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「オツカレサマ、フルヤ」
合同会議が終り、手元の資料の束をトントンと揃えていた降谷の元へ一人の女性が近づいて来た。艶やかな栗色の髪を高い位置で一つに束ね、細身のパンツスーツが良く似合う知的な印象の美人はジェニファー・シモンズ、FBI捜査官の一人である。
「お疲れ様です、シモンズ捜査官」
「もう!そんなよそよそしい呼び方やめてっていつも言ってるでしょ!」
歳は降谷より少し上、確か赤井と同じだという彼女はひと月に来日して合同捜査に加わっている。一目見た時から降谷のファンを公言し、暇さえあればこうして接触を試みていた。
今日もこの後ランチでもどうかと誘ってみるが、弁当を持参して来ている事を理由に断られていた。それでもめげたりしょげたりせず、次は付き合ってねとあっさりと引く。冗談なのか本気なのか判断付きかねるこのやりとりはもはや日常となりつつあった。
「懲りないですね、シモンズ捜査官」
デスクに戻ると風見が労う様に声を掛けてきた。降谷は弁当を取り出しながら、肩を竦める。
「僕に近づいて何か抜き取る気だろうが、生憎色仕掛けには興味なくてね」
独身男が女性に求めるもののうち、その殆どが自分の方が上回っていれば興味も効果もないと言うものだ。蓋を開けた弁当箱の中身は色とりどりで栄養バランスも良く、少なくとも料理という点では降谷は女性に対して期待していない。
「今日も美味しそうですね」
「だろう?この豚肉の味噌漬け、自信作だから食べてみてくれ」
勧められて一切れ口に入れれば風見は目を丸くして夢中で咀嚼しごくりと飲み込んだ。その様子に降谷は大満足で食事を始めた。
料理はこの通りだし掃除や洗濯と言った家事はお手のもの、独り身とは言っても家にはハロが居て癒してくれる。自身が容姿に恵まれているからか組織時代に連れまわされた美女で見慣れたからか、美人というものに大した価値を見出せない。
異性と付き合うメリットとして後は性欲の発散というものがあるが、他人に無防備に急所を晒すよりは自分で処理した方が安全と考えるほどには淡泊で、まったく経験がないわけではないが平均と言えるほどの経験値もないのが現状だった。
昼食後は先の会議で行われた質疑応答について検証し新たに取りまとめた資料を作成する。ここのところデスクワークばかりで肩が凝るとぼやいて自分で揉みほぐしながら、休憩してくると言って降谷は席を立った。
「あ、」
廊下の端にある休憩スペースに足を踏み入れると、そこには自販機のボタンを押そうとしている赤井が居た。
「やあ、君も休憩か?」
ピッとボタンを押す音に続いてガコン、と缶が落ちる。
「ええ」
目は合わさず短く答ると、赤井がふっと笑った気配がしてムッとする。用が済んだらさっさとそこを退けと文句の一つも言ってやろうと顔を向けると、目の前にカフェオレの缶が差し出された。
「な…?」
「いつもこれを飲んでたよな」
どうぞと右手で缶を差し出したまま左手で再度小銭を投入し、もう一度ボタンを押す。今度は赤井が常に飲んでいる銘柄のブラックコーヒーだった。
「あなたに奢ってもらう筋合いはありませんが」
「まぁそう言うな。缶コーヒーを飲み終えるまでの時間、おしゃべりに付き合ってくれ」
「ろくに喋らないくせに」
「では言い換えよう。君のおしゃべりを聞かせてくれ」
そう言われても一体何を話せば良いのやら。赤井とは一応の和解をしたものの、一方的に恨みを抱いて大変な迷惑を掛けたという自覚のある降谷は、これ以上の無礼を働くわけにはいかないと挨拶程度は交わすものの一定の距離を保って接している。
「…今日はいい天気ですね」
「そうだな」
「………」
「………」
会話が続かない。普段は回りすぎるほど回る口がなかなか言葉を紡ぎだせなくて焦る。沈黙が居たたまれなくて、降谷は黙々とカフェオレ飲んだ。
「――――降谷くん」
「は、はい」
声を掛けられたのがちょうど缶を煽ったタイミングだったので思わず咽そうになりながら返事をすると、赤井は吸い終えた煙草を灰皿に押し付けてもみ消しながら言葉を続けた。
「ジェニーがすまない」
「へ?」
「しつこく付きまとっているだろう?」
「あー、シモンズ捜査官ですか。はい、まぁ」
「降谷くんを困らせるなと言っているんだが」
一瞬誰の事かと思えば例の女性捜査官のことだったが、彼女の言動はたしかに積極的ではあるが執拗というわけでもないし、困っているわけでもない。
「困ってはないですよ。ただ彼女みたいな美人にあそこまで積極的にアプローチされると、何か裏があるのではって警戒してるだけです」
「美人、だと思うのか」
「美人でしょ。どう見ても」
「……好みのタイプ?」
「いいえ」
探るように訊いてくる赤井に即答してやると、妙にほっとした顔をしたので降谷はとある答えを導き出した。赤井はきっと、彼女の事が好きなのだ。だから降谷の気持ちをきちんと確認し安堵したかったに違いない。
「あなたも意外と俗っぽいとこあるんですね」
「……? まあ、俺もただの男だよ」
降谷が楽しそうに笑ったからか、赤井も目を細めて微笑んだ。珍しいモノが見れたなと降谷が更に笑みを深めると、赤井は少し照れたような表情で新しい煙草に火を点けた。
次の日から降谷は注意深く観察してみた。するとどうだろう、ジェニーが降谷にちょっかいを出しに来ている時、必ずと言っていいほど近くに赤井の姿がある。
「ねぇ、フルヤ!今日こそランチに行きま」
「ジェニー、お前の作ったこの資料、間違いがあるぞ。すぐに直せ」
また別の日には、
「フ~ルヤ!雰囲気のいいバーを見つけたのよ~。一緒に行か」
「ジェニー!ジェイムズのところへこれを持って行ってくれ、今すぐに、だ」
そしてまた別の日には、
「ねぇねぇ、フルヤ!あなたいい居酒屋知ってるでしょう?今晩連れて行っ」
「ジェニー!ここに居たのか、探したぞ。マイクが呼んでる。急いで戻るんだ」
こんな調子でジェニーが降谷を誘おうとするとことごとく赤井が阻止をする。結果的に置いてけぼりにされる降谷は、赤井のやつ必死だなぁ…なんて少しばかり同情してやった。
そのうちジェニーはランチや飲みに誘うのは諦めて、別の角度からのアプローチを思いついたらしい。何故かメンズ向けのファッション雑誌を手に降谷の元を訪れ、次から次へとシャツやらジャケットやらをお勧めしてくる。
「ねぇフルヤ、これあなたに似合うんじゃないかしら?」
「そうですかぁ?僕にはもう少し丈が短い方が似合うと思いますけど」
降谷はてきとうにあしらいながらテキパキとデスクの上の書類を決裁していく。そうしてるうちにやっぱり赤井が現れた。
「おい、ジェニー!姿が見えないと思ったらまた降谷くんの邪魔をしているのか」
「あら、シュウ」
「サボってないでさっさと戻って仕事をしろ」
「よく言うわね、サボりの常習犯のくせして」
ジェニーは赤井と歳が同じだからか、彼の元恋人であり同僚の中でも一番気の置けない仲のジョディ以上に赤井に対して辛辣だった。
「降谷くん、すまなかった。こいつは連れて帰るよ。ほら戻るぞ」
「ちょっとぉ痛いわよ、乱暴なんだから!またね、フルヤ!」
ぐいっと腕を引くと大げさなくらい痛がって見せて、ベェっと舌を出す。赤井に対して媚びを売らない女性を見るのは新鮮で、だからこそ赤井は彼女を好きになったのかもしれないと降谷は分析した。
そう結論付けて考えてみると、赤井にとって降谷は憎い恋敵というやつではないだろうか。もしも変に拗らせた赤井が自分を逆恨みなんて事になったら面倒だ、ならばここは赤井に協力してやろうではないかと降谷は考えた。
「シモンズ捜査官はいらっしゃいますか?」
FBIに宛がわれた一室を覗き込んで声を掛けると、すぐに反応したのはジェニーと赤井だった。
「フルヤ!」「降谷くん!」
しかし名指しされたのはジェニーなので、彼女は赤井に向かって得意げに笑って見せ、降谷の元へ駆け寄った。
「どうしたの?あなたの方から来てくれるなんて珍しいわね」
「ふふ、そうですね。いつも都合が付かなくてお断りばかりしているので、今日は僕がお誘いに来ました」
「えっ!本当!?」
思ってもみなかった言葉にジェニーは驚いたが、それ以上に驚愕したのは赤井だったようで、これ以上ない程に目を見開いていた。
「本当ですよ。今晩、食事でもどうですか?」
「行く!もちろん行くわ!」
ジェニーが頬を紅潮させ喜んだ。ちらりと赤井を盗み見ると、感情が抜け落ちたかのような無表情で立ち尽くしている。
「で、良ければ赤井もご一緒にどうですか?」
「…え?」
「食事。一緒に行きません?」
「あ…、ああ、行く。一緒に行くよ」
「えぇーっ!私はフルヤと二人がいいのに!」
ジェニーが不満そうに文句を言うが降谷は笑顔であしらい、詳細はメールで送ると言い残して帰って行った。
「シュウ、あなたお願いだから引いてちょうだい」
「冗談じゃない。絶対引かないからな」
二人が顔を合わせてバチバチと火花を散らしていたことなど、もちろん降谷は知るよしもない。
降谷が選んだ店は和風創作料理の店で、会席料理が評判の店だった。和モダンをテーマにしたカジュアルな店構えと料理は外国人にも受けが良く、ジェニーも口コミで知っていて一度来てみたいと思っていた店だった。
「フルヤってセンスいいわね」
「まぁな」
まるで自分が褒められたかのように赤井が答えるので、あんたを褒めたんじゃないわとジェニーが噛みつく。
「それにしても…遅いわね」
約束の時間の少し前、降谷からは遅れる旨の連絡があった。店にも連絡が入ったらしく彼の分のコースはキャンセルされ、食事は二人だけで進めていた。
この二人、ここ最近は降谷を挟んで対立しているような言動を取っているが、別に仲が悪いわけではない。むしろ歳が同じだけあって共通点も多く、本来はそこそこ良好な間柄である。今は降谷抜きなのは至極残念だが、それなりに会話を楽しみつつ美味い料理を堪能していた。
後は飯と汁物という段階になってようやく降谷からこれから向かうという連絡があった。二人が丁度食事を終えた頃に到着し、店を変えて飲み直す事になった。
「降谷くん、さっきの店の食事代だが」
降谷から店の前で待っているからと連絡を受けて席を立った時には既に会計が済んでいて、赤井のカードは用を成さなかった。
「僕が誘ったんですから僕の奢りです。恩を着せられるのが嫌なら次のお店は赤井の奢りってことで」
そう言われて連れて行かれたのは白髪のマスターが一人で切り盛りしているこじんまりとしたバーだった。いつもはカウンターで飲むが今日は三人なのでとボックス席に陣取り、それぞれ好きな酒を注文する。
「相変わらずそれなんですね」
「ああ、俺はいつだってバーボン一筋だよ」
「……くっさ!」
赤井がグラスを持ち上げて言えば、ジェニーが鼻にしわを寄せて茶々を入れる。じろりと睨んでやってもどこ吹く風で、まるで夫婦漫才を見ているようだと言って降谷はくすくすと笑った。
「やめてくれ」「やめてちょうだい」
「ほら、息ぴったり。相性バッチリじゃないですか」
それから降谷は唐突に赤井を褒め出した。やれ顔がいい、頭の回転が速い、仕事が出来る、こう見えてとても優しい、包容力がある、報連相はアレだけどそれをカバーして有り余るだけのものを持っている――――等々。赤井とジェニーが口を挟む余裕を与えないほど降谷の口からは淀みなく赤井を称賛する言葉が次々と発せられ、言葉を尽くし終えるとふぅと息を吐いた。
「ふ、降谷くん?」
和解したとは言ってもそう親しくなれたわけでもないのに、こうも手放しで褒められればなんとも面映ゆい。嬉しい気持ちが半分、何かあるのではと思う気持ちが半分で、その予感は的中した。
「だから、僕なんかより赤井を好きになればいいと思いますよ」
さらりと言って、降谷は席を立った。
そのあまりの隙のなさに、赤井たちがハッと我に返った時には降谷はもう出入口の扉を開け出ていくところだった。
初めから会計は赤井に頼んでおいたから気兼ねなく店を出て、一人夜道を歩く。まだ終電には早いが電車に乗る気にはなれなくて、だからと言ってタクシーという気分でもない。強いて言えば飲み足りないというか、そもそも夕食すら食べていない事を思い出し、ふと目に付いたので牛丼屋へ寄って遅い夕食を摂ることにした。
自分がバーを出た後、赤井は上手く彼女を口説けただろうか。あれだけ援護射撃をしてやったのだから、ちゃんとモノにしろよな、なんて独り言つ。
あの場で言った赤井を称賛する言葉たちは、紛れもない降谷の本音だった。組織で初めて会った時からデキる男だと思っていたし、なぜこんな犯罪組織に身を置いているのかと惜しむ気持ちも抱いていた。たぶん憧れや尊敬に近い気持ちだったのかもしれないが、若かった自分はそれを素直に認めることができなくて何かと反発したり突っかかったりしていた。
NОCと知った時は、あの因縁さえなければ普通に喜べたのだろうと思う。和解した今もつんけんしてしまうのは、それまでの自分の行いを振り返ると恥ずかしいというくだらない自尊心のせいだが、それだって赤井は気にすることもなく普通に接してくれている。男として、人間としての格の違いを見せつけられるようで、赤井と顔を合わせるといつも気持ちがざわざわした。
「あかい…しゅう、いち」
もう何度も呼んだその名前。思わず口を突いて出てしまい、ハッと気づいて慌てて牛丼をかき込んだ。
翌日、ジェニーは降谷の前に姿を見せなかった。
あれだけしつこく毎日熱心に降谷の元に通い詰めていたから、周りの者たちも何か物足りないような妙な気分で一日を終えようとしている。
「今日はシモンズ捜査官、来ませんでしたね」
「ああ。対象が他に移ったからな」
「え、そうなんですか?」
ざわ…。
降谷と風見の会話を皆が聞き耳を立てているようだ。それに苦笑しながら言葉を続ける。
「赤井のヤツ、どうやら彼女に好意を持っているらしくてな。昨日、二人の仲を取り持ってやったんだ」
今日、彼女が自分のところへ来ないのは、つまりはそういう事なのだろう。
赤井は想いを成就できるし、自分は彼女の猛アピールから逃れられる。ジェニーがどこまで本気だったかは知らないが、女性の気持ちを袖にするのはやはり気が引けるもので、彼女が赤井に靡いてくれれば誰も傷つかずに済む大団円ではないか。そう思ってあの二人のキューピッド役を買って出たのだ、上手く行ったのだからもっと晴れやかな気分になっていいはずなのに、何かが喉の奥につかえているように息苦しい。
あの後ふたりはどうしたんだろう。いい雰囲気になって、手を握り合って。ここは日本だけど彼らはアメリカンだから、ところ構わずキスなんかしたんだろうか。あの店のすぐ近くには東都の街並みを見下ろせる高層のホテルがあった。肩を寄せ合って、ホテルへ行って、それから――――。
そこまで考えて、ふるふると頭を左右に振った。
「降谷さん?」
胃の辺りがしくしくと痛む。鳩尾に手を当ててきゅっと握り込めば、胃痛ですかと風見が心配そうに尋ねた。
「…いや、なんでもない」
広げていた書類を手早く揃えてクリアファイルにしまい、今日は早く帰ろうかなんてぼんやり思った。
それから数日が過ぎた。
あれ以来ジェニーはすっかり鳴りを潜め、わざわざ降谷の所へ押しかけて来るような事はなくなった。合同捜査会議も今週は開催されないので、同じ建物の中にいてもそうそう顔を合わせる事もなく、彼女ばかりでなく赤井もその後どうしているのか降谷は知らずにいた。
あれから毎日、二人の事を想像してしまう。仕事に没頭している時は忘れていられるが、ふと気を抜くといつのまにかそんな事ばかり考えてしまう。今では夢にまで仲睦まじい様子の二人が出てくるようになった。そして何度目かに見た夢で、赤井にキスをしようとしているジェニーがいつの間にか自分にすり替わっていて、ついには夜中に叫びながら飛び起きてしまった。
ここまで来ると、さすがの降谷も認めないわけにはいかなくってしまった。自分の事は自分が一番知っているのだから。
「僕……赤井のことが好きなんだ――――」
認めてしまえばここのところのもやもやした気持ちの原因はこれなのかと納得できた。必要以上に反発したのも、心の底から憎んだりしたのも、申し訳なくて顔向けできないと落ち込んだのも、全て赤井の事が好きで過剰に意識していたからだ。
自覚がなかったとは言え、好きな相手の恋の手助けをして結果的に失恋するなんて、自分はなんて間抜けなんだろう。
はは、と乾いた笑いだけが一人きりの部屋に響いた。
翌日、久しぶりに、本当に久しぶりにジェニーが降谷を訪ねてきた。だがプライベートではなく仕事上の用件として。
自分の気持ちを自覚してどっぷり落ち込んでいるところに会いたくはなかったが、仕事となれば断るわけにもいかず、ミーティング用の小部屋に移動する。テーブルの上に資料を広げ、書類を挟んであれやこれやと意見を述べ合った。追いかけまわされていたイメージが先行して忘れがちだったが彼女もまた優秀な捜査官であり、鋭い分析と柔軟な考え方に舌を巻く。ああ、さすがあの赤井が好きになるほどの女性だなと、素直に思った。
「ん、さすがねフルヤ。あなたに意見を求めて正解だったわ」
「……これ、バーボンだけじゃなくてライ…赤井も関わった事件ですよね。彼はなんて?」
「シュウ?あー、彼は先週から不在にしてるのよ。だからあなたに聞いたの」
「え?そうなんですか?」
先週からという事は、今日が木曜日だから少なくとも一週間になる。三人で飲んだあの日も木曜日だったから、翌日からもう居なかったのだ。あれから二人が毎日愛を育んでいたのではなかったと、そう思うと少しだけ気持ちが浮上したが、それと同時に馬鹿みたいだと自嘲した。結論がほんの少し後ろ倒しになっただけではないか、と。
「……ねえ、フルヤ」
いつの間にかテーブルの上に広げていた資料をまとめてきれいに揃えたジェニーは、ひどく真剣な表情をしていた。なんですかと続きを促したが、指を組んだり口を開いたり閉じたり落ち着かない様子でなかなか話し出さない。それでも根気よく待っていると、すぅっと息を吸い込んだジェニーが、意を決して言葉を発した。
「あなた、シュウのことが好きでしょう?」
「な、…なに言ってるんですか。僕が赤井を好きなわけ」
「ないって言えるの?誓って?――――あんな目をしていたくせに」
「っ、」
あんな目ってなんだ。いつの話だ。
ぐるぐると空回りするばかりで、うまく思考がまとまらない。
「勇気を出して、フルヤ。あなたの本当の気持ちを知りたいの」
一回り小さな温かい両の手が降谷のきつく握りしめられた手を包んだ。慈愛に満ちた微笑みは、初恋の女性に少しだけ似ているような気がした。
ジェニーに誘導されるまま気持ちを吐露した降谷は、形のない想いを言葉にする事によってどことなくスッキリとした気持ちでいた。
「あのね、フルヤ。私、あなたのこと真剣に好きだったのよ。今はフリーだって聞いたからそりゃもう頑張ってアプローチしたわ。あなたが私を好きになってくれたらFBIを辞めて結婚してこちらに住んで、授かれたら子供は二人産んで、将来は帰化して日本人になる、って計画立ててたの」
やけに具体的すぎて降谷は少しだけ引いたが、そこまで真剣に思ってくれていたとは思いもよらなかった。アプローチが積極的過ぎて、からかわれているか情報を抜こうとしているかだとしか思っていなかった事を申し訳なく思った。
「それなのに、きちんと向き合おうともしてくれないし、はっきり断りもしないで他の男を宛がってくるなんて、随分と失礼じゃない?」
「…済みません。正直、あなたがそんなに真剣だったとは思ってもみなくて。それにあなたが何故、そこまで僕の事を好きなのかも見当つかなくて」
ジェニーは初めてあったその日からもうそんなテンションでアプローチして来ていたから、降谷が誤解しても当然と言えば当然なのだが。
「私、バーボンのファンだったの」
赤井がライとして組織に潜入していた頃、彼から送られてくる報告書を読むのが楽しみだった。特にバーボンについての記述があるそれは暗唱できるくらい繰り返し読んだし、バーボンについての知識は誰よりも持っていると自負している。犯罪組織の一員であると思っていた時でそれなのだから、彼がNOCで自分たちと同じ側の人間だと知った時にはもう恋に堕ちていたのだと言う。
「シュウには何度もバーボンの話を強請ったわ」
「あいつ、何を話したんですか」
「話して貰えたのはたわいもない話よ。金髪でとてもキュートだとか、華奢に見えるけどパンチがとても重いとか。あとはそうね…バーボンは老若男女構わず虜にするとか、下衆な噂が付きまとうけど事実無根なんだとか、とても優秀な探り屋だ、とか。褒め言葉しか聞いたことがないわ」
赤井がそんな風に他人に話してくれていたと知って、恥ずかしいけどそれを何倍も上回るほど嬉しかった。
「あなたにはフラれちゃったけど、だからってシュウを好きになんてならないわ。好みじゃないのよ、可愛げがないじゃない?」
ジェニーは可愛い年下の弟タイプが好みだと言うので、なるほど赤井はその対極にいるなと納得する。女性なら誰もが赤井を好きになると思っていたから降谷はちょっと新鮮な気持ちになった。
「あの…、シモンズそ「ジェニーって呼んでってば」
いつも通りファミリーネームで呼ぼうとして遮られ、茶目っ気たっぷりに頬を膨らませて言われたら降谷は笑み返すしかなくて。
「…ではジェニーさん。あなたはどうして僕が赤井のこと好きだって気付いたんですか?」
自覚するよりも先に他人に悟られていたなんて、いくら相手が優秀なFBI捜査官だとはいえ公安失格ではないか。
「バーでシュウのセールスポイントを上げ連ねるあなた、恋する人の目をしてた。そして店を出ていく時、私にシュウを好きになればって言ったとき…とても辛そうな目をしていたのよ」
「~~~~っ」
降谷は頭を抱えてテーブルに突っ伏した。恥ずかしさの余り言葉も出ない。
ジェニーに気付かれたのなら、赤井にも気持ちが知られてしまったのだろうか。もしそうならちょっと立ち直れないかもしれない。恐る恐るジェニーに確認すると、彼女は大きなため息を吐いて左右に首を振った。
それなら良かった。どうせ知られるならば、きちんと自分の口から告げて区切りを付けたい。次に赤井に会う機会があったら必ず、そう降谷は決意した。
赤井と会う機会はすぐ、その日の午後に訪れた。決意してまだ数時間も経っていないのに、彼の方から降谷の部署を訪ねてきたからだった。
降谷は確かに告白をすると決意した。けれどこの展開はさすがに早すぎるだろう。心の準備が整わず、対面すると胸がどきどきと高鳴って苦しい。
「何の御用ですか?」
「これを君に」
赤井が差し出したのはいかにもお土産が入っていますといった風情の紙の手提げ袋で、中を覗くと包装紙に『紅芋タルト』と書いてある。
「沖縄行ってたんですか?」
「ああ。たまには実射訓練しないと腕がなまるからな」
なるほど、短銃の訓練なら色々手続きは必要だが警視庁の訓練所を提供できるが、ライフルともなればそうも行かない。それで米軍基地の施設を借りに行ったという訳か。
「ありがとうございます。皆でいただきます」
手提げ袋の中には大きな箱が3つ、皆で分け合ってもまだ余るほど。それを丁寧に受け取って、風見に皆で分けるよう手渡した。
「それから君にはまだ他にも…」
「?」
「泡盛を買って来たんだ。一緒に飲まないか?」
思わぬ展開となった。今日は木曜日で、明日の夜なら遅くまで飲んでも翌日休みだから都合が良いだろうとトントン拍子に話が進んで、なぜか降谷の自宅に赤井を呼んで飲むこととなった。
翌日は仕事を定時で切り上げてスーパーに寄り食材を買い求めた。赤井には8時頃に来るように言っておいたので、料理も余裕をもって用意する事ができ、準備万端整ったタイミングで待ち人がやって来た。
「こんばんは。お邪魔するよ」
赤井は土産の泡盛と赤白2種類のワインと日本酒とビール、それにバーボンを持って現れた。こんなに沢山と降谷が呆れ顔で言えば、どれが好きかわからなかったからとはにかむ笑顔に不覚にも胸がキュンと高鳴った。好きだと自覚してしまうと赤井の一挙手一投足にどぎまぎしてしまう。
赤井は降谷の手料理に驚き、美味いと絶賛した。最初の一杯は二人とも土産の泡盛を愉しんだが、赤井は二杯目からはバーボンに切り替えた。
「ほんと、それ好きなんですね」
「俺は一途なんだよ」
まだ親しい友人と呼べるような仲ではないのに、付き合いの長さだけは無駄に長いので話題に事欠くことはなく、思いのほか楽しい時間を過ごしている。降谷はもともと話好きだが、赤井は聞き上手な上に適当な返しも上手いから、いつも以上に舌が滑らかになった。そして喋れば喉が渇くから、潤すためにグラスを傾ける。
「降谷くん、飲みすぎだ」
酒の入ったグラスを取り上げられ、代わりに水のペットボトルを渡される。少し飲みすぎた自覚のある降谷は素直に受け取り、こくこくと半分ほど飲んだ。
「あの、」
「うん?」
意を決して口を開いたけれど、赤井と目が合って思わず俯いてしまう。でも、今、言わなければ。
「酔った勢いで言わせて下さい。――――僕、あなたの事が好きなんです」
「え、」
降谷がそうっと顔を上げると赤井はこれ以上ないくらい目を見開いて固まっていた。それはそうだろう、まさか降谷が自分を好きだなんて思ってもいなかっただろうから。
「あの、赤井?」
それにしても意識が戻ってこない。降谷が目の前でひらひらと手を振ってやると、赤井はハッと我に返った。
「今、なんて? 降谷くん、なんて言ったんだ!?」
「聞こえなかったらいいです。無かったことにして下さい」
一応、告白はした。ちゃんと本人に好きだと告げたから、区切りにしたい。きちんとお断りの言葉を聞いた方がいいのかもしれないけれど、ジェニーのことが好きな赤井の答えは聞かなくてもわかっている。
「嫌だ、無かったことにはしない。君、俺が好きだと言ったんだろう!?」
「……聞こえてんじゃないか」
思わずチッと舌打ちをした。
「言ったんだな?俺のことが好きだって、言ったんだよな?」
両肩をがっしりと掴んで問うて来る赤井の顔は少し怒っているようで、やっぱり言わなければ良かったかと後悔が押し寄せる。
「はいはい、言った!言いました!!悪いかよ!?」
「悪くない!」
降谷が逆ギレ気味に言い返せば今度は赤井もキレ気味に返して来る。頭の中の冷静な自分は夜中に何を叫びあっているのか近所迷惑だろうと咎めてくるが、もう止められない。
「悪くない?悪いでしょ、好きなんですよ僕、あなたが」
「本当に?俺は男だぞ?」
「知ってます」
「そうだ子供…、俺は子供は産めないぞ」
「そうですね、あなたは産ませる方ですね」
「それでも…それでもいいのか?俺を選んでくれるのか?」
「あなたさっきから何言ってんですか?」
「俺を好きで…選んでくれるなら、覚悟を決めてくれ」
「は?なんの?」
「一生、共に生きると。俺は君を生涯愛し続けると誓う。だから君も覚悟を決めて生涯俺に愛され続けてくれ」
「いきなり重いんですけど!?」
赤井の発言が斜め上過ぎて、降谷の酔いはすっかり醒めていた。
とりあえず一旦冷静になろうと、散らかったテーブルの上を片付けて酔い覚ましのコーヒーでも飲むことにした。降谷がコーヒーを淹れる間に赤井は汚れた食器を食洗器に突っ込んでゴミを片付け、ふたりソファに並んでコーヒーを飲む。
「あなた、ジェニーさんのことが好きだったんじゃ?」
いつも彼女を探して連れ帰りに来ていたし。
「違う。あいつが君にちょっかい掛けるからいつも見張ってた」
「そうなんだ…。あ、あと、子供ってなんですか」
「…ジェニーが、自分なら君の子供を産めると言うから」
赤井がぼそぼそと話してくれたのは、ジェニーと赤井は降谷を巡る恋敵で、ずっと張り合っていたのだという。ジェニーは女である事を武器にしていたし、それを主張されればどうしたって不利な立場を認めるしかなく。それでも何とか二人の仲が発展することを阻止しようと常に張り付いていたのだと言った。
「あなたが僕のことを好きだなんて、ちっとも気付きませんでした」
「君とどうにかなれるとは思えなかったし、悟られるような真似はせんよ。ただ、ジェニーにだけは見抜かれてしまってな」
赤井はその時のジェニーの様子を思い返す。
彼女はマイノリティを否定はしなかったが、日本では肩身の狭い思いをするだろうと言った。自分なら降谷の優秀な遺伝子を残すことができるし、もし子供に恵まれなかったとしても妻という立場で彼に貢献することができる。そのためなら苦労して掴んだFBI捜査官という職を辞することも厭わないし、母国を捨てて日本人になっても良い、と。
彼女がバーボンの頃から降谷に心酔しているのは嫌というほど知っているし、その想いが真剣なのも理解している。他の誰かならば応援してやりたいくらいだが、相手が降谷となれば話は別で、たとえ自分の想いを伝えることはしなくても、せめて全力で邪魔をすることくらいは許してほしかった。
「君がもし、彼女を受け入れたら…それはそれで祝福するつもりだった」
「意外としおらしいんですね」
「俺は君が思うよりずっと一途で健気な男だよ。だから捨てないでくれ」
降谷の両手を救い上げて、祈るように口付ける。
「捨てないでって…」
「俺はもう君のものだ。生殺与奪の権利は君が握ってる」
「じゃ…じゃあ…僕より先に死なない?」
「約束する」
赤井は降谷の正体を突き止めた時、彼がスコッチのみならず大切な仲間たちを数多く失った事を知った。そんな辛い思いを二度とさせたくない。
じゃあ、と降谷は赤井の小指に自分の小指を絡ませ、ふふっと笑った。
「ああん?それで?」
週明けのオフィスで、ジェニーは少々やさぐれていた。朝一番の赤井の顔を見たら、全てを悟ってしまったから。
「付き合うことになった」
「祝福なんてしてあげないわよ。隙があれば奪ってやるんだから」
まったくフルヤも趣味が悪いわね、こんな男のどこがいいのよ、ヘビースモーカーだし、不愛想だし報連相はなってないし、おまけに自己中だし!
散々な言われようだが、赤井は甘んじて受け入れる。ひとしきり罵詈雑言を尽くした後、ジェニーは肩を竦めて笑った。
「絶対に幸せにしなさいよ!」
「言われなくても」
突き出された拳に軽く拳を突き当てる。
「さ、仕事仕事!」
くるりと背を向けた細い肩が震えているのは見なかったことにして、赤井も自席についてPCの電源を入れた。
終
※お願い※
「 」は日本語、『 』は英語で話していると心の目で読んで下さい。大丈夫、あなたなら出来ます。
――――来てしまった。
ここはワシントンD.C.。目の前にどっしりと構えるのはJ. エドガー・フーヴァー ビル、つまりは連邦捜査局本部の建物である。
タクシーから降り立った降谷はその、思ったほど高さのないビルを下から上へと眺め、次いで周辺を見渡した。そして通りを挟んだ先にガラス張りのコーヒーショップを見つけ、丁度よいとばかりに足早に店へと向かった。
コーヒーショップの通りを見渡せるガラス面は外に向かって横並びの席になっており、降谷はレジカウンターで受け取ったアイスコーヒーを手に一番端の席に腰を落ち着けた。
24時間前、ここのところ大きな事件もなくもっぱらオフィスでデスクワークだとメッセージを送ってきた恋人は、きっと今あのビルの中で働いている。――――何も知らずに。
「どうしよう…」
降谷は珍しく不安げな声を漏らした。
上司から1ヶ月の長期休暇を命じられ、それならばと勢いでここまで来てしまったが、休暇の事も渡米の事も、赤井には一言も告げていない。慣れない長期休暇に妙なテンションになってしまった降谷は、『いい機会だから赤井に会いに行こう、それもサプライズで!』などと思いついてしまったのだ。その計画を風見に話してみたら大いに焚きつけられて、その場で飛行機の席を抑え、旅行用に服や下着を新調し、FBIのお仲間のためにお土産を買いこみ、これまた新しく買ったスーツケースにパンパンに荷物を詰め込んで。
我に返ったのはダレス国際空港に降り立ってからで、何も言わずにここまで来てしまった事が急に不安になってしまった。空港から乗ったタクシーがフーヴァービルに近づくにつれ不安はどんどん大きくなって、まずは落ち着くためにこの店に入ったのだ。
とりあえずは赤井の様子を探るため、メッセージアプリへメッセージを送った。
《そちらはもうすぐお昼ですね。今日は何を食べるんです?》
《近くのホットドックスタンドで買って食べようかと》
間髪入れずに返事が返ってきた。暇なのかFBI、と少しばかり呆れながら、次のメッセージを送る。
《仕事は?忙しい?》
《今日も書類と戦ってる。定時に帰れるくらいには忙しいよ》
《今晩、電話していい?》
《もちろん。何時にする?》
《とりあえず仕事終わったらメッセージ入れて下さい。本部を出る前にね》
《OK, 君の声が聞けるのが楽しみだ》
これで今夜、赤井とすれ違う心配はなくなった。退勤までの数時間をどう過ごそうかと算段する。もしも緊急事態が起こったり赤井に会えなかった場合の事を想定して、今夜の宿泊先は抑えてある。まずはこの大きなスーツケースを預けに行くことにした。チェックインまではまだ時間があるが、とりあえず荷物だけならフロントで預かってくれるだろう。
コーヒーショップを出ると反対側の路肩に停めてあるホットドッグスタンドが目に入る。赤井が言っていたのはここだろうと、うっかり見つかってしまわないよう足早に通り過ぎ、ホテルのある方向へと進む。十分離れてからは観光客らしくキョロキョロと周囲を見渡しながらのんびり歩く。
バーボンを名乗っていた頃は組織の任務で色んな国々を訪れたものだが、たいてい仕事が終わればトンボ返りで、観光どころかその国の雰囲気を楽しむことすら稀だった。その組織を壊滅させた後は、日本警察の一員として自由気ままには日本を出られない立場にある。今回こうして気軽に渡米する事ができたのは、交際相手として正式に上層部に申告してある人物に会いに行く、という名目が認められたからだ。交際届を出す段階では双方の国が絡んだひと悶着があったが、承認が下りてからは概ね好意的に扱われている。
ホテルに荷物を預けチェックインの手続きを取ると、清掃が済み次第部屋に荷物を入れておいてくれるというので、財布とパスポートとスマートフォンの入った小さなボディバッグのみ身に着けた。戻りは何時になるかわからないと告げるとこの歩ホテルは24時間出入り可能という事なので安堵する。これでもし赤井の部屋に泊まることになっても気にしなくてもよい、というより泊まる気しかないのだが。
身軽になった降谷は目についたバーガーショップで昼食を済ませ、赤井のアパートメントへと向かった。連絡手段は電話やメールで十分だけれど、もしかしたら気まぐれに何か送ることもあるかもしれないからと、住所は教えてもらっていたのだ。スマートフォンの地図アプリを頼りに、目的地へと向かう。赤井はあの派手な車で通勤しているのだろうが、こちらは足が無いので地下鉄を乗り継いで向かった。
赤井の住まいはレンガ造りの4階建ての古いアパートメントで、防犯カメラの類もなくお世辞にもセキュリティが良さそうとは思えなかった。通りから数段の階段を上って玄関のドアをくぐるとすぐに集合ポストが有り正面中央にはゆったりと幅のある階段が構えていて、エレベーターもあったが階段を上って最上階へ向かう。このアパートは1階につき5室有って、階段を挟んで左右に1部屋ずつ、その向かいに3部屋ならんでいる。赤井の部屋は3部屋続きの方の東側の角部屋だが、合鍵などは持っていないから確認だけしてまた階段を使って下に戻った。
それから降谷はアパートの周辺をふらふらと散策した。赤井から聞いたことがあるベーカリーはすぐにそれと分かって思わず口元が緩んだ。彼との会話の記憶を掘り起こして、地図アプリを駆使して話題に上った本屋やスーパーを探す。生活に必要なのものは比較的すぐに手に入りそうだし治安もそう悪くない、良い環境だと思った。
そうして途中公園で休んだりしながら夕方までの時間を過ごし、そろそろ日が暮れるという頃に赤井からのメッセージが届いた。
《これから帰宅するよ》
《家までは30分くらいでしたっけ?》
《うん》
《じゃあタイミング見計らって電話します》
《待ってるよ》
やりとりを終えて昼間のうちに見つけておいたアパートと目と鼻の先のカフェに入った。ここなら帰ってくる赤井の車が見えるから、確認したら店を出て赤井の後を追い、部屋に入ったタイミングでベルを鳴らすという作戦だ。
窓際の席を陣取りお世辞にもうまいとは言えない薄いコーヒーを飲んでいると、遠くから聞こえてくる独特のエンジン音を耳で拾い、窓の外に顔を向ける。
(え――――?)
道路の向こう側の車線を右から左に通り過ぎたマスタングの運転席には当然赤井が座っていたが、その向こうの助手席に人影が見えたような気がした。
見間違えだろうか。そう思いつつ慌てて店を出て、街路樹の陰に身を隠す。駐車スペースに停めたマスタングから赤井が出てきて、次いで助手席から目鼻立ちのくっきりとした美女が降り立った。長い栗毛は毛先をふんわりとカールさせ、グリーンのタイトなワンピースによく映えている。何かスポーツをやっていたのかどちらかと言えばしっかりとした体つきで、だが出るべきところは出ているので、派手な顔つきと相まって迫力のある美女だった。
赤井はその美女の隣に立つと腰を抱き、美女も赤井にしな垂れた。その二人が絡み合うように身を寄せ合って建物へと入って行く。気配を殺して後を追い、階段の死角から様子を伺うと二人は仲睦まじく赤井の部屋へと入って行った。
どれほどの時間が経ったのか、気が付けば昼間も休憩に来た公園に立ち尽くしていた。スマートフォンの振動にハッと我に返って画面を確認すると、赤井からの着信やメッセージが何件も入っていた。
《家に着いたよ》
《どうした?》
《後はずっと家にいるからいつでも大丈夫だ》
《何かあったのか?》
《緊急招集?》
《何時でもいいから連絡してくれ》
冷えた心でメッセージを一瞥し、無造作にポケットに突っ込む。既読がついたから赤井には降谷がメッセージを確認したことに気付かれただろうが、返信する気にはなれなかった。
割と治安が良さそうな地域とは言っても銃社会のアメリカで、認めたくはないが童顔な自分がこんな時間に一人でうろつくのは危険と判断し明るい大通りへと急ぐ。たまたまタイミング良く捕まえることができたタクシーに乗り込み、ホテルへと向かった。もしものためにホテルを抑えていて本当に良かった。サプライズなんて考えた自分は馬鹿だと罵りたかったが、それだけは自分を褒めてやりたかった。
その夜、降谷は一睡もできなかった。
悲しいのではない。悔しくてたまらなかったのだ。
「結局! 女が! いいなら! 初めから! オレに! ちょっかい出すな!」
言葉の区切りごとに降谷は枕に渾身のパンチを食らわせた。一人称がオレになる時は本気で怒っている時で、壁に穴をあけるわけにはいかないので枕に犠牲になってもらったのだ。
そのお陰で少しスッキリした降谷はシャワーを浴びて着替え、1階に降りてフロントに宿泊の延長を申し出た。まだ人影もまばらな時間だがそのままホテルを出て日課であるジョギングがてら赤井のアパートへ向かった。
駐車スペースのマスタングで赤井の在宅を確認し、階段を一段一段踏みしめながら上り、赤井の部屋のある階へ到着する。階段スペースから廊下へと踏み出した時、赤井の隣の部屋――3室並んだ真ん中――から、男性が出てきた。
『おはよう』
目が合うと男性はにこやかに笑いながら朝の挨拶を寄越した。ハンサムというよりは美形と称する方がしっくりくる顔立ちで、ベリーショートの金髪がその美貌をより際立たせている。見た目で言えば降谷の方が若く見えるが実年齢で言えばきっとその男性の方が若そうだった。
『おはよう』
降谷も微笑んで返すと男性はまたにこりと笑って横を通り過ぎ、ぱたぱたと階段を駆け下りて行った。
足音が聞こえなくなるまで待って、降谷は赤井の部屋の前に立ち、耳をそばだてた。物音ひとつしないところをみるとまだ寝ているらしい。
顎に手を当てて、さてどうしようかと思案する。このまま乗り込んでも修羅場になるだけだし、そこで赤井が女性の方を選んだら惨めすぎる。どうせ別れるなら赤井にも痛い目に遭わせてやりたい。降谷はしおらしく身を引くなど出来ない性分だった。
徹夜明けのテンションで何の策もなくここまで来てしまったが、一旦ホテルに戻って作戦を練り直そう。そう思って階段を下り、アパートから通りに出ると先ほどの隣人の男性とまた出くわした。
『やあ、また会ったね』
男性は手にベーカリーの袋を抱えていた。昨日見つけた、赤井の話に出てきた店だ。降谷が店名の入った袋を凝視しているのに気付いた男性が会話を続ける。
『そこの店のさ。それより君、俺の隣の部屋を訪ねてきたんだろ?』
『あー、うん。そう』
『留守だよ。先週から旅行に行ってて帰りは明日って言ってたから』
『そっか。ならそのベーカリーで朝食でも買って帰るよ。ありがとう』
礼を言うと人の好い男性は手を振りながらアパートへと入って行った。男性の言う隣の部屋というのは、赤井とは反対側の部屋の事だろう。赤井とは世間話をする仲なのかどうかは知らないが、もし何かの切欠で自分がここへ来たことが赤井に知れるとまずいので、勝手に勘違いをしてくれて助かった。
まずは朝食をとベーカリーへ向かう途中で赤井からメッセージが届いた。
《時間ができたら連絡してくれ》
通知の画面だけで確認し、既読はつけずに5分ほど置いてから返信する。
《約束やぶってすみません。また連絡します》
すると瞬時に既読が付き、赤井が返信を待っていたことが知れた。
《怪我とかしていないか?心配なんだ。必ず連絡してくれ。何時でも構わない。待ってる。愛してるよ》
赤井にしては長い文面だ。だが身を案じてくれる言葉も愛の言葉も今の降谷にとっては感情を逆撫でする言葉にしかならない。
「ちゃっかり浮気しときながら、いけしゃあしゃあと何を言うか!」
思わず感情に任せ怒鳴ってしまい、徐々に増えつつある通行人の目を引いてしまったが、日本語で叫んだため内容を理解できた者はいなかった。
とりあえず降谷は特技を活かしてアパート周辺の住人にそれとなく探りを入れた。
捜査一課の聞き込みの鬼と呼ばれるベテラン刑事によれば、聞き込みは近所の主婦に訪ねるのが一番なのだという。男性に比べ女性は細かい変化や違和感に敏感だし記憶力も良い。その上ご近所ネットワークも馬鹿にならないからだ。それを踏まえて降谷は赤井のアパートが良く見える位置にある住宅に住んでいる主婦を中心に聞き込みに回った。ティーンと見紛うキュートな容姿と屈託のない笑顔で人探しをしていると訊ねれば、皆快く協力をしてくれた。
『黒い服を着たニット帽の男? ああ、そこのアパートに住んでるナイスガイだね』
赤井は特徴がありすぎて皆すぐに人物を特定できた。降谷はそれって捜査官としてどうなんだと突っ込みたくて仕方なかったが、なんとか我慢した。
『実は…その人、僕の姉さんの恋人だったんだけど…一方的に別れを告げられて連絡が取れなくなって…姉さん、そいつの子供を妊娠してるんだ。それで僕が…』
探し出して説得しに来たのだと俯いて言えば、誰もが同情してあることないこと話してくれた。
『その男、前は一人で住んでいたけど、ひと月前から女と暮らしているわ。あなたのお姉さんには気の毒だけど…』
『女?ああ、派手な女だよ。いつもベタベタくっついて歩いてる』
『彼女は働いてないんじゃないかしら。朝彼を下まで見送りに来た後はまた部屋に戻って、あんまり外出しないみたい。でかける時はいつも二人よ』
『そうね、ここ最近は割と早い時間に帰宅してるみたいよ。19時って言えば駐車場に車が停まってるから。あ、あれよ。あの赤いマスタングよ』
恐るべし主婦の観察眼。本当にご近所さんの事細かいところまで把握していた。
集めた情報を元に、今度はとある人物に電話を掛けた。味方になるか敵になるかは一か八かの賭けだが、人心掌握には長けている自信がある。
『Hello?』
『ジョディさん。降谷です、お久しぶりです。申し訳ありませんが、僕からの電話だと誰にも悟らせないで欲しいのですが』
『久しぶりねフルヤ。大丈夫、今日は休みで今は家に一人よ』
『それは良かった。実はあなたの公平で誠実なお人柄を見込んで、お願いがあるんです』
他言無用と念押ししてジョディに今アメリカに滞在している事を告げ、赤井には見つかりにくい場所で落ち合った。FBIの本部からも離れているし、お客の9割以上が女性というファンシーなカフェだ。
「……この店でちっとも浮かないなんて、さすがフルヤね」
「褒め言葉として受け取っておきますね」
店のカーテンやテーブルクロスにはこれでもかという程レースがあしらわれ、いたるところにぬいぐるみが並べられている。この店のテーマはとにかく『kawaii』らしい。まともな男なら1分も耐えられそうにない空間に、降谷は顔色一つ変えずに自然と溶け込んでいる。
「早速ですが、手短に話します。さっき電話で話した通り、僕は貴女を公平で誠実な人物だと信頼しています。なのでこれから話すのは相談でありお願いでもあります。もちろんそれに応えるかどうかは貴女次第です。もしも仕事がらみの守秘義務にふれる事があれば黙秘または虚偽の説明をしてもらっても構いません」
「嬉しい事を言ってくれるのね。私だってフルヤのこと尊敬してるし、今では良い友人だって思ってるわ。できる範囲で力になるわよ」
ジョディの言葉にひとつ大きく頷いて、降谷はこれまでの事を全て打ち明けた。
休暇を取らされたこと、サプライズで赤井に会いに来たこと、女性と二人で部屋に入って行ったのを目撃したこと。周囲に聞き込みをして、二人はひと月前から同棲していること、女は定職にはついてないのかあまり外出しないこと、赤井は最近は規則正しく早く帰宅していること等々、現在把握できていることは全て。
「ジョディさん、お相手のこと知ってます?」
「知らないわ。そんな女の話なんて聞いたこともない。…でもシュウが本気なのはあなただけだよ。毎日惚気てるもの」
「ただの浮気だから気にするなという事ですか?…ふん、浮気だろうが本気だろうか、そんなことどうでもいいんです。夫婦じゃないんだから不貞というのも変ですが、僕を“裏切った”という時点でアウトです」
ビキッと音がした。何かと思えば降谷の右手に持つグラスに亀裂が入っていた。
「あっ」
「あ、」
ふたりで顔を見合わせたが、降谷はすぐにすました顔をして店員を呼び、少し力を入れたらひびが入ってしまったので弁償しますと申し出た。店員は傷でも入っていたのかもと平謝りをした上に怪我はないかと心配してくれたので、同情するしかないジョディだった。
「あの…それでフルヤはどうするの?アウトって事はまさかシュウと別れるつもりなの?」
「もちろん」
「あなたのシュウに対する気持ちって、そんな事で終わっちゃうの?」
「好きだからこそ、ですよ。日本には、可愛さ余って憎さ百倍ということわざがあるんです。正にそれ」
「百倍…」
「それに、僕は転んでもタダでは起きません。報復はきっちりさせてもらいます」
きっぱりと言い放った降谷の眼光の鋭さにジョディは背筋に冷たいものが走った気がした。
最後に再び他言無用を念押しし、万が一赤井に話したらそれなりの事を覚悟してもらうと脅しをかけると、ジョディは自分が一番かわいいからと保身を決めこんだ。何せ降谷はその一存で国家を揺るがすほどの情報を保有していると噂されるほどだし、公にはできない人脈もあるらしい。一個人を社会的に抹消することくらい造作もなくできそうで怖い。
「じゃあ、ジョディさんは傍観してて下さい」
「……使い物にならなくなるまで甚振るのはやめてよ?」
「さぁどうでしょう。あいつ、僕に心底惚れこんでるから捨ててやったら腑抜けちゃうかも。――――なのに、なに浮気なんか身の程知らずのことを」
「あの…あのね、フルヤ。ひとつだけお願いしてもいい? 明後日まで…ううん明日いっぱい、日付が変わるまででいいから待ってくれないかしら」
ジョディの懇願に降谷は目線ひとつで続きを促した。
「今追ってる案件、明日が勝負なの。その前に使い物にならなくなるとホント困るのよ」
捜査に響くと言われれば仕事第一の降谷も従わないわけには行かない。こくりと頷くとジョディはホッと息を吐いた。
ジョディと別れてホテルへ戻ると後は丸一日と半分、やる事がない。下手に街をうろついて万が一にでも赤井に見つかると面倒だし、ジョディにもホテルに篭ると言ってある。部屋に備え付けられたテレビのチャンネルをザッピングしていると日本語のチャンネルが見つかったので、BGM代わりに流してみた。
「風見のやつ、ちゃんとやってるかなぁ。電話してやろうかなぁ」
そう思ったが、直属の上司を始め部下達が口を揃えて休暇中に連絡を入れることを禁止したので、掛けてもすぐに切られてしまうのが容易に想像ついた。暇だなぁとぼやきつつその日は早々にベッドに入れば、昨晩一睡もできなかった身体はあっけなく眠りに落ちて、その分翌朝すっきりと目覚めることができた。
ホテルに併設されているレストランで朝食を済ませ、また部屋に戻ると暇つぶしに赤井へどう報復してやろうかと考える。ジョディにも言ったが赤井が自分にベタ惚れなのは紛れもない事実で、別れを告げるのが一番の仕置きになると知っている。
もちろん降谷も彼にはベタ惚れなので最終的に許して元サヤに納まるまでが1セットなのだが、もう二度と浮気などする気にもなれないくらい反省してもらわねば気が済まないのだ。
「そもそも、お前が言ったんだろ! もう僕以外には勃たないって!」
なのにどうだ。久しぶりに女を抱いたら具合が良かったんだろう。面倒な準備もいらないし、柔らかい抱き心地だってイイに決まってる。
「はっ、簡単には許してやんねーぞ! また1から口説き直して、もう一度僕をモノにしてみせろ! すぐにはなびいてやんねーけどな!」
本日も枕は犠牲となっている。心なしか最初にこの部屋に入った時よりもヘタっているような気がして、チェックアウトの際には買い取ろうと反省した。
昼食は買い込んでおいた食糧で済ませ、だらだらと過ごす。もともとショートスリーパー気味なところに、昨晩はたっぷりと睡眠を取ったため、昼寝をする気にもなれないし眠れそうもない。組織が壊滅しまともに非番を取れるようになってからも、休日は家事をこなしたり買い物に出たりで、警察官となって以来こんなにも無為に時間を過ごすのは初めての事だった。
「あと9時間…」
ジョディと約束した今日が過ぎれば即座に行動に移そうと決意している。それまでの時間潰しに残りの時間は現地のニュースチャンネルを視聴する事にした。
『……です。犯人はこのアパートの住人で、現在は同じくこちらの住人の女性を人質に自室に立てこもり――――』
「んん!?」
ニュースは立てこもり事件を報道していて、ライブ中継された映像には見覚えのある建物が映し出されていた。
「ここ! 赤井のアパートじゃないか!」
カメラがズームして最上階の1室の窓をアップで映し出す。赤井の部屋とは同じ並びの反対側の角部屋で、昨日の朝声を掛けてきた男性は降谷がここを訪ねてきたのだと勘違いした、その部屋だった。
ニュースの途中から見たので罪状等はわからず、テレビはそのままにネットでSNSを検索する。どうやら犯人は時限爆弾を密造しているらしく、ここのところ全米各地で起こっている爆発事件の容疑者であるらしい。爆発と言っても規模は小さく殺傷能力は低いが、地下鉄を止めたり病院の患者を避難させる騒ぎとなったり迷惑極まりなく、愉快犯にしても質が悪すぎた。遡って調べてみると同一犯と見られる最初の事件は半年前で、おそらくFBIはずっと内偵し追い詰めていたはずだしジョディの言葉もそれを裏付けるものだった。
しかし赤井はあのアパートにはもう1年以上住んでいるし、たまたま同じアパートの住人が犯罪者だったのだろうか。
「うーん、ちょっと都合良すぎるよなぁ。となると、犯人があそこに引っ越してくるように仕向けた、とか?」
さっきまでどうやって赤井を懲らしめてやろうかと考えていたはずなのに、今やすっかり謎解きに夢中になって、そしたら居ても立ってもいられなくて財布とパスポートの入ったボディバッグを掴んでホテルの部屋を飛び出していた。
アパートの前には人だかりができていて、そこには昨日聞き込みをした近所のマダム達も揃っていた。
『ああ、あなた昨日の! ねえ、もう知ってる? 人質は例の女ですってよ』
例の女――――つまりは赤井の浮気相手のことだ。
『あの女、どうも犯人にも色目を使ってたみたいなのよ』
『え、そうなんですか?』
赤井ほどの男と同棲までしているくせに。それとも彼女の方も赤井とは割り切った関係なんだろうか。それはそれでムカつくけれど。
『ほら、お向かいのアパートのあそこの部屋、キッチンの窓から犯人の部屋の様子が良く見えるらしいの。そこの奥さんがあの女が訪ねてきてるの何度か見たって、さっき警官に話していたわよ』
改めて主婦の情報収集能力は凄いと感服する。
ところで赤井はどうしているんだろう。捜査官以前にこのアパートの住人として、また人質の関係者としてこの場に居て当然だから、あの規制線の向こうに居るのだろうかと野次馬達の人垣をすり抜けて最前列に出た。
「っと、やべ」
そこにはこれでもかと目を見開いた赤井が居て、こちらを凝視していた。咄嗟に隣にいた大男の背に隠れてみたが、たぶん…ではなく確実にバレた。
それでも赤井は優秀な捜査官なので取り乱したりその場を後にして駆け寄ることもなく、傍に居た警官たちに何か指示を出し、インカムを通じて短いやり取りした後ライフルバッグを背負って歩き出した。
降谷に最も近いところを通り過ぎる時、一瞬だけ視線を寄越したがすぐに正面に戻して通り過ぎていく。その鋭利な横顔がやっぱり好きだなぁと胸を高鳴らせて見送った。
それから1時間も掛からずに事件は収束した。
犯人が人質に突き付けていた銃を赤井が弾き飛ばし、そのタイミングでドアの前で待機していた警官たちが突入して身柄を確保したのだ。警察車両に乗せられて犯人が運ばれて行くのを見ていると、後ろから覚えのある気配が近づいてきた。
「零くん」
振り返ると何とも言えない表情をした赤井が立っていた。降谷が黙ったままでいるとますます困惑した表情でなんとか言葉を紡いだ。
「本当に零くん、なんだよな? なぜ…いや、いつからこちらに? どうして連絡してくれなかったんだ?君が来ると知っていたら、」
「知っていたら、なんですか?」
「あー…いや、うん。知っていたら空港まで迎えに行ったし、俺も休みを取って――――」
「違いますよね?知っていたら上手く誤魔化すつもりだったんでしょう?」
「誤魔化す…? ああ、まぁそうだな…悪いがここへは連れてこれないし、正直今日まで相手をしてやれなかっただろうから」
「随分と明け透けだな。ここまで来たら開き直るのかよ」
「開き直る?何のことだ?」
「すっとぼけるなよ、FBI! お前が浮気してる事なんてとっくに把握してるんだからな!」
びしりと人差し指を突き付けて指摘してやると、赤井は最初きょとんと目を瞬かせて、次いで真ん丸に見開いた。そして何か言おうとしているのかぱくぱくと口を閉じたり開いたりしているので、降谷は陸に上がった魚かよ、と悪態をついた。
「ちょっ、ちょっと! あなた達、ちょっと待ってぇぇぇぇ!」
何事かと声のする方向へ二人同時に顔を向けると、警察関係者がごった返す中からジョディが駆け寄ってきた。二人のすぐ側まで来るとはぁはぁと切れた息を整えるために何度か深呼吸をした。
「ちょっと待って。フルヤ、誤解だから」
「誤解?」
「おい、ジョディ。おまえ何を知ってるんだ? そう言えば今朝、しつこいくらい“絶対に今日中に片を付けろ”と煩く言っていたが――――」
「場所を変えてゆっくり話しましょう。シュウ、あなたの部屋へ行くわよ」
ここはジョディが仕切る形となり三人で赤井の部屋まで移動した。部外者の自分が規制線の中に入って良いのかと確認すれば、赤井の部屋は事件に直接は関係していないしまぁ大丈夫よ、と親指を立てた。
ドアを開けて部屋に入るとそこには例の赤井の浮気相手の女が居た。その姿を認めた瞬間降谷の怒りは沸騰して、思わず赤井の胸倉を締め上げた。
「っ、れいくん、くるしぃ」
見かねたジョディに窘められてしぶしぶ手を放してやる。身をかがめてごほごほと咳き込みながら恨みがましく見上げる赤井の事は無視をした。
『そこの貴女。初めまして、僕は赤井の元恋人の降谷零と申します』
『え、あなたがレイくん!?』
「待て、零くん! 元つてなんだ!? 今現在も恋人だろう!?」
浮気相手と降谷の間に慌てて割り込んで来た赤井を一瞥し、降谷はため息を吐いた。
「元、ですよ。たった今、僕はあなたの恋人をやめましたから」
「は? そんなの認めんぞ! たとえ君がやめても俺は君の恋人をやめないからな! 絶対に!」
至近距離で睨みあう二人に見かねたジョディが仲裁に乗りだす。
「二人とも、冷静になって。――――ねえフルヤ、シュウは浮気なんてしてないから、信じてあげて。『それからクリス、あんたも早く種明かししてちょうだい』」
結論から言えば、赤井の浮気は冤罪だった。
隣の隣の部屋では警官たちが現場の家宅捜査の真っ最中なのだが、ここ赤井の部屋では男女4人がリビングのソファとダイニングから持ってきたチェアに座り、ひざを突き合わせている。
「申し訳ありませんでした!」
赤井と一緒にソファに腰かけている降谷が、額が膝に付きそうなほど深く頭を下げて謝罪した。
「いや、君は悪くない。誤解して当然な状況だった」
「ごめんなさいね、捜査の事もあって本当の事を言えなくて」
赤井とジョディが口々に気遣う言葉を返してくれるのが余計に降谷を居たたまれない気持ちにさせる。
『あの…オレ、クリスっていいます。初めまして、レイくん』
クリスと名乗るのは、今は昨日の朝に会話した綺麗な顔をした男性で、つい数分前までは赤井の浮気相手と疑われた女性だった。
『おいこらクリス、馴れ馴れしく零くんなんて呼ぶな。降谷さん、だ』
「何言ってんだよ赤井…。『初めまして、クリス。えっと、あなたは一体どういう…?男性、なんですか』」
『うーん、まぁ心も体も男だけど、服は女の子の服の方が好きかなー』
「拗れるから私から説明するわね。クリスは私達の仲間でアカデミーを出たばかりの新人で、女装は実益を兼ねた趣味…ってとこかしらね」
声はさすがに阿笠博士の変声機を使っているが、顔はふつうのメイクを施しているだけというから驚きだ。女性の姿の時のカールさせた長い髪はウイッグだが、本来のヘアスタイルがベリーショートだから妙に浮いた感じもせず全く気付かなかった。
それから赤井たちは今回の件について簡潔に説明をしてくれた。クリスは日本語が話せないから赤井とジョディが代わる代わる通訳をしながら日本語と英語の入り混じった会話となった。
なぜ犯人が赤井のアパートに住んでいたかというと、捜査を重ね目星を付けた容疑者を囲い込み追い詰めるべく、当時住んでいたアパートの家主の協力を得て立ち退きをさせ、FBIの息のかった不動産業者を紹介してこのアパートへ引っ越ししてくるよう誘導したからだった。そして赤井の部屋と真ん中の部屋を隔てる壁に扉を作って行き来できるようにし、クリスは真ん中の部屋の住人と赤井の同棲相手の二役を演じていたのだった。
『で、男の時はフレンドリーな隣人、女の時は倫理観の緩い女を装って色仕掛けで近づいたんだ。まぁ色仕掛けって言ってもまだ部屋に招いてもらって話す程度の仲だったけどね』
相手が奥手で良かったよ。手を出されたらさすがにバレちゃうから、と今は詰め物を出して平らになった胸を撫でた。
「とりあえず、このくらいでいいかしら。私達も戻って後始末があるから」
「あ、はい。すみません、お仕事中なのに時間とらせてしまって」
「いいのよ。あなたにちゃんと説明してからでないと、きっとこの男は仕事に集中できないだろうし挙句の果てに俺は帰るとか言い出し兼ねないから」
クイッと顎で示された赤井は、誤解がちゃんと解けたのか心配でおろおろしている。降谷はそれにひとつ頷いてやって、あとはホテルに戻るからちゃんと仕事をしてこいとハッパをかけた。
戻ったホテルでは降谷の一人反省会が繰り広げられていた。赤井の事となると昔から冷静さを欠いてしまうのは自覚しているが、またやってしまったと大いに落ち込んだ。これはもう赤井に合わせる顔がないから、このまま日本に帰ってしまおうか。直行便でなくてもいい、とりあえず空港に着いて一番早く乗れる便に乗って、適当に乗り継いで帰ればいい。どうせ休暇はたっぷりあるのだ。そうと決まれば一刻も早くここを出て――――。
そう思い立ったタイミングでスマートフォンに着信があり、相手は当然のごとく赤井からだった。
「………はい」
『零くん、俺だ。迎えに来たよ。これから俺の部屋へ行こう』
「えー………」
降谷が返事をためらうと最初は弾んでいた赤井の声もトーンダウンした。
『…そうだな、もうこんな時間だし明日にしよう。でも一目でもいいから君の顔が見たいんだ。少しでいいから下まで降りてきてくれないか』
ダメかな?なんてしょんぼりした声で言われたら、部屋に行く支度をするから少し待っててと答えるしかなくて。少しだけ勿体ぶってのろのろと準備をし、フロントには明日戻ると告げてホテルの外に出る。マスタングを路肩に停めて待っていた赤井が駆け寄って来てハグをされキスをされ、あっと言う間に助手席に収められて赤井のアパートまで運ばれた。車内では食事はしたかとか疲れていないかとかいつになく赤井の方が喋り倒していて、まだ自己嫌悪から立ち直っていない降谷はうんとかううんとか答えるだけで精一杯だった。
アパートに着き車を駐車スペースに停めてからは赤井は急に黙り込み、手を引かれながら無言で階段を上って部屋に入ると同時に抱きすくめられた。あっ、と声を出す暇もなく唇を奪われてどんどん深くなるキスに膝の力が抜けそうになり――――。
『シュウ! 帰ったのか!』
バタンと部屋の奥から扉の開く音と人の声が聞こえてハッと我に返った降谷は思わず赤井を突き飛ばしていた。
『あー、と。レイくん連れて来てたんだ』
『勝手にこっちに来るな。自分の部屋へ戻れ。いや、本当の自分の家に帰れ!』
射殺しそうな目つきで言えばクリスはすぐに捜査のために奥に作った扉から隣の部屋へ戻り、すぐさま赤井はもう二度と扉が開かないようソファを移動させて塞いだ。
「すまん、今まであいつにとってこの部屋は通路みたいなもんだったから…」
「同棲してたんですもんね」
「待て、その言い方は勘弁してくれ」
「いつもイチャイチャしてたって聞きましたけど…演技じゃなかったんじゃ…」
「そんなことあるわけないだろ」
「だって、あの人すごく綺麗だし…、赤井はさ、男も抱けるわけだし――――」
「あいつなんかより零くんの方が100倍は綺麗だし可愛いし恰好いいよ。それにもう俺が抱くのも抱きたいのも君だけだ」
「……本当?」
「本当だとも。それにな、あいつはバイセクシャルなんだが、ああ見えて男と寝る時はトップだぞ」
「――――そなの?」
人は見かけによらないというか見た目で判断してはいないというか、女装が好きだからと言って女役をやるわけでもない、中身はとことん攻めのタイプらしいと聞いて目を丸くした。
「それにだな、あの野郎、あろうことに君のこと好みのタイプだとか言いやがるんだ。もう絶対会わせてやらん。君もあいつの事はとことん無視してくれ」
ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる赤井が可愛くて抱きしめ返してやると、調子に乗った赤井の手がだんだん不埒な動きをする。いつもならこのまま抱かれる流れになるけれど、ふと扉が気になって仕方ない。さっきの赤井の言葉だとクリスには本来別に家があるようだし、用が済んだ隣の部屋に別の人間が住むようになったらどうするのだろう。両側からそれぞれ鍵を掛けて開かないようにはするのだろうが、もし今度隣に越してきた人が赤井を好きになってしまって、赤井の方もその人が好みのタイプだったりしたら…。
「ね…あの扉、どうするんですか」
「さあな。俺はもうここから引っ越すことに決めたから興味ない」
「え、引っ越すの?」
「あの扉を作る計画が出た時から、新しい部屋を探してる。もう3部屋に絞ってて、君に決めてもらおうと思ってた」
「僕?」
「うん。君がもしこちらに遊びに来てくれた時に快適に過ごせるような部屋にしたくて。今日この捜査が一段落したら見取り図を送るつもりだったんだ。もうベッドだけは注文してあって、他の家具は画像を送って君にも協力してもらって揃える予定なんだ」
「なんで? 自分の好みの家具を揃えればいいじゃないですか」
「君のための部屋にしたいんだ。いつでも君が訪ねて来たくなるような、君の好みの部屋にしたいんだよ」
抱きしめる腕をほんの少しゆるめて隙間を作り、顔を覗き込んで来る。その碧の瞳は君が愛しくて堪らないと雄弁に語っているから、ついつい照れくさくて素っ気ない態度をとってしまう。
「僕、そんなホイホイ海外になんて出れませんよ?」
「でも、こうして来てるじゃないか」
「うーん、まあ、そうなんだけど」
今回のように上から休暇を命じられるのは降谷が自分から休暇を取らないせいであって、申請すれば多少の休みは融通できるのだって本当は知っている。国外へ出るのだって、自分の階級ならそこまで手続きも面倒ではないのだ。なにせ部下の承認願には自分が判子を押す立場なのだから。
曖昧な返事に焦れたのか赤井は降谷の両手をひとまわり大きな手で包み込み、祈るように口付けた。
「なぁ、零くん。とびきり君好みの部屋に仕上げて、いつでも好きな時に来て遠慮なく過ごしてもらえるように合鍵を贈るよ。だから――――」
「だから?」
「だから――――俺と、結婚してくれ」
え、と開きかけた口を塞がれた。
ただ押し付けるだけの子供っぽいキスで、すぐに離れてゆく唇に少し物足りなさを感じてしまう。
「Yes、と。それ以外の答えは聞きたくないよ」
こつんと額を合わせて神妙な面持ちで答えを待つ赤井の顔が何故だかぼやけてしまってよく見えなくて、降谷はぱちぱちと瞬きを繰り返す。握り合った手にぽとりぽとりと暖かい雫が落ちた。
同性同士の結婚なんて、アメリカでは認められていても日本ではまだ承認されていない。二人の所属や国籍を考えれば、そんなに簡単にできる事じゃない。様々な思いがぐるぐると頭の中を駆け巡るけど、自分の気持ちに素直になれば、やっぱり答えはただ一つだけ。
「――――Yes。」
休暇の残り三週間余り、まずは最終候補の3つの部屋の中から一つに決めるところから。降谷の為を思って選んだだけあってどれも捨てがたかったが、赤井の職場までの距離を重視し、近すぎず遠すぎない場所にある部屋を選んだ。
「職場までの距離って重要ですよ。遠すぎると帰るの面倒になっちゃうし、かと言って近すぎると休日でもつい気になって顔出したり」
「いやそれは君だけじゃ…。でもまあ、近すぎるのは溜まり場にされそうだし俺も好まないな」
「それにこの部屋、一番キッチンが広いし使いやすそう。お風呂もいいですね」
「ここのオーナーは日本人なんだよ。風呂は浸かるものってのがモットーらしくてね、俺もこの部屋が一番気に入ってたんだ」
とんとん拍子で部屋を契約し、あらかじめオーダーしておいたベッドも翌日には届けられた。ダイニングのテーブルセットはすぐに決まったがソファはいまいちピンと来るものがなくて保留にし、お茶やコーヒーを淹れる道具は今までの物を継続して使う。マグカップはペアで新調し、食器やカトラリーは次の休みに物色しに行くことにしてそれまでは紙皿やプラスティックの物でしのぐことにする。
さすがに急には赤井の休みは取れなかったから、元の部屋から業者に運んでもらった荷物は降谷がせっせと片付けている。
ふたりで暮らすには快適な広さで、けれどひとりで住むにはきっと広すぎる部屋。年に何日もここで過ごすことはないのに、それでも自分のためにと用意してくれた部屋。
降谷が赤井の浮気の代償に得たものは、身に余るほどの幸せだった。
終
黒の組織を滅ぼすため、各国の機関が手に手を取って共に闘い、ついにはトップを葬り幹部たちの身柄も確保できた。後は逮捕した幹部たちの取り調べと世界各地に散った残党たちの息の根を止めるため、ここ日本に合同捜査本部が設置された。
キール、ライ、そしてバーボン。コードネームを与えられるほど深く組織に潜り込んだ者たちを始め、組織によって人生を変えられた者や長らく組織を追い続けてきた者たちがそのメンバーに連なっている。
ライこと赤井秀一とバーボンこと降谷零。組織にいる頃は互いに実力を認め合いながら、お互い相手を敵として認定していた為、慣れあうどころか反発しあう事の方が多かった。ただ、スコッチを交えてスリーマンセルを組んでいた頃は、明るい彼のお陰で多少は楽しい時間を過ごせた事もあった。
そんな赤井と降谷を決定的に決別させたのはそのスコッチの自害の一件で、冷静さを欠いた降谷は赤井を恨み、また赤井は自分を恨ませることで降谷の精神を救った。後に降谷自身が真実に辿り着き赤井に謝罪を申し入れた時、赤井は口では過失の割合は50:50だと言ったが、彼を救ったつもりでむしろ自分自身が救われていたのだと気づいた。死を偽装し誰もが赤井秀一はもうこの世にはいないと認めたのに、降谷だけはその死を受け入れなかった。降谷が執着すればするほど赤井は自分が生きている実感を得ることができていたのだ。
和解をしてからというもの、降谷からの射貫くような視線も棘のある言葉も向けられなくなり、赤井は自分が彼にとっての特別ではなくなった事に気付き、苛立った。そしてなぜ苛立つのかと考え、ひとつの結論に至った。
(――――俺は、彼を好きなのだ。)
気付いてしまえばあれもこれも、自分の行動のすべてが腑に落ちた。時には挑発したりしたのも、彼の視界や意識の内に深く入り込みたかったからだ。
だが、気持ちを自覚をしたと言っても性別や国籍、さらには職業や立場等、障害が多すぎた。降谷が自分を好きになる可能性など、万に一つもないだろう。となればこの気持ちには蓋をして一生胸の内にしまっておこうと、そう赤井は心に決めた。
日本に残ったFBIは警視庁の一室を借り受け捜査にあたっている。合同捜査本部も警視庁の中に設置され、降谷の腹心の風見がおもだって取り仕切っている。降谷は正式な所属先は警察庁なのでこちらには常駐せず、月の半分ほど顔を出す程度だが、会議の時は必ず顔を見ることが出来る。そんなわけで赤井の合同会議への出席は皆勤賞もので、いつもは会議と聞けばいつの間にか姿を消してすっぽかす本来の彼を知る面々は首を傾げていた。
(――――今日こそは、ディナーに誘う。)
アメリカではディナーに誘う事はいわゆる深い仲になりたい時のアプローチ方法だが、赤井がそういった意味で自分から誘うのは初めてのことだった。それどころか自分が選ばれるのを待つ立場になること自体が初めてで、まるで初心な少年になったかのように緊張する。
降谷とは和解後、たまに昼食を共にしたりするが、二人きりという事はこれまで一度もない。たいてい彼の隣には風見がいるから表面上の会話しか交わしたことがなく、せめてもう少し込み入った話がしてみたいと願っている。
「降谷くん、少しいいか」
会議が終わって解散となり、珍しく風見が傍らにいない隙をつく。
「はい、なんですか?」
「その、よければ今夜、食事でもと思って」
「食事、ですか。今夜?」
甘く垂れた目をぱちくりとさせて、降谷は問い返した。
「いや、今夜が都合悪ければ別の日でも構わないんだが。…その、君とは共有している記憶も多いし、他の奴らとはできない話もあるから」
「――――そうですね。ええ、いいですよ、今夜」
「本当か!?」
赤井は内心でガッツポーズを取った。店は自分が選ぶから奢れよ?と降谷が冗談めかして言うのに真顔で任せてくれと返事をして、少し引かれてしまった。後で連絡するという降谷にプライベートの連絡先を押し付けて、赤井は弾む心でFBIのオフィスへと戻った。
定時まであと僅かという時間に届いたメッセージは至極シンプルで、時間と店の名前と住所が記され地図が添付されている。送信元のアドレスは赤井の知っている仕事用のものではなく、プライベートのものだと知って浮足立った。
待ち合わせの時間までは十分時間があったので、赤井は一旦滞在しているホテルに帰り、軽くシャワーを浴びて新しい衣服に着替えた。店は創作料理の店でドレスコードのあるようなものではなかったが、少しでも良い印象を持って欲しくて、いつものライダースではなくジャケットを羽織りニット帽も留守番させることにした。
店には待ち合わせよりも少し早めに着いたのに、降谷はもう既に到着して個室で待っていた。
「すまない、待たせてしまって」
「いえ、僕が早すぎたんです。あなたと食事できるなんて楽しみで」
はにかむ降谷の頬はほんのり色づいて、赤井はもしかしてこれはいけるのではないかなどと期待をしてしまう。
降谷が選んだだけあって料理は美味く、酒はほどほどにして会話を楽しむ。赤井の誘い文句の通り、二人の間でしか話せない思い出は多く、胸に溜め込んだ澱を流すように語り合った。
「あ、もうこんな時間――――」
「本当だ」
「あなたと話すの楽しくて、時間が経つのあっと言う間でした」
酒のせいかもしれないが、少し潤んだ瞳で見つめられて、こんな台詞を言われたらもう、封印していた気持ちを告げてもいいのではないだろうか。そんな風に思って赤井が口を開きかけたその時。
「僕…あなたが、好きです」
「え」
「ごめんなさい。困らせるつもりはないんです。同じ気持ちを返して欲しいなんて思ってもいません。ただ、自分の気持ちに区切りを付けた」
「好きだ!」
「え?」
「俺も君が好きだ。ああ、俺は夢を見てるのかな。だったら一生覚めないで欲しい…」
テーブルの上、降谷の手に一回り大きな手をそっと重ねる。緊張で少し冷たいその手をきゅっと握りしめて、もう一度、好きだよと囁いた。
一生秘めたままにするはずだった恋が成就した。
まだ皆に知られるのは気恥ずかしいし、いずれ報告するにしろ上司への根回しも必要だから当分の間は二人だけの秘密にして欲しいと降谷が言うので表面上は友人同士という体で接しているが、こまめに連絡を取り合って少しでも時間が出来ればデートを重ね、二人の恋は順調に進んだ。3回目のデートでキスをして、次第に外で会うよりも降谷の部屋を訪れることの方が多くなった。ふたりの関係はまだキス止まりだが、身体の関係がなくても赤井は十分満たされていた。セックスがしたくないわけではないし、むしろ早く自分の物にしていまいたいという思いもある。だがそれ以上に大切にしたいという思いが勝っていたから。
これがあのバーボンを演じていた男なのかと疑うほど、降谷は初心だった。触れるだけのキスですら顔を真っ赤にし、深いキスはおそらく未経験だったと思われる。身体を使って情報を得ているという噂は当時も端から信じていなかったが、まさかここまで経験がないとはさすがに予想を上回る驚きだった。
そんな降谷だから、赤井はゆっくり、慎重にコトを運ぶつもりでいた。怖がらせないように、着実に。故にどんなに遅くなってもまだ部屋に泊まったこともない。今夜もなけなしの理性を働かせて、暇を告げたその時だった。
「赤井、あの、」
「うん?」
「僕…魅力ないですか」
「は?」
「ごめんなさい、こういうのあんまり経験なくて、…面倒臭いんですよね?」
「……君は何を言っているのかな?」
「僕が経験ないから面倒なんでしょう?それともやっぱり男だから――――」
耳まで真っ赤にして、それなのに今にも泣きそうな顔で、だから抱けないのかなんて詰られたら。赤井の理性などプツリと切れてしまった。
「そんなわけあるか。これでも我慢していたんだ、君を怖がらせたくなくて。…抱きたいよ、抱きたいに決まってるだろ。愛してるんだ」
ぎゅうぎゅうと抱きしめると、降谷はほっと溜息を吐いてよかったと呟いた。その日、赤井は初めて降谷の部屋に泊まった。
準備も何もないからその先には進めなかったけれど、同じベッドで抱きしめあって眠り、翌朝は初めて見る降谷の寝顔を堪能して幸せを嚙み締めた。
初めての夜は、最高の思い出にしたい。
赤井は柄にもなく人気のデートスポットを検索してみたり、知人や同僚に訪ねたりとリサーチを重ねて、都内の高級ホテルの一室を予約した。夜景の見えるレストランはなかなか予約が取れないのだが、工藤夫妻のツテで一番人気の席を抑えることができたのだ。
『秀ちゃん、デートプランに悩んでるんですって?』
突然掛かってきた電話でいきなり切り出されて思わず吸っていた煙草に咽てしまったが、構うことなく有希子はまくし立て、レストランの支配人には話を通しておくから優作の名前を出してちょうだいねと言うと、これまたいきなり切られた。
しばし呆気にとられていた赤井だが、すぐに掛かってきた電話で我に返り、今度はその息子の新一からの電話に出る。
『赤井さん、ごめん! 蘭と話してたら母さんに聞かれちゃって』
確かに新一には相談した。人気のデートスポットを教えてくれないか、と。
それで有希子が電話してきたのかと納得し、苦笑しながら有り難い申し出を受けることにした。降谷が喜ぶかどうかは分からないが、こういうベタなプランも分かりやすくて良いのではないだろうか。ああ、でも、薔薇の花束はやりすぎだろうから、ベッドに花びらを散らしておいてもらうくらいで良いかもしれない。
そんな事を考えながら浮き浮きと、降谷に今週末のデートを申し込みに行く。今日は合同捜査本部の方へ来ているはずだから。
「降谷さんなら黒田管理官と一緒に、お客様のお見送りにロビーまで下りられましたよ。でもそろそろ戻られるんじゃないですかね」
降谷を訪ねると風見にそう言われて廊下で待つことにした。エレベーターホールのすぐ目の前、低めのパーティションと観葉植物で区切られたコーナーはちょっとした来客と会ったり休憩したりできるスペースになっている。
病院に有るような背もたれのない長椅子に腰掛けて待っていると、ポーンとエレベーターが到着する音がした。
「……というわけだ」
扉が開き、聞こえた声に赤井はサッと身を潜め気配を殺した。声の主は降谷の上司に当たる黒田兵衛。赤井はこの男が少々、できればあまり関わりたくないと思うくらいには苦手だった。
エレベーターホールから左右に伸びる廊下は、右に行けば合同捜査本部、左に行けば黒田の執務室がある。二人はここで別れるだろうから、一人になったところで声を掛けようと待っていたのだ。
「ところで降谷」
「はい」
「例のFBIの小僧とはどうなっている」
小僧という物言いには腹が立つが、自分の事を指しているのはすぐに分かったので大人しく聞き耳を立てる。
「順調です」
「そうか。あれは利用価値が有るからな。せいぜい誑かして搾り取ってやれ」
「はは、人聞きが悪いですよ」
「まぁ、何はともあれ例の件だけは何としてでもモノにしろ」
「承知しました」
降谷は恭しく敬礼し、黒田を見送った。そして自分も踵を返すと合同捜査本部のオフィスに戻って行った。
(今……なんと言った…………?)
赤井は身を潜めたまま、目の前で展開された会話を思い起こす。
『利用価値』『誑かして』『例の件』。黒田の口からポンポン飛び出した単語はどれも不穏で、赤井でなくても1つの答えにたどり着くだろう。
(ハニートラップ、か)
弾き出した答えを呟いて、ギリリと奥歯を噛み締めた。
結局降谷には声を掛けられず、かといってFBIに宛がわれている部屋に戻る気にもなれず、喫煙スペースへと足を運んだ。立て続けに何本か吸い、ようやく煮えたぎった脳みそが少しクールダウンして考えると、降谷が二人の仲を公にしたくないと言った理由も頷ける。初心な振りをして赤井が手を出すことを躊躇させ、そうかと思えば手を出してくれないなどと言って舞い上がらせる。さすがはバーボン、まんまと騙されたよと自嘲した。
はあっと大きなため息を吐いてもう何本目かもわからない煙草を取り出す。口に咥えてマッチで火を点けると、パタパタと足音が近づいてきた。
「あ、やっぱりここに居たんだ」
「零くん…」
「風見からあなたが訪ねてきたと聞いて…そっちの部屋へ行ったんだけど見当たらなかったから」
へへへ、と子供っぽい笑みを浮かべる。付き合うようになってから見せてくれるようになった、赤井の好きな表情だった。
(ああ、好きだな――――)
先ほどまでの苛立ちは煙と共に吐き出した。たとえ騙されていたとしても、自分が彼を好きな気持ちは変わらない。偽りの恋人だけれど、自分に利用価値があるうちは傍に居てくれるのなら、一分一秒でも長引かせたい。黒田の言っていた『例の件』が何かは知らないが、内容によっては協力したり情報提供できることもあるかもしれない。もちろん国益を損なわない程度なら。
「惚れた弱みだな」
「え?何?」
「俺は零くんに骨抜きにされてるってことさ」
煙草を持っていない方の手で引き寄せて、ちゅっと頬にキスをしただけで降谷は真っ赤になる。
「ちょ、ここ、職場!」
これが演技だとしたらマカデミー賞モノだなと、どこか冷めた気持ちで思った。
結局赤井は高級ホテルの予約をキャンセルした。夜景の見えるレストランだけは優作の名を使わせてもらったので、本日のデートは食事をして解散だ。
陳腐な表現だが宝石を散りばめたような東都の街はとても綺麗で、降谷も嬉しそうに料理を楽しんでいた。ここのところずっとお家デートというやつだったので、たまにはこんなのもいいですねと喜んでくれた。
食事が済んで、席を立つ。本当ならば予約した部屋へ誘ってそこで――――という計画は流れてしまったから、エレベーターに乗り込んで1階へのボタンを押す。
「あの、」
「ん?」
「いえ…なんでもないです」
エレベーターは途中で止まることなく1階に着き、エントランスを抜けて外に出る。車寄せには数台のタクシーが客待ちをしていて、赤井は降谷が何か言う前に後部座席に押し込めてしまった。
「おやすみ、零くん」
「え…と、…おやすみなさい」
降谷を乗せた車のテールランプが見えなくなるまで見送って、自分は夜道を歩いて帰ることにした。赤井が根城にしているホテルまでは車なら10分足らずの道のりだが、歩けば30分ほど掛かる。昼間とは打って変わって人通りの少ない歩道を重い足取りで歩きながら、つらつらと考える。
彼は今夜、どんな気持ちでいたのだろう。もしも部屋をキャンセルせずに連れ込んだら、彼は自分に抱かれてくれたんだろうか。それともやっぱりまだ怖いなどと言い出して、そう言えば赤井が手を出せなくなるのを知っていて、翻弄するのだろうか。
そもそも降谷は本当に経験がないのだろうか。バーボンの頃は噂が先行しているだけなのは確かだったが、赤井が組織を離脱した後の事は知りようがない。あれだけの男なのだからと信じたい気持ちはあるが、ジンには胡散臭がられていたし、嫌がらせにそういった任務も回されていたのではないか。もしもそんな事があれば、降谷は自分を犠牲にする事を厭わないように思う。彼の愛国心と責任感の強さ、そして時に暴走する一途さは嫌と言うほど知っている。
(いや、やめよう――――)
自分の考えを払拭するようにふるふると頭を振った。そんなに酔った覚えはないのにくらりと眩暈がする。胸ポケットに入れたスマートフォンが短く振動してメッセージの到着を知らせた。送り主は降谷だった。
『家に着きました。おやすみなさい』
足を止めて赤井も『おやすみ』と返して、また一人歩き始めた。
最後のデート以来、赤井は今まで以上に降谷の一挙一動に注意を払った。何か探るような気配はないか、気付かぬうちに情報を抜き取られたり利用されてはいないか――――。
あれから降谷からの誘いは裏があると見てやんわりと理由を付けて断っている。そのくせ何日も会えないと我慢が利かなくなって自分から誘ってしまう。馬鹿だなと思いながら、偽りの笑顔に心をときめかせ、その場限りの愛を求めてしまう。
だがいつまでもこんな歪な関係を続けるわけにはいかないことくらい赤井にだって分かっていた。もう終わりにしなければ、そう決心して訪れた降谷の家で、別れ話を切り出すつもりだった。
「赤井、別れましょう」
自分から告げるはずだった言葉は、なぜか降谷の口から先に出た。リビングのローテーブルを挟んで向かい合って座る降谷の表情は硬く、まったく想定していなかった事態に常に冷静なはずの男は珍しく動揺していた。
「なぜ。理由を言ってくれ」
「それはあなたが一番知っているでしょう」
降谷は苦々しい顔で赤井を見た。ハニートラップを仕掛けたことが赤井にバレているのに気付いたということか。
「ああ、そういう事か。計画がバレてしまったからお払い箱ってわけだな」
「は?なに言って」
「とぼけるな。俺を利用するつもりだったんだろ?残念だったな」
「あ、赤井?――――いたっ、」
怯えを含んだ戸惑う表情を見せる降谷の完璧な演技が赤井の怒りの炎に油を注いだ。利き手で降谷の右手首を掴み、ぎりっと捻り上げる。
「いったい何が目的だった?FBIの情報か?それとも人脈か?そんなモノのために俺に媚びを売って――――。はは、まんまと騙されて喜んでいる俺はさぞかし滑稽だっただろ。でも、それも今日で終わりだよ」
「っ、」
痛みに顔を歪める降谷の手首を解放し、チッと舌を打つ。痛いのはこっちの方だと罵りたいのに、どうやったって自分は降谷を傷つけることなどできやしないのだと思い知る。
「役に立てなくて悪いな。じゃあ」
ふらりと立ち上がり、背を向ける。玄関までの数歩の距離を後ろ髪を引かれる思いで歩き始めると、どんっと背中に体当たりされてたたらを踏んだ。
「な、」
「帰るな!」
強い口調とは裏腹に降谷の表情は今にも泣きだしそうで、ささくれ立っていた赤井の感情は虚を突かれて少しだけ和らいだ。
「あの、ごめん、赤井が何を言ってるのかよくわからなくて。利用とか騙すとか…」
「……。だったら君はなぜ別れようと言ったんだ」
「それは、赤井が。……男を抱くなんてやっぱり嫌だったんだろ?」
それとなく避けられているのには気付いていた、そう言う降谷の声も赤井のシャツを掴んだ指も震えていた。
「最初はさ、それならそれでいいって思おうとしたんだ。セックスなんてしなくても一緒にいられるならそれで。…でも、部屋に呼んでも断られるし、ぎくしゃくするくらいならちゃんと別れて、友人として付き合えたらって…」
「俺を騙して利用しようとしてたんじゃないのか?」
「?だからそれ何のことかわかんないって言ってるじゃないですかっ」
さすがの降谷もこう何度も同じやりとりを繰り返せば少々キレ気味にもなる。もともと気は長くない方だから。
「Ok, 零くん。最初から順を追って話し合おうか」
赤井が気を取り直してリビングに戻り、先ほどまで座っていた位置に腰を下ろす。降谷は仕切り直しにコーヒーを淹れるからとキッチンに立ち準備を始めた。コーヒーが出来上がるまでの間、お互い黙って頭の中で言いたいことや聞きたいことを整理した。
赤井の言い分は、あの日の目撃情報に基づいた降谷からのハニートラップ疑惑で、それを裏付けるのは彼が二人の仲を公表したがらなかった事と、それまでそんな素振りさえ無かったのに先に告白してきた事だと主張した。
それに対する降谷は、本当に以前からずっと好きだった、それこそ組織に居た頃から惹かれていて、叶わない想いを誤魔化すために反発していたのだと白状した。二人の仲を秘密にして欲しかったのは本当に根回しのためで、黒田管理官にはまず最初に申告したのだと言った。
「その黒田管理官が『利用価値があるから誑かして搾り取れ』と」
「あの人はそういう物言いをするんですよ」
顔が怖い上に赤井同様に表情筋が働いていないから、冗談が冗談に聞こえないタイプなのだ。あれは黒田なりの『イジリ』だったのだが、確かに第三者にはわからないだろうなぁと降谷はため息を吐いた。
「それでは『例の件』はどうなんだ。絶対にモノにしろと言っていた」
「あー、それはですね…」
黒田は赤井たちFBIが滞在している間にと、大規模な共同訓練の開催を計画していた。ジェイムズには非公式ながら計画を打診し、既に色よい返事を貰っている。ただ、一つだけ問題を抱えていた。
「それがあなたです」
ビシッと人差し指を突き付けられて面食らった赤井は、まったく見当もつかないんだがと首を傾げた。
「黒田管理官は、あなたに狙撃および銃撃の講師を任せたいと思っているんです。それでジェイムズさんに相談したら、難しいと断られてしまって」
「ジェイムズから俺にそんな話はなかった」
言ってくれれば引き受けたのにとでも言いたげな顔の赤井に、降谷ははぁと溜息を吐いた。
「あなた以前、アカデミーから特別講師の依頼が来たことあるんですってね」
「あ、」
思い出した。
アカデミー時代の教官から一度でいいから教壇に立ってもらえないかと頼まれたが、性に合わないとはぐらかし逃げ回り、とうとうジェイムズを通して正式に依頼が回ってきた時は、3日ほど行方をくらませてやった前科がある。
「だから黒田管理官が僕に説得しろと言ってきて…。恋人の可愛い頼みも叶えてやれない甲斐性なしの男なら別れさせてやる、なんて脅してくるもんだから…。あ、別れさせるってのは例によって黒田管理官の笑えない冗談なんですが、僕も赤井の講義を受けてみたいなって思ったから、その、カッコイイんだろうなって…」
頬を赤らめてもごもごと尻すぼみになる降谷の様子に、赤井は額に手を当てて天を仰いだ。可愛すぎる。
「すまない、降谷くん。俺が勝手に誤解して拗ねてたんだな」
テーブルを挟んで向かい合って座っていたのを隣に座り直して、肩を引き寄せる。ん、と小さく頷いて降谷は赤井の腕の中に納まった。
ちゅっちゅと啄むようなキスを贈ればくすぐったげに肩を竦め、次第に深くなれば息を乱し力の抜けた身体を預けてくる。もう遠慮しなくていい、遠慮なんてするものかと自分に言い聞かせて、降谷の耳元で囁いた。
「零…、ベッドへ案内してくれ」
果たして日米共同訓練は大々的に行われ、二国間に有益な成果をもたらした。それぞれの国には長所もあれば短所もあり、お国柄も違うが取り入れられるところは取り入れ、また反面教師として学ぶところもある。何よりこの共同訓練は互いの国のやり方を学ぶ事により、今後の捜査における協力体制がより強固で理解しあえる様にするのが目的なのだ。特に数名ずつ日米混合のチームを編成して街中に出て犯人を追跡する模擬訓練は、状況によって話し合いお互い譲り合って臨んだチームが一番良い成績を叩き出した。
「降谷」
「はい」
「ご苦労だったな」
「管理官のお陰で破局しかけましたけど」
「それはいいな。そもそも可愛い部下をFBIの小僧なんぞにくれてやるのは気に食わん。目的は達成したのだからとっとと別れて戻ってこい」
「やめて下さい。縁起でもない」
また赤井がうっかり聞いて誤解してしまったら堪らないと、キョロキョロと辺りを見回す。当の赤井は人垣の中心で質問責めに合っていた。
「赤井捜査官、今度射撃訓練に付き合ってくださいよ」
「ああ。そういう計画もあるらしいから」
今回は日程の都合で座学の講師だけで、実射訓練は行っていない。降谷から聞いた話ではいずれ開催したいと言っていた。座学のレクチャーに比べたら実射の手解きの方がはるかに性に合うし、その時は降谷も教官役を手伝ってくれると言っていたから、面倒くさいどころか密かに楽しみにしていたりもする。
そう言えば彼はどこにとぐるりと周囲を見渡せば、少し離れた場所で黒田と話している姿を見つけた。この男のせいでとんだ目に遭ったと思うと腹立たしいが、結果オーライなので不問にしておくことにした。
その時の降谷は別の方向を向いていたから気付かなかったが、黒田は赤井の視線に気づいたようで、ほんの僅かに片方だけ口角を上げて見せて赤井の神経を逆撫でる。
まったく、降谷が全面的な信頼を寄せているのだから悪い奴ではないのだろうが、相変わらず何を考えているのか見て取れない胡散臭い男だなと、自分の事は棚に上げてそんな事を思う赤井であった。
終
「あ。ねぇ、見て」
「?」
ジョディの目線の先にほんの僅か顔を動かすと、そこには黒づくめの男…と、もう一人。
「彼女、シュウを狙ってるの」
あれは確かつい最近来日した、補充のFBI捜査官。名前は確かジェシカ・ウィルソンと言ったか。若い彼女はデスクワーク中心で赤井を始め主に現場で動き回るメンバー達の補佐を担っている。
仕事の話をするには近すぎる距離で、赤井の手に有る資料を覗き込んでいた。豊かな胸をそれとなく彼の二の腕に押し付けることも忘れずに。
「FBIは暇なんですか?」
「暇ではないけど、彼女のお陰で楽にはなったわね」
仮にもFBI捜査官である彼女は、現場で活躍する派手さはないが、集まった情報の分析や精査等の才能に長けていた。関係各所との交渉関係も担当しているから、降谷とも多少の接点は有る。
見事なブロンドにメリハリのあるスタイル。それでいてどこか隙の有る少女めいた顔つき。加えて身長は白人女性にしてはやや小柄な方で、つまりは日本人男性受けする。公安サイドにも密かなファンは多い。
「あの様子ではまんざらでもない?」
赤井は彼女との近すぎる距離感を気に留めることも無いようだ。もう既に付き合っているのかもしれない。
「どうかしら? シュウっていつもあんなだし」
「…気にならないんですか?」
元カノでしょ、と少し意地悪く訊ねれば、ジョディはぷはっと吹き出した。
「そおねぇ。私よりいい女なら多少は気になったかも知れないけど。そういう意味では気にならないわよ」
赤井への未練は微塵も無いようだ。しかも言外に自分の方がいい女だと言っている。
「ふふ、貴女のそういうとこ好きだなぁ」
「付き合う?」
「それはお断りしますけど」
「あはは!少しは考えるフリしなさいよ!マナーでしょ!」
朗らかに笑いながら肩に軽いパンチを入れてくる。同じスキンシップでも全く色気がない。そこが彼女の魅力でもあった。
「それは失礼しました。じゃあ、訂正版の資料はなるべく早く持ってきます。申し訳ありませんが昨日の資料は速やかに破棄してください」
仕事の話をしていたのに今やすっかり雑談と化した会話を切り上げて踵を返そうとしたところに声が掛かった。赤井だ。
「降谷くん、来てたのか」
「ええ、昨日の会議の資料なんですが新たな情報を得たので訂正する必要が出てきまして。とりあえず口頭で伝えに来たんです」
「なら、俺に声を掛けてくれればいいじゃないか」
確かにFBIの中では赤井が中心となって取り組んでいる案件だったが。
「そうですけど。でも僕だってわざわざその為に来た訳じゃないですよ。このフロアに用があって、ならついでに伝えておくかってだけで」
―――嘘だ。
一目でも赤井の姿が見れたらいいなと、あわよくば会話できたら、そして流れで昼食にでも誘えたら…そんな思いで昼休みまであと僅かなこのタイミングを狙ってきたのだ。
―――なのにお前は若くて美人な同僚と親密な距離で話なんかしてるから。
「そうか。なら降谷くん、もしよければ 「シュウ!」
何か言い掛けた赤井の言葉を遮って、部屋の奥から例の彼女が彼の名を呼んだ。
「っ、何だ!」
「もうランチタイムよ!昨日話したお店に行きましょ!マイクが先に行って席を取ってくれてるの」
「俺は行かない。やることがあるんでな」
「えぇ~!じゃあ私もデスクで食べようかな。何か買って来てあげるわ」
おいおいマイクはどうするんだ。呆れた降谷がジョディと顔を見合わせると彼女は肩をすくめた。一事が万事いつもこの調子なのだろう。
「間に合ってる。ほら早く行け、マイクが待ってるんだろ」
食い下がるジェシカを追いやった赤井が再び降谷に向き合った。
「なんだ、忙しいんですね」
「え?」
「ちょうどお昼だしランチでもと思ってたんですけど」
「あら、じゃあ私と行きましょうよ!」
ジョディがすかさず手を挙げた。
「え、おい」
「あんたまたカロリーバーで済ますんでしょうけど、たまにはちゃんと食べた方がいいわよ!じゃあね!行くわよフルヤ!」
「わっ、」
そう捲し立てるとジョディはがしっと降谷の腕を掴み引きずるように歩き始めた。一瞬バランスを崩しかけたがすぐに体勢を整えた降谷がペコリと頭を下げてされるがままに連れて行かれるのを、赤井は呆気にとられたまま見送るしかなかった。
「でね、いつもあんな感じなのよ~」
「わかりやすいと言うか、あからさまと言うか…でしたね」
「スキンシップも過剰だし、ちょっと目に余るのよね」
先ほどのジェシカの態度のことだ。別に赤井に未練はないが、職場ではちょっとやりすぎではないかと彼女は思っている。
「でも私が何か言うと…ホラ、日本語でなんて言うんだっけ?意地悪な女性の先輩の…」
「お局様?」
「そうそれ、オツボネサマになっちゃうでしょ?」
「はは、ジョディさんはお局様って言われるほど古株でもないでしょ」
しかし国は変われど女性同士は色々と難しいのだろう。特に彼女は赤井の恋人の地位にいたことのある女性なのだ。いくら今はそんな気持ちはないと言っても何かと敵視されることもあるのだろう。
「でも赤井はとくに拒否したりしてないんでしょう?案外悪い気はしてないんじゃないですか」
「シュウはそれが通常運転よ。もともと他人に対して関心ないし、寄せられる好意に慣れすぎちゃって気付いてないのよ」
「うわ、イヤな奴…!」
確かにあれ程の男なのだ。黙っていても女が寄ってくるだろうし感覚が麻痺しているのも頷ける。女に不自由したこともないんだろう。
「フルヤだってモテるでしょ?」
「それが全く…。見てくれを騒がれることは有っても、男としてはモテないんですよ。観賞用のアイドルか、せいぜい有閑マダムのツバメがいいとこです」
「あははっ、それ似合う~……ん、美味しい!」
ジョディはケラケラ笑いながら口に放り込んだ唐揚げを咀嚼して目を輝かせた。
「でしょう。僕が知る限りここの唐揚げが日本一ですよ」
「カラアゲって、フライドチキンとはまた違って美味しいわよね~。アツアツのうちに食べなくちゃ!」
そうして食事に集中することにしてジェシカの話題は終わった。
店の前で先に会計を済ませたジョディが待っていると、遅れて出てきた降谷はレジ袋を手に下げていた。
「それなぁに?」
「お持ち帰り用に包んでもらったんです。あの、これ、赤井に渡して下さい」
カロリーバーで済ますなんて見逃せません、僕らは身体が資本ですからね。酒と煙草じゃいざという時に力がでないじゃないですか。まったく何考えてるんだかアイツは。
ごちゃごちゃと言い訳のように呟きながらズイッとジョディにビニール袋を差し出す。
「僕はこのまま外出するので、ここで」
「あ、ええ、渡しておくわ。いってらっしゃい」
ペコリと会釈する降谷にヒラヒラと手を振って見送りながら、ジョディはふうんと大きく頷いた。
降谷が出先から戻ったのはそこそこ遅い時間で、オフィスにはもう誰も残っていなかった。組織が壊滅し残党狩りも落ち着いてきた今は、よほどの事がない限り早めに帰るよう徹底させていた。今まで犠牲にしてきた私生活を取り戻すようにマイホームパパに徹したり、ずっと待たせていた恋人とゴールインしたりと、あれほど殺伐としていたオフィスは日々幸せオーラに満ちている。
ふぅ、と息を吐いて自分の席に着くと、デスクの上に黄色い付箋が貼ってあった。
『ありがとう。うまかった。こんどれいをしたい』
少しクセのある角ばった字。赤井の字だった。
日本語は流暢に話せるが、文字を書くのは漢字が少し苦手だと言っていた彼は、読むことは問題ないのでパソコンで打つときは日本語の文章を書くが、手書きの時はだいたい英語で書いている。それなのに。
―――ひらがなだけの文字。可愛い。
指先でそっと文字をなぞって、降谷は机から丁寧に付箋を剥がすと、手帳の新しいページに貼り付けた。
「…すき」
閉じた手帳を胸に押しあてて、誰もいないオフィスにちいさなちいさな呟きを落とした。
翌朝、一歩庁舎に踏み入れたところで後ろから声を掛けられた。
「おはよう、降谷くん」
「おはようございます。どうしたんですか今日は早いんですね」
「たまにはな。君はいつもより遅いんじゃないか?昨日風見くんに聞いたら普段は8時前には来ていると言っていたが」
「昨日、そこそこ遠出して帰宅が遅かったので。洗濯物も溜まってたしちょっと家事を済ませてから来ました」
「昨日は何時に帰ってきたんだ?俺が最後に君のデスクを覗きに行ったのは8時過ぎくらいだったんだが」
「最後に?…何度も足を運んでくれたんですか?」
「あー、うん、まぁ。礼が言いたくて。でも三度目で風見くんに付箋を渡されてな」
「それで。ふふ、無理しないで英語で書いてくれてよかったのに」
「君の国の文字で伝えたかった。だが咄嗟の事で漢字に自信がなくて全部ひらがなになってしまったが」
読めるけど書けないんだ。自信を持って書けるのは自分や家族の名前くらいで、書くときはちゃんと調べながらでないととはにかんだ。初めて見るその表情に降谷の胸がとくんと高鳴った。
「改めて、差し入れありがとう。とても旨かった」
「お口に合いましたか?」
「ああ、今まで食べた唐揚げのなかで一番美味しいと思ったよ」
そう言うと、降谷は花が綻ぶような笑顔を見せた。
「良かった…!」
「日本一美味しいんだったな?君がそう言っていたとジョディが」
「あそこの唐揚げ、ヒロ…、スコッチの作る唐揚げと似てるんです!」
「スコッチの…?」
懐かしい、けれどほんの少しだけ胸の痛みをともなうその名前。陽気で気のいい男だった。赤井にとっても忘れられない、忘れてはいけない存在。
「はい。そんでもって僕の料理の師匠はスコッチだから、僕の唐揚げもあんな感じで」
「食べたい」
「え?」
「食べてみたいな、君の唐揚げ。スコッチの直伝なんだろ、昨日の店の唐揚げより、もっと彼の味に近いってことだよな」
「ああ、そうなる…のかな?じゃあ、」
今度作ってあげましょうか、そう続けようとしたところに横槍が入った。
「シュウ!どうしたの!今朝はずいぶん早いのね!」
「ジェシカ…」
「おはようございます、ウィルソン捜査官」
「モーニン、フルヤ!2人で朝から何を話してたの?」
細く白い手が当たり前のように赤井の腕に触れた。
「お前には関係ない話だ」
「なによそれぇ!」
ぷくっと頬を膨らませて、女らしいたおやかな腕を赤井のそれにするりと絡み付けて自分に引き寄せた。
「ただの世間話ですよ。珍しく早いですねって。じゃあ僕はもう行きますね」
「待て、降谷くん!肝心な話をしてなかった。昨日の礼がしたいんだ」
「そんな、大したことないですから」
「お礼ってなに?」
ジェシカが赤井の腕にしがみついたまま身を乗り出して首を突っ込んでくる。
「だからお前には関係ないと」
チッと舌打ちをして睨み付けても動じないどころか、その一瞬の隙に降谷は既に歩き始めていて、気がつけばエレベーターホールの前にいた。タイミング良いのか悪いのかポーンと間延びした音がしてドアが開いた。
「じゃ、僕は先に行きますね」
「降谷くん、」
自分も乗ろうと足を進めようとして、バランスを崩す。そして初めて右腕にジェシカが絡み付いてるのに気付いた。
「離せ」
「またね~、フルヤ!」
ブンブンと手を振るジェシカに軽く会釈を返した降谷は、閉まりゆく扉の隙間から見える二人の姿をこれ以上見たくなくてそっと目を閉じた。
キーボードを打つ手を止めて、パソコンの傍らに置いたコーヒーカップを手にする。視線はモニターに向けたままカップに口を付けて煽ると、中身は既に空で肩透かしを食らった。
「…淹れて来ましょうか?」
風見が気を利かせて声をかけた。
「いや、気分転換も兼ねて自分で淹れるよ。ついでだからお前のも淹れてやる」
「やった!ありがとうございます!」
風見が小さくガッツポーズをする。そのやり取りを聞いていた他の部下がずるいと口を尖らせた。
「あー、風見さんいいな~ずるいな~」
降谷のコーヒーはポアロで腕を磨いただけあって絶品なのだ。普段はインスタントで済ましているが、休憩を兼ねてだとか気分転換にというときはきちんとドリップしたコーヒーが出てくる。
「あー、わかったわかった。仕方ないからお前達のも淹れてやるよ」
口では面倒くさそうに、でも内心は面映ゆい気持ちで席を立って給湯室へと向かった。
「…で、これ。赤井捜査官のだよね?」
「あー!ホントだ!マジかー」
「やっぱ噂は本当だったのね」
「わーん、ショック~」
給湯室に近付くと中から何やら賑やかな声がする。
「どうした?」
「あっ、降谷警視!す、すみません!煩くして!」
見れば事務の女性職員二人がスマホを覗き込んでいた。おっとりした見た目に反して勝気な山田さんと派手過ぎる顔立ちで損しているタイプの田中さん。
「いや、いいんだよ。それより赤井の名前が出てたけど…FBIが何か?困ったことがあるなら僕から申し入れするよ?」
笑顔を浮かべて、しかしその裏でチラリとスマホの画面をチェックする。どうやらそれはイヌスタグラムの画面のようだった。
「いぇ…何でもないんです!」
「気になるなぁ。仕事中になんて野暮なことは言わないから、僕にも教えてくれないかい?」
安室透の笑顔を引っ張り出せば、女性達は目を見合わせて頷き合いおずおずとスマホを差し出した。
「これってイヌスタグラムだっけ。君の?」
「いいえ。FBIのジェシカ・ウィルソン捜査官のアカウントなんです。この前IDを交換しましょうって教えてくれて」
「へぇ。仲良くなりたいって思ってくれたのかな」
「違うと思います。多分、牽制です」
スマホの持ち主である山田は苦々しい表情でそう言った。
「牽制…?」
「よぉ~く見てください、これ」
画面の画像はどこかの玄関のようで、男女の靴が並んでいる。『一目惚れして買っちゃった』とコメントがついている。その真っ赤なヒールはジェシカの物なのだろう、そしてその隣に半分見切れる形で並んでいるメンズの靴は。
「これ…」
「やっぱり降谷さんも見覚えあります?これ、赤井捜査官の靴ですよね?」
「ああ、うん。こんなの履いてたような気がする」
でも彼の靴は至ってシンプルなデザインで、似たような靴はいくらでもある。だから似ているだけで違うかも知れない。
「他にもあるんです、…ほら、これ」
画面をタップしたりスワイプしたりして次に見せてくれてのは、ソファーの上に広げたセクシーな下着たち。
「おっと、」
「すみません、逆セクハラですよね。でも見て下さい、右端」
「あー」
背もたれに無造作に引っ掛けられているのは、赤井のジャケットだった。
他にも口紅のついたグラスの横に、もうひとつウイスキーの入ったグラスとバーボンのボトル。乱れたベッドのサイドチェストの上に置かれた、彼が吸っているのと同じ銘柄の煙草の箱。
なんだ、もう付き合ってるんだあの二人。
「これ、いわゆる匂わせってヤツです!」
「この子がですね、赤井さんのファンなんで牽制仕掛けてきたんです!」
勝気な山田が派手顔の田中を指差す。
「君、赤井が好きなの?」
「好きです!でも、ただの憧れっていうか推しです!彼女になりたいとかそう言うおこがましい気持ちなんてなくて、ただ見守ったり愛でたり崇拝したいだけなんです!尊いんです!」
派手目な顔で力説されるとなかなか迫力があるもので、降谷は思わず一歩下がった。
「はぁ…」
推しってなんだ。良くわからないけど、害は無いんだろう。
「二人が付き合ってるならそれはそれで…赤井さんが選んだ人なら認めるしかないんですけど…こういう匂わせってあんまり気分良くないって言うか」
「はっきりいってファンの反感を買うんですよ」
なるほど。降谷は頭の中のメモリに書き込んだ。
「彼女は不安なんじゃないかな。赤井ってほら、すごくモテるし」
だったら二人はもう恋人同士なんだと公表すればジェシカも安心してこんな回りくどい牽制などしなくて良くなるだろう。きっとあの過剰なまでのスキンシップもそういった意味合いだったのかもしれない。
「僕から助言しとくか。…さ、君たちはもう仕事に戻ろうか。君のとこの課長、ネチネチうるさいよね」
「わ、そうです!うるさいんです~」
「すみませんでした、失礼します~!」
二人は大慌てでバタバタと走り去って行く。
「廊下は走るなよ…ってもう聞こえてないか」
気分転換に来たはずなのに、気分は最低だ。赤井に好意を抱いていてもだからどうだというつもりはなかったのに、いざ恋人が居ると知ったらこんなにも胸が痛むなんて。
「コーヒー、淹れなきゃ…」
あまり遅いと風見が心配して様子を見に来てしまうかも。うっすらと滲んだ涙を乱暴にぬぐって棚から取り出した紙コップを並べた。
トレイにところ狭しと乗せた紙コップ入りのコーヒーを手に事務室に戻ると、そこには風見と話をしている赤井がいた。
「あ、戻られましたよ」
ドア側に向いていた風見が気付いて言うと、背を向けていた赤井が振り返った。
「降谷くん」
「赤井。どうしました?何か確認事項でも?」
「いや、仕事の話じゃないんだが……君がお茶汲みを?」
赤井は降谷の持ったトレイを見て目を丸くした。
「あ、ちょっと待っててください。おーい!コーヒー入ったぞ!ここに置くから各自で持っていけ!」
近くのミーティング用テーブルに置いて声を掛けると、口々に礼を言いながら部下達が紙コップを引き取ってゆく。そして最後に1つ残った紙コップを手に取って赤井に差し出した。
「いいのか?君のだろう?」
「ポアロ仕込みの淹れたてコーヒー、飲まなきゃ損しますよ。…僕はいつでも飲めますから」
「ありがとう」
礼を言って赤井はすぐに一口飲んで、とても美味しいと褒めてくれた。
「あなた…そんな顔もするんですね」
お礼と共に浮かべた柔らかい微笑み。口に含んだ途端わずかに見開いた瞳。美味しいと言ってくれた笑顔はパッと輝くようで。
「うん?どんな顔だ?」
「なんでもないです。それより用件って」
「あぁそれなんだが昨日の礼に」
「あー!シュウ!やっと見付けた!」
この声。このパターン。
見なくても分かる。
「ジェシカ…」
「探したのよ!本部のステファニーが連絡欲しいんですって」
「たかがそれだけの事でこんなところまで」
「だったらちゃんとモバイルを持ち歩いてちょうだい!」
どうやら仕事用のスマホはデスクの上に置き去りにしたまま席を外していたらしい。いつでもどこでも繋がることが当たり前の世界で、社会人としてどうなんだとその点についてはジェシカに同意した。
「相変わらず報連相がなっていないのか」
「プライベート用の端末はちゃんと持ち歩いている」
不貞腐れたように反論するが、その番号を知る人間はどれだけいるのだろう。少なくとも降谷は知らなかった。そしてこの様子ではジェシカもまだ教えて貰ってはいないらしい。その事実にほんの少しだけ安堵した。
「ジョディもキャメルも居なかったの!だから、ねぇ…そろそろそっちのナンバー」
「OK, わかった。これからは仕事用の方もちゃんと持ち歩く。それでいいだろ。降谷くん、また改めるよ。邪魔して悪かった」
ジェシカの言葉を遮るように一気に早口で言うと、くるりと踵を返してすたすたと歩き始めた。待ってと慌て追いかけたジェシカが甘えるように赤井の腕にしがみついて、腕を組んだまま部屋を出ていった。
「やっぱりあの二人、付き合ってるのかな」
降谷のすぐ近くに居た部下がボソッと言った。確かこいつは結構ジェシカに好意を持っていたんだったと思い出した。先程の様子からするとまだ恋人と呼べるほどでもないらしいけど、いわゆるデーティング期間中なのではないだろうか。先ほど見た画像の中には事後を匂わすものもあったが、むこうでは正式な恋人同士になる前に身体の関係をもつことも当たり前だというし、今はまだ恋人未満かもしれないがそれも時間の問題なんだろう。
「赤井が相手じゃ分が悪すぎるな」
「分が悪いどころか勝負になりませんよ!でもまぁ、口で言うほど本気で好きってわけじゃないですけどね。他国の捜査官ですし」
あっけらかんと言い放つ部下が羨ましいと思った。そんな立場の相手に本気で恋をしてしまった自分は公安失格だ。
「さ、休憩はこの辺にして仕事に戻るぞ。皆、今日も早く上がれるように頑張れよ!」
「「「はい!」」」
午後8時。まだあちらこちらに人の気配は残っているが昼間に比べればすっかり静まった廊下を歩く。降谷達の部署の明かりはまだ灯っていて、風見が1人プリンターの前で吐き出される用紙をチェックしていた。
「まだ残ってたのか。時間内に終わらないのは能力不足と判断するぞ」
意地悪い笑顔でからかえば、風見も負けずにふふんと口角を上げた。
「降谷さんこそ。帰ったふりして資料室に籠って仕事してたくせしてよく言いますね」
「くそっ、お前も言うようになったなぁ」
部下達が帰りやすいよう降谷は定時を過ぎると鞄を持って帰ったふりをする。駐車場には車が残っているのだからそれが茶番だと皆知っているのだが、暗黙の了解で上司の厚意に甘えさせて貰うのだ。
「実はあなたが戻ってくるのを待ってたんです。もし良かったら晩飯付き合って貰えませんか」
「いいけど、嫁さん待ってるんじゃないのか?」
組織が壊滅したあと何人か結婚した部下の中には風見も居た。大学の同級生でずっとただの友人関係だったのに、生死を賭けた大捕物を終えた時、脳裏に浮かんたのがその人の顔だったそうだ。
後はもう、すぐに会う約束を取り付けて、顔を見た瞬間にプロポーズしたらしい。そして彼女も二つ返事で了承したという、漫画かドラマかという展開で。婚姻届に承認として署名をして欲しいと差し出された時はさすがの降谷も目を真ん丸にした。
「実家に帰ってるんです」
「…喧嘩でも?」
入籍して5ヶ月、交際0日婚の熱が冷めてしまったのだろうかと声を潜めて訊ねた。
「いえ、その、…つわりが酷くて」
「おめでたなのか!」
早く帰宅できるようになったと言っても何かあれば何日も戻らないのが当たり前の仕事だ。体調不良で食事もままならず最低限の家事ですらも辛いだろうからと実家に世話になることにした。だから誰も居ない部屋に帰るのも夕飯を一人で食べるのも、ちょっと寂しいと。
「独身の時はなんとも思わなかったんですけどね」
「うーわ、マウント取りに来やがって!でも仕方ない、めでたいから付き合ってやるよ。ついでに奢ってやる」
「ありがとうございます!」
風見と連れだって向かう先は庁舎から少し歩いたところにある居酒屋にした。料理のメニューが豊富なその店は、明日も仕事の平日で酒より食事を重視してのチョイスだ。
「あ、そういえば」
風見が思い出したと話し始めた。定時を少し過ぎて降谷が帰るふりで席を外してすぐ、入れ違いのように赤井が訪ねて来たそうだ。庁舎内にいることは分かっているが表向きは退庁したことになっているのでたった今帰宅したと伝えるととても残念そうだったらしい。
「確かこれから行く店、FBIの連中が泊まってるホテルの目と鼻の先でしたね」
「そういえばそうだったな」
彼らは長期滞在型のホテルを何軒か分散して宿泊している。今から行く店の近くのホテルは最初から来日している赤井やジョディといった主要メンバーが根城にしていた。そこはホテルと言ってもマンスリーマンションに近い形態でミニキッチンや共同のコインランドリーも兼ね備えている。頼めば食事のルームサービスやランドリーサービスも受けられるが、基本的に希望した時の掃除とベッドメイク程度だとジョディから聞いたこと事がある。
「…と、噂をすれば」
「赤井…」
と、ジェシカ・ウィルソン。
通りの向こう側、路地から大通りに出てきた二人を視界に捕えた。降谷達の少し前方の細道から出てきて彼らのいる反対方向に曲がった二人はこちらには気付いておらず、すたすたと足早に歩く赤井のジャケットの裾を掴まえてジェシカが小走りに付いて行く。手にはコンビニで買い物したのかレジ袋を下げていた。そのまま二人の進行方向と同じに歩き進めると程なくして赤井の滞在するホテルが現れ、二人は吸い込まれるように建物の中に入って行った。
ジェシカは最近になって来日し、このホテルには空きがなくて別のホテルに宿泊している。だからつまりそういう事なのだろう。
「風見ぃ」
「はい」
「なんかすっごい悔しい。まったくどいつもこいつも…リア充爆発しろ!」
「まだ酒も飲んでないのにテンション高くないですか?」
「うるさい。決めた、今日は飲むぞ!とことん飲んでやる!」
拳をグッと握りしめて店の暖簾をくぐる降谷の後を風見が慌てて続くと、店の奥から店主の威勢のよい挨拶が迎えてくれた。
朝目が覚めてちょっとだけ後悔した。
昨日はちょっと自棄になっていたからか風見に理不尽に絡んでしまった。平日だし今日も仕事だから量はセーブしたし終電前に解散したけど、上司として褒められた態度じゃない。
枕元に転がっていたスマートフォンを拾い上げ、タップする。現れたのはジェシカのイヌスタグラム。
『たまにはお部屋でのんびり飲むのもいいよね』
そんなコメントが添えられた画像はカラフルな缶チューハイやスナック菓子、それからギリギリ見切れる位置にバーボンのボトル。アップされた日時は昨日の深夜だった。
あれから二人は赤井の部屋で飲んで、それから…。前にあげてあったあの写真のセクシーな下着を着けているのだろうか。ちなみにその時のコメントは『気に入ってくれるかな?』だった。いや、その時の写真には端に赤井のジャケットが写っていた。もうその姿はとっくに堪能したんだろう。そんなことを想像して、またそんなことを想像する自分に気付いて、気分が悪くなった。
赤井が好きだ。
だからといってどうこうなりたいわけじゃない。それは本当。
でも目の前で誰かと寄り添う姿は見たくない。友達のポジションに収まるなんてのも無理だ。
幸い彼はこの国の人間じゃない。まだ根絶やしにはできていないが残党の動きも目立たなくなり、合同捜査本部の解散の話もそろそろ出てくるだろう。そう遠くない未来に帰国しもう滅多に会うことも無くなるはず。それでいい。
「上に進言してみるか…」
手に持ったままだったスマホの画面はいつの間にかスリープになっていた。黒い画面に映る弱々しい顔をした自分をかき消すように再び表示させると、ジェシカのアカウントのブックマークを削除した。
「おはようございますジョディさん。赤井、居ますか?」
「おはようフルヤ!居るわよちょっと待ってて。シュウ!シュ~ウ~!」
部屋の奥に向かって名を呼べばパーティションの向こうから顔を覗かせた赤井が降谷の姿を認めてすぐにやって来た。
「おはよう降谷くん、どうした?」
「おはようございます。少し確認と相談したいことがあって時間作って貰えないかなって」
「いいよ。今すぐ?」
「シュ~ウ、だめよ!こっちの仕事が先でしょ~」
またジェシカだった。こちらももう慣れたもので驚きもしない。赤井は少しムッとしたもののすぐに申し訳なさそうに降谷の表情を窺った。
「僕の方は急ぎませんよ。明日でも明後日でも」
「いや、今日にしよう。午後なら大丈夫だ」
「う~ん、今日の午後は僕の方がちょっと」
「終わったら連絡をくれないか。何時でもいい」
そう言ってジェシカからは死角になるように胸元を指差し、降谷の耳元に顔を寄せた。
「………………だ」
潜めた声で告げられた11桁の数字。赤井のプライベート端末のナンバー。
「え…」
ぽかんと口を開けて呆ける降谷に向けて立てた人差し指を口元に当てて見せた。
「じゃあな」
ポンと肩を叩いて赤井は元いた場所まで戻って行った。
結局降谷は夕刻までに帰れそうもなかったので、出先から赤井に電話することにした。仕事用のスマホから掛けるかプライベート用の方から掛けるか悩んで、相手が私用なのだから自分もそれに合わせるべきと結論付けた。
耳に残る11桁の数字を打ち込み受話器のマークをタップする。しばらくして聞こえたコール音は三回を待たずに途切れた。
『hello?』
「…あ、あの」
『降谷くん?』
「はい、降谷です。お疲れ様です」
『もう終わったのか?今どこだ?』
「あー…終わってないです。定時まで戻れそうにないんでまた日を改めてと思いまして」
『そうか。…なぁ、これ君の仕事用のナンバーじゃないよな?』
「あ、はい。プライベート用ので」
ふ、と笑った気配がした。
『何時くらいに戻って来れそうかな』
「19時半くらいかな」
『戻ったらまた電話してくれないか』
「えっと、」
『食事に行かないか』
「食事?」
『嫌か?』
「嫌じゃ、ないけど…」
電話だからか赤井の声がいつもより甘く感じてトクンと胸が高鳴った。まるでデートに誘われているみたいだ。
『この前の礼もあるし』
「あー……、そういうことですか。それならホントお気遣いなく。じゃあまた連絡しますね、失礼します」
『あ、待てふる』
赤井の制止を無視してブチッと通話を終える。赤井は恩を着せられたままなのが嫌で早く返したいだけなのに、自分一人で勝手に色めき立って馬鹿みたいだ。
それでも履歴に残った11桁の数字が嬉しくて、でも悲しくて、アドレス帳には登録しなかった。
また連絡すると言ったもののなんとなく気乗りせず、仕事が忙しいからと理由をつけて放置したまま数日経ってしまった。そしてFBIの動向を訊ねる相手は赤井でなくても良いのでは、いやむしろジェイムズ・ブラックに話を通すのが筋というものだろうと気付いた。そうと決まれば降谷の行動は早く、ジェイムズにアポを取り、付け続けて赤井に電話を掛けた。
『降谷くん!』
「お疲れ様です。今、電話大丈夫ですか?」
『問題ないよ。…今日はこっちなんだな』
降谷は仕事用のモバイルから赤井の仕事用の番号へと掛けている。
「それはまぁ、仕事の話なんで」
振り返って考えてみたら、この前だって仕事用の番号でやり取りをすればよかったのだ。浮かれて自分もプライベートの端末から掛けてしまって、今となっては少々後悔している。
『…そうだな。で、予定は空いたか?俺はいつでも大丈夫だ』
「それなんですけど、やっぱりジェイムズさんと話をするのが筋だと思いまして。ごめんなさい、この件はなかったことにして下さい」
『えっ、』
「責任者はジェイムズさんですもんね。振り回してしまってすみませんでした」
見えない相手にぺこりと頭を下げる仕草をして通話を終えるために耳から話そうとすると、慌てた声が聞こえた。
『ちょ、待ってくれ!話の内容ってのは何なんだ』
「あなた方の撤退についてですよ」
『何だって?ちょっと待ってくれ、そんな話は聞いてないぞ』
「まぁ、ジェイムズさんにはさっき話したばかりですから」
その時、廊下の先から降谷を探していた部下が手をぶんぶん振りながら名を呼んだ。
「あ!降谷さーん!こちらにいらしたんですね!」
「すみません、部下が呼んでるので切ります。では」
『…っ、……!』
何か言ってるような気がしたが構わず通話を切った。3分にも満たない短い通話だったのに、なぜだかぐったりと疲れていた。
「まだこちらでやらねばならない事はたくさん有ります、撤退には早い」
「そうだけど、降谷君の言うことも一理あると思ってね。こちらに残るメンバーは今の半数程度で良いかと」
「なら初期メンバーを中心に後は―――」
「降谷君は君をアメリカに帰したらどうかと言っていたよ」
「彼が…?なぜです」
降谷が自分の帰国を推奨していると聞いて動揺する。他の誰よりも彼に信頼され必要とされているはずだと自負していたのに。
「君はスナイパーだ。日本よりも本国での方がより必要とされる存在だし、実際のところ本部は君の帰還を心待ちにしている。それを気遣ってくれてね」
「それは…そうですが」
「降谷君が言うには、今のところ表立った動きもなく主だった仕事もデスクワークにシフトしている今、君はアメリカに居てリモートで参加するという事で事足りるのではないかと」
確かに彼の言うとおりで、赤井は返す言葉を失っていた。
優秀なはずの頭脳をフル回転させ、何とかしてここへ残る手段を考える。自分は日本に家族が居るからというカードを切るか、それとも。
「それでね、赤井くん」
「…はい」
「お断りしといたよ」
「え?」
ジェイムズはまぬけ面の赤井くんなんて珍しいねとにこにこと穏やかな笑顔で見つめている。
「まぁ、人数を減らすことには賛成だけど、君にはまだ居てもらうつもりだとね」
「ジェイムズ!……もしかして気付いていますか?」
「これでも君の上司を長年やってきてるからね」
ウインクが様になる。あなたには敵いません、と赤井はダンディな上司に頭を下げた。
ジェイムズ・ブラック氏に今後のFBIの動向を打診したら、縮小については賛同を得たが赤井の帰国についてはまだ考えていないという事だった。本国では彼を必要としているはずだしリモート参加でも十分ではと提案してみたが、彼にはまだこの国でやる事があるのだと返された。
「やる事って言ってもなぁ」
むしろ残党はこの国から逃げ出して世界各地へ散らばっている方が多く、日本は主に各国から集まった情報を管理・分析してまた別の国へと橋渡しをする役目を担っている。
だから日本に残るエージェントはごく少人数に絞り、自国での捜査に力を入れる方が理に適っているはずなのだ。
赤井は頭脳明晰だが本業は狙撃手だ。その能力を発揮するのはアメリカであってここ日本ではない。そもそもこの国では発砲する事自体が稀で、彼の腕が必要な場面などあってはならないのだから。
「早く、僕の日本から出て行ってくれないかな…」
もう、赤井が件の彼女と居るところを見たくない。彼女とは既に深い仲のようだし、自分の想いが通じるなど考えたことはないが、だからと言ってすぐに諦められるかと言えば無理な話で。だから目も手も届かないところへ行ってしまえば胸が痛むこともないのに。
「―――ちょっとコーヒー買って来る」
部下に一声かけて席を立つ。赤井がよく入り浸っている喫煙室の隣の休憩コーナーは避けて、別フロアにある自販機へと足を運ぶ。主に打合せ室や資料室といった無人の部屋が多いフロアは閑散として、休憩スペースも大体いつも誰もいない事が多い。
「あ―――」
なのになんで今一番会いたくなくて、わざわざ避けたはずの奴がいるんだ。反射的にくるりと踵を返すと、
「降谷くん!待ってくれ!」
喫煙ブースの中、吸っていた煙草を灰皿に押し付けて、赤井が叫んだ。
「あれ、赤井?」
今初めて気付きましたという顔をして見たが、赤井はそんな白々しい態度に顔を顰めた。確かに降谷自身も頭を抱えたくなるほど下手くそ過ぎる自覚はある。これではトリプルフェイスの名が泣く、と。
「こちらに居るとは珍しいですね」
気を取り直してすまして尋ねると、赤井はああ、と手に持っている缶コーヒーを振って見せた。
「いつもの自販機は、こいつが売り切れていてね」
「ああ、なるほど」
合点がいった。いつもの休憩コーナーには数社の自販機が揃っていて無糖のブラックも何種類かあるが、赤井はいつもこのブランドのものしか飲んでいないし、拘りがあるのだろう。
「君は?」
同じ質問を返されたが、お前を避けて来たとは言えるはずもなく。
「そこの資料室に用があって、ついでにコーヒーでも買おうかなって」
言いながら小銭を入れてボタンを押す。ガコンと音を立てて落ちてきた缶を取り出し、
用は済んだとばかりに「ではまた」と背を向けると、ガシッと腕を掴まれた。
「ちょっと、いいかな」
「いえ、僕、急ぐので」
「5分でいい。いや、3分でも」
ただでさえ良くない人相をさらに凄ませるから、降谷はしぶしぶ頷くしかなかった。
「で、何ですか」
仕方なく傍らのベンチに腰を掛け、缶コーヒーのプルタブを引く。
「君、俺を避けているだろう」
「へ?避けてる?あなたを?」
何を言い出すんだと首を傾げて見せれば、今度はうまく取り繕えたらしい。赤井がチッと舌打ちをした。
「…まあいい。降谷君、今夜食事に行かないか」
「あー、礼なら要りませんって言ったじゃないですか」
「礼じゃない。いや礼もあるけどそれだけじゃなくて、俺は君と食事に行きたいんだ。君に話があって、」
「すみません、ちょっと仕事が立て込んでまして」
「だったら今夜じゃなくていいし、食事に拘るわけじゃない」
断っても断っても赤井は食らいついてくる。何がどうしてそこまで必死なのかはわからないが、もしかしたら何か重要な情報があるのだろうか。
「話って何です?仕事の話なら―――」
「違う、プライベートだ」
「プライベートで話をするほど僕たち親しくないでしょう」
和解はした。共闘もしている。仕事の話はもちろん今では雑談もするが、でもそれだけだ。
「そうだな、まだ親しくないかもしれない。だからこれから親しくなりたいんだよ」
「何の目的で?今は協力体制にあると言っても他国の捜査官にそう言われて、何の疑いもなくそうしましょうとは言えませんね」
「別に利用しようとなんて思ってない、ただ、」
「ああ、3分経ちました。では僕は行きますね」
残りのコーヒーを一気飲みして席を立つ。空になった缶を行儀悪くゴミ箱に放り投げた。
「降谷君!」
背中に刺さる制止の声を無視して、休憩スペースを後にした。
「シュウ、ちょっといい?」
ジョディに呼ばれ顔を上げると、彼女は親指でくいっと部屋の隅を示した。
「ちょっとぉ、今、打合せ中なんだけど?」
「あらぁ、ごめんなさ~い。後にした方が良いかしら?」
すかさず横入りするジェシカに対しジョディは完璧な笑顔を向ける。赤井は無言で立ち上がると、不服そうにしているジェシカを無視してジョディに付いて行った。
「どうした?何かあったのか?」
周りの人間に聞こえない程度に抑えた声で赤井が問う。ジョディはふふ、と意味ありげに微笑んだ。
「落ち込んでるでしょ」
「……お前には隠せないか」
わくわくした表情で顔を覗き込んでくるジョディに両手を上げて降参のポーズを取る。他の誰を誤魔化せてもジョディには通用しないとは、彼女が優秀な捜査官だからかそれとも元カノだからか。
「どうしたの?私でできる事なら協力するわよ?」
「おまえ、面白がってるだろ」
指摘するとバレたかと舌を出して見せたが、興味本位ではなく親身になってくれているのは彼女の人柄を考えれば判る。
「降谷くんに嫌われている」
「えー、それはないでしょ。嫌われているどころか好かれてると思うわよ?」
あの日の降谷の様子を思い出して、ジョディは自信を持って断言した。あれはきっと赤井に対して好意を抱いている。だって女の勘がそう訴えている。
「それはないな。ここのところずっとあからさまに避けられているし、食事に誘っても断られるし、親しくなりたいと言ったら何の目的だと疑われた」
「―――あんた、彼に何かした?」
ふるふると力なく首を振ると、おかしいわねと眉を顰めたジョディに尋ねられたが、心当たりなど一つもない。
「挙句に、もう俺をアメリカに帰したらどうかとジェイムズに進言された。こっちの捜査にはリモートで参加すればいいと」
「まぁ一理あるわね」
「ない。俺はこっちに必要不可欠だ」
「はいはい、そういう事にしときましょ。―――でも…降谷の態度は腑に落ちないわね」
「おい、下手に引っ掻き回すなよ」
これ以上拗らせたくないからと釘を刺す赤井に、ジョディは悪いようにはしないと約束した。話を終えて赤井がくるりと向きを変えた途端、先ほどまでこちらを睨んでいたジェシカの表情がパッと変わったのを見て、ジョディはその変わり身の早さに感心した。
待ち合わせの店は先日も訪れたFBIが滞在するホテルに近い居酒屋だった。ざわざわと活気のある、しかし騒音という程ではない賑わいの店の暖簾をくぐると、奥の席でジョディが手を振って合図した。降谷は軽く手を上げて応えてから店員に待ち合わせだと告げて奥に進み、向かいの席に座った。
「ごめんなさい、忙しいのに」
「いいえ。ご存じの通り残党の方は目立った動きもないし、大丈夫ですよ」
赤井には忙しいと断ったが、実際のところ暇ではないがそこまで忙しくはないし、誘われればこうして飲みに行く余裕もある。
「はい、とりあえず生、お待ちどうさま!」
店に入った時に応対してくれた店員に頼んでおいたから、席に着いて間を置かずにジョッキが届いた。先に飲み始めていたジョディが半分に減ったジョッキを掲げ、カチンとぶつけ合う。
「ん~~~~、うまい!」
「相変わらずいい飲みっぷりねぇ」
二人きりというのは初めてだが、何度か飲み会で顔を合わせたことのあるジョディがパチパチと手を叩く。見た目だけならお洒落なバーでカクテルでも飲んでいそうな降谷だが、居酒屋で生ビールが一番好きだ。喉を潤せば今度は空腹を自覚したところにジョディが頼んだ料理がこれでもかと運ばれてきた。
「すごい量ですけど…もし僕が都合悪くなって来れなくなってたらどうしたんです?」
「え?食べるわよ?」
そもそも降谷が来ても来なくても食べられる量を頼んだというのを聞いて目を丸くした降谷だが、彼女が美人で聡明なのに親しみやすいのはこういうところかなと感心した。
美味い料理にビールが進み、すっかり気分も良くなった頃合いで、ジョディが本日の目的である話題に触れた。
「ねえ、フルヤ。あなたどうしてシュウを避けてるの?」
「避けてなんか」
「ない、とは言わせないわよ。それに、彼をアメリカに帰したがっているのは何故?」
相手も優秀な捜査官とは言え、降谷が本気で誤魔化そうと思えばできるのだが、真正面から見据えられて早々に白旗を揚げた。和解してからは何かと親しくしているし、彼女には嘘を吐きたくないと思える程度には気に入っていたから。
「あなたのお国の国益を尊重したんですよ。彼は国の宝でしょう?…もちろんこちらでの捜査にも彼は必要不可欠な存在ですが、今は表立った動きもないし、会議だってリモートで参加してもらえれば事足りるじゃないですか」
「そうね、あなたの言う通りだわ。でもそれは表向きの理由でしょ?―――あなたシュウが好きなのに何故」
「はぁ!?誰が誰を好き?なに冗談言ってるん」
「誤魔化しても無駄よ」
常に冷静沈着な指揮官とは思えないほど動揺し摘まんだ箸の先からきゅうりのお新香をぽとりと落とした降谷に、ジョディはぴしりと突きつけた。
「なんで判ったんです……」
頬を染め俯き加減の上目遣いで見上げる男はとても三十路とは思えない。ジョディは額に手を当ててso cuteと呟いた。
飲み物もビールから日本酒に変え、いつの間にか二人の話題は恋愛相談と化していた。
開き直りが半分だが、誰かに聞いて貰えばスッキリするのではないかという期待もあった。幸か不幸かジョディは赤井の元恋人で彼のことを良く理解していたし、他国の捜査官ではあるが信頼も寄せている。
アルコールの勢いも手伝って、降谷は素直な気持ちを吐露した。赤井を好きなこと、でも伝える気持ちはないこと、彼は異性愛者であるから報われないと理解していること、彼には幸せになって欲しいと心の底から願っていること。
「…でも、自分の目の前でそれが展開するのは見たくないんです」
思いっきり仕事に私情挟んでますね、なんて笑って見せて。
「ジェシカのこと?」
具体的に名前を出されるとちくりと胸が痛んだ。その問いに頷かなくても、沈黙は肯定しているのと同じこと。
「シュウは相手にしてないと思うけど―――?」
「そんなことないですよ」
降谷はテーブルの上のジョディのスマートフォンを指差した。促されるままそれを手にしたジョディにイヌスタグラムのアカウントを教えると、それを見た彼女が目を丸くした。
「はぁぁぁぁぁ!?」
「ジョディさん、声大きいです」
周りの客たちの視線を一斉に集てしまったので、画面に釘付けのジョディに変わって降谷が苦笑いで頭を下げた。無言でスマートフォンを操作していたジョディが画像をあらかた見終えると、ふう、と息を吐いた。
「えげつないわね」
刺々しい声で言うと、降谷に日本酒のお代わりを注文するよう頼んだ。
「次は辛口がいいわ。選んでくれる?」
この店は日本酒の種類が豊富で選ぶ楽しみがある。先ほどは甘口を堪能したから、今度はすっきりとした飲み口の酒をと任せられて、メニューを吟味する。そんな降谷を横目に、ジョディは素早く手を動かしてスマートフォンをまたテーブルの上に置いた。
「彼女がこんな風に匂わすのは、赤井がきちんと公表しないからですよね。でもまぁ僕が見た感じまだ恋人未満ってとこですけど、アメリカじゃそういうのアリなんでしょ?」
「まあ、アリって言えばアリね」
それからお互いの国の恋愛事情を教え合ったり、お見合いというシステムを説明してあげたり。しばらくすると会話をしながらそわそわし始めたジョディに気づき、もしかしたらもうお開きにしたいのだろうかと思ってそう訊ねると、ぶんぶんと首を振ってまだ飲みたいとおちょこを煽る。
と、同時にテーブルの上のスマートフォンが震えた。画面を下に向けているので発信者は分らないが、ジョディは飛びつくようにそれを掴んで席を立つ。
「ごめんなさい、ちょっと電話に出てくるわ」
「はい、いってらっしゃい」
一人になって、降谷は空いた皿や徳利をテーブルの端に寄せた。まだ飲みたいと言ってはいたが、もうそろそろお終いにしよう。こちらに近づいてくる足音がしたので、店員ならば会計を頼もうと振り返ると、そこには。
「あかい―――」
「やあ。ご一緒してもいいかな?」
「いえ、僕はもう帰るんで。ジョディさんが戻ってきたらお二人でどうぞ」
「ジョディなら帰った」
「はい?え、だってそこに鞄が」
「後で届けることになってる」
しまった、謀られた。さっきの電話は赤井からで、店に着いたという連絡だったのだ。ジョディを信頼していた分、裏切られたショックは大きいが、彼女は意地悪でこんな事をする人間ではない。ならばきちんと向き合って気持ちの整理をつけろと言う事か。
「ここはもう出ます」
「うん、そうしよう」
ジョディの鞄を持った赤井が踵を返して出入口へと歩いていく。少し遅れてその背中を追い、財布を取り出してレジに向かうと、既に会計は頂いてあると告げられた。
店を出たところで煙草をふかして待っていた赤井に、今日はあなたに奢られる謂われはないと噛みつくと、では次は君が奢ってくれればいいと言う。けれど降谷は次の約束なんかしないから、返す宛がなくて困る。
「近くに雰囲気のいいバーがあるんだ。付き合ってくれないか?」
赤井のお誘いにふるふると首を振って拒絶する。せっかくジョディがお膳立てしてくれたけれど、まだ気持ちの整理がついてなくて何を話せば良いのかわからない。
「…君と、話がしたい。店に行くのが嫌なら―――俺の部屋へ来ないか?すぐそこなんだ」
赤井が示す先、彼の滞在するホテルは先日―――。
「嫌です」
あの日のジェシカのイヌスタグラム。赤井と連れ立った彼女が手にしていたコンビニのレジ袋。たまには部屋で飲むのもいいとコメントした、あれは彼の部屋だった―――。
「…なら、散歩しよう。少し歩いたところに公園があるんだ」
降谷はこの辺りの地図を頭に思い浮かべた。そうしてホテルの裏手に小さな公園があったのを思い出す。
承諾の返事はしないが赤井の向かう方向に横に並んで黙って歩く。5分もかからず着いた公園の、入口付近に設置された自販機で買ったコーヒーを受け取り、ベンチに腰掛けた。
もう少し規模の大きな公園ならカップルの一組や二組いたのかもしれないが、小さな児童公園なのでひっそりとしている。
「何を話すんですか」
「うん…。何から話そうか」
そう言って降谷を見つめる赤井の目は、とても甘くて優しかった。
「君、俺のこと好きだったんだな」
赤井の口から飛び出した言葉に降谷はぴしりと固まった。
「え、な、そんな、ちが」
「違わないだろ」
「ちょ、ま、うそ、ジョディさ…」
状況的に彼女が赤井にばらしたのは明らかで、でもそんな事をする人ではないのに何故。軽くパニックになっている間にいつの間にか両手を赤井に掴まれていて、逃げ出したくても逃げ出せない状況に陥っていた。
ああ、もう、泣きたい―――。
観念してぎゅっと目を瞑り俯くと、ふぅっと赤井が息を吐いて手を握りしめ直した。
「君が好きだよ。降谷零くん」
「え…?」
反射的に顔を上げると同時に抱きしめられていた。ゼロの距離で、どきどきと早鐘を打つ鼓動が自分のものなのか相手のものなのかも分からない。ただひとつだけ、煙草の匂いに混じる赤井の匂いにひどく安心した。
ジョディからのメールで知らされたジェシカのアカウントを改め、驚愕したと言う。それらの画像には全く心当たりはないし、俺は潔白だからどうか信じてくれと真剣な面持ちで訴えるから、降谷はこくりと頷いた。
「ほら、見てくれ、この靴」
画像の靴にはないが、赤井の靴には目立たないが小さな傷があるのだ。それは降谷も一緒にいる時に付けた傷で、この画像がアップされた日付よりも前の出来事だと記憶している。
「このジャケットは確かに同じものだな。だがそんなのはいくらでも入手できる。煙草もバーボンのボトルもな」
言われてみればそうだった。そんなことさえ疑うことなく信じてしまったなんて、これでよく公安が務まるな…と自分を叱責したい気分だった。
「では、あの日は?あなたと彼女が連れ立ってホテルに入るのを、僕と風見は確かに見ました」
「あの日か。あれはジョディを訪ねて来たんだ」
赤井が仕事を終えて帰るとホテルの前で鉢合わせたという。そこでジョディのところへ遊びに来たが手ぶらで来たからコンビニを教えて欲しいというので、自分も煙草を買うついでに案内してやったのだと。
「だったらジョディさん、日付を見て気付くはずでは?何も言ってませんでしたよ」
少しばかり疑いの目を向けると、赤井は慌てたように言い連ねる。
「彼女はジョディを訪ねて来たと言ったが、不在だったんだよ。それで、」
「あなたの部屋に?」
「違う!決して俺の部屋には入れてないぞ!」
「必死か」
笑いを堪えながら言えば、赤井はからかわないでくれと拗ねた顔をするから。自分に誤解されたくないんだと思えば喜びで胸が一杯になった。
おそらくジョディを訪ねて来たというのはジェシカの口実で、もしかしたら居ないのを知っていて来た可能性もある。そしてあわよくば赤井の部屋に入れてもらうつもりだったに違いない。それをきちんと断ってくれただけで十分だ。
「ジョディがいなかったからアンナのところへ行ったんだ。駅を挟んで反対側にもFBIの借りてるところがあるだろ?」
本当だよ、信じてくれ。なんなら今からアンナに電話をするから確認してくれとスマートフォンを取り出そうとするから、信じるからそこまでしなくていいと窘めた。
「赤井、本当に僕のこと好きなんだ」
「そうだよ」
囁くような声と共に赤井の顔がゆっくりと近づいて、子供っぽい触れるだけのキスをした。
嘘みたいと笑えば、嘘じゃないよと返ってくる。あれだけ悩んで悲しんだ日々は何だったんだろうとぽそりと零すと、恋を盛り上げるためのスパイスじゃないかと赤井が真顔で言うからまた笑った。
公園を後にして二人が向かう先は―――。
「なぁ、本当に帰るのか?」
「帰りますよ」
部屋に寄って行かないかと誘う赤井と、帰ると言い張る降谷。二人の攻防戦は降谷に軍配が上がった。
「だいたいね、あなたも悪いんですよ。彼女にべたべたされても好きにさせてた」
「そうらしいな…。ジョディにも怒られた」
女にまとわりつかれるのには慣れているせいか、本当に無自覚だったらしい。呆れるくらいモテるなこいつ…と腹が立つので、そうそう簡単にはなびいてやらない。
「彼女にちゃんと知らしめて下さい。あ、でも、僕のことは伏せて下さいね」
「どうして」
「ウチは色々厳しいんですよ。ちゃんと付き合うなら交際届出さないとだし…赤井にその覚悟があるかどうかもわかんないし」
「ある!あるよ!すぐに出そう!」
「もう、…恥ずかしいやつだな…」
嬉しい。でも少し待って。日本の社会は根回しっていうのが大事ですから。
降谷の頭の中はフル回転でシミュレートしている。まず誰から打ち明け、どのルートで最終承認を得るか。一介の警察官ならいざ知らず、降谷の場合は下手すれば警視総監その人にまで話が進んでしまう可能性は高い。
別れがたくてなるべくゆっくり歩いていても、そう距離がないホテルまではあっと言う間に着いてしまった。まだ終電までは時間があるから流しのタクシーもすぐに捕まり、降谷は後部座席に収まった。ではまた明日、と挨拶を交わせばドアが閉じて。
『愛してるよ』
ガラス越し、唇の動きだけで伝えてくる赤井に頬が熱くなった。
「シュウ!おはよう!」
赤井がFBI達が使用している部屋へ入ると待ち構えていたジェシカが駆け寄った。
「ああ」
「昨夜はどこへ行ってたの?せっかく訪ねたのにいないからガッカリしちゃった」
ジョディから連絡を受けて居酒屋に駆け付け降谷と共に過ごした時間は小一時間ほど。その間にホテルに訪ねてきたらしいから、タイミング良く不在にしていて助かったと胸を撫でおろす。
「ね、今夜なんだけどディナーに行かない?」
するりと赤井の腕に細い腕を絡め、やわらかな乳房をあからさまにならない程度に押し付けてくる。ぞわりと鳥肌が立った。
ジョディに言われるまでこの女が自分にアプローチしている事に気付かなかった。指摘されて初めて意識して観察してみると、なるほど自分は誘われているらしい。
「行かない。今夜だけでなくこれからも、だ。お前と会って暇があるなら、恋人と共に過ごしたいんでね」
「え?」
絡めとられていた腕をすっと外し、一歩下がって距離を取る。言われた言葉を耳では聞いているのに脳では理解できていないジェシカが笑顔のまま固まっていた。
「ワォ!シュウ、あれから上手くいったのね!?おめでとう!」
ジョディが二人の間に割って入り、赤井を祝福する。その声にジェシカがハッと我に返った。
「何?どういう事?!」
「シュウね、好きな子と晴れて恋人同士になれたんですってよ」
「ちょっと待って!聞いてないわよ!」
振り返った時には赤井はもう自分のデスクへと向かってすたすたと歩いていた。席について、プライベートの端末を操り、今朝のやり取りを表示させる。おはようの挨拶から今日のランチ、果てはディナーの約束を取り付けた一連のメッセージを見返して、ふわりと笑った。
「うわ、珍しいもの見れたわ」
ジョディが目を丸くする横でジェシカもまた目を瞠っていた。
「ねぇ、私でよければ今夜やけ酒に付き合ってあげるわよ?」
ぽんっと肩をたたくと彼女はキッと振り返り、朝まで付き合ってもらうわよ!と叫んだ。
~一週間後~
「あー、降谷さん。そのぅ…」
風見が言いにくそうに口を開いたり閉じたりしている。
「なんだ。言いにくいことなのか?多少の事なら目をつぶってやるから早く言え」
上司らしく寛大な態度で促してやれば、違います否定してから口を開いた。
「……赤井さんに、やりすぎですと伝えてください」
それだけ言うと風見はさっさと席に戻った。
「へ?」
頭に盛大に?マークを浮かべている降谷は知らない。
喫煙習慣のない彼のスーツからほのかな煙草の匂い、RX-7の助手席に箱入り煙草の忘れ物、降谷と交わすアイコンタクト。偶然居合わせた食堂のテレビでシャンプーのCMが流れた時、『ああ、彼の愛用のシャンプーだな』などと要らぬ情報を会話に織り込んでみたり。
さりげないようでいてあからさまな赤井の牽制だった。そしてそれがまた功を奏しているらしく、降谷と赤井はデキているという暗黙の了解が公安とFBIの共通認識として浸透したのであった 。
終
Please, please tell me now.
お願いだ、教えてくれよ。
今、今すぐ教えてくれ。
俺はあの時どうすれば良かった?
どうすれば君を奪われずに済んだんだ?
なぁ、頼むから教えてくれないか。
「あかい~ 飲んでますか~」
降谷君とは組織壊滅後、こうして二人で飲む仲になった。他人にはおいそれと話せない過去も彼となら気兼ねなく話ができるし、お互い相手のことは誰よりも自分の方が知り尽くしているという自負もある。
だが彼との親交が深まれば深まるほど、信頼を得れば得るほど、俺は居たたまれなくなった。なぜなら俺は彼に劣情を抱いているからだ。
いつから、と言われれば自分でもよくわからない。俺がライで彼がバーボンと呼ばれていた頃は、そういった気持ちはなかったように思う。俺には恋人がいたし、もともと同性は性愛の対象外だった。ただ、なぜか目が離せなかったし、放っておけなかった。まるでティーンのように幼い顔立ちで庇護欲を掻き立てられたのかもしれない。中身はとんでもない食わせ者だったわけだが。
「きみ、飲みすぎじゃないか」
「だいじょぶです。それにせっかくの宅飲みなんだから、ちょっとくらい飲みすぎたっていいじゃないですかぁ」
たしかに今日は降谷君の部屋での宅飲みだし、明日はお互い休みだ。少しくらい羽目を外しても大丈夫なように、風呂も入ったし寝床も整えてある。
「俺も今夜は普段より飲みすぎてる。だからもう寝ようか」
「うーん、まぁそうですねぇ……歯磨きしてこよ」
よっこいしょと立ち上がってふらふらと洗面所に消えた隙に、テーブルの上をザッと片付ける。グラスや皿を洗うのは明日でいいだろう。
歯磨きに行ったはずなのに洗面所からは水音がしないので様子を見に行くと、案の定歯ブラシを加えたまま座り込んでいた。こらこらと軽く頬を叩いてやると目を覚まして再開する。自分も歯を磨きながらそれを何度か繰り返して何とか終え、ベッドに連れて行く。
必要最低限の物しか持たない彼の部屋には客用布団などあるはずもないので、狭いシングルベッドにぎゅうぎゅうに押し込んで横になる。歯磨きをして少し覚醒したのか降谷君は眠りに落ちることなく、くふくふと笑い出した。
「はは、僕とあかいが一緒に寝てるなんて変ですねー」
「そうかな。うーん、そうかもな」
色々と因縁のあった仲だ。たしかに殺されそうになった相手にこんな気持ちを抱くようになるなんて、変かもしれないな。
「変なのー」
「わかったわかった、ほらもう寝るぞ。おやすみ」
相手をしていると延々としゃべりそうなので、強制終了させた。俺ももういい加減眠くなって来たことだし。
「あのねぇ、あかい」
「………」
寝た。俺は寝たぞ。
「寝たのか?…そっか」
「………」
すまん、おしゃべりならまた明日付き合うから。
「あのね、あかい。ぼくね、あなたが好きなんです」
――――なんだって?
「ぼくね、あなたが好き。…キスしたい、とか。そーゆー好き」
降谷君も俺を?まさか、そんな。
この告白はきっと、俺が眠っているのを前提に行われているものだ。だから決して気付かれてはならない。もっと彼の本音が聞きたい。
「あかい、ほんとに寝てる?」
「………」
「あなたが好き。覚えておいて」
おやすみ、と小さく囁いて降谷君は俺に背を向けた。眠っていないのは気付かれていたかもしれない。俺はそれから一睡もできないまま朝を迎えた。
翌朝の降谷君はいつもの彼だった。俺が目覚めるころにはすっかり身支度も朝食の用意も済ませてあって、その前にジョギングに行ってシャワーも浴びたそうだ。
「……元気だな」
「あなたより3歳も若いですから」
「降谷君、昨日のことを覚えているか」
「昨日?すみません、歯磨きするんで洗面所に行ったとこまでは覚えてるんですが…その後はさっぱり」
何かしでかしましたか?と訊ねる彼の瞳は嘘偽りないように見えたが、相手はあのバーボンだ。
「俺のことを好きだと言ってなかったか?それとも夢か?」
「えっ、ウソ!なんて夢みてるんだよお前!――――でもまあ、好きか嫌いかって言ったら好きですよ。これでも尊敬してるんです」
「ほぉー」
カマをかけてみたが良くわからない。もしかしたら本当に俺の夢だったのかもしれないとさえ思えてきた。それくらい自分の感情が拗れてきている自覚はあった。
それから彼とは変わりなく、これ以上近づきもしなければ離れもしないという現状維持のまま過ごし、とうとう我々FBIも撤退が決まり、帰国の日を迎えた。降谷君は公安を代表して空港まで見送りに来てくれて、俺たちは固い握手を交わした。
「もう一緒に飲めないかと思うと寂しいです」
「なに、もう二度と会えないわけじゃない。俺は家族もこちらに居るし、来日したらまた一緒に飲もう」
そう言う俺の言葉に、彼ははっきりとした肯定の返事は返さず、ただ微笑むばかりで。その笑顔を見たら俺は何故だか胃のあたりがキュッと締め付けられた。
アメリカに戻ってからはそれなりに忙しく充実した日々だったが、何かが物足りないと感じていた。いや、『何か』の正体はわかっている。彼がいないからだ。
俺は相変わらず降谷君に劣情を抱いていて、あの晩、お互い酔った勢いのまま彼を抱いてしまえば良かったんじゃないかとさえ思うようになっていた。
もう一年、彼と会っていない。
今どうしているのかも知らない。いや、知らないというよりも知りたくないからシャットアウトしていたのだ。時々ジョディやキャメルを通して日本の話を聞かされることがあるが、彼の話題に近づきそうなときはそれとなくはぐらかしたり席を外したりしている。
彼の噂を聞いてしまえば、会いたくて仕方なくなるに違いないから。
「あ、ねぇ、シュウ!ビッグニュースよ!」
ジョディが目を輝かせてやってきた。どうせお前のビッグニュースなど、どこそこに出来た店のなにがしがおいしかったとかそういった類のだろ。俺に教えたところでその店に行くわけでもないし関心を寄せたりなんかしないのに、毎度毎度懲りないやつだ。
「で?今度はどこに何が出来たんだ?」
「やぁねぇ、そんな話じゃないわよ!フルヤが結婚するって話よ!」
今、なんて言った?
降谷君が、結婚するって言ったか?
「あは、あんたでもそんなビックリした顔するのね!」
「降谷君が結婚――――?」
「そう。お偉いさんのお嬢さんだって。前から婚活に励んでたけどとうとう――――」
「なんだって?婚活?」
「そうよ。前に教えたじゃない。私たちが帰国してすぐくらいから婚活に励んでるって」
そんなの聞いてない。いやちがう、聞かされないんじゃなくて俺があえて聞かないようにしていたんだ。俺がいないのに君が平気で過ごしているなんて知らされたくなかったし、俺以外の人間と楽しく笑いあってるなんて知りたくなかった。
「それでね、式は明後日なんですって。場所は東都ホテル――――って、シュウ!どこ行くの!」
俺は真っ先にジェイムズの部屋を訪ね、明日からの休暇をもぎ取った。急すぎるという理由で行って帰ってくるだけの日数しか貰えなかったが、それでも一目彼の顔を見て、それで――――。
それで?俺はどうしたらいいんだ?
Please, please tell me now.
お願いだ、教えてくれよ。
今すぐ教えてくれ。
俺は今、どうすれば良い?
君を渡さずに済むにはどうしたらいい?
なぁ、頼むから教えてくれないか。
一年ぶりの日本。
本当はもっと早く、理由を付ければいつだって来れたんだ。意気地のない俺をあざ笑うように人混みが俺の行き先を阻む。
彼のプライベートの連絡先は実は知らない。あの頃はそんなもの知らなくても連絡は取りあえたし、俺たちが帰国する時に君が教えてくれなかったから俺も教えなかった。俺が番号を教えていたら、君は連絡をくれたかな?答えが怖くて俺は逃げたんだ。
でももし、連絡先を教えていたら。
君は俺に電話してきてくれたかな?
Please, please tell me now.
スタッフの制止を振り切って、東都ホテル内のチャペルの扉を開け放つ。
厳かな雰囲気の中、新郎新婦が今まさに誓いのキスを交わす寸前で、堪らず俺は叫んだ。
「降谷零!」
花嫁のベールを捲り、ゆっくりと顔を近づけていた降谷君の動きがピタリと止まり、こちらに顔を向けた。ああ、シルバーのタキシードがとてもよく似合っている。いつもは前髪に隠れている秀でた額を見せて、少しよそ行きな顔をして。ああ、君はなんて恰好いいんだろう。
「君が好きだ!」
甘く垂れた目を丸くして、俺を見ている。両手を広げてみせると彼は、一歩、また一歩と近づいて来て――――。
バコンと頭を叩かれた。
ぱちぱちと目を瞬かせると目の前の降谷君の手には丸めた新聞紙が握られていた。
「いつまで寝てるんだ!」
「ふ…るや、くん?結婚式は…?」
「は?まーだ寝ぼけてんのか。それとも酔ってんのか?」
ぎゅっと目を瞑ってから、ゆっくり開ける。そこは降谷君の部屋だった。
すっかり身支度を整えた降谷君が、朝食が出来たから早く起きろと言う。自分はもうジョギングもしてシャワーも浴びたんだぞ、と。
「降谷君、昨日のことを覚えているか」
「昨日?すみません、歯磨きするんで洗面所に行ったとこまでは覚えてるんですが…その後はさっぱり」
「いいや、君は覚えているだろ。少なくとも俺は覚えているよ、君に覚えていろと言われたからな。……なぁ、君は俺になんて言った?教えてくれ」
「う…昨夜は寝たふりしてたくせに今それを言うのか」
「ああ、今だよ」
Please, please tell me now.
終
姉の恋人だった人は、悲劇の元となった組織が壊滅した後、彼の本来の所属先へと戻って行った。けれど彼の家族はここ日本に腰を落ち着けることを選んだので、彼も折に触れて来日する。いや、彼曰く来日ではなく帰国だそうだ。国籍はワケ有って米国だけれども、彼の血筋は4分の3は日本人とも言えるし、出生地である英国よりも関わりの深い地となっている。
私と彼はお互いの母親が姉妹という関係で、いわゆるいとこ同士という間柄だ。だから彼と私の関係は姉が亡くなってそこで終わりではなく、現在もこの先も続いていく。
彼が最初にアメリカに帰国……もとい渡米して再び日本を訪れ……もとい帰国した時、食事に誘われた。口数の少ない人だからあまり乗り気はしなかったけれど、それを理由に断れるほど浅い付き合いでもない。ほんの少しばかり気が重いだけで会うのが嫌な訳ではなかった。
そんな複雑な感情で指定されたレストランを訪れると、彼は誘った側だから当然の如く先に席に着いていたけれど、その隣には意外な人物が座っていた。
「降谷さん?」
「やぁ志保さん、久しぶりだね」
「元気にしていたか?」
「お陰様で。……驚いたわ、あなた達そんなに仲良かったかしら?」
いがみ合うというより降谷さんが一方的に恨んで殺意すら抱いていたはずなのに。
和解したのだと降谷さんは言った。自分の誤解で逆恨みをしていたと。するとすかさず隣の男が反論し、その誤解の原因は自分が作った、だから自分が悪いと譲らない。馬鹿馬鹿しいから今となってはそんなのどうでも良いじゃないと言ったら、二人は顔を見合わせてばつの悪そうな顔をした。
「君にも迷惑を掛けてしまって……」
降谷さんは私にも謝ってくれたけど、こちらだってすでに和解済みなのだから今更だ。それよりお腹空いたんだけどと言ってやれば慌ててメニューを広げてくれた。
食事が運ばれてきても相変わらず赤井さんは無口で、基本相槌くらいしか返さないけれど、その分降谷さんがよく喋り場を和ませてくれた。なるほど彼を連れてきてくれたのは正解ねと言えば、その時ばかりは表情の乏しい男も頬を緩めた。
その後も赤井さんは数ヵ月に1度は来日……ではなく帰国して、その度に私を食事に連れていってくれた。そして必ずその隣には降谷さんが居る。
「もしかしてあなた達って、恋人同士なの?」
薄々感じていたことを訊ねれば、降谷さんはぶはっと吹き出した。
「まさか!違うよ!」
お腹を抱えてひーひー笑う降谷さんの隣で赤井さんも苦笑している。
なんだ違ったのか、そう洩らしてしまうほどにはふたりはお似合いだと思っていたのに。
更に2年の月日が流れ、赤井さんは日本のアメリカ大使館勤務となった。ずっと異動願いを出していたがなかなか通らず、ついには辞職も考えていると脅して勝ち取ったポストらしい。その代わり有事の際はアメリカに戻って任務につくという絶対条件が付いているので、今度は数ヵ月に1度はアメリカに渡米するという生活をしている。
そんな赤井さんは日本に転勤した当初から降谷さんのマンションに居候している。最初のうちは部屋が決まるまでの繋ぎだろうと思っていたのに、もう半年も経っている。組織を追っていた頃と違ってそこまで多忙ではないから、忙しくて探している暇がないなんて理由じゃないし、探している素振りもない。
赤井さんが日本に住むようになってからは月1が恒例となった3人での食事会の席で、私は再び訊ねてみた。
「ねぇ、あなた達、本当に恋人同士じゃないの?」
嘘は吐かないでよねと睨みを利かすと、ふたりは顔を見合わせた。そしてやっぱり口を開くのは降谷さんで、赤井さんはいつも通りだんまりだ。
「……違うよ。僕たちは恋人同士じゃない」
微笑みながら否定する降谷さんの隣で彼を見つめる赤井さんは、ほんの少しだけ淋しそうに見えた気がした。
「志保!」
その日はまったくの偶然だった。
実験が失敗続きで煮詰まっていたから、気分転換の意味でショッピングに出掛けて。ちょっと値が張るけどフサエブランドの新作のバッグでも買っちゃおうかとウインドウを眺めていたら、雑踏の中から自分の名を呼ぶ声がした。
「赤井さん」
「買い物か?」
「憂さ晴らしよ。パーっと買い物でもしたら景気付くかなと思ってね」
ショーウインドウの1番目立つところに展示されている新作のバッグに目線を遣りながら答えると、ふむと頷いた赤井さんが私の背に手を回して入店を促した。
「プレゼントしよう。その後でお茶に付き合ってくれるかな?」
「なにそれパパ活みたい」
こういう時、遠慮するととても悲しそうな顔をするから、今ではもうしっかり甘えることにしている。降谷さん曰く、高給取りなのに使い所がないから思う存分たかってやってくれ、だそうだから。
新しいバッグを手にしてほくほくしながらカフェでお茶をする。相変わらず口数は多くないけど、さすがに場数を踏んだから今では二人きりでもそこそこ会話ができるようになった。
前回の食事会からひと月が経っていた。そんなに間が開いたわけでもないけど、1ヶ月も立てば色んな出来事があるわけで、ここ最近の出来事を報告し合う。
「そう言えば、零くんがこの前出張で北海道に行ってな。志保にも土産を買って来てたぞ」
「あら嬉しい。降谷さんって小物でも食べ物でも何でもセンスいいしハズレがないのよね」
降谷さんを褒めるとこの人はとても嬉しそうな顔をする。まるで自分が褒められたかのように少し得意気で。
「ねぇ……やっぱりあなた達ってただの友人や同居人じゃなくて、こいび」
「違うよ。……俺は零くんの恋人にはしてもらえないんだ」
「なんで? だって、あなた達、そういう仲なんでしょう?」
私だってもう子供でも鈍感でもないから、二人の間の甘い雰囲気に気付かないわけないのよ。だから正直に話しなさいと睨み付けると、赤井さんは困った顔で大きなため息を吐いた。
「零くんが言うには……俺の恋人はただ1人、宮野明美だけだと」
「え、」
これまでも、これからも。宮野明美は永遠に赤井の恋人であり続ける。だから自分はどんなに同じ時を過ごしてもどんなに深い仲になろうとも、決して赤井の恋人にはなれないし、ならない。
「好きだと告げたとき、最初に言われたよ」
それでもいいと彼を手に入れた。だって彼の気持ちも自分と同じと知っていたから。もとより面倒くさい性格なのは承知の上だし、一緒にいるうちに変わってくれればいいと。
「……馬鹿な人」
「でも可愛いよ」
やだなに惚気てんのこの人。
「降谷さんだけじゃないわよ。あなたもよ、赤井さん」
「はは、俺もか」
一瞬きょとんと珍しい顔をして、それから苦笑した。
「恋人にはなれないなら、伴侶になればいいじゃないの」
そうよ。赤井さんの恋人が未来永劫お姉ちゃんなら、降谷さんは生涯の伴侶になればいい。この国では同性婚はまだ認められていないけど、あなたの国なら正式に認められているじゃない。今はyesと言ってもらえないだろうけど、退官して一個人になれば、国籍だって変えてくれるかもしれないわ。
「伴侶……。そうか、そうだな」
気が付かなかったと、本当に目からウロコが落ちたんじゃないかって顔してる。
「なんでそんな簡単なことに気付かないのよ」
優秀な頭脳の持ち主のくせして。
「俺は恋人以下なんだと思ってたから」
「恋人以下なもんですか。あの人、相当あなたのこと愛してると思うわよ」
端から見てて分かるんだから。まぁあなたはその三倍は彼のこと愛してるみたいだけどね。
「……そう、かな。彼はちゃんと俺のこと……」
「やめて、その照れた顔。似合わなすぎるから」
イケメンだけど愛想がなくて冷たそうで。お姉ちゃんに最初に紹介された時の第一印象は全然よくなかった。そもそも組織の人間なんてろくなもんじゃないもの。
でもお姉ちゃんがいつもいつも幸せそうな顔で話すから、少しはいい人なのかもって思ってたりもした。正体を知って、救いだそうとしてくれたことを知って、守ってくれていたことを知って、お姉ちゃんの恋人に相応しい人だったんだと納得できた。
不器用で、いつまでもお姉ちゃんのことを引きずってて、もう誰かを愛することなんかないって思うほど傷付いていることを知ったとき、心から幸せになって欲しいと願ったの。
だから同じように喪い傷付いた降谷さんと想い合って支え合っていると知った時、本当に良かったと思った。きっとお姉ちゃんもそう思っているって信じられた。
「善は急げよ、赤井さん」
「ああ、」
既に立ち上がり掛けてた彼は、テーブルの上の伝票を掴んでレジへと向かう。
「後で報告ちょうだいね」
背中に声を掛けたけど、もう聞こえてなかったかもね。
諸星大こと赤井秀一さん。
無口で無愛想で不器用で優しい、姉の恋人。
終
「それじゃあお休み。良い夢を」
「……お休みなさい」
ちゅっと額にキスをして、赤井はくるりと背中を向けてしまった。
降谷は目の前の広い背中を見つめて、気取られないようにため息を溢した。
……おかしい。
赤井と最後にしたのはいつだったか思い出せないくらい、ここ最近の二人はセックスをしていなかった。別に喧嘩をしている訳でもなく、こうして仲良く一緒にベッドに入り赤井からの優しいキス──額や頬にだが──と共にお休みの挨拶を交わして。そうして赤井は背を向けて眠りについてしまう。
そもそも背中を向けるということからして違和感を感じた。赤井はいつも降谷を抱き枕のように抱え込んで寝るのが常で、正面からの時もあれば背中からという時も有るが、それは主に降谷の気分次第だった。
セックスにおいても最終的な決定権は降谷に有り、それはやはり受け入れる側の負担が大きいが故の暗黙の了解だった。それでも赤井が求めてくる時は大抵降谷も“そういう気分”の時で、それだって赤井が恋人の体調や心理状態、更には仕事の進捗具合等に至るまでの多岐にわたる観察による絶妙なタイミングなのだから恐れ入る。どうしても疲れてできない時は断ることもあるけれど、無理強いをされたこともなければ気分を害されたこともない。そうかじゃあ元気になったらたっぷり可愛がらせてくれなんて気障な事を言って、欲を匂わす触れ方から癒しを与える触れ方にガラリと変えて、降谷を心地よい眠りの世界に誘ってくれるのだ。
そんな風に上手くやっていたはずだった。なのにどうしてこんな状況に陥っているのだろう?
(やっぱりあれが原因なのかな───)
実は降谷にはひとつ心当たりがあった。
その日、降谷は心身共に疲れ果てていた。
赤井がそれらしい雰囲気で触れてきたから疲れているとやんわりと断ると、すぐに引こうとはしてくれた。そういうことは珍しいことでもなくポンポンと背中をやさしく叩いてくれ、いつもならばこのまま眠りにつくはずだった。ただ、それまでと違ったのは、その日に至るまで誘いを断るのが何度か続いてしまっていて、色んな事が重なって降谷の機嫌は最悪だったし、赤井の方も何かあったのか少しだけ気分がささくれ立っていた。
背中をあやす手の動きが再び官能を呼び覚まさせるような動きになり、降谷は戸惑った。
「や、……」
「最後まではしないから」
挿入しなくても構わない、ただ肌を触れあわせるだけでもいいんだと赤井が懇願するも、降谷は頑なに拒否した。
「やめろって言ってるだろ!したくない!」
後ろから抱き締めようとする赤井の腕を払いのけて、降谷はベッドから降りた。
「零くん、」
「今日は自分のベッドで寝るから」
「すまない、もう何もしないから別々に寝るのはやめてくれ」
「おやすみっ」
二人で暮らすことに決めた時、寝室の他にそれぞれの個室を作った。赤井の部屋はいわゆる書斎という体で机と本棚しかないが、降谷は自室にシングルベッドを用意していた。赤井はひとつで十分だと渋ったが押し切ってこの部屋にベッドを入れたのは、帰宅が不規則になりがちなのでもしも深夜に帰宅した時、眠っている赤井を起こしてしまわないようにとの気遣いだったはずなのに、今となっては仇になってしまった。
勢い余って自室のベッドに潜り込んでみたはいいが、降谷はすぐに後悔している。ひんやりしたシーツはやけによそよそしくて、先程まで背中に感じていた温もりを失ってぶるりと震えた。
さすがに反省して翌朝いつになく素直に謝れば、赤井は優しい笑顔で気にしていないよと頭を撫でてくれた。そして俺も悪かった、許してくれるかな?なんて眉尻を下げて赦しを乞うから、いつもの調子で仕方ないですねと可愛くない態度を取ってしまった。
それからだ。
赤井が降谷を誘わなくなったのは。
[newpage]
「はぁ…………」
「なにかお困りですか」
テスクで盛大にため息をつくと、すかさず鋭い眼差しで風見が反応した。今では降谷の右腕として周りから一目置かれるようになった部下に、成長したなぁとしみじみ思う。
「仕事じゃない。プライベートでちょっとな」
「赤井さんと何かありました?」
緊張を解いた風見が問うと、一瞬降谷は口を開きかけたがやっぱりいい、と言って口をつぐんだ。さすがに上司の性生活の悩みなどセクハラまがいの話を聞かせる訳にはいかないだろう。
「おそらく降谷さんが悪いと思いますが」
「なんでだよ!」
事情も知らないのになぜか風見は降谷に非があると決めつけた。“おそらく”とか“思う”などと言ってはいるが、実際のところ断言している。
「赤井さんは何を差し置いても降谷さんを大事にしていますからね。お二人がすれ違ったり噛み合わない時はたいてい降谷さんが無茶をしているか意地を張ってる時じゃないですか」
「…………お前も言うようになったな」
心当たりが有りすぎてきっぱりと否定できない降谷は忌々しげに風見を睨んだが、もう慣れたものなのか肩を竦めるだけだった。
「今回は謝るというのもちょっと違くて…………喧嘩しているわけでもないし」
「詳しく伺っても?」
「いやそれはちょっと…………。そうだなぁ、なんか今までと関係性が変わってしまったみたいで、それが寂しいというかなんと言うか元には戻れないのかなって」
さすがにセックスレスになってしまったんだけどまた元のようにセックスする仲になりたいなんて言うのは憚れたので慎重に言葉を選んだ。
「倦怠期ってやつですか?」
「なの、かな?………いやそうでもない、か?」
別に会話が無くなった訳でもないし赤井は相変わらず優しくて常に降谷を優先してくれるしキスやハグといったスキンシップはこれまで通りだし…………、ただそこに性的なものが一切無くなったというだけで。
「でも端から見ててそんな感じじゃないですよね。この前お会いした時も相変わらず降谷さんにベタ惚れにしか見えませんでしたし」
赤井は時々庁舎まで降谷を迎えに来る。赤井曰く牽制の意味も有るらしいし、根を詰めすぎる上司の回収を風見が依頼することもある。先日は後者で、それはふた月ほど前のことだったか。
「そんなの結構前の話だろ」
「ということは本当にここ最近のことなんですか」
「んー…………」
「あれこれ考えるよりストレートに話し合えば良いのでは?」
それができたらなぁ、と降谷はブツブツぼやいている。仕事では常に的確な判断をするくせに私生活においてはなかなか面倒くさい上司だが、それはそれで人間臭くて良いなと思っている風見である。
「まぁ、関係性が変わるって分からないでもないです」
「風見んとこもそーゆーのあるのか?」
2年前に結婚し今では一児のパパとなった風見である。恋愛面にとっては少なくとも降谷より経験値が高い。
「一緒に暮らしてると恋人というより家族に近いものになりません?」
「ふむ」
確かに会話も愛を囁くばかりじゃないし所帯染みて来るし、裸だって見慣れてくるし付き合いたての頃のようなムードなんてモノも在りはしないかも。
「それにウチなんかは子供も生まれたんで、夫婦でいるより父母でいる時間の方が長いです」
「なるほど」
「別に私はそれに不満はないですが、妻の方はどう思っているのか…………確認した方がいいですかね」
我が身を振り返ってみて急に不安になる風見がかわいい。
「そうだなぁ、意思の疎通とか価値観の相違って大事だよな」
今日は勤務中にこんな話をできるくらいには平和である。抱えている案件は少なくないが、どれも動きはなく結果待ちや報告待ちの状態で、手持ち無沙汰がゆえに余計なことに思考が囚われてしまう。
「ちょっとポアロに顔出してみようかな」
『安室透』はすでにポアロを辞めて地元に戻り、細々と探偵業を営んでいるという事になっている。そして時折仕事やプライベートで上京してはポアロにひょっこり顔を出したりしているという設定だ。あの喫茶店はコーヒーはもちろんのことフードメニューが豊富で美味いので客層が広く、女子高生にも人気があるので市井の動向や流行りを知るのにうってつけだった。
店のドアを開けると降谷───今は安室透───の姿を認めた梓が途端に目を輝かせた。
「安室さん!良いところへ!!」
挨拶もそこそこにエプロンを押し付けられ、カウンター内に押し込まれた。
「1時間!1時間だけ良いですか!?」
聞けば午後のバイトくんが急きょ休みになってしまって困っていたらしい。本来なら午後は休みの予定だった梓が居残る事になったのだが、どうしても所用で1時間ほど抜けなくてはならず、昨日から旅行に出掛けている店長もあてにならず途方に暮れていたところだったのだ。
そんなわけで、ここでバイトさせて貰っていた頃ちょくちょく急な休みや早退で迷惑を掛けまくった身の上では断ることなんて出来ないし、もとより手伝うつもりで来たのだから二つ返事で承諾した。よほど急いでいたのだろう梓は、安室が頷くと同時に店を飛び出していった。
ランチタイムは過ぎたが下校時間にはまだ早い中途半端な時間の店内にはサラリーマン風の男と就活生とおぼしき女の子。いずれも注文の品は提供済みで、それぞれノートパソコンやスマートフォンに夢中で落ち着いている。梓から受け取ったエプロンを身に付け、手指を消毒して厨房に入るとぐるりと見渡し冷蔵庫をチェックする。冷蔵庫の傍に設置された棚の一角、書類等が納められている場所には自分が残したレシピノート。ここへ訪れる度に未だ一番人気はハムサンドなのだと言ってくれるのを思い出してくすぐったい気持ちになる。
ディナータイムまでに必要な下ごしらえが途中のようなのでその続きを請け負い、慣れた手つきで軽やかに仕上げてゆく。
30分ほどするとサラリーマンも就活生も会計を済ませ帰って行ったが、すぐに入れ替わるように3人組のママ友グループがやって来て、次いで女子高生の2人組が訪れた。
「あーっ!あむぴじゃん!」
「ホントだあむぴだー!」
「いらっしゃい。久しぶりだね」
元気だったお陰様で今日はどうしたの用事が有ってちょっとねいつまでいるの梓さんが戻るまでだよ、矢継ぎ早の質問にそつなく応え注文を聞いてカウンターへ戻る。オーダーされたパフェを用意していると、女性達のおしゃべりが耳に届く。
「えー、ゆうくんママんちレスなんだ?」
ママ友グループの会話にぴくりと反応してしまう。声は潜めているが降谷の聴覚は鋭いので。
「うん……気付いたらしばらくしてなくて、最初は疲れてるのかなって思ってたんどけど全然手を出してこないし、この前思いきってこっちから誘ってみたら………お前のこともう女というより子供の母親にしか見られなくなったって………」
「それは…ちょっとキツイね………」
「じゃあもう私に対する愛情はないのって聞いたら、愛はないけど情はあるって…………」
ずずっと鼻を啜りながらゆうくんママはコーヒーを煽った。
「実は………ウチもなんだけど…………」
「ひなちゃんママも!?」
「うん…………。うちはもっと深刻なんだ。私がダンナを傷つけちゃって」
「どゆこと?」
「ウチはワンオペ育児だから毎日バタバタで疲れてて、何度か立て続けに誘いを断ってたら自尊心を傷つけちゃったみたいで」
「あー、あるね。男ってそゆとこある」
「また断られると思ったら誘えなくなったし、しばらくしないでいたらもうヤリたい気持ちも起こらなくなっちゃったて言うの」
「ふたりとも、浮気とか…………大丈夫なの?」
「今のところはそれらしき影は見えないけど…」
「ウチはED 気味なんじゃないかな…」
「じゃあ手遅れにならないうちに自分磨きしてイイ女になろうよ!ゆうくんママはまずはダイエットから!ひなちゃんママはダンナさんの自信を取り戻すべく献身的に尽くすのよ!」
そうして奥様改造計画が始まった。パフェの仕上げに小さなチョコプレートを飾りながら、降谷は脳内でママ友グループの会話を反芻していた。
梓が戻りエプロンを返すと今度は客としてコーヒーを淹れてもらい、飲み終わるまでの時間を共通の知り合いの近況話などで費やす。大学生となった名探偵とその幼馴染み、さらには幼馴染みの親友達の事は、名探偵本人と会うこともあるし赤井の妹から赤井経由で聞くことも多い。
「少年探偵団は元気かな?何年生になったんだっけ」
「元気ですよ!あの子たちも今年で4年生です!コナンくんと哀ちゃんも元気にしてるって、蘭さんの彼氏の新一君がこの前言ってました」
江戸川コナンと灰原哀はそれぞれ海外にいる両親と暮らすことになったということにして皆の前から姿を消した。安室と違ってもう二度と姿を表すことが出来ないから、探偵団には時々エアメールを送っているらしい。もう1人姿を消したと言えば胡散臭い大学院生が居たが、こちらも海外留学したことになっている。
コーヒーを飲み終えたタイミングでポアロを辞する。店を出て風見に連絡を入れると急ぎの案件はないから直帰してはどうかと勧められ、たまには良いかとその言葉に甘えた。
途中スーパーに寄り食材を買い求め、帰宅すると腕によりをかけて赤井の好物を作った。それから風呂を掃除して後は湯を張るだけに準備し赤井の帰りを待っていると、スマートフォンが短く震えた。
『今日は少し遅くなる。食事も済ませて帰るよ』
「え………」
折角作ったのに、と溜め息が溢れたが仕方ない。『了解』と短く返して、料理は自分が食べる分だけ取り分けて残りはタッパーに詰めて冷蔵庫へ仕舞い、風呂もシャワーで済ませて早々に寝てしまうことにした。どちらのベッドで寝ようか迷って、自室のベッドを選んだ。少しだけ拗ねていたから。
深夜、玄関のドアの開く音がして意識が浮上したが、侵入者の正体は判っているので再び眠りについた。
[newpage]
翌朝起きるとダイニングのテーブルの上にメモが有った。
『夕飯用意してくれていたのにすまなかった。俺は今日はオフになったが、見送りたいから朝は起こしてくれ』
「……………………」
起こせと書いてあるが折角の休みなのだからゆっくり寝かせておいてやりたい。降谷は出来るだけ物音を立てないよう身支度し、簡単な朝食を作って食べた。昨晩冷蔵庫に入れた料理は赤井の昼食にと考えたが、もしかして出掛ける予定が有って無駄になるかもしれないと思って自分の昼食にすることにした。
《折角のお休みなんだからゆっくり寝てて。行ってきます》
赤井からのメモに続けて返事を書き込み、降谷は部屋を出た。
昼近くなって、ようやく起きたらしい赤井からのメッセージが届いた。
『見送りたかった』
《ごめん》
『大変だ!冷蔵庫の中の俺の昼飯がない!』
《出掛ける予定が有るかもと思って、僕の弁当にしました》
『食べたかったのに』
《ごめん》
《花屋の隣に出来た新しいパン屋さん、評判良いみたいですよ。食リポお願いします》
『了解』
やり取りを終え、はぁとため息を吐く。
もしや外出予定が有って無駄になるかもなんて本当はただのこじつけで、相当気合いを入れて作ったのがなんだか滑稽でそれと気付かれるのが嫌だったのだ。赤井はちゃんと昼に食べるつもりでいてくれたのに、こういう捻くれた思考から可愛げのない態度に至ってしまう自分に嫌気がさした。
定時を過ぎて課室に残る人数も半分くらいに減った頃、降谷もパソコンの電源を落とした。これから帰る旨を知らせようとプライベート用のスマホをチェックすると、赤井からのメッセージが入っていた。
『評判通り美味かったよ。バターロールは明日の朝食用』
数種類のパンの画像と共に送られてきたメッセージ。これは昼過ぎに届いていた。
そしてそれから数時間経ってから送られてきていたもうひとつのメッセージ。
(え…………)
『今から出掛けることになった。夕飯は作ってあるから温め直して食べてくれ』
この書き方だと一緒に食べられる時間には帰らないか、済ませてくるというニュアンスだ。家に帰れば赤井が待っていると思って高揚していた気持ちがしおしおと萎んでしまった。
(やっぱり朝、起こせばよかったな………)
一緒に住んでいて、泊まり込みをしているわけでもないのに一日半以上も顔を見ていない。
《わかりました。僕は今から帰るところです》
とりあえず返信を入れて降谷は肩を落とした。
夕飯は肉じゃがが作って有って、有り難くいただいた。そして風呂も部屋もちゃんと掃除してあった。しかし洗濯物は畳んではあるもののソファーの上に中途半端に置いてあって、本当に予定外の用事が入ったことが知れた。
午後11時を過ぎ赤井の帰りを待っていようか悩んだが、庁舎を出る時に返したメッセージに既読もついていないことだし、スマホをチェックする暇もないほど取り込んでいるのか盛り上がっているのか知らないが、まだまだ帰って来ないのだろうと踏んで先に寝てしまうことにした。
そしていざ寝ようとしてどちらのベッドにするか悩み、昨日は拗ねて自室で寝たからすれ違ってしまったのだと反省し、2人の寝室のベッドに潜り込む。キングサイズのベッドは1人では寂しくて、昨日は彼も寂しい思いをしたのだろうかと想いを馳せているウチに眠りに落ちていた。
昨晩と同じようにカチャンと小さな音がして赤井の帰宅を知る。なんとなく寝たふりを決め込んで待っていると、寝室のドアが開いた。
「………零くん、寝たか?」
確認の為の小声の問いかけをして足音を忍ばせた赤井が近付いてくる気配を感じる。彼はきっとおでこか頬にキスを落とすから、そしたら首根っこにしがみついて驚かせてやろうと企てた。
「ただいま………」
(────!?)
しかし、その計画は失敗した。
予想通り赤井は頬にキスをしたけれど、降谷は反応できなかった。音は立てず静かに唇は離れするりと髪を撫でられても、起きていることを悟られないようにただ規則正しく呼吸を繰り返すのが精一杯で。
赤井はすぐに寝室を出ていった。しばらくしてバスルームを使う音がして、ようやく降谷は細く息を吐いた。
(香水の匂い────)
赤井が覆い被さって来たとき、甘ったるい香りが鼻をついた。密着していたわけではなさそうだが、すれ違っただけではここまで移らないだろう。二人きりとは限らないが長時間女と一緒にいたことは間違いない。
シャワーを浴びて戻ってきた赤井は静かにベッドに潜り込むと、いつものように降谷の額にキスをして背中を向けた。
しかし今夜、いつもと違う展開を願った降谷は、寝返りを打って赤井の背中にぴたりと貼り付いてやった。さらには寝惚けているふりで赤井の身体に腕を回しおでこをぐりぐりと擦り付ける。
「れいくん?」
少しばかり緊張した背中を通して聞こえた呼び掛けには応えず、すぅすぅと寝息を立てればほぅと息を吐いて、前に回した降谷の手の甲を撫でてくれた。
「ぅう………ん」
調子づいて今度は脚を軽く絡めてみたら、赤井ははぁと深いため息と共に少し前方に身体をずらして二人の間にスペースを作った。
(えっ…………)
思いがけない拒絶に降谷の思考が止まった。どんな不測の事態にも瞬時に対応できるはずの優秀な頭脳が、これには付いて行けなかった。
二人の間に空間は作られたが、辛うじて降谷の片腕はまだ赤井の身体に引っ掛かっている。それが余計に滑稽でもう一度寝返りを打った。
二人は背中を合わせる形で、しかしその間には数十センチの距離。虚しくて悲しくて、鼻の奥がツンと痛んだ。
「ぐすっ」
しまった、と思た時には遅かった。
しゃくりあげるのは何とか堪えたのだが、鼻をすすってしまった。
「零くん!?」
がばっと赤井が振り返り半身を起こした。照明は消えているが夜目の利く男に泣き顔なんて絶対に見られたくなくて枕に突っ伏す。
「零くん、どうした?怖い夢でも見たのか?」
耳元で囁かれる優しい声。ふるふると頭を振ると、声と同じく優しい腕で降谷の身体を後ろからやわらかく抱きしめて、髪にちゅっちゅとキスをしてくれた。
「うぅ…」
ぶわっと涙が溢れて枕に吸い込まれていく。こうしてベッドの中で抱きしめられるのは、本当に久しぶりの事だった。
「俺が泣かしているのかな」
困った声にこくんと頷いて、すぐさまぶんぶんと横に振って否定する。
赤井のせいじゃない、50:50でもない。100% 非は自分にあるのだ。
「…ぁかぃのせいじゃない…けど…」
「けど?」
「あかいにしか…おねがいできない…」
涙交じりの声は躊躇いを含んで、降谷は前に回された赤井の腕を両手でぎゅっと抱きしめた。
「いいよ、なんでも言ってくれ。君の望みならなんでも叶えてあげるよ」
頼もしい言葉に勇気づけられて、一度きゅっと結んだ唇を開いて細く息を吐いた。赤井が急かすことなく静かに待ってくれているから、勇気を振り絞って言葉にする。
「―――したい。あかい、…抱いて」
赤井が息を飲む音がしたかと思えばあれよあれよといううちに衣服を剥かれ、組み敷かれていた。
一糸纏わぬ姿で身体中余すところなく撫で回されているのに、赤井が未だシャツのボタンも外していない事に気付いて胸元をツンと引っ張る。
「あかいも……」
「あ、あぁ、すまない」
プチプチとボタンを外し些か乱暴な手つきでシャツを脱ぐと、ずっと触れたかった逞しい身体が現れる。胸の筋肉を指先でつぅーーーとなぞると、煽らないでくれと窘められた。
下も脱いでという暇もなく再び覆い被さられて、今度は素肌同士の感触にうっとりと目を閉じる。
触れたかった、ずっと。そして触れられたかった。
「かお、見たい」
胸の位置に有る赤井の頭を抱え込んで言えば、イヤだと首を振られた。
「…情けない顔してる」
こんな余裕ない顔、好きな子には見せられないよ。
「ふふ…よけいに見たいな…あっ、」
胸の頂きを甘噛みされて思わず声が出た。ふっと笑った気配がして、それから―――後は激流に飲まれるような交わりだった。
[newpage]
ふっと意識が浮上する。
目の前の壁が何かなんて、考えなくてもすぐに分かった。背中を撫でる大きなてのひらにひどく安心する。
(あかい……)
腕の中に囲われたまま、再び瞼を閉じてすぅっと深く息を吸い込み大好きな匂いを堪能する。腹の奥がずくんと疼いた。
(そうだ…僕……)
抱かれたんだ。夕べ、赤井に。
かぁっと頬が熱くなり、はっきりと覚醒した。慌てて囲いから逃れようと身じろぐと、グッと腕に力がこもって拘束が強まった。
「こら、逃げるな。―――おはよう、ダーリン」
「お…おはよ、ございます」
抱きこまれているせいもあるけど、寝起きの少し掠れた声にどきどきして顔を合わせられない。なんとか挨拶だけは返してきゅっと縮こまった。
「まだ早いよ。もう少し寝るか?」
「ううん…」
何時だろうかと身体をよじって時計を確認しようとすると、5時半、と時刻を告げられまた腕にぎゅっと力が込められる。
「じゃあ今朝は俺が朝食を用意するから、できるまで寝ててくれ」
「え、僕やりますよ」
「あー、無理、じゃないか?」
「?」
「その…、すぐには立てないだろ、たぶん」
夕べ、激しくしすぎたから。
耳に吹き込まれるように困った声で囁かれて、背筋がぞくりとする。
「~~~~~っ、ばかやろう!」
ガバッと顔を上げて睨みつければ、脂下がった顔の赤井がすまんと笑った。
「それで?昨日は?」
赤井の読み通り降谷は足に来ていてベッドから自力で降りられなかったが、朝食をベッドに運ぼうかという赤井の提案は却下した。代わりにお姫様抱っこでダイニングテーブルへ運ばれるのには甘んじて、今は二人で赤井の用意した朝食を食べている。
「ああ、秀吉に呼び出されてな。もともと近い内に会う約束をしていたんだが、急きょ時間が取れたからと連絡して来て」
「羽田名人、来週からタイトル戦始まるんでしたっけ?」
「そうなんだ。だからどうしても昨日が都合よくてな」
「ふうん」
目玉焼きに添えられたプチトマトにぐさりとフォークを突き刺して、降谷はじろりと睨め付けた。
「―――何か言いたげだな?」
「いえ、羽田名人と二人だけで会ってたんじゃなかったでしょうって思ってね」
「秀吉と二人きりだったぞ。なぜそう思う」
トマトが突き刺さったフォークを右に左にくるくると回し、ぱくりと齧り付く。もぐもぐと咀嚼する間、困惑顔の赤井はそれでも黙って大人しく様子を窺った。
「んー、あなた、昨日、香水の匂いがしたから」
「は?―――あ、いや、それは…」
思い当たる節があるのか赤井は言葉を紡ごうとするが、まったく想定外の指摘に何から話せば良いのか一瞬迷い言いよどむ。
「釈明できます?」
行儀悪くフォークの先を向けて突きつけると、もちろん、と赤井は頷いた。
事の顛末はこうだ。
昨日は真澄の誕生日に贈るプレゼントを選ぶため、二人でデパートへ足を運んだのだそうだ。妹の誕生日はまだ少し先だが、タイトル戦に挑む秀吉のスケジュールが詰まっているし、赤井だってそれに合わせてやれる程ゆるい職業ではない。それに秀吉があらかじめ予定を空けたとしても今度は赤井側に緊急事態が発生しかねない。
なので時間が取れそうな時はこまめに連絡を取り合って調整する事にしていた。そしてたまたま昨日、休みの赤井のところへ秀吉から予定していた取材と会食がキャンセルになったからどうかと連絡が入り、急きょ待ち合わせて出かける事になったのだ。
「それで、だ」
ここからが大事だぞ、と降谷を真正面から見据える。
どうやらこれは雲行きが怪しいのではないかと、降谷は己の失態を予感した。
「真澄ももう成人したし、ボーイッシュなのも魅力的だがちょっとは大人の女性らしく着飾るのも良いんじゃないかと母が言い出してな」
「はあ」
「服や靴はサイズの問題もあるし、それは母が本人を連れて選びに行くという事に決まったんだ。それで俺と秀吉はバッグやアクセサリーなどの小物を…という事になって」
「ええ、」
なんとなく判った。ような、気がする。
「香水もそのうちの一つでな、さんざん匂いを嗅いだ。しまいには鼻が馬鹿になるかと思ったよ―――」
思い出したのかげんなりとした顔をする。
「でも、テイスティングだけでであそこまで匂い移りますかね?べっとりじゃないけど誰かとずっと一緒に居たんじゃないかってくらいには移ってましたけど」
赤井の説明や表情・態度に不自然な点はないけど、そこだけは不審な点がある。
「妬いてくれてるのかな?」
「うるさいな」
赤井がにやにやとしながら言うから、降谷はツンとそっぽを向いた。
「それにはちゃんとした理由がある。店員がムエットに吹きかけるとき、手元が狂って俺の方に向かってスプレーしてしまったんだ」
多少距離があったからあの程度で済んだが、とんだ災難だった。男性用のフレグランスならまだ良かったのだが、女性用となると甘ったるくて妙に心地が悪かったよ、と苦笑して見せた。
買物を終えた後は真澄の不在を確認してから実家に寄り、メアリーに預けて当日までうまく隠して保管しておくよう頼んだ。その後は折角だからと久しぶりに兄弟水入らずで食事をし、深酒をしない程度にアルコールも楽しんで、帰宅したというわけだ。
「はぁ…僕の早とちりってわけですか…恥ずかしい」
「俺はそのお陰で得したがな」
「…得?」
「君から誘ってもらえるとはな……浮かれ過ぎて加減もできなくてすまなかった」
余裕がなかったんだ、と白状した赤井の頬に赤みが差している。珍しいものを見た降谷が目をぱちくりさせた。
「そういえば情けない顔してるから見せたくないって言ってましたね」
「忘れてくれ」
そう言って赤井は空になった皿を持って席を立った。もう少しからかってみたかったが、反撃をくらっても困るのでここは大人しく引いておくことにした。
「―――あれ?」
「なんだ?」
シンクに向かっていた赤井が振り返る。右手に洗剤、左手にスポンジを持って。
「赤井、もう僕には欲情しないんじゃなかったのでは?」
「は…?」
左手からぽとりと落ちたのがスポンジで良かった。洗剤のボトルの方だったら大きな音を立てたし最悪皿が割れていたかもしれない。
「ちょっと待ってくれ、俺は枯れてなんかないぞ!?」
右手のボトルを置き、泡まみれになった手を慌ててザッと流して赤井がダイニングテーブルへ戻ってくる。
「えっと、そうは言ってません。僕に欲情しなくなってたじゃなかったかと言ったんです」
「君に欲情しないイコール枯れたも同然だ!」
ダンッと拳をテーブルに叩きつける。
「左手!」
降谷が慌てて両手で包み込めば、赤井はその上から更に右手を重ねた。そして何か腑に落ちたような顔で頷いた。
「あ―――いや、うん。そうか…俺が悪いんだな」
「なに一人で納得してるんだ」
「今ここでちゃんと説明したいのは山々なんだが……どうだろう?」
赤井が親指で指し示した先には、壁掛けの時計。そろそろ支度を始めないとまずい時間だった。
「わ、遅刻する!」
ガタガタと椅子を鳴らして立ち上が――――――ろうとして、かくんと膝が折れる。自分の意思に反して再び椅子に座りこんだ降谷が顔を真っ赤にして悪態をついた。
「赤井のばかっ!どうしてくれるんだこの野郎!」
「支度、手伝うよ」
赤井は割と本気の力でボコボコ叩かれても顔が緩むのを抑えられなかった。
[newpage]
「降谷さん…」
「んー?」
「何かいいことあったんですね……いえ、教えていただかなくても結構です」
「まだ何も言ってないぞ」
今日も平和で、そんな会話をしているうちに定時になった。手にしていた書類をトントンと揃えて降谷は席を立つ。
「悪いが今日はもう帰る」
「「「お疲れさまでした!!!!!」」」
野太い声に送られてオフィスを出る。今日こそは赤井に手料理を振舞ってやりたい。そして
朝の話の続きをしなくては。朝はなかなか力の入らなかった足腰も回復し、しっかりした足取りで駐車場へ向かった。
スポーツカーにはあまり似つかわしくない目的地に着き、エコバックを手に降り立つ。今日のチラシは昼休みのうちにスマホでチェック済みだ。頭の中に買い物リストを思い浮かべていると、ポケットの中のスマホが小さく震えた。
『今日は早く帰れそうだ』
赤井からのメッセージに顔を輝かせ、買い物カゴを手にする。さっさと済ませて早く帰ろうと、颯爽と店内へと足を進めた。
「すごいな…、俺の好物ばかりだ。いいのか?こんなに甘やかして」
いつも栄養のバランスも考えて作るからあまり得意ではない物も織り交ぜているが、今日は全部赤井が好きな物ばかりだ。
「へへ…今日は特別です。一昨日の、僕が全部食べちゃったから」
「うん、そうだ。起きたら冷蔵庫から消えていてがっかりしたんだぞ」
拗ねた口ぶりの赤井が可愛くてくすくすと笑う。また作りますよとお詫びにキスを送ると、途端に機嫌を直してもう一度と強請ってくる。
「もう、冷めないうちに食べろ!」
こんなに穏やかな気持ちで二人の時間を過ごすのはいつぶりだろうか。赤井から求められないことに気づいて以来、一緒に食事をしていてもリビングで寛いでいても、降谷の気持ちはどこか晴れずにいたから。
食後のお茶を飲みながら、降谷はそろそろかなと頃合いを図って切り出した。
「あの、さ。今朝の続きなんだけど」
「うん」
「赤井はさ、その…まだ僕にその気になってくれるの?」
「もちろんだ。今朝も言っただろう?俺は枯れてなんていないし、いつでも君を抱きたいと思っているよ」
「じゃあ、なんで……ずっと、僕のこと」
切なかった夜を思い出して顔を曇らせた降谷を慌てて抱きしめて、赤井は洗いざらい白状した。
「本当にすまなかった。少しだけ拗ねてたんだ。いつだって俺だけが君を欲しがってるみたいで…だから一度でいいから君から誘って欲しくて」
しかし予想以上に降谷は我慢強くて、意地になっているうちにどんどん日にちが経ってしまって、どこを着地点にしたら良いか赤井も悩んでいたという。
「だから昨日、君が誘ってくれて、天にも昇る気持ちだった。久しぶりだったし理性では優しくしなくてはと思っても、自制がきかなくて―――」
無理をさせてごめん、でもとても素敵だったよありがとう、もう絶対拗ねたり意地をはったりなんてしない、この数週間ほんとうに辛かったんだ、もう俺は君なしじゃ生きていけないからな、だから赦してくれないか?
言葉を尽くしながら首筋に顔を埋めてキスを贈る赤井に、くすぐったいと身をよじりながら。
「はぁ…また僕の負けですね」
香水の匂いに動揺さえしなければと悔しがる。なんでも勝ち負けにしてしまうのは降谷の悪い癖だが、照れ隠しであることも知っている。
「香水を吹きかけてくれた店員には感謝しかないな」
お礼に今度は君に似合う香水を選びに行こう。君にはきっと爽やかな柑橘系の、それでいてどこか優しい香りが合うだろう。俺が選んだその香りだけをまとった君を抱きたいな。
そう耳元で囁けば降谷は頬を赤く染めもじもじと身をすくませる。
「―――想像した?」
「っ、…してない」
「嘘はいけないな。―――俺は、したよ」
ほら、と下肢を押し付けられた。熱くて硬いそれに思わずごくりと嚥下する。
「なぁ、零…、言ってくれ」
―――君も俺が欲しいと。
「あ…ぅん、…欲しい、僕も。赤井が欲しいよ―――」
言った途端ぎゅうっと抱きしめられて気が付けばベッドの上に横たえられて。
「昨日は無理をさせたから、今日は優しくする。…たぶん」
そうして二人は今夜も甘く情熱的な夜を過ごし、翌朝ふたたび起き上がれない降谷に怒鳴られながら幸せな朝を迎えるのだった。
終
忙しいのかな?
そんなふうに呑気に考えてた。
次第に違和感、さらには疑惑、そして確信。
赤井秀一はもう降谷零を愛してはいない。
「オレ、ビックリしました。赤井さんと降谷さんが別れたなんて……」
コナン君改め今は大学生探偵となった工藤新一君が怒ったような困ったような、いや拗ねた表情と言うのかな、そんな顔をしてぽつりと言った。
『警視庁に来てるので、終わったら少し会えませんか?』
そんな連絡を貰って、今、日比谷公園内のベンチに並んで座って缶コーヒーを飲んでいる。
「…………」
「二人が付き合い始めたって聞いて、オレすげぇ嬉しかったんですよ? お似合いだと思ってたのに」
「……赤井に聞いたの? 僕たちが別れたって」
「はい。それなのにやたらと降谷さんの事を訊いて来るから……ということは、降谷さんの方からフッたんでしょ?」
ああ、だから新一君はこんな表情をしているのか。彼はいつだって赤井の味方だからな。
「そっか……僕たち別れてたのか」
「え?」
もう連絡が滞っているなんてレベルじゃなくて、途絶えていたんだ。
最後のメッセージは僕から、既に2ヶ月も前の日付だった。
『おやすみ』のスタンプには既読が付いていたが、それがいつ付いたものかはわからない。送信した後1~2日は気にしていたけど、それ以降は確認することをやめてしまったから。
毎日連絡を取り合っていた訳じゃないし、せいぜい1~2週間に一度くらい。忙しくて気付けは数週間なんてこともしょっちゅうで。やり取りの頻度が少なくなっているのは感じていたけど、何かまた難しい事件に掛かりきりなのだろうとそう思っていた。
だから気付くのが遅れた。僕としたことがなんでそこに思い至らなかったのだろう。
「あ、あのっ、どういうことですか?」
新一君は軽く混乱しているようだ。だってそうだろう、赤井から聞かされたのに僕の方が悪いとまで思っていたんだから。
「赤井は僕とは別れたと言ったんだろ?」
「え、はぁ、そうなんですけど……」
もしかしたら不味いことを言ったのではないかと焦っている新一君は、どうして良いのか必死で考えているんだろう。
「じゃあ別れてるんだよ。自然消滅ってヤツじゃないかな。僕は気付いてなかったけど」
「降谷さん……」
普通に笑ったつもりだったのに、痛々しかったんだろうか。新一君は憐れむような表情で、スミマセンと頭を下げた。
気まずい空気の中ただひたすらに缶コーヒーを飲み下して、そろそろ戻るよとベンチから立ち上がると、泣きそうな顔をした新一君が再びスミマセンと頭を下げた。
「君のせいじゃないよ」
「でも……!」
「だったらさ、お願いがあるんだ。今日会ったこと、僕があいつの心変わりを知ったこと、赤井には言わないでくれる?……僕から別れようって言って終わりにするからさ」
きっと赤井は優しいから切り出せないでいるんだよ。だったらこちらから手放してあげないと。
新一君と別れて、たった今仕入れたばかりの衝撃の事実を噛み締める。
なぜ?
どうして?
なんで赤井は僕のこと好きじゃなくなっちゃったんだろう。
お喋りで煩いから?
素直でないから?
可愛げがないから?
僕が男だから?
やっぱり女が良かった?
…………あ、もしかして全部だったか。
なら仕方がないな。
潔く別れてやろうじゃないか。
おもむろにポケットからスマートフォンを取り出して短いメッセージを打つ。
『さようなら』
たったの5文字。
呆気ないもんだな。
もしもすぐに反応されると困るので先に赤井の連絡先をすべて拒否設定にしてから送信ボタンをタップ。
あちらは真夜中だから、確認するのはたぶん数時間後のはずだけど。
それからオンラインで解約続きを。
このプライベート用の端末の番号を知る人はそう多くないから、追々案内をすれば大した支障もないだろう。
指先ひとつでなんでも出来る便利な世の中になった。便利すぎて実感もわきやしない。
それからどれだけの日々が過ぎたのだろう。目を反らし考えることをやめてしまっていたから、わからない。
新一君と会ったのはいつだった? 記憶力には自信が有るはずなのに、その日の事が思い出せない。つい一週間前の事のようにも思うし、もう数ヶ月経ったような気もする。
実際には、三週間と2日だった。
「降谷さん、」
「なんだ」
「FBIから国際電話です」
部下が固定電話を指差す。赤く点滅したランプが保留中を示していた。
「……FBIの誰だ」
「スターリング捜査官です」
「取り込み中だから後でかけ直すと。連絡先と用件も聞いておいてくれ」
「わかりました」
部下は通話に戻るとしばらくやり取りをしたあと通話を終え、ざっと取ったメモの内容を新しいメモ用紙に清書して持ってきた。
「連絡先です。用件は、プライベートなことなので、と」
「ありがとう」
メモを受け取って、ふむと考える。ジョディさんが自分にプライベートの用件、というのに全く見当が付かない。本当は仕事絡みだが公に出来ないのか、……もしくは赤井絡みなのか。
一時期より親しくなったとは言え彼女にはプライベート用の番号は教えていなかったから、あの番号が繋がらないから職場にというのはないだろう。それに、仕事用の番号ならば知っているはずなのに、なぜ。
受け取ったメモに書かれた番号を見ると、初めて見る番号だった。彼女はスマートフォンを変えたのか、それとも別の誰かの番号か。別人のものだとしても、僕の知った面々のものでもなかった。
あれこれ考えてもなんだし、メモの内容をすばやく記憶してシュレッダーにかけた。
人気のないフロアの空室のミーティングルームに入り、記憶した番号に電話を掛けるとワンコールもしないうちに繋がった。時差を考えたらあちらはそろそろ日付も変わろうという時間なのに、まるで待ち構えていたようだ。
『フルヤ?』
「はい、降谷です。ご無沙汰してます」
『今、周りに人はいる?』
少し硬い声だった。
「いいえ、一人です。盗聴の心配もありませんよ」
『良かった。…わざわざ職場に掛けたのは、たとえ仕事用でも連絡先を交換するような仲では無かったと装いたかったの。この電話も全く関係ない一般人の名義で契約した物よ。……私達のモバイルはハッキングされているの』
「複雑な事情が有りそうですね」
『ええ。盗聴アプリはあえて気付いていないふりをしてるんだけどね』
と言うことはある程度絞り込めていて泳がせているか、もしくはあぶり出そうとしているか。
「それで、用件は何です? 僕に協力して欲しいことが有るんでしょう?」
『いいえ。それはないわ』
「はぁ?ないならなぜ」
思いがけない返しに間抜けな声が出てしまった。
『詳しくは言えない。このモバイルも一度限り』
「話が見えません」
『シュウと別れたんですってね』
「……はぁ、まぁそうですね」
もしかして本題はこっちか?
新一君のみならずこの人も知っていると言うことは、赤井は僕達が別れた事を吹聴しているのか?
『彼は今、同僚のアイリーンと付き合っているの』
あぁ、そう言うことか。赤井の新しい恋の展開が目の前で繰り広げられていれば、僕らの仲を把握していた彼女は僕とはどうなったのか聞かなくたって察するよな。
「はぁ、そうなんですか」
『え、………それだけ?』
拍子抜けたようなジョディさんの声にイラッとしてしまう。なんだよ、フラれて打ちひしがれてなきゃダメなのか?
「うーん、じゃあ、お幸せにと伝えてください」
『イヤよ』
「はぁ!?」
じゃあ訊くなよ!今度は思わずチッと舌打ちをして心の中で悪態をついた。
『……平気なのね』
「終わった事ですからね」
『私は結構引きずっちゃったわ』
当時を思い出したのか急にしんみりした声で言う。僕と違って彼女の時は別に赤井が心変わりした訳じゃなく、むしろ大切に思っていたからこそだから、余計に心残りがあったのだろう。
「それはそれは。まぁ全く平気ってこともなかったですよ。…………僕も新しい恋でもしますかね」
そんなの出来もしないくせに言ってみる。
『ノー、それはダメよ!』
「何でですか。ふつうはそれを推奨されるものでしょう」
『あー、まぁそうなんだけど……いいからフルヤもしばらく引きずりなさいよ!』
「めちゃくちゃだな……。それで?結局用件というのは僕が今どうしてるかって事ですか? 」
あんなメッセージを一方的に送ったきりだし、電話は繋がらないし、本当に僕が別れてくれたのか確かめたかった? 自分では気まずいからジョディさんを使って? 元カノなんだと思ってんだよあいつは本当に酷い男だな。
「だったら大丈夫です。僕はもう赤井と別れたし、未練もない。だからさっきの言葉を……幸せになってと伝えてください」
『フルヤ……』
「ま、もともと僕の恋人はこの国ですし」
このまま国が恋人なら、仕事は愛人かな。あいつは二人の女を同時に愛せないとか何とか抜かしたらしいけど、僕はどちらもいっぺんに愛せるよ。
「それでは、お元気で」
『あっ、フル』
ピッと音を立てて通話が途切れる。
赤井の新しい恋愛事情なんて知りたくなかったのに、新一君もジョディさんも、どうして寄って集って僕の心を抉るんだ。何も、……何も知らされなければ、忙しいんだなって、僕はただそれだけを信じて何年だって待って居られたのに。
「っ、…く」
泣くな。泣いたって仕方ないだろ。
アイリーンだかアインシュタインだか知らないけど、きっと美人で賢い女性なんだろうな。あいつもいい歳だし、結婚するのかな。可愛い子供も産まれてパパになって。
「あかぃ……っ!」
後から後から涙が溢れて止まらない。三週間と二日分の涙だった。
その日はあれから戻らずに午後から早退した。とても人前に出られる顔じゃなかったから。
社会人として警察官としてあるまじき思いっきりプライベートな事情で、しかも急きょ『体調不良』を理由に自席にも戻らず電話のみで半休を申請したが、上司はあっさりと休ませてくれた。なんなら有給消化も兼ねて一週間でも休んでいいというのは丁重にお断りしたが、お言葉に甘えて翌日も休ませて貰った。
久しぶりにゆっくりハロと遊んでやって、冷蔵庫の中身の整理をし買い出しをして常備菜を作って、そして。
家に在る赤井の物を片付けた。捨ててやろうと思ったけど勝手に捨ててはいけない物も有ったし、とりあえず箱の中にひとまとめにして押し入れの奥に突っ込んだ。片付けたものはそんなに多くはなかったのに、部屋がやけに広くなったような気がした。
ふわ……とレースのカーテンが大きく翻って、窓を開け放していたのに気付いた。季節の変化を感じてもう一年近くも彼と会っていないと気づかされた。
「降谷さん!」
背中から声をかけられて振り返ったらそこには新一君が居た。
「やぁ、久しぶりだね。今日も警視庁へ?」
「はい。……あの、大丈夫ですか?」
「何が?」
「……いえ、」
「赤井との事なら大丈夫だよ。もしかして僕が何も知らないのに喋っちゃったこと気にしてた?」
「う……まぁ、はい」
「僕からちゃんとお別れしたよ。君に報告してなかったね、ごめん。それに赤井はもう新しい彼女がいるそうだよ」
「えっ、もう知ってるんですか!?」
「てことは君の方が情報が早かったか。赤井から?」
「はい……」
こくりと頷く新一君は、当事者の僕よりも悲痛な表情をしていた。何かを言おうとして口を開きかけたがまたすぐにきゅっと口許を引き結ぶから、話していいよと促した。
「……結婚するらしいです」
「ほぉー、それはそれは」
随分トントン拍子に事が運んでいるんだな。それが運命の相手というものなのだろうか。長く付き合っていたカップルが結局のところ結ばれなくて、次に付き合った相手と短期間で結婚するとかよくある話だし。長くはないけど短くもない期間付き合ってたのが男だったから、余計に女性の有り難みが身に染みたとか?
「オレ、見損ないました、赤井さんのこと!降谷さんのこと大事にするって、絶対にって、そう言ってたのに!」
「新一君……」
あぁ、この子はなんて純粋なんだろう。 眩しいくらいだ。
初恋の幼馴染みを一途に思い続けて他には目もくれないまっすぐな愛情。そう言えば彼女の両親もなんだかんだ言ってお互い惚れあっているし、彼の両親はどこからどう見てもラブラブだった。二人ともたくさんの愛情に包まれて育ってきたからこそなんだろう。自分がなぜ赤井に選ばれなかったのか解った気がした。
「赤井は悪くない。だからって僕が悪い訳じゃないけど……縁が無かったってやつだよ」
「でも……」
「それで?君はあいつの結婚式には出るの?」
「いいえ。式はしないそうです。世良達も会ったことはなくて、落ち着いたら連れて行くとだけ言われてるって」
「ふぅん、そうなんだ」
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ良かったって思った。皆に祝福されて笑顔の赤井なんて見たくないから。万が一にも僕は招待されないだろうけど、共通の知り合いが多いから何かの機会にそんな写真を目にする機会がないとは限らない。
「世良……怒ってた。メアリーさんも」
「そう…」
二人には付き合い初めて割りと早いうち紹介されていた。いろいろ有ったのに真澄ちゃんは僕に懐いてくれて、メアリーさんも息子がまさかの男の恋人を連れてきたのに動じることなく、優しく迎え入れてくれた。今日から貴方は私の息子同然よと抱き締めてくれて、真澄ちゃんは零兄なんて呼んでくれた。憧れた家族ができたみたいで嬉しかった。
なのに、もう。
きっと僕は身分不相応に求め過ぎてしまったんだ。絵にかいたような幸せの端っこに触れて、もっともっと欲しいと思ってしまったから。だから罰が当たったんだ。
「あの!オレは!この件に関しては全面的に降谷さんの味方です!」
「はは、じゃあ赤井に伝えてくれる?僕も幸せになれるよう前に進むよって」
せめて強がりだけは言わせて欲しい。赤井がほんの少しでも僕に罪悪感を持たないように。
新一君と顔を合わせるとそう間が空かないうちにジョディさんから連絡があるのは偶然なんだろうか? いや、きっと繋がっている。今回ばかりは僕の味方だと言ってくれた新一君だけど、ジョディさんに報告しているのかな。
「……あの、本当に僕に協力は求めてないんですか?」
『ええ』
「だったらなんで電話してくるんです」
この前と同じ要領で連絡をしてきたジョディさんにこれまたこの前と同じ部屋でコールバックしている。
『どうしてるのかなって』
「はぁ?」
赤井と切れた今となっては僕と貴女はそんなフレンドリーな関係じゃないだろう。ただの仕事上での知り合いだし、同業者とは言え他国の捜査官だ。むしろライバル関係であることの方が多いし何か情報が欲しいとか協力を仰ぐ以外に連絡を取る必要などない。自分と彼女の共通点なんて『赤井の元恋人』ってことくらいだ。
「あ、もしかして」
『え、なに?』
「赤井が結婚するって話なら聞いてますよ?この前たまたま新一君と会って聞きました」
『あ、あぁそれなんだけど、』
「式はしないんですってね。残念だな、僕、出席したかったのに。FBIのお仲間達でパーティーとかしないんですか?」
『えっと、それはまぁ…、そうね早く計画しなくちゃね』
「僕も結婚しようかなぁ」
『え!ダメよ!それはダメ!!』
彼女の背後でガタガタガタンと派手な音がした。急に立ち上がって椅子でも倒したか。
「なんで貴女に止められなきゃならないんですか」
『あー、それは…そう、私だってまだだから!』
「なんだそれ。さっさとお相手見つければ良いじゃないですか」
『なかなか出会いが』
「日本にはお見合いという文化が有るんでね。僕の方は赤井との交際届けを取り下げたから上司が次から次へと見合い話を持って来るんですよ」
『取り下げた!?』
「そりゃ取り下げるでしょ」
別れたんだから。
上層部のみ知るトップシークレットだけど、僕らの交際は届け出ていた。赤井はもともと公にしたがっていたし、僕の方はできれば伏せておきたいが規約に背くことはできないから。このご時世、同性であることは大して問題視されなかったが、それでも相手が相手なので幹部の中でもごく一握りの人間だけしか知ることはない。普通なら書かない誓約書のようなものもたくさん書いた。
『フルヤ、お願い。お見合いするのはやめて』
「独身仲間が減るのがそんなに嫌なんですか。………まぁいいですよ、別に乗り気じゃないし」
『とにかく、そんなに遠くないうちにそっち行くから!それまで待ってよ!』
「休暇ですか?」
『そう!そうなのもうちょっとしたらまとまった休みが取れるから、訪日しようと思って!クールキッド達にも会いたいしね!もちろん、フルヤにも会いたいわ。独り者同士楽しく飲みましょうよ!ね?ね?』
「……ま、いいですけど」
何をそんなに必死なんだかわからないけどジョディさんの勢いに負けてしまった。
『だから約束よ?絶対に、ぜーったいに抜け駆けしないでね?』
「わかりました、約束しましょう」
『……良かった。時間取らせて悪かったわね、じゃあ切るわ』
「はい、失礼します」
彼女はやっぱり赤井に未練があるのかな?それで同じく赤井に捨てられた僕と同類相憐れみたいという心境なんだろうか。でも 僕らが付き合ってる時も親切にしてくれてたし、なんなんだあの人は。美人だしスタイルもいいし性格だってさっぱりしてて好ましいのに、なんで彼氏いないんだろう。
「でも……うん、なんかちょっと心強いかも」
二人であいつの悪口上げ連ねて、美味い酒でも飲んだら忘れられるかも。正直なところ新一君の励ましはピュアなだけにちょっと余計に凹んでしまうんだよね。
「ちょっと楽しみかも」
来日したらどんな店に連れて行こうかななんて考えたら、なんだかワクワクしてきた。こうして傷は癒えて行くんだななんて、久しぶりに穏やかな気持ちになれた。
それからまた数週間の時が流れた。赤井と別れてそろそろ3ヶ月になろうとしていた。
机の上のスマートフォンが震えた。あれ?と思ったその番号は……。
「ジョディさん?」
『ハァイ!フルヤ、元気?!』
「元気ですよ。あなたの端末から直接掛けて来てるって事は、問題が解決したんですね」
『そうなのよ!だから会いに行くわ!』
明るい、本来の彼女のテンションだった。
「僕、結構楽しみにしてました。ジョディさんに会えるの」
『やだ!なに可愛いこと言ってんの!』
「それで、いつこちらへ?」
『貴方の休みはいつ?』
「来週ならいつでも貴女の予定に合わせられますよ。空港へも迎えに行きます」
『ワォ、本当? ならチケットが取れたらメール入れるわね!』
「待ってます。…そう言えば、赤井はもう結婚したんですか?実は僕、お祝いのプレゼントをあげたくて…そちらは新郎新婦が欲しいものリストを作ってその中からあげるって聞いたので…」
『あー…フルヤ、その事なんだけど』
ジョディさんの声色が変わったのが聞き取れた。きっと表情も硬いのだろう。
「あ、すみません。いくらなんでも直前まで付き合ってた相手からなんて嫌ですよね…でもお祝いしたくて。だから僕が用意するけど貴女からって事にして渡し」
『そうじゃないの、フルヤ。話が複雑で長くなるから会ってからにしていいかしら』
「あ…はい、そうですね。では連絡待ってます。それじゃ」
やはり非常識だったか。別に嫌みでも嫌がらせでもなく純粋に祝いたいと思っただけなのだけれど。さすがに後に残る物は良くないだろうから、花束とか消耗品かなにかでとそれなりの配慮もするつもりだった。
複雑で長い話ってなんだろう。馴れ初めから逐一聞かされるのだろうか。
(……嫌だな)
ツキンと胸が痛んだ。
空港に来るのは1年ぶりだった。
最後に赤井を見送りに来て以来。それから少しずつ少しずつ連絡を取る間が開いてきて、止めを刺されたのが3ヶ月前。もしかしたらあの日新一君に偶然会わなければ、僕が知らないうちに赤井は結婚していたのだろうか、なんて考えて自嘲する。
ジョディさんを乗せた便は予定通り到着したようで、乗客達が次々に現れた。自分とはまた違う色合いの淡い髪色を探す。
「あ、ジョディさん!こっ…ち…」
手を振って合図しようと掲げた手が止まる。ジョディさんの少し後ろを歩く全身まっ黒の男に目が釘付けになった。
「あか…」
なぜ?どうして?
いやそんなことよりも―――
赤井の隣にはブラウンの髪の美しい女性。僕の姿を目に止めると、赤井を見上げてにこやかに笑いながら何か話しかけている。
(ああ、あれが―――)
あの人が赤井の奥さんなんだ。想像した通り美人で、赤井が選んだのだからきっと性格だっていいんだろう。
ご結婚おめでとうございます綺麗な人ですねアイリーンさんって仰いましたか素敵なお名前ですね僕は降谷零です赤井の―――
(赤井の、なんて言ったらいいんだ?)
そう考えると同時に降谷は駆け出していた。
赤井がやジョディさんが名前を呼んでいるけれど構うことなく走り続ける。駐車場へ向かってただひたすらに、脇目も振らず。
「零!」
白い愛車のドアを開けて運転席に滑り込もうとしたその時、名前を呼ばれて右腕を捕らわれた。
「!…っ、」
「零くん!待ってくれ!」
久しぶりに聞いた赤井の声。掴まれた腕は痛いほど強く引かれ、忘れかけていた赤井の匂いを感じてぶわりと熱がわきあがり、
「ぐっ、ぅ」
と、同時に赤井がその場に蹲った。
降谷は自分の拳と赤井を交互に見遣り、無意識に鳩尾にパンチを入れてしまったことに気付いた。
「あの、すみません、」
「…相変わらずいいパンチをしているな…油断した」
苦笑いで降谷を見上げる赤井は立ち上がろうとしてウッと僅かに顔をしかめた。
「大丈夫ですか」
「…じゃない。大丈夫じゃないから病院に行く」
そう言って降谷が座るはずだった運転席に乗り込み、呆気に取られているうちにドアロックまでされてしまった。
「あ?!何してくれてんだこの!」
涼しい顔をしてこちらを見もしようとしない赤井の横顔に腹を立ててサイドガラスをバンバン叩くが、ゴリラと揶揄される自分の力を思い出してピタリと止めた。
仕方なく助手席に回ってドアを開け、罵詈雑言を浴びせようと口を開いたところで腕を引っ張られた。
「おわっ!?」
バランスを崩しかけたがすんでのところで体勢を整え、なんとか頭から突っ込むのを回避して助手席に収まると、赤井は左手を差し出してキーを要求する。渋々ポケットから取り出して渡すと瞬時にエンジンを掛けられじわりと車体が動き始めたので、慌ててドアを閉めシートベルトを掛けた。
僕の準備が整ったのを確認すると、赤井は改めてシフトをチェンジしてアクセルを踏む。駐車場から公道へ軽やかなハンドル捌きで出ると、今日は比較的空いた道路を滑らかに走る。
「久しぶりだな、この車を運転するのも」
赤井は懐かしげにハンドルを撫でる。帰国と共にあの派手な車は海を渡ったので、日本に戻っている間は降谷の助手席に収まっているか、時折こうしてハンドルを預かっていた。それも1年ぶりのことになるが、相変わらず丁寧にメンテナンスされているなと感心してくれた。
そんな赤井の上機嫌な横顔をしばらく呆けて見ていたが、はたと気付く。
「あ、ジョディさん!それに貴方の奥さんも!!」
「放っておけ。どうせこの車には4人は乗れん。ホテルは手配してあるし、子供じゃないんだからなんとかするさ」
「そんな訳には!」
慌ててスマートフォンを取り出して見ると、いつの間にかメッセージが送られて来ていた。
『私たちの事は心配しないで。シュウの話を聞いてあげて。』
「……………」
今さら何の話なんだ。別れ話か。
確かに赤井からの自然消滅を狙った無言のアピールにメッセージをひとつ送っただけで終了した僕たちの関係に話し合いなど無かったけれど。だからってなぜ『別れたかった理由』なんてものを聞かされなくてはならないのだ。
「病院。どこ行くんですか」
「行かない。強いて言えば“降谷治療院”かな」
「ふざけんなよ」
なぜ別れた恋人を家に入れなければならないのだ。
「人前でもいいのか。俺は構わないが君は嫌がるだろう」
「……………」
確かに話の展開においては殴り合いに発展したり激しい口論となるかもしれない。痴情の縺れで警察なんかを呼ばれたりしても困る。
全てを諦めてシートに身を沈め目を閉じた。赤井の運転には全幅の信頼を置いているからこのままふて寝を決め込むことにした。
マンションの駐車場に着くと僕はお構いなしにさっさと車を降りて建物の中へ入った。赤井は後部スペースに投げておいたボストンバッグを持ち、ロックを掛けて僕の背中を追って来る。
「1年ぶりだ」
エレベーターホールを過ぎて階段室に入ったところで追い付いた赤井が、車のキーを手渡しながら感慨深げに言う。
「そうでしたっけ?」
そんな細かいことはいちいち覚えていませんよといった風を装って応える。本当は全てきっちり覚えているくせに。
部屋の前に辿り着いて、今更ながらに逡巡した。赤井の物はすっかり片付けてしまってあるけれど、この部屋には彼の思い出が多すぎて、そんな中へ本人が居たらせっかく落ち着いたはずの自分の恋心が息を吹き返して冷静では居られない気がした。
「…やっぱり、」
もたもたと鍵を取り出すのを躊躇していると、バッグを持っていない方の手をポケットに突っ込んだ赤井は無言で小さな銀色の鍵を取り出しさっさと解錠してしまった。
「あっ!」
この部屋の合鍵をまだ持っているのを失念していた。慌てて赤井の顔を見ると、厳しい表情をしていた。きっとこの期に及んでぐずぐずしている自分に憤慨しているのだろうと思い至って唇を噛む。腹を括ってドアを開けて出来たわずかな隙間にねじ込まれるように、背中から赤井に押されて部屋の中へ。
「ちょ、なに、………んッ!」
ガチャンとスチールのドアが閉まる音より先に壁に押し付けられていた。ボトッと何かを落とした音は赤井のボストンバッグで、それから赤井に口付けられているのだと認識した。
「んっ、んん……ん…」
初めは抵抗したが、それは形だけだと自分でも分かっている。だって嬉しいのだ。彼の意図はまったく計り知れないが、まだ自分にキスしたいという欲求を持っているということで、戸惑いよりも歓喜が勝ってしまう。
両の手首を掴まれて壁にはりつけられているから彼の背中に手を回して抱きつく事は叶わなかったけれど、好きだという気持ちは押し付けた胸の鼓動で伝えた。
深く激しいキスは次第に優しいバードキスになって、最後にコツンと額を合わせた赤井はすまんと言って一歩下がった。
「………いえ、」
何に対して謝るのか、僕の優秀な脳は考える。キスしたことに対しての謝罪であることは勿論だけど、その理由は。
もう終わった関係なのに?
それとも既婚者なのに不誠実だとか?
そんなつもりは無かったのについ、かな?
「待てができずにがっついてしまって……」
ああ。赤井はまだ僕の気持ちが自分に向いていることを知っているのだ。だからキスしたことに罪悪感なんてものはなく、僕が行為を受け入れるのは当然だと思っているらしい。もしかして今日ここに来たのは、きちんと別れるための話し合いなどではなく、新たな関係についての話し合いなのだろうか。これから自分は赤井の一番ではなくて、アメリカ人である赤井が日本に来たときだけ会って関係するいわゆる現地妻的な。
それでもいいと思ってしまった。この3ヶ月でけりを着けたはずの思いはキスのひとつで覆された。
「上がって。長いフライトの上にここまで運転して疲れたでしょう、コーヒー淹れますから」
空港からここまでの硬い表情と打ってかわって穏やかな笑顔で言うと、赤井は嬉しそうに頷いた。
「疲れてはいないが、君のコーヒーは是非飲みたい」
ずっと恋しかったよと腰を抱かれて頬にキスを受ける。
恋しかったのは僕じゃなくてコーヒーなんですか?なんてこれまでだったら突っかかるところだけれど、危うい関係となった今はどう接して良いのか少し戸惑う。
今まで通りでいいのだろうか。それとも嫌われないように、飽きてしまわれないように、機嫌を取った方がいいのだろうか。ごちゃごちゃと考える。
頭の中でぐるぐると考えながら、それでもコーヒーは心を込めて丁寧に淹れる。やっぱり君のコーヒーは美味いなって言って欲しいから。
「うん、やっぱり君のコーヒーは最高だよ」
ひとくち飲んで満足げな笑みをこぼす赤井にほっと胸を撫で下ろして自分もカップに口を付ける。
「でも、俺のカップはどうした?」
「あ…、割ってしまって……ごめん」
赤井に出したマグカップは景品か何かで貰ったシンプルな白いカップで、彼の使っていたカップは押し入れに追いやった箱の中で眠っている。
「そうか……まだ同じ物は売っているだろうか。もう無かったらまた新しい揃いの物を買おう」
少し残念そうに言う馴染みのないカップを持つ赤井の左手に指輪が無いのに気付いた。
「あの、赤井、指輪……」
「あ?……うん、それはまだ、な」
赤井は照れたように微笑んで、カップをテーブルに置くと右手の先で左の薬指を撫でた。
まだ用意してないのだろうか。もしかしたら日本で買うつもりだった?
「そう言えば…やっぱりジョディさんたちに連絡入れないと」
「心配ない。そんなことより俺達のこの先の事を……」
赤井にとってのこの先の僕。
それってセフレ、愛人、不倫相手、現地妻?
なんて呼べば良いんだろう。それともいっそ名前もない関係なんだろうか。それでも。
「僕は、いいですよ」
「本当か!?」
こくりと頷くと赤井はmiracleだのAmazing!だのぶつぶつ言いながらぎゅうぎゅうと抱きしめてきた。確かに身体の相性は最高に良かったけれど、そんなに都合の良い存在が欲しかったのか。
ああ、それとも奥さんとはそっちの方はあまり合わなくて、例えば彼女は不感症とかでセックスレスなのかもしれなくて、それで性欲を持て余しているとか。そうは言っても結婚したとなればワンナイトで適当に発散というわけにもいかないし、遊び相手が本気になって修羅場なんてのも避けたいだろう。
彼にとって日本は肉親の住む第二の故郷とも言える国だし、たびたび訪れる機会もある。そのついでに僕を相手にスッキリできれば確かに好都合と言える。こうして一緒に来日したのに赤井の単独行動を許しているのだって、もしかしたら奥さん公認なのだろうか。夫の相手がどんなやつなのか確認したかったのかもしれない。男である事だって、むしろ子供なんて出来ないから却って都合がいい、そんなふうに考えていたりして。
「彼女も納得済みなんですね」
「うん?アイリーンのことか?ああ、もちろん」
「素敵な方でした」
「まあ見てくれは悪くないな」
身体の相性も重視する国において、それを差し置いても結婚という形をとりたいほど愛しているのか、あの女性を。そう考えたら羨ましくて仕方がなかった。
同僚だと言っていたけど、今までその名を聞いたこともなかった。どうやって知り合ってどうして恋に落ちて、どのように愛を育んだんだろう。そんな事ばかりをつらつらと思っていると、気持ちはどんどん沈み込んでいった。
「…零くん?」
「……だ」
「え?」
「…やっぱりイヤです…。あなたの一番じゃないなんて」
「何を…」
「帰って!」
「おい、」
「帰って下さい! いいから帰れ! もう僕の前に現れんな…!!」
赤井はボロボロと泣き出した僕を抱きしめようとするが、目いっぱい抵抗した。感情のコントロールができなくて、赤井の胸を拳でドンドン叩く。そのたび彼は息を詰まらせるが決して離してはくれなかった。
「う、うぅ~~」
ぎゅっと瞑った目からまたぼろりと涙が零れ落ちた。少し力の抜けた身体は容易く赤井の腕の中に閉じ込められた。背中を優しく撫でる手がまた涙を誘う。
「零くん…なにか誤解があるような気がしてならないんだが」
「…ご…かぃ…?」
「ああ、たぶん。いや間違いなく」
だから泣き止んで、最初からひとつずつ答え合わせをしよう。眉を下げて苦く笑った赤井の顔は涙でぼやけてよく見えなかった。
結論から言えば僕は大きな勘違いをしていた。しかしそれは赤井の過失によるところが大きいと思う。
「それが僕を遠ざけた理由…」
そうだ、と赤井は頷いた。過去に赤井が関わった事件に起因し、その事件に携わった捜査員達の大切にする人間の命が狙われるという事件が起こった。そしてそれは恥ずべきことにFBI内部に内通者がいるらしく捜査状況や手の内は筒抜けで、解決まで細心の注意と時間を要した。
「だから君との連絡を控えた。そして君とは別れてアイリーンと付き合うことになったと噂を流したんだ」
偽装で付き合うなら元カノのジョディさんの方が自然ではという意見も出たが、アイリーンの性的対象は女性で、二人が一つの部屋で一晩過ごしても決して間違いが起こらないからという理由が大きかった。
「君には常に誠実でありたいからな。それに…」
その内通者はアイリーンに想いを寄せていた。たとえ赤井の大切な人の命であっても自分の好きな相手を手にかけることはしないだろうということで適任だったのだ。
「ジョディから聞いたと思うがモバイルもPCもハッキングされていた。逆にそれを利用して炙り出そうと気づかぬふりをすることにしたんだ。君なら2~3ヶ月連絡が取れなくても大丈夫だと思っていたし」
確かに半年くらい平気かもしれない。それはそれで恋人同士という間柄においてどうかと思うが、自分たちならばなんらおかしな話でもない。
「ところが新一に事情を伝える前に彼からの電話を受けてしまって、ハッキングされているから迂闊な事は言えないし、『君とは別れた』と言ってしまって」
すぐに何らかの手段で真実を伝えるはずだったのに、あの日タイミング悪く新一君は僕と偶然出くわしてしまったという訳か。
「新一くん、殺人事件でなくても何かしら呼び寄せてしまう体質なんですね…」
「だからジョディに頼んで君に連絡を入れてもらった。あの頃はもうどこに何が仕掛けられているか分からないから、他人名義のモバイルを使っても核心に触れる話はできなくて」
むしろ、こそこそと隠れているふりをして内通者に聞かせてやった事もある。
「それにしても君から別れのメッセージを受け取った時は肝が冷えた。だが結果的にはハッキングでそれを知った犯人に君との仲が終わったと信じさせる事が出来たのだが」
「あの時の僕の悲しみを返して下さい」
睨みつけると、すまんと謝ってぎゅっと抱きしめてくる。
「でも、大切な人というなら…ご家族は?真澄さんやメアリーさんも命を狙われる対象じゃないんですか?」
「犯人の動機は、自分の恋人を殺されたからなんだ」
だから同じように恋人や配偶者、果ては想い人を狙う。不思議と親や兄弟や子供などに凶行が及ぶことはなかった。
「最終的に片思いの相手もいない場合は肉親が狙われたのかもしれんが…」
犯行声明も残されていたため、自分がターゲットである事はすぐに分かった。だから真っ先に僕との距離を置きその身を守る手段を取ったのだと赤井は言った。
「僕、そんな守ってもらわなきゃならない存在でもないですよ」
「わかってる。君は強い。でも、みすみす危険に晒したくはなかった」
結果的に誤解させて泣かせてしまったから悪手だったけれど、と項垂れた。しゅんとしている赤井なんて滅多に見られないから、少しだけ気分がいい。
「そういえば君、交際届を取り下げたって?早く再提出してくれ」
「勝手なこと言うなよ、根掘り葉掘り訊かれる僕の身にもなれ」
二人の仲を知る上層部は概ね好意的にとらえてくれていた為、交際関係を解消したという報告をする際には残念がってくれ慰め励ましてくれたと言うのに。
「それと、指輪なんだが」
「指輪?」
「俺たちの先の事を考えたいと言ったら、いいと言ったじゃないか。ここに着けてくれるんだろ?」
「え、え?」
「結婚してくれ。指輪は二人で選びたくてまだ用意してないんだ」
ムードもなにもないプロポーズですまない、それはまた後でちゃんと用意するから、今はイエスの返事だけが欲しい。
恭しく降谷の左薬指に口づけて、赤井は愛を乞うた。
「もしかして…オレが事を大きくしてしまってました…?」
ハハハと口元をひきつらせ、半目で大学生探偵は言った。
「そうだな、新一はタイミングが悪すぎた。しかも2回も」
恋人ができたまでならまだしも、偽装とはいえ結婚する事まで僕に伝わってしまったのには大いに焦ったらしい。交際届は取り下げられてしまうし僕がフリーになったと知って集まる見合い話に乗り気なそぶりなんて見せたから、ジョディさんも相当焦ったはず。実はあの時赤井は彼女の近くに居て、スピーカーにしていた会話を聞いていたのだという。
「新一君は悪くないよ。ぜ~んぶ赤井が悪い。小細工しないで最初から僕に事情を話してくれれば良かったんだ」
「途中で内通者がいるという事が判ったんだ。敵を欺くならまず味方からだろ」
トリプルフェイスで散々欺いてきたんだから君にも解るだろ?
茶化して言うからそれはそれこれはこれと頭を叩いてやった。
「まぁでも、結果オーライで」
二人の薬指に輝く指輪を指差して、おそらく世界一トラブルメーカーの大学生探偵はにこりと笑った。
終
「な、なんですかソレ……」
ベッドの上、さぁいよいよというところで降谷は絶句した。甘く垂れた目をこれ以上ないほどに見開いて、凝視するその先は。
赤井の股間、しかもフルモードのそれはおいそれとお目にかかれる機会はない立派なサイズだった。学生時代の大浴場でならば羨望やからかいのネタにされただろうが、今は紆余曲折を乗り越えて和解した後、自然の成り行きのように心を寄せ合い、キスやハグから段階を踏んでゆっくり順調に愛を育んできた二人がようやく初夜を迎えようとしている場面である。
先程までの甘い雰囲気は霧散し、降谷の瞳には怯えの色さえ見えた。
「……すまん」
とりあえず謝ってみた。謝ったところで何も変わらないのだが。
「女性相手でも大変なんじゃ」
今はもう遥か遠くなってしまった、過去に関係を持った女性とのぼんやりとした記憶をたどってみる。降谷自身もそこそこ立派なモノを持っていると自負しているが、お互いあまり経験がなかったせいか苦労した印象の方が強く残っていた。
「いや、女は大抵どうにかなる。なんてったって赤ん坊だって産めるんだからな。……ヴァージンは厳しいが」
サラッと言ってのけた言葉が経験値の高さをものがたっている。降谷はちょっとムッとしたが、過去に嫉妬したわけではない。男としてのプライド的なものだ。
「その厳しいヴァージン相手の時はどうなったんです」
「……結局できなくて、翌日別れた」
「最低だなおい!」
軽蔑の眼差しで睨む。
「いや身体の相性は大事だろ。それにデーティング期間の事だし『別れた』というのもちょっと違ってて……あっちじゃ付き合う前に確かめ合うんだ」
「いや~ん!不潔ぅ!」
降谷は枕を抱き締めて女性を真似た裏声で叫びながらブンブンと首を振った。
「それにその時フラれたのは俺の方だぞ」
「フラれた理由がデカ過ぎるからってなんか悲しいですね」
大きければ良いってもんでもないのか、過ぎたるは及ばざるが如しとはよく言ったものだ。なんだかちょっと気の毒にも思えてきた。
「だろ?だから、な?」
そんな降谷の機微を察知して、付け入るようにたたみ込もうとしてくる赤井だったが……。
「無理です!女でも大変そうなのに、男でその上ヴァージンなんですよ!」
にべもない。それはそうだろう、元々そういう性的嗜好の持ち主ではないし、そこは入れるところではなく出すところだし、入れられるよりは入れたい方である。
「無理はしない。べつに挿入しなくたっていいんだ」
宥める様に言い聞かせるが、降谷の表情は曇ったまま。
「身体の相性って大事なんでしょ…。満足できなくて別れたくなるに決まってる」
「ない!それは絶対ない!」
確かにそうだがそれだけばかりじゃない。降谷の心が自分のものになってくれるなら、プラトニックな関係だって堪えてみせる。
「言い切らない方がいいですよ…」
「君の側に居られるなら、セックスなんて二の次だ。どうしてもしたくないなら無くてもいい。本当だ」
「……そこまでは言ってないけど」
少し俯き加減だった降谷がチラリと上目遣いで視線を寄越す。良かった、彼も肉欲がないわけでもないらしい。
「うん、だから気持ちのイイ事だけしよう。お互い触れ合って昂め合って射精するだけでも立派なセックスだよ」
「…それなら…いいよ」
「優しくするよ」
まずはキスから。
啄むような軽いキスは少しくすぐったい。
「赤井……萎えちゃってる」
ごちゃごちゃ話している内に赤井のぺニスは戦闘モードが解除されてやや大人しくなっていた。
「すぐに元に戻る。……触って、零」
「ん……」
おずおずと出を伸ばして触れると、本当に瞬く間に大きくなった。
「俺はここを……こうされるのが好きだよ」
降谷の手の上に一回り大きな手を添えてレクチャーすると、優秀な男はすぐにコツを掴んで悦ばせた。
「ふふ……いっぱい出てきた」
鈴口から先走りの汁が溢れ出て来たのが嬉しい。気持ちいい?と問いかければ、こくりと頷いて優しく頭を撫でてくれた。
「俺にも可愛がらせてくれ」
まだ少しだけしか兆していない降谷のぺニスを左手で包み込んで擦りあげ、次第に育ってゆく感触を楽しむ。
「はは、大きくなった」
「言うなよ……」
恥ずかしいのか、消え入りそうな声でつぶやいてそっぽを向く。その赤くなった耳に吹き込むように愛を囁いた。
「零……、好きだよ。可愛い」
「可愛くなんかない」
「可愛いよ。食べてしまいたい」
ぱくりと耳にかぶりついて、舌先を捩じ込む。
「や、それやめ……」
ひくりと震えた降谷の口から出たのは制止の言葉だけれど、吐く息は甘かった。
ぴちゃぴちゃと舐ぶりながら左手で胸の頂をこねると、吐息はより一層甘く震えて、その感度の良さに口許が緩む。爪の先でカリカリと引っ掻いたり弾いたり、その度に息をのんで堪えようとする姿に煽られる。弄られて赤く色づいたそこに誘われるように吸い付けばとうとう堪えきれずに声が漏れた。
「あ、んっ!」
降谷は自分の声に驚いて慌てて両手で口を押さえるだけれど、こら、と赤井がその手を外そうとする。
「声、聞かせてくれ」
「や、やだ。こんな野郎の声なんか、萎えるだろ」
「そんなわけない。恋人が自分の愛撫で感じてくれてるんだ、嬉しいし興奮する」
「……ほんと?」
「ああ、だから我慢しないでくれ」
真っ赤になって、うん、と頷く様子が可愛い。
こんな顔は誰にも見せたくないよ。今この空間には二人しか居ないのに、内緒話のように囁けばますます顔を赤くした。
「僕だって、あなたのそんな顔誰にも見せなくありません」
「うん? 俺はどんな顔をしてるんだ?」
「……やらしい顔」
「なら、大丈夫。君にだけだよ……」
やりたいだけの盛りも過ぎて、それなりに経験を積み重ねた。愛を伴わない行為でも快感は得られるけれど、降谷と心を通じ合わせてからはただ触れあうだけでも充分満たされる事を知った。それに今は与えられるよりも与えてやりたい、彼が気持ちよくなってくれるなら自分の欲は二の次でいい。
「そんなの信用できるか」
「shh……お喋りははもうおしまいだ」
「んっ、」
減らず口は塞いでしまえ。
かぶりつくように唇を重ねて舌を捩じ込んで口内を犯す。深いキスにはまだあまり慣れていない降谷はされるがままで、すぐにくたりと力が抜けてしまう。
唾液で光る唇にちゅっと挨拶をしてから首筋、鎖骨へと下りて、胸の飾りは指先で可愛がりながら正中線を辿って臍のくぼみを尖らせた舌先でつついた。
「や、なんかむずむずする……」
もぞりと身動ぎした腰を宥めて、彼の中心を見つめる。視線を感じて恥ずかしかったのか、すっかり勃ち上がったそれは先端から涙をこぼして震えた。
「……見るな」
ぷいと横を向く仕草が可愛い。
見るなと言われても見たいものは見たい。降谷を好きになるまで男のぺニスなど見たいと思った事など無かったが、色も形も自分とは違うそれは綺麗で可愛くて、そしてとても美味しそうだ。
思ったままにパクリと食らいつくと、悲鳴にも近い叫びが耳に届く。
「ひぁ!え、や、ちょっと何してるんだ!やめ、あっ、あぁぁ……!」
無視して咥えたまま飴を転がすように舌を動かせば抗議の声は甘く溶けていく。
「あっ……んん、……は、ぁ……」
痛みには滅法強い降谷は、どうやら快感にはてんで弱いらしい。制止しようと試みるも、赤井の頭を掴んだ手は逆に押さえつけるようで、彼もやはり男なのだなと改めて思う。
自分の施す愛撫に感じ入る降谷の様子に気を良くした赤井は、過去にされたフェラチオの上手かった女のテクニックを思い出しながら実践に移していく。口をすぼめて上下に擦れば、無意識だろう降谷は腰を前後に動かして赤井の口の中で果てた。
青臭くて苦みのある、決して美味くはないはずなのに降谷の一部であったと思えば迷うことなく飲み下した。
「ごっごめんなさい!は、早く!早く出して!」
頬は紅潮しているのに表情は青ざめている降谷は、はぁはぁとまだ息も整っていないのに慌てて起き上がりベッドサイドに有ったティッシュボックスを差し出してくる。
「もう飲んだ」
「ばっ……」
べ、と舌を出して見せると降谷は一瞬硬直したあと、青ざめていた顔を今度は怒りで赤くして枕でバシバシ叩いてきた。
「痛いよ」
「ばか!信じらんない!やめろって言ったのに!」
「嫌だったか? 気持ち良くなかった?」
「……それは……良かったけど……」
ならいいじゃないかと抱き締められちゅっちゅっと額や頬にキスを贈られる。
残念ながら態勢上、達する瞬間の表情は見られなかったけれど赤井は満足だった。自分の股間は痛いほど張り詰めてはいたけれど、これでおしまいにしてもいいと思えるくらい心は満たされて。
「……僕もします!」
意を決して宣言する降谷に苦笑して赤井は緩く首を振った。
「無理するな」
「でも、つらいでしょ……それ」
チラリと股間を見やり、自分の方が辛そうな顔をした。
「あー、……うん。大丈夫。少し扱けばいいから手伝ってくれるか?」
降谷の手を取って自分の中心に導いたが、触れたかと思ったらすぐにパッと離された。
「だめ!赤井はそこで大人しくしてて!」
どうやら何かのスイッチが入ってしまったようだ。ヘッドボードに背を預けさせ投げ出した赤井の脚の間に蹲ると、すぅっと深呼吸して口内に招き入れた。
「…………、」
気持ちいい。
女のナカとは少し違うけれど、温かく湿った感触に快感がぞくりと背中を這い上る。
「ん、……ふ、ぅん……」
口いっぱいに頬張って、先ほど赤井がしてくれたのをなぞるように吸い付いたり擦ったり。でも正直下手くそで、射精するには今一つ決定打に欠けるけど。
なのにとんでもなく気持ちいい。
「零……すごく気持ちいい」
ひょこひょこ健気に動く頭を優しく撫でてやると、咥えたままでへへっと笑う気配がした。
「ちょっと離してくれ」
とんとんと肩を叩くと最後に吸いながらちゅぽんと口を離して、何故だと目で訊ねてきた。
「君の顔を見て達きたいよ」
両脇に手を差し入れてよっこいしょと広げた脚の間に対面で座らせると、互いのぺニスをまとめて包み込む。一度果てた降谷のそれは少し勃ち上がりかけていて、赤井への口淫が降谷にも興奮をもたらしていたのだと知れて嬉しくなる。
「ほら、こうしたら二人とも気持ちいいだろ?」
先走りで濡れたぺニスを最初はゆっくりと擦り合わせて、次第に手の動きを早めてゆく。
「あ、は……ん、きもち…ぃ、」
「あぁ、気持ちいいな。……、れい、キスしよう」
「ん、……ん、ぅん……んー!」
追い詰められて短い呼吸しか出来ないのに唇を塞がれて苦しい。ぞわぞわと這い上ってくる感触が少し怖くて赤井の首に両手を回してしがみついた。
「あ、や、あっ……あぁ!」
「……ッ、」
赤井の左手の中でどくどくと脈打つぺニスが同時に熱を吐き出した。何故だか涙が出そうだった。
そうしてはぁはぁと忙しない呼吸が整うまで、二人は身動ぎもせず抱き締めあっていた。
「……あかい」
早鐘のようだった鼓動がようやく落ち着いて、赤井の首に抱きついていた降谷が肩越しにぽつりと名前を呼んだ。
「うん?」
汗ばんだ背中に回していた手をするりと撫で下ろして続きを促せば、はぁと吐息を吐いて言葉を続ける。
「……気持ちよかったです」
「俺もだよ」
「……でも次はちゃんとしたいです。赤井はこれもセックスだって言ってくれたけど、それでもやっぱり……ひとつになりたいです」
「うん……。うん、そうだな」
降谷の健気な想いに感極まってぎゅうぎゅう抱き締めると、痛いです、と頭を叩かれた。
「hop step and jump」
「え、なに?」
「俺たち。次はjumpだな」
「僕、優秀なんで。うんと研究して努力したらきっと上手くなります」
「そうだな。でも一人で頑張らないでくれよ?俺以外の人間を頼るのもダメだからな?」
怖い顔をして釘を刺せば、呆れた顔で当たり前でしょうとまた頭を叩かれた。
終
あなたが好きです。
ふるやの告白から始まった関係だった。
ありがとう、と赤井は言った。他には何も、ただそれだけだった。
振られたのだと思った。罵倒や嫌悪されないだけましだったな、とも。
タイミングが良いのか悪いのか、ちょうどその時走ってきた空車のタクシーを停めて。
その夜の二人はそこで別れた。
それは初めてサシで飲んだ夜のことだった。誘ったのは赤井だったが、良い機会だと自分の気持ちを伝えた。
ずいぶん長い間、時に形を変えてくすぶっていた赤井に対する執着心をもて余していたから。最初の対抗心は程なく淡い恋心に育ち、想いがあるが故に苛烈な憎しみに変わったそれは、真実を知ってからはどうしようもない憧憬と育ってしまった。
ピリオドを打ちたかった。この不毛な恋心に。
赤井の恋愛対象は女性だし、自分を殺そうとした人間を好きになってくれるはずがない。和解後にこうして親交を深めようとしてくれるのは大人としての余裕や配慮であって、本心から降谷と仲良くなりたいなどと思っている訳ではないはずだ。
それでもやっぱり二人きりの時間は嬉しかったし、楽しかった。最初で最後かも知れないから、できるだけ素直になったつもりだ。
だから最後に自分の気持ちを伝えることにした。そして振られて、少しだけ気まずい間柄になって、一定の距離を置いて接するようになれば、踏ん切りがつけられると思っていた。
なのに赤井の態度は変わらなかったし、それどころか時間を気にせずゆっくり飲みたいからと理由を付けて宅飲みをするようになった。降谷の家はあまり他人の出入りをよしとしないし合鍵も渡せないので、もっぱら赤井の家を訪ねることになった。
その頃からスキンシップが増えて、気が付けば抱かれていた。いや、気が付けばというのは嘘で、たぶん物欲しそうな顔をしているのに赤井が同情してくれたのだろう。
初めての夜は、結果論としては失敗だった。お互い男同士のセックスの経験もなく、準備もろくにできていない状況で。手や口でお互いを高め合って吐き出すものを吐き出しただけだったけれど、降谷は今まで生きてきた中で一番幸せだと思った。
二度目なんてないと思っていたら、その機会はすぐに訪れた。今度は赤井が必要なあれこれをちゃんと準備してくれていて、次はないと思っていたけどほんの少しばかり期待を抱いていた降谷もそれなりに知識を駆使した結果、最後まで致すことができた。受け入れる降谷の身体はキツかったけれど、苦痛だけでなくちゃんと快感も拾うことができたし、何より赤井が満足してくれたことが嬉しかった。今まで生きてきた中の一番の幸せはあっさりと更新された。
この関係は何なんだろう。
浮かれていた期間を過ぎて冷静になれば、ふとそんな風に考える事が増えた。キスもセックスもするけど、愛の言葉を交わしたこともない。最初に好きだと言ったあのひとことだけ。
ありがとうというのは、どういう意味だったのだろう。こうしてよく分からないが関係が続いているのだから拒絶はされていないし、セックスまでするのだから嫌悪はされていない。いわゆるセフレというものなのだろうかと考えてみたけれど、そこまで割り切った関係でも無いように感じる。何より大切に抱いてくれるし、セックス以外の時間も過ごしている。休日も予定を合わせてくれるしあれだけモテるのに他に女の影もない。
恋人に限りなく近い関係は、自分にはもったいないはずなのにどこか息苦しくて居心地が悪かった。
だから、つい、口に出してしまった。彼の本当の気持ちを知りたくて。
「僕たち…もう終わりにしませんか」
「…なぜ」
たった今セックスしたばかりの、しかもまだ腕の中に囲っている相手にそんな言葉を投げかけられるとは思ってもみなかったのだろう、少しだけ目をみはった赤井は慎重に探るように降谷を見つめた。
降谷は腕の中からするりと抜け出して、ベッドの下に投げ出されていた下着を拾った。
「あなたとはもうセックスしたくない」
「…身体がつらかったのか? 無理強いをしたつもりはなかったが」
確かに赤井はいつも優しく丁寧に扱ってくれた。今夜だって面倒を厭わず、ぐずぐずに溶けて降谷から挿入れて欲しいと懇願するまで愛撫して。まるでそこに愛情が込められているかのような錯覚に陥りそうだった。でも。
「心が伴わないから」
「それは…」
ほらね。
降谷が心の中で呟いた。赤井は眉間にしわを寄せて、チッと舌打ちをした。
「それで君は自由の身になりたいのか」
「そうですね」
「…わかった」
赤井はくるりと壁際に寝返りを打ち背中を向けた。
素早く衣服を身に付け、降谷はこの赤井の部屋に持ち込んでいた私物を鞄に詰め込んだ。少しずつ減らしていた私物はもうそう多くはなく、ビジネスバッグになんとか納まった。
「すみませんが僕が使うために買ったマグカップや歯ブラシは捨てて下さい」
「……あぁ」
「短い間でしたけど、楽しかったですよ」
「………」
「ありがとうございました」
「………」
「さようなら」
赤井は最期まで振り向かなかった。程なくしてドアの閉まる音がして、ようやく身体を起こした。はぁ、とため息を吐いてベッドから降りてリビングの上の煙草の箱を手にしたが、生憎と中身は空っぽだった。買い置きを棚から取り出すのも面倒で、側にあったバーボンの瓶を掴んだ。
バーボンは降谷のコードネームだった。スコッチが飲めなくなってからはバーボン一筋で、皮肉なものだと自嘲した。
瓶を持ったまま立ち上がり、窓の外を見下ろす。ちょうど降谷がこのマンションのエントランスから出てきたところだった。
相変わらず背筋はピンと伸びていたが、少し足元が覚束ない。あれだけ時間を掛けて抱いた後なのだから、まだ下肢に力が入らないのだろう。
それなのに出ていくのか。ならばなぜ今夜抱かれたのだろうか。
心が伴わないと降谷は言った。
自分を好きだと言ったはずなのに、別に好きな人が出来たということか。そいつとはもう心を通わせたのだろうか。ならば祝福してやりたい。
けれどもし、まだ降谷が一方的に想っているだけで、もし上手く行かなかったら…。そしたら自分の中の元へ戻って来てはくれないだろうか。
「…あばよ」
降谷はさようならと言ったが、同じ言葉を返したくはなかった。本当は認めたくないから、投げやりな言葉で見送った。
シャッと乱暴にカーテンを締めてソファーに戻った。一拍遅れて振り返った降谷が赤井の部屋の窓を見上げて一筋の涙を溢したのを知ることもなく。
二人が関係を終わらせてからもうすぐひと月が経とうとしていた。赤井はあれから密かに降谷の様子をうかがっているが、新しい恋人が出来た様子は見受けられない。誰かにアプローチしている様子もない。
しかしながら、自分達の関係も誰にも悟られなかったことだし、あの組織でバーボンとして最後まで正体を見破られなかった優秀な彼のことだから、他の誰にも気付かれないように物事を進めているのかも知れないが。
赤井は正直のところ焦っていた。
格好悪いところを見せたくなくて、降谷からの別れをおとなしく受け入れて見せたけれど、彼を手離すなどできるわけがなかったのだ。
告白こそ降谷からだったが、赤井も彼のことを特別に思っていた。それが恋情だと気付いたのは告白されたのが切っ掛けだったが、自分も彼を好きなのだと気付いてしまえば過去のあれやこれやも辻褄が合うことばかりで。
一度は降谷の気持ちを尊重してやろうと思ったが、やっぱり他の誰かに取られたくないし、祝福なんてしてやれない。
もう一度、みっともなくすがってでも彼の側に居ることを許されたい。
「降谷くん」
「…あかい」
「話があるんだ。今晩少し時間を取れないか」
「今晩、ですか?…いいですけど」
言葉を交わすのは久しぶりだった。
会議や廊下で顔を合わせることは何度か合ったが、すぐに目を反らされてしまうのでこの数週間は挨拶すら交わすこともなかったから。
「俺の部屋でいいかな」
「…どこかのお店じゃダメなんですか?」
「周りに他人がいるところではちょっとな」
たとえ個室でも全く人の出入りがないとは言えないし、そのたび話が中断されるのも困る。
「わかりました。何時頃に行けば良いですか」
「何時でも構わないよ。夕食はどうする? 一緒に食べるか?」
「いえ、済ませてから行きます。9時くらいで良いですか」
「あぁ、ありがとう。…待ってる」
無事に約束を取り付けることができて、赤井は安堵した。思わずこぼれた柔らかな笑みに降谷は目を奪われた。
(あんな笑顔初めて見た…)
戻って行く赤井の背中を見送りながら、トクトクと脈打つ胸を押さえた。
「やぁ、来てくれてありがとう」
「…お邪魔します」
勝手知ったる部屋だが、これまでのように遠慮なく上がることなどしない。赤井に促されて初めて靴を脱ぎ、赤井の後を付いていく。リビングのソファーに座って待つように言われ大人しく腰を下ろして待っていると、キッチンに消えた赤井が少ししてからコーヒーを手に戻ってきた。
「インスタントで悪いが」
「…いいえ」
差し出されたコーヒーの入ったマグカップは、降谷の使っていた物だった。お互いの瞳の色に合わせたお揃いの。
(捨ててなかったんだ…)
一瞬だけ嬉しさが込み上げたが、別に他意はないのかもと考え直した。捨てるのが面倒だったからそのままだったのかもしれない。
「話ってなんです」
「うん…」
単刀直入に切り出せば、赤井は困ったような笑顔で言葉を濁す。
「僕、そんなに暇じゃないですよ。話がなければ帰ります」
「あぁ、いや、すまん。その…君はもう新しい恋人が出来たか?」
「は?……それってどういう事ですか?」
「そのままだよ。新しい恋人がいるのか知りたかった」
「新しいも何も……」
恋人なんていたことなんてない。キスもセックスも何もかも赤井が初めてだったけど、セフレだったのだから。
「いるのか、いないのか」
「いませんよ」
「!そうか、なら良かった」
「何が良かった……あっ、」
「ん?」
「……あなた、また元に戻りたいと思ってるんですか」
降谷の顔が曇った。だがここで怯んではいけない。恥や外聞など捨てて愛を乞わなくてはならないのだ。
「ああ、そうだ。俺はやっぱり君が」
「冗談じゃない!馬鹿にすんのもいい加減にしろよ!誰が戻るかよ!もうセフレなんて真っ平ごめんだよ!!」
「……は?」
「は?じゃねぇよ!セフレなんて不毛な関係やってられっかよ!」
「待て、待て待て待て待て!降谷くん!セフレってなんだ、誰が誰とセフレなんだ!?」
「あんたと、俺、だよ!」
ビシッ、ビシッ、と指差し確認しながら断言され、赤井の頭の中はオーバーヒート寸前だった。
待ってくれ、と左手を挙げた赤井が弱々しく言い、ふぅとため息を吐いてすっかり冷めかけたコーヒーを一気に飲み干した。その様子を見て降谷も少しクールダウンして、同じようにコーヒーを飲み干す。
「君は、俺をセフレだと思っていたのか?」
「思いたくなんかなかったですよ。でも事実だ」
「それは違う。俺は君の恋人だと思っていた」
「え、嘘だ……」
「嘘じゃない。……じゃあ君が終わらせたかったのは、セフレという関係?」
「……そうです」
「恋人同士なら、終わりにしたいなんて言わなかった?」
「……本当に恋人、だったなら」
「本当に恋人だったよ。俺はさっき元に戻りたいと言ったよな? セフレなんかじゃない、恋人同士に戻りたいんだよ」
赤井はとびきり優しく微笑んで、降谷の身体を大切に腕の中へ囲った。
「……僕のこと、好きなんですか」
「好きだよ。愛してる」
目を真ん丸にした降谷が嘘みたい、なんて呟くから。嘘じゃないかどうか確かめてみようと唆して、ベッドルームへと誘い込んだ。
「それにしても、なんでそんな勘違いをしたんだ」
たっぷりと愛し合った後、離してやるのが名残惜しくて降谷の身体を腕に閉じ込めたまま、赤井が問いかけた。
「だって……。あなたから好きだとか愛してるとか、そんなの言われたことないし……」
「あー、……うん、そうだな。すまない。あっちじゃ付き合う前に身体の相性も確かめるし、なし崩しに付き合うのが当たり前で……それに俺は言葉にするのはあまり得意でなくてだな」
照れ臭くて、と左手で顔を覆った。
「悪かった。これからはちゃんと口に出して伝える」
「いいです。もうちゃんと赤井が僕のこと好きでいてくれてるって分かったから」
降谷はそんな殊勝なことを言ってくれたが、反省しきりの赤井はきちんと言葉にしようと誓った。
「言うよ。だから君も不安になったり言いたい事があったらちゃんと言ってくれ」
今回のように誤解されて勝手に結論を出されて自己完結されたらたまったものじゃない。
「……はい」
自分の暴走体質に自覚のある降谷は、少しばつが悪そうに頷いた。
「それだけか? この際だから全部解決しておこう。他に何かない?」
「あ、……うん……でも」
「言ってくれ」
「えっと……だいぶ前の話なんですけど」
降谷がぽつりぽつりと話した内容に、赤井は再び頭を抱えた。
その日、降谷は赤井を探していた。まだ自分達は恋人同士だと信じていた頃のこと。
FBIが間借りしているスペースへ出向いたら、少し前に煙草休憩に行ったと聞かされたので、喫煙室へ向かった。
廊下の先、そこの角を曲がれば喫煙室というところで、賑やかな英語の会話が耳に届いて足を止めた。できれば二人で話したかったので、他に人がいるなら出直そうと思ったからだ。
しかし、次の会話を聞いて、思わず足音を忍ばせて近づけるだけ近づいて耳を澄ませた。
『なぁ、今夜飲みに行かねぇ?』
『行かない』
誘ったのは赤井の同僚で、断ったのが彼だ。
『シュウ、お前最近付き合い悪いな』
『元から良くはないだろ』
『今まで以上にって事だよ!』
『お前らと飲みに行く暇があったら他にやることがあるんだよ』
『ひでぇ言いぐさだな!……なぁ、もしかして彼女が出来たとか?』
ドキリとした。赤井はなんて答えるのだろう。
『……彼女なんてもんはいない』
少し間を置いて赤井はそう答えた。確かに自分は“彼女”ではない。だからそう言ったのであって、質問が恋人が出来たのかだったらきっと出来たと答えたのだろうと、なんとなくモヤモヤとする胸の内を宥めるように自分に言い聞かせる。
『そうか、なら今日は付き合えよ!いい店があるんだ、客の女のレベルが高くて、それでいてノリが良いって言うかさ、ソレ目的で来てるから』
あぁホラ、フリーだと誤解されてしまったじゃないか。彼女はいないが恋人はいると言ってくれれば良かったのに。
でも同性同士だから、あえて口にしないのかもしれない。偏見の少ないアメリカでも嫌悪する人は嫌悪するだろうし、この同僚はそういうタイプなのかもしれなくて、だから赤井は伏せたのかもしれない。
『必要ない。セックスする相手には困っていない』
(えっ、)
『なんだ、彼女はいないのにヤル相手はいるのかよ。流石、モテる男は違うねぇ!』
『からかうな』
姿は見えないが、赤井がうんざりしているのは声色で分かる。降谷は細心の注意を払って後ずさりすると、充分離れてから駆け出した。
赤井にとって、自分は恋人なんかじゃなかった。ただのセックスをする相手で、それはつまりセフレってことだ。道理で甘い言葉なんて無かった訳だ。妙に納得した。
それでは何故、黙っていても女が寄ってくるほどモテる赤井が男の自分を抱くのだろう。初めはきっと同情だったのかもしれない。それで、ヤってみたら意外と具合が良くて、妊娠する可能性もないとくればセフレとして好都合だった訳か。
不思議と涙は出なかった。それでも側にいて抱いてもらえるなら、セフレに甘んじることもやぶさかではない。たとえそこに愛はなくても、赤井はセックスの相手に優しくする主義らしいし、自分もセフレと割り切ればいい。
そうして恋心に蓋をして続けた歪んだ関係は、次第に降谷の心を痛め付け、結局は終わりを選んだのだった。
「君の心情と経緯は理解したが、ひとつ言わせてもらってもいいか」
話を聞き終えた赤井が神妙な表情で降谷に向き合った。
「はい」
「俺は確かに『セックスの相手に困っていない』と言ったが、それはつまり、『恋人がいる』という意味だ」
真面目な顔で言い切った。しかも何故そんな誤解をするんだとでも言いたげな。
「はぁ!? あのねぇ、おそらく、いや絶対10人中9人は 僕と同じ意味に受け取ると思いますよ!」
「ああ、だから反省している。俺が悪かったんだな、謝るから許してくれないか」
しゅんとした赤井なんて珍しいものが見れて、少し気分が良くなった。
「それに、終わりにしたいって言った時に引き止めてくれないのも悲しかったです」
「それは君に非があるぞ。心が伴わないからなんて言うから、君の気持ちが無くなったんだと誤解した。他に誰か好きなヤツが出来たんだと思った。ショックだったし悲しかった。でも君の気持ちを尊重して上手く行ったなら祝福してやらないと、と」
「なに勝手に想像してるんですか」
「君の言葉が足りないからだろう。……それに、格好つけたかったんだよ」
照れ臭そうに言うから、降谷はちょっと笑って提案した。
「じゃあ、過失の割合は50:50でいいですね?」
腕の中に囲われたまま、上目遣いで見上げれば。
「そうだな」
蕩けるような笑顔で応えてくれた。
終