「……ま、……様!」
御者が手綱を引き、主人と思しき人物に目的地への到着を告げる。
「ん、んぁー……私が、寝ていたわけがないでしょう! ね! ね!」
ええ…そうですね…と言いたげな表情をする御者の体が戦車ごと揺れる。
”恰幅のいい”という言葉がよくお似合いの、帯が窮屈な音をあげているかのような腹周りをした主人が、馬車から降りたのだ。
「陛下の不老不死のためとはいえ、このような辺境の地は初めてです」
主人が仕える人物――名を出すことも畏れ多い、五帝を凌駕せし其の方――がかつて巡幸で訪れた琅邪山よりもさらに南の南。
"かつて"中央"だった"周の者たちが野蛮の地と呼び蔑んでいた、その地は「越」。
現在の中央「咸陽」から、陛下と呼ばれた人物の命ではるばる、舟を経て馬車に揺られ越までたどり着いたのだ。
「この先が越郡となります」
「そうですか。それにしても暑いところですねー」
これは、水筒をよこせ、と言われている気がする……御者の一人が、主人に水筒を手渡す。
「この先は、呉の民も恐れ立ち入ることのない場所となっているようです」
「それはおかしいですねぇ~」
ぬらりと濡れた唇が、そんなことはあるはずもない、とすっとぼけた声をあげる。
「楚も代も、燕も、斉も滅び、この中華は爪の先まで統一を果たされているのに、恐れる場所などないようなものでしょう?」
「いえ……この地に住まうものは皆、会稽に建てられた刻石でその威容を知ることとなっておりますが」
それ以前の問題で、と言わんばかりに、御者は進路上に視線を送る。
「この先、迷路のような地形になっており、遭難の可能性が高いそうです」
こればかりはまだ、陛下の威容によってどうにかなる問題ではないようだ。
「まぁ、自然が相手では仕方がありませんね」
もう一人の御者が馬に水を飲ませ終えたようで、空になった水桶を馬車に放り込む。
呉と越の境の平原での休息は、もうそろそろ終わりのようだ。
湿度のある風が鼻をかすめる。どうやらそのうち、天候が変わるのだろうか。
車体がごとごとと揺れる。搭乗者の重量もあるだろうが、まだ整っていない道路を進むならこういうものなのだろう。
車体の揺れが主人の眠気を再び誘う……。
少し寝ていた。気がする。
さすがに起こされたばかりだというのに、再び寝てしまっては恥ずかしくもある。
「それにしても、こんな辺境の地で暮らす仙人、とはねぇ。私には気が知れませんよ」
眠気覚ましがてら、御者に声をかけた。
返事はない。失礼な者ですねまったく。
「あのー? 無礼ですよ? 私をなんだと……」
御者を嗜めようと馬車から身を乗り出したときに、主人は周囲の異変に気付く。
「……ん? 霧ですか?」
しっとりと冷たい空気が、馬車の中に充満する。
気付けば辺り一帯が白い靄に覆われている。
「あのー? 遭難なんかしては洒落になりませんからねー?」
御者に呼びかけるが、返事はない。
淡々と、馬も車輪も、小刻みな音を鳴らし続けている。
それは不自然なほど、規則性のある繰り返しだ。
「迷わないようにー、気を付けてくださいねー!!」
やはり御者からの返事はない。
さすがに主人も気付いた。これはおかしい、と。
止まらぬ馬車から身を乗り出し、怪我を承知で飛び降りる。
腹の肉がどでんと揺れ、露に濡れる平原へと身を預ける。
不思議と痛みはないようだ。身を覆う余分な肉が着地の衝撃を和らげてくれたのだろうか。
そして主人が飛び降りたというのに、馬車は、馬は、御者は止まる素振りも見せずに。
主人の視界から、完全に消えていった。
「まさか????」
こんなことがあっていいはずはないでしょう!?
「私のような高貴な者が! こんなところで朽ち果てるなど!」
車輪の跡も、馬蹄も、もう見当たらない。
周りには、霧以外なにもない。
「いけません! あってはいけません!!」
天を仰ぎ、狼狽する主人の顔面を、影が覆う。
つい先ほどまでなかった、何かの影が。
「このような地に、足を運ぶ阿呆は……」
御者とは違う、誰かの声が。
「不老不死を望む、愚か者か。秘境探検に情熱を滾らす、命知らずか」
陛下とは違う、別の理からの声が。
「……誰ですか、あなたは!」
腰が抜けた主人は尻もちをつき、露に濡れた袖を声のする方へと振りかざす。
「ここで朽ち果てる者に、名乗ってどうする」
こんなところで朽ち果てるつもりはない。
虚勢を張るしかない。
「わっ……私は秦の丞相が一人、趙高です!」
唇はガタガタに震え、声はところどころ上ずっている。
「この状況をなんとかしてくれるなら! 助けてくれるのであれば! なんでも望むものを差し上げましょぉう!」
どうにかなれと言わんばかりに、一息で助けを請う。
「……くだらん。お前は何かを求めてここに来たというのに、差し上げるというのか」
「こうなったらもういいんです! 不老不死などいりません! 今はどうかお助けください!」
主人は声の主に縋り付く。その顔はよく見えないが……長く伸びた白髪が、時折なびいて主人の頬に触れる。
「……やはり不老不死か」
その声には呆れ、に近い感情が伺える。
より噛み砕くなら。
呆れというよりは、それはまるで”とうの昔に興味を失い、投げ捨てたもの"を縋られたときのような。
「はい! しかしもうよいのです! 無いものねだりをするつもりはもう! とにかく私の命をー!!」
「まぁ、ないこともない」
命乞いをする主人が声の主の裾を引きながら縋り付いていたが、思わぬ答えが返ってきたため思わず裾を握っていた手を放す。
尻持ちをつき、腹の肉がぼよんと音を鳴らす。
「な、なんですって……! 不老不死の方法があるのですか」
返事はない。
「となると……その方法を知っているということは、あなたが……仙人!」
「……仙人?」
心当たりのない呼び名を与えられたのか、声の主はますます呆れ果てたといった様子だ。
「知らぬ間に俺は仙人に仕立て上げられていたのか……」
「おっお願いです! 不老不死の方法を教えてください! そして私の命も救ってください!」
しれっと主人の要求に図々しさが加わっているも、その要求自体に興味がないようだ。
仙人と呼ばれた人物は、今まさに目的が生まれたかのように口を開く。
「お前は、秦の丞相といったな」
「はいぃい!!」
「不老不死。教えても構わんが……お前にできるかな?」
仙人の表情はまるで口元から上が隠されているかのように伺えないが、主人を試すかのような表情を浮かべているようだ。
「当たり前です! 私は秦の丞相ですよ!」
「なら――」
主人は仙人に助けを請う際、こう言った。
なんでも望むものを差し上げると。
それは高い立場から、どのような要望を叶えられるということだ。
例えそれが――ー
「――始皇帝を殺せ」
仕える主人を、殺すことでも。