研究紹介

神経系の数理モデリング

小脳顆粒細胞層の数理モデル

小脳の顆粒細胞層というところは,いわば小脳の入力層と言える部分になります.ヒトでは1000億とも言われる莫大な数の顆粒細胞が存在しております.数で言えば脳の神経細胞のほとんどはこの細胞であるというわけで,どんな計算・情報処理が行われているか,興味深いところであります.さて,小脳は,古典的にはバリスティックで素早く正確な動きを制御するために重要である,ということが従来からよく知られてきましたが,小脳依存的学習である瞬目反射学習を用いた長年にわたる多くの研究によって,「特定の感覚刺激に対して特定の運動出力時系列を正確なタイミングで出力する」ということが小脳によって担われているということが明らかにされてきました.

さらに,小脳顆粒細胞は,このようなタスクにおいて,「特定の入力後,特定の潜時において,特定の神経活動をみせる」という役割を担っているのではないか,と言われてきました.例えば,(音などの)刺激Aが与えられた300 ms後にだけ特異的に特定の顆粒細胞のサブグループの発火が見られる,という具合です.つまり,小脳の入力層にあたる顆粒細胞層の活動が,入力刺激からの時間を表現している,というわけです.興奮性の顆粒細胞と抑制性のゴルジ細胞が相互結合をしてリカレント結合を形成していることから,このリカレント・ネットワークに生じる非線形ダイナミクスがこのような経過時間依存的な活動を実現する,というモデルが提唱されてきました.また,山﨑匡先生らは,この考えを敷衍し,小脳がレザバー計算を行なっている回路として捉えられることを提唱されていました.


Tokuda K, Fujiwara N, Sudo A, Katori Y. Chaos may enhance expressivity in cerebellar granular layer. Neural Netw. 2021 Apr;136:72-86.

さて,Vervaekeらによる,小脳顆粒細胞層抑制性細胞であるゴルジ細胞が,非常に密にギャップジャンクションにより近傍同士で相互に結合し,しかもこのギャップジャンクションを介した電流が近傍のゴルジ細胞同士の脱同期をもたらす,という報告をしました.ギャップジャンクションというのは,隣り合う細胞同士の細胞質を直接つなげてイオンが行き来できるような構造を作ってしまう仕組みであり,電気シナプスと言われる機能の物理的実体であります.電荷が自由に拡散できるわけなので,ギャップジャンクションがあることによって,つながれたニューロン同士は同期して発火するようになりそうなものですが,むしろ脱同期が誘発される,ということを実験的に発見しているのがこの論文の面白いところです.

さて,この論文に載っている,ゴルジ細胞の膜電位の揺らぎがギャップジャンクションを通して隣接する細胞に伝播して,細胞同士が脱同期した活動に遷移していく様を示す図は,これ以前に藤井宏先生,津田一郎先生らが発表されていた,神経モデルのギャップジャンクション結合系におけるカオス的ダイナミクスの様子にそっくりに見えました.津田先生らの研究では,ギャップジャンクションによる拡散結合により,神経回路にカオス的なダイナミクスが生まれることが示されていました.そこで,ゴルジ細胞のギャップジャンクションがカオスを引き起こすと,小脳の情報処理において何か良いことはあるだろうか,と考えたところ,小脳の顆粒細胞層の計算論で議論されている「入力からの時間経過特異的な神経活動の生成」という情報表現を実現するためには,非周期的というカオス的ダイナミクスの特性が有利なように思えました.そこで,ギャップジャンクションによって生まれるカオスを見せる回路を小脳顆粒細胞層のモデルとして用いて,このモデルがどのくらい経過時間特異的な活動を生成できるか,あるいは,さまざまな波数を持った時系列パターンを生成できるか,という点をレザバー計算の枠組みを用いて評価したところ,系のカオス性の強さの指標(リアプノフ指数やリアプノフ次元)と,出力パターン生成能力(RMSE)との間の強い相関を確認することができました.

海馬局所場電位の状態切り替え数理モデル

宣言的記憶の中枢である海馬においては、局所場電位振動がシータ波状態と非シータ波状態との間の明確な状態遷移を行うことが知られている。この研究では、状態遷移を実現する海馬回路の動的モデルを提案した。 特に、海馬局所場電位振動と、内側中隔核(MS-DBB)からの外部周期入力の相互作用のモデル化を行った。

本研究のモデルでは、非線形力学の分岐現象が海馬の2つの振動を同一回路の中に実現するメカニズムとして機能し、そこはMS-DBBからの振動入力の振幅が分岐パラメータとして機能する。ギャップ結合により相互に接続された単純なクラス1のニューロンモデルのネットワークを用いて海馬ニューロンのネットワークをモデル化を行ったところ、実際の海馬がMS-DBBからのリズミカルな入力の下でシータ波を示すように、モデルニューロンはMS-DBBからの外力の存在下で非常に同期的な周期振動を示すことが明らかになった。

Tokuda K, Katori Y, Aihara K. Chaotic dynamics as a mechanism of rapid transition of hippocampal local field activity between theta and non-theta states. Chaos. 2019 Nov;29(11)

非線形現象のモデル化と制御の研究

Raab M, Zeininger J, Suchorski Y, Tokuda K, Rupprechter G. Emergence of chaos in a compartmentalized catalytic reaction nanosystem. Nat Commun. 2023 Feb 10;14(1):736.

本研究では、ナノスケールの物理現象にカオス的なダイナミクスが見られることを世界で初めて、実験的・理論的両面から示しました。

中枢神経系疾患の病態解析・モデル化

Ishida T, Tokuda K, Hisaka A, Honma M, Kijima S, Takatoku H, Iwatsubo T, Moritoyo T, Suzuki H; Alzheimer's Disease Neuroimaging Initiative. A Novel Method to Estimate Long-Term Chronological Changes From Fragmented Observations in Disease Progression. Clin Pharmacol Ther. 2019 Feb;105(2):436-447.

慢性疾患の患者の臨床データは、多くの場合、持続時間の観点から制限される。例えば、アルツハイマー病は20年にも渡って進行するが、1人の患者の観察はせいぜい数年程度にとどまる。そのため、慢性疾患の病態進行像の全貌を定量的かつ包括的に理解することは困難であった。我々は、非線形混合効果モデルを拡張し、各被験者の「病態時刻」の推定をモデルに組み込むことにより、長期的な疾患進行を時間的に分割されたデータから再構成する新しい数理統計学的な手法を開発した。この方法をアルツハイマー病のビッグデータADNIに適用することで、20年以上にわたるアルツハイマー病の病態進行像が求められ、本論文で報告した。さらに、開発手法によって得られた母集団分布を用い、臨床試験のシミュレーションを行うことが可能になった。アルツハイマー病においては、第3相臨床試験で統計的有意差が見出されず、失敗があいついでいることが大きな問題となっている。本手法を用いた臨床試験シミュレーションにより、アルツハイマー病において、各患者の病態時刻の情報を患者のリクルートの基準に利用することで、臨床試験に必要なサンプルサイズを少なくすることができることを示唆する結果をえた。