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となみ詰所の沿革
東本願寺は江戸後期(1788)から幕末(1864)にかけて四度の焼失に遭いましたが、そのつど僧俗門徒の力の結集により再建されました。
「となみ詰所」は東本願寺再建のため越中(現在の富山県)砺波(となみ)地方から上京してきた人足奉仕団の寄宿舎として始まり、明治の再建完了後は本山(東本願寺)にお参りする御門徒のための宿泊所として本山の念仏興隆と郷土の精神文化形成に多大な貢献をしてきました。
先人の願いを受け継いだ「となみ詰所」は現在では全国から京都へ来られる方々の出会い・語らい・安らぎの宿として、宿坊と民宿の良さを兼ね備えたお宿としてどなた様にもお気軽に利用いただいております。
砺波庄太郎について
砺波詰所の2代目主人として知られるのが砺波庄太郎(1834年~1903年)です。本名を坂東忠兵衛といいましたが、砺波郡の出身であることから、砺波庄太郎と周囲から呼ばれていたといいます。
砺波庄太郎は1858(安政5)年に焼失した両堂の再建に従事するために上京し、その後、1861年(文久元)に砺波詰所主人となりました。
1864(元治元)年の禁門の変による焼失の際に、全国から僧侶や門徒が集まり再建されることとなった時、砺波庄太郎は再建に従事する人々を統括して身を粉にして尽くしたといいます。
また、井波や城端などの地域では、夫婦で東本願寺の再建にあたる間に、地元に残された子どもたちを養育したのはお講であったといいます。
1903(明治36)年6月21日、庄太郎は71歳で没しました。亡くなった富山県で盛大に葬儀が営まれましたが、翌7月9日には、本山にほど近い総会所において、追悼会が執り行われました。長く東本願寺の再建作事部長を務めた三那三能宣は、庄太郎こそ「妙好人」であると評しています。
(浄土真宗ドットインフォ「柳宗悦が出会った土徳32~南砺の妙好人 砺波庄太郎」より)
となみ詰所存続と郷土の土徳
(太田浩史・大福寺住職)
それは一人の嫗の泪からはじまった。私と京都に旅行した加藤平次郎さん(現・となみ詰所維持委員長)が詰所に泊ると言い出した。「詰所って、あんなものまだあるの?」私はとなみ詰所が閉鎖されたらしいという風聞を耳にしていた。大学入試の時に泊ったがよく覚えていなかった。何十軒もあった詰所も数軒に減ったと聞くが、詰所を粗末な木賃宿の一種と考えていた私には、それも時代の趨勢だという感慨しかなかった。行ってみると詰所はまだあった。しかし間もなく売り払われようとしていた。「赤字でもないがに、こんな尊いもんを疲れたから潰すいうがは、おかしないけ……」食堂では「詰所のおばちゃん」として長年現場を切り盛りしてきた城宝和子さんが泣いておられた。
それが詰所存続運動のと私の出逢いだった。私は詰所に残っていた記録を見せてもらった。そして関係図書を漁って江戸・明治・大正・昭和の詰所の変遷を調べてみた。おどろくべき雄大な歴史だった。世界一といってよい東本願寺の巨大な木造建築群が、江戸後期いらい四度にわたって焼失と再建が繰り返されたことは知られている。それは一貫して門徒大衆の手によってなされた。門徒が資金を募るだけでなく、厖大な勤労奉仕を行って建てた。勤労奉仕といってもおざなりのものでなく、大工から技術を学んで作業の中枢を担った。詰所はそのような無数の門徒の寄進によって開かれた。私と詰所の出逢いは、郷土の精神風土、土徳を支えた、偉大な地域共同体システムとの出会いだったのである。
明治の再建では門徒の人足奉仕はのべ70万人だったが、江戸時代はもっと多い。諸国詰所はこうして汗を流す門徒の寄宿舎として最盛期には70近くにものぼった。それはたんなる寄宿舎ではない。毎日勤行とご示談の共同生活が行われ、信心を涵養する研修道場であった。また上洛した郷土人士が砺波弁丸出しで付き合える憩いの場所であり、京都と砺波を結ぶ信仰と文化の結節点でもあった。さらに本尊や肩衣の申請など本山との手続きを代行してくれるサービス機関でもあった。
南砺市大西の谷村家に興味深い文書が残っている。明治21年、彦左衛門(谷村家)が草鞋二十束を本山工事現場に送った時の礼状で、慇懃な謝辞を記したあと、「京都詰所 同行総代、法中総代、二等総代」がそれぞれ認印を捺している。こうしたきめ細かい配慮が両堂再建を支えていたのである。当時のとなみ詰所主人(主任)が明治の妙好人として全国門徒から慕われた砺波庄太郎で、彼は抜群の指導力を買われ、諸国詰所触頭の重職にあった。実質上の現場監督といえる。
庄太郎亡き後、となみ詰所は研修の宿として、砺波群の五つの組から選出された十五人の維持委員によって運営された。委員はそれぞれの地方の講世話方数十名の推薦によって選ばれ、委員として詰所に奉仕することは地域の信心を代表する人物として尊敬された。こうした講のシステムが詰所を維持するだけでなく、土徳あふれる郷土の精神文化、地域共同体を育てていたのだ。しかし、今やとなみ詰所の歴史的意義は砺波庄太郎の記憶とともに風化し、関係者の高齢化と疲労によって維持困難な状況に立ち至っているのである。
詰所を失うという問題は、一万戸の寄進によって成り立った東西砺波郡共同の資産がうやむやにされて無くなるといった物が衰退し、地域共同体が崩壊に瀕していることを意味しているのである。今日一極集中と過疎の問題が深刻となり、地方の経済的な地盤沈下が嘆かれているが、これは経済のみの問題ではない。人間の心は風土によって培われる。子孫のために豊かな精神風土を社会環境として引き継ぐことが私たちの歴史的責任ではないだろうか。明治の両堂再建時には五十余りあって、戦後も二十余りが健在だった諸国詰所が今や五軒に減ってしまった事実は、この二、三十年で日本が失ったものの大きさを反映していると思う。
私は「詰所のおばちゃん」の泪に突き動かされて多くの人々に存続を訴え、三年の歳月を閲して維持委員会は形の上では蘇った。しかし現時点では建物の維持が確保されたにすぎない。これまでのように大谷派という教団の内部倫理だけでは、詰所が本当に郷土の未来へ向けて活性化することはないだろう。詰所の真の存続運動とは、郷土の歴史と土徳、そして先人が数百年の苦労と試行を繰り返して磨き上げてきた地域共同体の未来へむけての再生を志すものでなければならないと信ずる。郷土を愛し、先祖に感謝を捧げる人々は、一人でも多く詰所の歴史を再確認していただき、有形無形にみんなの詰所を譲り通し、後世に伝えていただきたいと祈念する次第である。
砺波庄太郎の掛軸