文責【猫跨ぎ】
マルセル・カルネの映画「天井桟敷の人々」の主人公バチストは思い人ガランスと一夜を共にするが、バチストは勇気が出ず行為に及ぶことができなかった。『三四郎』のような童貞の姿がそこにはある。思えば、例えば「巴里の屋根の下」や「ゲームの規則」など詩的レアリズム期のフランス映画には童貞でなくても、もてない男が存在した。しかし、普段スランス映画として思い浮かべられるヌヴェルヴァーグの映画に出てくる男はどいつもこいつもモテ男ばかりである。60年代の映画の革命によって、童貞やもてない男の恋はフランス映画から姿を消したようではないか?
文学のジャンルにも、同様の転換点がある。ロマン主義は男の恋の文学であった。例えば、『赤と黒』でジュリアンはレナール夫人を相手に自意識に縛られたいかにも童貞らしい恋愛をする。シャトーブリアンの『アタラ』やユゴー『レ・ミゼラブル』のマリウスなどはみな童貞であり、童貞だったからこそロマン主義恋愛を行うことができたのである。このロマン主義恋愛は日本に流入し、明治知識人の混乱を誘発するがそれは「日本の童貞」の分野で扱う。時代は下り、写実主義になると例えば、『感情教育』の序盤で描かれているのは明らかに童貞の心理であるにもかかわらず、主人公フレデリックの初体験は明言されず、いつの間にか童貞を喪失したことになっている(おそらくは高級娼婦と)。『ボヴァリー夫人』のシャルルも序盤のくだらない部分で童貞を喪失している。『パルムの僧院』に、主人公が「情事には困らなかったが、恋をしたことがなかった」という場面があるように、初体験の重要性はしばしば過小評価され、童貞でなくても初心な恋愛はできるという発想が写実主義にはあったように思われるし、またそれはロマン主義よりも事実に誠実だったのかもしれない。自然主義の時代、ゾラの小説にも童貞を喪失する人間は出てくる。例えば、『ナナ』のジョルジュ、『ジェルミナール』のエチエンヌだ。しかし、その内面はあまり描かれないし、初体験であることも明言されない。20世紀にに入る。童貞文学といえば、まずアンドレ・ジッドだろう。しかし、ジッドの場合彼が同性愛者だったというカラクリがある。初体験を重視した作家に、ロジェ・マルタン・ド・ガールがある。『チボー家の人々』1巻の童貞喪失のシーンは、優しい女性に手ほどきされている。実は、ここまで見てきた童貞喪失はすべて経験のある女性からもたらされている。一方で、20世紀のアヴァンギャルドは童貞から離れた。シュールレアリズムは童貞を黙殺したし、『肉体の悪魔』のような性の解放も目立つようになった。カミュもやけに当然のように性交する。さらに、ヌーヴォーロマンや。バタイユのような性的倒錯の世界は童貞問題をまるで超越した世界へと文学を高めていってしまった。文学に恋愛を取り戻したのは、戦後のボーボワール以降、サガン、デュラスなど開放的な女性たちの活躍によったが、彼女らの自由奔放さは童貞の窮状を前に推し進めるものであった。彼女らは嫉妬を軽視し、童貞の苦しみを棄却した。60年代後半、五月革命以降の既存の秩序に対する異議申し立ての流れの中で、恋愛市場の自由化は顕著になっていく。そんな中、ミシェル・ウェルベックは「非モテ」に視点を向け、現在の童貞問題を正面から扱った。今度ノーベル賞を受賞したアニーエルノーも初体験を重視する。現在は、新たなフランス童貞文学の萌芽とも呼ぶべき状態にあるのかもしれない。
現在、フランスで生まれる子供の65%は婚外子である。72年の民法改正により、婚外子に婚内子と同様の権利が与えられることになって以降、80年代11%程だったのが、2006年には50%を超え、今の65%に至るのである。結婚したパートナーとのみセックスを行うという性道徳が、70年代以降現在に至るまで破壊されてきた歴史がここに伺える。結婚を中心とした近代人権原理に童貞はある種守られてきたが、数字上フランスの状況は童貞にとって絶望的に思える。このような自由主義による童貞の窮状の激化はミシェル・ウエルベックによって文学的として描かれベストセラーになっている(『闘争領域の拡大』)。そのうえ、合計特殊出生率が約1.8と西欧でも高水準である。解放によって満足している男女が多ければ、少数の童貞の窮状はさらに厳しいものとなるだろう。
現在フランスにおいて童貞喪失の平均年齢は17~18歳となっている。童貞喪失の平均年齢は、戦後は18歳程度であったが、60年までの間に19歳程度にまで上昇、70年代までに戦後を下回る18歳未満にまで下がり、80・90年代は横ばい、90年代中ごろから緩やかに低下し現在に至っている。年齢が低下傾向になったのは、60・70年代と90年代半ば以降の二つの期間である。その中でももっとも勾配の急な60・70年代はフランス性革命の時代である。フランス同様アメリカでも性革命が起こっていた。(加筆中……)
文責【猫跨ぎ】
結婚相手がいない男性のネットコミュニティinvoluntary celibate、いわゆる「インセル(Incel)」の人間が苦しみのあまり、モテ男めがけてトラックで突っ込むテロが2018年、カナダで起こっている。北アメリカの童貞の現状は日本に比べて圧倒的に危機的であることが分かっていただけるだろう。昨今では、インセルはQAnonへの接近事例がしばしばみられている。このような排除と急進化の相互作用により、アメリカにおける童貞の窮状はますます深刻になっていくように思われる。
インセルのみならず、MRAs(Man's Right Activists)、MGTOW(Men Going Their Own Way)など、多くの「非モテ」ネットコミュニティを全体的に「マノスフェア(Manosphere)」と呼ぶ。この言葉は日本のフェミニズム界隈であまり知られていない。マノスフェアの論理は基本的に共通しており、まず男性に階層がある。モテ男がchad(alphaとも)と呼ばれ、複数の女性と恋愛している。モテ男ではないが1人の女性と恋愛できている人間はbeta、付き合えずに余った男性がomegaという具合である。よって、冒頭の事件に見られるように、chadをomegaが攻撃するという図式が成り立つのである。
フェミニスト的には、誰が何人と付き合ったって恋愛は自由だというのが自然な発想なのだろうが、現代の人権原理に照らせば、一夫一妻制の尊重の方が重みを増す。しかし、だからといって「男性に女性を1人必ずあてがえ」などという言説が許されるわけはない。恋愛結婚の普及や恋愛市場の自由化、60年代性革命と70年代のバックラッシュの中で、アメリカの童貞存在は現在も大いな矛盾に晒されている。性革命に関しては立花隆『アメリカ性革命報告』や亀井俊介『性革命のアメリカ』に詳しい。
マノスフェアの生の声は4chanや時には8chanを訪問するしかないが、その言説をリードする代表的なネットメディアとして、Return Of Kings – For masculine men をあげておく。
文責【猫跨ぎ】
……執筆中!!