イシュタルの情愛


 ――殺してやる、殺してやる!

 ニーナを死に追いやった奴ら全てを苦しめて、狂わせて、殺してやる。

 ・・・・・・それでも足りない。軍人全て、この国の人間全てを殺してやる。戦争に負けて、占領されて、こんな国、無くなってしまえばいい!

 

 

 

1.端緒

 

 

『……我が帝国軍は、目下隣国キルブと交戦中であります。キルブは我が帝国の最北の不凍港を奪取すべく進軍を開始したが、帝国軍北方師団の活躍により、現在は進軍が停滞しております。……特に目覚ましい活躍を見せているのが北方師団直属である遊撃部隊であります。彼らは遠距離からの銃撃に秀でた能力を持つ者が多く配属されており、身を隠しながら敵兵を尽く撃ち殺すことができるのであります……』

 

 惰性で鳴り続ける帝国軍のプロパガンダ、もとい、戦況報告のラジオ放送がスピーカーを通して帝都にある参謀本部ビルに大音量で流れている。降谷は煩いそれに舌打ちをして、調査報告のため上官の執務室を目指して歩き出した。

 確かに北方師団は今のところ敵の進軍を阻めてはいるが、戦況は帝都の平和ボケした人間が考えているよりは余程シビアだ。戦死者は日に日に増えているし、軍が予算をつぎ込んで造らせた最新鋭の戦車だって何台スクラップになったか知れない。その上新たな問題も浮上してきて、彼は本当にこの戦争に勝てるのだろうかと思い始めている。

 

 降谷が所属しているのは帝国軍参謀本部軍事司法局だ。軍事司法局とは、軍隊内の警察兼検察のようなところで、軍規違反者の取り締まりや懲罰、軍法会議の運営、訴追などを行う部署である。降谷は司法官として軍人の起こした事件の捜査や公判に関する裁判書類の作成などを行っている。ちなみに彼は士官学校卒のエリートであり、現在の階級は大佐である。本邦の軍で20代で大佐になるのは異例で、本人は気にしていないが、優秀な仕事ぶりに対する称賛と同じくらい敵視されてもいる。

 そして、現在降谷が捜査しているのは、激しい戦闘が行われている北部国境付近に派遣されている歩兵団の中で、軍の把握していない、向精神作用のある薬物が出回っている件である。数週間前、司法局が把握した時点でかなり多くの使用者、中毒者が出ており、蔓延していると言っても過言ではない状態だった。

 ここまで薬物中毒者が多くなっていると司法局だけでは対処できないため、すぐに参謀総長にまで報告が上がったが、上の方では未だに具体的な対処策が決まっておらず、降谷をはじめとする司法官らは詳細な捜査を進めることしかできないのが現状だ。降谷も数日間に渡り北方戦線に赴き、調査を行って帰ってきたところだ。

 

 戦場は、降谷がいる帝都とは全く違っていた。暗くて、饐えた匂いがして、常に空気が澱んでいた。兵士たちのやり場のない鬱憤や苛立ちが湯気となって立ち昇るのが見えるようだった。

  ろくな娯楽も用意されていない中、常に敵の砲弾に怯え、上官の虐待に耐えるためには薬をやって気分を高揚させることくらいしか生きる望みがありません。まだ未成年だろう、若い兵士が言っていた。そう、かもしれない。一概に兵士を責めることはできないはずだ。彼らを懲罰に掛けたところで、また新たな中毒者が出てくるだけだ。何か有効な手立てを講じなければならない。

 

 

 

 降谷は上官である黒田のデスクの前で、戦場での調査内容を報告する。

「『4869』と呼ばれているその薬は、形状は細かい粒子状で、鼻から直接吸い込んだり、紙巻きタバコに混入して摂取するそうです。現物は医局に渡しており、分析が済み次第報告をもらう手筈にしています。主な中毒症状は強い依存、幻覚・幻聴などの精神病的症状が多いのですが、体の震え、食欲減退、臓器不全などの身体症状が出ているケースもありました。また、所持金がなくなり薬が手に入れられなくなった者の中には自殺する者、薬や金の強奪をする者もおり、薬のやり取りを巡る殺人事件も起きています。

 現在のところ常習者は北方師団第1から第14歩兵団全体の7ないし9パーセント程度だと思われ、どの団も全体の士気にまで影響が及んでいます。官製の向精神薬は軍医か上官の許可がないと処方されない上に、戦時体制になってから品薄が続いています。その点問題の薬物は値が張りますが効き目は抜群で、今では北方戦線ならどこでも手に入るほど流通しているようです」

 黒田は降谷が戦場からの帰りの汽車の中で書き上げた報告書を手にして唸っている。降谷は気にせず発言を続ける。

「薬は開戦直後に流通し始め、以降ごく短期間に大量の薬を製造、流通させています。最初に薬を作り出したのは、北の国境に近い寒村でした。調査に行きましたが村の者はみな口が固く、情報らしい情報は何も入りませんでした。今では周辺の村でも製薬工場ができており、いずれもそれが村一番の稼ぎになっています」

「目立った産業もない田舎で何故作られ始めたのかが気になるな。製造側にも強制捜査を入れなければならんか」

「はい。地元警察との繋ぎは付けてきましたので、早速捜査に取り掛かります」

 

 

 今後の捜査方針と人員配置について確認した降谷は、一礼して豪奢な将官用の執務室を辞した。

 戦地の兵士が精神を高揚させるために、そういう作用のある薬を使用することはそれほど珍しいことではない。軍の規律では禁止されているが、司法局も目くじらを立てて摘発しているわけでもない。だが今回流通している薬は、使用者の数が多く、副作用により身体を壊す者が続出しているため看過できないのだ。

 一体誰が、何のために薬を作り始めたのか。あの村に何が隠されているのか。自分にできることは地道な捜査により真実を明らかにすることだけだ。

 自分の部屋に向かって歩き始めると、直ぐに側近である風見が現れる。

「お疲れのところすみません」

 そう言う風見も目の下には濃いクマが見えている。司法局の大部分が薬物の捜査に駆り出されており、その捜査の合間に通常業務を回している状態だ。おそらく風見も何日か自宅に帰っていないに違いない。降谷は手を振って発言を許可すると、彼は分厚い書類綴りを持ち上げて言った。

「上官殺害の容疑で昨日逮捕された被疑者が間もなく移送されてきます」

「所属氏名は?」

「北方師団遊撃部隊副隊長、赤井秀一中尉です」

 

 

 

 

 

 赤井と降谷は、士官学校の先輩、後輩の関係であり、かつ、過去にはそれより深い関係だったことがある。

 士官学校では、上級生と下級生とが二人一組になって行動する師弟制なる制度があった。表向きは上級生から勉学や規律、実技をマンツーマンで教えてもらう制度であるが、実体は上級生による下級生いびり、虐めの温床になっていた。降谷は入学式の日にその話を聞いてうんざりしていたが、彼の前に現れた上級生は真摯で誠実で、実に優秀な男だった。学校一有名な男、赤井秀一。

 赤井は伯爵家の長男で、前帝国軍大臣である世良侯爵の孫だ。それだけでも注目を浴びるのに十分だが、座学も実技も常に学年トップで、将来の参謀総長候補だと誰もが考えていた。

 赤井は降谷が平民であることも気にすることがなかった。貴族の子息が多い士官学校で、平民である降谷が大きなトラブルなく学生生活を送れたのは、本人の気質もあっただろうが、何より降谷を庇護する赤井の存在が大きかった。

 そして、赤井と降谷が、先輩後輩の関係を越えるのには、大して時間は掛からなかった。寮も同室になる師弟制は、先輩が後輩に性的奉仕を強要することも多かったが、赤井はそんなことは決してしなかった。二人が心を通い合わせ、降谷が何度もせがんでやっとそういう関係になったのだ。

 あの時、降谷は幸せだった。人生の中でこんなに人から愛されたことはなかった。赤井には許嫁がいたし、将来はその姿を見ることも叶わなくなるほど階級に隔たりができるだろうけど、せめて赤井が行くだろう参謀本部に配属されるように、成績優秀者であり続けた。今だけは、あと少しは恋人でありたいと思っていた。なのに、赤井はそれをあっさりと裏切ったのだ。

 

 

 

 

 取調室には手錠で両手首を繋がれた赤井が椅子に座っていた。以前、最後に会ったのはもう10年も前のことだ。あのとき降谷は19歳、卒業年次だった赤井は22歳だった。あのときの自分は、若くて、無知で、呆れるほど純朴だったと降谷は思う。

  降谷は机を挟んだ向かいの安い椅子に腰を掛け、赤井の顔を睨み付ける。10年分の厳しい人生が上乗せされた顔立ちだ。学生時代にはなかった野生を感じさせる鋭い眼光。頬の肉が削げ、無精髭が生えている。体つきもそうだ。服の上からでもわかる肩や胸の筋肉、太い首と上腕。自分と違い、軍人らしい、年相応の大人の男になっていた。

 狭い取調室には降谷と赤井、それに書記官と、赤井の腰に繋いだ紐を持つ、若くて屈強な警察官がいた。

「黙秘しているそうですね」

「降谷大佐になら話すと言った」

「では僕が来たので話してください」

「どこから話そうか。被害者の所属から?」

「動機と具体的な殺害方法のみで結構です」

  事件の概要については報告を受けている。殺害されたのは北方師団第11歩兵団長である准将だ。この男は以前から問題のある言動をする人物として参謀本部では有名だった。もともと中央師団にいたが、戦争が起きた途端に北方に赴任させられている。

「俺たち遊撃部隊は戦地の、特に戦闘の激しい地域に赴き、部隊名のとおりゲリラ戦を仕掛けることで形勢を変えていく戦術を採っていた。俺が第11歩兵団のキャンプに入ったのは殺害の3日前。その頃すでに当該歩兵団は士気が落ち、死者数も他の団に比べて多かった。原因は団長にあることはすぐに分かった。あの男は部下を人間だと思っていない。遊びのようにして、敵軍の真ん中に丸腰の自軍の兵隊を置いたり、逃げ帰った兵士を辱め、同僚にリンチさせて殺した。異常な行動を諫めようとした自分の側近を自ら手に掛けることもあった。これ以上被害者を増やさないために、誰かがやらなければならなかった。俺がした。それだけのことだ」

 赤井は自分の手を一度開いてから握り締めた。降谷はその姿をじっと見つめる。

「・・・・・・上官殺害、特に将官殺しは重罪です。ですが正当防衛又は緊急避難としての行為であれば、減刑される可能性が高い。詳細な調書を作りましょう。 軍事裁判に強い弁護士を何人か知っています」

「いや、大事にはしたくない」

「何で」

「うん、そうだな。・・・・・・ああ、喉が渇いた」

 赤井は突然椅子の背もたれに体重を掛けて仰け反った。取調中の被疑者の態度ではないが、降谷は特に気にしていない。

「草薙、水を持ってきてやれ」

 草薙と呼ばれた書記官は、ペンを手放し、部屋を後にした。

 

「・・・・・・あの男がそこまでおかしくなった直接の原因は例の薬だ」

 扉が閉まった途端に、赤井は机に身を乗り出すようにして小声で話し始めた。赤井の後ろに控える警察官はギョッとした顔をしたが、声には出さなかった。

「4869か?」

「ああ。あいつは自分の団の金を横領して薬を買い漁っていた。間違いなく薬物中毒だった。兵隊をより残酷な方法で殺して神に捧げれば徳が授かるという妄想に取り付かれていて、現実を見る事ができなくなっていた」

「横領か。調べてみる」

「先に薬の製造元を調べた方がいい。あの薬は戦場によく出回っている向精神薬とは全く別の物だ。依存性が非常に高く、常習者の中には身体的な不具合、例えば震えが止まらずに銃器を構えることができない、内臓疾患により起き上がることができないといったケースが散見されている。さらに精神への作用の仕方が、最初は高揚感や万能感を高めるのに、何度も摂取することによって人の死や、身内への激しい暴力を起こす妄想に傾く場合が多い。そういう薬が開戦直後に流通し出したとなると、何か大きな作為を感じないか?」

「まるで自軍を内側から滅ぼしに掛かっているようだ」

「そう。この蔓延状態は敵国の思うツボかもしれん」

 ドアの前に人の気配がした途端、二人は突き合わせていた顔を離して話を止めた。降谷は目を丸くしている警察官に向けて、片目をつむり、人差し指を唇に当てる仕草をした。

 この人達は一体何なんだ。警察官は訝しんだ。なぜなら草薙という書記官が戻った後、二人は何もなかったかのように草薙が席を外す前の話を続けたのだ。これでは被害者が薬物中毒だったことが調書に残らないではないか。

 

 赤井の取り調べが終わった後、降谷は草薙を下がらせてから、小さく折った紙幣を警察官の尻ポケットに捩じ込んだ。それに気付いた彼が後ろを振り向くと、降谷は彼の顔を見て綺麗に微笑んで首を傾けた。

「青木駿太巡査部長。この仕事が続けたかったら、しばらくいい子にしていてね」

「はっ……はい!」

「おい、ぼうっとするな」

 青木が顔を赤らめて返事をすると、後ろから低い声がした後、脚を蹴られた。赤井だ。

 赤井は降谷が部屋を出た後、「テメーのケツに触れた可愛い手の感触は今すぐ忘れろ」だの「あの可愛い笑顔は営業用だからな。彼の本当に美しい顔は怒っているときのそれなんだ」だのと青木に語り、「天地が覆っても彼がお前のような若造のモノになることはない」と宣言して留置場に戻って行った。青木は何が何だかわからなかったが、赤井と降谷が長く恋人関係にあるのだろうことだけは把握できた。

 

 

 

2.捜査

 

 

 降谷は赤井の事件について捜査を進展させる傍ら、薬物の流通ルートと製造元についても調査を継続している。

医局から出てきた薬の成分分析表と軍医の意見書を読み終えた彼は頭を抱えて唸った。

 薬の中には精神に作用する化学物質の他に、微量の毒物が含まれていて、これにより臓器不全や筋肉のこわばり、麻痺などが発生している可能性が高いと書かれている。取調室で赤井が仄めかしたとおり、この薬の製造や流通の裏に敵国であるキルブが関わっているのではないか。調査を進める毎にその疑いは強くなっていく。

 

  それにしても。降谷は抱えた頭を机に伏せてため息を吐いた。

「期待した僕が馬鹿だった。それだけだ」

当初、降谷は赤井の事件には関わらないつもりだったのだ。赤井に対して特別な感情を持っている自分が捜査に関わると、審理の公平を欠くことになるからだ。なのに風見から、被疑者が降谷さんにしか話さないと言っています、と告げられて嬉々として取調室に行ってしまった。結果として今回の事件が、被疑者の情状酌量を重んじて、しかるべき減刑をしなければ却って裁判の公平に欠けるものだったから、降谷が親身になって事件の捜査を行うことにしたものの、赤井は降谷と話がしたくて呼び出したわけではなかった。『話が通じる』人物に薬のことを聞かせたかっただけだった。赤井の人選は正しかったが、降谷のショックは激しい。

 ――赤井にとって僕のことはもう過去になっているんだろうな。

 降谷は階級が上がる度に舞い込んでくる幾多の結婚の話も結局全部断っている。それもこれも未だにあの男を諦めきれないでいるからだ。赤井は顔も、身体も、あの時から随分変わっていた。鋭くなった顎のラインを触りたかった。分厚くなった胸に手を置いて、その鼓動を感じたかった。10年ぶりに会って、下火になったと思っていた恋心は馬鹿みたいに熱量を上げて、降谷に襲いかかってくる。

「本当に、馬鹿みたいだ」

  深いため息と共に、この想いも僕の中から出ていけばいいのに。

 

 

 

 

 2日後、再度取調室を訪れた降谷は、赤井を連れてきた青木巡査部長に、彼の手錠を外させ、金を握らせて、「30分間ヒマを潰して来い」と言い退出させた。青木は「さ、30分でいいのでありますか?あの、もう少し長くても誤魔化せますが」と頻りに延長を勧めたが、降谷は構わず定刻で戻るよう言い含めた。

 

「被疑者と二人きりで大丈夫なのか?」

「大丈夫ですよ。いざという時はコレで打ってやります」

 降谷の全身を頭からつま先まで眺めてニヤリと笑った赤井に対して、降谷は真面目な顔で腰に差した乗馬鞭を触った。それから、『北方師団第11歩兵団長殺害事件』と表紙に書かれた書類綴りの中から薬物事件についての書類を取り出して机に並べはじめる。

「今日は4869について、あなたの意見を聞きにきました」

「・・・・・・仕事の話ばかりだな」

「仕事の話以外にあなたと話す事柄がありますか?」

 二人の目の前には薬の成分分析表、軍医の意見書、関係者の調書、薬の副作用を診察した軍医のカルテなど、様々な書類が所狭しと並べられていった。

「零」

 10年前と変わらない、優しい声が降谷を呼ぶ。何で?なぜ恋人を呼ぶみたいな甘い声で僕の名を呼ぶんだ!

「中尉!自分の立場を弁えろ!」

 降谷は思わず立ち上がって、震える手を握り締めた。自分は何とも思っていないのに、思わせぶりなことをして俺を愚弄するつもりか!

「懲罰か?君になら鞭打たれるのも悪くないが。・・・・・・いや、俺が悪かった。もう昔のような呼び方はしないから、機嫌を直してくれ」

 赤井が眉を下げて降谷を見上げている。降谷は悔しくて、虚しくて、今すぐここから出て行きたくなった。こんなに感情を揺さぶられたのはあの時、赤井が降谷を裏切って士官学校を退学した時以来だ。

 冷静になれ、冷静になれ。歯を食いしばって席に着く。

「・・・・・・僕は、あなたのことが嫌いです」

「悪かった」

「いいです、もう。青木が帰ってくる前に、あなたの意見が聞きたい」

 

「依存性がかなり高いんだ。炎天下の中重装備で走っていると喉が渇いて水が欲しくなるだろう?それくらいの焦燥感で次のヤクが欲しくなる」

「あなたまさか!」

「1度きりだ。向学のため、ということにしておいてくれ」

「あなたねえ、好奇心旺盛なのは結構ですけど、具合が悪くなったらどうするつもりだったんです!」

  赤井はアハハ、と笑い、「君に説教されるのは気分がいい」と言った。馬鹿にされていると思った降谷が眉を吊り上げると、赤井が宥めるように両手を顔の前に挙げる。

「1度しかやっていないから何とも言えんが、俺は体の不具合はなかった。これは俺の予想だが、何度も摂取することで、体に有害物質が蓄積することにより身体症状が出るのかもしれない。現場で感じた印象でも、使用歴が長いほど体を悪くする傾向があった」

「やはりそうでしたか。数回使用する分には人体に影響のない量ですが、毒が検出されています」

  降谷は関連資料を赤井に手渡す。

「この毒物が蓄積されることによって、内臓に病変が起きたり、代謝が悪くなったりする。そういう身体の不具合が死んだ准将のような悪夢的な妄想を引き起こしているのかもな」

「なるほど。そういうことはあるかもしれません。医局に実験の指示を出します」

 

「薬について言えば、こんな噂を聞いたことがある」

 赤井は降谷が用意した書類を読みながら話を続ける。

「最初に薬が作られた村。そこに、放浪していた元軍医の男が流れ着いた。開戦前のことだ。その男には敵国となるキルブ人の恋人がいた」

「開戦前に医者が来た・・・・・・。そういえば調書にそんなこと書いてあったな」

  降谷は机の上の書類の中から目当ての物を探し出す。

「これだ。ええと、開戦の一月前に流れの医者が来た。ずっと中央にいたらしく、訛りはなかった。外国人の奥さんがいたが、ある日突然いなくなった。村では無償で診察してくれて、薬もたくさん持っていた。すぐに村の者たちに頼りにされるようになった」

「同じような時期に他から来て村に居を構えた者はいないようだな」

  同じ書類を見るために二人は頭を突き合わせているが、降谷はそれに気付いていないようだ。

「突然失踪した妻か……。あ、死んでいますよ。その医者」

  降谷は調書の該当箇所を指差して示す。

「村を流れる川の下流で死体が揚がっています。開戦の一月後だ。何かあるな。追加で捜査します」

「なあ、君」

  呼び掛けられて赤井の方を向くと、赤井はまるで愛しいものを見るみたいに降谷の目を見ていた。距離が近くて、降谷は自分の心拍数の上昇を彼に悟られているような気がしてならない。

「な、何?」

「・・・・・・君は、婚約者くらいはいるのか?」

「なぜそんなことを聞くんですか」

「君に特定の相手がいるのか、気になって仕方がないからだ」

 赤井は彼の手に触れようとして、躊躇した。それを察した降谷は自分の手を背後に隠した。

「な、今さら何を言い出すんですか……。あなたはあの時、僕を捨てたじゃないか!」

士官学校時代。蜜月を過ごしていたと思っていたのは降谷だけだった。赤井は卒業を目前にして突然退学して、帝国軍に入隊したのだ。士官ではなく、ただの一兵卒として。

  降谷は彼に愛してもらおうと必死だったから、赤井の不穏に気付かなかった。今思えば、あのとき赤井は苦しんでいた。一体何に?

 赤井は学校を退学したことにより爵位は継げなくなった。卒業後すぐに結婚することになっていた話も白紙になったはずだ。赤井は狙撃の腕は軍の中でもトップクラスだったから、戦闘地域を管轄する遊撃部隊に配属された。軍の中で一番過酷で、一番危険な部隊だ。何故?どうして?

  降谷は何も知らされなくて、ただ捨てられたことがたまらなく悲しかった。

「君を捨てたんじゃない。俺が逃げたんだ。あの頃の俺は若くて、馬鹿で、他に方法を知らなかった」

「同じことです。あなたと僕は、あの日を境に他人になった」

 自分の発した言葉に自分で傷付いて、本当に馬鹿みたいだなと降谷は思う。でも、その通りだ。もう、とうの昔に他人同士。愛してくれない人に振り回されるのはもう嫌だ。

「・・・・・・・・・」

 赤井が何かを言おうとして、止めた。多分また零、と呼ぼうとしたのだ。今度こそ降谷は書類をまとめて狭い取調室を後にした。

 

 

 

3.動機

 

 

 降谷は薬を最初に作ったと推測される元軍医の男、堂村牧男について調べを進めた。部下を再度村に派遣し、堂村の過去を知る人物とも接触した。すると赤井の聞いた噂のとおり、堂村にはキルブ人のニーナ・キガールという恋人がいたが、彼女はスパイを恐れた帝国軍査察部隊により開戦の数日前に母国に強制送還されていた。

  自分のデスクで部下たちの報告を受けていると、男の犯行動機が見えてきた。

「強姦被害?」

「はい。堂村の恋人ニーナは強制送還のため一時収容された施設で、看守にレイプされたと申告しています」

「真偽は?」

「わかっていません。そのような申告があったときには、原則として申告者を医者に診せて診断書を作成する規則ですが、診察をした記録がなく、診断書もありません。申告者には妄想癖があり、診察する必要はない、との収容所長の判断だそうで」

「降谷さん!」

 新たに部屋に駆け込んできたのは、キルブ語を話せる部下たちで、彼らにはニーナがキルブに戻った後の足跡と、薬物の原料調達ルートを追わせていた。

「女は送還後しばらくして自殺していました。母親には看守の慰み者になった、恋人に会わせる顔がない。と泣きながら吐露していたと」

 キルブ語で書かれたニーナの母親の手記が降谷のデスクに載せられた。彼はそれを読み、唇を引き締める。

 ニーナは学校を卒業してすぐ、身体を悪くしていた父母を養うために帝都に出稼ぎに出て行った。そこで堂村と出会ったそうだ。堂村は軍医として働き、将来は結婚する約束をしていた。ところが帝国とキルブの情勢不安が起こり、堂村は軍を辞めて、二人でキルブとの国境近くの村で身を潜めることにしたそうだ。ところが査察部隊が村にやって来て、ニーナは連行されてしまった。一時収容施設には似たような境遇のキルブ人が多数身を寄せていて、お互いに励まし合っていたという。

 そんな中、若くて美しかったニーナは看守に目を付けられて、性被害に遭った。そして看守の犯罪は隠蔽された。キルブに戻った頃には精神的に不安定な状態で、夜、家族が寝静まった後に自らの命を絶つに至った。

「毒の入った薬物を軍隊に蔓延させて、その戦意を喪失させる、または戦況を不利にする。国に対する恨みが動機であれば、これほど効果的な方法はないだろう」

 降谷は収容施設で撮影されたニーナの顔写真の縁をそっと撫でた。モノクロの写真だが、彼女の髪は金色で、目は青色だという。肌の色こそ自分とは違うが、彼女の不安げに垂れた目元も自分のそれと似ているような気がして、彼女に同情を寄せたくなった。

 

「降谷さん、大丈夫ですか?」

 黙り込んだ降谷を心配して、風見から声が掛けられる。捜査会議はまだ続くのだ。感傷に浸っている暇はない。

   薬物の原材料についても様々なことが判明したようだ。なぜ大量の薬を流通させることに成功したのか。やはりキルブの支援があったからだ。おそらく堂村が死亡してからはキルブ側が主導して製造、流通を管理しているのではないかと降谷は推測している。

「開戦を機に、薬の原料はキルブ側が用意し始めたようです。村から離れた山間の国境で、キルブの商社のトラックと、村長が所有する荷馬車が落ち合って荷物のやりとりをしていました。また、製薬工場を捜索した班が、キルブ語の納品書を発見しています」

 書き写された納品書には、小麦、砂糖、バターなどの品目が書かれているが、いずれも隠語だろう。クッキーでも作るつもりで兵士を苦しませる薬を作っていたとでも言うのだろうか。降谷は捜査で訪れた戦場の光景を思い出して、やりきれない思いを抱いた。

 

 

 

 

 ――ニーナ、ニーナ!

 こんな選択しかできない僕を笑ってくれ。でも君がいない世界を生きることは、僕にはこんなにも難しかった。君のお母さんに会えたよ。可哀想に、彼女は君を喪って世界の半分を失ったようだと言っていた。君の遺髪を入れたブローチを貰った。蜂蜜のような、ミルクティのような、美しい髪だ。

 僕の復讐は済んだ。もう僕には君のためにできることは何もない。

 ニーナ、ニーナ、僕のイシュタル。一刻も早く君のいない世界から僕を消してくれ。

 

 

 

4.幕間

 

 

 逮捕から2週間後、赤井は一時釈放され、処分が決まるまでの間、降谷の管理下で生活することになった。赤井の釈放は降谷にとって寝耳に水で、上官である黒田にその理由を尋ねると、なんと本人と司法取引をしたのだという。

 赤井は殺害された歩兵団長が、軍の金を横領して薬物を購入していた証拠を、自分の側近に預けていた。軍の将官が横領した、などというのは軍全体に対する反感を招き兼ねないと判断した上層部が、証拠の原本と引き換えに赤井を釈放したようだ。

 降谷が接触した軍上層部の感触では、降谷ら司法官の動き次第では、赤井は不起訴になる公算が高く、もしかすると逮捕状自体が発行されなかったことになるかもしれない。

 まただ。また赤井は降谷に何も言わずに、自分で解決してしまった。10年前だってそうだった。どうして何も言わずに学校を去ったのか。降谷は多分、自分が捨てられたこともそうだけれど、何より何の相談もなく勝手に決めて行動を起こした赤井に対して悲しく思っているのだ。赤井から見て僕の存在はそんなにも頼りない、相談するに値しない小さなものだったのか、と。

 

 赤井は現在、降谷の詰める本部ビルにほど近い一般兵の宿舎で寝起きしている。仕事がないので文化人や学生の集うカフェで討論したり、料理本を買ってきて眺めたりしているらしい。降谷の仕事終わりに、レストランで二人で食事をすることもあった。戦時中ではあるが、帝都は平和で、戦争なんて新聞か、ラジオの中でだけ起きている戯曲のようだった。

 無精髭がなくなり、髪も整えられた彼は、精悍な顔立ちが目立って周りが色めき立つほどの男ぶりだった。帝都の着飾った淑女に声を掛けられて、如才なく応対する姿に、降谷は心の内がぎゅうと絞られるような思いをしなければならなかった。 

 毎回のようにそんな光景を見せられて、なのに降谷は赤井に誘われてホイホイ食事に行ってしまう自分が嫌になったが、それでも彼の顔を見て、他愛もない話をして、別れ際にそっと抱き寄せられる瞬間がたまらなくて、何度でも誘いに乗ってしまう。激しい戦闘や殺し合いを何度も経験して、相手を威圧するような目をするようになった赤井が、降谷と対面するときだけは穏やかな表情になるような気がして、例えそれが降谷の独り善がりな勘違いだったとしても、やっぱり嬉しくて。またその表情を見たくなるのだ。

返ってくることのない愛情を傾け続けるのは苦痛で、なのに会う度にどんどん情が膨らんでいって。降谷は相容れない二つの感情に押し潰されてしまいそうだった。

 

 

 

5.危機

 

 

 参謀総長や次長、中央師団長などの軍幹部が集まる中、降谷は淡々と説明を続けている。会議の内容は、軍事司法局が捜査していた例の薬物の蔓延に関する件である。降谷はいつまで経っても本部の対処方針が決まらない現状に苛立っていたが、この期に及んで未だに薬物製造の戦犯について話を聞かせろとは、一体幹部どもはこの事件を解決する気があるのかと疑問に思わざるを得ない。

 

 降谷やその部下が推測したとおり、堂村が住んでいた家屋の床下から未完成の薬物サンプルや、毒の原液などが押収された。犯人は死亡しているため、既に捜査は終了したが、彼らはそれを軍の醜聞として受け止めているようだ。

「そうは言っても薬物が広まっているのは戦闘地域のみで、中央では薬について知っている者もいない状態だ。ほら、あの遊撃部隊の赤井中尉の件もそうだったが、軍人が公金を横領しているだとか、辞めた後とはいえ軍医が毒入りの薬を作っているだとかいうのが反政府雑誌にでも載ってみろ。軍の威信が失墜しかねん」

「次長の仰るとおりですな。薬についてはキルブのスパイがやったことにして、事態を収束させましょう。大量の常習者を療養させるとなると、その予算について大臣に説明しなければなりません。そうなるとアレもコレも説明しなければならなくなりますから、ここはひとつ」

「療養させても再度使い物になるか分からんからな。士官以外の常習者は戦地に残して、一度東方歩兵団と入れ替えるか」

「はい。箝口令は徹底させましょう」

 降谷は自らの保身ばかり考えて、戦地で苦しんでいる多くの仲間を切り捨てようとする上層部の発言に、指先が冷えるような怒りを覚える。彼の隣に座っていた黒田は降谷の口が開いたのを察してその発言を止めようとしたが、降谷はそれを制して立ち上がる。

「軍の威信?あなた方が心配されているのは現在のご自分のポストが剥奪されないかどうかなのではありませんか?戦場では皆、常に命を脅かされているのです。砲弾が落とされ、仲間が死ぬ。次に死ぬのは自分かもしれない。その恐怖から逃れるために薬をやるしかないんです。娯楽もない、嗜好品だって士官にしか支給されない。家に帰る目処も立たない。あなた方が柔らかいベッドでお休みになられる間、戦場では木の陰に隠れて土の上で浅い眠りに就くんです。私は療養が必要な兵士全員を中央に移送し、然るべき医療を受けさせるべきだと考えます」

 幹部らは皆あっけに取られていたが、一早く中央師団長が反応した。

「総長閣下、大変失礼しました。大佐はまだ若く、軍の全体を見て物を言うことができんのです。私が厳しく言って聞かせておきますから、この度の暴言はお耳に入れなかったことにしていただきたく」

  降谷が再度言い募ろうと口を開く前に、師団長が命令する。

「降谷零大佐、即刻退出せよ!」 

「はっ!」

  上官の命令は絶対だ。心は否定しても、士官学校時代から身体に覚え込まされている。降谷は反射的に靴音を立てて直立不動の姿勢を取った後、最敬礼をしてその場を後にした。

 

 

 

 

 降谷を庇った中央師団長から、彼が執務室に呼び出されたのは、その日の終業時刻を2時間ほど過ぎた頃だった。

 降谷は黒田の執務室よりさらに広く、重厚なインテリアが配置された部屋の中で、全身を舐めるような視線を受け止めていた。目の前にいる幹部が、自分に何を求めているのかなどすぐに理解できた。

 大きな執務机を挟んで対面し、降谷は儀礼的な謝辞と、形ばかりの反省を述べる。昼間の会議で降谷が行ったような上官への反駁は、懲罰の対象となる。しかも現場にいた面々を考えると、懲戒による除隊も覚悟しなければならない。

 今、自分に求められている行為と、除隊。どちらか選べと言われたら、除隊を選ぶ。降谷は伏魔殿と呼ばれる参謀本部で如才なく出世するような処世術を身に付けてはいたが、自分の尊厳を曲げてまでここで生きて行きたいとも思わない。直立不動の姿勢をとったまま動かずにいる降谷を見て、師団長は呆れたように肩を竦めた。

「なるほど。君は自分の出処進退のためには上官に脚を開くことはしない、ということだな。それでは別の話をしよう。将官殺しの赤井中尉について」

 油断していた。思いも寄らない名前が出てきて動揺した降谷の表情の変化を、師団長は見逃さなかった。

「君と赤井中尉は士官学校時代、師弟の関係にあったそうじゃないか。さぞ可愛がられたんだろう?」

 下衆な言い方に怒りが込み上げるが、ここで感情的になっては相手の思うツボだ。降谷は平静を装って返事をする。

「はい、可愛がっていただきました」

「赤井中尉の処遇については、幹部の間では未だ意見が分かれている状態だ。殺された准将はろくでもない阿呆だったが、将官殺しを無罪放免にするわけにもいかん、と仰る方もおられる。だが公開の法廷でやってはこちらの耳が痛い話も公開されてしまう」

「待ってください。審理を非公開にすると恣意的な判断が下される畏れがあります。これは前例を見てもそうで・・・・・・」

   違う。師団長の言葉を額面通りに受け取ってはいけないのだ。軍幹部であれば、裁判の結果など、どうとでも操作できる。降谷の行動如何によって、赤井のキャリアや、将来。そういったものを生かすこともできるし、逆に長期の懲役刑を科して、社会的に殺すこともできる。そういうことだ。

   降谷は手を握り込み、息を吐く。自分の身体と、赤井の未来。どちらかを選べと言われたら。

   ・・・・・・そんなこと、選ぶべくもない。

   赤井に罪はない。彼は仲間のために、すべきことをしただけだ。

   降谷は、今からさせられるのが馬鹿みたいな事でも、それが赤井の役に立つのであれば、それでいいと思った。何でも一人で解決してしまう赤井に、本人が知らない所で降谷が献身できるのであれば、それは降谷にとっての喜びであるはずだ。そう自分に言い聞かせる。

 

 降谷は立派な執務机の内側に回り込み、男の前にひざまづく。彼が男のベルトに手を掛けた瞬間、ドアが割れるかと思う勢いで開いた。

「あ、あかい?」

「き、貴様!誰の許可を得てここに!」

 喚く上官に向かい、部屋に入ってきた赤井が躊躇うことなく威嚇射撃をする。男のすぐ後ろ、高級そうな木製の壁に穴が開いた。

「降谷!この男を拘束しろ!裁判なぞ受けさせるものか、俺が始末してやる!」

 立ち上がった降谷は、赤井の目を見て息を飲んだ。周り全てを殲滅するような、殺気立った目。

「おいジジイ、まずよく回るその口を塞いでやろうか」

 赤井は官製リボルバーを手に近付いてきて、男の口の中に銃口を突っ込んだ。弾みで歯が何本か折れている。師団長は痛みと恐怖で声も出ないようだ。

「赤井、止めろ」

「零に何をさせようとした?」

「赤井!」

「上官殺しは初めてじゃないんだ」

「駄目だ赤井!銃を離せ!」

 降谷は赤井の正面から抱き付くようにすがって止めようとする。

「駄目だ!撃つな!」

「・・・・・・・・・」

 赤井はリボルバーの銃口を口から出し、グリップで男の首を打ち付けた。気絶して倒れた男を冷ややかな目で見て、それから降谷の肩に頭を置いた。

「間に合った、と喜ぶべきなのか?」

 赤井は男の血と唾液にまみれたリボルバーを机の上に置き、降谷を抱き締める。

 赤井の声は震えていた。どうして?降谷は自分を抱き締める男の、早鐘を打つ心臓に問いかける。

「赤井、痛い・・・・・・」

 力任せに抱きしめられている。まるで誰かに奪われそうになった宝を取り戻して、もう二度と手放さないと懐に隠そうとしている。降谷は赤井と触れ合った頬から、そんな焦燥と、安心と、愛情を感じた気がした。

 

 

 

6.終結

 

 

 ニーナ(Nina)は、シュメール語でイナンナ、つまりバビロニア神話に登場するイシュタルという女神の名だ。イシュタルはヴィーナスやアフロディーテのモデルともなったといわれる原初の女神であり、豊穣、金星、戦争を司る。

 

 女神を辱しめて排除しようとした帝国軍に対する罰なのかもしれないな。

 降谷は薬物中毒者の療養計画書と、予算流用を許可する大臣の署名を抱え、相変わらず都合のいい戦況報告を垂れ流すラジオ放送を聞きながら黒田の執務室から自室に戻るところだ。

 あの後、中央師団長は一身上の都合により役職を辞任し、軍も退役した。これについては裏で赤井が暗躍したのだろうと判断した降谷が本人を問い詰めたが、奴は最後まで口を割らなかった。厳しく問い詰めても、優しく聞き出そうとしても体よくはぐらかされた。一度乗馬鞭を手にして迫ったときなどは、赤井はわけのわからない興奮の仕方をして、カメラを持ってくるから写真を撮らせてくれ、と懇願される始末だった。

 

 そして赤井は結局不起訴処分となり、彼は戦場に戻るべく、昨日帝都を発った。所属する北方師団遊撃部隊からは、早く元の部隊に戻ってきてほしいとの嘆願書が出ていた。

 昨日、赤井と交わした会話を思い出す。

 

「前線に、戻るんですか?」

「ああ」

「僕のこと、嫌いだって言ってください。そしたら僕は前を向いて生きて行くから」

 このまま、二人の関係を曖昧にしたまま離れてしまったら、また僕は赤井に囚われたままいつまでも前に進めない。降谷は再会後の思わせ振りな赤井の言葉や態度に喜びながら、同時に傷付いている。

「俺は11年前、士官学校で君と出会ったときから今まで、君のことをずっと愛しているさ。でも、あのとき、卒業を目前にして俺は逃げた。あのまま士官学校を卒業していたら、俺は従兄妹と結婚していた。君がいながら。だから学校を辞めて兵卒からやり直すことにしたんだ。狙撃技術には自信があったから、一般兵として入隊しても、ある程度昇進できるだろうと予測していた。ある程度昇進したら、君に赦しを請うて共に生きていけたらと思っていた。

 でも君は参謀本部で瞬く間に昇進していって。ほら、あと一歩で閣下と呼ばれる地位にある。いい縁談も来てるだろう?俺は君の枷になりたいわけじゃない。君の昇進を阻みたいわけでも」

 一体誰の、何の話を聞かされているんだ。11年前からずっと?結婚を潰すために退学?僕が昇進したから諦めようとした?

「な、なんで・・・・・・。なんでそれを10年前に言わないんだよ!僕は、僕はあなたに捨てられたと思って、でも諦められなくて。そうだ、一度人事局から辞令が来たでしょう?」

 確か2年前だ。降谷はどうしても赤井を諦め切れなくて、そして赤井が紛争の起きている海外に派兵されるとの噂を聞いて、たまらず人事に介入したのだ。参謀本部軍事司法局司法官付きのポストを提示した。返ってきた答えは、『辞退』。

「その頃君は貴族院議長の孫娘との縁談が持ち上がっていただろう?君の元に行ったら、俺は巧妙な計画を立ててその縁談を潰していただろうさ。君の将来のことなど考えずに」

「僕の将来、僕の昇進?そんなことどうだっていい!僕の幸せはあなたと共にいることだ!」

 士官然とした態度を崩さなかった降谷が、今は涙を流しながら赤井に殴りかかろうとしている。

「零、落ち着け。危ない」

「これが落ち着いていられるか!何だよそれ。あなたは馬鹿だ!阿呆だ!何が僕のため、だ馬鹿!僕を愛してるならそう言えよ!もう、ほんと、この10年何だったんだ。」

 泣きながら赤井の胸を何度も叩く。赤井はその手をとって、甲に口付けを落とす。

「零、愛してる。この戦争が終わったら、中央に戻れるように働きかけてみる。だから、俺と一緒に生きてくれ」

 それを聞いた降谷は子供のように声を上げて泣いた。ずっと、ずっと聞きたかった言葉だ。

「帰ってきて。絶対に、僕の元へ戻ってきて」

「ああ。必ず」

 赤井は涙と鼻水で濡れた愛しい人の顔を見て、微笑んだ。

「君がいる限り、俺は生きて帰るよ」

 

 

 

 

――愛してる、愛してる。

  この世界の全てより、君を愛してる。僕のイシュタル、永遠に。

 

 

 


ドゥムジの誤謬

 誰が殺害したか判らないようにする方法はいくらでもあった。死んだ敵兵から拝借した拳銃を持って真夜中に将官用のテントに忍び込むだとか。そこで殺さずともテントから被害者を連れ出して、両脚の骨を折ってから流れの早い川に投げ捨てるだとか。手榴弾を放り投げてから敵襲を装うだとか。

 戦地における人命の軽さを知っている人間なら誰でも思い付くトリックをあえて使わずに衆人環視の中トリガーに指を掛けたのは、全く『魔が差した』としか言いようがないだろう。冥界の門番と成り果てた牧夫が、青灰の目をしたイシュタルを見たくなった。ただ、それだけのことだ。




1、端緒



 開戦はあっけなく、戦況が膠着するのはもっとあっけなかった。本邦と国境を接する北方キルブ国との戦争は現在においても一進一退。

 戦地は国内でも緯度が高く、夏場でも朝夕の冷え込みが厳しい北方地域だ。農作物も平時でさえ季節によっては南部からの供給に頼っている状況だが、本格的な戦時体制に入り、搬入される食料も日に日に制限されてきている。娯楽を提供できるような大きな都市もなく、兵隊が駐屯するキャンプは鬱屈した空気が充満していた。

「中央でふんぞり反っているお偉方の分析によると、終戦時期は未だ不明。いつになれば故郷に戻れるのか、いや、このままでは生きて戻れるかすらわからんぞ」

  古参の一般兵が呟くのに、周りが賛同する。

「そりゃああんな物が流行るわけだ」

「薬、だろう?昨日もまた、飲み過ぎで死んだ奴がいたらしいぞ」

 このところ歩兵団員の間で話題になるのは、開戦を機に北方師団の歩兵団員の中で急に流行りだした向精神薬についてだ。誰が付けた名かわからないが『4869』と呼ばれるそれは、万能感をもたらし恐怖感を軽減する働きがあるという話で、戦闘配備に着く前に吸うと活躍できるとか、銃器の精度が上がるらしいという噂も広まり、日に日に常習者が増えている。しかし常習性が高く、一度手を出したら止められない強い常習性と、薬が原因としか思えない重篤な体調不良を引き起こすなどの弊害もあって、現場は混乱している。

  そして薬に手を出していない者達の間では、もっぱら中毒者の自殺や刃傷沙汰などの噂話が娯楽となっている。他に楽しみがない兵士にとっては唯一の遊びだ。どこの士官が薬に手を出したらしい。売人をしている一般人が兵士に殺されたらしいと、真偽不明な話があちこちから漏れている。


 北方師団には、第1から第14までの歩兵団が配備されているが、その中でも第11歩兵団においては、状況は他の団に比べ、より酷かった。なぜなら、そこは団長たる准将自らが薬物中毒に陥り、それにより部下を手に掛ける有り様だったからだ。団長のせん妄を伴う中毒症状のために一般兵が殺され、辱められ、ついに士官だった団長の直属の部下までもが殺された。

 上官殺しは大罪だ。相手が将官ともなると、中央に移送された途端、裁判を受けることもできずに斬って捨てられるらしいぞ。まことしやかな噂が流れ、団長の暴虐が明らかになる度に部下から出る暗殺計画も、結局勇気ある実行犯が現れずに諦観せざるを得ない状況にあった。

 そのような有様だったから、その団長が数日前にキャンプ入りしたばかりの遊撃部隊の副隊長に額を撃ち抜かれたとき、ある者は安堵のため息をつき、ある者は歓喜の声を挙げた。そして誰もが栄誉ある殺人者を匿おうとしたが、男は別の用件で現地入りしていた軍事司法局の局員に自首してしまったのだ。歩兵団員はみな同様に声を挙げた。

「あの人のお陰で我々は団長に殺されずに済んだんです」

「どうか寛大な処置を!中央に連れて行かないでください」

 逮捕された副隊長が参謀本部の用意したトラックの荷台に乗るその時まで、歩兵団員の嘆願は続いた。


「あの人、なんで自首したんだろうな。ここには誰一人、死んだ准将の味方なんていないのに」

「そうだよ。死人に口なし。俺たちは『何も見ていない』というのにな」






 将官殺しの被疑者となった、北方師団遊撃部隊副隊長 赤井秀一中尉は、護送用のトラックの荷台で、明日には会えるだろう愛おしい男のことを思い出す。赤井よりも3つ年下で、10年以上前に士官学校の下級生だった彼のことを。


 士官学校では、旧来より師弟制というシステムが採用されていた。上級生と下級生とが2人1組になって、上級生が個人的に勉学や規律、実技訓練を下級生に教えるというのが表向きの制度だが、実際には自分の配下になった下級生を死なない程度に虐め抜き、自尊心を砕き、上意下達という軍部の命題を身体に教え込む。そして下級生時代に自分が受けた抑圧を、自分が上級生になったときに下級生に対して再生産してそのストレスを発散させるのが目的だ。馬鹿馬鹿しいその制度をひたすら嫌悪していた赤井は、自分が上級生となり彼のペアになる少年の存在を見た途端、初めて軍部に感謝すらした。

 その少年は、氏名を降谷零といい、軍籍を与えるのはいささか危険であるような見た目をしていた。赤井の危惧したとおり、入学直後は女の代わりにとどこかに連れ込まれそうになったり、大人数に拉致されそうになったこともあった。降谷の類い希なる身体能力と赤井の度重なる制裁により夏前には不埒なことを考える者もいなくなったが、その頃には彼を保護すべき赤井自身が降谷に対して不埒なことを考え始めるようになってしまったのだ。

 始まりは何だっただろうか。赤井は激しく揺れながら荒地を走るトラックの荷台で目を閉じる。

  寮の同室が充てられていた。通り雨に濡れた降谷が、赤井が貸した本を大事に抱えたまま部屋に戻ってきたときだった。濡れた白シャツが彼の肌に張り付いて、それを見てどうしようもなく欲情した。たまらなくなって彼の項に指で触れると、驚いたように見開かれた彼の目が次第に伏せられたのを覚えている。

 降谷の前では常に余裕のある大人でいたかった。彼に性衝動を抱いて拉致しようとする輩とは違うと。今考えると随分と彼はやきもきしたことだろう。あの雨の日から1年ほど経って、初めて自分の気持ちを吐露したとき、降谷は「遅すぎます。もう、本当は僕のことなんてどうでもいいんでしょう?」と拗ねて押入れに閉じこもってしまったのだった。かわいい零、許してくれと言って襖を開けると、きり、と吊り上がった眉と甘く垂れた目が赤井を射貫いた。

 ああ、あの時の拗ねたような、それでいてこちらにすがるような不思議な目、早くあの目を見たいのだ。逸る気持ちを落ち着かせるように、彼はもう一度目を伏せて息を吐いた。




 

 軍事司法局では意外にも被疑者の扱いは丁寧だった。中尉とはいえ、士官待遇だからかもしれない。赤井は中央に戻ってきた途端、1ヶ月ぶりに風呂に入ることができたし、温かい汁物に口を付けることもできた。戦地での何もかもがままならない生活が異常だっただけかもしれないが。

 さすがに剃刀や鋏を触ることは許されず、散髪と髭を当たることはできなかった。中途半端に伸びた髪が鬱陶しいが、あまり無理を言って本来の目的を達することができなくなることは避けねばならない。


 そして赤井は狭い取調室で椅子に座ったまま、降谷を呼び出すことに成功した。

 降谷は現在参謀本部内にある軍事司法局で、軍人の犯罪について捜査、公判を担当している。階級は大佐で、管理職としても忙しくしているらしい。

 彼になら話す。そうでなければ沈黙を貫く。司法局は今、通常業務の他に北方戦線で流行っている薬物の捜査も大々的に行っている。被疑者を黙秘させたまま何日も取り調べに割くような余裕はないはずだ。

 赤井の予想通り、数時間ゴネただけで彼が現れた。

「黙秘しているそうですね」

 10年前、最後に彼と会話をしたときよりも、少し低くなった声を聴く。降谷は現在29歳。年齢相応の落ち着いた佇まいを見せていたが、顔の造作や体の厚みは学生の頃と変わらない。本物の戦場を経験したことがないだろう彼の清廉な目を、赤井は眩しいものでも見るような感慨を持って眺めた。

「降谷大佐になら話すと言った」

「では僕が来たので話してください」

 夜毎夢に見た男と、古ぼけた木製机を挟んで相対する。4畳半ほどの狭い部屋には、被疑者である赤井と取調べを担当することになった降谷、その他には調書を作成する書記官と、赤井の腰紐を握って彼の後ろに立つ警察官がいた。

 不快ではないのだろうが、唇を噛んで何かを我慢しているような降谷の表情が、長過ぎる時の経過を物語っているようだった。言葉遣いも固い。

 赤井は平静を装って、事件の経過を説明する。赤井が副隊長として任に当たっている北方師団直轄の遊撃部隊は、北方戦線でも特に激戦区となっている場所に飛び回りゲリラ戦を仕掛ける部隊だ。隊員数も少なく移動も多いため、休息をとる時には各歩兵団のキャンプに合流することになっている。

 彼が殺害した第11歩兵団長は、キャンプ入りした赤井ら遊撃部隊の隊員と対面したときには既に薬に体を冒されていたのか、常に瞳孔が開き血走った目をして、口の端から涎が垂れているような有様だった。部下が諫める言葉も通じていない。異常を察知した赤井が団員から事情を聞き、一刻の猶予もないと判断した。戦地を統括する北方師団本部には報告せず、自らの判断で銃口を団長に向けた。おそらく被害者は最後誰に殺されたのか、どうやって自分が死んだかすら分からなかっただろう。

 赤井は軽く握っていた自分の手を開き、グリップやトリガーの感触を思い出す。引き金を引くことに、畏れや後悔の念はない。自分はもう人間を何人殺しても、それが敵兵だろうが同胞だろうが何も感じない。感情が揺れることはない。むしろその事を彼に知られる方が余程恐ろしいことのように思える。

 赤井が殺害の動機について事務的に一通り話し終えると、降谷は減刑のための調書を作ろうと提案した。将官の殺害は特に重い罪に当たる。だが被害者の暴挙を止めるためには致し方なかったと。だが赤井は知っていたのだ。自分が刑に処されることはおそらくない、ということに。しかしそれを降谷に伝えるわけにはいかない。だから不自然にならないようにそれを断る。

 

 赤井は被疑者でありながら巧妙に取調室を支配する。降谷に話してよいこと、黙っておくべきことを整理し、誰に、どこまでの情報を開示するのかコントロールする。降谷は学生時代から勘が良く、論理の穴を突いて嘘を見破る力に長けていた。そんな彼の視線を撹乱させ、別の重要な事件に導くために、本筋とは別の大きな謎を提示する。

 それは「例の薬物の製造、流通に敵国キルブが関わっているのではないか」ということだ。人払いをさせ、君にしかできない、と捜査方針を提示する。赤井の調べたところでも製造設備の建設に敵国が関わっていることを示す間接的な証拠があった。降谷ならきっと直接証拠を挙げてくるだろう。

 降谷からは赤井が追っている本来の敵を隠し、表面化している薬物事件を捜査するように仕向ける。相手を操るようなやり方は降谷が最も嫌うことの一つだろう。だが彼には知って欲しくないのだ。この軍部の闇は彼が一生知らなくてよいものだ。



「バレたらもっと嫌われるな・・・」

「何です?」

 降谷との束の間の邂逅を終え、赤井は地下にある留置場に戻るために長い階段を降りる。腰紐を持った青木という巡査部長は、降谷から口止め料として渡された紙幣を見ながら赤井の独り言に反応する。

「おい、本当にアレだけは駄目だ。遊んで貰おうなんて一瞬でも考えるなよ」

 地を這うような低い声に青木は背中を震わせる。確かに中尉の取調べを行った大佐は軍人らしくなく、人当たりの良さそうな青年で街中に佇んでいたら声を掛けてしまうかもしれない。でもあの若さで大佐にまでなった人物だ。きっと狡猾で、一筋縄ではいかない。下っ端の警察官がどうこうできるものではないことくらいわかる。それでもこの人はまるで野生動物のように周り全てに威嚇する。

「心得ています」

 恋人を取られたくないなら素直にそう言えばいいのに。青木は図体の割に意外と狭量な男に少しだけ共感した。




2.交渉

 


 赤井が自分の側近に託していた書類は、参謀本部軍事司法局長である黒田兵衛少将に無事届いたようだった。降谷とのやり取りの翌日、再度上階に呼び出された赤井は、通された取調室に黒田がいたことに安堵する。軍人らしく入室するなり最敬礼の姿勢をとり、頭を上げると直立不動で指示を待つ。

「手錠を外して、外で待っていろ」

 黒田は赤井を連れてきた青木巡査部長に命令して、彼が赤井の手錠を外して部屋を出るまで腕組みをしたまま黙っていた。青木が出て行き部屋の扉が閉められると、赤井は下令もないのに自分で椅子を引き、腰を下ろす。そのまま口を開いた。

「このようなところまでお越しいただけるとは。閣下」  

「私相手に交渉でもするつもりか?中尉」

「まさか」

 赤井は自分が逮捕されるより以前に、違法に手に入れた数々の書類を自分の側近に預けていた。北方師団の裏帳簿、現金を食品や武器だと偽って輸送した際の検品書、暗号で書かれた参謀本部からの指示書、敵国との通信傍受記録。そしてそれらに携わった者の証言記録。これら全てが、ある一つの事実を明らかにする。

 以前から参謀本部内でプールされていたはずの莫大な金が、北方師団第11歩兵団長を通じて敵国キルブの軍部に流れているのだ。流出した金の一部は例の向精神薬の製造工場建設や、材料の調達費用に充てられていることも書類の中から読み取れる。

 黒田は昨日の午後、赤井の側近から内密に受け取ったそれらの書類を読み、すぐに金が実際にあるかどうかを確認した。すると報告文書のとおり、帳簿上は確かに存在している金がなくなっている。それどころか退役軍人の年金に宛てるための基金まで一部どこかに流出していることが明らかになった。なくなった金がどこに流れているのかは、会計局に強制捜査を入れるなりして詳細な捜査を行わないと判明しないが、赤井に提示された証拠書類を見る限り、敵国に流れている蓋然性が高いと黒田は判断した。

 

 参謀本部から敵国に金が流れているとすれば帝国軍発足以来の一大不祥事。軍の威信を憂いるどころの騒ぎではない。軍部による国家への裏切り、国防という軍の存在理由さえ否定されるべき重罪だ。黒田は呻きたくなる気持ちを押さえて、表面上は冷静を装う。

 そして、これこそが赤井が降谷を騙してでも隠したい軍部の罪だった。


「私にこの話を持ってきた理由は何だ。被疑者となるのは軍そのものと同視できるような大物だろう。我々が刑事訴追により対処できるような話ではない。参謀総長か、いや、国軍大臣に内密に持っていくべきものだ。それなら私よりも君の方が伝手がある」

 黒田は暗に赤井の血筋について言及した。赤井の祖父、前国軍大臣である世良侯爵は、現大臣とも懇意にしているし、政府要人に対しても未だ強い影響力のある重鎮だ。

「祖父にもいずれは協力してもらいますよ。事件解決には犯人よりもはるかに強い権力が必要だ。しかしそのためには関係者が言い逃れできないほどの強固な証拠固めをする必要があります。やるならば不穏因子を一掃しなければ意味がない。死亡した准将に罪を着せて解決するのでは物足りない。したがって、この件について、私に引き続き捜査していただきたく、閣下に上申するものです」

 赤井は机に両手を付いて、頭を下げた。

「大それた上申だ。君が軍部の腐敗を憂慮するとは、意外だな」

 黒田は思案するように顎に手をやり自らの髭を撫でる。

 黒田と赤井は元々互いに大して面識があるわけではない。だがこの手の目をする男は煮ても焼いても食えないのだ。面倒で、強引で、自分のしたいように世界を変えていく人間だと黒田は直感する。

「私もそう思います」

 赤井は僅かに口端を上げ、自嘲する。「軍や戦争の行方など、ましてや金がどこからどこに流れようと、私にとってはどうでもいいことです。ただ、国を信じ、国を護ろうと信念を持って仕事をしている者を嘲笑うような害悪は粛清すべきだと」

「ほう」

何か思い当たる節があるのか、黒田は小さく頷く。

「閣下、」

 赤井は真剣な顔をしたまま珍しく言葉を迷わせる。彼が何について話をしたいのかを察した黒田が水を向けてやる。

「降谷はこの捜査からは外すことにしよう。そういうことでいいか?」

「ありがとうございます」

 実を言うと降谷はそういった内密に進められる疑獄事件を捜査するのが上手いのだ。柔和な雰囲気で関係者の懐に入り込み、片っ端から情報を集めてくる。集まった情報を組み立てて推理し、首謀とやり口を鮮やかにあぶり出す。

「だがアレに黙って捜査を進めるのは骨が折れる」

 黒田は自らの額に手をやって算段する。降谷は現在通常捜査の他に、黒田の側近として司法局全体の捜査進捗や軍事裁判の期日進行についても管理している。局内全体を把握しているため、彼に隠れて事を行うのは困難なのだ。

「彼には例の薬物の捜査を専任でさせてください。餌を撒くと言っては語弊がありますが、こちらでもそう誘導してあります」

 黒田は赤井の表情を見る。赤井は降谷をどうしたいのか、彼の発言から推し量ることはできない。彼を支配し、見せたい物だけを見せることに執心しているのだろうか。だがそれは通常の恋愛や友情関係からは逸脱している。歪だ。

「アレは、上層部から来る見合い話を何度も断っている。どれほど地位が高い方の子女でも、器量がよくても首を縦に振らん。唸るような持参金を積んでも振り向きもせん。その理由を、君は知っているか?」

 黒田は大きく息を吐いた後、そう言った。少なくとも降谷は純真に赤井に想いを寄せているはずだ。もう何年も。それに応える気がないのであればそう説明して早く引導を渡してやるのが誠意というものだ。降谷は来年には30になる。「売れ残り」は今後の昇進にも響く。

「いいえ」

「士官学校時代、君たちは恋仲だったのだろう?」

「彼に聞きましたか?」

「いいや。だがアレの上司になって長いんだ。度々人事局に照会して君の異動を調べていたし、君に海外派兵の辞令が出たときは裏から手を回せないかと俺に泣きついてさえ来た」

「辞令が来ましたよ」

「袖にしたんだろう」

 赤井は黒田の顔、爛れて引き吊れた皮膚に目を向ける。

「・・・・・・私は、ただ何よりも大切なものを、誰にも傷つけられず、私の手によっても傷つけないように見守り、彼の思う信念を全うさせたい」

 分かるような分からないような理論だが、まあ整合性が全く取れないほどではない。おそらくこの不器用極まりない男は、降谷のことを天使か神様かと思い違いをして、下界の冒涜的な現実を見せまいとしているのかもしれない。

 それにしても。黒田は苦笑する。いい齢をした男たちが不器用にお互いの信念を守り献身しようとしている姿は滑稽で微笑ましい。お行儀よく見守るなどと言わずに、愛おしいならそう言って、二人で地獄でもどこへでも行けばいいのに。少なくともあの愛情深い黒田の部下はそっちの方を選ぶだろう。だのにこの男は、

「私と共にいても彼のためにならないことは明らかです。できれば若くて美しい、血筋の良い娘を宛てがってください。早く上に行って、彼が成したいことを成させてやりたい」

 などと最もらしく言う。全く言葉にするだけで項垂れるなら最初から口にするな。

 黒田は降って湧いたような巨大疑獄事件に頭を悩ませながら、腹の底からため息を吐いた。





 

 黒田との面会時に二人で協議した手筈通り、逮捕から2週間後には赤井の身は降谷の預りとなり、一時釈放された。書類上は殺害された歩兵団長が私的に軍の金を流用した証拠を赤井が提示し、局長である黒田本人と司法取引をしたということにした。資金が敵国に流れていたこと、それに参謀本部の幹部が関与していたことは伏せられ、黒田直属の情報機関が独自に調査を継続することで赤井と妥結し、全ての証拠原本は黒田の預かりとなった。

 赤井は釈放後すぐに髭を当たり、髪も切り、洋服を新調した。そして次に帝都郊外にある重厚なレンガ造りの邸宅に上がり込んだ。彼の祖父、世良侯爵の別邸だ。本邸は中央の行政機関が集まる地域にほど近い場所にあるが、手狭だという理由で、大臣職を退任して以降は多くの使用人と共にここを本拠としているらしい。10年ぶりに現れた「秀一坊ちゃん」に、使用人の中には涙を浮かべる者もいた。


「まあまあ、ほんにご立派になられて」

「坊っちゃんの軍功は本邦中に響いておりますよ」

「大旦那様のお若い頃にそっくりにお成りに」

 姦しい女中らに構われながら、長い廊下を進み洋風の応接室に通される。紺の絨毯の上に配置された外国産の豪奢な応接セットに腰を掛ける。丁寧に磨かれた曲線を描く木の台座に、綺羅びやかな刺繍の座面が乗せられているこのソファは、赤井が子どもの頃に祖母が買い求めたものだ。応接室の奥には艶のある白大理石のテーブルセット。外国産の蓄音機や絵画は10年前はなかったものだ。

「坊っちゃんには早摘みの紅茶がよろしい」「いいえ、先日船便で届いたばかりのぶどう酒がよいのでは?」廊下で賑やかにしている彼女達は、主人が現れたタイミングで一礼してその場を後にしたようだった。


「久しいな、秀一」

 洋装で応接室に現れた世良侯爵は、高齢にも関わらず現役を引退したとは思えないほど姿勢がよく、彼がまだ若かった頃と比べても遜色はなかった。10年前には整えられていた口髭は、流行を考慮したのかすっきりと剃られていた。彼は10年ぶりに突然現れた孫に対して叱るでも心配するでもなく、まるで先日会ったばかりのような反応を示した。立ち上がろうとした秀一を制し、その向かいのソファにどかりと腰を下ろす。士官学校を辞めたときに勘当されたのだと思っていたが、世良は意外にも上機嫌だった。

「俺のところにまで報告が上がってきたが、何もお前の将官殺しを宥恕させるために来たわけではないだろう?」

 久しぶりに孫に会ったというのにすぐに本題に入りたがるのは血筋かもしれないな、などと赤井は思う。

「お耳が早い。どこから報告が来ました?」

 軍人の逮捕勾留に関する情報は、警察のそれのように一般には出回らない。その上特に今回の赤井の件は機密扱いであるから、参謀本部内でも一部しか知らない情報だ。血縁だからとわざわざ司法局から連絡があるとも思えない。

「参謀本部にはまだ俺の飼い犬が何匹かいるからな」

 老獪という言葉がぴったりとくるような台詞に苦笑して、赤井は身を乗り出して話し始める。

「そうであれば話は早い。侯爵閣下、参謀本部にあるはずの金が最近どこかに流れている、という話を聞いたことはありませんか?」

 世良は腕組みをして唸る。公金が何者かを通じて敵国に流れているという話はつい先日彼の耳に入ったばかりだ。何者かが秘密裏に捜査を開始したという話と共に。参謀本部内にいる高級幹部の中に主犯がいるのは明らかだが、人物の特定には至っていない。秀一はどうやってこの事を知ったのかと考える。資金流出の末端を担う人間と接触でもしたのだろうか。

「ああ、そういうことか」

 世良は得心するように頷いた。秀一が殺害したという北方師団の歩兵団長。彼は元々中央にいたが、開戦直後に戦地である北方に飛ばされていたはずだ。度々問題行動があるとして本部内でも疎まれていたようだが、それにしてもあの階級の高さで歩兵団長というのも通常あり得ない人事だ。

 果たしてその団長が資金をキルブに流すという役割のためにわざわざ戦地に赴任させられたのだとすれば、その人事に介入した人物が主犯もしくはそれに近い役割だということだ。


 秀一は幼い頃からそういうところがあった。運がいいのか悪いのか、それも勘が働くのか、初手で事件の核心を突き、解決までの最短距離を進むのだ。

 しかし、全ての罪を白日のもとに晒し、断罪するのが良いとも限らない。

 上流階級というものは、あるいは行政の上層部というものは、常に水が流れ、循環しているわけではないのだ。淀み、溜まり、そういう汚れがあって初めて社会が成り立っていることを秀一も理解しているはずだ。その上で解決しろと言い出すのだろうから質が悪い。世良は自分の孫の目を見て、一体誰に似たのだと頭を抱えたくなった。

「軍部というものは、適度に汚れていることが必要なのだ。金がどこからどこに流れようと、大局に影響がないのであれば静観するのが賢いやり方だ。末端で金を流す人間が死んだのなら、しばらくはそれも止まるだろう」

 世良は少し考えるように間を置き、そう言う。自分に似た秀一の性格上、分かり切ったことをわざわざ口に出すことに意味があるとも思えないが、事が大きすぎて手に余るのが現実だ。当然秀一もわかっているだろう。

「知っているのですね。では閣下のお力でこの疑獄事件に関与した者を粛清していただきたい。軍の幹部人事に直接介入していただき、腐敗した部分を切り取らなければ」

 幾分焦りを感じるような秀一の言い様に、世良は眉を顰める。軍が清濁どちらの局面も併せ持つことは世界の理のようなもので、そうでなければ戦争などできたものではない。


「軍に何かを、人質でも取られているのか?」

 人質とは言い得て妙だな。世良は独りごちる。

 秀一は士官学校を辞めた理由を誰にも言わなかったが、彼の退学後に学校内部を調査させた結果、その理由らしきものは自然と浮かんできた。秀一は平民の学生と特別に懇意にしていた、というものだ。

 その学生は士官学校を首席で卒業した後、参謀本部の諜報活動を行う部署へ配属された。今は軍事司法局で、局長である黒田少将の右腕として優秀な働きをしている。

 秀一は卒業後結婚することが決まっていたし、それを止めるためには士官候補生でなくなる、つまり学校を辞めるくらいしか方法がなかっただろうとも思う。

 人質として適しているのは彼くらいのものだろうが、懇意にしていたのは10年以上前のことであるし、秀一本人は昔から人や物に執着する性質でもないと思っていたのだが。

「人質と言うよりは、私の独り善がりな行動です。閣下はご存知でしょうが、私には何よりも大切な人がいます。彼は国のために働き、軍上層部にも良心があると、きっと信じています。彼の信じるものを、これからも信じさせてやりたい。それだけです」

 世良は彼の言葉に驚いた。常に冷めていて、子供の頃から他人に興味を示すことがなかった秀一が。彼は一度閉じた口をもう一度開く。

「何も全ての穢れを一掃してくれというのではありません。淀みや溜まりはどの組織にもあることくらい、彼は身を持ってわかっているはずだ。だが自分の所属する組織が、直接的な方法で国を裏切っているなど。その裏切りのために何人の味方が命を落とし、多くの国民が苦しめられているかなど彼は知らなくていいことだ」

 膝の上で握られた秀一の両の拳を、世良は感慨深く見つめる。図体ばかりが大きくなるが、世良から見ればまだまだ子供だ。

「秀一、その閣下という呼び方は止めなさい」

「お祖父様、とでもお呼びすれば?」

「そうだな。それがいい」

 侯爵は手を叩いて秘書を呼び出し、すぐに軍事司法局長を呼び出すように手配した。


「一つ聞いておく。お前、身を固める気はないか?」

「ありません」

 何よりも大切だと嘯くくせに、身請けする気もないのであれば、早く世話を焼いてくれる娘を娶ればよいだろうとも思うのだが、そういうわけでもないらしい。

「欲しいものを欲しいと言うて、手に入れることの何が悪いのか俺にはわからん。何も他人の金や物を欲しがっているわけじゃないだろう?」

 秀一は両手を組んだまま、ソファの背もたれに寄りかかる。

「白い紙を墨に浸ければ黒くなります。私は白い紙を白いまま残したいのに、私の手は赤か黒か、とにかく汚れていて、白いままの紙を手にすることができない」

 秀一がため息を吐くのと同時に、女中がワゴンに乗せた飲み物を運んできた。

「紙はそうだろうなぁ」

 テーブルにサーブされたカップの中身はコーヒーだった。世良は中身を覗き込んでから女中を見上げ、「ここに紙を入れたら怒るか?」と聞いた。

 彼女は「わたくしどもは大旦那様がなさることにどんな文句も付けられましょうか」と言った後、「まあ、大奥様には全て申し上げますが」と釘を刺した。

「わかったわかった。秀一、紙は珈琲に浸けると色が変わるが、この銀の匙は・・・銀のままだ」

 世良は銀製のスプーンをカップに入れて、静かに引き抜く。スプーンは滴も付かず、鏡のように光を反射させた。

「世良家は、赤井家もそうだが、代々軍功を立ててその時代の君主に仕えた。俺も若い頃は砲弾が飛び交う前線で指揮を執ったものだ。お前が何を怖がっているのかは知らんが、我々が怯えて戦場に立つことができなければ、本邦の歴史は変わっていたかもしれない」

 秀一は祖父の目を見た。自分とよく似た人殺しの目。確かな信念を持ち、行動し続けた結果のそれは、存外悪いものではないのかもしれない。

「白く見えるそれが金属かもしれないとは、思いもしませんでした」

「参謀本部の、黒田の部下だろう?あれが紙なものか!」

 世良は込み上げる笑いを抑えられないように吹き出した。「あの齢で大佐になっただけはある。強かで怖い男だぞあれは」

「知っているのですか?」

「知らんことはない。大佐に聞いてみればよい」

 これ以上は口を割らん、と唇を引き結ぶ祖父にため息をつき、香り高いコーヒーに手を伸ばす。温かい物が腹に入ると、自然と体が弛緩する。


「・・・・・・俺もな、お前のおばあさまと結婚するときは家中の者が上へ下への大騒動だった」

 家の位に見合う娘を、と父親が見繕うのを強引に止め、留学先から連れて帰ってきたのは髪色も肌色も本邦の人間とは違う、外国人の娘だった。前代未聞の出来事に母親は寝込み、執事は錯乱した。彼女と結婚できないのであればまた海の向こうに行く。金ばかりかかる爵位は国に返せと豪語した。あのときの自分にあった彼女に対する情熱や執着は、もしかすると秀一に受け継がれているのかもしれない、と思う。

「お前の好みは本当にわかりやすい。気が強くて頭のいい、そして金色の髪と薄い眼の色をした者。俺と、そしてお前のお父上とも全く同じだ」

 世良は豪快に笑い出す。赤井は苦虫を噛み潰したような顔をして大口を開ける祖父を眺めた。




3.幕間



 一時釈放された赤井の身元引受人に降谷を選んだのは黒田だ。何と言って彼にそれを請けさせたのかは知らないが、管理上必要だろうと共に食事をしようと持ちかけたのは赤井だ。

 昼間は例の疑獄事件について捜査をしたり、降谷に対する『アリバイ』として学生相手に議論を吹っ掛けたり、新しく発行された本を読んだりと忙しい。夜は週に何度か本部ビルまで彼を迎えに行き、レストランで食事をしながら政治問題や世界情勢について意見を交わす。最近帝都で流行している、家庭料理として作る洋食に降谷も興味を持っているらしく、本で仕入れたそれらの作り方を教えてやると、「赤井が料理について語るだなんて、似合わなすぎる」と大袈裟に笑った。ここは平和で、数週間前まで自分がいた戦地の方が夢か妄想かと思うような有り様だった。

 彼に会うために出かけているのに、その度に着飾った女どもに声を掛けられ、赤井は辟易とする。だが降谷の目もあって邪険にするわけにも行かない。それに、女と話す自分を見るときの、彼の傷付いたような目。

 表向きには幸せになって欲しい、妻帯し、子どもを産ませ、さらに昇進して、俺のことを忘れるように、などと殊勝なことを言うくせに、本心ではいつまでも自分に執着し続けるようにと同じ口で思わせぶりなことを言うのだから始末に負えない。

 降谷の想いが未だにこちらを向いていることは、彼と食事に行き始めてすぐにわかった。別れ際にそっと抱き寄せると、目を伏せてから小さく息を吐くのだ。幾度、そのまま連れ去ってやろうかと思ったか知れない。




 士官学生時代、二人で一つの布団に入って、寝物語にと様々な話をしていた。古代神話を紐解く話では、メソポタミア文明からギルガメシュ叙事詩、そこからイシュタル信仰の話になった。イシュタルは豊穣、金星、戦争を司る女神として古代メソポタミア全域で絶大な信仰を集めていた。そのため彼女にまつわる神話は多く、エビフ山を滅ぼしたり、求婚を断ったギルガメシュ王に復讐するために彼が統治するウルクを滅ぼそうとしたりと、とにかく血の気の多い話が多い中、降谷の気を引いたのは『イシュタルの冥界下り』という話だ。

 冥界の番人となった自分の夫ドゥムジを追って冥界に下りたイシュタルは、冥界の掟を犯したとしてその主エレシュキガルの怒りを買い、門を通る度に大王冠や耳飾り、首環などの装飾品を奪われる。冥界の最奥にたどり着いたときにはすっかり力を失っていたイシュタルは、エレシュキガルに命じられた死神により邪気を放たれ、そこに幽閉されてしまう。豊穣の女神を失った地上は生命を生み出すことがなくなり、それを憐れに思った別の神の機転により最終的にイシュタルは生命の水をかけられ、死者の国から解放される。

 その話を聞かせたときに、赤井は彼に確かこう言ったのだ。

『イシュタルは冥界の門番となったドゥムジを見捨て、ただ天界の女王としてそこに君臨していればよかった』

 降谷には情緒がないと斬って捨てられたが、今でもそう思っている。真っ直ぐに前を見据えて進む君に冥界は似合わない。見なくて済むものをわざわざ見なくともよいのだ。

「君は間違ってくれるな」

 あの夜、眠ってしまった彼にそう言ったことも思い出した。




4.救出



 赤井が黒田と情報共有を図りながら内密に捜査を続けた結果、参謀本部内で直接、または間接的に金の流出に手を貸した人物は14名を越えた。その中の一部に対し、黒田子飼いの工作員が接触し、揺さぶりをかける。

 すると枝葉を辿って幹に行き着くように、一人の人物が現れた。赤井が殺害した第11歩兵団長を中央から北方に異動させるよう圧力を掛けた人物、会計局の人事にも間接的に介入していた。裏帳簿に走り書きされた筆跡は現在鑑定に掛けている。

 主犯とみられている者は、参謀本部中央師団長である波垂 環(なみたる たまき)。軍そのものとも同視できるほどの権力を持つ、国家への軍部の裏切りを企てた首謀者だ。


 赤井は思案しながら帰路を歩く。そう、残るはキルブに資金を流す動機だ。

 よくあるのは「女」だ。愛人のために公金を横領するなどという事件は特に珍しいものでもない。だが今回は金額が金額であるし、流れ着く先が敵国の軍部であることから、犯人が国家転覆を目論んでいると考えたほうが自然だ。黒田の部下が波垂の出生から現在までの足取りを辿っているが、報告はまだ上がってこない。


「赤井中尉、電報が届いています」

 宿舎の玄関をくぐると、当番をしている若い兵士が小さな紙を手渡してきた。赤井は礼を言ってそれを受け取る。内容は早急にいつもの場所に来い、というものだ。捜査に進展があったのだろう。赤井は靴を脱ぐこともなく来た道を引き返す。

 電報の送り主は黒田の部下で、赤井とともに疑獄事件の捜査をしている士官だ。例の場所とは、黒田が他人名義で借りている民間ビルの一室。現在は事件の捜査本部として機能している。


「赤井さん、会計局の担当がこちらに寝返りましたよ。対象が金の流れを指示していた証拠も持っています」

 部屋に入るなり捜査官が興奮した様子で現れた。

「ありがちな話です。最初は法外な報酬を提示されて公金の横領に手を貸した。次はその横領を口外されたくなければ、と脅されて次々と金を引き出し続けた」

 視線で奥の小部屋を示され、赤井は薄く開いたドアから中を覗き込む。草臥れたような中年男が肩を落としている。

「……家内の父親が、財政担当の官僚なんです。自分のしていた事が公表されると義父の立場もなくなるし、何より家内に愛想尽かされて離婚なんてことに……」

 自分の犯した罪を直視することができずに、矮小化して考えるのは心理的な防御機制が掛かっているからか。男の前には広げられた風呂敷の上に置かれた分厚い紙の束。

「波垂がそこまでして北方に金を流していた理由はわかりますか?」

 相対する捜査官は、同情するように何度か頷いて、そうとわからないように核心に迫る。

「……あの人は。……あの男には大それた目的なんてありませんよ。ただ他人を自分の意のままに操りたい。貶めて嗤いたい。そのためなら国が傾いても気にならないと。そう、裏の参謀総長なんて呼ばれて喜ぶような…そんな人間だ」


「どうします?取り調べ、しますか?」

 小部屋を離れると、待機していた捜査官に暗に違法な聴取方法を提示されたが、赤井は首を横に振る。今聴取している捜査官は優秀で信用できる。ああいう手合はこちらが同情的に振る舞うことで仲間意識を持ち、口が軽くなるのだ。自分が出ていくと恐怖心で萎縮する。

「聴取は任せます」

「今夜中に全て吐かせて調書にまとめます。赤井さん。最後はあなたに任せていいんですね?」

「ええ。必ず制裁を受けさせますよ」

 黒田の部下は皆優秀で、正義感に満ちている。降谷によく似た彼らの崇高な精神は、赤井の目に好ましく映る。


「あ、赤井さん!局長からお電話が!」

 慌てた様子で事務室から出てきた職員が赤井の傍まできて彼を見上げる。

「『ヤツの執務室に急げ。アレの身が危ない』。何のことかわかりませんがそのまま伝えろと」

 赤井は目を見開いて黒田からの伝言を聞き、浅く息を吐くとそのままドアを開け放ち出て行った。


 何がどうなって降谷が事件の首謀者たる中央師団長の元にいるのかはわからないが、彼は昔からそういうのに好かれる性質だった。真っ直ぐに前を見て障害を易々と乗り越えていく姿を妬む者、その崇高な精神を折りたくなる権力者。元々の見た目のよさ、人当たりのよさも相まって、とかく身の危険に晒される。


 階段を駆け降りて街に飛び出す。ドクドクと波打つ心臓の音が煩い。

 ……どうして手を離そうと思ったのだろう。なぜ諦められると思ったのだろう。赤井は走りながら考える。クソみたいな男に、彼がいいようにさせられるかもしれないと考えるだけでこんなにも不安で、感情が分離していく。汗をかいているのに指先が冷えて、発狂してしまいそうだ。

 娼婦を振り切り、酔漢を押し退ける。懐にあるリボルバーの存在を思い出し、落ち着くための呼吸をする。


 将官用の執務室が並ぶフロアは静まりかえっていた。荒い息を繰り返し、目的のドアを蹴り開ける。目に入ったのは執務机の奥でひざまづき、立ったままの男のベルトを外そうとする彼の頭だった。懐からリボルバーを取り出し、男の眉間に照準を合わせる。

「あ、あかい?」

「貴様!誰の許可を得てここに!」

 大きく見開かれた青灰の目が赤井を見上げる。視線を感じたことで照準をずらし、男の頬を掠める位置に撃つ。銃弾は木製の壁にめり込んだ。

 男が降谷に対して、この男を拘束しろ!だの、俺が始末してやる!などと豪語している。降谷は立ち上がって、強ばった表情で赤井の目を見た。

「おいジジイ、まずよく回るその口を塞いでやろうか」

 怒りで目の前が赤くなる。赤井は大股で執務机を回り込み、降谷を庇うように右手を伸ばすと、左手に持ったリボルバーのマズルを男の口の中に強引に差し込んだ。唇が切れ、歯が折れる音が聞こえる。男は体全体が恐怖に震え、失神寸前と言った体だ。

「赤井、止めろ」

 事態を把握した降谷が毅然と赤井に命令する。

「零に何をさせようとした?」

「赤井!」

「上官殺しは初めてじゃないんだ」

 左手に力を入れて、喉の奥まで銃を突っ込む。波垂は酸素不足なのか、顔色がおかしくなっていく。

「駄目だ赤井!銃を離せ!」

 降谷は赤井の腕を掴んで身体を引き、彼の正面に回り込むようにして抱きついて止めようとする。

「駄目だ!撃つな!」

 だめ、だめだ、あかい。赤井の耳元で切なる声が響く。赤井は左手を引き上げ、リボルバーのグリップで男の首を打った。気絶した男は血と涎と、自らの排泄物にまみれて倒れている。

「間に合った、と喜ぶべきなのか?」

 見守ろうとした対象を穢されずに済んだ。と?

 なぜ自分の命よりも遥かに大切なものを、今まで手放したまま平気でいられたのだろう。なぜこの手は穢れ、彼を黒く染めるばかりだと怖れていたのだろう。彼は確固たる信念を持ち、いつ何時でも、俺が手で触れても鮮やかなその色は変わらないはずだ。今さらそんなことに気付く。

 彼の身体を力の限り抱き締める。どうか、君と共に歩きたい。



 

5.終結



 赤井は帝都での捜査を終えた後、すぐに北方前線へと戻っていった。あれだけ大流行していた薬物はピタリと流通が止まり、同じタイミングで薬物中毒者の療養計画が施行された。キルブの軍部に流入していた資金の流れが止んだことにより次第に戦況が変化し、今は講和条約の締結に向けて参謀本部では忙しくしているだろう。

 戦争が終わるらしい。敵の砲撃に怯える必要がなくなったキャンプでは、帰ったら好いた女に結婚を申し込むだとか、子供が生まれてすぐに出征したから、再会した息子に人見知りされるかもしれない、などという平和な話題であふれている。

 賑やかに語り合う同僚の輪から外れ、赤井は懐に忍ばせてある手紙を開く。何度も開くものだから、高級な洋紙なのに随分くたびれている。

 あの子らしい、皮肉に満ちた手紙の内容を、彼は今さら読まなくても一言一句覚えている。ブルーブラックで書かれた文字の色も、美しいのにどこか癖のある文字の形も。でも一日に一度、この手紙を読んで、会える日を心待ちにするのだ。

 必ず、君の元に帰るよ。










  

 10年以上前のことだから、あなたはきっと忘れているでしょう。

 学生時代、あなたが寝物語にシュメール神話を話してくれたことがありました。イシュタルの冥界下りの話をした後に、あなたがぽつりとこぼした言葉を、僕は今でも覚えています。

「イシュタルは冥界の門番となったドゥムジを見捨て、ただ天界の女王として君臨していればよかった」


 あの時の僕はまだ子供で、あなたの言うことに諾々としていたけれど、今ならわかる。イシュタルはきっと様々な犠牲を払ってでも自分の夫を助けたかったし、それに冥界だって見てみたかった。暗黒の家とはどんなものなのか、冥界の住人が食べる埃や粘土の食事とはどんなものだろうって。


 あなたに言いたいことはたくさんあります。聞きたいことはもっとたくさん。だから必ず、僕の元に帰ってきて。



北方師団遊撃部隊副隊長  赤井秀一様

                                                       零



追伸

僕はメソポタミアの野蛮な女神ではありません。当然のことですがもし誤解していらっしゃるなら今すぐ改めてください。