わたしたちの町を紹介します
わたしたちの町を紹介します
歴史や史跡・文化の様々
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🔵櫻岡神社
櫻岡神社は、戦国時代に渡邉筑後守光が大友宗麟の招きで、この一帯に居を構えた時、永禄元(1558)年肥前国鬼子嶽城から移したのがはじまり。当時は「蛭兒(えびす)宮」と呼ばれ、四日市切寄(小倉池付近にあった城)に鎮座した。その後、慶長13(1608)年市屋敷に祀り、地名にちなんで毎月4日に市を開いた。元禄10(1697)年に細川氏の御茶屋であった現在の地に社殿を造営する。さらに、当社境内に天満社や稲荷社を遷座して四日市村の総鎮守となった。毎年4月の稲荷祭には子供神輿。9月の天神祭には神輿と山車の巡業。12月の蛭子祭では、御供物行列で賑わう。
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🔵宇佐海軍航空隊の戦争遺構
宇佐海軍航空隊は、昭和14(1939)年10月1日、航空母艦に載せる艦上機で、急降下爆撃や魚雷を投下する練習航空隊として開隊する。当時、大分県では昭和9(1934)年に佐伯海軍航空隊、昭和13(1938)年には大分海軍航空隊、宇佐は3番目の開隊となる。隊員は、当初800名。終戦の解隊時には、約6100名であった。昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争の開戦となる真珠湾攻撃においては、宇佐で艦上機の発着訓練をした航空母艦「翔鶴」「瑞鶴」も参戦している。宇佐海軍航空隊の初代飛行隊長で教官でもあった高橋赫一少佐は、真珠湾攻撃時に九九式艦上爆撃機で飛び立ち第一弾を投下(ハワイ/フォード島)したといわれており、また宇佐で訓練を受けた隊員も数々の戦果を上げている。しかしながら、戦争末期、戦況が悪化すると特別攻撃隊(略称:特攻隊)が編成される。八幡護皇隊は、昭和20(1945)年4月6日に29機、12日に26機、16日に20機が前進基地の第二国分基地へ進出。昭和20(1945)年4月28日には、八幡神忠隊3機、5月4日に八幡振武隊3機が出撃。沖縄周辺海上の 敵艦船に突入し154名もの若い命が失われた。さらに、宇佐海軍航空隊基地は、昭和20(1945)年3月18日に米艦載機による初の空襲を受けて以降、終戦1週間前の8月8日までの間、計11回もの空襲を受け近隣住民にも多くの犠牲者が出た。壊滅的な被害を受けた航空隊は、同年5月5日付で解隊となる。現在、残されている有蓋掩体壕は10基ある。宇佐市は、平成7(1995)年3月28日、その中の一基「城井一号掩体壕」を宇佐市史跡文化財に指定し保存することにした。国内の「昭和の戦争遺跡の文化財指定」は、平成2(1990)年、沖縄の「ひめゆり部隊」の「陸軍病院の防空壕」が最初で、これに続いて全国で二番目に指定された。広島の原爆ドーム指定は、その後となる。 宇佐海軍航空隊があった周辺には、機銃掃射の痕が残る落下傘整備所や機体整備場、電信・通信室など、数多くの戦争遺構が残されている。終戦記念日の8月15日には、戦争で犠牲になられた方々を追悼し、戦争遺構の保存や平和の大切さを語り継ぐことを目的に、「平和のともしび」が市・地域住民・子供たちが中心になって、毎年開催されている。
🔵からあげ専門店発祥の地
昭和30年代、中華料理店「来々軒」より、から揚げのつくり方を受け継いだ「から揚げ庄助(店主:津々見一男)」は、日本で初めてテイクアウトの専門店を開店して以降、「から揚げ専門店発祥の地」として多くのファンから愛されている。当初のから揚げは、鳥モモが中心であったが、徐々に様々な部位の商品へと変わっていく。現在は、主に醤油系と塩系に分かれ独自の味付けで争っている。平成23(2011)年から始まった日本唐揚協会が開催する日本で一番うまいカラアゲ屋さんはどこ?本当にうまいカラアゲ店を決める「からあげグランプリ」では、この地域のから揚げ店が何度もグランプリや金賞に輝いている。市内では、カラアゲ専門店や食事処など約50店舗で楽しむことができる。
🔵浄土真宗の東西別院
東西別院の歴史は、永禄5(1562)年、キリシタン大名の大友宗麟が宇佐八幡宮の焼き討ちなどに嫌気がさした渡邉統述の出家から始まる。統述は、近隣の森山教覚寺の勧誘によって大阪石山本願寺に参詣し11世顕如門主の法弟になり、法名「専誉」を賜る。専誉は、弟子の「良珍」を伴い帰国すると廃寺となっていた山本村の天台宗名刹虚空蔵寺の中に「専誉庵」をもつ。これが別院の起こりとされている。その後、時がたち戦国時代の末期、四日市に勢力を張った渡辺一族の釈正願は、東本願寺を本山とする真勝寺を開基した。浄土真宗寺院として発展していた18世紀中頃、住職宗順の不行状が原因で内紛が起き、宗順が西本願寺に改派したことから、末寺や門徒を巻き込む大騒動となり、時代劇で人気を博した寺社奉行の大岡越前の裁きを受けることになる。その結果、真勝寺は東本願寺の掛所となった。これに対して西本願寺の末寺や門徒も協力して、西本願寺の兼帯所を建立する。これが四日市の東西別院の起源である。大岡越前の判決では、遠島・追放・獄死など多くの犠牲者が出たが、東西別院は九州内の同派の寺院を総監する九州御坊として、細い道を介して並び立つ特殊な門前町を形成することとなった。なお、文政8(1825)年に完成した東本願寺本堂は、明治維新の動乱で焼失し、現在の姿は、明治13(1880)年に再建されたものである。
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🔵四日市人形
明治から昭和20(1945)年頃まで、四日市で作られた土人形。東西別院へお参りに来た人たちのお土産や商売繁盛など、縁起物として売られていた。作っていたのは、財津兵助・鉄三郎が営む「人形屋」。歌舞伎役者やキツネ、七福神やお面など様々なものがあった。櫻岡神社に奉納(昭和2(1927)年8月) されている四日市人形は、現存する物では最も古い。
🔵四日市文化伝承クラブ
四日市文化伝承クラブは、四日市の歴史や文化を幅広く伝えるためパンレット製作や四日市人形の復活、長年途絶えていた久々婆餅の再現など様々な町おこしの活動を展開している。また、宇佐市観光協会と連携して、観光ガイドの育成にも努めており、県内外から訪れる観光客に対し、四日市の街並みや宇佐神宮などを紹介する、おもてなしの役割も担っている。
🔵えびす通り
櫻岡神社の鳥居の額塚には、「蛭兒宮」と刻まれている。「蛭兒(蛭子)」は、「えびす/ヒルコ」とも読む。『日本書紀』によると、日本神話に登場する最初の男女の神様であるイザナギとイザナミは、日本を形成する島々やたくさんの神様を産む中で、一番最初に生まれた神様が「ヒルコ」と伝えられている。ただ、ヒルコは、ヒル(蛭)の様な不具の子であったため日本で最初にできた島とされるオノゴロ島から葦の舟に乗せ流された伝説がある。「えびす様」は、釣り竿と鯛を持っている。古くは海からやってきた「大漁追福」の来訪神と拝され、時代と共に「商売繁盛」「金運招福」や「五穀豊穣」をもたらす神として信仰されてきた。因みに、えびす様は七福神の中で唯一日本由来の神様でもある。ここ「えびす通り」には、様々な「えびす様」が鎮座している 。
*拍子えびす(夫婦円満 縁結びを叶える)
・2尊が道路を挟んで祀られており、向かって左のえびすからお祈りする。
*したりえびす(幸運と宝くじ運を高めます)
・見通しの良い5円玉を奉納して、お祈りする。
*荷ほどきえびす(夢を叶える)
・荷物をえびす様の前に置いてお祈りすると、夢が叶う。
*福呼びえびす(安らぎ安心)
・東本願寺に一礼 櫻岡神社に一礼して、自分の家族の「心の安らぎ」を祈りする。
*振り返りえびす
・十宝山大乗院の横は、東西を貫く旧豊前日向街道と大牟田から通じる麻生古道の交差点だった。この場所は町が眺望できることから、四日市に入るも出るも己を振り返らせるという伝えから名前が付いたとされる 。
🔵鬼のミイラ
十宝山大乗院は、全身そろった三本指のミイラが祀られている。元々は、個人の所有物を大正14(1925)年に檀家が当時5500円で購入したとされている。(このミイラは下関市で売買された売渡証書が存在している。品名は鬼形骨)。九州大学が60年程前に学術的な調査を行った結果では、ミイラの骨は人骨、女性で三本指の骨も作り物でなく骨自体が三本に分かれているとのことであった。
🔵葛原古墳
葛原古墳は、5世紀後半の築造。標高約10m、駅館川西側の平地に立地。直径約53m・高さ約6mの円墳。明治時代に墳頂部で発見された竪穴式石室からは、銅鏡や玉類、甲冑など数多くの副葬品が出土した(市指定有形文化財)。昭和32(1957)年国指定史跡に指定。現在も墳頂部に露出した石室が覆屋で保存されている 。
🔵陣屋門
【四日市陣屋門の歴史 】
この地は、もともと中津藩/小笠原氏八万石の領地であったが、三代小笠原長胤の時に過酷な年貢徴収などで、領民が困窮する事態となり、江戸幕府は半地召し上げ、永禄13(1700)年江戸幕府によって四日市陣屋が築かれた。当初は、天草代官所の出張陣屋。その後に、五万石余りの天領/日田代官所の出張陣屋となり、明治維新まで続く。
【陣屋とは】
江戸時代の幕藩体制における大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷。また、徳川幕府直轄領の代官の住居および役所が置かれた建物のこと。
【御許騒動の歴史と現在】
明治元(1868)年1月14日、鳥羽伏見の戦いの直後、佐田秀(さだひずる/安心院の佐田出身)ら花山院隊(勤皇倒幕派)は、四日市陣屋を襲いこれを占領した。大砲二門と食糧、軍資金を奪い、東本願寺に放火、奪った武器を手にした志士たちは、本拠とした御許山(宇佐神宮の奥の院)に錦の御旗を立て、ひきこもる。この騒動に、見かねた同志の長州報国隊が出張し、花山院隊と交渉。花山院隊に入った長府報国隊の脱走兵の引き渡しを強く要求。これに幹部で脱走兵であった若月隼人が、仲間の助命を求めその場で切腹。話にならないと退出しようとした「佐田秀」も背後から惨殺。直後に、御許山を攻撃し花山院隊を壊滅させ、宇佐で言う「御許騒動」が終結する。焼失を免れた陣屋門は、その後、宇佐郡役所、宇佐郡高等小学校、群立農学校、県立高等女学校、県立四日市高等学校と変遷する中、それぞれの正門として使用されてきた。なお、錦の御旗は、安心院折敷田の重松家を頼り追撃の手を逃れ、現在も重松家によって大切に保管されている 。
🔵護国神鎮座墓地公園
南城井には、「至誠満古」と刻んだ塔のもとに130基もの慰霊碑が整然と並んだ墓地公園がある。その碑には、地元の戦没者の氏名・年齢・出身地区と共に、明治10(1877)年西南戦争(西南の役)以降から大東亜戦争での戦没地も刻まれており、慰霊をしつつ戦争の歴史を学ぶことができる。しかし、遺族らの高齢化で公園の管理が困難となっており、碑の多くは、ひび割れなどの劣化が進み通じる参道も荒れつつあり、保全管理が必要となっている 。
🔵豊州鉄道
明治30(1897)年、現日豊本線が小倉から長洲駅(駅名はその後、宇佐駅⇒柳ヶ浦駅に改名)まで開通した当時、豊前善光寺駅は、四日市駅と呼ばれていた。豊州鉄道は、大正3(1914)年より豊前善光寺駅から四日市の町中を通り、院内の二日市までの間(15.5キロ)を開通させた。その後は玖珠まで延線する計画であったが、昭和26(1951)年のルース台風による甚大な被害により、復旧を断念し37年間続いた路線は廃止となった。写真は、当時、現宇佐産業科学高等学校の実習風景から写された豊州鉄道。下の写真は、四日市町駅があった場所で、大分交通㈱のバス整備場が隣接し四日市バスターミナルへ変わった昭和50年代の風景 。
🔵おとりこし
浄土真宗の開祖/親鸞聖人の命日は1月16日だが、東西別院は、法要(報恩講)を本山の本願寺より1ケ月早めて12月に開催する。おとりこしの名称は、時期を早めて催す言葉の「取り越し」に敬語の「お」が付いたとされる。左の写真は、おとりこし名物の「玄圃梨/けんぽなし」。かつては露店で束にして売られていた。ほのかに梨の食感と味がして子供たちが好んで食べていた 。
🔵伊勢山塾跡
天保10(1840)年から明治2(1869)年までの間、若者に勉学を教える場として櫻岡神社の敷地内に伊勢山塾を開いた。これが宇佐地域の学問発祥とされる。大正12(1923)年8月、尾立維孝(安心院津房出身/明治32(1899)年台湾総督府法院覆審法院検察官長)らにより、かつて塾を開いていたとされる場所(国道10号線沿の南側/川島不動産の裏)に石碑が建立されている。
*初代熟長・・・国学者、敷田年治(賢人の紹介欄参照)がこの地に学問塾を開く
*第二代塾長・・・野本白厳は、海防論、啓蒙思想家
*第三代塾長・・・青木綿村は、宇佐の郷党に読み書きを
*第四代塾長・・・長梅外と三州(長男)は、勤王思想、漢学者
*最後の五代塾長・・・白石照山は、儒学者、漢学者。
🔵盆踊り
盆踊りは、かつて自治会毎に初盆家の家々を回り、深夜まで供養踊りをしていた時代があった。盆踊りには、マッカセ、左衛門(レソ)、浦部の唐芋など口説き文句は20曲ほどある。近年は、寄せ踊りが一般化しているが、高齢化と共に太鼓たたきや口説きをできる人が減少し中断している自治会もみられ、後継者の育成が急務となっている。写真は、四日市北地区で唯一催す西町区盆踊り風景 。
🔵どんど焼き
どんど焼きは、「正月飾りを目印に家にきてくださった年神様を、正月飾りを燃やした煙とともに見送る」という意味や、無病息災、家内安全、商売繁盛、五穀豊穣などを願う意味もあるとされている。一般的には、1月15日または1月14日〜1月16日の3日間を「小正月」と呼び、その間で実施されることが多い。四日市北地区では、吉松区と川島区が1~2月にかけて現在も行われている 。
🔵おせったい
「おせったい」は、弘法大師の信仰から生まれた風習・行事。旧暦3月と7月の21日に大師の像をまつり、参拝に訪れる人は誰にでも菓子等を振舞い接待する。おせったいの場所には、赤い旗がかかげられ、地区内は、毎年4月に「おせったい」する家がある。子供たちはそれらの家々を回り、お菓子をもらうのが年中行事の楽しみの一つであるが、近年、お世話をする方々の高齢化に伴いおせったいも減少傾向にある。
🔵四日市商店街振興組合
四日市商店街振興組合は、平成11(1999)年4月1日 設立し、25年を迎えている。この間、商業基盤整備事業では、街路灯66基・モニュメント1基を整備・中心部道路舗装および側溝の改修。また、街なみ環境整備事業にも積極的に取り組むとともに、七夕祭りなど年間を通じて各種イベントを開催し、商店街の活性化に努力している。
四日市北地区にある公共施設など
ここは、四日市公民館を併設している。1階は、宇佐市役所 四日市出張所があり、近隣する住民にとって利便性の高い施設である。また、緊急避難場所としても使用するなど、多目的に活用されている 。
うさ児童館(写真上)は、平成27(2015)年にオープンした児童福祉施設。小さな子どもから高校生まで、遊べるスペースや乳幼児の親子がゆっくり過ごせる子育てサロンもあり、人気の高い施設である。また、さんさん館(写真下)は、文化、教養、スポーツ、研修など様々な教室が開催され、市民の生きがいやふれあいの場所として多くの市民が利用している 。
響山は、戦国時代に渡邉筑後守光が大友宗麟の招きで居を構えた時に築城した地とされ、今では市民の憩いの場として親しまれている。特に桜の季節には、小高い丘が桜色に染まり、梅雨の季節には、約3,000本のあじさいが公園を彩り人気スポットでもある。なお、この公園は、「四日市門前まちづくり推進協議会」の皆さんが、年に3回、隣接する小菊池周囲の草刈り・清掃を行い景観の維持管理に努めている。
多目的広場には、いくつかのモニュメントが設置されている。
*山頭火の俳句碑・・・山頭火は、宇佐神宮に昭和4(1929)年と13(1938)年の2回参拝に訪れている。その前日に四日市に泊まっているが、お酒を飲みすぎて歌を残している。「秋の空、高く巡査に、しかられた」。
*麻生豊の「のんきなとうさん」・・・明治31(1898)年8月9日生れ。横山の出身。大正12(1923)年に報知新聞社入社し漫画記者になるが、その年の9月に関東大震災に遭う。この時、編集長から人心を慰め、世の中を明るくするような連載漫画を描くよう依頼され、「ノンキナトウサン」の連載がはじまる。連載は、大正15(1926)年に海外へ外遊するまでの間、600回以上続いた。
*カラアゲ専門店発祥の地・・・カラアゲ探検隊の有志4名により、後世に末永く四日市の地がカラアゲ専門店発祥の地であることを記すために建てられた石碑。
四日市北地区に関係する賢人を紹介
🔵国学者:敷田年治 (しきだ としはる/1812年9月1日- 1902年1月30日)
宇佐市下敷田にある二葉山神社の禰宜であった宮本兼継の次男として生まれる。天保10(1839)年には、四日市の蛭子神社 (現・櫻岡神社)の禰宜一家であった吉松家の養子となる。後に帆足萬里や渡辺綱章らから国学や漢学を学び、櫻岡神社境内に宇佐地域の学問の発祥とされる「伊勢山塾」を開く。弘化2(1846)年には従五位下(貴族)に叙せられたことにより、出生地の姓を名乗ることが許され敷田姓に改姓する。明治14(1881)年には、伊勢で神宮皇学館(現・皇學館大学)の設立に携わり、初代教頭を務めた。その後は多くの職を経て大阪に戻り執筆活動に尽力する傍ら堀江で私塾「百園塾」を開講し、国学者として古事記・日本書紀・風土史の分野において多くの門人の育成に尽力する。著書の「古事記標註(上・中下巻)」「日本紀標註(26巻)」は、日本史を研究する上で貴重な資料として、伊勢の神宮文庫に収蔵されている。
🔵作曲家:清瀬保二 (きよせ やすじ/1900年1月13日 - 1981年9月14日)
宇佐市四日市に生まれる。生家は、地元で富豪。少年の頃からヴァイオリンを嗜み、旧制宇佐中学校卒業後、大正8(1919)年に旧制松山高等学校在学中に作曲家を志すようになる。同年12月、作曲家になるため同校を中退して上京、まず友人に紹介された田辺尚雄を訪ね、山田耕筰に約2ヶ月間師事。その後、鹿児島にこもり独学で作曲を学ぶ。昭和5(1930)年には「新興作曲家連盟」の結成に発起人の一人として参加し、昭和7(1932)年から3年間はクラウス・プリングスハイムに理論を師事。昭和15(1940)年、皇紀2600年(昭和15年)記念として「日本舞踏組曲」を作曲。昭和21(1946)年には「新作曲派協会」を設立、積極的に作品を発表。また、日本現代作曲家連盟初代委員長などを務め、福井健一博士(アジアで初 (昭和56(1981)年)で日本人初のノーベル化学賞を受賞した際には、式で流れた「日本祭礼舞曲」を作曲。昭和20年から数年間は、四日市に疎開しており、県北の学校の校歌を多く作曲している。音の調べ通りは、作曲家「清瀬保二」を偲び呼ばれている 。