ニクラス・ルーマン(佐藤勉・村中知子訳)『情熱としての愛: 親密さのコード化』(1982) 木鐸社 2005 の読書メモです(最終更新:2025/07/20)文責【猫跨ぎ】
①知識社会学としての文脈
成層的分化→機能的分化 によってゼマンティクが変化 →同じ言葉でも意味が変化し、社会構造の変化を迅速に進行させる。
②コミュニケーション・メディアの一般理論としての文脈
「愛のコードは愛の感情を生み出すことを促進している。ラ・ロシュフコーが述べているとおり、このコードがなければたいていの人びとはそのような感情に行き着くことはなかった。」
「愛が通常の行為からの逸脱であるのみならず、ごく普通には生起する見込みのきわめて少ない事柄であること」
近代社会は、インパーソナルな関係の増大とパーソナルな関係の深化によって特徴づけられる。
▶︎インパーソナルな関係:経済システム、役割による効率化、分業など
▶︎パーソナルな関係:「人と人の相互浸透という概念」=「親密な関係」
→「オンリーワンな自分」が全ての人間にとって必要なものとなった(機能的分化)→各個人は、環境と自らの差異、自らが他人と違うように扱われるということによって確証される。
〜成層的分化(生物→人間→階層→場所→職業→家族→私といった特定化)ではなく、機能的分化(自分である私が定住することなく社会と関わっている)であるために、個人が強くなる。
→そのために、パーソナルな物事に対する社会的承認が必要となる。
→個人化への強い推進と親密な世界への必要性という矛盾が進展
→「友愛や愛といわれるゼマンティクの領域で用いられるメディアが展開してくる」
17世紀後半にこれは現れる(つまり、この時代には個人性の価値が認められていたということ)。
〜しかし、この頃にはまだ身分や階層があったわけで、どうして個人を肯定する愛という特殊なメディアが生まれる必要があったのだろうか?
コンティンジェンシー=偶然性、不確実性
ゼマンティクがあることで、生起する見込みの少ないコミュニケーションが実現される。その上、コミュニケーションが社会システムを形成している。
「愛が社会における連帯そのものであることを要求してきたあらゆる伝統とは対照的に、いまや愛は根拠づけ不能なもの、個人的なものと宣言される」p.19
「愛というメディアそれ自体は感情ではなく、コミュニケーションコードである。」
→コードの規則によって、感情を表現。形成したり、相手にそれがあると想定したり、それに応じた行動を実行するなどする。
→この行動モデルは、実際に愛する相手を見つける前に、愛の行動指針や知見を用意し、そのために、愛する相手の不在を知覚させる。
「愛についての文学的な描写、理想化した描写、神秘化した描写は(中略)愛のしるしとなる問題を解き明かしており、つまりは社会というシステムにおいて愛の果たしている機能的な必要を伝承可能な形式にまとめている」p.22
①愛する人→②愛される人
1)②は①の世界を肯定する役割を押し付けられている。→②はそれに与するかしないか行為によって表さなければならない。
2)①は特殊な選択を証明するために行為しなければならない。
3)②は愛されることを体験したのであり、そこに自らの体験との同一化を期待する。
恋愛の特殊性は「体験に対して行為で応える必然性(愛される者が愛する者になるためには、体験を行為に移し替えなければならない)のなかに、すでに縛られていることに対して自らを縛ることで応える必然性」のなかにある。p.25
情報概念=「差異についての選択的な取り扱い」にほかならない p.27
→その人がある体験を何と比較して把握するのかを外部から突き止めるのは非常に困難
=これは日常用語では「理解」と呼ばれる。恋愛においては、これが求められる。つまり、観察可能なこと以上のもの、「言わなくともわかる」p.26 が追い求められている。
〜そのために、できるだけその人のことを知り、どのような比較図式を持っているのかを把握する必要がある。
▶︎「主体概念が18世紀において脱実体化された」p.28:相手の特性でなく、相手の機能様式に基づいて相手を把握するのが重要になるので、相手の性格やモラルでなく……
(1)②にとって何が環境であり何が情報であるのか
(2)②にとって何が強制であり何が自由であるのか
(3)同時に作用している地平に照らせば、②の体験や行為を規定しているのは何か
を知ろうとすることで、相手の理解に近づく。が、そんなことは難しいし、人間というのは感情に縋ってしまうもの……。(感情に頼るという逃げ道が愛と結婚の関係の制度を難しいものにしているという話は、後出)
▶︎「愛はコミュニケーションを大幅に断念することによってコミュにケーションを強化している」
▶︎「愛は間接的なコミュニケーションをおおいに活用しており、先取りや事前の了解をあてにしている。(中略)明示的なコミュニケーションによって、問いかけたり答えたりすることによって、まさに愛は損なわれてしまうことになる。なぜならそうすると何が理解されていないのかが明るみに出てしまうからである。」p.28
「情熱」=「愛のメディアの主題構造を構成する主導的シンボル」
=「何も変えることができず、いかなる弁明もなしえずに何かに苦しんでいること」p.30
〜愛は通常の社会的コントロールから離脱しているが、一種の「病気」として許容されている。
愛にはセクシュアリティという有機体的過程が共生システムとして存在する。p.32
〜一方で、愛のゼマンティクスにおいて、潜在的な性的関係が排除されていることが大切(権力コードにおいて、物理的暴力の排除に基づいているのとパラレル)
ex. 中世の宮廷恋愛のamour lointain、17世紀の小説の延々としたはぐらかし
〜つまり、セクシュアリティの享受の先延ばしが愛を強化するという話。
→18世紀には、逆にセクシュアリティの肯定が起こる
コミュニケーション・メディアの自己言及
→構造の水準:それぞれの愛を別の愛との比較において特徴づける=そのコード化は個人の内部で行われる
過程の水準(「再帰性 Reflexivität」と名付ける):愛が愛のために愛を手に入れるということ〜これが生まれたことで、誰もが(つまり、富や美貌を持たない人々も)愛のメディアに接近できるようになった。
〜17・18世紀には、愛の再帰性がなかったので、恋愛するにふさわしいものは少数だった。p.37
17世紀の長編小説によって、愛のコードは普及した。
旧来からの濃密な地域社会において、二人だけの親密な関係は不可能
→親密さのコード化は最初は秩序の外で始まった=愛のゼマンティクスである「譲歩」(無分別の許容)によってコード化が始まる。その逸脱を社会のシステムの中に入れ込み、成果として愛に基づいた結婚が生まれた。それが成功だったかどうかは、まだわからない。
「メディアとしての愛という文化資源の進化的変動がいったいいかにしてコミュニケーションに変換されるのか」p.42
端緒となる二つのテーゼ
(1)親密なコミュニケーションの行動は個人化されている。その行動は、自分自身の関心と相手への配慮の差異に注目して解読すべきである。
(2)ある行動について、行為者は環境によって引き起こされたものであると考えるのに対し、観察者は行為者の性格から引き起こされたものと考えるので、解釈の違いが起こる。親密な関係においては、この差異が重要な役割を果たす。
→親密さの再生産は困難。生起する見込みはきわめて少ない。
「親密なコミュニケーションでは愛の継続を察知させる意味過剰の再生産が問題となっている。互いに相手の世界のなかに見出され、それに基づいて行為しうることは、継続的に再顕在化されなければならない。したがって、親密なコミュニケーションでは行為者は自らの習慣や利害関心を越え出るものとして観察されるようにしなければならない」p.45
→「愛の気持ちを示す態度は、その行為のうちに現れ出なければならない。というのも、問われているのはたんに愛している以上のことであり、たんに愛しているという印象を与える以上のことだからである。そうした態度は行為において読みとられなければならないが、行為という出来事それ自体のなかにあるわけではない」p.46
→なので行為が継続されるものだと観察者から思われなければならないが、そうなるのは「行為者が自らの行為と『一体化している』と観察者が気づくことができるばあいである」
→そのために、アイデンティティを「愛とともに成長するものとして動員しなければならない」p.47
=愛が周りの事情や他者の影響から独立していることを示す。その人の愛によって私の自我が開花したのだということを分からせなければならない。
〜愛し合う者たちは、相互作用の濃縮化を行って差異を解決している:身体の接触、会話
コンフリクト
=個人性は無理な要求を作り出す。愛する者はその無理な要求を受け入れることに幸福を見出そうとする。しかし、限界はある。
「かなり以前から知られてきたとおり、人びとの個人化の度合いが高まると結婚が危うくな」るp.48
→理由:個人に志向したコミュニケーション・メディアはコンフリクトを個人に帰属させるから(つまり、個人的な愛のコミュニケーションにおいて、仕方ないはありえない!)
〜愛は不可避的に終わる。しかし、ではなぜ始めるのか。なぜ熱を上げるのか。
→動機それ自体が社会的・文化的に作られたのだ。