2024.02.10 文責【猫跨ぎ】(2024.02.11 一部追記)
カール・シュミットは政治的な対立の外にある一般了解を「中立領域」と名付けた。政治的な対立とは彼の語法で「友」と「敵」に分かれて生命をかけて戦うことをいうが、中心領域とはそのような論争が起こり得ない共通理解のことをいう。彼は、この中心領域から西欧の思想の変遷を説明した。曰く、16世紀の「中立領域」は神学、17世紀は形而上学、18世紀は人間・道徳、19世紀は経済、20世紀は技術である。16世紀には「確かに、これに関しては対立があるかもしれないけど、神学的にこれに関しては議論がないよね」という対立の回避ができたのであり、実際20世紀にはあらゆる対立を超えて「いろいろ意見があるのはわかったが、科学技術で証明されている部分に関しては全員異論はないね?」と合意ができた。逆に言えば、20世紀においては、あらゆる価値は技術において結論を与えられるのが正当であるという感覚を多くの人が共有している。このような技術による価値づけによって各人が動員される状態をハイデガーは「総駆り立て体制(集ー立)」と言って批判したのであり、人間が形式合理的に動く組織をウェーバーは「鉄の檻」として批判したのである。つまり、20世紀は技術の時代であり、同時に人間性を保つために技術を批判する時代でもあったのである。
さて、この中心領域はシュミットによると、絶えず変化し続けてきた。彼によるとその変化の仕方は、中心領域自体に論争が起こり、その中立性が保たれなくなると新たな中立領域が弁証法的に生まれ、これが中心領域に格上げされるという形になっている。
この観点から、トランス運動を解釈すると、もしかするとこれは技術という中心領域に論争を仕掛ける試みとしての側面も持っていることが言えるのではないだろうか。「トランス女性は女性である」と言った時、これに対する反論は技術に基づくものである。技術を中心領域であると信じる人たちは「生物学的にありえない」といえば、これで議論を終えることができると思っている。しかし、技術領域自体を疑う人にとっては、この反論は的を得ない。それが、彼らが繰り返される生物学者の男女論にへこたれずにノインバイナリーを打ち出し続けられる理由である。この論争は、ここ一年ほど生死をかけるほどの熱さで続けられている。例えば、一部ではトイレの話題を出すだけで「トランスヘイターだ」と非難を受ける状況にあるようだが、これは「友か敵か」というシュミット的対立が起こっているということを示す格好の例と言えるだろう。ここにおいて、20世紀には一般了解だった「人は必ず客観的に男女に分けられる」という前提は中立性を失い、「政治的なもの」になったのである。
では、技術の中立性を疑う人々が新たに中心領域であるとしているものは何かと言えば、それが社会正義なのである。『社会正義は必ず正しい』という本が書かれたが、その通りで、逆に技術を中心領域であると考えている人は「科学技術は必ず正しい」と考えているのである。「ノーディベート」という言葉がこの運動の中で出現したのも、社会正義が彼らにとって議論の許されない中心領域であるからに他ならない。そして、この技術と正義という中心領域を巡る対立が止揚されたとき、私たちは21世紀の中心領域を目の当たりにすることになるのというのが、シュミットの理論に基づく未来予想となる。
もちろん、トランスに関して議論になっているものにはトイレ・浴槽、スポーツなど様々な実用面の問題がある。これらの批判の中には、本稿が提示する精神的な抽象論に還元されない点は多くあるだろう。本稿はあくまでも両陣営を動機づける哲学から21世紀の希望を見出そうとするものであって、目下行われている各陣営の実存的な問い掛けを矮小化することを意図していない。しかし、一方で、両陣営が現在決して分かり合えないような絶対的対立関係になっていることも、両陣営が中心領域をめぐる争いをしているのだということを理解していないことが、理由の一つなのではないかと思う。この点を指摘することは、今後の精神史を切り開いていく我々若者にとって、どうしても必要だと思われるので、本稿の指摘には意味があると信じる。
20世紀以来の技術批判を踏まえれば、技術が人間性の剥奪であったのに対し、社会正義は個々の人格を世界の中心に置く点で人間主義的である。一方で、正義によるアイデンティティの肯定は、アイデンティティを持つことを各個人に迫る点で、技術が可能にした個人主義と近代的な同根を持っている。だから、正義の時代の到来を伝統的な人間性の復活として素直に規定することはできないだろう。そのため、保守主義は本来両者を批判するものではないかということも指摘できる。ただし、現在正義陣営にある人の動機としては、もっと素直に、技術の支配の下で起こったヒューマニズムの無我夢中の悲鳴であると理解する方が正しくものが見えるように思われる。この点において、あえて本稿は「トランス運動はヒューマニズムである」という見方を示してみようと思う。この語法はもちろんサルトルのパロディである。後期サルトルは自分の理想像に向かって自分を変えることに人間の自由を見出したが、その可能性を追求する点でトランス運動の求める解放とはまさにサルトルの実存主義的な自由なのではないだろうか。だからこそ、トランス運動は実存主義でありヒューマニズムなんじゃないかと、私は思ったのである。
ところで、今日の議論は多くが技術と正義の軸で説明できる。
例えば、安楽死を支持する人は医療費や植物人間の苦痛など技術的な事実を論拠にするが、反対する人はそれが社会的弱者を見捨てる未来につながるという社会正義を論拠とする。似た話で、少し前に成田悠輔の老人集団自決発言があり、私はその発言が誤解されて世間に伝わったことは理解しているが、これへの反論は優生学批判など正義の名の下になされたのである。
最近では、正月の新潟地震の際、ABEMAで米山隆一がインフラ論を話したのは技術の話であったが、西村博之が「被災者の一部を見捨てることにつながるので今すべき議論ではない」としたのは正義の話といえる。最終的に、この論戦において西村は自ら技術の方に寄って行ってしまったので説得力を失ってしまったが、西村がポジショントークのために意固地になるような頭の悪い人だとは私には思えない。最後まで西村が米山を理解しなかったのは、その時の両者の議論の中心領域の差に起因していたのである。西村自身は普段から技術に基づいた合理論で話をしているせいで、その時自分の心に正義が宿っていたことに気づかなかったのではなかろうか。
コロナ・ワクチンという技術に対する反ワクチンの議論のほとんどはこの限りではなかった。なぜなら、反ワクチン理論はマイクロチップの陰謀論など、エセ技術によって技術に反論したものであり、技術領域で勝敗がついてしまうものだったからだ。一方で、「少数とはいえ副作用はあり、その少数者を無視するのはおかしい」や「例外状態だとしても国が国民からワクチンを打たない自由を取り上げる権限はない」などの正義による反論は比較的社会から受け入れられた印象がある。山本太郎なんかはその典型例だろう。技術に反論できるのは正義だけなのだ。
英国の元首相デイビット・キャメロンが繰り返した言葉に”Do the right thing”という言葉がある。これは彼が子供の頃に父から言われた”if you are not sure what to do, do the right thing.”という言葉から来ていると、彼は自伝に書いている。これは本稿風に言えば「技術による判断が不可能な場合、正義に従って決行せよ」という意味だろう。この思考様式は20世紀の精神として極めて正しかったわけだが、ひょっとすると、21世紀においては「社会正義に照らして判断不可能な場合、技術的に合理的な方を選択せよ」という規範に変わるかもしれない。そんな技術の時代の閉塞感を打ち砕く精神史の新局面の嚆矢として、トランス運動を解釈できるのではないだろうか。
と、本稿はその可能性を示すまでにとどめることにする。私は童貞学の自然な成り行きとしては、以上のようにトランス運動の精神に希望を見出すことになるのだろうと思う。まあ、そもそも我々は「楽しい青春とは男女で恋愛することである」というイデオロギーには苦しまされてきた人間である。しかし、一方で私はトランス運動批判が重要視する実用上の問題点が無視できるものであるとは全く思わない。例えば、異性の浴槽に助平心で侵入する男子・女子がもしいた場合に、それを法的に裁くことができなくなる状況があるとしたらまずい。さらに、男性の身体を持っていることの利益を得つつ、女性を自認することによって女性に付与されるアファーマティブな措置を悪意によって利用する人間が現れる可能性がある状態は、排除しなければゲームが不公平である。これは大学に設けられた女性枠や女子スポーツの問題だ。これらの実用面での問題提起を、トランス運動が「このような話はもううんざりだ」というようなヌエ的な言い方で退けるのは議論として正当ではない。実用上の問題は、精神的中心領域を離れた問題なので、「友と敵」の状態を抜け出して建設的に議論しなければ何も生まれないのである。この「政治的なもの」を放置すれば、最終的にどちらかの陣営が民主的手続きを経て例外状態を選択し、決定を押し切ることになる。この時、人々の多数派がなんとなく内実の伴わない社会正義を中心領域として認めたならば、その内実を後から専門家を名乗る人間が恣意的に実装することになりかねないという、宇佐美典也の批判も極めて正しい。これはテクノクラシーである。最悪の場合、その内実の曖昧性を政権が利用して権力を濫用する可能性すらある。これらの問題提起に関して、トランス運動が十分に応えられているように見えないのは、私の知識が浅いからだろうか。いずれにしろ、私は精神的にトランス運動にかなり寄っているとはいえ、これらの実用上の問題提起を無視するつもりはないということを最後に書いておかなければならない。しかし、この点について結論を述べるだけの知識は現在の私にはないので、語り得ぬことに関しては沈黙することにする。