柳井天神春まつりについて

〇柳井天満宮とは?

A.元禄2年(1689年)貞末宗故という人物が、この地を納めていた領主吉川公の命により大阪の天満神社に参詣した折に、菅原道真公の木像を拾って持ち帰り、元禄10年(1697年)に現在の地に祀ってあった神明堂を廃止して、菅原道真の像を安置し、新市天神社と称したのが始まりです。

〇柳井天満宮の神様は?

A.柳井天満宮の御祭神(神様)は菅原道真公です。平安時代の学者の家に生まれ類まれな学識と、その誠実な政治感覚が時の宇多天皇からの信頼も厚く、右大臣に任じられましたが、時の権力者左大臣藤原時平の陰謀により太宰府(現在の福岡県太宰府市)に左遷され、その地で薨去されました。その後、都では様々な不幸が続き、道真公の祟りであると騒がれた為、道真公のお御霊を御慰めし、お祀りすることにより災いが無くなっていったと言われております。現在は学者であられた道真公の御神徳をいただけるよう『学問の神様』として広く全国の天神社に祀られ祟められています。

〇なぜ行列を出すの?

A.この行列には御神幸祭(ごじんこうさい)の意味があり、御神幸祭とは一般的に神様にお出まし頂き、広く多くの皆様に御神徳をいただき、住民の安全・繁栄をはかろうとする意味合いがございます。

行列の御車にのっているのは?

A.御車の上にのっている御網代(おあじろ)には、御祭神であられる菅原道真公の御霊の宿った依り代がのっています。その昔は、牛が御車を引いておりましたが現在は小さな稚児さんが菅原道真公の御霊をのせた御車を引いております。

〇大行司・小行司とは?

A.大行司、小行司は御神幸祭(大名行列)の最高責任者です。菅原道真公が防府の地に立ち寄られた際、国司とともに送迎した国庁の官吏がこの大行司、小行司のお役を務められました。

〇大行司の衣装は?

A.大行司は竿衣(さおぎぬ)と呼ばれる、長い竿が左右に突き出た衣装を身に着けています。これは菅原道真公が左遷により防府の港に着かれた際、大行司が急いでお出迎えに参上しあまりにも慌て過ぎた為、物干し竿に掛かったままの装束を身に着けてしまい、その姿に菅原道真公が微笑まれたという故事に基づいています。

金棒はなぜ地面に打ちつけて音を鳴らすの?

A.その昔は行列が通っている間は、行列を横切ったり邪魔をしてはいけなかったので、金棒を地面に打ちつける音により行列がやってくることを知らせていました。

〇先箱や毛槍が演舞をするのはなぜ?

A.先箱や毛槍は二人一組で道具を持ってまいります。長い道中で道具持つと疲れますので、途中で交代するのですが普通に受け渡しをするのではなく、行列を見に来られた方々に喜んでいただくために、派手な動きをして道具を渡していたところ、だんだんその動作が派手になり、演舞という形になりました。

〇神様への御参りのしかたは?

A.神社拝殿に向かい、お賽銭を入れ鈴の緒を振り、二拝二拍手一拝にてご参拝ください。その時にまずは日頃の感謝を神様にお伝えいただき、その後お願い事をしてください。

〇柳井天神春まつりの歴史は?

A.柳井天満宮のお祭りは当初、毎年2月25日(菅原道真公の命日)に居祭(境内社殿内にて祭典)を斎行していました。明治6年(1873年)に祭典日を4月25日に変更しこの年から、宮市天満宮(防府天満宮)の花神子社参式を参酌し、大名行列を取り入れたと言われています。明治26年(1893年)に柳井町議会にてこのお祭りは、柳井町祭となり、多くの町民がお詣りする県下三大天神祭となりました。