家に帰ってから、俺は改めてみやびに詳しく話を聞く。
俺たちは食卓の定位置に座って向かい合わせになる。今テーブルの上にあるのは、おいしそうな食事ではなく、非常に重苦しい空気だった。
「……それで、電話で母さんに何を言われたの?」
「お母さんとお父さんって今、世界一周旅行に出かけているでしょ?」
「そうらしいね」
以前から旅行していた父さんと母さんは、四月頃に一度ふらっと家に帰ってきたのだが、家に滞在していたのはほんの一瞬で、すぐに世界一周旅行に出かけてしまったらしい。
……らしい、と言うのは、俺が事故に遭って意識を失っている間に両親が帰ってきて出かけてしまい、直接見送ることができなかったからだ。リハビリ中にみやびから話を聞き、その時初めて両親が出発したことを知ったのだ。
こういうことは、今回に限った話ではない。両親は旅行好きである上に、出先で仕事を行う職業に就いているため、普段からいろんなところに出かけている。新聞や雑誌で懸賞の商品が旅行だと、必ず応募してしまうほどの旅行好きなのだ。
それに加えて、二人は強運の神でもその身に宿しているのか、応募した懸賞は必ずといっていいほど当たるのだ。たぶん、九割くらいの確率で当たっているんじゃないだろうか。恐ろしいほどの運のよさだ。過去何度も、旅行から帰ってきてその直後にまた旅行に行く、なんてことがあった。
これを友人に話すと、親が長期間家を空けていて寂しくないのか、つらくないのか、とよく言われる。最初は俺も寂しさを感じたが、今ではもう慣れてしまい、むしろ両親が家にいないことが日常になっていた。
それに、俺は家事スキルを小さい頃に親に仕込まれたおかげで日常生活に特に不便は感じていない。むしろ、この環境に置かれることで家事スキルがどんどん鍛えられている。
「それで、毎月一日に生活費を振り込んでもらっているでしょ?」
「そうだね。今月はまだだけど……」
だが、俺たちは所詮子供である。自力で生きていくための金を稼ぎ、管理する能力を持ち合わせていない、弱い立場だ。そのため、暮らしていくための金は、両親が旅行に出かけている間は、必ず生活用の銀行口座に振り込んでもらうことにしている。
いつもは毎月一日に振り込まれる。だが、もう月が変わって数日経つが、七月の分はまだ振り込まれていなかった。
たまに、一日から前後数日間ズレることがあるので、俺はそのパターンだろうと思ってさほど深刻に捉えていなかった。だが、それは大きな間違いだったようだ。
「……お母さんたちは、旅行先から振り込む予定だったらしいんだけど、トラブルで振り込めなくなっちゃったんだって」
みやびが深刻そうな顔をして俯く。
だが、生活がすぐに苦しくなると決まったわけじゃない。
振り込まれた金の管理をしているのは俺だ。俺は口座の残高を思い出しつつ、みやびに質問した。
「……いつになったら振り込めそうだって?」
「それがね……今月末くらいまで無理そうなんだって」
「……嘘だろ」
冗談だよ、と言ってほしくて、俺は思わずみやびの顔を凝視する。
しかし、みやびの口は『冗談だよ』とは動いてくれない。認めたくはないが、本当のことなのだ。
俺は背もたれに寄りかかり、天井を仰いだ。
一ヶ月も生活費が振り込まれないとなると、大問題だ。今までの生活が根本から崩壊する。
前月の残りや俺たちが貯めている小遣いなどを全部合わせて切り崩しても、このままじゃおそらく数日も持たないだろう。めっちゃ切り詰めても一ヶ月いけるかどうか……。
一番の問題は食費だ。俺は二週間分の充電を二回行えばなんとか活動できるだろうが、みやびはそうもいかない。育ち盛りの今だからこそ、食を充実させることが一番大事なのだが……こうなったら栄養度外視で、毎日もやし生活をしてもらうしかないのか⁉︎
ちなみに、みやびは研究所に入り浸っているのだが、一応給料というか、お金は貰っている、らしい。ただし、まだ義務教育の途中なので、そのお金は親の管理下にある。このお金を使えば、一ヶ月どころか一年、十年くらい何もしなくても生活できそうだが、現在手元にないものはどうやっても使えない。
「どうすりゃいいんだ……」
「一つだけ……方法があるよ」
みやびがおもむろに切り出した。そんな方法があるのなら、もったいぶらずに早く言ってくれ!
「それは……?」
「それは……」
みやびは一呼吸空けると、ポツリと言った。
「お兄ちゃんが、バイトをする」
「バイト⁉︎」
「そう、バイト」
盲点だった。お金が入らない? それならば、稼いでしまえばいい。ごく当たり前の発想だ。今までなぜ思いつかなかったのだろう?
「確か、お兄ちゃんの高校って、バイトは禁止されていないよね?」
「……ちょっと調べてみる」
俺はいったん自室に戻ると、バッグの底を漁る。たぶん、俺の記憶が正しければ、この中に入れっぱなしのまま放置されているはずだ。すると、記憶どおりにバッグの底の方から生徒手帳が見つかった。教科書やノートに押し潰されて、真ん中のページが折れ曲がっているが、読めなくはない。
俺は階下に戻ると、席に着いて該当ページを開く。
「えーっと……学校に申請して許可証を貰えばバイトができるっぽい」
「はぁ……よかった。これで禁止だったら、私たち詰んでいたところだったよ……」
俺が働けないからといって、みやびに働いてもらうわけにもいかない。一応、みやびは義務教育の真っ最中なのだ。バイトなんて許可されるはずがない。そもそも中学生OKのバイトなんて聞いたことがない。
それにしても、俺の高校ってバイトOKだったんだな。これまでの学校生活の中で『バイト』という単語は全然耳に入ってこなかったから、てっきり禁止されているのだと思っていた。バイトをしている人は少数なのかもしれない。もしくは、そういうことを話題にするのはタブーなのかもしれない。
まあ、たとえ校則でバイトが禁止になっていても、『生活上の危機』であることを、先生に相談すればなんとかなる気がするけどね。
「ともかく、俺がバイトをすればいいんだよね」
「うん。一ヶ月くらい、私たちが暮らせるくらいの給料が貰えるところくらいで。あと、なるべく早く、振り込んでくれるところね」
「もちろん」
「あ、あとバイトをするときは、SNSで炎上するような行動をしたり、労基法違反のところで働いたりはしないでね!」
「わかってるよ」
口ではそう言いつつも、バイトなんて人生で初めての経験だ。バイトの面接の作法はおろか、そもそもどうやってバイトを見つけてくるのか、そこからまったくわからなかった。
「でもなぁ……どうやってバイトを見つければいいんだろう?」
「ネットで探してみれば? 今なら求人サイトにもいろいろあるでしょ?」
「そうだけどさ……不安なんだよ。信用していいものなのかわからないし」
「じゃあ、信頼できる友達に紹介してもらうっていうのは? バイト経験のある人なら、いろいろ教えてもらえるかもよ?」
「そうだね……そうしてみるよ」
俺は早速、明日学校で聞き込みをすることにした。
※
翌日。期末テストが終わって、あとは夏休みを迎えるだけだからか、休み時間の教室にはのんびりとした空気が流れていた。
朝から聞き耳を澄ませてみて、わかったことが一つある。
なんと、教室のそこかしこからバイトに関する話題が聞こえるのだ。
たぶん、話している人たちは、夏休みという長期休暇を利用してバイトをするつもりなのだろう。来年度には大学受験が待っているので、今回が実質、高校生最後の自由な夏休みだ。高校生のうちに社会経験をするならば、今回が最後のチャンスになるだろう。
こうして、教室内の音を拾っていると、俺のよく知っている声で、バイトについて話しているのが聞こえた。しかも、話の内容からして、どうやらその人自身はバイトを現在進行形でしているようだ。
俺は、話が済んでその人物が一人になったタイミングを見計らって、席を立って話しかける。
「飯山」
「あ、ほまれちゃん。どうしたの?」
俺が話しかけたのは、飯山。今までバイトをしているなんて話は聞いたことがなかったし、バイトとは縁のなさそうな人物だと勝手に思い込んでいたので、その話をしているとわかった時はちょっと意外だった。
「あのさ……実は俺、ちょっと夏休みにバイトをしようと思っててさ」
「そうなの⁉︎ 意外だね〜」
「まあ、ちょっと家庭の事情でどうしても夏休みに働かなくちゃいけなくなってね」
そうしないと我が家が夏休みに極貧生活に陥ってしまうのだ! それはなんとしてでも回避せねば。
「それでさ、どっかいい感じのところ、知ってない?」
バイトをしている人なら、バイトについて詳しいはずだ。ツテやコネを持っている可能性が高いし、ひょっとしたら同じ職場で働かせてもらえるかもしれない。もしそうなったらとても気が楽だ。そんな打算を持って、俺は飯山に尋ねていた。
すると、飯山は即答する。
「うん。あるよ」
「マジで⁉︎」
「あ、その前に、ほまれちゃん、接客は大丈夫だよね?」
「うん。それなりにできると思うよ」
わざわざそれを聞いてくるということは、接客業なのだろうか。もしそうでなかったとしても、生活のためだ。接客でも掃除でも皿洗いでもなんでもやるぞ!
「まあ、ほまれちゃんなら大丈夫そうだね〜。実は、わたしが働いているところで、夏休みだけの短期バイトを一人募集しているんだけど、どうかな?」
「もちろん大丈夫だよ! ありがたい!」
なんと飯山と同じ職場らしい。知らない場所に顔見知りがいるのといないのとでは大違いだ。非常にラッキーだ!
「それで、面接とかはあるんだよね?」
「一応あるけど……普通に受け答えできれば、ほまれちゃんなら落とされることはないと思うよ」
「そっか!」
「それじゃあ、今日店長さんに連絡してみるから、日程が決まったらまた伝えるね〜」
「ありがとう! マジで助かる!」
予想よりもはるかにスムーズに、トントン拍子で物事が進んだ。なるべく早くバイトを始めたい俺にとってはとても幸先がいい。
こうして、早くもバイト先が見つかりそうになるのだった。