主な研究の興味は、「環境の変化が、生物の生体メカニズムに及ぼす影響を分子レベルで明らかにする」ことです。
研究対象は生物全般ですが、特に最も身近な存在である「ヒト」に焦点を当てて研究しています。我々現代人Homo sapiensの祖先は、約20万年前にはアフリカで誕生しており、おそらく複数回の失敗を経て、数万年前にはアフリカを出て全世界に広がったといわれています。様々な地域に広がっていく過程で、気候や1日 の日照時間は地域により異なり、未知の感染症の流行や異なる食料資源など、それまでとは全く異なる環境に適応する必要があったに違いありません。そのために は、概日リズムや免疫系、基質代謝などに関わる遺伝子が変化し、その地域特有の環境に適した生体メカニズムを獲得するように進化してきたと推測されます。
そこで、ヒトを含めた生物の生理機能や生体防御に関わる分子の進化を読み解くことで、環境の変化(気候などの気象要素だけでなく、生活習慣などの生態学的要素も含む広義の環境の変化)に対してどのように身体的に適応してきたかを理解することを目指しています。また、生存に必須でなくなったことから機能が失われた 遺伝子の進化的意義にも注目して研究を行なっています。
低圧低酸素に対する生理応答を惹起する遺伝要因を、ゲノム・エピゲノム・トランスクリプトーム解析を通して調査しています。ヒトの腫瘍細胞内では多くの場合低酸素状態にあり、低圧低酸素に対する生理応答の分子機序の解明は、癌などの疾患の治療にも役立つ可能性があります。
我々日本人のような低地に居住する個体が高地のような低圧低酸素条件に曝露されると、酸素センサータンパクとも呼ばれるPHD2(EGLN1 遺伝子がコード)などの発現が抑制され、HIF2α(EPAS1遺伝子がコード)などの転写因子が活性化し、赤血球の増殖が亢進されます。赤血球の数が増 えるので、一見うまく高地に適応できるように思えますが、実は赤血球過多による血液粘土の上昇が原因で高山病のような症状を引き起こすリスクを孕んでいます。一方で、高地に居住するチ ベットの人々は、この著しい赤血球の増加によって引き起こされる病気を回避するために、上記で挙げたような遺伝子のDNAが変異することによって、高地で も低酸素で誘導される因子の働きが抑制されていると考えられています。このような高地適応への関与が示唆される遺伝子変異は複数報告されていますが、1000 Genomes Projectなどのデータベースによると、日本人でもチベットの人々やその他の高地集団で見られる変異が少なからず見られます。高地集団で観察された EGLN1 やEPAS1遺伝子の変異は、低地集団の個体の生理機能にどのような影響を及ぼすかよくわかっていません。そこで、日本人を対象に、遺伝子多型と生理的多型(動脈血酸素飽和度、心拍数、血圧など)の関連性を統計学的に検定し、生理的多型の原因となる可能性のある遺伝的変異を探索しています。これまでに、EGLN1遺伝子多型と動脈血酸素飽和度との間に関連を見出しました (Yasukochi et al. 2018)。
また、南米ボリビアの人々(アンデス高地集団)の高地適応に関しても研究を行っています。複数人の全ゲノムDNA配列を決定し、アンデス高地集団で過去数万年以内に急速に広まった遺伝子領域を特定することで、高地適応に関わった可能性を検討します。また、それらの遺伝子多型と生理測定値との関連も調査しています (Yasukochi et al. 2020)。さらに、標高が異なる2つのコホート(約3700mと4000m)の間におけるエピゲノム(DNAメチル化)パターンの比較も行っています。
他にも我々は、急性低圧低酸素曝露に対する生理応答を引き起こす遺伝要因・遺伝子ネットワークを探索しています。遺伝子多型のような比較的長い進化時間を経て獲得された遺伝形質ではなく、後天的なDNA修飾によって得られる生理的可塑性がどのようなメカニズムで生じているかを明らかにしたいと考えています。これまでに、急性低圧低酸素実験の日本人男性被験者から得られた唾液を用いて、網羅的にmRNAの発現を調査するRNA-seq解析を行いました。すると、有意に発現上昇がみられた30の遺伝子を同定しました (Yasukochi et al. 2020)。その中には、急性の低圧低酸素曝露に対する生理応答に重要な可能性がある遺伝子と考えられるものがありました。
縦断的ゲノムワイド関連解析による生活習慣病感受性遺伝子の同定
近 年のDNA配列解読技術の発達により、横断的なゲノムワイド関連解析(genome-wide association study, GWAS)もしくはエクソームワイド関連解析(exome-wide association study, EWAS)による疾患感受性遺伝子の探索が広く行なわれるようになりました。横断的GWASは、“ある時点”の対象群のゲノム網羅的一塩基 多型(single nucleotide polymorphism, SNP)と疾患との関係を調べたものであり、大量の統計データを一度に入手できるという利点があります。その一方で、同一個体を長期・継続的に調査する縦 断的GWASは、より疾患感受性遺伝子の検出力を高めることから、私たちは縦断的GWASによる生活習慣病に関わるSNPの同定を行なっています。
これまでに、9種の生活習慣病および血液学的検査値の縦断的EWASを行ってきました。三重県いなべ市の病院で健診を受けた日本人6022名の約10年間の追跡データ(平均追跡期間5年)と、イルミナ社のHumanExome BeadChipで決定された約24万座位の多型データとの関連を調査しました。統計学的有意性は一般化推定方程式により評価し、28座位を新規の感受性遺伝子多型候補として報告しました。
生活習慣病感受性遺伝子の進化的背景の考察
横 断的もしくは縦断的GWASにより同定された生活習慣病の感受性SNPが、ヒトの進化の歴史の中で、どのような過程を経て対象集団に存在するかを推定でき れば、その集団の生活環境や習慣など、様々な要素との関連を統合的に考察できると考えています。そこで、日本集団だけでなく、ヨーロッパやアフリカなどの 他集団のSNP頻度をデータベースで調べ、集団間の遺伝的背景や病気の罹患率、生活習慣・文化の違いなどを考慮に入れ、包括的に遺伝要因(候補SNP)- 環境要因-疾患との関連を検討しています。
免疫応答に関与するヒト白血球抗原(Human leukocyte antigen, HLA)の進化機構の解明を目指しています。HLA遺伝子の進化モデルは特に1990 年代に盛んに研究が行なわれました。しかし、当時はまだそれらを実証するようなデータがほとんどありませんでした。近年、次世代シーケンサーの登場によっ てゲノム解読技術が革新的に向上し、またこれまで行なわれてきたHLAに対する膨大な実験データを包括するデータベースが整備され、ようやく過去に提唱さ れたモデルがうまく実際のHLAの進化機構にフィットしているかを検証することが可能になってきました。我々はこれまでに、バイオインフォマティクス的手 法により、HLA遺伝子の自然選択圧強度 (Yasukochi & Satta 2013)や抗原結合領域におけるアミノ酸多型の構築過程 (Yasukochi & Satta 2014a)、ヒト特異的なHLA対立遺伝子(アリル)系統の存在 (Yasukochi & Satta 2014b)を明らかにし 、HLAの最適な進化機構モデルの評価などを行なってきました (Lau, Yasukochi, Satta 2015)。一部を紹介すると、まず HLAのペプチド結合領域(PBR: 抗原の認識に極めて重要な領域)のアミノ酸多様性は、時間と共に概ね一定に蓄積されていくモデルが提唱されていまし た(右図下の丸.図はYasukochi & Satta 2014aから引用)。もちろん、アミノ酸は20種類しかなく、HLA分子の構造を変えかねないアミノ酸に変化することもないので(そのような変異を持つ個体の生存は困難になってしまいます)、PBRのアミノ酸多様性は 時間が経過するにつれていずれ頭打ちになる(飽和する)ことが期待されます。そこで、HLA-DRB1という遺伝子のDNA配列データを使って検証を行いました。その結果、実際には対立遺伝子の系統(allelic lineage)間でアミノ酸置換速度が異なり、ある系統ではアミノ酸置換が制限されていることを見出しました(右図上の緑のアリル系統、右図下のダイヤ.図はYasukochi & Satta 2014aを改変)。つまり、従来考えられていたモデルだけでは説明できないような要因を抽出できたといえます。
また、病原体である熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparumを対象に、ヒトとの共進化に焦点を当て、集団遺伝学・分子進化学的解析を行なってきました。その結果、過去における人類の人口動態が、原虫のヒト赤血球結合に関わるeba-175遺伝子の多様性形成に寄与したこと(Yasukochi et al. 2015)、宿主集団のHLA対立遺伝子頻度が原虫のeba-175対立遺伝子頻度に影響を与えてきたことなどを明らかにしてきました。興味深いことに、eba-175の赤血球との相互作用に関わる領域において、チンパンジーやゴリラに感染するマラリア原虫に比べて、人間に感染するマラリア原虫P. falciparumではアミノ酸を変えるような突然変異率が顕著に高いことがわかりました。これは、宿主と病原体との進化的軍拡競争によって、アミノ酸を変化させるような変異が有利に働くような自然選択が作用してきたことが影響すると考えられます。その他にも、熱帯熱マラリア原虫eba-175遺 伝子にはFセグメントとCセグメントという二型が存在することが知られています。つまり、1つの対立遺伝子にはFセグメントを含むか、Cセグメントを含む かしかなく、2つが同一の対立遺伝子に含まれることはありません。これまでその起源はよくわかっていなかったのですが、データベースを使って熱帯熱マラ リア原虫と近縁な(チンパンジーに感染する)Plasmodium reichenowiの配列を調べたところ、FとCセグメントが1つの配列に含まれていることがわかりました。データベースのデータが正しければ、eba-175遺伝子のセグメント二型はもともと1つの配列に含まれており、それが熱帯熱マラリア原虫の進化の過程で二型となって維持されていることが考えられます。
霊長目(サルの仲間)のCytochrome P450 (CYP) 2D解毒酵素群(ヒトの薬物代謝酵素)を対象に、比較ゲノムおよび分子進化学的手法により解析を行なっています。このCYP2D酵素群は、植物毒のアルカロイドを代謝するために進化したと考えられています。これまでの成果として、CYP2D酵素群の起源を明らかにし (Yasukochi & Satta 2011)、食性や体サイズの違いがCYP2D機能遺伝子数に影響することや、各CYP2D分子の機能を保持するために基質結合部位だけDNA組み換えの影響が低いことを見出しました (Yasukochi & Satta 2015)。我々は、このCYP2D遺伝子が誕生したのはおそらく両生類と羊膜類(哺乳類・鳥類・爬 虫類)の共通祖先である可能性を示しました(右図上)。また、興味深いことに、ヒトやチンパンジー、オランウータンの共通祖先で、CYP2D遺伝子は2つ から3つに増えたことがわかったのですが、そのうち2つの遺伝子には機能を失うような変異がゲノム中に観察されました(右図下.図はYasukochi & Satta 2015を改変)。一方で、ニホンザルなど が属するアカゲザルやマーモセットは2つの遺伝子の機能を、その進化の過程でずっと維持されてきたことが示唆されました。もちろん食性も大きく関わってき ますが、別の要因としてヒトやチンパンジーなどは体サイズが大きくなったことによって植物毒に対する感受性が低くなり、CYP2D遺伝子の機能的制約が緩んだのではないかと考えています。