「うわー、人いっぱいだねー」
「予想以上に混んでるね」
午前十時。近くの駅で待ち合わせをした私となぎさは、お兄ちゃんの高校の文化祭にやってきた。
一般客の入場が始まってから、まだ三十分しか経っていない。それなのに、構内はすでにかなりの人でごった返していた。
私たちは昇降口で持ってきたスリッパに履き替えると、文化祭のパンフレットを手に取った。
「みやびはさー、何か見たいものとかあるの?」
「うーん、お兄ちゃんのたこ焼き屋は行ってみたいけど……それはお昼の時間でいいかな。それ以外は特に何も決めてないよ。なぎさは?」
「うーん、あたしもおねーちゃんのところ以外は、特にないかなー。そこも後で回ればいいし」
なぎさも特に行きたいところはないみたいだ。私たちは人に流されるまま、ふらふらと校内を歩き回る。
「文化祭ってこういう感じなんだね……」
「あれ、みやびってこの高校の文化祭、初めて?」
「それもそうだけど……そもそも文化祭自体、体験するのが初めてかな」
「あ、そっか……」
なぎさはなんだか申し訳ないような顔をする。気にしなくていいよ、と私はフォローを入れた。実際、私は気にしていないんだし。
去年、つまりお兄ちゃんが高校一年生の時にも、当然ながらお兄ちゃんはこの文化祭に参加していた。だけど、その頃の私は不登校。ずっと家か研究所のどちらかにいたので、この文化祭には来ていない。
さらに言えば、小学生の頃は文化祭のような催しはなかったし、中学生の今は、学校で文化祭『みたいなもの』は存在していたけれど、不登校なので参加していない。
だから、このようなイベントに参加するのは、私にとっては初めてだった。
今までイベントを避けるような動きをとっていたけど、私は別にイベントが嫌いなわけじゃない。楽しいのかどうか知らないけど、今日ここでそれは感じることができるんじゃないか、と思っている。
ここで、ふと、どうしてなぎさは文化祭に行くのに私を誘ってくれたんだろう、という疑問が浮かんだ。
なぎさは友達が多い方だと思う。私以外にもたくさん友達がいて、たいていその人たちと一緒に過ごしているように感じる。
一方、私は友達の数は圧倒的に少ない。そもそも中学校に入ってからほとんど学校に来たことがないから、クラスメイトとまともに話したことがない。つい最近までクラスのSNSにも参加していなかったし、他の人からしたら『定期試験の時にしか来ない謎の人』だったと思う。学校でもまともに話すのはなぎさくらいしかいない。
なぎさが他の友達を誘わずに、私を誘ったのはどうしてなんだろう? そもそも、なぎさがこの文化祭に来た理由は?
「なぎさはさ」
「ん?」
「ここが第一志望なんだよね?」
「そうだよー」
「じゃあ、第一志望校の雰囲気を体感するために、今日来たってこと?」
「んー、まあ半分くらい……いや、三割くらいかな、はそうだよ」
「……残りは?」
「んー、受験勉強の息抜きが三割くらい」
「あとは?」
「あとは……みやびと一緒にどっか行きたかったから、かな」
「……」
「黙らないでよー、恥ずかしいなー」
なぎさはバンバンと私の背中を叩いてくる。
なぎさが私と一緒に出かけたい、という言葉を聞いて、私は意外さを感じていた。
てっきりお兄ちゃんがみなとさんと付き合っているから、とか、兄や姉が同じ学校に通っているよしみで、とかだと思っていたのに……そんな捻ったものじゃなくて、ストレートな理由だった。
そんなになぎさが私のことを気にかけてくれていることなんて思わなかったから、私はとても嬉しかった。だけど、それを真っ直ぐ表現できるほど、私の心は素直じゃなかった。
「逆にさー、みやびはどうしてあたしの誘いを受けてくれたの?」
「え、うーん、それは……別に断る理由なんてないし……」
「そっかそっか、よかったー」
なぎさは安心したように言った。
「……どうして?」
「あたしのことお節介な奴だ、って思ってるんじゃないかって」
「そんなこと思ってないよ。……そんなこと、思えるはずないじゃん」
こんなによくしてくれているのに、どうでもいいや、と無碍にできるほど、私の心は捻くれていない。
「……ごめん」
「謝らないでよ、なぎさ」
なぎさのせいじゃない。なぎさにそう思われている私が悪いんだ。学校なんて行く価値がないと断じて、人間関係を疎かにしてきたツケが回ってきただけ。
長い間ほとんど接してこなかったのに、それでも関係を持とうとしてくれるなぎさのような人には、感謝してもしきれないくらいだ。
なんだか雰囲気が暗くなってしまった。しばらく会話が途切れて、気まずい時間が流れる。
なんとか元の感じを取り戻したいと思っていると、私の耳にある言葉が届いた。
「計算コンテスト! 計算コンテストをやります! 計算力に自信がある方、ぜひ参加していきませんか!」
「あ、みやび、計算コンテストだって! 参加してみようよ!」
「え、あ、うん」
なぎさは私の手を取ると、声の方に引っ張っていく。
なぎさに連れられてやってきたのは、珠算部の出展だった。どうやら一日に数回計算コンテストをやっているらしく、部屋の中には算盤と筆記用具が置かれている机が並んでいる。すでに、何人かが着席していた。
私たちが珠算部のドアの前に立っていると、中から男の人が出てきた。珠算部の人だろうか、胸のネームプレートには『野山』と書かれている。
「もしや、君らは計算コンテストの参加希望者かな?」
「はーい、そうです!」
「そうか。では案内しよう」
私たちは隣どうしの席に座る。
「……なぎさって、計算得意なの?」
「そーだよ! 昔、そろばん習ってたんだー。だから暗算は得意だよー」
「そうなんだ」
私も計算は得意な方だけど……そろばんを習っていた人には負けるかもしれない……。
「みやびはどう? といっても、みやびは余裕かなー」
「んーどうだろう。まあ、頑張るよ」
周りを見渡すと、席は着々と埋まりつつある。座っている人は皆賢そうな顔つきをしていた。
でも、考えてみれば当たり前の話だ。だって、この高校はこの街で一二を争う進学校。当然、文化祭にはこの高校に行きたい人もやってくるはず。ここを目指すくらいなのだから、上位の学力を持つ人が集まるだろう。
しかも、計算コンテストの参加は任意。つまり、この空間には計算に多少なりとも自信がある人が集まっている。
そう考えてみると……俄然やる気が湧いてきた。
こういう大勢のライバルがいる場所は、自分の立ち位置を知るいい機会になる。そろばんなんていっさい習っていないけど、自分の力がこの場でどこまで通用するか……試したい!
「それでは、十時半になりましたので、これから計算コンテストを始めます。ようこそ珠算部へお越しくださいました」
すると、教室の前方に先ほどの野山という人が出てきて、説明を始める。
「これから、皆さんには簡単な計算問題を解いていただきます。問題は整数の足し算、引き算、掛け算、そして割り算、答えはすべてゼロ以上の整数になります。つまり、小学三年生レベルまでの問題しか出ません」
思ったより複雑な計算をしなくてもよさそうだ。単純に計算力でゴリ押しする大会らしい。
「制限時間は十分間、お手元に裏返した問題用紙がありますので、合図があったら裏返して解き始めてください。できるだけ速く解いて、全問解き終わったら問題用紙をもう一度裏返して、手を挙げてください。解き終わった時間と、正解した問題数でスコアを競います」
小学生だった頃の記憶がうっすらと蘇る。これは『はかせ』じゃない? 速く。簡単に。正確に。これが重要なのかもしれない。
「それでは、間もなく始めます……」
私は鉛筆を握りしめる。ドキドキするこの瞬間、長らく味わっていなかった緊張感がどっと押し寄せて、手汗が滲み出てくる。
教室内に秒針が動く音だけが響く。その刹那。
「では、始め!」
私は、問題用紙を裏返し、猛スピードで計算し始めた──。