1000字から3000字程度の短いおはなし。上の方が新しく更新したものです
1000字から3000字程度の短いおはなし。上の方が新しく更新したものです
夜明け前の空気はアイロンを掛けたワイシャツのようで好きだ。寝室に大きく開いた東向きの掃き出し窓を開けてベランダに出る。濃紺の空が次第に光を帯びて灰がかり、ピンクやオレンジに染まり始める。柵に寄りかかり、湿度のある空気を肺いっぱいに吸い込む。昼間はまだまだ残暑に苦しむ時期だけれど、朝は随分気温が下がるようになってきた。
空を見上げる。ひときわ輝いて見えるのは金星。それに寄り添うように見えるのは木星。立秋を過ぎた8月のこの時期にはもうオリオン座が昇ってくる。季節が変わる。
あれほど早く終わってほしいと思っていた夏も、いざ過ぎようとすると寂しさを感じるのだから人間とは欲深いものだ。
僕たちももしかしたらそういう時期なのかもしれない。若い頃のように熱情に浮かされて果てがないように抱き合うことは少なくなった。相手のことを気遣い、無理を避けるようになった。
愛おしいのだ。とてつもなく。それはきっとお互いに。
夏の後には秋が来る。人生だってそう。社会や人間の理屈を知ったような気になって、年相応の落ち着きとは何かを考え実行する。昔より怒りや悲しみに鈍くなったような気もする。感情の昂りも若い頃に比べればずっと穏やかになった。
火傷しそうだった20代の頃の熱を懐かしく思うことはあっても、もう一度体験したいとまでは思わない。心に引っかき傷を作るような駆け引きではなく、ただひたすらに甘えて、愛されていたい。
彼も、そうなのだろうか。
背後で網戸が開いて、また閉まる。彼からブランケットを受け取ると、今度は二人並んで変わりゆく空を眺める。高い場所にある雲が、ゆっくりと流れる。
「若い頃、君と二人で見た夜明け前の空を思い出す」
「それってまだ出会って間もない頃のこと?」
「そう」
まだお互いにどこの誰だかもわからない中、正体もわからない上役から命令されたひたすらに面倒な任務をやっとの思いでクリアした。丸2日以上不眠不休で作業して、解放されたときには夜明け前だったのだ。僕たちはオーバーワークで妙なテンションになり、雑居ビルが建ち並ぶアスファルトの上に寝転がったまま口喧嘩した。ビルに囲まれた空は狭くて、飲食店から出た生ゴミを漁ろうとカラスが飛び交っていた。バカだアホだと言い合う幼稚園児みたいな喧嘩自体もバカらしくなって、結局空が明るくなってから彼が僕を抱き起こして、大人しく帰宅したのだ。
あのときの空が?
僕の目が訝しげに映ったんだろう。赤井は目元を柔らかくして笑った。
「薄暗かった空が次第に明けていくその変化がまるで君を見てるようだった。あの頃から君のこと好ましく思っていたんだ」
目尻に唇。
「変な人。ライのばか。って言ってたのに」
「100回は聞いたな。いや、もっとか」
今度は僕が彼の頬に唇を。
「目が覚めた?コーヒー、淹れようか」
「いや、俺が」
さっきまで見えていた星が見えなくなって、その代わりに太陽が昇り始めた。最後まで輝く金星が僕たちを見ている。
「赤井」
彼の背中を押して性急に室内へと戻る。「生意気だった頃の僕も好きだった?」
「どんな君も、もちろん」
助手席で口を開けて眠っている君だって心の底から愛している。
そう言って笑う。
ただ、あなたのことが好き。きっともう嫉妬に溺れそうになることも、僕を見ろと訴えることもないけれど、一緒に最後まで生きたいと思う。それで充分なのだ。
季節が巡るように、僕たちの関係も自然に変容していく。
「赤井、昨日の続き、しよう?」
そう言って抱きつくと、力強く腕が回される。
「激しいのがいい?そういう気分って目をしてる」
顔中に降ってくるキスを受け止めながら頷く。今日も茹だるような暑さになりそうな、季節だけは秋の朝のこと。
6月下旬に突然マスターが店内に持ち込んだ笹。入口近くに設置して、短冊や折り紙、それにカラーペンを小さなバスケットに入れて客席に置いておくと数日後にはそれらしい華やかな飾り付けが整っていた。
今日が7日だから明日の朝にはバックヤードに片付けて、午前中にはマスターに引き取ってもらわなければならない。
閉店後、1枚ずつ短冊を確認して、氏名やその他の個人情報が書かれているものは外す。これらは別にして処分した方がいいだろう。
短冊には家内安全、世界平和といった言葉や、高校生の恋の成就の願い事、品薄になっている最近発売されたゲーム機が欲しい、海外旅行に行きたい。第一志望合格、ボーナス増額、コンサートのチケット当選祈願、他にも様々な願い事が。
『しょうねんたんていだんがもっとかつやくできますように』
『うなじゅうはらいっぱいくえますように』
これはよくここに来る彼らの願い事だろう。小学生らしい大きな文字に笑みが漏れる。
『あむぴの願いが叶いますように』
若い女性特有の崩した筆跡。僕の特徴をよく捉えたデフォルメ化された絵まで描かれている。これは常連になっている高校生の誰かが書いたのだろう。
「僕の願い、か…」
個人的な願いが一つだけ叶うなら、今は『忘れたい』だろうか。
陳腐な恋愛ごっこを本気にしてしまった僕の感情、忘れたいのに忘れられないあの人の幻影。今の僕には必要のない、むしろ邪魔にしかならない感情をすべて忘れてしまえば楽になるのに。なんてどうにもならないことを考える。
「うん?」
壁側に隠すように結ばれた水色の短冊が目に入った。名前は書かれていない。
『素顔で会えるのは年に一度?』
謎掛けに見えるがそうじゃないのは僕が一番知っている。ご丁寧に筆跡まで変えているが、このクエスションマークには見覚えがある。
いつもそうだ。影を思い浮かべると姿を現す。僕はその短冊を両手で外してボトムのポケットに突っ込み、慌ただしく店を出た。
「いつの間にポアロに侵入したんだ?」
「マスターの許可は取ったさ。ブレンドも旨かった」
県境を超えた山間の谷。一応は県道だが外灯すらまばらな道のさらに奥。そこは彼らが『ライ』と『バーボン』だった頃に一度だけ訪れた場所だった。
杉の木を伐採するためだろう、道路から車両が入れるように整地された一画。
車を降りて辺りを見回し、適当な方向に向けて言葉を発すると、意外と近い場所から返事が聞こえた。よく響く、深い声。
都会でも殊更に目立つ赤い外車は暗闇に潜んでいて、今は影しか見えない。
「…あかい?」
「うん」
右手を取られたかと思うと、次の瞬間には強く抱き締められていた。
「覚えていたのか、バーボン」
「あなたこそ、あんなメッセージを書いて」
数年前の同日、二人で行った任務帰りにライが寄り道をしたのがここだった。
天の川で隔たれた織姫と彦星のように、バーボンがライを裏切ったなら、その時は1年に1度だけあなたに素顔を見せよう。他の日は顔を変えて、声を変えてあなたに会いに行こうか。確かそんな事を言った。つまり、ポアロにあった短冊に書かれた二人しか知らないキーワードが導くのはこの場所だ。
赤井が殺害されたと聞いて、すぐにその日の会話を思い出した。死んでいない。素顔を隠してきっとすぐそばにいる、と確信した。
今は素顔を隠しているのは赤井の方。正体を暴いたのは僕。背中に手を回してもいいのか迷っていると、「誰も見ていない」と耳元で声がした。
「赤井…。ライ」
背中に腕を回して、それから髪に触れる。短くなった髪、煙草の匂い、密やかな笑い声。
「…零」
大きく息を吐く音が聞こえる。僕の心は3年前まで時間が戻ったように大きく脈打ち、愛していた男の肩に頬を乗せた。
「どうしてこんな謎掛けを?」
肩を竦めるだけで、答えはない。
「僕を呼び出してどうするつもりですか?」
「何もしないさ。ただ、変装を解いて君に触れたくなった」
そうやって僕の欲しい言葉を並べるのは昔から変わらない。腹立たしい事に、ライは僕に対しては残酷なほど優しい男だった。
愛していた。憎んでいる。相反する感情は心臓で渦巻いて、いつまでも頭の中で停滞している。
光がない夜に見る天の川は、あの時と同じように今にも星が落ちてきそうなほどの迫力がある。
夏に天の川が明るく見えるのは、地球の公転によって星の多い銀河系の中心部が見えているためだ。いつまでも一つのこと、一人の男に固執していないで、見方を変える、見る角度を変えるだけで新しい道に踏み出せるのだとわかっている。
「あなたのこと、すべて忘れられたら。そしたら僕はもっと使える武器になるのに」
目を閉じて、天の川の対岸にいるベガとアルタイルに願う。
額に唇の感触。
「君はまたここに来る。俺が謎を掛けたら必ず答え合わせをしに、俺の元へ」
予言でもするように重々しく言った彼は、僕の首の後ろに手を這わせ、指で撫でてから体全体で抱き込んできた。高い体温が伝染する。
本当はまだ、この人を愛しているのかもしれない。実際に触れ合うと感じる。皮膚を通して心臓に辿り着く。
あなたはいつも残酷なほど優しくて。だから星に願ったとしても、きっと最後まで忘れられない。
意識を失う前に水面に顔を出さなければならない。理性は危険を知らせているのに、本能に近い部分がそれを抱き込んで離さない。俺は知らぬ間に息をすることを忘れ、楽園を夢見ながら窒息するのかもしれない。
息苦しさに目が覚めた。潜入捜査を始めてからはよくある症状だ。所属先の庇護が届かない場所で、自分の身を守るのは自分しかいない。いつ正体がバレて処刑されるかわからない緊張感。気に入らないことがあれば口よりも先にベレッタを出す人間がいるような場所。
仕事内容についてもじわじわと理性を侵してくる。組織の秘密を知った者、何らかのプロジェクトの実行に不都合な者、ただ目障りな者。法的な根拠なしにそれらを処分することは楽な仕事ではなかった。俺が引き金を引くことで死んだ彼らには望む未来があり、悼む者がいた。
人生を賭けてでも捜したい人がいる。どんなことをしても解明したい真相がある。そのために自ら望んでここに来たのだ。
潜入捜査は海底に沈む船の調査のようだと思うことがある。ボンベの空気が枯渇する前に水面に顔を出して息を吸う。空気を補充してまた潜り、船が沈んだ原因を調査する。調査中、船室に入ったまま出られなくなり、そこで酸素が尽きればアウト。死者の亡霊に足を取られても駄目だろう。船底を泳ぐ美しい魚に見惚れて時間を忘れるようなことがあれば、自らも船と共に沈んだ死者の亡霊の道へと進むだけだ。
迷いがあるなら海面から顔を出して、空を見上げ北極星を探さなければならない。そしてそれをガイドに本来の場所まで立ち戻るしかない。
ただ、雨の日は星が見えない。
耐用年数をはるかに過ぎたようなボロアパートの一室。夜中から降り続く強い雨は薄い壁や窓に当たり、不快な音を立てる。
隣にはすうすうと健全な寝息を立てて眠る青年。無害そうな外見には不似合いな謀略に正に一目惚れした。
女だと思ったことはない。誰かの代わりにしたわけでもない。強いて言えば強気な外面の中身を見たかったのかも知れない。それとも汚い場所で倫理を説く彼の善悪の判断基準を知りたかったか。いや、純粋に彼が欲しくなっただけだ。
腕を掴んで引き寄せても黙っていたからこちらのいいように解釈して部屋に連れ込んだら、あとはなし崩しだった。俺の何が気に入ったのかは知れない。何らかの打算はあるだろう。自分を犠牲にすることを厭わない、そういう男だ。
溺れそうだと思った。何を差し置いてでも欲しいと思った。なぜこれ程たった一人に執着が向くのか、合理的な説明ができない。ただ、手を伸ばせ、何があっても手放すな、と頭の中で警鐘が鳴り響く。体が勝手に動き出すような感覚は、理性での制御ができなくなりそうで恐ろしいとも思う。
船底を泳ぐ美しい魚に惚れたダイバーの末路は一体どんなものだ。
雨は外と中を隔てる壁のようなものだ。部屋の中は雨に遮られ、ここで起こったことはどこにも漏れないのではないかという気にすらなる。
左手を伸ばして明るい色の髪に触れる。
「もうしないからな」
掠れた声。
おざなりに閉めたカーテンの隙間から、淡い光が漏れ始めた。雨天の日も夜は明ける。当たり前のことだ。
無理をさせて悪かったな。謝るかどうかを逡巡して、結局声に出さずに頭を撫でる。腹の底から湧き上がる感情がある。外の世界から雨で遮られた今だけ、この感情の発露が誰にも知られなければいいと思う。
寝返りを打ってこちらを向いたバーボンがクスクスと笑う。
「湿気で髪が…」
包まっていたシーツから腕を出して、目にかかった俺の髪を掬う。
「クルクルになってる」
気の抜けた笑い声。
たまらなくなって抱き寄せる。
「なあ…」
「うん?」
「いや、何でもない」
髪にキスをして、また撫でる。
狡猾に立ち回る小悪魔を思わせる言動は鳴りを潜め、年相応の普通の青年に見える。
人を騙して、罠に嵌めて、感情を操作して望みの情報を片端から吸い上げていく。美しく蠱惑的な顔は仮面の一つに過ぎないのではないか。そう直感が告げる。本物の君は屈託のない、幼さの残る笑顔を見せるのではないか?昨夜からふとした瞬間に見せるようなそれ。今も。
「いつものあなたらしくない。何だろう、普通の男の顔してる。声も、少しトーンが違う。もしかして気が抜けた?」
鏡合わせのように彼に見えているのはきっと本来の俺の姿なのだろう。
ふと考える。今、この瞬間俺は船の底にいるのか、それとも海面に顔を出して星を探しているのか。
ため息のように息を吐き出す。
「楽に息ができるような気がする」
厚い雲に遮られ、北極星は見えないのに。
「海で溺れる夢でも見た?それとも宇宙空間に放り出されたとか」
心地良い声色が皮膚を通して脳に届く。
「…もう忘れた」
君はダイバーを惑わせる魚か。それとも雲の上で輝く北極星か。
雨の音で目が覚めた。
街中の汚れを洗い流すような、悪事の証拠をもろとも隠してしまうような雨が、昔は好きだったことを思い出した。
まだ空は真っ暗で、僕は寝返りを打って隣で寝ている男と向かい合わせになった。
ずっと前から好きだった人。いつからかなんて覚えていない。あの頃は僕のものになるなんてあり得ないと思っていたのに。
暗闇の中、裸で眠る男の腕に手を伸ばす。
「うん…?雨の音が気になるか?」
「起こした?」
「いや、君を抱き寄せるタイミングを計っていた」
男は、赤井は僕を気遣う嘘をついて左手で僕を抱き寄せた。体温が近くなって、煙草混じりの匂いが鼻を掠める。
雨の音に触発されて、思い出したくないことも脳裏を過る。あやまち、後悔、最善の策を選択することができなかったこと。油断、目論見違い、無駄な犠牲。
思い悩んで事態が改善するはずがないのだから、もっと建設的なことに頭を使うべきだとはわかっている。でも、どうしようもなく過去に囚われる日もあるのだ。こんな雨の降る夜明け前は特に。
「ん…、あかい…」
両手を伸ばして彼の首に抱きつき、鼻先で喉仏を引っ掻く。僕好みの柔軟剤の香りの奥に、煙草と赤井そのものの匂い。
弱味を見せることは、攻撃を許すことと同じだと思っていた。信頼できる人がいないわけではないけれど、僕が開示した秘密はいつかどこかに漏れるし、それを利用しようとする人間がいる。だから誰の前でも弱味のない、隙のない完璧なヒトを演じなければならなかった。
ところが赤井は最初から僕の弱さを知っているようだった。僕の秘密を端から暴いていって、なのに誰にもその秘密を漏らそうとしない。昔からそうだった。変なところで律儀な男だったのだ。
「眠れない…かも」
わがままを言って彼の腕の中に背中を向けて収まる。彼は僕を後ろから抱き締めて、音を立てて髪にキスをした。おしゃべりに付き合ってくれるらしい。
「あなたも、こんな夜がある?」
「ああ。君と一緒に眠るようになって、随分減ったが」
完璧に見える男にも、こんな風に何かを思い出して苦悩する夜があるのか。
「あなたの精神は鋼鉄でコーティングされているんだと思ってた」
声を落として笑う声。
「そう装っていたから。君にそう見えていたなら僥倖だな」
何事にも揺るがない、美学のようなものを確かに持っていた。些末な事には無関心で、何かに心が揺さぶられることなんてなさそうに見えていたのに。
「僕は、バーボンはあなたからどう見えていた?」
あの頃の、お互いの正体を探るような視線や駆け引きを思い出す。全てを見透かすような緑の目に随分振り回されていた、あの頃。
「初めて会ったときから気になってはいたさ。君は余程あの組織には不釣り合いな、真っ直ぐな目をしていたから」
赤井はそう言って僕の髪を一房掬う。
「君は悪人になろうとして、やはりなりきれてはいなかったよ。君の中には一本の真っ直ぐな正義があって…」
途中で言葉を止めて、何か言い淀んでいるような気配がした。寝返りを打って彼の表情を確認したかったけれど、どちらにしろ暗くて見えないだろう。僕の上半身を抱きかかえた太い腕をあやすように撫でる。
「…断罪されるなら君がいいと思っていた」
そう言うと赤井は僕の腕を掴んで体ごと支えて、自身の体の上にうつ伏せにした僕を乗せた。皮膚を通して心地良い心音が伝わってくる。
「…断罪?」
「ああ。君と出会った頃の俺は、そうだな、迷っていたんだ。指標となるものを持たず、自分の持っている価値観が絶対ではないことを知ってしまった。何となく、わかるだろう?」
実際にあの場所にいないとわからないことだろう。自分の信じていたものを自分の手で壊さなければならない。歪な価値観に迎合して、彼らの規範に基づいた作戦行動を求められる。罪を重ねる毎に感覚が麻痺していき、それが快感にもなり得ることを僕も知っている。
「淀んだ世界に颯爽と現れた風のような存在だった」
「僕が?」
「君が」
暗闇に目が慣れてきて、わずかな光を反射させた緑の虹彩が見えた。
「埃も泥も、堅牢な建物でさえ全てを吹き飛ばす猛烈な風だ」
そう言った彼は今度は声を出して笑う。
「あまりにも猛烈で、うるさいと思うこともあった。それでも君の存在がどれほどあの頃の俺を救ったか」
頭を撫でられる。
そんなこと、知らなかった。僕は耳を彼の心臓に当てて脈動を聞く。
「あなたにも、眠れない夜があった」
「弱味を見せる男が嫌いなら、今の話は忘れてくれ。君好みの男でいたいから」
僕は赤井の胸の上でブンブンと首を振る。
「今、猛烈にあなたのことを愛おしく思っていますよ」
雨音を遮り僕を眠りに導く心音に、心臓の位置に唇を落とす。
「あなたが眠れない夜は、僕を起こして」
返事の代わりに髪を撫でる手。
安心して眠る僕の手を取ったかと思うと、手の甲に唇の感触。
「おやすみ、零」
もう一度、一緒に眠ろう。
戦はいとも簡単に始まる。そのまま膠着状態が長く続くことも多いが、ある日突然和議が整うこともある。昨日までその気を見せなかった大将が家臣にでも説得させられたのか、突然折れることはよくあるのだ。
人の心は簡単に移ろう。領地か、金か、人質か、野心か、もしかしたらもっと別の何かによって。
戦が終わったことを馬を走らせて戦場に知らせ、主要な将を本陣に集める。そこからは怒涛の事務処理が待っているのだ。戦果の記録、自軍の被害状況、検証、褒賞をどう配分するか。または兵糧や情報の管理、他にも。
早朝に終戦したにもかかわらず、零が一息着こうと陣中を出たのはすっかり日が暮れて周りが見づらくなる頃だった。そういえば多忙のあまり飯も口に入れていなかったことを思い出し、懐から干し芋を取り出す。
「ああ…」
風の流れに誘われるように振り向くと、本陣の奥に広がる暗い山なみの上に紺と朱の空が見える。同じ空なのに連続的に、切れ目がなく色が変化していく様が儚いような、なのに目が離せないほど美しくて、思わずため息が出る。
「人の気持ちは移ろう」
この空のように。
「移ろわぬ心もある」
いつの間にか気配もさせずに背後に立っていた男に派手な舌打ちをして、くるりと振り向く。
「一人で出てきていいんですか?護衛は?」
そう言うと折烏帽子の男は「必要があると思うか?」と言って二本に触れた。相変わらず気に食わない奴だ。
領地こそ隣り合っているが、形式や儀礼ではない会話を交わしたのは二人がまだ初陣に出る前のことだったと思う。初めて会ったのは確か零が元服してすぐの頃だった。
当時赤井は父君に連れられて零の住む屋敷に来ていた。大人たちの前ではいかにも武家の子息らしい振る舞いをしていたのに、庭で零を見つけた途端に形だけ非礼を詫びてから色々と話しかけてきた。
切れ長で人の弱点を見透かすような鋭い目が、零の前でだけ目を細めて破顔するのが不思議な感じだった。ずっと後になって、あれが淡い恋だったことを知った。
同じ軍に与していながら雑談すらしていなかった。軍議でも赤井から特別意見は出なかったように思う。いや、零のことを信頼していると言っていたか。
「今回の協定はあくまで一時的なものです。僕とあなたの利害が一致したから結果的に同じ陣にいただけで、これが終わったらまた元通りに敵同士」
穏やかな笑みを浮かべて零がそう言うと、彼も薄い唇をわずかに上げた。
「君のそういう好戦的な方向に捻くれた性分、好ましいと思っているんだ」
いちいち腹の立つ言い方をする男だ。捻くれていて悪かったな。
零がため息をつくと、赤井は大きく一歩踏み出して距離を詰めてきた。
「君の手のそれ、今から食うのか?」
握ったままの干し芋を反射的に赤井から遠ざける。それから懐にもう一つ同じ物が入っていることを思い出した。
「……もう一つあるけど、あなたも食べる?」
様子を伺いながらそう言うと、今度は目を細めて声を出して笑い始めた。
「いや、きみ、それ、何と言うか」
息継ぎをするたびに笑い声が挟まっている。そんなにおかしな事を言っただろうかと訝しんだ。
「…悪い、済まない。きみが俺に情をかけてくれるのが嬉しくて」
そう言いながらまだ笑っている。
儚い恋だった、終わったはずのものだった。
「そういえばあなた、昔よく僕に食べ物を渡してきましたよね?」
まだ背の丈がぐんぐんと伸びているような時分、三月に一度くらいだっただろうか。赤井はわざわざ単身馬で駆けて来て、変わった形の饅頭や色とりどりの団子、季節の果実や、見たこともないような海の外からやってきた砂糖菓子。それに香りのする木の枝や鮮やかな色の花を添えて。零が食べ終えると満足げな顔をして帰って行くのだ。
赤井が城を任せられるくらいの齢になると、彼の足は自然と遠ざかった。零も次第に政や近隣との折衝に忙殺されるようになり、あの砂糖菓子は大切な、しかしただの思い出のひとつとなる。そのうち近隣の国の情勢も悪くなり、やがて戦ばかりの日々になる。
人の気持ちは移ろうのだ。子供の頃の親愛の情を大人になっても持ち続けることは難しい。ましてや隣国の将同士、いつ情勢が変化するかわからない。
赤井は零から芋を受け取ると、自分の懐からは瓢箪と酒器を取り出した。どうやら酒をくすねてきていたらしい。
「祝い酒だ」
陣中でも男たちの大きな笑い声が上がっている。
「戻らなくていいんですか?」
「君がいいなら、しばらく二人で話がしたい。…砂糖菓子でなくて悪いが」
そう言われて、零は一瞬の後に微笑んだ。
「思い出話でもしますか?」
「できればゆく方の話もしたい。君とはもっと解り合いたいんだ」
人の気持ちは移ろう。でも移ろわぬ心もあるらしい。赤井は子供の頃、何を思って山を超えてまで零に食べ物を持ってきたのだろう。芋を受け取った彼の笑顔を見て、その理由が分かったような気がした。
「仕方がありませんね。では、この商談は最初からなかった、ということで」
見なくてもわかる、他意のなさそうな笑顔を浮かべて、バーボンは胸の前で両手の指を合わせる。彼の背後に立っていた俺は同じタイミングでガラステーブルに置かれた札束入りのアタッシュケースを仕舞い、ライはホルスターから拳銃を取り出してテーブルの向かいにいる男たちに銃口を向ける。バーボンの微笑みをきっかけにして室内の空気が一瞬で緊張する。
今回の俺達の取引相手は香港マフィアの一派だ。バーボンとテーブルを挟んで向かいに座るのが派閥のナンバー2とされる男、その後に立つのはサングラス姿の若い部下二人。それなりに古くからある派閥らしく、彼らのプライドは香港ICCビルよりもずっと高い。真摯な対応をしていた『我々』を終始都合よく使おうとする態度に3人の中で一番気の短いバーボンがキレた。
「いや、この契約を破棄するのは君たちのためにはならない」
髭を蓄えたスーツ姿の男が向かいに座るバーボンを見据える。思えばこの男は最初からバーボンをナメていた。
「猫を相手にするのはさぞかし大変だったでしょう。気まぐれで、馬鹿で、そもそも話が通じない」
まだ気に障ってんのか、こいつは。
接触直後から度々猫だと揶揄されたのが余程腹立たしいらしい。確かに若いバーボンを侮るような態度や発言が、信用を第一とする今回のような取引ではリスクだと判断できる。掛けてきた手間や時間を思うと辛いところだが、残念ながら今回は破談だ。
バーボンは最後に笑顔で「にゃお」と言ってから立ち上がる。ライの銃口が寸分違わず椅子に掛ける男の眉間に向けられ続けていて、少しでも動けば一瞬のうちにお前たちのボスが死ぬ、という無言のメッセージを発している。
バーボンは唇を噛む奴らをよそ目に悠然とした仕草で背を向け、退室した。
「お前さあ、そのプライドの高さ何とかならないのか?」
狭い路地を歩きながら前を行くバーボンに声を掛ける。確かにリスク要因ではあるが、契約が破断になって困るのはお互いにだ。また面倒な偽装工作をして薬の原料を調達しなきゃならない。正規ルートでは手に入れられないからと言って黒社会に入り込んでみたものの、そう容易く手に入るものではないのだろう。そうは思うけど、少し愚痴っぽくなるのは許してほしい。
「猫だぞ猫!お前は言われたことないからそんなこと言ってられるんだ。僕のどこが猫だって言うんだよ目腐ってんのかな」
「猫ねえ」
大きな目と青い虹彩、ツンとした唇なんかは猫らしいと思うけど、それを指摘するとまた面倒なことになるから黙っておく。すると後ろから追いついたライが「まあ、確かに猫だな」と呟いた。空気を読めよ全く。
「誰が猫だって?」
丸い髪が一束、ぴくんと揺れた。
「あの男はお前をバカにしたわけじゃなく、その可愛らしい顔を揶揄しただけだろう」
「どう違うのかわかりませんけどね。どっちにしろあの男は信頼できません。どうせ取引を続けても質の悪い物を掴まされた」
「…まあ、そうかもな」
俺がそう返事すると、バーボンはフン、と鼻息を吐き出してまた歩き出す。
「…飲茶食いに行くか」
「その前にその荷物を何とかしろ」
ライに指摘されて手にしたアタッシュケースに目を落とす。中にはもちろん本物の現金がぎっしりと詰められている。盗まれるとさすがに都合が悪い。
「テイクアウトにしよう」
「パリパリの春巻食べたい」
「にゃうん」
飯の算段をしていると路面店の裏側から出てきた猫がライの足元に擦り寄ってきた。まだ小さくて、カフェオレのような色の毛がふわふわと風に靡いている。バーボンにそっくりな青い目と、ツンとした鼻先、全体的に丸いフォルムがバーボンの後頭部を連想させる。猫はライの長い髪が揺れるのが気になるのか、毛先を目で追っている。
ライはにゃうにゃうと鳴く猫を見て喉の奥で笑う。バーボンにそっくりだとでも思ってるんだろう。その目線が本当に可愛らしいもの、愛おしいものを見るようなそれで、何だか傍目に見ているこっちが照れてしまいそうだ。
「ライってさ、」
「何だ」
「コワモテなのに動物にはモテんのな」
別の、もっと重要なことを聞きたいような気もしたけれど、聞いてどうなるものでもないと思い直した。
「なんか、レモンスカッシュな気分」
「いいな。ドリンクも買って帰ろう」
ライは肩を竦め、何にも気付いていないバーボンは無邪気な笑顔で俺とライと子猫を眺めていた。
一時休戦。バーボンは今回『降谷』個人が決裁できる範囲では最大の譲歩をしたつもりだ。一方的で割に合わないそれも、歓談といった体の工藤夫妻を前にして頑なな態度を取り続けるわけにも行かなかった。今後とも、それこそ組織の本格捜査に際する『我々の』善き協力者であるところの彼らに。
工藤氏が差し出した右手には軽く触れるに留め、彼はバーボンらしく慇懃に挨拶をして席を立つ。なぜか終始彼の隣に座っていた赤井には視線を交わすのみで了解事項の確認をし、その場を後にしようとした。
「お見送りは結構ですよ、僕は不法侵入者ですから」
我ながら卑屈な言い方だと思うが、赤井を前にするとついそういう言い回しが口を突いて出てくる。本当は大切に扱ってほしいとでも言いたげな口調。バーボンは自分に嫌気が差したようにため息をつく。
「…」
軽い口調で皮肉が返ってくるものだと思ったが、意外に無言でいる赤井を訝しんだ瞬間、廊下の先を歩いていたバーボンの上腕を、不意に力強い手が取った。
「シー」
耳元で囁かれたと思うと、そのまま玄関横の暗い小部屋に押し込められた。
「何をっ!」
「悪い、バーボン」
大きな右手で口を塞がれ、部屋の壁に背中を押し付けられる。木製の扉がゆっくりと閉まり、窓もないのだろう、真っ暗な閉鎖空間になった。
バーボンは赤井が腹を殴打して自分を気絶させるつもりかと構えたが、しばらくすると口を塞いでいた手は離れ、代わりに優しく髪に触れ、そのまま強く抱き締められるような格好になった。
服の上からでもわかる心臓の鼓動。平常よりも早鐘を打つ心拍と、次第に荒くなる呼吸。
「ハ…ッ」
耳元で短く息を吐き、歯を食いしばる音が聞こえる。
「あか…」
「すまない。これ以上手は出さない。ただ…」
うなじに手が這い、高い鼻がバーボンの耳の後ろに当たる。きっと、体臭を嗅がれている。
「うぅ、」
謝っておきながら随分強引な手。バーボンはこの手をよく知っている。…知っていた。
「もう少し、このまま」
懇願にも似た声を撥ねつけることはできなかった。
バーボンは自分の欠点をよく分かっていた。どうしても好奇心に勝つことができない。革ジャケットの裾を握っていたバーボンの両手は、いつかあった一時の甘い瞬間を思い出すようにそっと男のスラックスに伸びる。
少しの興味、少しの期待。おかしな話だ。もう愛してはいない男に求められることを期待するなんて。だからバーボンはこれが純然な興味、好奇心から来る行動だと自らに言い聞かせる。
「バーボン…?」
フ、と息を吐いて、彼は両手を合わさった二人の腰の間に差し入れる。ゴツ、とした硬い感触を指の先で辿る。赤井が、僕を抱きしめて興奮している。
「バーボン…、なあ、絆されてくれるか…」
ゴクリと喉仏が上下するのが見えるような気がする。暗闇のはずなのに深緑の眼光がバーボンの視界を走る。
「ふ、う…」
バーボンの開いた唇に分厚い舌が差し込まれる。逃げる舌を追いかけて歯の裏側まで舐め尽くされる。
「ン…」
頬の内側、歯列、舌の裏側まで、凌辱するような激しさで。零れ落ちそうになる唾液を舐め取り、バーボンの下唇を噛んだ。
食べられてしまいそうだ。バーボンは押し付けられた壁に手を付き、体勢を整える。
赤井は小さな紙切れをバーボンのボトムのポケットに突っ込み、「いつでもいい、君が欲しい」と囁いてからもう一度彼を抱きしめ、最後に唇の端に触れるだけのキスをした。
書店員N氏
「よく見えられますよ。どんな本を買われるのかは…個人情報になりそうなので控えますけど、新刊もよく購入されますし、専門書の取り寄せもよくされます。気さくな方で、以前この方が購入された新刊がすごく面白い作品だったので、レジ対応中に「この本良かったですよ」と言ったら「書店員さんおすすめの本なら間違いありませんね」って優しく微笑まれて。あと、取り寄せした本が入荷したときにこちらから電話するんですけど、その時の対応もぶっきらぼうでもなく、かといってビジネス的でもなく、優しい受け答えで。ここだけの話、声もとてもきれいですよね。授業中なのか昼間はあまり電話には出られませんけど、折り返しいただけるので助かってます。ほんと、いい人ですよね。
たまに海外のペーパーバックもご注文いただいて。英語堪能なんでしょうね。絶対頭もいいし、羨ましいなあって思ってます。なかなかいないですよね、あんな人。
いつも一人で来られますよ。あ、以前店内で会った小学校低学年の男の子と話してました。近所の子だったみたいで、その子の本も…というよりはその子が家族に頼まれたのかな?文庫本数冊も一緒に購入されて、両手に紙袋持って二人で帰っていかれました。
変わった行動は特に。ときおり店外の様子を気にされてますけど、だから特にどう、と言うことは…。
よくご利用いただいて、いいお客様です。これからも当書店をよろしくお願いします、と言いたいです」
パン製造販売店店主 K氏
「ああ、上客も上客、お得意様だよ。以前は食パンをね、カットしてあるやつを一斤と缶コーヒーくらいだったんだけどね。…いやあそりゃ覚えてるよちょっといないような、いわゆるイケメンってやつだ。背も高いしさ。家のカミさんなんか学校帰ってきた娘と一緒に騒いでるくらいでよ。そうそう、ありゃモテるだろうね。
週に一度食パン1斤だったのがある日突然3斤一本買って行くようになって。うちは保存料も使ってないからね、賞味期限は三日ですよって言っても大丈夫だって。まあスライスして冷凍しとけば保つんだけどさあ。家族が増えたんじゃないかって娘は言ってたけど急に増えすぎだろ?それじゃあ。結婚してる感じもなかったよ?奥さんと一緒に来るってこともないし、毎度一人。女性の方が好きでしょう?パン屋なんて。でもそれらしい人は連れて来たことないねえ。
そうそう、それからうちの目玉商品はこの餡トースト。北海道産の小豆をたっぷり使ってて、これにバター置いてトースターで焼いたらそりゃあもう美味いって評判でさあ。ほら、これ雑誌で紹介された記事の切り抜き。いや、話が脱線したわけじゃないって。この餡トーストも買って行くんだよその人。なんかこれが好きな人がいるらしくて、買い物代行ってやつかな?後は夕方に来て惣菜パンや菓子パンを片っ端から買ってくれることもあるんだよ。惣菜系なんかは日持ちしないからね、夜まで残ったら廃棄になるのも多いんだけど、ほんと助かるよ。カミさんが誰が食べるのか聞いたら、同僚だって。何の仕事してんのか知らないけどこの辺は商店街と住宅街だし、不思議な人ではあるなあ、確かに」
会社員 S氏
「この方、よくお会いしますよ。私は毎朝愛犬と一緒に40分くらい、そこの裏の児童公園を経由して、まだシャッターが閉まってる商店街を北から降りてきて駅前まで行って、また折り返して帰るってルートでジョギングしてるんですけど、だいたい同じ時間にその方は公園から小学校方面にお散歩されてるみたいで。ええ、いつもお一人で。ルートもいつも同じだと思います。挨拶もきちんとされる方で、感じがいいですよね。
でも、何度かうちの犬、ミニチュアシュナウザーなんですけど、犬がその方目掛けてやたら吠えることがあって。唸りながら牙を剥いて、もう噛み付くんじゃないかと気が気じゃなくって。普段そんなことしない子なんですけど…。謝りながらリードを離さないようにぎゅっと握ってやり過ごしたんですけど、何故かその方の方が恐縮される有り様で。初めてうちの子が吠えた次の日に、ええ、その日は全く吠えませんでした。昨日はすみませんでしたって改めて謝ったら、昨日行った実験のときの試薬が匂ったのかもしれませんっておっしゃって。理系の大学院生って聞きました。落ち着いていて、話し方も上品で、モテるだろうなと思いました。
夜、帰宅時にお見かけしたこともありますよ。ビニールの袋からカートンの煙草とウイスキーの瓶、ほら、赤い蝋みたいなのが掛かってる銘柄の。あれウイスキーですよね。それが飛び出てて、意外な一面を目撃した気分でした。だって朝はとっても爽やかで紳士的なのに、酒と煙草だなんて。って。しかもビニールの持ち手を腕に通して両手をズボンのポケットに入れて歩いてて。朝と随分印象が違ったからこれがギャップってやつか。やっぱりモテそうだなあなんて思いました」
喫茶店店員 A氏
「その人のことは詳しくは知りませんよ。知り合い、とも言えないかもしれない。東都大の大学院生らしいですよ。その割には随分ヒマそうに朝っぱらから散歩したり昼間に本屋で立ち読みしたり夕方にはパン屋で菓子パンやら食パンやら大量に買い込んだりして。全く気楽ですよねえ、論文の一本でも書いてるんでしょうかね。よく見掛けますよ。目立つ背格好しているし、どちらかと言うと僕の行動範囲に奴の方から現れるんです。残念ながらこの店には立ち寄りません。ですから何も喋ることはありません。
料理?だから知りません。料理するんですか?あの人。…いえ、家事をするイメージが全くない。だからただの知り合いですと何度も。
ところであなた、どうして奴…いえ、彼のことを嗅ぎ回っているんです?商店街での聞き込みなんて大した成果が得られるとは思えないんですが。…ちょっと待て。コーヒーサービスするからそこに座って。所属と肩書、それから年齢を。運転免許証持ってたら出して。…怒ってはいませんよ。奴がストーカー被害に遭おうが自称恋人が現れようが僕には一切関係がない。ただし安全保障の観点からは見逃すことはできないんですよ、あなたのような存在は。…こちらの事情はあなたには関係のないことです。…うん。……なるほど?…はあ、恋人がいるかどうか気になったのかい?交友関係…そんなものあるのかアレに?……へえ。…そうかな。…そんなに…?…いや、よくわからなくなってきた。そんなに出来た人間なのかい?奴が?…はあ、世界は広いし色んな感性の人間がいるもんだなと感心しているところです。…ちょっと失礼。…風見か。至急私用車で誰かポアロに向かわせてくれ。できれば女性で。いや、ちょっとしたイタズラだ。…そう、頼んだ。…失礼しました。もう少しここにいて欲しいんだけど、コーヒーのおかわりはどうだい?」
その夜は僕も赤井も酔っていた。暖かい室内でバーボンをロックで何杯か。乾き物をつまみながら、いわゆる『スナック』と呼ばれるバーの語源だとか、酒税法が改正されたことで物価高にも関わらずビールに手が届きやすくなったこと、またはアメリカ政治の今後の見通しやら、国防から見る情報開示の限度と実効的な法整備について、もしくはスパムの美味い食べ方、和風ツナマヨおにぎりの作り方など、多岐に渡る話題が巡っていった。
どうしてあなたはクリスマスイブに僕の家で飲んでるんだ?さあ、君といるとおもしろいから。へえ、変わった男だな。君ほどじゃない。なんて言い合いながら。氷がなくなった。そういえば上司から日本酒貰ったんですよ、一昨日の事件で部署の忘年会飛んじゃったから、労いにって。スッキリした味だな。やっぱり辛口ですね。
ダイニングテーブルを挟んで向かい合って座っていたはずなのに、いつの間にかぐっと近づいていた距離。いつもの黒いワイシャツのボタンを一つ多く外した赤井が珍しく声を上げて笑っている。
機嫌がいいな。頬杖を付いてそう言うと赤井は僕の目をじっと見つめて「そうだな」って意味ありげに頷いた。酒精のためか白い肌が少し赤らんで、それが何かいけないものを見ているような気になって、でもそこから目を背けることもできない。太くて生命力に満ちた首筋からシャツの合間に見える鎖骨、その下は大胸筋だ。シャツの外側からでもわかる筋肉の盛り上がり。両胸の間はしっかりと締まって余計な肉は一つもない。
繰り返すけれど僕はその時酔っていた。でもそれを許した赤井も酔っていたんだ。僕は見えそうで見えない、黒いシャツで隠されたきっと美しい造形のそれを無性に見たくなった。彼に断りもせず、右手を伸ばしてワイシャツのボタンを外して、そのまま前を大きく開いた。少しピンクに染まった肌の、それは美しい筋肉だった。
多分僕は息を飲んでそれをじっと見ていた。精巧な彫刻を見ているような気持ちで。それの下には力強く脈打つ心臓があり、血液が常に巡っている。やけに唇が乾くような気がして、舌を出して唇を舐めた。
「どう?気に入ったか?」
赤井は僕の奇行に戸惑う風もなく、唇をにい、と広げて挑発的な目で僕を見る。
「うん。もっと…見たい」
これはアレだ。罠があるとわかっていて餌に誘き寄せられている。食物連鎖で言うと、次に餌になるのは僕自身。つまり、そういうこと。
「ベッドルームはこの奥?」
いつもより数倍甘くて、優しい声が僕を導く。握り締められた手首が熱い。ちゃんと頷けているだろうか。
「心臓の音が、うるさい」
光量を抑えた寝室で、ベッドに丁寧に寝かされて。大きな男が照明と僕の間に入っているから僕から見る赤井は少し暗い。自分の頸動脈の拍動がやけに大きく響いて聞こえる。緊張と期待、そして興奮。
「脱いでも?」
そう言いながら赤井の左手はすでに自らのワイシャツのボタンに掛かっていて、僕は息を飲みながらじっとその仕草を見つめている。
「君の視線から熱を感じる」
彼が息を吐く。きっと僕と同じように興奮している。黒いシャツが体を離れて僕の横に落ちた。肩も、上腕も、それから胸、腹。ゴツゴツとした分厚い肉体が僕の前に現れて、僕は右手をそうっと上げて彼の左胸に手を当てる。少し早い心拍。そしてそれは僕も同じ。
「どう?」
「うん」
すごく、かっこいい。そう呟くと赤井は心臓の上に置いた僕の手を握り、そのまま上体を下げて僕の唇を食んだ。
「実は今、すごく緊張しているんだ。君がこの体を性欲の対象として見ることができるのか、わからないから」
審査されている気分だ。
そう言って唇を離そうとするから、僕は追いかけるようにして今度は赤井の唇を塞ぐ。舌を絡めて、唇を噛む。脳が揺さぶられるような官能、快感。どうすればこの気持ちが伝わるのか考えて、余計なことはせずに言葉で伝えることにした。
「あなたが考えてもわからないことがあるなんて思わなかった。そしてそれが僕に関することだなんてとても気分がいい」
不可能なことなんて何もない、わからないことなんて一切なさそうなのに。僕に覆いかぶさっている人は少し困ったような顔をして僕の頬に触れる。
「わからないなら追求してみるといいよ。少なくとも僕は今あなたともっと親密に、肌を触れ合わせたい」
頬に触れていた彼の手が首元に下りて、そのまま肩、腕、それから腰のベルトに触れる。
「言っとくけど僕にも付いてるからな、アレ」
男だから当然だ。でも脱がされる前に言っておかないと、妙なリアクションをされたら困るから。
赤井は肩を震わせたかと思うとまた声を上げて笑い始めた。
「わかってる。君を女性かもしれないなんて思ったことはない」
「…あなたも、僕も、怖れていることは一緒なんじゃない?」
相手が同性である自分のことを性的にも愛せるかどうか。そうであれば今の会話でほぼ答えは出ているのだと思う。意思疎通ができたらあとはステップアップあるのみ。ニイと歯を見せて笑うと、赤井は君には敵わないな、と呟いて僕の手の甲にキスをした。
次の休日、赤井は大きな立方体のバッグを担いで降谷のマンションを訪れた。他に荷物はない。
「どうしたの、それ」
赤井にしてはとても珍しく柔らかい笑みを浮かべている。降谷がスリッパを棚から出して廊下に置くと、彼は一呼吸置いてから「次からは自分でするよ」と言う。先週までのようなゲストじゃない、君の恋人、パートナーだから。
擽ったいことを言う男だ。とても意外。
「先週君の歌声とギターの音色を聴いて、触発された」
重そうなバッグの中身はアコーディオン。大学生のときにアルバイトでアコーディオンを弾いていたとかいう話を以前聞いたことがある。これも意外。
「馴染みのバーのマスターから譲り受けたんだ」
「あなたって無口で無表情、無感動に見えるのに、何か人の琴線に触れるようなことをしたり言ったりするんでしょうね」
楽器なんて愛着のありそうなものを手放してもいいと思わせるだけの魅力が彼にある、ということなのだから。
赤井はソファの足元に荷物を置いて、キッチンでコーヒーを淹れる降谷を見つめる。ダイニングテーブルには読みかけの文庫本とタブレット。最近文庫化されたSF超大作の最新刊だろう。
コーヒーの香ばしい薫りが部屋の中に広がる。清潔で快適な部屋だ。主人の性格が出ている。
「さすがにアコーディオンは部屋の中で弾くには音量が」
クスクスと笑いながら言う降谷に肩を竦めて見せる。
「そう思って、場所を取ってある。ピアノバーなのにビーフシチューが旨い店」
「ビーフシチュー」
丸い頭が揺れた。
「淹れてくれたコーヒーを飲んでからでいいかな」
雑居ビルの地下、そのピアノバーにはまだ客は誰もいない。ビーフシチューも仕込み中だそうだ。
赤井は気安い様子でマスターと挨拶を交わし、降谷のことを自分の恋人だと言ってから紹介した。降谷は平静を装ってマスターと握手を交わしたが、内心では動揺していた。まだ付き合って一週間しか経っていない。こっちはまだ実感もできていないというのに恋人だ、なんて。
「ビールでいいか?当店のおすすめはスペインワインなんだけど」
「カヴァを」
スペイン産のシャンパンをオーダーした赤井は早速アコーディオンをケースから取り出す。学生時代にアルバイトをしていたのも店の真ん中にグランドピアノがあるバーだったらしく、ここに来ると当時のことを思い出すそうだ。
赤井のこと、何も知らないな。降谷はギターケースに手を掛けながらふと思う。経歴や行動歴は調べ上げたことがあるけれど、赤井秀一という人が何を考え、どういうときに感情が動くのかとか。好き嫌いも知らない。そもそも降谷のどこをどんな風に気に入って付き合うなんて発想に至ったのかも…。
「零?」
「あなたのこと、もっと知りたい」
降谷の目を見て一度息を止めた彼は、次の瞬間にはいつもの息を吐くような笑みを浮かべる。それから「次は二人きりの時に言ってくれないか。何でも教えてあげるから」と言った。
「ギターとのセッションならジプシージャズはどうかな」
「ギター、普通のアコギですよ?」
「問題ない。とりあえずやってみよう」
コード進行と簡単な曲の流れを確認してから早速ギターに指を掛ける。リズムをとってフラメンコのように大げさに弾き鳴らすと、ニヤリと笑った赤井が痺れるようなメロディを奏で始めた。
目を合わせ、呼吸を合わせて意思疎通を図る。長い指が複雑な動きをして、それに見惚れてしまいそうになる。初めてのセッションとは思えない、一言で多くを覚る二人の会話そのもののような音楽。
汗が流れるのも気にならない。そのうち開店前にやってきたプレイヤーがヴァイオリンを鳴らしたり、マスターが戯れにピアノを弾いたりしてセッションを盛り上げる。あの赤井が大きな口を開けて笑っている。触発されて降谷も声を上げて笑った。楽しい、おもしろい、信じられないくらい気持ちいい。
セッションを始めるまでは赤井のこと何も知らないと思っていたのに、これほどまでに近く、肌を合わせているみたいに相手の感情が流れ込んでくる。脳から快楽物質が流れ出てくるのがわかるような気がした。
目配せをされて、次は降谷がメロディを奏でる。ジプシーの悲哀をスイングジャズの軽快さに乗せて、彷徨っていた過去の自分に重ねる。「Amazing!」赤井の唇がそう動いた。大げさだ、バカ。
まるで心の奥深くを打ち明ける会話みたいなセッションは、最高潮に達した後、「シチューができたぞ」というマスターの声で華麗な終演を迎えた。
カヴァで乾杯をして、フランス仕込みだというビーフシチューをかきこむ。柔らかく煮込まれた大きな牛肉が口の中で崩れてたまらない。
「君は生命力の塊だな」
小さな丸テーブルの向かいに掛けた赤井が、降谷の手元にある大盛りのライスに目を向けて言う。
「褒められているようには聞こえないけど、あなたの言いたいことはわかりますよ。素直に受け取っておきます」
「エキサイティングなギタープレイだった」
「あなたもね」
赤井のいつもより大きく開いた瞳孔と緑の虹彩を見つめると、彼の左手が伸びてきて降谷の目元に指が触れた。
「もっと、君の中を知りたくなった」
囁くような声は降谷にも届かない。でも何と言っているのか理解できてしまった。
「…もう、」
「うん」
ビーフシチューを食べ終わったら、息が上がるようなこの興奮を持ったまま帰ろう。そして二人きり、もっと触れ合ってわかり合おう。
この命の輝きにも似た
火を灯すこと、目を瞑ること、空を見上げること、酒を交わすこと、ギターを奏で、歌うこと。
この世にいない人を悼む方法は日常の中にもたくさんあって、一人心の中でだけそうすることもあれば、何人かで集まって儀式として行うこともある。
これは儀式なのかもしれない。降谷は艶のある木目を見ながらそう思った。
二人きりの部屋。レースのカーテンを通して陽の光が差し込む休日の午後、ソファのあるリビング。
景光から教わって、彼と共に放課後の教室でかき鳴らしたギター。彼が確かに生きて、降谷に受け継がれていった技術と表現。
降谷は誰にも、何も言わないでいるのに、目の前で静かに歌を聴く男はこの歌とギターが追悼の儀式でもあることを確かに理解しているようである。聡い男なのだ。
「前に進もうと足掻くことと、死者に目を向けて悼むことが両立することを最近になって知った」
長く暗闇にいて、過去を清算することもできずに苦しみばかりが募っていた。怒り、憎しみ、後悔。そんな感情ばかりが身体の中心に渦巻いていて、息をすることにも苦労していたあの頃。
「君はとても器用で、博識で、なのにたまにすごく…」
「不器用な面があるって?」
「好ましいよ、君のそういうところ」
息を吐くような密かな笑み。
「僕はあなたのその気障ったらしい口調にまだ鳥肌立ちますけどね」
降谷がそう言ってギターを抱え直すと、彼が伏せていた目を向けて、無言で数秒見つめ合う。
「次の曲が終わったら、返事しますよ」
もしもどうにかなるとしても、うやむやに始まって、うやむやに終わるものだと思っていた赤井との関係。しっかりと君に自覚してもらうために、と言ってバラの花と共に交際を申し込まれた。返事もせずに逃げ帰ったことを悪いとは思ったのだ。だから何度も深呼吸して、彼を自宅に呼び出すメッセージを送った。
頭の中でリズムをとって、弦を弾く。彼が高校生だった頃に景光と練習した曲を奏でる。教室で練習していると、話を聞きつけた上級生からバンドに誘われたり、文化祭でステージに立たないかと勧められたりした。どうする?止めておこう。目立ちたくないというよりも、二人だけの秘密にしておきたかったのかもしれない。小さな子どもが造る秘密基地のように。
あの頃を思い出しながら、指を弾き、歌う。
未来に向かって走る歌の中に、少しだけ後ろを向いてもういない人たちに手を振って覚えているよと告げるようなフレーズがあってもいいはずだ。彼らはきっと笑って手を振り返してくれる。そして僕たちの背中を押してくれるだろう。
東京に住んでいると日本海を見るチャンスは意外と訪れないものだ。満天の星空もまた。
遠くに波音が聞こえる丘の上。二人は持ってきたレジャーシートを広げて並んで仰向けに転がった。宿泊するコテージから歩いて移動できる距離。夏の夜、天の川、夜と朝のちょうど中間くらいの時刻。
夏休みとも言えない、たった2日間の完全休暇をもぎ取った零は、流星群が見たいとその日のうちに小旅行の計画を立てた。行き先は石川県。北陸新幹線で金沢まで行き、そこからレンタカーで能登半島を北上する。予約していたコテージで久しぶりに2人で料理を作り、ワインと共に味わった。
彼らは今年で結婚して25年になるが、2人で旅行に行ったり、さらにその旅先で何事もなく休暇を過ごすことができたのはまだほんの数回しかない。貴重なこの日を誰かに―感謝の祈りをするとすればお互いにだろうが―祈りたくなるような夜だった。
盛夏ではあるが、夜になると秋の虫の音が聞こえる。昼間に蓄積された地面の熱がまだ残っていて、背中がじんわりと暖かくなる。
「東京では土地そのものが蠢いている風に見える夜がある」
零はそうこぼす。夜に紛れて動くことの多い2人は、まるで巨人の心拍のように明滅する都会の照明や人の動きが、果てのない人の欲望そのものに見えるときがある。そんな喧騒と共に、どちらかと言えば親密に生きてきたけれど、たまには夜を夜として感じられる場所に行きたかった。
空を横断する天の川が光り輝いて見える。
「夜空を見ると、あの人を思い出す」
零はクスクスと笑って隣の男の首元に触れる。『昴』だなんて大それた名前を付けられた架空の人物。ほんの一時しか現れなかったけれど、零はきっと死ぬまで心の中の一角を彼のために空けているのだろうなと思う。
「彼がいなければあなたを生き返らせることはできなかった」
「奴の存在は大きなヒントだった?」
まあね、そう言ってまた夜空に視線を向ける。流星が一筋。
「あなたを追っていた夏の日にね、夜明け前に見た星が今でも克明に思い出せる。すばるの後を追うように昇ってくる恒星、アルデバラン。一際存在感のある赤い星。ほら、やっぱり昴のすぐそばにあなたがいるじゃないかって」
赤井は細い月から注がれるわずかな光で彼の表情を見ようとするけれど、それは叶わない。
「君が、その星を見つめる目を見たかった」
きっと燃えるような目をしていただろう。いつもは宝石のような透き通った目が強い意志を宿して灰がかる様子は赤井に静かな興奮をもたらす。
そう、あの時はまるで自分の存在意義でも探すような必死さで赤井が生きている証拠を集めていた。どうしてそこまでするのかなんて理由は考えなかった。若くて、熱があったあの頃。
「愛してた?」
死んだはずの男も、亡霊も、そしてまだ見ぬ生まれ変わりも。
「うん。愛だった」
寝そべって、また空を見上げる。
「僕、来年の春に退職します」
何度目かの流星が通り過ぎたタイミングで、零はぽつりと決心を口にした。国家公務員の定年は現在65歳。定年まであと10年もある。すぐに何かコメントが返ってくるのかと思っていたが、赤井は腹筋だけで起き上がり、寝転がったままの彼を上から見下ろすに留まった。全天の星明かりの中に、こちらを見る男の影が浮かび上がる。
「何か言えよ」
そう言うと赤井は零の腕を引いて起こし、彼の前髪をかき混ぜながら優しいキスをした。
赤井のするキスには言葉で表現できないような様々な感情が乗っている。零がその感情の性質を的確に理解できるようになったのはそれほど以前のことではない。
きっと今赤井は『嬉しい』と『惜しい』が綯い交ぜになった複雑な感情を持っている。
「相談した方がよかった?」
唇を離し、微笑む。
「いや。いつも言っているけれど、俺は君の思うように生きる姿が好きだから」
いつも理想の仕事ができているわけではなかった。光の当たらない場所で、誰にも存在を知られずに、そこにあるべきでないものを誰にも目撃されないまま排除する。結果として何も起こらなかった。そういう仕事が多かった。
決して日の目を見ることはない。それでも信念と情熱を持って仕事に打ち込んできた。
「ほら、休みも不定期で、呼び出しは四六時中。そういう仕事が、僕は嫌じゃなかった。ただね、夜中に家を出るときにあなたが抱きしめてくれる、優しい目の中にいる僕が、寂しくなってしまったから」
赤井はいつでもキスができる距離から彼を見つめて、続きを待つ。
「再就職もしません。あ、あなたの探偵事務所を手伝おうか?」
反射的に苦い顔をした彼にふふ、と笑う。
「25年前、あなたがFBIを辞めて東京に来たとき、僕は嬉しさと同じくらい悔しくて、素直に喜べなかった」
「うん、覚えてる。着いたばかりの空港で一発腹にキメられた」
そうだっけ?零は25年前の謝罪をキス一つで済ませて話を続ける。
「僕はあなたのために仕事を辞めるんじゃない、僕があなたと一緒にいたいからそうするんです」
「25年越しの答え合わせができた?」
「…わかってましたよ。ただ実感をもって理解したのが今だってだけで」
愛してるから一緒にいたい。ただそれだけのことだった。
「なあ、旅に出ないか?」
「うん。いいな」
「船旅がいいな、3年くらいかけて世界中を旅しよう」
「事務所は?」
「休む」
「いいの?」
「蓄えならある」
「僕の退職金も出ますよ」
額を合わせて笑い合う。
「ハワイ島にもまた行きたいな」
結婚してすぐに旅行したハワイ島。マウナケア山頂で降り注ぐような満天の星とすばる望遠鏡を見た。
「君は『すばる』が好きなんだな」
空で青く光る星団も、光学望遠鏡も、眼光鋭い大学院生だって。全てが思い出深く、強く記憶に残っている。
「うん、好きだな、すばる」
また仰向けに寝転がる。間もなく東の空からすばるが昇る。今夜もまた流星が静かに二人を祝福していた。
銃を突き付けたときのあの恐ろしいほどの高揚感は、もう二度と味わえないだろう。追う者と追われる者の力量が均衡し、どちらが獲物なのか判然としない。俺達は自らの城で待ち構えてはいたが、その実はあちらの思いも寄らない思惑に乗せられているだけかもしれないという疑念。それは、交渉だと嘯きながら自分達を罠に嵌めようとしているのかもしれないと警戒する彼の心情と同じなのかもしれないが。
どちらも同じだけ警戒して、同じだけ挑発して、きっと共感さえしたあの瞬間は、もう二度と。
左手を握り、息を吐くことで興奮を抑えようとしても無駄なことだと本能が叫ぶ。交渉を終え、正面玄関から出ていく彼を引き止め、耳元で囁いたときの彼のうなじから香る肌の匂いがいつまでも鼻腔に残っているような気がした。
キャップ越しでも少しも誤魔化せていない、俺を見上げる挑発的な目。俺は愛銃のバレルを少し弄ぶように上下に振った後、あの表情豊かな唇に突き付け、銃口でそれをこじ開ける。呻き声が上がるのを聞きながら、できるだけ奥にバレルを突っ込んで。そう、喉にかかるくらいまで。
嘔吐反射が出て苦しげな表情をしている。眉根を寄せながら、舌で押し返そうとしているのだろう。生理的な涙があふれて、きっとあの表現できないブルーを溶かす。
トリガーに指を掛けたまま、無言で暴挙に出る俺を彼は決して許さないだろう。尊厳を曲げられてもなお侵されない彼の崇高な正義が、高潔な使命が、糾弾するような視線で俺を見る。ああ。
ジッパーを下げるのももどかしい。質量を増したブツを取り出し、おざなりに左手で慰める。彼の口にあった銃のバレルが血管の浮いたグロテスクなそれに代わり、苦しそうに目を閉じた彼の目尻から涙が零れた。
――目眩がしそうだ。
息が上がる。
快感に飲まれている。脳内の彼はまるで俺の強い執着を受け容れるような表情で目を閉じ、その時を待っている。
「はっ…」
君に対する背信については許して欲しい。それでいて俺の罪は赦さないでいて欲しい。これとよく似た相反する命題は彼の、俺を見る両目にも表れていた。
俺達は外見も性格も捜査方法も違うが、本質はよく似ている。きっと彼もそう思っているはずだ。反発の後にはきっと歩み寄ることができる。
小動物のような丸い頭、挑発的な目、ツンと尖った鼻、肌触りが良さそうな頬、よく動く唇。それらを愛したいのと同時に汚したい欲がある。君はどんな顔でそれを受け止めてくれる?なあ、バーボン。
※本作はeyeさんとの共作です。彼女の描くセクシーな赤バボもぜひご覧下さい(共作マンガは成人指定です⚠)
eyeさん個人サイト(トップサイト) 🔗HALLMARK MOMENTS 🔗Pixiv(リンク先R-18)
素敵な体験をありがとうございました!
クリスマス。イエス・キリストの降誕を記念する祭のことだ。子どもたちにはサンタクロースからのプレゼントが配られ、家庭では七面鳥ではなく鶏肉を焼いたり揚げたりしたものを食べて、カップルは高級レストランでディナーを堪能した後にホテルに泊まる、日本ではまあ大体そういう日だ。
年末の慌ただしさに加え、この時期独特の雰囲気がそうさせるのだろうか、テロ予告や抗争が増え、爆発物らしきものが道端で見つかったり、虚言狂言に振り回される。警察の繁忙期でもある。
「シロだ。少しだけ説教して早く誰かに迎えに来てもらえ」
この日、ご立派なテロ予告をして警察を振り回したのは未成年のグループだった。犯行予告は生成AIに作成してもらったパーティーの催しを転用したもので、自然な外国語に翻訳するのも簡単だった、と。
降谷は腕時計を確認してため息をつく。時刻は23時過ぎ。クリスマスは家族と過ごしたい。つまり君と共に。そう言われてくすぐったいような気持ちになったのだ。意外とロマンチックな男なんだな、知ってたけど。そう言って笑うと男は降谷の頬を撫で、本当に愛おしいものを見る目でじっと見つめ続けていた。
官僚の離婚率は意外と高い。激務のために家庭を疎かにしがちで、気付いたときには相手や子どもから愛想を尽かされていた、というパターンが多いのだそうだ。関係修復は容易ではなく、往々にして手遅れである。
降谷は少し想像してみる。休日は不定期、昼夜を問わない呼び出し。ベッドでそういうことをしているときに緊急呼び出しがかかり、途中で家を出ることだって何度もあった。その度に彼は降谷をぎゅうと一度抱き締め、気を付けて行っておいでと送り出してくれる。一人残されたベッドで、一体彼は何を思うのだろう。
「とにかく帰ろう」
クリスマスに特別な思い出はないのに、感傷的になるのは寒さのせいか、街全体が浮かれているからか。それともやるせない事件のおかげかもしれない。降谷はロッカーから鞄を取り出し、そこにラッピングされたプレゼントが収まっているのを確認する。
相互理解には努力が必要だ。年初めには少し休めるはずだから、一度きちんと話し合った方がいいだろう。自分の進退のことも、二人のこれからのことも。
庁舎の正面玄関を出たところで降谷は足を止める。何だか色合いがクリスマスにぴったりなような、それにしては厳つい形状をした外車が道路の向こう側に停車している。降谷はバッグを両手に抱え、左右を確認してからその車に駆け寄る。
「やあ、これからディナーにでも、どうかな」
左ハンドルの運転席のウインドウが開き、黒のニット帽と黒革のジャケットといういつもの格好をしたとびきり格好いい男と目が合った。エスコートしようとドアを開けるのを制し、降谷は軽い足取りで助手席に収まる。
「この時間からディナーなんて」
「ディナーは少し誇張だった。家に帰ろう」
迎えに来てくれて嬉しい、とか、大切な日なのにいつまでも帰らずにごめんなさい、とか。言葉にできない思いに手を握り締めていると、左側からそっと頬を撫でられた。
「君は放っておくとまた思索の旅に出て、とんでもない着地点に華麗に降りようとするからな。俺のために異動も辞さない、なんて言い出す前に君自身を回収しようと」
思考を読まれている。
スムースに走り始めた車内には控えめな音量のクリスマスソング。窓の外の寒空に視線を向けると、息を吐くような密やかな笑い声。
「君が生きていて、元気に仕事をしていて、なおかつ心がこちらに向いているのであれば、他に望むものはないさ」
「無欲な男」
「そんなことはない。君が何度死にかけたか指折り数えてやってもいいぞ」
街路樹には電飾が巻かれ、商業施設の前には大きなクリスマスツリー。LEDの発色の良さが発揮されていて目を惹く。赤井は上機嫌で、彼にしては珍しく多弁だ。
「幼い頃、確か9歳だっかな。あの時は父も母も多忙でな。クリスマスは家庭教師もナニーも来ないから、朝から弟と将棋やチェスをしたり、読書したり。夕方になってレストランで予約していたターキーとケーキを取りに行って、ついでに自分へのプレゼントとして稀覯本を買い込んだりして好き勝手にしていた。家に帰って、夜が更けてから両親が帰ってきてな。二人とも巨大なローストターキーを買ってきたものだからテーブルの上にはターキーが3つ。しかも夜中にだ。…報告や連絡が苦手なのはきっと家系だ」
なんだか想像できる風景だな。降谷はクスクスと声を出して笑う。
「家族全員が腹を抱えて笑ってた。つまり、良好な関係とは共にいられる時間の長短じゃないってことさ。愛情を持って接して、相手の喜ぶ顔が見たいと思うことができればそれで」
信号機の赤い光。これも電飾と同じLEDの光だ。美しい発色の愛すべき色。
「キスをしても?」
「いちいち訊くな」
ほんの数分で憂いは晴れる。さあ、幸せなクリスマスの夜を。
10年前と同じように、羽田から福岡空港経由でプロペラ機に乗り継ぎ、半日かけて降り立ったのは五島列島福江島にある『五島つばき空港』だった。
「空港の名前が変わってる」
零は椿のイラストが描かれた案内ボードを眺めてクスリと笑う。
ライとバーボンとして様々なことを偽っていた時期に、同じようにして2人でこの島を訪れたことがある。あの時はバーボンが組織のスカウトとして隠居した元医者に会いに行くのに、彼の番犬として随行した。あの時、彼と仕事をしたのは2度目、相対するのも2度目だった。バーボンのことを何も知らなかったのに、あの時はどうしようもなく彼に惹かれて、随分強引なことをしたと思う。
レンタカーを借りて遅い昼食をとると、今日の目的地に向けて車を走らせる。空が高く秋めいているが、暖かい海風が開けたウインドウから入ってきて少し暑い。
「オープンカーにすればよかったな」
ナビシートでサングラスを掛けた零は鼻歌でも歌い出しそうなほど機嫌がいい。
最初は言葉遊びのようなものだった。バーボンはどうしてライに身体を許したんだろうな。起き抜けにそう言った俺に、彼は「身体を許す、なんて言い回しが古いですよ。身持ちの固い旗本の娘じゃああるまいし」と言って笑った。
「君の例えも大概古いが」咳払いをして話を戻す。「まあそうでもないさ。だって君はヴァージンだった」
「いい発音で言うな」
「俺ならいいと思った?」
「どうだったかな。現地に行けば思い出すかも」
「なら行こう」
俺がそう言ってベッドから降りたから、彼はすぐにでも長崎に飛ぶと思って慌てて俺の腕を掴んだ。まあ、そういうわけで今俺たちは爽快なドライブをしている。
たどり着いた目的地は、赤レンガの古くて小さな教会。10年前と変わらない風景がそこにあった。過酷な禁教時代を生き抜いたクリスチャンの希望の象徴。
「あの時は不法侵入でしたが、今回は許可を取りました」
少し離れた場所にある駐車場に車を停めて、道すがら。共犯者に向ける笑みを浮かべ、バーボンのときにはしなかった、わずかに急いたような足取り。
「僕は、あなたも知っているとおり、ごく一般的な日本人と同じ宗教感を持っています。24歳のときの僕も。本気で神や救世主を信じているわけじゃない。でも、あの時は、」
教会の扉を開く。厳粛で、外気よりも冷たい空気が2人の間をすり抜けていく。
「あの時は、ここで神に裁かれたいと思っていた。犯罪組織の幹部だったあなたに惹かれていくのを止められない。それは警察官倫理に反するし、何より自分の正義が否定されることだったから」
僕を赦してください。そうでないなら裁いてください。今よりも随分幼かったバーボンは、教会の正面に掲げられた十字架に向かってそう唱えた。
「恋や愛って、もっと暖かくて、心地よくて、子どもの頃手放せなかった毛布みたいなものだと思っていたんです。でもあなたとのそれは怖くて、熱くて、感情が自分でコントロールできなくなる。とにかく酷いものだった」
振り向いた零は目を伏せたまま微笑んだ。
「僕がどうしようもなくライを愛したから、ですよ」
質問の答えは単純。
俺はステンドグラスから差し込む光と、そこに佇む彼を見た。目が合う。あの時と同じ、意志の強そうな青灰の目。
「僕は神に裁かれることはなく、またあなたとここを訪れることができた。こんなことになるなんて、10年前の僕に言っても絶対に信じないでしょうけど」
零は俺の視線につられるようにしてステンドグラスを見つめる。2人でまたここを訪れることができたのは、神の導きや運命などと言ったバカげた道理ではなく、俺と君がそう望んで足掻いたからだろう。
「つまりは愛の力ということだ」
「うん。そうかも」
夕食は島獲れのお刺身にしました。舟盛りで。あ、あと知ってました?あのホテル建て替えられて温泉付きの全室オーシャンビューになったって。楽しげに話す彼は10年前と変わらずただひたすらにかわいかった。
空港の近くで借りた四駆は乾いた風を受けて爽快に走っている。本日はこの島や周辺海域全てが快晴。口笛を吹いたドライバーはサングラスの奥の目を輝かせて、らしくない鼻歌を歌い始めた。ナビシートでそれを見ていた零は、やはり空港近くの土産物屋で手に入れたウクレレをかき鳴らす。
「晴れたのは僕の日頃の行いがいいからです」
「ああ。君はいつもここぞという時に決める男だ」
ここはハワイ島。マウナケア・アクセスロードだ。これから二人は車でマウナケア山頂を目指す。
マウナケア山は標高4207メートル。ハワイ語で白い山という意味があり、冬になると山頂近くを白く染める。
年間の晴天日が300日近くあること、空気が乾燥していて水蒸気やホコリが少ないこと、人工の光がないことなどから、天体観測に特に適している場所として世界中の天文ファンが訪れる場所だ。
そして世界各国の天文台もここマウナケア山頂に望遠鏡を設置している。もちろん日本の国立天文台も世界トップレベルの光学望遠鏡『すばる』を運用している。
ドライブの途中、二人が途中で立ち寄るのは山の中腹にある「オニヅカ・ビジター・センター」。標高の高い山に登るときには、減少していく酸素量に体を慣らすために休憩も行程に入れなければならない。ここで買い物も含め1時間ほど休息を取る。
「オニヅカというのはハワイ州初の宇宙飛行士であるエリソン・オニヅカ氏から命名されました。って、あなたアメリカ人なんだから知ってるか」
売店で飲み物や軽食を選びながら零が話している。オニヅカ氏はアメリカ空軍所属の宇宙飛行士で、1986年にスペースシャトル、チャレンジャー号爆発事故により殉職している。ハワイの人々にとって彼は英雄で、その功績を称える意味でこのビジターセンターが名付けられた。
「子供の頃、宇宙飛行士になるのも悪くないと思っていたな」
「悪くない?」
「うん。探偵になるのが一番の夢だった」
零はへえ、と言って白いケーブル編みのニット帽を手に取った。
「あなたってブレないな。僕は正義のヒーローになりたかった。変身して悪者を片っ端からやっつけるやつ」
「君だってブレていない」
赤井がそう言うと、彼はふふん、と笑い、それから星空の写真が印刷されたポストカードを2枚取り、会計に並ぶ。
二人は買い物を終えて、センター周辺を散策した後、再度車に乗り込んだ。気温が下がり、車内はヒーターを付けていても足先から冷気が駆け上がってくる。
ここからは急勾配の坂をひたすら登っていく。オフロードで急カーブも多く、二人の口数も自然に減っていく。
「覚えてる?沖矢昴が僕をデートに誘ったときのこと」
石だらけの道路を突き進む車内で、零がぽつりと言葉を紡ぐ。
「覚えているよ。君は来ないだろうと思っていたから、少し驚いた」
赤井はアメリカ人らしい、大げさな肩の竦め方をした。口元は少し緩んでいる。
赤井が沖矢昴として生活していた頃、カフェの店員をしていた安室透にプラネタリウムのチケットを渡したことがある。「僕とデートしてくださいませんか」と言って。
「それは嘘だな。あなたは僕が沖矢の正体を見破るためなら何でもすることを知っていた」
零は拗ねた子どものように、ウクレレを抱き込んで口を尖らせている。「あなたのことになると自分でも信じられないくらい感情がむき出しになって、今思うと随分無様なことをしたと思っていますよ。何とかしてあなたに泡を吹かせたかった」
太陽が水平線に近づく。オレンジに染まった山は映画で表現される終末期のようで、無意識の不安が襲ってくるようだった。零はそれを昇華させようとして更に言葉を紡ぐ。
「そうやって突っかかる僕を嫌な顔一つせずに受け止める姿にもまた腹が立って。あなたならいつでも排除できたでしょう?」
ほら、今だって横目で見たあなたは口端を上げて笑ってる。零が頬を膨らませると、赤井は更に笑みを深くして、フッ、と息を漏らした。
「あの頃の君は確かに危なっかしかったけれど、俺にとってはただひたすらに可愛かったさ。攫って自分の手の内に置いておきたかったくらいには」
四駆は頂上の駐車場に滑り込む。
「日没が近い。急ごう」
車を降りた赤井が左手を差し出すと、素直に彼の右手が添えられる。今でも外で手を繋ぐのを嫌がることも多いが、異世界めいた雰囲気のせいか、寒さのためか、手のひらをぎゅうと握り返された。赤井はそのまま握った二人の手をダウンジャケットのポケットに突っ込む。
零度近い気温の中、日没が訪れる。太陽が沈む反対、東側の低い空がピンクに染まり、さらにその下、水平線近くは美しい青。太陽光に照らされた地球の影だ。その色は刻一刻と変化し、グラデーションの美しさに心を奪われているうちに明るい星がぽつり、ぽつりと姿を現し始めた。
「君は、空のようだな」
くるくると変わる表情、心の内。他人には常に冷静に、装った外側しか見せないくせに赤井にだけは熱くて極彩色の内側を見せてくるのだから堪らない。
日暮れと共に『すばる』のドームが開く。優秀な光学望遠鏡は今日もまた気が遠くなる程遠くの、宇宙の始まりに近い古代の光や暗黒を観測する。
「あなたは宇宙のようですよ」
目を合わせて笑い合う。わかったような気になっても、次の瞬間にはわからなくなるお互いの心。言葉を尽くして話し合って、皮膚を、内臓を触れ合わせて共感を試みる。人生を賭けて解明するミステリはいつだってエキサイティングで、好奇心を刺激する。
空の色が藍色に染まる頃、次々に星が現れる。東京やニューヨークで見るそれとは違い、眼前に星が迫ってくるような迫力。恐怖すら感じるほどの圧倒。
「彼の名を『昴』にして良かった」
零がウイスキー片手に言い出したのだ。「昴」と一緒に「すばる」を見たい。と。吹き出しながらもその場でエアチケットを手配したあたり赤井も人並みに酔っていたのだろう。
「なぜ『昴』なんて名前にしたの?」
「さあ、どうだったかな」
まるで砂浜のような夜空。白い星、赤い星、青い星、双子星、星雲、そして銀河系。
ポケットに入れたままの手を握る。確かに握り返される体温が心地いい。
「老後は郊外に移り住んで、天体観測をして過ごすのはどうだ?」
赤井がぽつりと零すと、あはは、と響く笑い声。
「赤井の口から『老後』なんて言葉が出るなんて。僕たちまだ30代ですよ」
そう言った後彼は視線を背けて「でも、そういうのもいいかもしれない」と。
「耳が赤いぞ」
「うるさいな…っていうか真っ暗なんだからわかるわけないだろ!」
可愛くて、ついからかいたくなる。
「プロポーズしていいか?」
「ダメ!絶対ダメだ!」
もうお互いの指には揃いのプラチナが嵌っているのに。何か言いたげな様子で、ちょうど二人の頭の上をゆっくりと流星が過ぎていった。
「時計合わせ。…5,4,3,2,1」
「ゼロ」
「判ってるだろうな。力量は互角、むしろ人間を殺し慣れている奴らの方が技術力は高いかもしれない。勝手な行動は禁止。僕が立てた作戦、忘れたとは言わせませんからね」
険しい表情を見せる降谷は、視線を自身の腕時計から隣に座る男の顔に向ける。
「ああ。俺がバーボンと、君がライと対峙すること。ターゲットは生け捕りにすること。逃げたときには深追いをしないこと。通信は常にオープン、出血、骨折その他の外傷はリアルタイムで報告すること」
降谷が男を見る目は意外だな、とでも言いたそうだ。
「30分で蹴りをつけるぞ」
「イエス、サー」
「2204。現時刻をもって作戦行動を開始する」
降谷の号令により、隣にいた真っ黒な男は操縦士に合図した後ヘリのドアを開け、一瞬も躊躇うことなく彼を抱えたまま夜空に飛び出していった。
『降谷くん、以前も言ったかと思うが、戦闘、特に接近戦をするためには相応の装備というものがあり、それにより攻撃から身を守ることができるんだ』
『赤井、以前も言ったかと思いますが、僕にはこれが戦闘服なんです。今日はちゃんと防刃ベストも着ていますし、一切問題ありません』
地上戦を想定した赤井の装備に比べ、降谷は普段のオフィスワークでも着用しているグレーのビジネススーツだ。ネクタイや革靴は戦闘には不向きだろうが、降谷は意に介した様子もなく、鯉口を切り、美しい所作で左手に持った鞘から太刀を抜いた。
『来るぞ』
30メートルほど離れた場所からイヤホンを通して聞こえる、鋭くも心地よい声に赤井は一瞬目を細め、44口径マグナム弾入りのリボルバーを構えた。
2人が今から刃を交えるのは、もう一組の自分たち、だ。
2人が潜入捜査として組織に在籍していたときに、その戦闘センスに惚れ込んだ高級幹部が「ライとバーボン」の遺伝子を使って彼らのクローンを造らせた。何度失敗したかは知れないが、降谷が組織を離脱した後に、実戦に耐えうる個体ができあがったと推測されている。完成された彼らは裏社会では有名な存在で、組織の代理人として主に暗殺業をしているほか、組織解体を目論む日米警察機構のエースである自分たちのオリジナルを排除すべく、虎視眈々と彼らの命を狙っているというのだ。都内で日常生活を送っている彼らに向けて、いつ強襲されるかわからない状態よりはマシだ、と、こちらから打って出たのが今回の作戦だ。
赤井の動体視力を試すような速度で上空から降り注ぐ幾本ものダガーナイフ。彼はそれを避けながら上空に向けてマグナムを撃ち込む。44口径は舞い降りる美しい男の、夜空に映える美しい髪を数束ちぎり、そのまま虚空へと消えていった。
くるくると空中で回転したバーボン。そう、クローンのバーボンは地上に着陸すると不敵な笑みを浮かべ、赤井と対峙した。
バーボンは身体にぴったりと密着した黒のボディスーツ姿で、容易に裸体が想像できるような出で立ちだった。男に愛され慣れたような艶めいた身体つき。しかも肩から脇腹、脚の付け根は布で覆われることはなく、惜しげもなく晒されている。
「フフ、何を想像しているのかな?しゅういちさん?」
同じ顔、同じ声だ。さすがに降谷と同一のDNAを持っているだけのことはある。赤井は頭を掻きむしりたくなった。彼の右手で遊んでいるナイフがいつ自分に向けて投げられるかもわからないのに、その身体に思わず魅入られそうになる。甘い視線、妖しげに弧を描く唇。彼の全身が赤井を誘っているように見える。
冷静になれ。頭を振った赤井は、降谷との違いをバーボンに見出そうとする。よく考えてみろ。赤井は降谷とは一度も甘い関係になったことはないし、したがってそんな表情を俺に見せることはない。それに…そうだ、紫外線を浴びていないからか、目の色だけはバーボンの方が鮮やかだ。
「いくら君がオリジナルよりも強化された人間だとしても、俺を相手にするには分が悪いとわかっているだろう?君に酷いことはしないと誓う。大人しく投降しなさい」
心拍数をコントロールし、赤井が左腕を上げてバーボンの心臓にリボルバーを向ける。彼は少し考えるように視線を泳がした後、「あなたの死体を保存してほしいって言ったらライは怒るかな」と呟いた。
まるでサーカスの曲芸のように、大した予備動作もなく繰り出されるナイフ。どこからそんなに大量のナイフが出てくるのか甚だ疑問だが、日本には亜空間から様々な秘密道具を取り出す猫型のロボットがいるくらいだからバーボンもその口かもしれない。降谷だって普段は存在さえないような太刀を戦闘時だけどこからか顕現させるのだから。
赤井は機敏な動作で雑木の幹の背後に身を隠し、次の瞬間には投げられた10本余りの切っ先がその幹に突き刺さった。「生け捕りにする」のは降谷の命令だ。さらに正直に言うと赤井はバーボンを射撃することに強い抵抗がある。皮膚が剥き出しになっている脇腹を狙い、その後止血処置を施せば致命傷になることはなく、かつ行動不能に陥らせることができる。手っ取り早く対処して、できればバーボンを人質にすることでライの行動を制限する。そうして降谷の援護に回るのが常道かつ作戦内容に沿った行動だろうが、己に少しでも迷いがあると命中精度は劇的に下がる。バーボンから繰り出されるダガーナイフの雨に対処しながら、彼よりもさらに俊敏に動くモノを制することができるのか。万が一致命的な損傷を与えてしまっては、と考えると軽々に手は出せない。
わずかな逡巡の合間に、イヤホン越しに降谷の話し声が聞こえた。
『 』
「待て!降谷くん!」
降谷は太刀を構え、上空から飛び降りてきたライの落下地点に先回りして切っ先を掲げた。内臓を避け、真っ直ぐに身体を突き抜くことができれば出血も少なく後遺症も残らない。しかしライは着地する寸前に降谷の頭に手を置いてから体勢を変え、切っ先を避けて静かに着地した。間髪を入れず降谷が斬りかかると、ライは大きく跳躍して間合いをとる。そのくせ呼吸を整える暇もなく長い脚がとんできて、降谷は鞘を盾に応戦した。しばらく無言で戦っていると、ふいに至近距離で目が合った。目の前にいる男が赤井ではないと言い切れない。刃を向けるのに精神的な苦痛がある。遺伝子が全く同じ人間が二人いるというのはここまで不思議な感覚なのか。
お互いに間合いをとって、そのまま2人は無言で対峙する。
これ以上戦うと負ける。降谷は赤井と接近戦の戦闘訓練をしたことがある。観覧車の上で殴り合いをしたことも。そんなとき、いつも赤井は降谷に対して手加減をした。それが悔しくて気に食わなくて、頭に血が上って余計に隙を見せることになるのだ。降谷は唇を噛みしめる。おそらく赤井よりも強化されているライが相手では、いくら武器を持っていても降谷に勝ち目はない。
改めて全身を確認すると、クローンのライは不思議な格好をしていた。長い髪を一束にして背中に流し、目の下には濃いクマ。それは過去の自分が知っているライだが、目の前の彼は身体のラインに沿った黒くて薄いボディスーツを身にまとっていて、隆起する胸筋や腹筋が惜しげもなく晒されている。趣味か趣味でないかと聞かれれば降谷の趣味ではあるので、おそらくバーボンがライに着せたがったのだろうと推測できる。上腕に刻印された「01」という数字が彼そのものを生物ではない何かにしているような気がした。
降谷は呼吸を落ち着かせ、改めて間合いをはかる。
ライは見分するように降谷を見ている。あまり太陽光に当たっていないのだろう、赤井よりも鮮やかな緑の目が瞳孔を開き、それはまるでライが溺愛する恋人を鑑賞しているよう。
これを利用しない手はない。降谷は柄を握りしめた手に力を入れる。バーボンのように抑揚をつけて、少し甘えたような声音を出す。
「ライ?」
降谷は構えていた太刀を下ろし、両手を広げて緑の目を見上げる。僕の遺伝子に惑わされてくれないだろうか。
わずかに目を顰めたライは、降谷が瞬きをする間に彼の間合いに入った。
「バーボンのオリジナル。あなたは俺のバーボンにはなれない。だが、このまま殺したいわけでもない。確かにあなたと、もうひとりの黒犬は組織にとって最大の障害だ。だが」
「組織の言いなりになるのも面白くない?」
ライは赤井がするように、大げさに肩を竦めた。
「俺は、おそらくあなたが飼っている黒犬もそうだろうが、組織だとか、社会だとか、大抵のことはどうだっていいんだ。バーボンが俺を見て笑うかどうか。それだけが重要だ。だからバーボンと同じ姿形であるあなたの苦しむ顔も見たくはない」
降谷はライが戦闘の動機を失ったと判断して、自らも刀を納めた。自分の武器は言葉だ。このままライを投降させる必要がある。
「我々はあなたとバーボンを保護する用意がある。クローンであるあなた達は、僕たちの体細胞を使って、おそらくここ数年の間に生み出された個体だ。組織には動物の成長を促進する技術もあったのでしょう。たった数年で完全な成体となった。この意味がわからないわけではないでしょう?ライ。あなたの愛するバーボンは、あと何年生きられるの?」
ライの纏う硬質な空気が一変した。降谷は畳み掛けるように言葉を紡ぐ。
「バーボンは、暗殺業に飽きている。ねえ、ライ。組織から離脱してどこか遠い南の島で、二人だけで暮らすのはどう?。こちらが全て手配する。僕たちも、あなたたちを処分したくはないんだ」
これは降谷の本心だ。受精ではない。自分たちの体細胞を培養して作られた人間だが、ヒトと同じような成長過程を経て成体になっている。つまり自分たちの細胞を分けた自分たちの子どもだ。無関心ではいられない。
ライは長い脚を踏み出して、さらに降谷に近づいてくる。怖くはない。信用すべきだ。
「ライ…」
『待て!降谷くん!』
唐突にイヤホンから赤井の叫ぶ声がした。眼の前に迫るライの目を見る。
「済まないな」
腹部に激しい痛みを感じて、降谷はそのまま意識を消失した。
「悪いが赤ちゃんの面倒は見ていられなくなった。バーボン、必ず助けに来るから、それまで持ちこたえろよ!」
木の幹から飛び出した赤井はリボルバーをバーボンの腰に向けて撃つ。その場にうずくまり、意志の強そうな眉を歪ませて苦悩の表情を浮かべるバーボンに同情して、それから降谷のいる方向に足を向ける。
「勝手な行動をするなと言ったのは君だろう!」
虚空に吠える。もし降谷に何かあったらあの意思疎通ができなさそうな小賢しいガキは脳天を撃ち抜いてブチ殺してやる。人の気配を捜して雑木林を駆け抜ける。それほど離れているわけではない。すぐに林の中に拓けた場所が出てくる。
「そこまでだ!」
バーボンと同じようなコスチューム姿の、赤井そっくりのクローンは、気絶した降谷を抱えて佇んでいた。
「バーボンと交換だ、赤井秀一」
降谷の脇腹に当てられているのは降谷が護身用に使っている小型のオートマチックだろう。赤井はため息を吐いて銃口を下げる。
「バーボンは林の入り口だ。脇腹を負傷している。早く止血しないと後遺症になるぞ」
ライは一度だけ赤井と目を合わせ、それから雑草の生い茂る土の上に降谷を寝かせた。オートマチックも彼の腹の上に置き、振り返ることもなく走っていく。
「あ…あかい?」
降谷を抱きかかえてピックアップ地点まで移動していると、そのうち彼の意識が戻った。いたた、と腹を擦り何度か咳き込む様子に、やはりあの長髪のガキを撃っておくべきだったと後悔する。
「すみません、油断しました」
君が油断したのは相手が俺と同一人物だったからだ。赤井が声に出さずにいると、降谷は小さく笑った。
「あの二人はまた僕たちの前に現れるでしょうか」
「さあ、どうだろうな」
「何か、何度やっても引き分けてしまうような気がする。抜本的に作戦を練り直さないといけませんね」
それはそうだろうな。赤井は思う。赤井とライはきっと作戦行動や、ましてや今後の組織や社会の治安よりもたった一人のことが大切なのだ。それをお互いにわかっているから積極的に彼らを人質にするし、そうされればそれ以上手を出せるはずもない。
ピックアップ地点にはすでにヘリが到着していた。作戦開始から32分が過ぎている。
「あの、赤井。僕もう歩けます」
赤井はプロペラの旋回音で聞こえないふりをして、彼を横抱きにしたままその体温を再確認した。
「ライ?どうしたの?難しい顔をして」
「いや……。バーボン、この生活に飽きたらいつでも言ってくれ」
「僕はあなたといられるならどんな環境でも飽きるなんてことありませんよ」
ネコ科の肉食獣を思わせるライの身体にすり寄られ、満足げな表情を見せるバーボン。ライは心の内だけで、遠くない未来にまたあの二人に会うことになるだろうと確信した。そしてそれはほんの少しだけ、自分たちの生き様を変えることになるような気がした。
僕はこの世界ではそういう役回りなんだ。
勇者率いる光のパーティーが最終ダンジョンであるこの城に攻めてきて、彼らが城に仕掛けられた謎を解いたところに僕が現れて、パーティーを全滅させる。プレイヤーを苛立たせ、攻略サイトのコメント欄は荒れる一方。エンディングが見られないと嘆くタイムラインに言いたいことは、僕が何をしたわけでもないのに勝手に攻め入ってくるから排除しただけなのに、理不尽だ強すぎる魔法が効かないのは違法だなんて言わないでほしい。ということ。
そういうわけで、僕は今日も居室に籠って分厚い本を読んでいる。
ふいに窓を叩く音がした。いつもここに来る鳥が遊びに来たかな?と窓に近づくと、そこにいたのは光のパーティーの一人、ガンナーだった。
「外から直接来るのは規約違反では?」
「規約?俺は君の顔を見たくてここに来ただけだ。あー、君さえよければ中に入れてくれないか?」
「駄目ですよ。外から僕の部屋に入る方法が攻略サイトにリークされたら僕の平穏な生活が…」
「誰にも言わない。俺と君との秘密だ」
ガンナーはキザったらしくウインクをして、強引に部屋に入ってきた。
「君はずっとここで暮らしているのか?」
狭い石壁の部屋を見回してガンナーは言う。
「いつこの城に勇者たちがやって来るかわかりませんから」
僕はこのゲームの最後の砦だから。うかうか出掛けているときに来られてクリアされては責任問題にもなりかねない。
「あれ?そういえば、あなたは勇者たちと共にこの城に来ることはありませんよね?」
思い返すと、どのパーティーにもガンナーはいなかった。
「実は俺がこの城に入るとシナリオが変わるんだ。だが城に入る前に俺はこう言うことになっている。『俺は魔王を攻撃することは一切ない』と。だからいつもパーティーから外される」
僕はガンナーの目を覗きこむ。
「シナリオが変わるって……」
彼は口の端を上げて微笑み、「俺を連れて城に入ると、二人はすぐに恋に落ちる」と言う。
「こいに……おちる」
「ああ。そして手を取り合ってこの世界から出ていくんだ。果たしてプレイヤーは無事エンディングまでたどり着き、君はつまらない城の守りから解放される。…この目に何が見える?」
不躾に彼を見ていたことを咎められたかと思ったけれど、その目は優しく僕を見ている。
「僕のブローチと同じ色」
「運命の証だ」
銃を扱う者特有の、分厚くて、硬化している指先が僕の頬を撫でる。その手を触ろうと腕を上げると、するりと手が下ろされた。
「もうすぐ優秀なプレイヤーが最強のパーティーを引き連れてここにやってくる。もう一度君に会ったとき、そのときは無理にでも連れ出すからそのつもりで」
ガンナーはやはり強引に窓から身を乗り出し、あっという間に僕の視界から消えて行った。
「いや、よく考えたらこんなクリア条件のゲーム駄作中の駄作だろ」
給仕をしていた手下のモンスターは、はあ、と言った後こう言った。
「シナリオライターの趣味らしいですよ。何と言いましたかな。あかあむおたく、とか言う人間らしくて」
そんなことが許されるのか。と思ったけれど、僕はあの強引な男が僕を城から連れ出すところを想像して、何とも言えない甘い気持ちになった。
「僕は今まで一度も誰かと交際したことがなくて。だからデートの誘い方もよくわからないんですよ」
ポアロの店頭で箒を持ったまま動きを止めた安室に、女が近寄って来なかった日はないだろう、と言いたくなるような美丈夫が封筒を差し出した。
「僕とデート、してくださいませんか」
「はぁ。……はあ?」
キッ、と吊り上げた眉を見た男はにこりと笑み、軽く手を振って通りに消えて行った。また訳のわからないことをしてこちらを揶揄うつもりだろう。安室はため息をついて手の中にある事務用の茶封筒を検める。中にはプラネタリウムのチケットが1枚、入っていた。
沖矢が手配したプラネタリウムは、国立天文台ハワイ観測所の研究員を招聘して近年の宇宙観測に関する研究成果を解説してもらうという愛好家向けのプログラムで、好奇心の強い安室の興味を惹いた。それに、あの何を考えているのかわからない男が『デートに誘う』という不可解な行動を取った理由も解明しなければならない。安室はなぜかそわそわと落ち着きをなくしたまま、プラネタリウムのある学習施設に脚を運んだ。
「どうかされました?」
会場施設にはすでに沖矢が待っていた。初めてのデートの割には如才なく買ってきたアイスコーヒーを安室に手渡し、自分もその隣に座ると覗き込むようにして彼の目を見た。
「あなた、天文学に興味あるんですか?」
「まあ、あるともないとも…」
「昴って、ハワイのマウナケア山頂にある国立天文台の光学望遠鏡『すばる』から取って名付けたのかな、って思ってただけですよ」
安室はストローから口を離して言った。
「すばる望遠鏡ができた当時、僕は子どもでしたが、生まれてすぐというわけではありませんからそれはないでしょう」
沖矢はそう反論する。すばる望遠鏡が稼働を開始したのは1999年。沖矢昴がここ最近誕生したキャラクターだとすれば、世界的にも優れている光学望遠鏡から名を取ることもあり得そうな気がしたのだ。安室は少し考えるようにして隣を見た後、言葉を紡ぐ。
「『星はすばる』と書いたのは清少納言ですね。『すばる』はプレアデス星団の和名でもある。冬になれば肉眼でも確認することができます。そもそも昴というのは『統べる』から来ていて…」
「きみは…」話を続けようとする安室を遮るようにして、沖矢はプラスチックカップを左手に持ったまま腕を組み、それから「名前の由来まで調べて。余程『昴』のことが好きなのですね」と言った。
「……」
コーヒーを沖矢に向けてぶちまけてやろうかと考えた安室だが、年上の優しい喫茶店店員というキャラクターを損なってはいけないと、手にしたカップを震わせるに留め、開演案内のアナウンスが流れたタイミングで立ち上がった。まあ、そういうことだったから、単純に腹が立った安室は沖矢に対し反撃に出ることにした。
端的に評すると、プラネタリウムはとても面白かった。東京とは見え方が異なるハワイの夜空の解説から始まり、国立天文台が各国の研究機関と共に望遠鏡すばるで観測、研究した内容をわかりやすく説明してくれる。銀河風を観測してその複雑な構造を明らかにしたり、巨大質量の初代星に繋がる物質を観測したりと、とにかくスケールが大きくて高揚感に満ちた内容だった。迫力のある映像や美しい銀河の映像にも惹き付けられて、安室はこのプログラムに自分を誘った沖矢に対して、気に食わない男だけど意外と気が利いたことをしたりするんだな、と感心した。そしてそれは昔から同じだったのかもしれない。
そうじゃない。とびっきりの反撃をしなければ。
会場内が明るくなって、観客が感想を呟きながら外に出ていく。
「どうです?この後食事でも」
そう言いながら立ち上がる沖矢に、安室は何か言いたげな視線を向ける。それから人目に付かないように対面に立ち、人差し指でつつ、と彼の太ももを引っ掛いた。唇を沖矢の耳に近付けて、息を吹き込んでから色っぽく囁く。
「昴くん、食事よりも大切なこと、してみない?僕、あなたの初めてが欲しいなぁ」
「…っ、」
一瞬で沖矢の体温が上がったことが対面していてわかった。ほんの少し開いた目がよく知っているあの男の欲情したときのそれと同じで。安室はにやり、と笑みを浮かべた後いつもの喫茶店の店員に戻った。
「あ、忘れてた。ごめんね、僕これから別件があったんだ。このお礼はいつかまた」
そう言って一人で会場を後にした。僕を振り回し続ける男へのちょっとした嫌がらせだ。その気になった体温を持て余して精々悶々とすればいい!
安室は「ほー」と呟いた男のさらなる反撃を受けることになるのにも気付かずに、くふくふと笑いながら街に溶け込んで行った。
床に座り込み、男が愛喫していた煙草にマッチを擦って火を付ける。紫煙を肺の奥まで吸い込んで、充分に味わってから吐き出す。マッチを擦る音、匂い、そして煙の味。一時的に過去に飛ばされたような錯覚がする。バーボンはマッチに火をつけるライの仕草を愛していた。子どものようにせがんで、煙草の味を教わった。
過去に愛していた男、裏切りを経て憎悪の対象になった男に変装して、仕上げにつける香水のように奴の匂いを自分にまとわせる。マッチを使うと風味が違うんだ。そう言って柔らかく目を細めた、その目を今でも覚えている。
バーボンは右手の指に煙草を挟み、左手で自分の頬に触れる。高い頬骨、その下はわずかに窪んででいる。朝起きたらうっすらと髭が生えていた口の回り。薄い唇。自分とは似ても似つかない男性らしい顎。
目を伏せて、深呼吸をするように煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。息を吸い込む度に赤くちりちりと燃えるそれが、足掻き続けるどうしようもないバーボンの心情を物語っているようだった。
あの男になりきって、どこにでもあるアルミ製の灰皿に灰を落とす。何度も何度も見たその仕草をトレースする。器用に動く手を、指先を思い出す。
まるで男に抱きかかえられているようだ。その匂いに身体が反応して、不意に自分を慰めたくなった。
「…さすがにそれは惨めすぎる」
男の顔になって、男の匂いをまとっているのに、声だけは確かに自分のもので。バーボンは『その顔』に似合わずふるふると首を振り、また煙草を咥えた。
他にも方法があったはずなのだ。わざわざ殺したいほど憎い男に変装せずとも、この世界のどこかで生きているはずの人間を捜すことはできる。これはバーボンの執着であり、未練だ。男はきっとどこかで、もしかしたら意外と近くでこちらの様子を見ていて、バーボンのその未練を嘲笑しているのだろう。
バーボンは煙草の先を灰皿に押し付け、ちりちりと燃え続けるこの酷い執着も一緒に消えてしまわないだろうか、などと叶わぬことを考えた。
◇◇◇
「俺は君を侮っていたのかもしれないな」
夜半過ぎ、赤井はいつものようにバーボンと煙草を味わいながら、今日の出来事を思い返していた。死んだはずの赤井秀一が銀行の支店で目撃されたことで、その正体を早急に確認する必要があった。男を殺した水無の安全確保の意味も当然あったが、何よりも一体誰が、何の目的を持ってそれほどまでに酔狂なことをするのか。それが赤井の予想どおりの人物であり、かつ、赤井の死を信じずにその行方を捜している故の行動であることを早く確認したかったのだ。死人が目撃された銀行での聞き込みは芳しくなかったが、不穏な気配を察して入った百貨店で見事に出くわした。どんな格好をしていても一目見ただけでわかる。
果たしてそれは彼の予想を過たず、かわいいあの子だったわけだが。
思い出す度に頬が緩む。彼が変装した『赤井秀一』は赤井本人よりもハンサムで、行儀がよかった。バーボンから『ライ』がどう見えていたのかは知らないが、今日の彼を見るに相当に美化されていたらしい。赤井の気配を察した彼が視線を彷徨わせるところなどは、あの頃の幼いバーボンの仕草そのものだった。かわいらしくて、なのに誰も思い付かないような奇策に走るところが愛おしくてたまらない。
「はっ…」
久しぶりに見た彼を思い起こすだけで、自身の昂りを感じる。スコッチを『殺した』男を憎悪に満ちた眼で見ていたのに、それほど憎いはずの男に変装して街を歩くなんて、一体誰ができると言うのか。憎しみの中にある、彼の赤井への執着を生々しく感じとることができる。もしかすると自分は彼の想いの深さを侮っていたのかもしれない。
「一体君は何を考え、何を感じて俺になった?」
スラックスの前を寛げ、そこから手を突っ込んで重量を増した自身を持ち上げる。
もっと俺に執着してくれ。俺を見つけ出すのは君しかいない。
張りのある、艶やかな皮膚の感触を思い出す。挑むような勝ち気な目がとろりと溶ける瞬間を、空気を求めるようにはくはくと動く唇を思い出す。早く、ここまで来て欲しい。彼と銃口を向け合う日を、赤井は何よりも待ちわびている。
「七夕というのは元々農村で行われていた、神様を迎えて豊作を祈る神事でした。乙女に着物を織らせて神に捧げ、穢れを払い、その年の豊作を祈る。日本に仏教が伝わった後はお盆の準備として行われるようになったそうですが」
バーボンは時折こうやって日本の年中行事について触れ、その由来を解説する。『流暢な日本語を話す外国人』に対する気遣いをしているのかもしれない。
「笹の葉に願い事を書いた短冊を飾るんですが、それは中国の宮中行事が日本に伝わったものです。機織が上手な織姫にあやかって、織物の上達を願ったのが始まりだとか」
バーボンはそう言った後、開けたままのウィンドウから夜空を見上げた。最初は助手席に座る度に煙草臭い、オイル臭いと文句を言っていたが、そのうち慣れたのか、最近は大人しく座っている。
彼はいつものように俺を番犬かつ脚に使ってどこぞの富豪にご機嫌伺いをしに行った。組織のスポンサーだそうだ。人間よりも野生動物の方が多そうな山間部に突如現れた白亜の豪邸には閉口した。「趣味が悪いなんてものじゃないな」と呟くと、隣でクスクスと笑う声の後、「まあ同感です」と返ってきた。
「あ、そっち、道違いますよ」
「知っている」
日が暮れて、やっと細い山道を抜けて県道に出ることができたが、そこもまだ田舎で街路灯もまばらだ。帰路は全て頭に入っているが、バーボンの蘊蓄を聞いてふいに寄り道をしたくなった。
愛車を走らせて10分。そこは山に挟まれた、南北に開けた谷だった。
「う、わ…。すごい」
バーボンは車を降りると目を輝かせて夜空を見上げる。街灯も民家の明かりもない暗がりで、空が果てしなく輝いて見える。東京で見るそれとは全く異なって、まるで夜空が生きているように瞬き、幾千もの星が今にも落ちてきそうなほどに近い。
虫の音だけが響く中、バーボンは無邪気に笑う。
「星ってこんなにたくさん見えるんですね」
口を開けて仰け反っているバーボンは、南の空を見てまた声を上げた。
「天の川!」
銀河系。直径約10万光年の渦巻きは、地球からは帯状に見える。まるで空に揺蕩う川のように、それは肉眼でもはっきりと見えた。
「あれがアルタイル。あっちがベガ。彦星と織姫は年に一度、今日の夜にだけ会えるんですよね」
天の川を挟んで両岸にある二つの星は、実際には14.4光年ほど離れているから年に一度も会えるはずがないのだが、バーボンの好奇心に満ちた子どものような目を見てしまうと無粋なコメントはしにくい。
「年に一度か。僕ならきっとそんなの耐えられない」
バーボンは空を見上げたまま、小さく吐息を漏らした。水を向けるように視線を投げると、彼は視線を彷徨わせ、それからやはり星空を見上げた。
「僕はこの組織の中で、どうしてもやり遂げたいことがあります。そのためならどんなことだってやる。…その過程でいつか、きっとあなたを裏切る。それでも」
彼に釣られて上を向いていた視線を地上に戻すと、そこにあるのはただの闇だ。嘘も真実さえも覆い隠す闇。
「君の裏切りにより、年に一度しか会えなくなるのか?」
「さあ。…ふふ」
バーボンは妙案を思い付いたように笑みを漏らし、こちらに近付いてきた。腕を伸ばすと何の警戒心もなく身体を預けてくる。しっかりと抱き込んで、その体温を感じる。
「バーボンとしてあなたと会うのは年に一度きり。他の日は顔を変えて、名を変えて、……そうだな、声も変えてあなたに会いに行こうか」
甘い声が耳を擽る。
「それは…いいな。俺を騙して、翻弄してくれ」
「謎を解くのが好きだものね、あなた」
「それは君もだろう」
俺の腕の中で彼が身動ぎ、息が掛かる距離で向かい合う。今にも落ちて来そうな雄大な星空に監視されて、何千もの瞬きに衆目を感じたバーボンの目が溶けそうなほど潤んでいる。
「何を考えてる?」
耳元で囁けば、自然と漏れるあえかな喘ぎ。
「ん、きっと、あなたと同じこと」
「天体観測は?」
「もういい。ライ…。早く僕を、あの星よりももっと高みに連れて行って」
腕の中で待ち切れないと愚図る頭を撫で、その髪にそっと唇を落とした。
ライはいつだってバーボンには優しい。この前はバーボンがコーヒーチェーン店の新作ドリンクを紹介するスタンド型の看板に三秒、視線を固定した。そうするとライは『ここで少し待っていろ』と視線だけで告げ、しばらくするとバーボンの手にはクリームの乗った美味しそうなフローズンドリンクがあった。
思えばそんなことばかりだ。バーボンは思い返す。ライがフルーツたっぷりのタルトを二ピース持ってバーボンの部屋に来たときは、「二つとも君が食べていい」と言って、食べ終わるとそのまま帰って言った。ライが任務で海外に行ったときには、現地の露店で買ったような猫の置物や、伝統的な意匠のアンティーク雑貨をお土産にくれた。
物だけじゃない。バーボンが薬物を摂取させられて道端で苦しんでいたときには颯爽と迎えに来てくれて、前後不覚になっている彼を介抱までしてくれたし、上の方から来たハニートラップ紛いの仕事を潰してくれたこともある。
『…いや、甘えてばかりではよくない!』
バーボンはよく気まぐれな猫のようだと評されるが、性根は真面目で、借りたものは返す、もらいっぱなしは性に合わないのだ。ターゲット相手ならそういう仕事だと割り切れるが、同格のライ相手にはそれは難しい。
……お返しと言ってもな。何か欲しいものとかあるのかな、あの人。
寡黙で無欲そうな男なのだ。愛着があるものなんてライフルと煙草とウイスキーくらいで、いつも真っ黒の代わり映えしない出で立ちでバーボンの前に現れる。
愛用の煙草をカートンで持って行くか?それとも年代物のバーボンを贈る?…いや、自分の名が付いた酒をあげるだなんて、なんだかすごく思わせ振りな気がする。
悶々としながら悩んだバーボンは、本人に直接聞きに行くことにした。安いビジネスホテルの隣部屋。ライはどこからか調達していた小さなウイスキーのボトルと仲良くしていた。
バーボンは事情を説明し、グラスを手放してベッドに腰かけるライに近付いた。そして、あのいつもの甘い声で「あなたは何が欲しいですか?」と訊いた。
「あなたは何が欲しいですか?」
バーボンには全く他意はなかったが、ベッドに腰掛けた男に対してその台詞は全くよろしくない。ライはバーボンの腕を掴み、じっとその目を見つめた。いつもは森を思わせる深い緑の虹彩が、じわじわと色を変えていく様をバーボンは見つめ返す。
「……俺が何を欲しがっているか、わかるか?」
バーボンはライの言葉の意味がわかったような気がしたけれど、それはバーボンに都合よく解釈した場合は、ということだ。
バーボンはふるふると首を横に振り、ライの反応を待つ。
「わからないならいいんだ。君は何も気にしなくていい。でも、もし俺の言うことの意味がわかったなら…またおいで」
低くて甘い声が、そう囁いた。
「……ということがありましたよね」
ピロートークに、二人はしばしば昔話をする。共に組織にいた頃のこと、襲い来る憎しみに狂いそうになっていた頃、相手を認め始めた頃のこと。
「ああ、あったな」
「結局あなた、僕に手を出さなかった」
「何もわかっていなかった君を、騙すようにしてベッドに引きずり込むのは気が引けたからな」
赤井はベッドの上で起き上がる。一服しに行くのかと思えばそうでもないらしい。彼は零の髪を撫で、慈しむような目を向ける。
「…わかってましたよ、僕。…ちょっと期待してたのに」
零は恥ずかしさを誤魔化すように頬を膨らませる。
「それは勿体ないことをした」
欠片も後悔している風ではないが、何かを思い付いたらしい赤井は、ベッドの下に落ちた零の服を拾い上げる。
「あの時の続きをしよう」
「何の話?」
「俺に期待していた25歳のバーボンのために、君が本音で返事をしていた場合の続きをするんだ」
「…で、服を着ろと」
「うん。俺が脱がすから、ちゃんと恥ずかしがるんだぞ」
そう言った赤井も、落ちていた自分の服をかき集める。
「何か、スケベオヤジみたいな台詞」
「事実俺はスケベオヤジだし、君だって好きだろ?そういうの」
ワイシャツのボタンを留めながら、笑う。照れ隠しにぶちぶちと文句を言う零に視線を向けた赤井は、彼がその気になるとっておきの一言を、想いを乗せて耳元で囁いた。
「かわいいな。俺の、バーボン」
東京湾に面した埠頭に立ち並ぶ倉庫群。そのうちの一つに用がある。世間では甘いチョコレートが横行し、浮かれたカップルが街に溢れる夜。僕はいつものように殺風景な場所で冷たい海風に吹かれていて、思わず口を尖らせそうになる。
「毎回毎回、一体どこから情報仕入れて来るんだよ」
相変わらず黒一色の男は、大股で僕に近付いてきて、それから印象的な緑の目を光らせて僕の全身を眺めた。今日は細身のロングコートと、その下にはいつものバーボンの正装だ。男は返事もせずに僕の背後に回って、そこから動こうとしない。仕方なく大型犬を従えて目的地に向かうことになった。
倉庫群の一角にある組織の研究施設。そこの研究員が僕に会いたいと言ってきかないらしい。重要な研究をほぼ一人で行っており、研究成果を誰にも渡そうとしない。そいつは拳銃を突きつけられながらも、バーボンにしかデータを渡さない。自分を殺したらその全てが完全にデリートされる、と声高に叫んだという。
僕が倉庫の前に立つと、電子音の後に大きな扉が音を立てて開いた。倉庫の中にもう一つ建物が入っているような構造で、内側の建物内に入ると研究所然とした白色蛍光灯とリノリウムの床材に迎えられた。エントランスの先に研究室、サーバールーム、研究員の私室など、複数の扉が並んでいる。
「バーボン、随分無粋なものを連れているね」
マイクを通して聞こえたのは掠れたような男の声。姿は見えない。
「僕の飼い犬ですよ。躾はできているので粗相はしません」
「その犬、組織の幹部だろう?バーボンとは不仲だともっぱらの噂だが、どういうことだろうね?」
思わず舌打ちが漏れそうになる。ライとバーボンは不仲というのは組織の末端にまで知れ渡っている噂話だ。だが真実ではない。
「ねえ、せっかく僕が来たんだから、早くしましょう?どこにいるの?」
媚びるように、少し鼻にかけた高めの声で喋ると大抵の男は細かいことを気にしなくなる。奥の部屋から物音が聞こえたと思うと、扉の一つがゆっくりと開いた。薄汚れた白衣を着た猫背の男は、十センチ四方の黒い箱を大事そうに抱えている。
「ああ、バーボン。本物だ」
大きく開かれたギョロついた目が、僕の頭の上からつま先まで粘つくような視線を向けてくる。全身に鳥肌が立つのを悟られないように、大きく息を吐いた。
「研究データを僕に」
手袋をはめた手を男に向けて伸ばすと、それは数秒考え込むように視線を箱に向けた。
「折角本物に会えたんだ。ちゃんと話がしたいな。どう?この奥に座って話せるスペースが」
「データはどこに?」
少しでも相手のペースに乗っては負けだ。今度は高飛車なお嬢様のように相手の発言を制する。手に持った箱は恐らくはフェイク。だが男の偏執的な性格からすると記憶媒体は白衣のポケットか、ワイシャツの胸ポケットだろうか、おそらく身につけてはいるだろう。
「データは、渡すよ。ね、その犬、吠えたり暴れたりしないようにできる?」
男はちらりと背後の黒犬を見た後、すぐに僕の胸のあたりに視線を移した。
僕は犬の、ライの方を向いて、彼の鼻の頭を指で撫でた。ライは無表情で、でも犬がくしゃみをするように鼻を鳴らす。
「これで僕が合図するまでは動きません」
男はそれを信じたわけではないだろうが、視線を手にした箱に向けて、それを揺すっている。
「これ、食べて。そしたら渡すよ」
見開かれた目が僕の顔を見て、それから手にした小箱を差し出す。それを受け取ろうと手を差し出すと、背後からその手を遮られ、大きな手が箱を奪い取るように伸びた。ライは黒い皮手袋をしたまま箱の蓋を開け、中身を全て床に落とす。
緩衝材とともに、直径三センチほどのトリュフチョコレートが一粒。黒のレザーソールがそれを踏みつける。ぐにゃりと潰れたそれから、剃刀の欠片が数個、それからマイクロチップが覗いた。
「な、何をするんだ!バーボン。きみ、躾は出来ていると言ったよね?」
「実は、主人を護るためなら命令はきかなくてもいいことになっているんです。自分で考えることができる優秀な犬でしょう?」
黒の手袋が右手でマイクロチップを拾い上げる。何かを言い募る男を視線だけで制し、「行くぞ」。彼は自分の歯で左手の手袋を外し、素手で僕の前髪に触ると、腰を抱いてそこから連れ出してくれた。
「おそらくあのクソ野郎はチョコレートと一緒に君にコレを食べさせて、飲み込んだそれを取り出すとか理由を付けて生きたまま腹を切り裂くつもりだったんだろう。剃刀で舌や喉をやってしまえば声も出せないし、出血が容易には止まらないから君を都合よく弱らせることができる」
「どうして、チョコレートの中にメモリがあると思ったの?」
「君を解剖したい、ってアレの顔に書いてあった。だから飲み込ませようとするんじゃないかと考えた」
ライが、手にしたマイクロチップを月に翳す。警戒していなければそのまま飲み込んでしまいそうな大きさのそれ。外気温が原因ではない身震いに、両手で肩を抱いてやり過ごそうとする。
他人に好意を寄せられることのおぞましさ。この世界に足を踏み入れて、何度もこんな歪んだ想いを寄せられた。いつまで経っても慣れないそれに、隣の男も幾分同情的になっているようだ。僕の震えを止めるように肩を抱いて、頬を寄せる。
「温かいカフェオレがいいか?それとも」
「チョコレートがいい。食べさせてよ、あなたが」
僕の番犬。僕の、騎士。それは無愛想で、人殺しの目をしている。でも、僕の行く先にいつもいて、恐ろしいものすべてから守ってくれる。
「苦くなるぞ」
「知ってる」
僕が想いを向けられたいと思う人は、ただ一人きり。僕の男は、「チョコレート。ああ、そういうことか」と喉を鳴らして笑い、耳元で「欲しいのか?かわいいな、バーボン」と囁いた。
日付けが変わってしばらく経った頃、僕が就寝しようと照明を消してベッドにもぐり込んだすぐ後に、アパートの前でカチャカチャと細い金属音が鳴った。合鍵を渡した事実はないのに、アイツは自分の家に入るような気安さで古いタイプのシリンダー錠をピッキングしてドアを開けるのだ。初めは時間が掛かったそれも、今じゃ数秒。鍵で開けるのと変わらない。
周囲を警戒しているのだろうか、静かに扉を開閉した不審者は、ご丁寧に玄関で靴を脱ぎ、寝室の手前にある洗面所で手を洗って、うがいをする。最初の頃に躾のように命令したことは、毎回守るみたいだ。変なところで律儀な奴。
しばらくして、寝室のドアが開いて、閉まる音。口を開くと文句ばかりが出てしまうから、僕は寝たふりをすることにした。身動ぎをせず、深い呼吸を繰り返す。期待と緊張で上がった心拍が頸動脈から枕を伝って自分の耳に響く。
ドアの近くに下ろした荷物は、おそらくライフルの入ったギターケース。こちらを窺うようにゆっくりと近づいてくる気配。ベッドに手を付いて、彼の長い髪が僕の頬を掠めた。
思わず短い息が漏れる。フッ、と息で笑う音。
「……不法侵入」
「犬が飼い主の元に戻っただけだ」
こんな傲慢で態度のデカい犬がいるかよ。男は飼い主の承諾も得ずにベッドに乗り上げ、仰向けになった僕の両肩の横に手を付いた。暗闇の中、重い髪が僕の肩や首、頬に掛かって、僕はうっとりと目を細める。今、この瞬間だけは鈍く光る緑の視界は黒髪に遮られ、僕だけが映っているのかと思うと気分がいい。
「もう、寝るのか?」
「寝るって、どっちの?」
闇に目が慣れてきて、薄い唇の端がわずかに持ち上がるのがわかった。そしてそれは相手も同じで、きっと僕の目が浅ましく光っているのに気付いているんだろう。
「かわいいことを言う」
僕は右手でライの髪を掴み、そのままぐっと引き寄せる。彼は僕の望みを過たず、口にかぶり付いてきた。
「準備、してない」
「最後まではしない。甘やかしてくれるだけでいい」
そう言ってまた噛み付いてきた。苦い味のキスに慣れたのはいつだっただろう。今じゃあこの味がしたら身体が弛緩して、快楽を素直に受け入れられるようになった。
絆されてるな、と思う。都合のいい遊び相手に過ぎないのに、こっちばかりが本気になって、それでもこの関係を辞められない。きっとこの人は僕が鍵を付け替えない理由も、鬱陶しいと言いながら本当はその長い髪に囚われたがっていることも、全部わかっているんだ。それが気に入らなくて逃げたくなるのに、結局自分の心に抗えずにこうやって『甘やかして』やるんだから、もう本当に手に負えない。
ねえ、こっちを見て。僕だけを愛して。言えない思いを乗せて、ライの髪を自分の指に絡ませる。これがずっと、ずっと解けなければいいのにな……。
◇◇◇
寝室の扉を開けると、気の立った仔猫のような緊張感が伝わってきた。呼吸数を減らして寝たふりをしているようだが、起きている気配は簡単には消せない。それに侵入者に気付かず眠り続けるような生活もしていないはずだ。背中から下ろしたギターケースを床に置き、ジャケットを脱いでベッドに近づく。片手を付いて顔を覗き込むと、髪が彼に触れたようで、吐息に乗った甘い声が聞こえた。かわいい声に喉の奥で笑う。
バーボンは目を開けてこちらを見て、一言文句を言う。従順な犬の振りをすると、拗ねたように頬を膨らませるからたまらない。ベッドに乗り上げて両手をバーボンの身体の脇に付くと、彼はやはり温度のある息を漏らした。暗闇の中のわずかな光をかき集めたようなブルーグレーが、水分を纏ってきらめく。
長くて鬱陶しくもあるこの髪が、まるで鳥籠のように青い目を閉じ込めている。俺とバーボンはいつか進む道が分かれる。手酷く裏切る時が来る。そうなる前に、このままこの鳥籠に閉じ込めて飼い殺しておけないだろうか。物騒なこちらの思索に気付いた風もなく、彼は俺を見上げて目を細める。
「もう、寝るのか?」
子供が駄々を捏ねるような口調で言うと、「寝るって、どっちの?」とかわいい反応が返ってくる。思ったことをそのまま口にすると、彼は眉を吊り上げて乱雑に俺の髪を掴んで引いた。旨そうな唇に噛み付いて、舌で口を抉じ開ける。愚図るように顔を背けて、準備していない、などと言うから驚いた。今夜俺がここに来ることは彼に告げていない。セックスの準備などされていては困るのだ。鼻を彼の肩に埋めて薄い体臭を嗅ぎ、甘やかしてくれと言ってまた口付ける。甘い口腔を堪能するように舌で舐め回し、彼の舌を噛んで唾液を搾り取るようにしてそれを飲む。控えめな喘ぎが漏れるのに気分をよくして、彼のまとうシーツに指を掛ける。
「ライ」
また髪が引かれる。
「髪、切らないでね」
「どうした?」
返事はなく、バーボンは指に絡めた髪にキスをする。何かに気付いているのだろうか、蕩けた青い目が切なげに揺れるのに、俺は気付かないふりをした。
地方の住宅街。山を切り開いて造成したような土地の上に、整然と区切られ建てられた住宅が並んでいる。夕飯時が過ぎて、家の中からは母親が子どもに呼び掛ける声が聞こえる。「もう、はしゃぎすぎよ。大人しくしていないとサンタさん来てくれないかも」
別の家ではクリスマスソングと共に数人の笑い声。
バーボンはライと共に坂道になっている住宅街を歩きながら最寄り駅に向かっている。今日の任務は東京から新幹線で二時間の距離にある都市、そこからさらに鉄道を乗り継ぎ一時間かけてやってきた民家で、金と書類とを交換するだけのものだった。これから二人は来た道を戻るが、今から急いだところで東京行きの新幹線の最終時刻に間に合うかは微妙なところだ。
「ねえ、なんでこんな日に僕に付いて来たんですか?」
バーボンは白い息と一緒にそう呟いた。バーボンとライはつい先日知り合ったばかりで、何故コンビでこんな場所まで来たのか二人ともわかっていない。わかっているのは、ライがバーボンを一目見たときから気に入ったことと、バーボンがライの緑の目に強烈な既視感を覚えたことだけだ。
「こんな日?」
「今日、クリスマスイブでしょ?あなた、彼女いるんだから、こんなとこで大した金にもならないことしてていいんですか?」
乾いた冷たい風が道路を吹き抜ける。バーボンはコートの襟を上げて首を竦めた。
「君は?」
「ん?何?」
これから帰宅するのだろう車が、細い坂道を上ってくる。ライは、ヘッドライトに目を細めるバーボンの肩を抱いて道の端に誘導した。
「……君は、クリスマスを共に過ごす相手はいないのか?」
車が行き過ぎても、ライの腕は離れない。バーボンはなぜか自分の体温が上がったような気がした。
「……い、いませんよ。何か問題があります?」
「いや、ない」
坂を下りきったところに駅がある。そもそも電車の本数がそれほど多くない場所なのだ。時刻表はバーボンの頭の中にあって、あと十分ほどで来る電車に乗り込まないと今日中に東京に戻ることができない。いくら地方と言ったって、こんな日にホテルの客室が空いているとも思えないし、駅の構内で始発を待つなんて絶対に嫌だ。
「あなたが取引相手をわざわざ挑発しなければ、直ぐに終わった仕事なのに……。もう、急がないと間に合いませんよ」
バーボンがそう言って、自分の肩を掴む男の手を外す。足早に歩き出すバーボンに、ライは付いて来ない。
「ライ?」
バーボンは立ち止まって振り返る。彼はゆっくりと歩きながらスマートフォンの画面を見ていた。彼女からのメッセージだろうか?そんなの電車に乗ってから確認したって遅くないだろう。バーボンが再度呼び掛けようと歩み寄ると、彼はフッと唇の端を引き上げた。
「そんなに彼女のことが気になるなら……」
「キャンセルが出たぞ」
スマートフォンの画面を見せられたバーボンは、キャンセル待ちをしていた諸星様宛に着信した、ホテルからのメッセージを読んで、それからライの顔を仰ぎ見た。
「クリスマスイブに喧嘩別れした可哀想なカップルには悪いが、今夜のねぐらとさせてもらおう。急いで帰ったって東京に着いた頃には日付が変わる。ただでさえ寒いのにわざわざ夜中に移動するのは面倒だ」
ライはメッセージに記載されていた電話番号をタップして通話し始めた。
「キャンセルって……もしかして一部屋?」
ライは通話しながら、バーボンの質問に頷く。「キャンセルしたのはやはりカップルのようだ。ダブルベッドルームだと」
保留音が鳴る電話から耳を離して、ライは口端だけを上げる。
「な、なんで……」
男同士なんだから、ベッドは半分ずつ使えばいいし、別にやましいことをするわけでもないのに、バーボンは自分の顔が急に熱を持ったような気がして戸惑う。
通話を終えたライは、彼の頬を人差し指の背で触れた。思ったよりも期待させるような反応を見せるバーボンの姿に、知れず笑みがこぼれる。わざわざ取引相手との交渉を長引かせた甲斐があったというものだ。早急に事を進める気はまだないが、いずれはこちらに堕ちてもらう。
「なんでそんなにニヤニヤしてるの?寒いの嫌ならそう言えばいいのに」
ライと目を合わせたバーボンは数度瞬きをして、それから前を向いて歩き始めた。
「ローストチキン、買ってやろうか?ケーキも要るか?」
「……い、いらない!そんなの、興味ないし」
ライは、少し俯いて早足になったバーボンを大股で追いかける。素直になれない愛し子のために、どんな買い物でもしたくなってしまう。ライはそんな自分の心情に声を出さずに笑い、前を歩く彼の丸い後頭部を見つめた。
「起きて、ライ」
バーボンはライを抱き締めてそう囁く。ライはその甘やかな声に応えるように、尾を振って彼の頬を撫でた。
ライは彼の声が好きだ。滑らかな美しい肌も、前を見据えるブルーグレーも、そして、優しくて少し甘い気質も。
バーボンは裸のままキッチンに向かい、ライのために生肉とフルーツを用意する。ベッドからのそりと下りたライは、大きな口を開けてひとつ欠伸をした後、足音を立てぬようにしてダイニングへ移動した。
「ああ、また……」
バーボンはライの食事を品良く盛り付けてダイニングテーブルの上に置き、自分はコーヒーだけで朝食を済ますつもりらしい。彼はマグに入れたカフェオレを冷ましながら、朝刊を読んでいる。
「僕の商談相手、また何者かに襲われて重体だって」
ライは肉を食べる前に、目の前にいる美しい青年の頬を舐める。美しい形の眉が下がって悲しそうな表情になると、つい顔中を舐めたくなってしまうのだ。
「意識不明か……。困ったな、って言わなきゃいけないところなんだけど、ちょっと良かったなって思っちゃった」
続きを促すように、ライは自分の鼻で彼の唇を押す。
「仕事でね、どうしても手に入れないといけない情報を持ってるのがこの人なんだけど、情報を渡す条件として一晩共に過ごしてほしい、なんて言われてて。だから、ちょっと助かったなって……」
ライは口の端を引き上げて、人間が笑うのと同じ表情を作る。それに釣られてバーボンのふっくらとした唇が笑みの形になった。
「うん。本当はとっても嫌だったんだ。誰の仕業かわからないけど、ありがとうって言いたいくらいには」
よかった。ライはバーボンの言葉に満足して、やっと食事をする気になった。
「大人しくお留守番しててね」
ちゅ、と頬にキスを受け、ライは思わず鼻を鳴らした。『もう一度してくれ』というライの気持ちが伝わったのか、バーボンは離れがたいとでも言うように額に唇を落とし、その匂いを嗅いだ。
パタン。バーボンを隠してしまう扉が開いて、閉まる。ライは数秒そこに留まり、それからリビングの大きな窓に移動した。バーボンの白い車が走り去っていくのを眼下にする。
ライは早速テーブルの上に乗り、朝刊を読み始める。バーボンの商談相手の記事は社会面に小さく載っているだけだ。目新しい情報は何もない。あの男はバーボンの手を撫で回したのだ。汚物のような臭いをバーボンの手に付けた。その上バーボンの身体全てを汚そうとした。殺さなかっただけ感謝して欲しいくらいだ。フン、一つ唸ってテーブルから降りる。
次にライが向かうのは、バーボンの書斎だ。ライの前足は意外と器用に動く。PCの電源を付けて、長いパスコードを間違いなく入力する。二段階認証を無効化して本人に知られないように慎重に。メールの内容、音声データ履歴。消去されたデータは完全に復元するのは不可能だが、ライが知りたいことは明らかになった。復元したデータを元通り壊し、ログイン履歴を消去してから電源を落とす。ライは軽やかな足取りでベッドルームの窓から外に飛び出し、街の路地裏に溶け込んで行った。
「ただいま、ライ!」
玄関で待てをしていたライを見て、バーボンは相好を崩す。
「外の匂いがする。また勝手に出掛けたでしょう」
ライを抱き締めたバーボンも、外の匂いがする。でも嫌な臭いは付いていないようだ。獣同士でコミュニケーションでも取るように、お互いに鼻を擦り付けて労い合う。
「また変なことが起こったんだよ。今日会った相手、交渉前なのに僕の欲しい情報を全部教えてくれたんだ。情報料も要らない、って逃げ帰っちゃったからなんだか可哀想になっちゃって」
フフ、顔を見合わせて笑った。
「時間があったから、新しいお肉買ってきた」
ライが喉を鳴らすと、バーボンは彼の顔中を撫で回す。
「お腹空いたの?かわいい」
ライはキッチンに向かうバーボンの足元にじゃれついたまま移動する。生肉よりもバーボンの方がいい匂いがする。彼の甘い匂いをずっと嗅いでいたい。
「わあ、お花。摘んできてくれたの?」
テーブルの上にはライが摘んできた白と青の野花。小さな花は所詮雑草だが、バーボンが喜んでくれるから度々持ち帰るのだ。
「ライ、ありがと。でもあんまり外に出ないでよ?あなたのその目、すっごく珍しくて、いくらでもお金を積むからあなたが欲しい。なんて言う人もいるんだから」
ライは反省したように身体を臥せる。
「僕の前からいなくならないでね、ライ」
君を置いてどこにも行かないよ。ライは思いを伝えるように彼の顔をそろりと舐める。くすぐったいのか、クスクスと笑うバーボンに見惚れて涎を垂らしていたようで、バーボンは「お腹空いたね。ちょっと待ってね」とキッチンに引っ込んでしまった。
君の前にある困難を全て取り除きたい。君が俺以外の何者にも触れたり触れられたりしないように、君がいつまでも俺を必要とし続けるように。呪いのような願いを込めて、ライは緑の目を煌めかせた。
「君の髪を切らせてくれ」
僕の髪、細くて柔らかくて、扱いにくいらしいんですよね。だから自分で切っているんです。以前、日常会話の延長でそんな話をしたような気がする。俺が死んでいたときは、有希子さんにカットしてもらっていたんだ。彼の小さなネタばらしと一緒に。
「構いませんが、理由を聞いても?」
僕たちは、因縁めいた長い付き合いがあるが、現在は仕事の協力者と表現するのが適切な関係であり、それ以上でもそれ以下でもないはずだ。まあ、過去には色々あったが、甘い関係ではなかったし、元恋人なんていう感傷もない。
「俺が死ぬまでにしたいことの一つだからだ」
「それは、こういう質の髪を切りたいということ?それとも僕の髪だから?」
ここは庁舎のロッカールームで、本来なら部外者は立入禁止だ。そう言って追い返すのが筋だろうが、あの赤井が僕にお願いしている、という構図が面白くて話に付き合ってやる。
「後者だと言ったら切らせてくれるか?」
「まあ、理由はどうでも。切った髪を売るとか、バリカンで刈るとかいう常軌を逸したことさえしなければいいですよ。今から?どこでします?」
荷物を取り出してロッカーを閉めると、赤井は苦虫を大量に噛み潰したような表情を見せた。
「君は誰にでもそういうことをさせるのか?」
はぁ?人が許諾してやってるのに一体何が気に入らないんだ。
「僕の髪を切りたい、なんて変なこと思うのあなたくらいしかいないでしょ。他に言われたことないから今のあなたの質問は的外れです」
「なるほど、」と答えた彼は頭を掻いて、「こんなにスムーズに話が進むとは思わなかったから、道具は家に置いてきたんだ」と言った。
「じゃああなたの家に僕が行きます。その前にどこかでご飯食べましょ。お腹空いちゃって」
先導して扉を開けると、赤井は手ぶらのまま僕に付いて来た。
「鞄は?」
「持ち歩いていない」
アメリカでも一般的に仕事には鞄持って来るだろう。とか、やる気あるのか?とかいう台詞を思い付いたが、黙っておくことにした。キャンキャン吠えるな、と言われた過去を忘れたわけじゃないのだ。
「すごい。本格的ですね」
切れ味の良さそうなプロ用の鋏だ。シングルで住むには広すぎるリビングダイニングに用意された椅子とケープ。
「君の髪だからな」
赤井は機嫌良さそうに微笑んだ。促されて、椅子に掛ける。霧吹きで髪を濡らしていく。
「どうして、僕の髪を切りたいなんて思ったんです?」
扱いにくい髪質だからプロに切ってもらえない、なんて嘘だ。凶器を持った人間が背後に立つことに本能的な恐怖があるから、他人に髪を切らせることができないだけ。潜入捜査中、信用できるのは自分だけだった。僕の命を狙う誰かが、一般人を装っているかもしれない。名の知れた殺し屋が気配を消しているだけかもしれない。それは一連の捜査を終えた今でも克服できずにいる。
「もしかして、僕の嘘に気付いてます?」
髪の束を持ち上げられる。静かに入れられる鋏。
もしかして、赤井は僕の恐怖心を克服させようとしているのか?
「君にしては下手な嘘をつくとは思ったが、これを奇禍として君の髪に触れようと企んだのは俺だ」
赤井なら怖くない。大丈夫だと思った。彼なら僕を害することはない。実際にしてもらうとその通りで、小気味良い鋏の音に眠気すら感じてしまう。
「企み?」
「そう。鋏が怖いなんて臆病だな、とでも言って煽ったら乗ってくるだろう?」
「そ、そんな安い挑発に乗りませんよ」
いや、赤井に言われたら乗るかもな。
襟足に鋏が入れられる。冷たいステンレスが僅かに首筋に触れた。
「怖いか?」
「怖くない」
「いい子だ」
「子どもじゃない」
他人に髪を触られるなんて何年振りだろう。これは、こんなにも気持ちいいことだったろうか。
「あかい、」
「ん?」
「眠ってもいい?」
「いいよ」
大きな手で頭を撫でられた。何年も前、眠りにつく前にこんな風に大きな手で撫でられたことがあるような気がする。その時も、今と同じように煙草の匂いがしていた。
「……もう少し警戒心を持ってくれるといいんだがな」
ため息と共に呟かれた赤井の言葉は、半分眠っていた僕にはその意味がわからなかったけど、きっと悪い意味ではなかったんだと思う。
こんなに気持ちいいんなら、また赤井に切ってほしい。この鋏、きっと高価なものだろうから、活用するように言えばいいかな。でも、僕以外の髪を赤井が切るのは嫌だな。なんで、そう思うんだろう。眠りに落ちるまで、そんなことを考えていた。
煙草とオイル、それに硝煙の匂い。何時間も待機して、やっと獲物を仕留めた後の、疲労の濃い苦み走った男の体臭。最初は臭かったはずのその匂いに、僕の鼻は次第に慣れていって、最終的にはその匂いに身体が反応するようになっていった。意地悪に焦らす舌先や、快感に似た痛みをもたらす指。そういうものを期待する身体に。
僕をパブロフの犬に仕立て上げた男とは、ある事件をきっかけに没交渉となり、その後、奴は僕を捨てて勝手に死んだ。
久しぶりに緊張感のある現場だった。爆弾の解体が間に合うかどうかわからない、正に予断を許さない状況だった。
家族連れやカップルが行き交う休日のショッピングモール。本庁のサイバー班が見つけたニュースサイトへの書き込み。公安の対象となっていた男の行確作業中だった僕に一報が入った。
風見に避難誘導の指揮を採らせ、僕だけがフロアに残った。爆発物処理班の到着を待つ時間など到底ない。工具を片手に解体作業中、緊迫した場面であるはずが、ここにはいないはずの萩原と松田が絶妙なコンビネーションで僕に悪態を吐いていた。何ですぐこっちに来ようとしちゃうかねぇ。満員だ満員!お前が来たって座る席はねぇぞ。
最後のコードを切るまでは気を抜けない。時限装置の他に、遠隔受信システムがアイドリングしていた。失敗の許されない緊張、一秒後には死ぬかもしれない恐怖。脳内麻薬が過剰に分泌されているのがわかる。異常なまでの高揚感と万能感。早くあの男に会ってめちゃくちゃにして欲しい、なんて場違いな欲求まで出てきて頭から水を被りたくなった。
無事に爆弾を解体して、僕はすぐに現場を離脱した。風見に言って、僕の調書は明日作ることにする。駆け付けた応援がこれから現場検証に入るらしい。フロアを降り、建物を出るときに不意に匂いがした。昔の男の、あの匂いが。 思わず鼻をヒクつかせる。幻だとわかっているのに、一瞬で身体が反応する。たまらなく今、僕の男だったあの人に会いたい。
ニュースサイトのコメント欄に、ショッピングモールに爆弾を仕掛けたとの書き込みがあり、駆け付けた警察官が買い物客や従業員らを避難させ爆弾の捜索を行ったが、それらしい物は発見されなかった。警察は書き込みがいたずらだと判断し、威力業務妨害の容疑で書き込みをした者の捜査を行っている。
確保した被疑者を公安が預かるための方便だが、社会的にはこれが真実となる。
僕は愛車の鼻先をどちらに向けるかで少し迷い、結局、赤井が転がりこんでいる僕の自宅に向かうことにした。
過剰分泌された脳内麻薬の残滓がこびりついている。今僕が会いたいのは、厳密には赤井ではない。「俺は君の犬だ」と言って僕の全身に噛み跡を残す、手癖の悪いあの男だ。煙草と、オイルと、硝煙の匂い。苦味ばかりのキス。彼の大きくて意地悪な手が、有無を言わさず伸し掛かってくる重さが、僕の中を暴く圧倒的な質量が、恋しい。
赤井は、こうやってたまに僕が昔の男に囚われるのを多少は苦々しく感じているようだ。だからって一人でホテルに籠ってもこの欲求を解放する手段がないのも事実。ステアリングを握り、どう言えば手酷く抱いてくれるか算段する。
赤井であってそうでないもの。僕を条件付けた男。
「……ライ」
早くあなたに会いたい。
今、僕は赤井秀一と、世間一般でいうところの『交際している』状態にある(と僕は思っている。経験がないので、本当にそうかと聞かれると答えに窮してしまうのだけれど)。
どうして憎くてたまらなかった男と交際するに至ったかについては、もう僕では全く説明できないので、赤井に聞いてほしい。まあとにかく、僕と赤井は仕事が早く終わった日には、ちょっといいレストランで食事をしたり、休前日にはどちらかの家に泊まってベッドを共にしたり、そういうことをする間柄になった、というわけだ。
ところで、赤井とこんな状態に至った今、僕には克服しなければならないことがあった。それは『赤色嫌悪症』。赤い物を見ると憎くてたまらない赤井を思い出すから、という理由で赤が嫌いになったわけだから、赤井のことが好きになったら赤も好きになるのかと思いきやそんなことはなく、相変わらず僕は赤色の物を見ると鳥肌が立つし、赤色の食べ物は極力避けているのだ。
少し前、赤井とのデート中(デート、で合っているはずだ。)、ランチコースに出てきた前菜を見て仰け反った。赤いプチトマトに赤いパプリカ、赤い金時人参まで詰め込んだ(何のコンセプトか知らないが皿まで赤かった)全体的に赤いサラダだった。提供された食事を残すのは僕のポリシーに反するし、何より食べなければ赤いのがずっと目の前にあるわけだから、僕は目をつむってひたすらにフォークを動かし、色鮮やかな(ただし赤は除く)サラダを脳内に描いて食べきった。
向かいに座っていた赤井は、さぞ怪訝に思ったことだろう。まさか本人に「赤井のこと大嫌いだった頃の名残で」とも言えず、赤井も言及してこなかったからそのときはなんの説明もしなかった。
あれから数日後、赤井が何だか改まって夜景の綺麗なレストランに僕を呼び出した。ああ、そろそろ帰国するのかな?そのための挨拶?それとも『短い期間だったけど楽しかったよ、今までありがとう、もう会うことはないだろうが』とか言われるのかも。
緊張して赴いたレストランでは終始赤井がエスコートしてくれて(僕に合わせてワインは白を開けてくれた)、別れを切り出される覚悟をしていた僕はすっかり油断してしまっていた。
「降谷くん、君にこれを」
デザートにプチフールとフルーツが出てきた頃、赤井のジャケットの内ポケットからベロア調ののジュエリーケースが出てきた。え?なに、それ。
「開けてみてくれ」
ケースを受け取り、恐る恐る開くと、そこにはプラチナ製のタイピンが鎮座していた。しかもなんと赤い石が嵌め込まれている。
「これ、ルビーですよね?」
僕は赤色嫌悪よりもその宝石の美しさに興味を惹かれ、まじまじと石を眺める。
そのルビーは血のような深い赤色で、まるでそれ自体が発光しているような鮮やかさだった。キラキラと輝くのはラウンドブリリアントカットで、大きさも一から一・五カラットはありそう。
宝石は素人な僕でもこれだけはわかる。この石だけで三桁万円は下らない。
「なんで、こんな……」
何かの記念日だったかと思い返すが、そもそも記念日だとしても社会一般的にそんな高価な贈り物はしない。
「君、赤色が苦手だろう?だが俺からの誠意のこもった贈り物を無下にもできないはずだ。だから、これを赤色嫌い克服のためのツールにしてほしい」
「……知ってたんですか?僕が赤色嫌いだって」
赤井はフフ、と笑って、君、かわいいな。と呟いた。
「俺は君のことなら大抵のことは知っているさ。そうだな、例えば、君のベッドの下には赤い毛をしたテディベアが隠してあって、一人の夜にはその子を抱っこして赤色嫌いの克服訓練をしている、とか」
「………!」
高級レストランで絶叫しなかった僕を誰か誉めてほしい。というか何でそんなこと知ってるんだ?
「他には、そうだな」
「もういい、もういいです。何故あなたがそれを知っているかについては後日拷問してでも吐かせますから。だからって何でこんな高価な物を……」
「何としても赤色嫌悪を克服してほしいからさ。何故かって?日本では、結婚するときに夫婦どちらかの氏を称するんだろう?今は俺が外国人だから当てはまらないが、特殊な職業の君と結婚するなら俺が日本に帰化するのが最善だと考えている。だから、まあ……」
赤井が言い淀むのは珍しいな、とか、今の日本の法律では同性婚はできないんだ、とか日本に帰化したらお前今の仕事続けられないんじゃないか?などと言いたいことは山のようにあったが、今、赤井が言っている本題を反らしてはいけないことはわかる。そう、これって、まるで……
「俺が『降谷』になるのもいいが、場合によっては君が『赤井』になる可能性もあるわけだから、」
赤井はそう言うと、白い顔を少し上気させた。
(なにそれ赤井がかわいい)
そんなことまで考えていてくれてたなんて。僕はなんと返せばいいかわからなくなって、目の前にある赤井の色をした宝石にそっと触れた。
「僕、たぶん赤色嫌悪克服しました。今、この瞬間に」
「は?降谷さんが赤色解禁したって?今日四月一日だったか?」
警備企画課内では、その日の朝から降谷が赤いハンカチを使っていた、とか赤い宝石付きのタイピンを付けていた、とかいう誤情報らしき噂が流れてきて、徹夜明けの風見は眉間のシワを深くしていた。
ちなみに風見は降谷の忠実な部下なので、赤いハンカチも赤いタイピンも持っていない。使用する備品、文具類に至るまで細心の注意を払っている。
「おはよう、風見。報告書出来てるか?」
「はい、降谷さんのパソコンにデータ送っておきま……」
目の前の降谷のネクタイには、艶々の赤い石が嵌まったネクタイピンが付いていた。思わず眼鏡のブリッジを指で上げ、まじまじと観察する。
「……めちゃくちゃ高そうですね、それ」
素直な感想をこぼすと、降谷は花が咲くような笑顔を見せたので、風見は降谷をアメリカに連れて行かれないように、さらに上役に言って降谷の旅券の停止措置をせねばならぬと決心したのだった。
「恋愛相談……かい?」
小学1年生から聞く単語としては些か不適切であるような気がして聞き返すと、カウンター席に着いた歩美ちゃんは「うん!」と元気よく返事をした。
安室さん、またお顔怪我してるの?かわいそう。
幼い子どもの同情になんと応えるべきか迷って、「平気だよ」と言ってからニコリと笑う。観覧車の上で殺したい男と殴り合いをしたときの傷だよ、と言うわけにもいかない。
僕の笑顔に感化されたように、彼女はほっとした表情で話を始めた。
「歩美ねえ、お姉さんから相談受けちゃったんだ」
平日の午後4時過ぎ。梓さんは明日使う食材の買い出しに行っている。閑散とした店内には歩美ちゃんと、何故か奥のテーブル席には胡散臭い大学院生に扮した赤井秀一がいた。学術書片手にもう一時間は居座っていやがる。他の客なら混雑していない時間に1時間程度店にいても気にならないが、あのどう見ても研究者に見えない態度のデカい男がいると、それだけで神経が逆撫でされるような気がするのだ。殴り合いから何日も経っていないのに、何食わぬ顔で店を訪れたときは反射的に殴り倒しそうになった。
「最初はコナンくんに話したんだけどね、その話なら安室さんが詳しいって言われて。あ、宿題は哀ちゃん家で終わらせてきたよ!」
生搾りのオレンジジュースを提供して、彼女の話を促す。
「ええと、相談したいのは歩美と同じマンションに住んでる六年生のお姉さんでね、お姉さんは同じクラスの女の子のことが大好きなんだって」
大好き。恋愛相談と言うからには、それは友人としての好きではなく、恋をしている、ということなのだろう。
「でもね、お姉さんはその好きな子にとーっても嫌われてるんだって」
搾り器を洗う手を止める。エプロンで手を拭いて、彼女と対面することにした。
「どうして嫌われているのかはわかっているのかい?」
「んと、お姉さんはね、好きな子と一緒にいると、かわいいなぁ、って思って、色々してあげたくなっちゃうんだって。例えばねぇ、体育の時間に跳び箱失敗した、ええと……」
「相談者、歩美ちゃんに相談したお姉さんをAちゃん、Aちゃんが好きな子をBちゃんと呼ぶことにしよう。それで?」
話を促すと、歩美はひとつ頷いて話を続ける。
「跳び箱に失敗して尻餅ついちゃたBちゃんを走って助け起こしに行ったら、『馬鹿にしてるんでしょ!』って怒られたり、Bちゃんが男の子にからかわれてたから、Aちゃんがその男の子に注意したら、Bちゃんは『余計なことしないで。自分で何とかするから』って言われちゃったって」
……不憫だ。Aはおそらく好きな子を守りたくてした行動が、Bにとっては『馬鹿にされてる』『見下されてる』と映るんだろう。もしかしたらBはAのことをライバル視しているのかもしれない。
「AちゃんはBちゃんのことが大好きだからね、Bちゃんが困っていたら助けたいし、他の人がBちゃんを助けるのはイヤなんだって。ほんとは一緒に遊んだり、お話したりしたいんだけど、最近はもう近づいただけで睨まれるって。かわいそうだよね……」
歩美は視線を下げて、彼女に同情していた。確かにかわいそうな話だが、幼い頃の恋なんてみんな不器用で、上手くいかないものだろう。僕だって好きな人に構われたいからって幼稚な手段をとっていたし。
「安室さん、どうしたらいいと思う?」
「そうだなぁ、」
何か、どこかで似たようなシチュエーションに遭遇していたような気がしたが、気のせいだろう。恋愛事なんて随分ご無沙汰になっている。
「まずはBちゃんが嫌な思いをしていることを謝る。それから、ちゃんと説明すればいいんじゃないかな?Bちゃんのこと守りたくて、嫌なことから遠ざけたいからやったことで、君を馬鹿にしてるわけじゃないんだよ。って。Bちゃんはきっと、Aちゃんが自分のことを好きだなんて思ってもみないことだろうから、ちゃんと好きだから守りたいって言えば誤解は解けそうな気がするんだけど。どうかな?」
「……なるほど」
返事があったのは奥のテーブル席だった。本に目を落としているから独り言なのかと思いきや、不意に視線が上がって、レンズ越しに細い目が僕を見た。
「あなたがBさんだったら、Aさんにそう言われてどう思います?」
分厚い肉体に似合わず、優雅な仕草で席を立ち、足音も立てずにこちらに近づいて来る。歩美ちゃんは「昴さんも相談に乗ってくれるの?」と無邪気だ。
Bは、自分に対して恋愛感情を抱いているAにそう言われたらどう感じるだろう。Bが異性愛者だと仮定しても、好きだから守りたい、なんて言われたらきっと嬉しいんじゃないか?僕なら自分がライバル視してる男性にそう言われたら……
「んん?」
ちょっと待て。好きだから守りたい?あの時、僕を助けに倉庫までやって来た赤井の動機がわからずに、ただ僕を嗤いに来たのだと思っていたけど、冷静に考えてみればそんなこと命を懸けてまですることじゃないだろう。じゃあ何で赤井は僕を助けた?
「歩美ちゃん。僕も安室さんの意見は最もだと思います。早速Aさんにアドバイスしに行ってはどうでしょう。ジュースの代金は僕が支払っておきますから、気にしなくていいですよ」
脳内で大混乱している僕に代わって、大学院生が歩美ちゃんを抱っこして椅子から降ろしている。
「わかった。ありがとうね安室さん。昴さんも!」
男がドアを開け、歩道まで出て歩美を送り出す。戻ってきた沖矢、いや赤井は、「安室さん。私の相談にも乗っていただけませんか?実は私も先程の話とよく似た状況にありまして、」と言い出した。
何とよくに似た状況だって?ダメだ!きっとそれに気付いたら僕の負けだ。
「嫌だ!やだ、早く帰ってください!」
ゆっくりと僕に近づいてくる男の首もとから小さな電子音がした後、「君にもっと近づきたいんだが、どうすればいいかな」だなんて、一体僕はそれにどう答えればいいんだ。
「ねえ赤井、あなた髪伸ばす気ありません?」
風呂上がり、いつものようにソファで俺の髪を乾かしながら零が言った。
彼の手が俺の項を意味ありげに辿って行く。今日はOKの日、というわけだ。彼の不器用な誘いに口の端がだらしなく弛んでしまうのは仕方がないことだ。だがその前に発せられた要望は聞き入れられない。
「ないな」
硬い声質で拒否すると、彼は「そうですか」とだけ言って、また髪をかき混ぜる作業に没頭する。
彼がもう一度会いたいと思っている長髪クソ野郎は、俺の名が組織に知れたその日に葬ったのだ。もう二度と君の前に姿を現すことはない。アレは既に過去の遺物で、幻想で、そんな人間は最初からいなかったのだ。
そうは思うが、面白くないのも事実だ。彼は「あれだってあなたでしょう?」と言うが、あんなデリカシーがなくて短気で不遜で子供っぽくて倫理観の欠如したサディストが俺と同一人物だなんて未だに受け入れられない。バーボンがアレのどこを気に入っていたのか、聞いたところで腹が立つだけだから聞きはしないが、彼好みの男になりたいならそれだって把握しておく必要があるのかもしれない。
腕を組んで悶々としていると、頭の上から甘い笑い声が聞こえた。
「冗談ですよ。あなた、ほんとライのこと大嫌いなんだな」
彼は笑いながらそう言って、目の粗いブラシを取り出して髪に当てる。頭皮マッサージも兼ねているそうで、これが大層気持ちいい。
「れい、俺を弄ぶのは面白いか?」
拗ねているような発言だが、あまりの気持ちよさに語尾がヘロヘロになっている。彼は「とっても」と言って更に笑っている。
「あなたは俯瞰で物事を把握するというか、常に現場を客観視して、取り乱すことがないでしょう?」
そうでもないが。下手に返答して話の腰を折るのは止める。
「恋愛においてもそう。僕は、例えば何でもない日にあなたから花を贈られたら、すごく嬉しくて舞い上がるし、反対に、あなたの他意のない動作や発言がきっかけであなたの心が僕から離れて行くのを恐れたりするけれど、あなたは」
「ストップ。ちょっと待て零」
「何?」
何を言い出すのかと思えば。俺は彼の手からドライヤーとブラシを剥がし、向かい合ってその両手を取る。
「俺の心が君から離れて行くことはない。その可能性はないんだ。わかるか?」
「人の気持ちに絶対はありませんし、話の本題はそこじゃない。ちょっと黙って聞いてください」
零は気分を害した様子はなく、俺の頭頂部をぽんぽんと叩いた。俺は彼の腰に腕を回して、その腹に顔を埋める。筋肉が付いているのに柔らかくて、思わず両手で掴みたくなるウエストだ。
「あなたはいつも泰然としていて、不安や嫉妬みたいな醜い感情とは無縁でいるように見える」
腹に埋めた頭を振って無言で否定する。そう装っているだけだ。
「でもね、僕が『ちょっと眼鏡かけてみて』とか、さっきみたいに『髪伸ばして』って言うと途端に嫌だって言うから。彼らに嫉妬してるのかなぁ、なんて想像逞しくしてたわけ」
「ビンゴだよ。君があのクソッタレ共のことをどう思っていたのかはあまり聞きたくないが、いずれにしても嫌ってはいなかっただろう?」
「いやいや、どこからどう見ても嫌ってたでしょう。眼科に行くか?」という発言は聞かなかったことにする。
「あれらは俺であったかもしれないが、俺とは違うモノだ。あの胡散臭くて粘着質で甘ったるい声の変態は断じて俺じゃない」
零は、母親が聞き分けのない幼児を宥めるように、俺の頭を撫で続けている。
「あなた、本当に彼らに嫉妬してるの?全部あなたなのに?」
「……俺じゃない」
シャツの裾を捲って形のいい臍を舐める。擽ったい、と笑う声。
「赤井って、自分にやきもち焼くくらい僕のこと好きなのか」
「うん」
ぎゅうぎゅうと抱き締める。それから早くベッドルームへ行こう、と彼の手を取る。「何だかいい気分だ」と言った零は、その後に「ライも沖矢さんもちょっと変な性癖してて、それも悦かったんだけどなぁ」と特大の爆弾を投下した。
『台風への備えは大切ですよ。今回の台風は雨、風共に強いそうですし、都内でも停電や水害が発生する可能性があります。ガスや電気を使わなくても食べられる非常食や飲料水、懐中電灯、それからモバイルバッテリーを充電しておく、などの準備をしておきましょう。あと、家の外に風で飛びやすい物がないか確認しておく必要もあります。植木鉢などは・・・・・・』
子どもたちを連れてポアロに行くという博士に取り付けておいた盗聴器が、彼の滑舌の良いスピーチを拾っている。なるほど、台風といっても風雨が強くなる数時間から一日ほど家に閉じこもっておけば良い。というわけではないらしい。停電への備えは確かに必要だろう。俺は変装の仕上げに眼鏡を装着し、首元のスイッチを入れる。沖矢の行動パターンを擬して、近所のスーパーマーケットに非常食と水、それから乾電池を買いに行くことにした。
「おきやさん?」
『台風への備えはできましたか?』と書かれたポップと共に、缶詰やカップ麺、レトルト食品が並べられた特設コーナーができていた。その中から適当にカゴに放り込んでいると、背後から声を掛けられる。
「安室さん・・・でしたか。こんなところでお会いするとは、意外と近所にお住まいなんですか?それとも職場が?」
彼は俺の持つカゴの中身をじっと見つめ、それから俺の顔に焦点を当てた。
「何か?」
「いいえ。僕の知ってるあの男は台風が来るからって何か行動を起こすような奴じゃなかったので、驚いたというか」
「あの男、というのは以前話に出た・・・確か『赤井さん』でしたか」
俺の口が『アカイ』と発音するときに、彼が僅かに目を見開いた。それほど意識されていると知れたようで、口元が緩みそうになる。
「・・・・・・ええ」
「あなたの彼氏さん、ですか?」
今度は口があんぐりと開いた。
「かっ・・・・・・そんなわけないでしょう!」
百面相をする彼がかわいくて、つい声を出して笑ってしまったら肘が飛んできた。相変わらず俺に対しては手が出る仕様であるらしい。
「あなた、大学院生って嘘でしょう?僕の肘打ち避けられるなんて」
「いえ、趣味で少し格闘技を」
「趣味の割にはいい身体と反射神経をしていらっしゃる」
売り場で喋っていては他の客の邪魔になる。視線で出口を指すと、彼は売られたケンカを買うような笑顔でもってレジに並ぼうとする俺に付いてきた。
「実は僕、雷や豪雨になると落ち着かなくて。明日の朝には暴風域に入るかも知れないとニュースでやっていたでしょう?」
一体どの口が言っているんだ。暴風雨どころか弾丸の雨だって平気で躱しそうだぞ。口から出そうになったツッコミは心の内に戻し、袋片手に二人で店を出る。『安室透』を演じている彼の表情は落ち着いていて、自然に口角が上がっているが、その目の中にあるこちらを探るような彼本来の光が、こちらを落ち着かなくさせる。もう少し有り体に言えば、欲望を掻き立てられる。
「『赤井さん』はどうしていらっしゃるんですか?恋人が困っているのなら助けてくれるのでは?」
「そんなんじゃないんです。本当に、恋人じゃない。僕に黙ってどこかに行ってしまった酷い人なんです」
泣き笑いの表情を見てしまうと、焦燥感と庇護欲とで目の前の男を抱きしめたくなった。以前からそうだった。道に迷った子供のような表情で『ライ』と呼ばれると、キスして甘やかしたくなったものだ。
台風の影響で、分厚く暗い雲が足早に流れていく。風もいくらか強くなってきたようだ。
「うちに、来ますか?」
ピタリと彼の動きが止まった。本当に?と視線で聞かれている。
「身の安全は保障できませんが」
「僕も格闘技を囓っていますから、自分の安全は自分で守りますよ」
なあ、俺が君の言うところの酷い人じゃなかったら一体どうするつもりだ。
青灰の目を問い詰めて、言い聞かせて、それから甘やかして、嵐の中二人でシーツに沈みたい欲求を、俺はどこまで耐えることができるだろうか。
庁舎の食堂が閉まる前に、何とか夕食を食べ終えた降谷は、廊下の窓から見えた満月を観てこう思った。
「しまった。コンビニで団子買って来ればよかった」
すっかり忘れていたが、今日は中秋の名月。お月見と言えば団子だ。降谷は多忙を極める国家公務員であるが、年中行事の類いはできるだけ満喫したいと思っている。作業に追われていても、庁舎の中から月を見ながら団子を頬張ることくらいはできるはずだ。だがコンビニとなると隣の庁舎の地下まで行かないといけない。……少し迷った後、食べたつもりで月だけ見ることにした。
地球から月までの距離は38万4400キロメートルだ。東京からニューヨークまでの距離のおよそ38倍。近くにあるように見えるのに、とてつもなく遠い距離。
僕たちは、月と地球ほど離れているわけじゃない。そうやって自分を慰めないと、崩れ落ちそうになるときがある。蒸し焼きになってしまいそうな盛夏が過ぎて、少し人恋しくなっているのかもしれない。
「会いたいなぁ」
電話じゃなくて、体温を感じたい。帰国したその日の内に『I miss you』とメッセージを送ってきたあの男の気持ちが今ならわかるような気がした。
今の気持ちをメッセージにして送ってみようか。そうしたら降谷の愛するあの男は、デスクワークぐらいなら平気でボイコットして空港へ愛車を走らせるだろう。そういうわけのわからないところがあるのだ。
連邦捜査局に迷惑を掛けるわけにはいかないから、降谷はメッセージではなく、窓越しの満月の写真を送ることにした。プライベートのスマートフォンで写真を撮って、メッセージアプリでニューヨークに飛ばす。用済みのそれをポケットに仕舞い、彼は自分のデスクに戻って行った。
「降谷さん、電話出なくていいんですか?」
鳴り続ける降谷のスマートフォンは、分厚い事件ファイルの下敷きになって振動音を響かせている。
「いい。仕事が終わったら掛け直す」
「お言葉ですが、あんまり無視しているとまたこっちに来てしまいますよ。あの人」
降谷は苦虫を噛み潰したような顔をして振動し続けるスマートフォンを手に取った。以前あまりの忙しさに男からの着信を放置し続けていたら、最後の着信から半日後には成田で入国審査を受けていたのだ。本当にわけがわからない。
「すみません、今仕事中で」
『零、今君、俺に会いたいと思っているだろう』
「話を聞け、僕は」
『そうか、今日は中秋の名月。君と一緒に月見がしたいな。やはりそっちに帰ろうか。明日の夜じゃ駄目か?』
「話を聞けバカ!」
『すまない。君が俺を想って撮った写真を見たらこっちまで切なくなってしまって。ほら、英文学者であり日本の近代文学の礎を築いたとされる夏目そう』
降谷は話の途中で通話を終了し、ついでに電源も切った。
「説明しなくても夏目漱石くらい大抵の日本人が知ってるっての」
照れ隠しに文句を言ってみても、体温の上昇は風見に悟られているだろう。
降谷はたった一枚の写真で、自分の感傷に気付いて電話をかけてくる男のことが大嫌いで、大好きだ。彼は降谷の機微なんて遠く離れていてもお見通しで、いつだって欲しい言葉を惜し気もなく伝えてくれる。嬉しいのに、それがいつも悔しい。
『人類で初めて月の裏側を観測したアポロ8号の乗務員だって、君の本心は決して解明できないだろう。君の裏側にある俺への愛情は、俺にだけ伝わればそれでいい』
仕事終わりにモバイルの電源を付けると、そんなメッセージが届いていた。ああ、この男には本当に敵わない。降谷は返信もせずにポケットにそれを突っ込み、南中に差し掛かった月を仰ぎ見た。
客室の窓に、横殴りの雨が音を立てて打ち付けている。暗くて分厚い雲が、風に煽られて流れていく。バーボンはカーテンを開けて、その光景を見るともなしに眺めていた。
彼は今回もライを護衛にして、昨日から和歌山の白浜に来ていた。昨日の夜に現地に着いて、ツインの一部屋しか取っていないことをライに揶揄われて、拗ねてシーツにくるまっていたら夜が明けていた。
これだけの風雨では、出張の目的である調査どころではない。でも、彼はこうなることを期待して、あえて旅程をずらさなかったし、その期待をライに気付かれていることもわかっていた。
「僕の気持ちなんて、こいつには筒抜けだ」
色恋は惚れた方が負け、とはよく言ったものだ。バーボンは自分がライのための『都合のいいオンナ』になっている自覚があったし、彼が大切にしている恋人の存在もわかっていた。「二番目でもいい」なんて台詞は、チープな恋愛ドラマや小説の中だけの言葉だと思っていた。誰だって一番がいいに決まってる。二番目以下に甘んじる理由がないじゃないか、と思っていたのに。
ライはベッドで呑気に寝息を立てている。雨の音が気にならないのだろうか。
バーボンはそっとベッドに近付いて、彼の唇に指を伸ばす。
「機嫌は直ったか?puppy」
「誰が犬ですか」
ベッドに手を着いて乗り上げると、片目を開けたライに首の後ろを捕まれて、そのまま音を立てて唇にキスされた。
「外は台風だ。今日は大人しくベッドで過ごそう」
大きな手のひらが頭を撫でる。ライはきっと、バーボンのことを好ましくは思っているのだ。優しい手付きや、丁寧なキスは、多少なりとも相手に情がないとできないはずだ。
「ライ」
わざと甘い声を出して、上目遣いで強請ってみせる。彼女から引き離して、台風を利用してホテルに囲って。
――僕をあなたの一番にしてほしい。
「食べて欲しそうな顔をしている」
「あなただって、お腹がすいたって顔してる」
瞳孔が開いて、眉間に僅かなシワが寄っている。ライが欲情しているときの表情だ。
「ではバスルームで君を調理しよう。おいで、バーボン」
恭しく手を取られ、抱きかかえられる。バーボンの目は潤んで光を反射し、それを見たライには彼の期待がきっと伝わっているだろう。
この台風が行き過ぎるまでは、僕をあなたの一番にして。バーボンは溢れそうになる思いを閉じ込めて、ライの首に手を回した。
「あかいー!乗れ!」
背後から疾走してきた聞き覚えのありすぎるエンジン音は、歩道を歩く俺の脇にピタリと停車した。
緊急呼び出しで現場にでも連行されるのかと身構えたが、運転席の彼はアロハシャツにサングラスという、完全にオフとわかる姿だった。
遠慮なく慣れた助手席に乗り込むと心地よい冷風が身体に当たって、思わず感嘆の声が漏れる。俺がシートベルトを締めると車はスムースに流れ始めた。
「あなたこんな日にまで黒づくめの格好してるのか……。見ているこっちが暑いんですけど」
「着る物に無頓着なだけだ」
黒の開襟シャツに紺のスラックス、黒の革靴。言われて改めて自分の服装を見ると、確かに暑苦しい。
「暑い日に何を着ればいいのかわからない」
肩を竦めてそう言うと、彼ははちらりとこちらを向き、すぐに前方に視線を向ける。
「あなたはそうやっていつもいつも僕の庇護欲をピンポイントで撃ち抜いてくる。狙ってやってるんだろう!」
「何を狙うって言うんだ。これはあれだ、単純に相性がいいんだろう。世話を焼きたい君と、世話を焼いてもらわなきゃ季節に応じた生活もままならない俺と」
零はそういうものかな、と言って首を傾げた後、「後部座席。夏に着る服が入ってますよ」と呟いた。
「俺の?」
体を捻ってバックシートに置いてある紙袋を手に取る。封を開けると、紺地に淡いブルーのハイビスカス模様のアロハシャツが入っていた。零が着ているそれと色違いのものだ。しかも、零の着ているものは白地にグリーンのハイビスカス。グリーンと言ってもオリーブ色から青みがかった緑までグラデーションがかかっている。まるで誰かの虹彩の色のようだ。俺のそれは灰がかった青から抜けるような空の色のグラデーション。
「君の目の色だ」
袋から取り出してシャツを広げる。「気付くの早すぎ」と言った彼は、困ったような表情で照れている。
「手染めオーダーメイドで作ってもらったんです。あなたアロハなんて着たことないでしょ?赤井が着たらどんな感じかな、って思ったら着せてみたくて仕方なくなって。どうせ着せるならこだわりたくなるのは僕の性格なので……」
語尾が力なく消えていく。
「君の愛情表現は稀にしか表に表れないが、その稀に起きる表現の殺傷力が高すぎるだろう」
「殺傷力?」
「うん。大声で愛してるって言われているみたいだ」
プレゼントされたシャツを抱えて、鼻歌でも歌ってしまいそうなほど気分が上がる。
「何ニヤニヤしてるんだよ」
「顔が弛むのは不可抗力だろう。なあ零、今から海に行かないか?」
「うみ、」
数秒思案した彼は、進行方向を変更した。
「海、いいかも。葉山で夕陽を見たい!」
高速に乗って一時間と少しで着いた葉山の海水浴場。車の影で着替えた俺は(用意周到な零は俺のハーフパンツとサンダルも用意していた)、サングラスを掛けると機嫌のいい外国人の風情になった。街のチンピラみたいにならなかったのは、単に零のセンスがいいからだろう。
「僕たちゴキゲンな外国人ゲイカップルにしか見えませんね」
零も同じような感想を漏らした。
「うるさいナンパの相手をしなくていいから助かる。それに俺たちはカップルに見えるんじゃなく、カップルなんだから、どうせなら手を繋ぎたい」
左手を差し出すと、素直に彼の右手が添えられた。 外では他人行儀にしたがる彼にしては珍しい。傾きかけた太陽が海と砂浜を照らす。
ビーチには帰り支度をする家族連れや、水の掛け合いをする若い男女のグループ、夕暮れを待つカップルの姿が見える。
「海なんて何年ぶりだろう。僕、ワーカホリック気味だからかもしれないけど、こんな風に何もせずにぼーっとしているのが苦手だったんです」
繋いだ彼の手に力が籠る。
「でも、あなたと一緒なら、ちゃんと楽しんでいいんだって思えるようになってきたというか、ぼーっとして、例えば波の音を聴いたり、潮の匂いを嗅いだり、そういう体験を大切な人と共有することだって、とても意義のあることだって気付いたというか」
何と返答しようか思案するが、何を言っても彼の機嫌を損ねてしまいそうな気がして(彼は彼に対する愛情表現や賛辞を曲解するのが得意だから)、想いを込めてぎゅう、と手を握り返す。
「寄せては返す波の音にはリラックス効果があるんです。胎内で聴く母体の呼吸音に近くて、……」
照れ隠しに口を動かすのは零の癖だ。心地よい甘いテノールに耳を傾けながら、たまに手のひらを引っ掻いたり、愛撫めいた手付きで爪や関節を弄る。初めはクスクス笑っていた零も、次第にこちらの意図を察したのか、顔を赤らめて吐息を漏らした。
「あなた、本当に上手いですよね。そういう雰囲気にするのが」
「君の感受性がいいからさ」
「着替え、持って来てません」
「明日、また揃いの夏服を買おう。君ならお洒落な服を売ってる所知ってるだろ?」
「それ、完全にバカップルですよ」
日が沈むにはまだ早いが、手を引いて海を後にする。
「いいんだ、ずっと前から俺は君に狂わされてるんだから」
「おい、」
ドスの効いた甘い声と共に、背後から腰に突き付けられた円柱状のブツは拳銃ほど重い物ではない。精々彼が愛用している万年筆か、あるいは
「レーザーポインター、かな?」
「かな?じゃないんですよ!何かコソコソしていると思ったらやっぱりバンバンバンバン撃ちやがって」
5階建ての雑居ビルの屋上。つい30分前に俺が発砲したのもこの現場だ。本国で連続殺人の嫌疑がかかった男が来日したため、本部からの要請を受けて俺たちが張っていたのだ。怪しいなら出国させなければいいものを、あわよくば慣れない海外で犯行が露見すれば、と考えたクソ野郎が出国をわざと見逃したのかもしれない。そして案の定男は獲物を狙い犯行に及ぼうとしたため、それを阻止するために発砲せざるを得なかった。大事になるのは本意ではなかったが、着弾地点との距離を考えるとサイレンサーを付けて威力を下げるわけにもいかなかったのだ。なお男は多少の怪我はしているだろうが自分で動けていたし、今は横田に向けて移送中だ。
ミッションが完了したら速やかに現場を辞するのは狙撃手の鉄則だが、今日は彼が現れるような気がして、わざわざ戻って来てしまった。果たして俺の勘は見事に当たり、俺は彼の殺気立った気配を至近距離に受けて、ひとりほくそ笑んでいる。
「撃ったのは二発だが」
「黙れ。本物で腰骨を砕いてやろうか」
安い挑発をすると、レーザーポインターを持つ手に力が入って、押し付けられるそれが地味に痛い。
「腰砕けは是非体験したいが、入院は避けたいかな」
肩を竦めると、降谷くんは盛大な舌打ちをして、俺に突き付けていたブツを下げた。
「ここは日本です。公権力でさえ厳密な条件が揃わないと撃てないんですよ。その後は当然報告、検証、発表です。それ以外の者は拳銃の所持は許可されていませんから、そのへんの建物の壁に弾痕が残る、なんてことはこの国では大事件なんです」
「そうだな」
この国の銃規制は世界的に見ても極めて厳しく、どこかの国のように子どもたちが学校で乱射される銃の餌食になることはまずない。そう言うと彼はまた『あなたの国では』と長々しい話を始めるから口にはしないが。
「大事件ですから、大勢の捜査官が関わります。科学捜査で弾痕から弾丸を特定し、人海戦術で排水溝を浚って小さなタマを探す。それと平行して周辺への聞き込み、組事務所へのガサ入れ。今回は一体何人の捜査官が最終的には隠滅される捜査に借り出されるのか」
降谷くんは俺の背後からふらりと歩き出し、金網フェンスに腕を掛けた。スーツのジャケットが夜風に吹かれてはためいている。
屋上から見える道路上では、降谷くんの部下に対して現場の捜査官らしき者が数人詰め寄っている。
「夜中だったとはいえ繁華街も近く、数件通報も入っています。すでに刑事部の捜査官が現場入りしていますから、この案件を僕の預かりにして現場から手をひかせ、反感を買うのが僕の部下の仕事です。そして、それでも正義感から執念を燃やして捜査を続け、どうか事件化してくれと現場から上がってきた陳情と報告書を握り潰すのが僕の仕事です」
「降谷くん」
彼は俺の方に身体ごと振り返り、薄く笑った。
「あなた方にはあなた方なりの正義や、捜査方法があることは十分承知しています。でも、そのために悔しい思いをしている人間がたくさんいることを知っておいてほしくて。僕ね、今でこそ管理職になっちゃいましたけど、昔、あなたと出会うよりも前は、現場で泥被って必死に捜査して、結局ずっと上の方で揉み消された案件を何度か経験しましたよ。そのときはもう、腸煮えくり返っちゃって、悔しい悔しいって呻いて朝まで眠れなかった」
「うん」
「あなたにもありますか、そんな経験」
「まあ、どこの組織でもそういうことは、な。ただ俺は君みたいに高い志があったわけじゃないから」
「あなたは処世術に長けている、と言うのかな。平常心を保つテクニックが身に付いているんでしょう。あなたの精神状態は常に凪いでいて、ヒステリックにガミガミ言い募る僕とは正反対だった」
彼はおそらくライとバーボンとして相対していたときのことを言っているのだろう。バーボンが小型犬のようにキャンキャン吠える姿は、愛らしくてことのほか気に入っていたのだが。
「君は情熱的な男だからな」
「相変わらず気障な奴だな」
彼はピンと背筋を伸ばし、「それだけ言いに来ました。それでは」と言って立ち去ろうとするから、反射的に距離を詰め、腕を掴んで引き留めた。
「降谷くん、今回の件は済まなかった」
「謝らないでください。そうして欲しくて言ったわけじゃない」
「わかってる。俺の行動は被害者を出さないためにできる最善のことだった」
「はい。……あの、僕仕事に戻るので、手を放して」
「あ、ああ。済まない」
俺は彼の腕を一度強く掴み直し、それから手を放した。何故だか彼を解放するのがとても惜しいような気がする。
降谷くんは掴まれていた腕を逆の手で擦り、それから足早に屋上から降りて行った。
「……?」
知らず力を入れすぎていたのだろうか。自分の手のひらをじっと見る。何かとんでもない思い違いをしているような気がした。
そうか。今になってやっと気付いた。強固で高潔な正義感を持つ男が、俺のためにそれを捻じ曲げて職務に徹する姿が堪らないのだ。彼のプライドの高さを知っているから尚更。そういえば出会った頃からそうだった。倫理観の高い彼に無理矢理下らないことをさせて悦んでいたライという馬鹿がいただろう。
長い間解けなかった暗号の答えが目の前に現れたようだった。そしてそれはすぐに激しい焦燥感にとって替わり、彼を追いかけろと脳が指令を出す。
「ああ、俺は、」
手を握り締め、階段を駆け下りる。一発くらい本気で殴られるだろうが、甘んじて受けよう。そう覚悟を決めて彼の背に手を伸ばした。
「おきやさーん」
論文の息抜きにでも、たまにはいらしてください。僕、待ってます。なんて拗ねたような、照れたようなかわいい表情で言うから来てみたらこれだ。
この名前の呼び方は女子高校生に相対するときの安室透の声音だぞ。コーヒーは確かに旨いが、心情的には全く面白くない。全く面白くないから返事もせずにコーヒーを啜っていると、丸いトレーを両手で抱えた安室透が近付いてきた。
「沖矢さん、もうすぐランチですけど、食べて行かれませんか?今日は煮込みハンバーグプレートです!」
と、やはりキャピキャピした(最近はキャピキャピとは形容しないのかもしれないが)音程で沖矢にランチを勧めた。
女子高生受けするアイドルのような演技をする彼には大して興味も湧かない。「昨日の残り物のカレーを食べてしまわないといけないので」とおざなりに言い訳して帰ろうとすると、安室の表情がふいに険しくなる。
「え、あなた自炊するんですか?カレーなんて作れるのか……あ、確か鍋持って阿笠邸に入って行くの見たことあるけどあれ本当に中身料理だったのか?」
と、彼は失礼なことを自覚なく呟いた。確かに君の知っている俺は食事と言ってカロリーバーを齧っていただろうが、それだって君に構われたい俺の下心の発露だったわけで。
眉を寄せて思案する彼がかわいく思えて、さらに意地の悪いことをしたくなる。
「カレーやシチューくらいなら作れます。とある女性に教えてもらったんですよ」
「え?女性……」
アイドル然とした面の皮が一瞬で剥がれて、不安げな彼本来の表情が露になった。
「ええ、自炊など全くできなかったんですが、その方のおかげで今はまともな生活を送ることができています」
「そ、そうなんですね、そっか。うん。あ、引き留めてすみませんでした」
ニヤつきを顔に出さないために、表情を引き締める。彼は表情を強ばらせ、心ここにあらずといった様子でカウンターの中に戻り、彼らしくなくガシャガシャと食器の擦れる音を立てた。
沸き立つ愛おしさを押し込めて、視線だけを彼に向ける。何気ない仕草で残りのコーヒーを味わっていると、彼は口許をきゅっと引き締めて、今にも泣き出しそうな幼児みたいな表情になった。
「フッ」
思わず笑みが漏れる。かわいいかわいい君。こんな表情なら四六時中眺めていたいんだがな。
「あの、やっぱりランチいただけますか?」
「いやだ。もう帰ってください」
「そう意地悪言わないでくださいよ」
「意地悪はどっちだよ、ほんと悪趣味な人だあなたは」
「何のことでしょう?」
「ばか!もうあなたなんて……」
沖矢にさえ大嫌いが言えない君がかわいくて、ついらしくもないことをしたくなる。
あのブルーと目が合った瞬間、俺は遂に頭がイカれてしまったのだと思った。目の前に天使が現れたからだ。天使は、はちみつ色の髪、キャラメル色の肌、瞳は南国の海を映した宝石でできている。声はアマレットのような甘いテノールで、オレンジと雨の清廉な匂いがした。
俺が天使と出会った頃、俺は潜入捜査官から殺し屋へと立派な成長を遂げ、自分の存在意義だとか、社会正義だとか、そういうものがよくわからなくなっていた。つまりは膿んでいたわけだ。
そんな時期に都合よく現れた彼は、よく回る口で俺を挑発し、コロコロと変わる表情で俺を睨み付け、優秀な頭で俺を踊らせた。膿んだ俺を振り回し、利用し、最後は誉めて巣へと帰らせた。
「あなたの目の色、なんだか懐かしくて。よく見せて、その翡翠の目」
天使は俺の心をも弄んだ。俺がその艶めかしい肌に触れることを許した。彼の肩甲骨からは翼が生えていなかった。人間と交わるなんて禁忌を犯すと翼がもがれるのかもしれない。可哀想なことをしたが、反面俺は彼の翼がなくなったことに安堵した。俺の手の届かない場所に逃げられる心配をしなくてすむからだ。
翼を失くした彼に「天使は人間に恋をすることがあるのか?」と訊くと、彼は「あなたの頭がマトモになればわかるかもしれません」とはぐらかした。おそらく生きている階層が違うのだ。彼は愛だの恋だのという世俗とは切り離された場所で生きている。
だが天使の(多少強引な)献身のお陰で、俺は『社会正義実現のための犠牲』について考えることができたし、俺の嘘を信じた哀れな女にも向き合うことができた。膿んだ殺し屋は潜入捜査官のプライドを取り戻すことができたのだ。
この話をカウンセラーにすると、そいつは俺の電子カルテを見ながらこう言った。
『あなたは長期に及ぶ潜入捜査により現実と空想の区別が付かなくなっている可能性があります。他の人に見えない何かが自分にだけ見える、というのは決して珍しいことではありません。極度のストレスに曝されることで誰にでも起こり得るのです。治療方法としてはまず原因となっているストレスを自覚し……』
「ライ?らーいー?ホントに寝てるんですか?置いて行きますよ!……ちょっと、ねぇ起きて!」
目を開けると、そこにはやはり天使がいた。誰だ幻覚だなんて言った奴は。
「可愛いな君、やっぱり天使なんだろう?」
「……頭打ちました?」
天使は表情豊かで、今は眉がきゅっと上がっているのに、瞳は潤んでいて今にも涙が溢れそう。どうか零さないでくれ、きっとその涙も貴重な宝石になるんだろう?
「本当にかわいい。天使の君は地獄への案内はしてくれないのか?」
「馬鹿なこと言うな!生きて帰るんだよ!ねぇ、ライ、何で?何で僕を庇ったりするんだよ!あなた、血が足りないんでしょう?目を開いて!寝るなバカ!」
そうだ、思い出した。天使の目の前に手榴弾が投げられたのだ。咄嗟に天使を抱えて背を向けたが、特殊な仕掛けがされていたらしく、爆発と共に俺の背中にいくつもの金属片が刺さった。
「なあ、君、早く逃げた方がいい。敵は君の生死を確認するために必ず戻ってくる」
「嫌だ。今の僕じゃあなたを抱えて移動することができない。助けを呼びました、すぐに来てくれる」
よく見ると天使の腕にも金属片が刺さっていて、そこから赤い血がトクトクと流れ出している。
痛々しい。誰か、早く手当てをしてやってくれ。俺は腕も、指一つ動かすことも難しい。背中が焼けるように痛い。君の涙を拭ってやりたいのに、それができないことが唯一の心残りだ。ほら、目も霞んできた。かわいい顔をもっと見ていたいのに。
「……俺の……かわいい天使」
「可哀想なあなた。……本当のあなたの天使は今頃安全な場所で眠っていますよ。心配しないで、生きて彼女に会いに行って。ねぇ、起きて、ライ」
君以外に天使なんているものか。膿んだ俺を助けてくれた君以外に。なあ、わかっているか?
意識が浮上する。アマレットのテノールが口ずさむのは日本のマザーグースだ。幼い頃、眠る前に父さんが唄ってくれたそれ。
「あ、起きた」
目の前には隣のパイプベッドで横になる彼の姿。薄暗くて壁にヒビが入っているが、一応診療所のようだ。
「続き、唄ってくれないか?」
嫌ですよ。少しむくれたような表情を見せる彼は、なんだか疲れきって、少し窶れているようだった。
「ここの医者、たぶん医師免許持ってないですよ。ほとんど何も検査せずに輸血したから、僕が感染症を患ってたらあなたもアウトです」
そうか、今俺が生きているのは君が血を分けてくれたからなんだな。
「ごめんなさい。あなた、僕を庇って死にかけたんです。背中の傷、深かった。……覚えてる?」
「覚えてる。君の腕に金属片が刺さって痛そうだった」
君の血液が、俺のそれと混ざり合って俺の身体中を巡っている。俺を生かす君の血。そうか、君、俺と同じ種族だったのか。
「君、人間だったんだな」
「そうですよ。何と間違えたのか知りませんが、僕のこと天使だ何だって訳のわからないことを言うから、少し心配してたんです。幻覚剤でもやってるのかな?って」
憑き物が落ちたようだった。天使のような君は人間で、君が肌を許したのは、きっと一方的でない愛情の交歓だった。
気付いたら途端に君が愛しくなってきた。
「……なぁ、バーボン。君の傷が塞がったら、俺と寝てくれないか?」
「あなたの方が重症なのに、それはいいの?」
「いい。傷が開いてもいい。一刻も早く君に甘えたい気分だから」
「あなた、本当に変わった人」
微かに笑った君の瞳は宝石の輝きよりももっと美しいブルーグレーだった。
僕がもし失敗して、組織に追われることになったら、彼に頭を撃たれて終わりたい、なんて思っている。
空は厚い雲に覆われて、今にも雨が降り出しそう。これだけ寒いと雪かもしれない。僕はバーボンとしての仕事中にヘマをして、足首に怪我を負った。そこに偶々通りがかった(と本人は言っていたが絶対に嘘だ。完全に信用されたわけではない僕の監視役だったに違いない)ライが僕を拾い、何故か今は二人でビルの屋上にいる。黒衣の男は長い髪を風になびかせ、腹這いのままライフルのスコープを覗き込んでいる。
応急処置をされた足首が熱くなってきた。もしかしたら骨に異常があるのかもしれない。僕はライが用意した薄手の毛布にくるまって、彼の仕事の邪魔をしないように息を潜めている。僕と男とは十メートル以上離れているけれど、身動ぎしてはいけないような緊張感があった。
僕は、後ろから黒い男を眺め、妄想の翼を広げる。
緑の目が、スコープを通して僕の姿を確認する。僕の動きをトレースして、着弾地点を定める。彼は僕の性格や、思考回路を全部把握しているから、きっと僕がどう動くかなんて手に取るようにわかるはず。そして、息を潜めて、静かにトリガーを引く。弾丸は正確に僕の脳幹を貫いて、僕は痛みも、死の恐怖すら感じることなく死んでいく。
言っておくけれど、希死念慮なんて全くない。何としても生き残って目的を達成させるつもりだ。それでもその妄想は僕に安心と、少しの恍惚をもたらす。だってライと僕がどうこうなるわけもないし、心を通わせる、だとか、その、そういう関係になるだとか、想像すらできないから。だから彼の手にかかるところを想像して、満足するしかないのだ。
体感で30分が経過した。足首の熱さに反して、身体が冷えきっている。震えそうになる身体を力を抜くことで抑え、いっそ眠ってしまおうかと考える。
男は30分前と変わらず、一瞬も動かない。ちゃんと息をしているのか確かめたくほど、動かない。
それからどれくらいの時間が経ったのか、遠い夢の中で発射音を知覚した。夢なのか、現実なのかわからないそれ。寒くて熱いけれど、もう少しだけ眠っていたい。薄い毛布は煙草とオイルの匂い。安心できるような、それでいて落ち着かないような心持ちがする。
風の音、銃器を片付ける音、ゆっくりと近づいてくる足音。その後に僕のすぐ右側にどさりと置かれたのはライフル……じゃない、ライ本人だ。
起きないといけない。発射地点を特定されたら、今撃たれた奴の仲間が反撃しに来るかもしれないのに。
ライはマッチで煙草に火を付ける。深く吸って、ゆっくりと吐き出す。気配と、音と、匂いでわかる。それからライは毛布に手を差し入れ、僕の右手をとった。
ライの左手は、僕の手の甲を擦り、浮き出た関節を一つずつ撫でていく。指の付け根を摘まんで、その太さを測るように回転させる。指の関節をなぞり、爪へと下りていく。
あまりに気持ちよくて、また意識を手放してしまいそうになる。
僕の手のひらに爪を立て、擽るような強さで引っ掛く。それから全部の指を絡ませて、ぎゅっと握り込む。
まるで僕に好意を持っているような彼の手。どうしてこんなことするの?それともこれは自分に都合のいい夢?
ライのかさついた指が、僕の指の股を擦る。人差し指と中指の間。そのうちライの中指(他の指に比べて太くて長いからきっとそうだ)が僕のその指の間を、ゆっくりと、でも一定の早さで抜き差しするように動き始めた。太い関節で一度つかえて、そこを越えるとスムーズに差し込まれる。抜こうとして、また関節で引っかかる。繰り返し、液体でも塗りつけるように、少し力を込めているみたいで。
「……っ」
息が詰まる。これって、まるでアレみたい。あらぬことを想像してしまって、一気に覚醒した。
目の前の緑と目が合って、叫び出してしまいそうだった。何でそんな優しい目を?勘違いしたくなるから止めて欲しい。……というかまだ手を握られている。
「は…放して」
顔色が面に出ない肌の色でよかった。今の僕は恥ずかしさのあまり、頬も耳も真っ赤になっているはずだ。
「これは失礼、うぶなお嬢さん」
ライの左手は僕の手を離れ、頬を一撫でして彼の元へ帰って行った。それと同時に彼の目に浮かんでいた優しさは、いつもの人をからかう表情に隠れてしまう。
彼が煙草の火をコンクリートの床に押し付けて消して、無造作にコートのポケットに入れた。
「毛布、被ったまま戻るのか?赤ずきん」
ぼうっとしていた僕の髪をかき混ぜる、左手。
「赤ずきんじゃありません。毛布、ありがとうございました!帰ったら洗濯してください煙草臭すぎだぞ!」
「わかったわかった」
ライは右肩にライフルバッグを掛け、左肩に僕を担ぎ上げようとした。
「何するんだ!肩を貸してくれたら歩けますから!」
「あまり騒ぐな。ちんたら歩くのに付き合っていられない」
ライは僕のベルトを掴んで、片手で器用に俵担ぎにした。
きっとさっきの指遊びだって、ほんの一瞬の戯れか、そうじゃなければ僕をからかっただけだろう。そう、僕がそれに気付いて、慌てる様子を見て面白がっていたじゃないか。
……でも、本当にからかっていただけ?僕の驚いた顔を見たのは柔らかくて優しい目の色だったように思うのだけれど。
「……今貴方が撃ったの、僕を殺そうとしたあの男?」
「さあな」
僕の視界は黒い革で覆われている。広い背中に手を這わせたくなる。
どうやっても敵わない男。守られる、なんて死んでも嫌だと思っていたのに。男は僕のこときっと全てわかっているのに、僕はこの男のこと、何一つ理解できない。悔しいのに、恋しい。苦しいのに、愛しい。
「僕、あなたのこと嫌いです」
男の肩が愉快そうに揺れる。ほら、僕のこと、この密やかな想いも全部わかっているんだろ。