畝傍駅ものがたり
研究、調査目的の限定ページのため、公表・転用は固く禁止します
畝傍駅の始まり
1893年(明治26年)5月23日
大和高田から桜井の間に初代大阪鉄道が開通。
それに合わせて畝傍停車場が開業。
当初は今井町付近に設置予定であったが、
風紀上の問題等から現在の位置に設置された。
明治時代(1890年代)の初代駅舎
明治から大正へ
右奥のプラットフォームあたりに大正時代になり、
跨線橋が設置されている。(小房線の設置のためか)
2代目駅舎(初期)
大正時代 の駅舎(1915年頃から1927年頃)
駅前広場に人力車が揃っている。
人力車は明治から、当時の主流な乗り物であった。
プラットフォームが立派になり上屋が設置された。
図面上、入口(車寄庇)左側は1、2等待合室となっていた。
大正時代の2代目駅舎(増築前)
1915年(大正4年)頃の畝傍駅全景
1915年(大正4年)大正天皇 行幸の様子
1915年(大正4年)大正天皇 行幸パレードの様子
1924年(大正7年)神武天皇陵参拝のため
畝傍駅に到着した
東宮、同妃(のちの昭和天皇、皇后)の様子。
右にお召し列車。
追加:1924年(大正7年)当時の畝傍駅とその周辺の動画が公開されました!!!
超超貴重 2代目駅舎(その1)
25:10あたりから初期の2代目駅舎が確認できます。
国立映画アーカイブが所蔵する文化・記録映画など映画作品を配信するWEBサイト「フィルムは記録する ―国立映画アーカイブ歴史映像ポータル―」https://filmisadocument.jp(制作:国立映画アーカイブ、国立情報学研究所)の公開作品です。
超超貴重 2代目駅舎(その2)
6:09あたりから初期の2代目駅舎が確認できます。
国立映画アーカイブが所蔵する文化・記録映画など映画作品を配信するWEBサイト「フィルムは記録する ―国立映画アーカイブ歴史映像ポータル―」https://filmisadocument.jp(制作:国立映画アーカイブ、国立情報学研究所)の公開作品です。
2代目駅舎、大礼の儀。
昭和3年(1928年)
昭和初期(1928年から1938年頃まで)。
昭和天皇が即位。「大礼の儀」(1928年)に合わせ
神武天皇陵へのご報告のため、再び畝傍駅を利用された。
施設整備と移動警備計画は大規模かつ綿密に行われた。
建物右奥は特別待合室とした可能性があるが記載は「予備室」。
図面で増築前に記載があった1、2等休憩室は、
増築後の図面には抹消されている。
昭和初期(1928年頃)の2代目駅舎(増築後)
2代目駅舎(増築前の図面)
左に1、2等待合室の記載がある
2代目駅舎(増築後の図面)
1、2等待合室の記載が消え、右に予備室が増築され、
予備室の天井だけは格式高い格天井となっている
大礼時の畝傍駅 列車配置(京都から到着時)
大礼時の畝傍駅舎(拡大)
上記全体がわかる配置図では、今は廃線となった「小房線」のホームと跨線橋が繋がっていたことが分かる。
大礼前の試験運行中のお召し列車
大礼時 京都駅に到着したお召し列車
2代目(増築後の)畝傍駅舎
大礼時 畝傍駅構内
大礼時 儀装車輸送用プラットフォーム
儀装車と畝傍駅前の様子
洋風2代目駅舎から和風3代目駅舎に。
なぜ?どうして?どうやって建てた? 謎が多い3代目駅舎…。
1940年は日中戦争に突き進む時代。国民を一つにするため、国家事業「紀元2600年記念式典」は507日間、7197団体、121万人が動員されたという(藤田宗光 編:橿原神宮と建国奉仕隊より)。
現在の近鉄橿原神宮前駅と畝傍御陵前駅の記録は詳細に残るが、畝傍駅についての資料はなぜかほとんどない。また、1940年の3代目駅舎の工事期間は記録ではわずか3ヶ月。駅として利用しながら、2代目駅舎を解体して建て替えるには、短すぎる期間なのだ。
物資不足という時代背景と、最重要人物である天皇の移動を支える、威信をかけた国家プロジェクト、の一つであるはず。
記録がほとんどないこの改築計画は、意外な事実が隠されているのかもしれない…。 左の写真や現地にそのヒントがあると考えられる。
歴史的価値を考える上で、時代背景なども踏まえて推理してみては?
解説編(スタッフの推理) あくまでスタッフの考えです。ご自身で考えたい方は飛ばしてください。
1)2代目洋風駅舎から3代目和風駅舎へ
建築様式の2代目と3代目の違いは以前から指摘されているが、なぜそうなったかは言及されていない。
大正天皇(西洋風の豪華な装飾)と昭和天皇(日本回帰のシンプルな様式美)の好みの違いがあったかも。
お召し列車の内装の変遷にも注目したい。駅舎も天皇の好みか、もしくは宮内庁の意図するところであったか?
2)戦争という時代背景
この頃から様々な物資が不足してきており、軍事利用のため市民に物資提供を呼びかけるようになっている。
特に鉄は大いに不足していたため、建物なども極力鉄を使わない施工仕様となっている。
一方で台湾を統治下に置いていることから台湾ヒノキを含む木材は鉄に比べ入手はまだ可能であったと思われる。
一例として、橿原神宮前駅は1940年に建築されているが木造建築である。中央改札口の大きな空間が木造の
トラスで構成されているのは驚きであるが、今もほとんど当時のまま利用されている。
台湾ヒノキは貴賓室の内装に使用されている他、先日建替えられた橿原神宮大鳥居も同時に台湾ヒノキが使われた。
国家事業である紀元2600年の費用の大半は宮内庁も含め、橿原神宮、神武天皇陵、大阪軌道鉄道(神宮前駅等)の
整備費用に割り当てられており、一連の記載には畝傍駅改修の内容は確認できない。
3)現在の畝傍駅で確認できる当時の面影(内装)
現在残っている紀元祭の舞台となった建物の内外装と比較しても畝傍駅は特に貴賓室廻りに力を入れたと見える。
貴賓室廻りは、台湾ヒノキや ベニヤ板、壁クロスといった当時の最新内装に改修。
衛生設備(温水、水洗洋式便所)も当時国会議事堂や帝国ホテルに使用されたものと同等の最新設備であった。
4)床段差は何のために?
当時の施工者の苦労が見て取れるのが、貴賓室床を木材1本分(段差1段分)上げている事。
プラットホームから駅舎に降りるため、皇室が利用した階段は、大正時代、昭和初期は3本ある階段の内、
中央の階段を利用したと思われるが、紀元祭に合わせ改築した3代目駅舎は西側の階段を利用している。
(その前まではこの階段は駅務利用と思われる)
階段を下り切ると、他に比べ1段高い状態で貴賓室に入っていることが分かる。(今は安全のため、削られている)
駅務室内を見ると、明らかに貴賓室の床を他に比べ1段上げるため対応を行なっている。
ヒント写真の最下段真ん中と右下を参照。
床やプラットホームの上家などその多くは少なくとも2代増築前のままの部分が多い。
5)以前の現地調査で、屋根裏にある小屋組に利用されている木材に他と異なる木材が含まれていることが分かった。
小屋裏内では明らかに再利用している部材が確認できる。平面プランの柱間隔やレイアウトがほぼ2代目増築後と同じ。
2代目増築後の写真を見て欲しい。駅舎正面左上屋根部分に煙突が見える。これは、最近の2代目増築前の
駅舎でも確認できる。しかし、現在、3代目の待合室の格天井にその跡が確認できるが、瓦屋根からは確認できない。
つまり、待合室内装は大きく変えていない可能性が高い。
以上を総合的に考えると、3代目の現駅舎は、新築ではなく、2代目を減築し、一部(もしくは大半を)再利用した。
物資が少ない当時の出来うる最高の技術と可能な限りの材料を使い、最大限敬意を持って改築した結果、と思われる。
当時は再利用した事実は明らかにしたくなかったかも知れない。だが、当時の時代背景を物語るこれら痕跡は、
改築以降、奇跡的に今も残っている。
戦争を知らないモノが豊かな世代に、苦労して先人が引き継いで残した駅舎。そして後世に伝えるべき資産であると考える。
3代目駅舎への改築
2代目駅舎の部分改築(増築)の10年後、
神武天皇の即位2600年を祝う「紀元2600年祭」が
全国で行われることとなり、神武天皇陵と橿原神宮の
最寄駅である畝傍駅に当時最新の設備整備を備え、
天皇陛下をお迎えするため貴賓室が整備された。
1940年6月11日御親拝。
昭和15年(1940年)4月頃祭典前の3代目駅舎
駅舎周辺は空襲被害を受けた
1945年(昭和20年)第二次世界大戦
アメリカ軍のB29爆撃機が襲来。
駅付近も空襲と機銃掃射を受けた。
近くの柳本飛行場は攻撃目標となっていたが、
攻撃は飛行場だけではなく、鉄道線路や駅舎、
学校の校舎、民家にも被害が及んだという。
駅近くの晩成小学校と周辺が被害を受けた。
駅舎が戦火で喪失する可能性もあったが、
畝傍駅の駅舎は今も当時の姿を残している。
晩成小学校の
理科教室柱時計下の銃痕
晩成小学校近くの
破損した井戸側
戦後の畝傍駅舎
1952年(昭和27年)5月12日。
昭和天皇が人間天皇として 新日本誕生と講和条約
締結奉告のため神武天皇陵を参拝。
天皇が重要行事として神武天皇陵参拝の時は
畝傍駅が必ず利用された。
昭和27年の畝傍駅
昭和27年 新日本誕生と講和条約締結奉告のため
神武天皇陵へ参拝後 お召し列車に戻る昭和天皇
昭和40年代の畝傍駅
そして、いま現在 … 。
明治26年(1893年)に開業した畝傍駅。
大正、昭和の大礼の儀のため歴代の天皇を
お迎えした駅舎は幾度かの増改築を経て、
貴賓室をはじめとする駅の随所に、
昭和初期の面影を残しつつ、今も橿原市中心に
ひっそりと存在している。
その「価値」と「存在」
今も不定期に一般公開でその姿を確認できる貴賓室をはじめ、
駅舎やホーム、駅周辺を見ると、明治から大正、昭和、平成を経て
令和に存在する駅変遷の痕跡を確認することができる。
その存在は皇室の方々が利用したという貴重な事実だけではなく、
近隣住民や利用者が親しみを持って、長く大切にされている存在なのだ。
貴賓室はタイムカプセル
1940年の増改築当時の姿を残す貴賓室は
台湾ヒノキを使用しており、格調高い折上格天井と、
当時最先端のベニア合板、壁クロスを使用しており、
テキスタイル、絨毯、カーテンは当時のものが残る。
日中戦争の最中、物資が少ない時代にシンプルな中にも
気品ある空間を創出している。
衛生器具は改築当時
最先端かつ高級品でとても貴重
洋式水洗便所も当時最先端。
温水が使用できる洗面台も当時は病院、散髪屋以外
は使用できない高級な仕様であった。
同じ仕様は国の重要施設や高級ホテルにしかない。
それが当時のまま、今も使用可能な状態で残る。
照明器具は別の場所に保管中
貴賓室のシャンデリア、外壁の照明器具は
京都鉄道博物館に保存されている。
1940年改築時の照明機器類
他にも貴重なものが
あちらこちらに残っている
貴賓室以外にもレトロで貴重な痕跡やものが駅の
あちらこちらに残っている。
他でもない、この場所にこれらが残っていること。
歴史の積み重なりを感じられる集合体。畝傍駅。
このページを知った、限られた方へ
畝傍駅は上記のように明治から現在まで、多くの人に親しまれて存在し続けています。
我々「進める会」のメンバーが、ボランティアとして集まり、
駅の存在を高めるためにどうすべきかを、さまざまな角度から資料を集め、総合的に調査、研究してます。
その中には著作権の問題などについて、明確にクリアしていない曖昧な部分が残る資料も含まれています。
このページは、本来、関係者に周知するための限定的な内容です。
よって、冒頭にあるように、研究、調査目的としているため、
このページの公表、内容の転用は禁止しますので、ご理解の程よろしくお願いいたします。