野中寺について

野中寺の歴史

野中寺は今から1400年程前、蘇我馬子の助力を得て、聖徳太子が建立されたものです。

創建当初は、法隆寺式配置の伽藍が甍をならべ、南大門は竹内街道に面していました。

叡福寺の「上の太子」、大聖勝軍寺の「下の太子」に対し、「中の太子」といわれ、聖徳太子ゆかりの「河内三太子」の一つです。

南北朝の争乱のおり兵火にかかり、伽藍はことごとく灰燼に帰してしまいましたが、礎石が現在も残留しており、中門跡・金堂跡・塔跡・講堂跡・廻廊跡は、昭和19年(1944)に国の史跡指定を受けて保存されています。

江戸時代初期の寛文年間には、政賢覚英師が、大和の西大寺などで修行を積んだ律宗の名僧慈忍慧猛律師を「中興開山」として請聘し、ともに再興につくしました。

この頃の野中寺は、戒律を専門とする修行道場として脚光をあびました。当時、河内の野中寺・泉州の神鳳寺・山城の西明寺は「律の三僧坊」と呼ばれ、戒律修行の僧侶の学校として、多くの学僧・律僧を輩出しました。

延享3年(1746)9月には、野中寺は幕府より「一派律宗惣本山如法僧坊輪番所」の認可を受けています。

明治になり律宗本山野中寺道場を廃し、現在は高野山真言宗に属しております。