地下にいると、時間の感覚が無くなる。時計などの時間を確認する高級な道具を持っていない上に、太陽の光の届かない暗い空間を彷徨っているラーンはそのことをひしひしと実感していた。それに、なぜかずっと力が満ち溢れ、疲労感を感じていなかったため、ラーンはなおさら疲労の蓄積による時間経過も感じにくい状態だった。
洞窟は大きさを変化させながらずっと続いていた。ある場所では匍匐前進でやっと進めるようなサイズで、ある時は馬車に乗っていても余裕で通り抜けられそうなサイズといったように、場所によって全然違っていた。
さらに、途中で洞窟は何度も分岐しており、その度ラーンはどちらに行こうか迷うことになった。ラーンの最終目標は地上に到達することなので、なるべく上方向に続いていそうな道を選んで進んでいたが、途中で下ることもあり、ラーンは自分の選択が本当に正しいのか不安に思っていた。それに、気づいていないだけで自分がぐるぐると回っている可能性も否定できない。しかし、引き返そうにも元の道はわからなくなっている。
最善手はきっと真上に掘り進んでいくことだろう、とは思っている。しかし、ラーンにはそうするための道具が無かった。岩を溶かして進もうにも、先ほどの蜘蛛の魔物の時のように爆発してしまってはたまらないので、その手段は使えなかった。
心細さを感じながら彷徨っていると、いつの間にかラーンの足元に川が合流してきた。靴を濡らしながら進んでいくと、不意に目の前に開けた空間が現れる。
「おお……」
ラーンの目の前には巨大な地底湖が広がっていた。壁や天井からは光石の大きな結晶が飛び出しており、ぼんやりと地底湖をライトアップしている。その光に照らされた地底湖は澄んだ青色を呈していて、固定まで見通せるほど透き通っている。その美しい光景に、ラーンは思わず感嘆の声を漏らした。
ラーンが目を覚ました地底湖とかなり似ている環境だが、別の湖だった。魔物に襲われ、歩き続けて不安に襲われていたラーンは、いったん湖畔で休憩することに決めて、背嚢を側に置いて、腰を下ろす。
「……飲めるのかな?」
ふと、ラーンの中に好奇心が湧いた。湖の水は澄んでいて汚染されているようには見えない。大丈夫そうだ、と判断したラーンは、両手で器を作り、湖の水を掬って一口飲んだ。
「……ん?」
ラーンは違和感を抱いた。ほとんど普通の水と変わらないはずなのに、どこか違う。そのモヤモヤした感触を解消するべく、ラーンはさらに二口、三口と飲んでいく。
そして、ラーンはやっと何が違和感の原因なのかを理解した。微かに水が苦いのだ。そして、その苦さは、ラーンにとってはかなり馴染みのある味だった。
「……苦い、ミスリルの味」
地下湖の水はミスリルの味がした。おそらく、水の中にミスリルが溶け込んでいるのだろう、とラーンは推測する。もしかしたら、湖底のどこかからミスリルが湧いているのかもしれない。
そんなことを考えていると、視界の端、湖の中心の方に、何か白く巨大なものの影が見えたような気がした。ラーンは顔を上げて、その影が見えた部分を注視する。
次の瞬間、ザバーン! と盛大な水飛沫を上げて、水中から何かが飛び出してきた。
全身に水を浴びながらラーンが見たものは、巨大な白いムカデのような多足の虫だった。
「ぎゃあああぁぁあああ‼︎」
ラーンは叫び声をあげる。突然の出現にパニックになったのと、出現した生物の気持ち悪さから、大声を出してしまったのだ。
真っ白なその巨大な虫は、体の横についている大量の足をわしゃわしゃさせている。目は退化してしまっているのかどこにも見当たらず、頭部についている巨大な口ばかりが目立っていた。間違いなく魔物だった。
ラーンは魔法を使おうとするが、すんでのところで思いとどまる。魔法を使っても、また爆発してしまうかもしれない。そんな恐れから、ラーンは自分の主砲を自ら封印したのだ。
「うう゛っ!」
すると、虫の魔物は体をくねらせると、シュルシュルとラーンの体に巻きついた。そして、グググときつく圧力をかけ始め、ラーンは苦しい声を漏らしてしまう。
刹那、ラーンを捕らえたまま、虫の魔物は勢いよく湖の中に戻っていく。ドボン! と水柱が上がり、ラーンは水中に引き摺り込まれた。
「ぶぶぶくくごぼぼぼぷぶぶぶ」
ラーンは、息ができないほど苦しく締め付けられている上に、呼吸ができない。ボコボコと口から空気の泡が水面へ昇っていく。
しかし、虫の魔物はラーンに対して容赦しない。水中を縦横無尽に動き回り、ラーンの平衡感覚を滅茶苦茶にしながら、体を締め上げていく。確実に殺して、餌にするつもりなのだ。
ただ、ラーンはここでやられるわけにはいかない。せっかく帝国から脱出しかけたというのに洞窟の中に流れ着いてしまって、王国に辿り着けずに死んでしまうのは絶対に避けなければならない。ラーンは回らない頭で考える。
魔法以外に使えそうな武器といえば、腰の短剣以外にない。しかし、体が締め付けられ、手が自由に動かせない以上、短剣を抜くことはできない。やはり魔法を使うしかない。
ここで、ラーンはある考えに思い至る。今自分がいるのは水中だ。さっきは空気中だから爆発したのであって、水中で炎を使えば周りの水によって勢いが抑えられるのではないか。
ラーンには時間がなかった。このままでは自分は溺死あるいは圧死してしまうだろう。ラーンはこれ以上考えるのを止めて、水中で炎の魔法を使うことにした。
ラーンはチラッと目を開けて、虫の魔物の頭部の位置を確認する。幸いにも、頭部は水中に沈んでいたため、速やかにそれを標的にして魔法で炎を出した。
だが、ラーンは忘れていた。峠で魔法を使った結果、何が起こったのかを。
ラーンが高温の炎を、虫の魔物の頭を包み込むように出現させた次の瞬間、虫の頭もろともその周辺の水が一瞬で蒸発した。そして、水蒸気は瞬く間に膨張し、周りの水を凄まじい勢いで押し出していく。
轟音と共に、水蒸気爆発が起こった。
「ぐべっ」
ラーンはバラバラとなった虫の魔物の体の断片に巻かれながら、勢いよく空中に打ち上げられる。そして、天井スレスレのスリルある一瞬の飛行の後、湖畔に墜落した。だが、その時虫の魔物の体がクッションとなり、大した怪我を負うことはなかった。
「ぐぼぼぼぼぼ」
一安心したのも束の間、今度は爆発の衝撃で起こった湖の水による津波がラーンを襲う。少しの間また息ができなくなったが、湖から離れたところに着陸したおかげか、再び湖に引き戻されることはなかった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
どうやら助かったらしい、とラーンは考える。虫の魔物の頭部は、間違いなく水中で爆発四散した。それに、今ラーンに巻きついている虫の魔物の体は途中で千切れていて、本体からは切り離されている様子だ。実は虫の魔物が生きていて、再び自分に襲いかかってくるとは考えにくい。
しかし、その可能性が完全に無いとは言い切れなかった。ラーンは、少し締め付けが緩くなっているのを利用して、腰に差していた短剣を引き抜くと、体を刻んでいく。
「うええぇぇ」
ベシャベシャと白濁液が刻んだところから吹き出し、ラーンは嫌悪感を覚えた。しばらく力任せに打ちつけていくと、やっと体が分断され、ようやくラーンは脱出することができた。
湖の方を見ると、爆発の余韻が残っているのか、まだ少し荒波が立っていた。その中に、幾つもの白い物体が浮かんでいるのが見える。どうやら爆発の影響で、虫の魔物の体がバラバラになった残骸が浮かんでいるようだった。
どうやら死んだようだ、とラーンは胸を撫で下ろす。そして、白い体液を湖の水で洗い流すと、自分の荷物を探しに湖畔を歩き回る。
津波の影響で、湖畔に置いた荷物はかなり離れたところまで流されてしまっていた。湖の中に引き込まれていたら面倒だな、と思っていたラーンは、面倒くさいことにならなくてよかった、とホッとする。中身も特に壊れているものが増えているわけでも無かった。
ラーンは荷物を持つと、足早に地底湖を去る。また同じ虫の魔物が出てきても嫌だし、気持ち悪くてこれ以上留まりたくなかったのだ。
そんなラーンに、間髪入れずに新たな受難が襲いかかる。
足早に踏み出した一歩。これまでの歩みと何ら変わらない、地面を踏み締める一歩だ。
次の瞬間、その一歩がズズンと思いっきり沈み込んだ。
「あっ……!」
ラーンはたまらずバランスを崩す。
同時に地面が大小様々な石となって暗闇の中に落下していく。ラーンの体重が乗っかったことで、脆くなっていた地面が崩落したのだ。
「ああああああぁぁぁぁ……」
ラーンはまたもや、地面の崩落に巻き込まれてしまったのだった。