山崎家の歴史

明治20年5月

初代山崎栄太郎(鶴吉の祖父)は嘉永二年九月十二日( 西暦一八四九年) 新潟県間瀬に生れ、明治二十年( 西暦一八八七年) 北海道庁舎( 現在の赤レンガ庁舎) 建築のため会津班として来道し石工事に従事した。

その後札幌市南二条東二丁目に居住し、翌明治二十一年に家族を新潟から呼び寄せ永住を決めた。


北海道庁舎(現在の赤レンガ庁舎)建築のため会津班として来道。


明治20 年代

北海道増毛 旧商家丸一本間家 石蔵の建築に携わる。


現在の北海道増毛 旧商家丸一本間家

( 国指定重要文化財)


初代 山崎栄太郎 妻 トワ





明治38年

豊平3条11丁目にて石材業を営む

山崎栄太郎 彫刻の名人なり

(越後栄又は仕事の根ヨク海老栄(背中を丸めて一生懸命に石を彫る姿が海老に似ていた)などと言われていた。)


北海道神宮 明治43年11月26日

明治44年

主な石造は、室蘭八幡宮神前前唐獅子等

札幌神社前唐獅子、札幌三吉神社等各地の石材彫刻を残し、大正七年一月四日( 西暦一九一八年) 病歿したが、穏和な性格で酒肴を好まず信仰厚かったと言う。鶴吉十一才の時であった。


室蘭八幡宮 神前唐獅子

大正・昭和初期

二代目山崎岩吉は明治一三年(西暦一八八〇年) 父と同じく間瀬に生れる。父栄太郎に師事して石工として家業に専念した。父栄太郎と性格を性格を異にし、豪毅であり仕事は機密で酒豪であった。

主な石造りは札幌大通り郵便局や札幌各地の石蔵等を造り弟子育成に努力したという。


発寒神社(札幌市)


二代目 山崎岩吉

昭和時代

札幌大通郵便局石造り建築を請け負い完成

その後、3代目鶴吉の弟、栄吉に豊平の石材店を譲る

旧滝川市内に存在する史蹟を実証的に調査していると、昭和年間に建立された石碑のほとんどに、石匠山崎鶴吉が関与している。

昭和四年に滝川に移住してから約六十年近い歳月を石造の彫刻一筋に生きてきた人生は、高尚であり静かであると感じられる。現在八十二才の高齢ながら、石造彫刻に余念がない山崎鶴吉とその系譜について述べてみたい。

岩城之正氏 記より


御影神社(清水町)

札幌軟石で狛犬や不動明王を彫らせたら右に出るものはいなかったと思います。

お酒が好きで夜は、千鳥足で帰ってきても、翌朝は早くから道具を焼いて仕事をしていたと聞いてますが、相撲が好きな良きおじじでした。

孫談


三代目 山崎鶴吉


三代目 鶴吉 不動明王を彫る

昭和4年11月11日

3代目鶴吉 札幌より滝川市花月町に転住す。


昭和初期の滝川町花月店

昭和28年

北海道唯一の義士墓が完成


東京 泉岳寺より分骨 昭和28年

三代目山崎鶴吉同行


(左)住職のがお経を唱える中、三代目鶴吉が彫刻中

(上)まさに人馬一体となり施工

(下)地域住民の強力な手助けもあった。


義士墓

(砂川市空知太 北泉岳寺内)


石蔵

昭和36年7月

中富良野 弘照寺にて弘法大師様建立


弘法大師様建立

昭和50年

滝川市北滝の川東7丁目工業団地に工場移転

四代目山崎巌は、三代目鶴吉に師事し、当時北海道各地に八十八カ所の仏像造り、江部乙町のりんご室( 札幌軟石) 造り、石蔵づくりに励みました。

その後、石材業の機械化を積極的に進め、花月町・大町を経て現在の滝川市北滝の川に当時、道内最大・最新鋭の石材工場を設け、主力の墓石づくりにいっそ力を入れて行く事になるります。

性格は温厚で、我慢強く地域密着で山崎石材の発展の推進力となりました。


四代目 山崎巌

平成18年

二の坂町に新店舗オープン

五代目山崎修は五代目92年に、フリースタイルスキー・モーグルで、日本人唯一のオリンピック代表となりましたが、成績は40位 (だったと思います) と振るわず、静かに地元に帰還しました。

その後、モーグルの後輩、里谷多英さんのおかげで、98年の長野オリンピックではTVでモーグル解説者。『やったータエ』を絶叫し、若干お茶の間に話題を届けさせて頂きました?!

現在は、「お墓は人生の物語」をテーマに、墓石デザインプロデューサーとして 新時代に共感される供養と祈りの、家族感動・幸せ空間をお客様に届けるために、知恵と人脈を使い活動をしております。 趣味は、世界中の墓地とそこで暮らす人々の雰囲気を見て感じること。また、世界的に有名なパウダースキーの聖地、北海道ニセコでスキーを通じて知人・友人をおもてなすことです。

初代山崎栄太郎 妻・トワ