2025.04.25 文責【猫跨ぎ】
セリーヌの小説『夜の果ての旅(Le Voyage au bout de la nuit)』の生田耕作訳には以下のような記述がある。
ほかでもない、このおりだ、「オペラ・コミック座」の休憩室で僕がアメリカ生まれのかわいいローラに出会ったのは、そして僕が世間を知ったのも、この女のせいだ。(中公文庫 p.78)
さて、この部分の原文は以下である。
C’est même à cette occasion, qu’au foyer de l’Opéra-Comique, j’ai rencontré la petite Lola d’Amérique et c’est à cause d’elle que je me suis tout à fait dessalé.
この部分を生田訳のような意訳をせずに訳すと以下のようになる。
まさにこの機会に、オペラ・コミック座の談話室で、私はアメリカ人のかわいいローラに出会ったのである。そして、彼女が原因で、私はすっかり塩抜きされてしまったのである。
さて、今回注目したいのは、この下線を引いた部分である。dessalerというのはsel(塩)をde(抜く)という語根からできており、単純に「塩抜きする」という意味を持っている。直訳すると「塩抜きされた」となるところを生田は「世間を知った」と書いているが、これは正しいのだろうか。
フランス語の最も詳しい辞書である『フランス語宝典(Trésor de la langue française)』によると、dessaler には、塩を抜く以外に、もう一つ意味があることがわかる。それが以下である。
B - 慣用表現として
1.(口語)誰かに、純情、純粋、臆病を失わせること
B.− Au fig. [L'obj. désigne une pers.]
1. Fam. Faire perdre à quelqu'un sa naïveté, son innocence, sa timidité.
『夜の果ての旅』は口語表現で書かれた小説であるから、もちろんこの部分も口語表現と捉えて良い。もちろん、生田もこれを意識して「世間を知った」と訳したのだろうが、暗に意図されていることはもっと具体的ではなかろうか。つまり、主人公バルダミュは、まさにローラによって童貞を喪失したのである。なので、ここは「女を知った」と訳してしまった方がよいのではないだろうか。
すると、もう一つの訳も気になってくる。それが以下の部分だ。
情欲に童貞があるように《恐怖》にも童貞があるもんだ。(p.19)
この部分の原文は以下である。
On est puceau de l’Horreur comme on l’est de la volupté.
直訳すれば以下のようになる。
人は「恐怖」の童貞である。人が快楽の童貞であるのと同じように。
生田訳には何の問題もない。周辺の文章が半過去で書かれているのに対し、この分だけが直接法現在で書かれていることからしても、この文章が一般論を語っていることは明らかである。
しかし、フランス語で読むとき、この文章には明示されない暗意が含まれる。というのも、onという人称代名詞は厄介なもので、「人々」や「我々」をおおまかに指すほかに、口語においては、「私」「我々」「君」「君ら」「彼」「彼ら」全てを差し得るのである。なので、これは文脈に依存するわけである。それを踏まえたうえで、生田訳で前後の部分を見てみよう。
情欲に童貞があるように《恐怖》にも童貞があるもんだ。クリシイ広場をあとにしたとき、どうしてこの恐怖が想像できただろう? 戦争の只中に実際に飛び込むまでは、人間どもの勇敢で不精で穢れた根性の中にひそんでいるものを、誰が見抜けるだろう? いまや僕は、大量殺戮と戦火をめざしての総退却の中に巻き込まれてしまったのだ……こいつは根深いとことからやってくるものだ、そしてそいつはついにやってきたのだ。
「こいつ」「そいつ」とあるのは、原文でもça, ceとあり、口語の文体であるために、文法的には何を受けているのかが定かでない。しかし、文脈から「恐怖」であることは明白である。つまり、この部分は、バルダミュ自身が恐怖の童貞を失う話なのである。この前の箇所で、彼は勇敢な(蛮勇なのだが)将校らを見て、その童貞が自分だけなのに気づいている。つまり、前後の分脈において、恐怖の童貞なのはバルダミュだけなのである。すると、快楽の童貞なのもバルダミュだけであることが、暗に示されているという構造になる。
最初に扱ったdessalerの部分だけで、バルダミュの童貞喪失相手がローラだと決めつけてしまうのは難しい。しかし、次に見た戦場における匂わせが先にあることで、ローラと出会う前のバルダミュが童貞であることが分かるのであり、これによって、読者はバルダミュの初体験の相手がローラであることを理解できる。日本語訳では、言語の根本的な問題からと訳の問題からの両方によって、これが分かりにくくなっている。
訳者にとって、バルダミュが童貞であるか否かなどはあまりどうでもいいことなのだろうが(実際、作品を通じて、そんなに状況を左右する要素ではない)、私からしてみれば、それによって感情移入できるかどうかが変わるわけだし、割と精密に読まなければわからないし、こんなことを気にする人はこの研究会以外にないだろうしなど、いろいろな理由から書いておこうと思う。
以上、まとめると、
・『夜の果ての旅』のバルダミュはローラによって童貞を喪失している。
・そのことは原文テクストを読解すれば二つの点から明白であるが、日本語訳からは読み取りにくくなっている。
ということである。