ご近隣の皆様へ
どんど焼き実行委員会
向原町会(当番町会)
金程富士見会
金程町会
「どんど焼き開催」のご挨拶
拝啓
初冬の候、皆様にはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
平素は、当町会の活動に温かいご理解とご協力を賜り、厚く御礼申し上げます。
さて、例年通り「どんど焼き」を下記の通り開催する運びとなりました。
つきましては、近隣の皆様には煙などでご迷惑をおかけすることもあるかと存じますが、何卒ご理解のほどお願い申し上げます。
また、お時間が許しましたらぜひご来場いただき、お楽しみいただければ幸いです。
敬具
興味のある方や、お手伝いいただける方は、金程町会の電子メール(kanahodochoukai@gmail.com)または金程町会公式LINEアカウントまでご連絡ください。
萱刈り取り
2025/12/13㈯ 9時~13時
日大グラウンドなどで萱を刈って金小に運ぶ
鎌、剪定鋏など
竹伐採、建て上げ(雨天決行)
2026/1/10㈯ 9時~16時、1/11㈰ 9時~16時
竹林で竹を伐る
竹を割る
子供たちと茅を束ねる
歳の神の組み上げ
鋸、なた、剪定鋏など
どんど焼き当日
2026/1/18㈰ 7時30分~14時
受付、安全管理
後片付け
小正月におこなわれる火祭で、正月の十四日、十五日あるいは地方によっては十八日におこなったところもあります。正月飾りである松飾りや注連(しめ)、お札などを一ヶ所に集めて焼く行事で、サイノカミ・サギチョウ・ドンド・サイトウなどいろいろの名で呼ばれています。
左義長(さぎちょう)の歴史は古く、平安時代の記録にも、正月の十五日あるいは十八日に火祭が行なわれ「三毬杖(さぎちょう)」または「三鞠打(さぎちょう)」としるされているそうです。この頃は宮中や公家による宮延行事の一つであったようです。その後、鎌倉・室町の各時代を通じて広くおこなわれていましたが、江戸時代の寛文六年(一六六六)に火災予防のために禁止されたことがあります。
細山では、正月の十一日に子供たちが中心になって小屋作りをはじめます。モウソウ竹を三本組合せ(サギッチョ)て、骨組をつくり、講中の家々をまわって集めた、スス払いの竹や、門松で周囲をかこい、麦わらで屋根をふきます。小屋の中央には「いろり」をほって共同飲食の場にします。
左義長の場所は、道連説(塞(さえ)の神)のある所や神社・あるいは川岸、浜など、その土地によっていろいろの祭場がきめられていたようですが、細山では、道祖神の前でおこなわれていました。
「せえのかみ」と呼んでいたのも、ここから生まれたものでありましょう。
小屋ができあがると、子供たちは手分けをして家々をまわり、餅・団子、おさい袋をもらい集めます。十三日の夜は小屋のなかの「いろり」を囲んで、団子を焼いたり、汁粉餅をつくったり、おさい銭で菓子を求めたりしてみんなで仲よく共食をします。これを食べると病気にならないといわれ、余った残りは各自家へ持ち帰っておうちの人たちにも尼除けをしてもらいました。
十四日の朝、この小屋に火をつけ、古いお札や注連、門松、すす払いの竹などを焼きました。この火で身体をあぶったり、餅や団子を焼いて食べたりして災難を追い払いました。正月の書き初めをかざして高く舞いあがるのをみて、習字の上達をよろこんだり、大人たちも火祭りの仲間入りをして、この火にあたって、若返りをみせたり、モウソウ竹の高くはねる音に、その年の天候のよさを占い農事の豊作にも期待をかけたりしたのです。
付記
一、道祖神は村の境、峠、辻、橋のたもと等にあってその場所を守護し、村に入ってくる邪悪な物を防いでくれると信仰されているセエノカミというのは道祖神の呼び名である。
(川崎市史民族編)
二、細山におけるセエノカミの場所は細山郷土資料館の模型地図上に豆電球で標示され十ヶ所近くある。
三、竹や麦わらの外に稲わらも多く使用する。
四、千代ケ丘山田童治氏宅の入口に両親供養像と共に道祖神の石が現存し、もとはこの石を火中に投じたが割れたので新造しその後は側においた。
五、全国では山梨の丸石道祖神、長野、静岡、神奈川西部の双体道祖神が有名である。
引用元:西生田ものがたり:新風土記(1975.7出版、土方恵治著、栄光出版社)
どんど焼きとは
「どんど焼き」とは、日本の伝統的な行事の一つで、主に1月中旬に行われます。この行事は、正月飾りや書き初めなど、新年に使われた縁起物を焚き上げることにより、無病息災や家内安全を祈る意味が込められています。正月の飾りや古いお札などを特設の焚き火で燃やす儀式です。どんど焼きは、新年を迎えるにあたり、感謝の気持ちを表し、新しい年の幸運を祈る日本文化の重要な部分です。
金程小学校区内のどんど焼き
現在行われている川崎市立金程小学校学区内のどんど焼きは、金程町会、向原町会、金程富士見会の3つの町会が主催し、金程小学校や地元有志の会「金生会(きんせいかい)」の協力のもとに行われています。開催当日は1,000人を超える人々で賑わいます。
毎年、年末の萱取りから始まり、正月最初の土日に丸々2日間をかけて組み上げます。そして、翌週の日曜日に焚き上げるのが恒例です。
長い竹で12~13メートル、直径5~6メートルの大きな構造を80本以上の竹で2基立て、そのうちの1つは高さ8メートルに及びます。中を空洞にして囲炉裏を作り、昔ながらの方式を守っています。このような形態のどんど焼きは、川崎市麻生区内では中々みつけることができません。
どんど焼きの歴史
古くからのどんど焼きでは、子どもたちが正月飾りやだるまを竹、松、藁などで作った円錐形の構造物に燃やし、中で餅などを焼いて食べ、正月15日には無病息災や学力向上を祈りながら焚き上げていました。この風習は昭和初期に一時途絶えました。
昭和50年代、金程向原地区の区画整理事業が始まり、それまでの田んぼと畑、山林が住宅地へと変わる時代が訪れました。田んぼがなくなる前に、地元有志が昔を懐かしみ、最後のどんど焼きを行いました。
その後、造成が完了し、区画整理事業を契機に人々の交流が増え、金程小学校の校庭でどんど焼きとして復活し、現在に至ります。
昔は、中学生が小学生を指導して作っていました。その当時の経験が現在に続く伝統となっているのですね。
細山・金程の地域では、歳神と書いてセイノカミやサイノカミ、セエノカミと呼ばれている。この文章では、正月の「歳神様(としがみさま)」と混同するため、セイノカミを「歳ノ神」と書くことにする。
歳ノ神は、正月飾りのお焚上げをする火祭で、1月14日の早朝、6時から7時頃に点火をしていた。一般には小正月の1月15日が多い。地域によっては、午後からの場合や、 日の落ちた後に点火する。
早朝に点火するのは、気温が低く風がないため、煙が真っ直ぐと天高く上げるためである。
金程の歳ノ神の場所は、村に入口付近の小広場にあった歳ノ神(石)の前で行われた。小屋の中にその石を据えて燃やしたともいわれる。
歳ノ神は、子供だけで行っていた行事である。
正月が開けると中学生を先頭に子ども達が集まり、もうそう竹と縄で櫓を組み、藁、萱で周りを葺いて小屋を作った。材料には、門松やしめ縄などの正月飾りが使われた。
小屋の形や大きさは、年代や地域でまちまちで、先頭となる人物でも規模が異なっていた。
規模の大きいときの歳ノ神は、小屋の中に入れるようになっており、中に囲炉裏を作って、 餅や団子を焼いたり汁粉を食べたりして、小屋で寝泊まりした。また、他の地区の子ども達が壊しにくるのを守るために、毎晩見張りをしていたようだ。
昭和20年代当初までは、金程のほかには、表坂東、裏坂東、北谷、大久保、向原で行われていた。
14日早朝には、小屋に古いお札や正月の書初めも集められ、一緒に焼いた。小屋が焼き落ちた火を使って、団子を焼いて食べる。この団子は「まゆ玉」と言い、養蚕産業の盛んな地域で行われていた風習で、樫の木の枝に団子をさした正月飾り。当時は、1つの枝に十数個の団子をさしてお供えした。
歳ノ神の点火前日に作ったまゆ玉を焼いて食べる。まゆ玉をひとつ食べると1年風邪を引かないと言われた。
歳ノ神から真直ぐに立ち上がる煙、大きな炎、竹のはねる大きな音などに、1年を占い無病息災を祈った。
セイノカミは、全国どの地域でも行われていた行事で、鎌倉時代からあったという説もある。金程には鎌倉時代に侍が勝どきを挙げて登ったとされる「勝どき坂」があり、この坂にちなんだ地名や屋号などがある。歳ノ神も鎌倉時代から続く行事かも知れない。
全国的には、セイノカミには「塞の神」や「賽の神」の字を使うことが多い。「塞の神」
は、村の入口、辻(十字路や三叉路)、峠などの要所を守護して村を邪悪なものから守ってくれると信仰されていた。多くは塞の神の石碑が祀れている。その石碑の前で行っていたので「セイノカミ」と呼ぶ。
同様な信仰に道祖神があり、どちらも道にまつわるので道祖神と塞の神を同一視する地域がある。細山の文献にも同様な記述があり、道祖神を塞の神と紹介している。
金程・細山地区には、十数ヶ所に「歳ノ神」を行った場所があったとされ、それぞれ谷戸の入り口やその辻であることが多い。その場所に塞の神あるいは道祖神が祀られていたとすれば、正月飾り (歳神様)のお焚き上げをする火祭であることから、「歳」の字をあてて「歳ノ神=塞の神」であったことも考えられるが、村には歳ノ神とは別に道祖神が祀られており、別のものとして信仰されていた形跡もある。
全国的には、「セイ」には様々な字が当てられていて「歳」もその一つ。
金程「歳ノ神」の近代史
昭和20年後半担い手が少なくなり、やぐらは小さくなり正月飾りを集めたほどの大きさになる。
昭和30年頃 火災予防のため取りやめとなる。
昭和40年前後 昔を懐かしみ有志が集まり復活する。
当時を経験した子供たちが集まり、田んぼで再開。
昭和55年頃 金程向原宅地造成のため、最後となる。このとき、JAなどが当時を映像に残す。
昭和60年前後造成に目処が立ち始めるころ村中心の開放委員会が、小学校予定地を多目的利用を提案し、その一環で歳ノ神を復活させる。3回ほど実施。
金程小学校建設のため、終了する。
平成3年頃 金程小学校創立2年目 PTA会長の働きかけにより小学校校庭で再開。
金程小学校創立10周年記念で体育館に「歳ノ神」を作成。
金程小学校創立10周年後、金程町会長の働きかけにより金程町会、富士見町会、向原町会の3町会当番制となる。
このころから「どんど焼き」の呼称が主流となってきた。
平成20年頃 子供用の小屋が製作される。
どんど焼きの呼称について
金程では、当初より歳ノ神という行事であった。昭和50年頃から、「どんどん焼き」といった別の呼称が使われるようになり、地域外からの移住者が増えるに連れ、金程小学校校庭で行うようになってからは、「どんど焼き」の呼称が主流となってきた。
造成前の金程の田んぼで行ったどんど焼きの写真です。
どんど焼きを東側から西に見て撮った写真になります。
後ろに写っているかやぶき屋根の家は現在の金程4丁目の伊藤実さん宅ですので、その家の前に横切っている道路はファミリーマート前の道路になります。
伊藤宅の左の方に写っている家は今でもあると思います。
ちらしをクリックすると案内ページを参照できます。
2025.12.08 川崎市金程小学校で行われるどんど焼き/左義長のご案内
2024.01.15 野球部どんど焼き準備(神奈川県立麻生高等学校)
2024.01.12 ビックリするほど大がかりで見応えたっぷり!麻生区で開催のどんど焼き情報一挙公開【川崎市麻生区】(YAHOO!ニュース)
2023.12.11 川崎市金程で行われるどんど焼き・左義長
2023.01.20 伝統行事 町内一丸でどんど焼き 区内各地で 3年ぶり開催も(タウンニュース)
2010.01.20 川崎市麻生区の金程と早野でどんど焼き(k-press)
2009.01.15 川崎市麻生区金程小でどんど焼きのやぐら作り:地域と学校が支える(k-press)