山下汽船 山下亀三郎
二代目オーナー:山下亀三郎
愛媛県宇和島市生まれ。旧制南予中学校(現: 宇和島東高校)を中退、四国を後にし、京都で小学校の助教員を務める。その後明治法律学校(現: 明治大学)を退学し、富士製紙会社、大倉孫兵衛紙店、横浜貿易商会の支配人、池田文次郎店など職を転々。1894年横浜太田町に洋紙売買の山下商店を始める。その後、店をたたみ、竹内兄弟商会の石炭部に入社。ここで山下は石炭輸送の海運業と接し1897年個人商店として独立。しかし金策に奔走。当時第一銀行横浜支店長心得の石井健吾に相談、山下の意気を感じた石井は、自ら3万円の借金をし、それを貸した。山下は恩義を終生忘れず、石井が昭和初年に退任するまで第一銀行をメインバンクとした。その後紆余曲折を繰り返しながらも着実に海運業を発展させ、勝田銀次郎・内田信也とともに三大船成金と称せられ、この船成金競争のトップを走ることになる。その後は海運業だけでなく、広く財界、官界さらに軍部の要人と交際し、1943年(昭和18年)3月には、時の東條内閣によって創設された内閣顧問に任命、政府関係の委員、行政査察使などを歴任した。
世界救世教教祖 岡田茂吉
三代目オーナー:岡田茂吉
東京都台東区橋場で生まれる。浅草尋常高等小学校(現・浅草小学校)に入学。画家を志し、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)に入学、眼の病にて、青年期には商売で成功する。小間物屋「光琳堂」、装飾品卸商「岡田商店」、映画館経営などの事業を行い順調に収益を上げたが、取引先銀行の破産で事業が頓挫。さらに妻子と次々死別。不幸が続くことで人間の力の儚さから救いを求め、1920年(大正9年)、大本教に入信。
1934年(昭和9年)に大本教を離れ、1935年(昭和10年)1月1日に「大日本観音会」(後の世界救世教)を発会し、地上天国建設を目的として立教。
1944年(昭和19年)、戦火が激しくなり、東京から箱根の強羅へと居を移し、同年熱海の東山荘も購入、熱海瑞雲郷の建設もスタートさせた。1953年(昭和28年)箱根強羅に地上天国の模型「神仙郷」を完成させた。その後岡田茂吉の意をくんで熱海瑞雲郷内にはMOA美術館が建設され、今も尚、岡田茂吉を信奉する人々によって地上天国建設が進められている。