それでも、ひとり旅をしていると自分が少し強くなれる。誰かをあてにしない。よりかからない。それがデフォルトになるからだ。考えてみれば、仕事でも家でも、そんな瞬間はあまりない。誰かをあてにせず、よりかからず歩く。進んでいるうちに背筋が伸びてくる。日常を少し離れるだけで非日常の空気が思いがけず元気を注いでくれる。そして離れてみて、あらためて家族のありがたさにも気づく。――そんなおまけも、ついてくる。
✑小さな背中
息子家族の帰省で私はひろちゃんとの時間をもらった。三歳の元気な男の子である。「一緒に行く?」と声をかけると、「いくー」と迷いのない返事が返ってきた。ひろちゃんと初めて二人きりで歩く道だった。いつもの道をひろちゃんと歩く、たったそれだけのことが私には小さな奇跡のように思えた。ひろちゃんは行き先を知らない。それでも、身体ごと前へ前へと弾むように進んでいく。小さな背中が街の空気を切り分け、私はそのあとを小走りで追う。寒いのに胸の奥は静かに満ちていった。「ひろちゃん、今からね、三つ行くよ。パンやさん、ふくやさん、それからおかしやさん」そう言うと、「うん!」と手をぎゅっと握り返し、また走り出した。その小さな体に、世界を信じきる力が宿っていることに胸が詰まる。わたしはいつから、行き先を知らないまま進めなくなったのだろう。
パン屋では、ただ笑うだけで場を和ませる。見知らぬ誰かの「似合ってるね」に、鏡の前で得意げにポーズを決め、親指を立てて応える。おかしやでは迷い立ち止まり、それでも最後は自分で選びきった。帰り道、公園を巡った。砂場で転び、膝に擦り傷。それでも泣かず、年上の子の輪に混じって遊んだ。そのうしろ姿を見ながら、この時間がいつまで続くのかと、ふと思う。夜、ようやくお風呂で「痛いよ~」と泣き顔になる。思ったより大きな傷だった。湯気の向こうで、昼間の強がりがほどけていく。小さな体に満ちるかけがえのない命。私はこの日のことを、きっと何度も思い返すだろう。