その森には神様が住むという。
神様は新雪の様に真っ白な姿をしている美しい少女で、訪れた者の願いを何でも叶えてくれるとか、
そういう夢のような出来事はまるでなく…おそろしい化け物が現れて、訪れた者は跡形もなく食べられてしまう、とか
そんな都市伝説めいた噂が囁かれる森に今、私は立っている。
失ったはずの「それ」を抱えて。
「それ」は光だった。
光は今にも消えそうなくらい小さなものだけれど。
私にとって、唯一の。
どうしてここへ辿り着いたのか分からない。
どこでそんな噂をきいたのかも分からない。
だけど私には叶えたい願いがあった。
私は生き物の気配すら感じない、しんと静まり返った森を歩く。
ただひたすら、休むこともなく。
どれくらい歩いただろうか。
時間の感覚もなく、疲労も感じない。
それくらい夢中で歩き続けた私の前に
その屋敷は、突然現れた。
「え…?」
あまりにも突然で息を飲んだ。
空気が変わったように感じた。
庭には白い薔薇が咲き誇り、
その中央にある屋敷は汚れひとつ見当たらない程に白く、美しくーーー
あまりにも、幻想的だった。
呆然として動けなかったが、しばらくして私はおそるおそる足を踏み出す。
意を決して触れた扉は、私が力をこめる前に音を立てて開き始める。まるで私を招き入れているみたいに。
そして私は出会った。
出会ってしまった。
広い玄関ホールの正面にある階段の踊り場。
ステンドグラスから降り注ぐ七色の光を背に
人形のような美しい少女がそこに立っていた。
ふわふわとした長い髪、肌、纏う服、全てが白く。
見ているだけで吸い込まれそうな瞳だけは、赤く、妖しく輝いていた。
*
「ようこそ、私の屋敷へ。願い事は何かしら?」
透き通るような声色が、静かなホールに響いた。
少女の言葉に私は我にかえる。
そう、私には大事な願いがあるのだ。
噂が本当かどうかは分からないけれど、それでも少しの希望に縋りたくてゆっくりと口を開いた。
「 …………あなたが、この森に住む神様…ですか?」
「そうね、そう呼ばれているわ」
肯定する言葉に、今は腕の中にある大事な「それ」を抱きしめ直す。
「あの…お願いがあって来ました。どうか私の願いを聞いてください!」
「ふふ、素直で可愛らしいお客様ね」
少女はころころと鈴が鳴るような声で笑った。
「いいわ、あなたの願いを聞かせてちょうだい」
あっさり聞いてもらえることに多少驚きつつ、私は願いを口にする。
「私の弟を…助けて欲しいんです…!」
口に出すと現実を思い返してしまい、涙が溢れてくる。
そう、私は、私のたった1人の家族の命を救って欲しかった。
神様でも化け物でもなんだって良いから、この願いを叶えてくれる存在を探していた。
白い少女は全てを見透かしているような瞳を向け、静かに問う。
「その子は、亡くなっているのよね」
「病気だったんです。うちは両親もいないしお金がなくて…お医者様にかかることも、できなくて…っ」
私はお墓の前で1人立ち尽くしていた。
たった1人の家族、私はあの子の為に生きてきた。
弟を失ってからは、まるで時が止まったようで。
私自身も死んでしまっているみたい。生きた心地がしなかった。
涙が溢れて止まらない。到底受け入れることかできない。
離れたくない。
そうして気づけばーーー
私はあの森にいた。
お墓にいれたはずの弟の遺骨を抱えて。
暫しの静寂があたりを包む…
「いいわ」
こんな願いを、本当に、聞いてもらえるんだろうか?
そう思った不安はすぐにかき消された。
その声に感情の起伏は一切無く、ひどく落ち着いていた。
何でもない事のように、あっさりと。
俯いていた私は思わず顔をあげる。
少女の表情も、声も、最初に出会った瞬間と何一つ変わらなかった。
「対価は何を差し出すのかしら」
「たいか……」
正直なところ全く考えていなかった。
願いを伝えたその先のことを。
人一人の命を生き返らせることに見合う対価とは一体どれほどのものなのだろうか。
しかし、どんな対価であれ払うしかない。
その為に私はここに来たのだから。
「何でも払います!だから……!!」
必死に言う私を見て、彼女は微笑む。
「なんでもいいのね?」
一段、一段、ふわりとした髪とたっぷりのレースを拵えたスカートを揺らしながら少女は降りてきた。
そのひとつひとつの動きが現実離れしているものに見えて、どうしても魅了されてしまう。
すぐ目の前に降り立った少女が私よりも少し小さい事に驚いた。
「その子」をこちらに預けてちょうだいと言う少女の言葉に弟を託すと、少女は弟を連れて二つの階段に挟まれるようにして佇む奥の扉へと消えていってしまった。
入れ替わりにやってきた執事の青年が礼儀正しく一礼をする。
「依り代様が出てくるまで決して扉を開けてはいけません」
主なのであろう少女と同じく、とても落ち着いた声だった。
とにかく私にはただ祈ることしかできない。
弟は死んだ。
私の願いは死者の蘇生。
そんな願いを叶えることが、本当にできるのだろうか。
*
執事の青年に応接間にて待つように促されたが、とてもそんな気になれず、丁重に断りをいれた後、少女が消えた扉の前で待っていた。
どれほどの時がたっただろう。
扉が開き、出てきた少女のその後ろには………
……私の弟が、立っていた。
生きている。
あの子が。
夢じゃないの?
本当に?
私はいてもたってもいられず弟に駆け寄った。
「のぞむ…!ほんとに…本当にのぞむだ…!夢じゃない、生きてる…!」
じっとのぞむの瞳を見つめながら、確かめるように頭や頬、腕や肩を撫でた後に感極まって思わずぎゅっと抱きしめる。
最後に触れた時とは違う。今はすごくあたたかい。
生きている。
弟が、のぞむが生きている。
「いのり、苦しいよ」
久しく聞いていなかったのぞむのその声にハッとした。
慌てて離れ、のぞむの顔を見る。
「ごめんね、嬉しくて、つい…!」
「いのりはぼくのことが、大事だもんね」
のぞむはそう言って、にこりと笑った。
それは、私にしか分からない極僅かな違和感。
何か、様子が、おかしいような…?
そう感じた一瞬は、のぞむに抱きしめ返された喜びで霧散してしまった。
しばらく再会の喜びに浸っていると、その光景を微笑みながら眺めていた少女が口を開く。
「そろそろいいかしら?対価の話よ、イノリ」
「はっ、はい!」
思わず居住まいをただす私に、少女はクスクスと笑う。
「難しい話じゃないわ。しばらくここに住んで私の話相手になって欲しいのよ」
「もちろんその子と一緒にね」
「えっ…」
「部屋は貸すし食事も出すわ。不自由はないでしょうね」
「そんな…えっ?そんなことでいいんですか?部屋にご飯まで…?」
命の対価にしてはあまりにも拍子抜けするような内容で私は少し混乱した。
自分の命を差し出すようには言われるかもしれない、くらいは考えてはいたのに。
「正直毎日退屈なの。あなた達がいてくれるなら、楽しくなりそう。その子もかえったばかりだし、経過を見たいわ」
ふわりと微笑む少女にちらりとのぞむを見た。のぞむはそんな私ににっこりと笑う。いやではないようだ。
私達には両親もいないし、帰らなければならない家もない。学校もちょうど長期休暇に入ったはずで…。
断る理由が見つからなかった。
のぞむの身体のことを考えても悪い提案ではない。
それに……なんだかものすごく安心感があった。ずっとここにいたいと思わせる、優しい気持ちになれる空間だと感じていたから。
*
そんなわけで私達姉弟は、とりあえず学校の長期休暇が終わるまでこの屋敷のお世話になることになった。
屋敷の主は少女…執事さんは依り代様、と呼んでいた。すごく優しい雰囲気で、目を奪われるくらい綺麗な人。のぞむを生き返らせてくれた、神様。
他には少しだけ話をした執事さんと、その双子の妹のメイドさんが住んでいるらしい。聞くところによると、精霊さん?なんかもいるらしい。
おとぎ話みたいな話だけど、神様が住む屋敷だと思ったら特に驚くこともなかった。
私達は2階の客間に通され、そこで寝泊まりすることになった。客間は広くて、ふかふかなベッドもあってとても快適だった。
のぞむはずっと上機嫌のようで、以前よりもよく笑うし体の調子もよさそうだ。
きっと依り代様の力なんだろう。のぞむがよくなって本当によかった。
そう思っていた。
*
執事が淹れてくれた紅茶を飲みながら、私は窓から庭を眺めていた。
庭では私の話相手として滞在することになった少女とその弟が、薔薇の世話をしていた。話相手だけでは悪いと考えてのことらしい。
気にしなくていいのよ、と伝えはしたものの、それでは気が済まなかったようだ。
二人は幸せそうに話をしながら薔薇の手入れをしている。
イノリは幸せだろう。
二度と会えないと思っていたノゾムとこうして暮らしているのだから。
けれどノゾムの方は、どう考えるのでしょうね?
「しばらくは退屈しないで済みそうだわ」
私は擦り寄ってきたペットを指で撫で、クスクスと笑った。