「場」を整えて身近な社会をより楽しく、より善く。
①「場」にフォーカスして人が「育つ」環境づくり
②「楽しい」から始まる・続く活動
③「対話」で決め、「それっぽい」を実行・行動
①場の研究
②子どもを中心とした場づくり
・遊びと学びのサークル【viva遊学】、ボドゲ会
・PTA・子ども会・図書館などとの連携
・【9月プレオープン】プレースクール あそま
③対話のための「場」づくり
・既存組織の対話の場
・多文化共生の場
・農業の経営継承のコーディネート
・人が育つ環境づくり研修会運営
遊び場や学び場って、遊ぶ場や学ぶ場より「自由」なイメージ(語感)がある。
これはきっと、前者が連用形で「場」にフォーカスされているからだと思う。
【振り返り】読み飛ばしてください。
生まれて35年間は「人」に執着していた気がする。その間は、よく人間関係で苦しかった(同じくらい人を苦しめていた気も。。)。
もう少し掘り下げると、本当は「人」に執着があったわけではなく、人と接する「自分」にしか執着をもっていなかったのだと思う。
「罪を憎んで人を憎まず」「他人を変えることはできない、自分が変わるしかない」・・・35年間は、その意味を勘違いしていた。
「自分」にしか執着しない自分に気づくと、自分が劣っている存在で、ふと生きることを虚しく感じることがある。(私は昔から、変人に憧れ真似る凡人であると自覚)
といいながら、人生はだいたいエンジョイしてきたし、なんなら今は絶頂でワクワクしている。
上手く言葉に表現できないけれど、今楽しめているのは私に与えられた「場」が良かったからだと思う。
「場」とは単純に空間的なものだけではなく、社会的、家庭的な環境も指す(指している)。
つまり家族や友人、職場、地域、仲間のみんなが、良き人で助けてくれたからっというのは大きな影響ということ。そして、私はそれも「場」の効果と捉えたいと思っている。
・・・・・・・。
「場」に要因を求めることで、対人関係の悩みが軽減するし、「良い環境」の再現性も上がる、と考えている。
「ある人」がいないと成立しない成果には憧れます。
一方で、「ある人」が居なくても、「場」が整えば、みんなちょっとずつハッピーになれるはずと思う自分もいる。
遊ぶのか、学ぶのかは自分次第。
私は、遊びや学びに繋がる場の選択肢を増やしていきたい。
viva・・・ラテン語起源で「生きていることを祝う」などの意味でつかわれる。究極はこれで良いんだと思う。
「び場」と「viva」を研究して、ちょっとずつ楽しくなる社会を実現したい。
そんな想いと決意を見える化しました。