その先の話
時計のこと。修理のこと。時計に残る記憶のこと。
時計のこと。修理のこと。時計に残る記憶のこと。
私は、祖父のことをほとんど覚えていません。
祖父は私が子どもの頃に亡くなり、一緒に過ごした記憶は残っていません。
仕事をするとき、私はいつも祖父の時計を腕につけています。
ROLEX 1601。
祖父から父へ。
父から私へ。
三世代にわたって受け継がれてきた時計です。
記憶にない人を、こんなにも身近に感じることがある。
自分でも、少し不思議です。
この時計を腕につけると、祖父が近くで見守ってくれているような気がして、心が落ち着きます。
私にとってこの時計は、時間を知るためだけのものではありません。
言葉にするなら、お守りのような存在です。
父から受け継いだものは、もう一つあります。
時計修理の仕事と、WATCH MEDICALです。
私の腕にあるのは、祖父から父へ、父から私へと受け継がれた時計。
そして、その時計をつけた手で向き合っているのは、父から受け継いだ時計修理の仕事です。
気がつけば、時計と仕事の両方が、父を通して私のもとへつながっていました。
祖父との記憶を思い出すことはできません。
それでも、この時計を腕につけるたびに、確かにつながっていると感じます。
時計には、持ち主が過ごした時間が残ります。
そして時には、自分の中に残っていない記憶まで、静かにつないでくれることがあります。
今日も私は、祖父の時計を腕につけ、父から受け継いだ仕事に向き合っています。
長年、分解掃除を任せてくださっていたお客様がいました。
同じ時計を何度もお預かりし、そのたびに状態を確認しながら修理を続けてきました。
あるときも、いつものように時計をお預かりし、分解掃除を行いました。
作業を終え、修理完了のご連絡をしましたが、なかなか連絡がつきません。
何かお仕事で忙しくされているのかもしれない。
これまで何度も任せてくださった、信頼しているお客様でしたので、時計を大切に保管したまま、ご連絡を待つことにしました。
それから、しばらく経った頃。
ご家族から一本の電話がありました。
「主人の時計を預けていませんか」
お預かりしていることと、分解掃除が完了していることをお伝えしました。
そこで初めて、そのお客様が急逝されたことを知りました。
数日後、ご家族が時計を受け取りに来られました。
長年大切にされていた時計なので、これからは息子さんが引き継いで使われるとのことでした。
決して新しい時計ではありません。
内部にも、長い年月を使い続けてきた跡が残っています。
それでも分解掃除を重ねながら、今も次の世代の腕で時を刻んでいます。
私たちが修理しているのは、時計という機械です。
けれど、その一本の向こうには、持ち主と過ごしてきた時間や、ご家族の記憶があります。
時計を直し、使える状態で次の人へつなぐこと。
それも、私たちの仕事なのだと教えていただいた、今も心に残る一本です。
雨に濡れた時計を、何気なく袖で拭く。
「防水だから、このくらいは大丈夫」
そう思う方は多いと思います。
時計の裏側には、「3気圧防水」「5気圧防水」「10気圧防水」などの表示があります。
一般的に、3気圧防水は雨や水しぶきに耐える程度。5気圧防水は水泳、10気圧・20気圧防水では素潜りやマリンスポーツまで想定されたものがあります。
ただし、時計の種類やメーカーによって使える範囲は異なります。
防水表示には、もう一つ分かりにくいところがあります。
「10BAR」と「WR100m」。
100mと書かれたほうが、強い防水性能を持つように感じます。
しかし、この二つは多くの場合、同じ防水性能を異なる単位で表したものです。
10BARは圧力による表示。WR100mは、その圧力を水深に換算した表示です。同じ時計の裏蓋に「10BAR」、文字盤に「WR100」と表示される場合もあります。
ただし、WR100mは、水深100mまで潜って使用できるという意味ではありません。
一方、「DIVER’S 100m」は潜水用防水です。同じ100mという数字でも、潜水を想定した別の基準が設けられています。
大切なのは、数字だけでなく、どのような防水表示なのかを確認することです。
水中では、深さが約10m増すごとに、水による圧力も約1気圧ずつ増えていきます。
けれど、時計にかかる力は深さだけでは決まりません。波が勢いよく当たったときや、蛇口から水を直接当てたときも、水の速さや当たり方によって負荷が変わります。
では、水はどこから時計の中へ入るのでしょうか。
時計には、ガラスとケース、裏蓋、リューズ、ボタンなど、いくつもの合わせ目があります。そこをパッキンがふさぎ、水の侵入を防いでいます。
防水性能が低下する原因は、パッキンの劣化だけではありません。
ケースや裏蓋のゆがみ、ガラス周辺の損傷、リューズやボタン部分の摩耗・変形などによっても、密閉性が失われることがあります。
そして、防水性能は永久には続きません。
年月や使用によって部品の状態は変わり、防水性能も少しずつ低下します。
お風呂やサウナも、熱や蒸気などがパッキンや金属部品に影響するため、防水時計であっても外したほうが安心です。
裏蓋に刻まれた防水表示は、年月がたっても変わりません。
一方で、実際の防水性能は少しずつ低下していきます。
刻印は変わらなくても、防水性能は時間とともに変化していくのです。
「時計の時間が狂うようになった」
そう言って、お客様が時計を持って来られることがあります。
時間が狂う原因の多くは、油の劣化や部品の摩耗などで、分解掃除が必要になります。
ただ、まれに内部の故障ではなく、磁気が原因だったこともあります。
以前、分解掃除を終えた時計が、間もなく時間が狂うようになったと、
お客様が再び来店されたことがありました。
修理後には精度を確認しています。それでも時間が狂っている。
時計を調べると、内部に磁気を帯びていることが分かりました。
お客様に普段の使い方を伺うと、時計を外したとき、ノートパソコンの上に置いていたそうです。
ノートパソコンには、スピーカーなど磁気を発する部分があります。置いた場所によっては、
その磁気が時計に影響することがあります。
磁気を抜いて改めて確認すると、時計の精度は正常に戻りました。
機械式時計の内部には、時間の進み方を整える「ひげゼンマイ」という、とても細い部品があります。
この部品が磁気を帯びると動きが乱れ、時計が大きく進んだり、遅れたり、場合によっては止まったりすることがあります。
磁気は、傷のように目で見ることができません。
また、磁気を発する物から時計を離しても、帯びた磁気の影響が残ることがあります。
磁気が原因となる事例は、決して多くありません。
ただ、以前と比べると、ノートパソコンやスマートフォン、ワイヤレスイヤホン、
磁石を使ったバッグの留め具など、磁気を発する物が身近に増えました。
そのため現在は、修理を終えた時計をお返しするとき、磁気に気をつけていただくことを
必ずお伝えしています。
時計を家電製品の上に直接置かないこと。
磁石を使った物と一緒に保管しないこと。
少し距離を取るだけでも、磁気の影響を受けにくくなります。
時計の時間を狂わせているものは、内部の故障とは限りません。
目には見えない磁気が、静かに時計の動きを変えていることがあるのです。
分解掃除には、1か月以上の時間をいただいています。
時計を分解し、洗浄して、組み立てる。
言葉にすれば、それほど長い作業には聞こえないかもしれません。
しかし、時計は動き始めれば終わり、というものではありません。
内部では、油が乾いていたり、部品が摩耗していたり、過去の修理の跡が残っていたりします。
同じ型の時計であっても、使われてきた年数や環境によって状態は違います。
時計は生き物ではありません。
それでも、一本ずつ状態が違い、実際に向き合ってみなければ分からないところは、どこか生き物に似ています。
部品を一つずつ洗浄し、状態を確認しながら、もう一度組み上げる。
組み上げた時計が動き始めても、そこで修理が完了するわけではありません。
精度や動きを確認し、必要があれば調整する。そして、もう一度様子を見る。
時計の状態に合わせながら、この作業を繰り返します。
分解掃除にかかる、1か月以上という時間。
それは、時計が再び動き始めるまでの時間ではなく、その動きが安定していることを確かめるまでの時間です。
修理には、どうしても急がせられない時間があります。
長く使われてきた時計には、さまざまな傷が残っています。
机にぶつけた小さな傷。
仕事をしているうちについた擦り傷。
いつ、どこでついたのか、もう思い出せない傷。
外装を磨けば、その多くを目立たなくすることができます。
くすんでいた金属に光が戻り、時計は見違えるほどきれいになります。
けれど、磨く前に、少しだけ考えることがあります。
この傷は、本当に消したほうがよいのだろうか。
時計の傷は、ただの劣化ではありません。
毎日腕につけ、仕事へ行き、誰かと過ごし、さまざまな時間を重ねてきた証でもあります。
新品の時計にはない、その人だけの時間が刻まれています。
もちろん、傷をきれいにして、もう一度新しい気持ちで使い始めることも大切な選択です。
一方で、思い出の残る傷をあえて消さず、そのまま受け継ぐという選択もあります。
外装仕上げは、金属の表面をわずかに削って傷を整える作業です。
深い傷を無理に消そうとすると、ケース本来の形や角まで変わってしまうことがあります。何度も繰り返せば、その影響は少しずつ積み重なっていきます。
だから、すべての傷を消すことだけが、よい仕上げとは限りません。
どこまで磨くのか。
どの傷を残すのか。
それとも、今の姿をそのまま大切にするのか。
答えは、時計の状態と、持ち主の思いによって変わります。
時計をきれいにすることと、その時計らしさを残すこと。
その間にある、ちょうどよいところを考えるのも、修理の大切な仕事だと思っています。
傷の一本一本にも、その時計が過ごしてきた時間があります。
消す前に、その傷の向こう側にあるものを、一度だけ思い出してみてもよいのかもしれません。
「電池を交換しても、動かないと言われました」
そんな時計が、当店に持ち込まれることがあります。
もう直らないと思いながらも、捨てることができず、引き出しにしまっていた。
長く使ってきた時計ほど、そう簡単には諦められないものです。
裏蓋を開けてみると、原因が見えてくることがあります。
電池からの液漏れです。
電池は、使い続けるうちに少しずつ劣化していきます。
特に、電池が切れた時計を長期間そのままにしていると、内部の成分が漏れ出すことがあります。
高温になる場所での保管や、電池そのものの品質も、液漏れに影響する場合があります。
漏れた成分が内部の部品を傷めてしまうと、新しい電池を入れただけでは動かなくなることがあります。
内部の状態を確認し、必要な処置をすると、止まっていた針が再び動き出す場合もあります。
けれど、動いたからといって、それですべてが解決したわけではありません。
液漏れの影響が内部に残っていれば、また止まったり、さらに傷みが進んだりすることもあります。
本当に大切なのは、その場で動かすことだけではなく、これからも安心して使える状態にすること。
そのためには、分解掃除を行い、内部をきちんと整えることをおすすめしています。
当店では、電池交換の際に液漏れしにくい国産電池を使用しています。
それでも、どの電池でも液漏れの可能性を完全になくすことはできません。
時計が止まったら、できるだけ早めに電池を交換する。
その小さな心がけが、大切な時計を長く守ることにつながります。
「もう動かない」と言われた時計にも、まだその先があるかもしれません。
今では、クオーツ時計はごく身近なものです。
正確に時を刻み、電池を交換すれば、また動き続ける。
けれど、最初のクオーツ腕時計は、誰もが気軽に買える時計ではありませんでした。
1969年12月25日。
セイコーは、世界初の市販クオーツ腕時計「クオーツ アストロン35SQ」を発売しました。
価格は45万円。
当時の平均的な自動車と、ほぼ同じ価格だったといいます。
クオーツを使った時計自体は、それ以前にも存在していました。しかし、その装置は大きく、初期には書類棚ほどの大きさがありました。
それを腕に収まる時計にするため、約30万分の1にまで小さくする必要がありました。
完成したアストロンの精度は、月差±5秒。
当時の一般的な機械式時計と比べて、約100倍の精度を持っていました。
一秒ごとに秒針を動かすステップモーターなど、現在のクオーツ時計につながる技術も、ここから広がっていきました。
その後、クオーツ時計は小さくなり、価格も下がり、世界中で使われるようになります。
今では当たり前に見かけるクオーツ時計も、最初は自動車と同じほど高価な、最先端の技術でした。
当たり前になったものほど、その始まりを意識することはありません。
腕の上で静かに時を刻む一本にも、そこへたどり着くまでの長い時間があるのです。
もし、海の真ん中で、自分がどこにいるのか分からなくなったら。
現在なら、GPSが位置を教えてくれます。
けれど18世紀の船乗りにとって、陸地の見えない海を航海することは、今とは比べものにならないほど危険なことでした。
太陽や星を観測すれば、自分がどれくらい北や南にいるのかは分かります。
難しかったのは、東西の位置を示す「経度」でした。
経度を知るには、船がいる場所の時刻と、出発地の時刻を比べます。
地球は24時間で一周するため、時刻の差が分かれば、どれだけ東や西へ移動したのかを計算できます。
つまり、海の上で正確な時刻を保つことができれば、現在地を知ることができたのです。
しかし、当時の時計は、船の揺れや温度の変化によって時刻がずれてしまいました。
わずかな時刻のずれが、海の上では大きな位置のずれになります。
この問題に挑んだのが、ジョン・ハリソンでした。
彼は大工をしており、時計作りは独学でした。
船の上でも正確に動く時計を作るため、何度も設計をやり直します。
3作目の「H3」だけでも、完成までに約19年。
それでも求めていた精度には届きませんでした。
そして1759年、4作目となる「H4」が完成します。
大きな置き時計のようだったそれまでの試作品とは違い、H4は大きな懐中時計のような姿をしていました。
1761年の航海試験では、船員たちが予想していたよりも早く陸地へ近づいていることを、時計による計算で正しく示しました。
ハリソンは、生涯の大部分を、海の上で正確に時を刻む時計の開発に費やしました。
その時計によって、船は海の上で自分の位置を知ることができるようになり、航海の安全性は大きく向上しました。
時計は、時刻を知るためだけのものではありません。
かつて正確な時を刻むことは、自分がどこにいるのかを知り、無事に帰るための手段でもあったのです。
ジョン・ハリソンが残したのは、時計ブランドではありません。
海の上で正確な時間を刻む時計と、それによって変わった航海の歴史でした。
彼は生涯をかけて一つの問題に向き合い続けた、一人の職人だったのです。