何もかもが終わって、自分を偽る必要がなくなった降谷は、まず最初に庁舎の備品室に隠しておいた段ボール箱を自宅へ持ち帰った。

  身の危険を感じることなく、趣味に時間を割くことのできる日常を噛み締め、そろりと箱を開く。

  中にはブルーレイディスク、映画のパンフレット、雑誌のスクラップファイル、ロゴ入りTシャツ、ウイスキーグラス、テディベア。……映画『緋色の捜査官』グッズの数々だ。

  公開当時、降谷はトリプルフェイスとして正に眠る暇もないほど忙しくて、それでもなんとか時間を作り、ミッドナイト上映で二回観ることができた(できればあと二十回は観たかった)。数量限定のグッズが出た日は丁度ベルモットと共同して仕事に当たっていたときで、相当な無茶をして無理矢理仕事を終わらせ、無事購入することができた。

  ブルーレイはトラブルなく初回限定盤を手にすることができたが、やはり視聴する時間を捻出することが難しいくらい忙しくて、しかも家にはいつ、誰が入り込むかわからない、爆発物でも仕掛けられたら取り返しがつかないなどという理由で、大切なものは風見に託すか、庁舎に置いていたのだ。

  今までよく我慢することができたな、僕。

  そう、降谷は緋色の捜査官のオタ……もとい、ファンなのだ。



  「うぅ、格好いい……」

  彼は今日もリビングでブルーレイを再生し、グッズのテディベアを抱えて唸っている。ちなみにこのテディベア(例の数量限定グッズだ)は、映画の主人公と同じ緑の目をしていて、黒の革ジャケットを着ている。熊なのにハードボイルドを気取っているところがキュートだとファンの中でも特に人気のグッズだ。

  しかも、緑の目、『赤い』毛、革ジャン、ニット帽。あいつを熊のぬいぐるみにしたらそうなるな、というくらい赤井そのものだ。

  脚本の工藤優作氏が雑誌のインタビューで言っていた『モデルとなったFBI捜査官』が赤井であることは、公開当時からなんとなくそうではないかと思っていたが、赤井が工藤氏と家族ぐるみの付き合いをしていたのは予想外だった。あの工藤邸での沖矢との対決も、彼らの協力がなければ君の勝ちだったと赤井から言われて、少しだけ(本当にほんの僅かだが)慰められた気になったものだ。

  話を映画に戻そう。降谷は今夜の視聴(10数回目だ)においても、アクションシーンで手に汗握り、ラブシーンで頬を染め、敵との対決シーンは息をするのも忘れそうなほどの緊張と興奮を体験する。見終わった後は、いつもほどよい疲れと形容し難いカタルシスを感じて、充足感に満たされるのだ。

  (それに、)

  脚本だけでなく、監督も主演俳優も赤井秀一を意識しているんじゃないかと思うほど、派手なアクションも、少し気障な言い回しも、ウイスキーグラスに触れる仕草だって、どこか赤井っぽくていちいち胸が高鳴るのだ。はっきり言ってしまうと、赤井がモデルの映画だから好きになったし、その俳優だって赤井に似ているからファンになったのだ。

  (赤井もあんな風に女性とキスするのかな)

  降谷は先程観たキスシーンを思い出す。顔中に降ってくるキス。目を合わせて、唇が触れる。何度も舌を絡ませる。身体のラインを確認するように撫でられて、興奮がこっちまで伝わってくる愛撫だった。

「んんっ、あか……ぃ」

  降谷はぬいぐるみを抱き締めたまま、スウェットの中に手を入れる。映画のシーンを思い浮かべて、自分の身体をまさぐる。

(赤井に触ってほしい、あんな、求めるようなキスをしてほしい)

  いつの間にか、彼の想像するキスシーンは赤井と降谷のそれになっていて、降谷の手付きも直接性感を高めるものへと変わっていく。

「あ、あっ……んぅ…あかい、あかい……しゅ……ぃち」

  あのきれいな色の目で僕を見てほしい、あの少し薄い唇で僕に触ってほしい、あの大きな手で僕の……

「………」

  手のひらを汚した白いものを見て我に返った。慌ててぬいぐるみをソファに置き、ティッシュを取りに立ち上がる。

「何やってんだ、僕」

   手を洗って、念のためぬいぐるみに汚れが付いていないか確認する。そのままそれを抱き込み、寝室へと移動する。こんな邪な想いを寄せられる赤井にも、赤井の代償にされる俳優にも申し訳ないような気になる。

  それでも、叶わない想いだから、せめてあなたがモデルの映画を観て、あなたに似たぬいぐるみを抱いて寝るくらいは許してほしい。

  降谷は小さなニット帽にキスを落として、ベッドにもぐり込んだ。





  翌日、庁舎の正面玄関を出ると、タイミングよく公用車が滑り込んで来た。降谷は助手席のドアに手を掛けようとして、背後に立った気配に気付いた。背中に体温を感じる程近くに寄るまで気配を感じなかったことに一瞬狼狽えたが、鍛えられた瞬発力で鞄を落とし、振り向きざまボディーブローを決める……はずが、相手の左手に阻まれて、さらに手首を掴まれた。

  「赤井?」

  暴漢は赤井だった。彼は無表情で後部座席のドアを開けると、降谷と足元に落ちた鞄とを座席に押し込み、あろうことか自身まで乗り込んできた。

 「出してくれ」

「……いやいや、何でお前が指示してるんだ!」

  体勢を整えた降谷がミラー越しに運転席の様子を確認すると、風見は闖入者を見て心底迷惑そうな表情をしていて、思わず吹き出しそうになる。

「風見」

「はい」

  降谷が名を呼べば、特に指示を出すこともなく、車はスムースに走り出す。

  彼は鞄を膝の上に置き、ちらりと左側に視線を向ける。相変わらず冗談みたいな脚の長さだ。

「僕今から事前レクのため国会なんです。内密な話があるなら十八時以降であれば時間を取りますから」

「いや、内密ではあるが話と言うほどのことはない。早急に君に言っておきたいことがあってな」

  黒づくめの男は、態度は大きいが、それに対してどういうわけか情けないような、困ったような表情をしていた。風見はミラー越しにその顔を確認したが、降谷は赤井の膝あたりに視線を向けていたため、男の珍しいその表情を見ることはできなかった。

「降谷くん、君はあの男のファンなんだろう?緋色の捜査官の主演をやった…」

「は?何でそれを知ってるんだっ!」

 口に出してコンマ一秒、降谷は激しい後悔に襲われた。そこはシラを切るところだろうバカ!脳内で自分に悪態をつく。毎度毎度赤井が関わると失敗ばかりで何一つ冷静でいられない。しかも僕が好きなのはその俳優じゃなくて!

「君は知らなかっただろうが、奴が演じたFBI捜査官は実は俺がモデルになっている。あの男は所詮俳優だ。筋肉だって俺の方が実戦向きのものを持っているし、射撃の腕は言わずもがな。頭のキレだって君には及ばないがあの男よりはいいはずだ。俳優なんて映像の中でしか事件は起きないが、俺なら現役捜査官だからな、現場のナマの謎を提供することだってできる」

 降谷は話の着地点が見えず困惑する。いや、赤井がモデルであることは知っているし、捜査上の秘密を外部に漏らしたらお前クビになるぞ。

 で、だから何だ?

「それに何より、あの男は君のことを知らないが、俺は君の性格も、食べ物の好みも、謎とスリルがないと死んでしまう種類の人間だということも知っているし、しかも俺ならコール一本で君の元に駆けつける。どうだ?」

 どうだ?とは?映画俳優と赤井を比較して赤井の方が優秀なのはそうだろう。僕もそう思う。だから何なんだ。

「すみません、何かの例えですか?もう少し明瞭に、話の目的をはっきりさせてから……」

「君にはあの男のファンは辞めてもらって、代わりに俺のことを見てほしい」

 気配を殺していた風見が突然「ぐほぇ」と奇声を上げた。噎せて咳き込んでいる。

「はあ、いや、言われなくても僕はあなたのことばかり見………」

 降谷は墓穴をボーリングマシンで掘削している気がしてきた。もう何も喋りたくない。両手で顔を覆ってみてもなんの慰めにもならない。

 赤井は声を出さずに笑い、降谷の真っ赤になった左耳に触れた。

「ほぅ、今日は様子見のつもりだったんだが、素直に話してくれて助かるよ。君とは通じ合っていると常々思っていたが、こんなに上手く事が運ぶとは。火急の話はそれだけだ。じゃあ、今夜20時に、」

 降谷の耳元で東京でも有数のハイクラスホテルの名を告げ、赤井は信号で停車した車から颯爽と出て行った。

「何だったんだアレ……」

 今の出来事は全てお前に都合のいい夢だったと言われた方が納得してしまうほど現実感に欠けたものだった。まるで赤井が映画俳優に嫉妬しているような口振り。いや、冷静に考えろ。そもそも比較対象がおかしくないか?俳優やタレントに対する好きと、近しい人間に対する好きは違うだろう。もしずっと自分の方を向いていてほしいからって、俳優のファンを辞めてくれだなんて、狭量にも程があるし、整合性もない。やはりさっきの赤井は自分の妄想だったのではないか……

 降谷が混乱する頭で益体もないことを考え込んでいるうちに、車は駐車場に入り、停車した。頭を仕事に切り替えねばならないのに、あの男の煙草の匂いが身体の左側にくすぶっているようで、とても落ち着かない。

「いや、だからさっきのは僕の妄想だって」

 降谷の独り言を聞いてしまった風見は、少し遠い目をして、たしかにアレは降谷さんが恐い男というだけのことはあるな、と実感した。こんなにわかりやすくポンコツになった上司は見たことがなかったので。



 その日の20時、まさかな、と思い訪れたホテルのレストランで創作フレンチを堪能した後、降谷はそもそも想像不可能なアレやコレを体験することになるのだが、それはまた別のお話。