筆者 北里義之
掲載媒体 テルプシコール通信 No.187掲載「舞踏家ではない、身体こそが踊りを語る」
編集発行人/秦宜子 発行所/中野区中野3-49ー15ー1F テルプシコール編集室発行日
/2021年12月23日
辻たくや、大倉摩矢子ワークインプログレス公演『いざ出陣!!』(2021年12月2日)在籍期間は異なるものの、ともに舞踏カンパニーの“天狼星堂”で学んだ辻たくや、大倉摩矢子のふたりが、京都で桂勘が主催する舞踏フェスティバル「KYOTO DANCING BLADE♯3」(2021年12月15日-19日、京都東山区SPACE LFAN)への遠征公演を前にして、東京での下準備とお披露目を兼ねてワークインプログレス公演『いざ出陣!!』をおこなった。
辻たくやのソロからスタートした公演は、途中で大倉を加えたデュオになり、後半で辻が抜けて大倉のソロになるというひとつらなりの流れのなかで踊られた。ゆっくりとしたスピードで手足がばらばらに動いていきながら、いつの間にか体勢が移っていくという踊りを基調にしながらも、辻は、自身のソロで一回、横走りしたり、横転したり、上手コーナーの柱に衝突したり、ホリゾントの壁に飛び蹴りを入れたりしながら、ボサノバの曲をバックにステージを右まわりに走りつづけ、またデュオのなかでも一回、想像的民族音楽とでもいった芸能山城組の「アキラのテーマ」が流れるなか、大倉の踊りを巻きこみながら、全身をくねらせたり、床上を転がったりする激しい動きで破調の場面を作った。
動きに緩急の差を作ることで踊りが単調にならないようにする工夫は、天狼星堂出身の踊り手によく見られる場面構成のスタイルだが、破調がクライマックスの場面になるというのではなく、そこまでの動きを切断しながら突然あらわれてくるのを特徴にしている。デュオがゆっくりと動きを展開していく場面では、細かな動きを地つづきに隣接していきながら、まるで織物が自然に編まれていくようにして、全方位的な踊りが姿をあらわすというような踊りが踊られるのだが、大倉の踊りのなかには、共演者の手指に触れたりーーー無意識の動きのなかでも、このコンタクトの場面は、デュオの関係性において身体的な特異点をなしたように思うーーー床にさがっていく右肩が突然引き戻されたり、小ジャンプで一気に前を向いたりする動きもあった。踊りに、はさみこまれるこの小さな切断点は開放点として働き、彼女の舞踏ならではの明るさを生む要素になっている。もうひとつ指摘するなら、ステージ中央に並び立ったふたりが両手をゆらゆらとあげた場面で、辻が身体存在を示すように踊ったのに対し、大倉はあげた左手を上手に伸ばしていくというダンス的な動きで、さりげなく身体を開くことをした。これもまた大倉の舞踏の明るさに通じる無意識の動きといえ、ステージに立つ彼女のスタンスを身体そのものが示す端的な場面になっていたと思う。
下手の壁を隠す黒いカーテンを引きあけながら登場した大倉摩矢子の踊りの、難解でない、人のよささえ感じさせる素直さ、平明さ、裏心のなさ、踊り手の喜びとともにある動き、流れに従っているだけといった、どこまでもシンプルな動きだけで人をゾクゾクとさせずにはいない身体の触発性、これをどう言いあらわしたらいいだろうか。床面に顔がついてしまうのではないかと思うくらい低く前屈する姿勢、優雅に波打つ腕の動きが背後に翼のように広がり、両脇から外へと植物の芽のように伸びていくしなやかさ、反り身になった背中の湾曲、白塗りした皮膚を濡らすしとどの汗や天井をあおいだ表情に漂う官能、相方の手指に触れるとき、床面をサッとなぞるとき、爪を床面に突き立てて這うときの火がついたような指先の先鋭化、歩くための足を捨て、中空にホバーリングするように滞留しながら動くときの異次元感覚、爪先立つ両足、左傾する上体、のけぞる頭、こうしたバラバラな動きがところを得てひとつになったところにあらわれてくる意外なまでの美しさ、ホリゾントに向けて両手を大きく広げたときの後ろ姿、両手をあげた動きが音楽のリズムとともにバリ舞踊のように見えてくる瞬間、そして照明のあたらない場所に歩き出て、ゆっくりと揺らめくような動きのただなかに訪れる最後の暗転など、風景的なものを感じさせる場面は、これはいったいナニモノと思わせるような奥行きのある身体によって支えられていた。
無意識の井戸から汲みあげられてくる動きの数々。これは直感的な物言いになるが、もしかすると彼女の身体は、そのほとんどが(けっして舞踏には限らない)先人の足跡によって踏み荒らされずに放置されている処女地のような状態にあるのではないだろうか。そこには語られずにいるものがいまもたくさん眠っていて、舞踏言語として蓄積されていく動きのヴォキャブラリーが、さほど広くないところに生まれてくる踊りの平明さを凌駕してあらわれてくるということ。平明であるがゆえに見るものの想像力を掻き立て、身体の潜勢力で見るものの身体を打つという出来事が起こっているということ。踊れば踊るだけ、動けば動くだけ、身体を開けば開くだけ、彼女の身体からは前代未聞の表現が湧出してくるということ。そこには Body speaks. という、身体こそが踊りを語るという、すべてのダンサーにとって、また舞踏家にとっては特に理想的な姿がある。