2023/12/15 文責【猫跨ぎ】
この記事は2023年4月に他雑誌に寄稿したものを、許可を得て加筆修正し掲載するものです。
本記事は以の4章構成で展開する。
故障
恋愛が結婚などの制度や性交という人間の営みと不可分に結びついている現在のシステムは、全員が恋愛できるだろうという前提に基づいているが、実際には世の中には恋愛できない人間が存在する。ここに従来のシステムの故障が存在する。
闘争
恋愛主義による競争が存在する時、その闘争を戦おうとする人間が現れる。しかし、恋愛を闘争だと考えているのは、皮肉なことに専らもてない人間である。もてない人間の闘争は主に2つ、自分を磨き異性にアピールするか、小手先の恋愛心理学で自分を変えずに恋愛を実現させようとするか。
前者はIncelの一部に見ることができ、後者は恋愛工学やPUAsなどのネットコミュニティに見ることができる。しかし、彼らのゆがめられた闘争は最終的な勝利を彼らにもたらすものではない。むしろ、彼らの闘争は絶望に向かっている。
逃走
もう我々には恋愛は不可能なのかもしれない。そう考えた者たちが恋愛からの撤退を開始している。これが逃走である。その撤退先は2次元か、友愛か、恋愛しない新しい人間性の獲得か。そこには多くの試みが存在する。しかし、逃走は結局逃走でしかない。現在の故障を解決する手段にはならない。だからこそ、新たなる恋愛システムを構想する必要があるのである。
構想
恋愛闘争を激化させている要因の1つは男女平等だという指摘がある。確かに、どちらかの性に特権的に恋人を選ぶ権利が認められている場合、恋愛主義の故障は軽減されるだろう。学歴の高い女性の方が恋愛経験が少なく出生率も低くなるという事実もある。ここにきて国連人口基金はならば男女平等を取るべきだという考えを示し、ミシェル・ウエルベックは女性が男性に服従するイスラム教にチャンスを見出した。これらは危機を前にした社会の構想にほかならない。
しかし、それは現在の恋愛システムを保存した場合の2択である。本記事の構想は、もっと抜本的な第三の道を提案する。それは、選択した人だけが恋愛主義に移行できるという15世紀から19世紀にかけてヨーロッパでところどころ成立した贅沢としての恋愛というシステムを再現するというものだ。このシステムは有閑階級がまだ少数だったころには自然と存在したが、現在ではカンボジアのように総貧困化でもしなければ理論上存在できない。だから、恋愛を奢侈品として復活させるのではなく、「切り札としての恋愛」という発想を導入することを本記事では提案する。これは我々のはかないレジスタンスだが果たす価値のあるものだ。
恋愛主義とは何か?
恋愛主義とは恋愛がまずあるという考え方を言う。政策レベルで恋愛主義を前提しているのが現代社会だ。例えば、恋愛しているカップルならば誰でも結婚することができるべきだという考えのもとに同性婚という発想が生まれるわけだが、これは恋愛と結婚が結びついていなければ存在しえない発想であろう。20世紀中ごろまでブルジョワの結婚とは夫婦ー子供という家族制度を再生産することに主眼が置かれており、ニコラス・ルーマンによれば「あなたの事は好きになれないから結婚はできない」という拒否はあり得ても「あなたが好きだからあなたと結婚する」という発想は圧倒的に少数派であった。
フランスは例えば3つの制度を恋愛カップルのために設けている。Union libre(自由カップル)・共有財産を有するPACS・結婚だ。他の選択肢があるのだからフランスでは結婚と恋愛が必ずしも結びついていないと言い出す人がいるがそれは詭弁で、実際は恋愛と制度設計が強固に結びついているからこんなことになるのである。
一般的にフェミニズムは一夫一妻の結婚制度に疑義を付す。上野千鶴子は結婚を奴隷契約とすら言っている。フェミニズムは「1人としか恋愛してはいけないのか、結婚後は1人に仕えなければならないのか」と問うからである。しかし、逆にこのように問う事もできる。「では、1人とも恋愛できなければどうするのか?」。恋愛主義においては、恋愛できない人間は結婚も性交もできない。性交に関してはソープに行けとかいう人もいるが、わが国では売買春は一応法律違反である。恋愛主義を乗り越えるために犯罪をしなければならないとしたら、それこそ国家の前提が恋愛主義という事になる。上野がもてない男は「マスターベーションして死んでいただければ」と言ったのは有名な話だが、これは現実を突きつけたに過ぎない。
今日、性経験の格差は甚だしい。性体験の多い人間はますます多く体験し、性体験の少ないものは少ないままである。持つものは更に与えられ、持たざる者は持っているものまで奪われるという法則は資本に酷似している。東大医学部の研究で、男性においては年収と性経験率に正の相関があることが確認されている。これはある種当たり前のことで19世紀のイギリスでは稼ぐ能力のない男は結婚対象としては端からみられなかった。これが19世紀イギリスの晩婚化を招いたのだが、やはり歴史は繰り返す。
恋愛と結婚 恋愛と性交
日本は、戦前には身分制度に準じるものがまだ残っていた。大正期に帝国大学の学生を相手に調査した資料によると、初体験の相手に「家庭の女」や「女中」というのが多い。「家庭の女」というのは、『浮雲』でいう勢子、『平凡』の雪江に該当する女で、男が下宿する家庭には大体女がいたのである。また、明治時代には妾というのがいて、正妻とは性交して子供を産むが、恋愛はもっぱら妾としたのである。これは「色」と呼ばれる肉体恋愛であったと佐伯順子などは指摘している。実際、妾と西洋的情熱恋愛をしたというのは考えにくい。状況は西洋でも似たようなもので、特に19世紀までのフランス文学では恋愛は概して結婚後に行われている。スペインやイタリアでは14世紀から姦通が粋なこととされていたという指摘もある。昔は恋愛・性愛・結婚は別れていたのだ。
また、恋愛した者のみが性愛を経験できるという清教徒的観念はキリスト教的価値観において夫婦以外との性交が罪とされたことと恋愛結婚が結びついたことで生まれた観念であると大澤真幸が書いているが、恋愛と性交の結びつきは現在の場合90年代以降性病の蔓延によって強化された。ステディ・セックスという言葉があり、これは決まった相手とのみ性交をするようにという性教育で使う。「アメリカングラフィティ」という60年代のアメリカを描いた映画に「ステディになったみたい!」と中学生くらいの女の子が喜ぶ場面があるが、この子は男にプレゼントをもらってそう発言する。恋愛に準じるコミュニケーションをステディに対しても行っていたわけだ。恋愛の後に性交があるというのが社会通念だという考えには時々反対意見もある。そういう人は「一般的にはセックスフレンドに対して愛情はない」などという訳だが、私からすればセックスフレンドというのがまず一般的じゃない。実際バタイユが倒錯などと呼ばれるのは、恋愛主義に逸脱しているからだろう。さらに、私のレベルまで拗らせるとバタイユの小説でもある種の恋愛感情めいたものを感じてしまうのである。
現代では恋愛と性交は不可分に結びついているし、恋愛と結婚も不可分に結びついている。結婚と性愛の関係は一方向的で、結婚から性愛は当然のこととされているが、性愛が結婚の理由となるということは少ないだろう。いずれにせよ、まず恋愛があり、そこから性交と結婚に矢印が伸びる。恋愛主義の行きつく先にあるのは、恋愛できない人間は下の段の2つにはアクセスできないというエラーなのである。
故障の結果
この故障は現実に悲鳴となって現れている。2014年、カルフォルニア大学の学生であったElliot Rodgerという学生が女子学生サークルの入り口で銃を乱射し6人を殺害した。事件前日、彼はYouTubeに「Elliot Rodger’s retribution(エリオット・ロジャーの復讐)」という動画を投稿していた。以下がその発言内容の一部である。
「This is my last video and all has to come to this. Tomorrow is the day of retribution, the day in which I will have my revenge against humanity, against all of you. For the last eight years of my life, ever since I hit puberty, I’ve been forced to endure an existence of loneliness, rejection and unfulfilled desires, all because girls have never been attracted to me. Girls gave their affection and sex and love to other men, never to me. I’m 22 years old and still a virgin, never even kissed a girl. And through college, 2 and a half years, more than that actually, I’m still a virgin. It has been very torturous. 」
彼は自分が白人で裕福であるのに女性に相手にされないことに怒っていた。結果、彼はすべての女性が敵であるという妄想に捕らわれたのだ。彼は銃乱射の後、裕福な父にもらったBMWの中で銃口を自分に向けて引き金を引いた。彼の事件は、英語圏のもてないコミュニティで伝説となった。現在も「go ED(Elliot Rodger)」というスラングがあり、彼のように復讐を遂げて死ぬことを意味する。彼の崇拝者が起こした殺人事件が、英米で少なくとも7件発生している。最新のものは2021年のプリマス銃乱射事件である。
彼らのしたことは許されることではない。彼らは自分の絶望に多くの幸せを巻き込んで死んだ犯罪者たちだ。しかし、彼らはある意味では恋愛主義の犠牲者でもある。Rodgerを追った犯罪者らの多くは彼同様自殺している。彼らは生きる希望を失っていたのである。
彼らの苦しみがもし恋愛主義の社会のシステムの故障に起因するものであるならば、制度を新しくデザインすることがいま求められているのではないだろうか。少なくとも、これを構想することは有意義な試みであろう。
自分磨きする男たち
海外のもてない男コミュニティにIncelなるものがある。これはInvoluntary celibateの略で直訳すれば「望まない禁欲者」という意味である。celibateはフランス語で言えばcelibataireとなり独身を意味する。まあ、要するに「もてない」という意味だ。これはAlanaというハンドルネームのもてない女性によって作り出されたネットコミュニティであったが、彼女は次第に恋愛に成功するようになってそこを巣立ち、数年後、彼女が気づいたころには巨大なもてない男コミュニティと化していた。
このコミュニティ内には恋愛に絶望している人たちのほかに、恋愛を実現するために努力する人たちもいる。例えば、筋肉をつければ女性にもてると考えている人たちはgymに通うincelであるためgymcelと呼ばれている。筋肉をつけることがもてるための正しい戦略かどうかはさておき、彼らは一応もてるために努力して自分を変えようとしている。他にも、ratingなる行事がしばしば開催されており、自撮り画像をアップロードし、髪型やファッションに関してコミュニティからダメ出しをもらうというものである。これも一応もてるための努力をしている。もてるために自分を変えようとする人たち、これがもてない男たちの1つめのグループである。
恋愛工学する人々
第2のグループは、心理学を用いて女性の気を引こうとする。たとえば、日本には恋愛工学というものがある。これは藤沢数希という人物が2012年以降発信している概念であり、心理学や金融工学に裏打ちされたナンパ術などと謳っているが、これが実に気持ちの悪い考え方なのである。ここでは「プレゼントをしたら返さなければならないという心理が働くからこれを利用する」だの「水族館と動物園どちらに行きたいかという選択肢を与えれば、デートしないという選択肢は必然的に消える」だのと、人間の認知を利用して相手をコントロールしナンパを成功させる技術が紹介されている。これは相手を下に見る行為で気分のいいものではないが、人を徹底的に下に見ることでモテることができるというのは岡田斗司夫も言っていることで、ある程度理にかなっているのかもしれない。これは自分を変えず、対した努力もせずに恋愛に成功しようとする点で、第1のグループとは異なる。
恋愛工学が欧米にも存在する。それがPUAs、Pickup Artistsである。pickupはナンパ、artistは芸術家ではなくart=技術を持つものという意味で、合わせて「ナンパ師」を意味する。これはpickup guruと呼ばれるナンパの師匠がその他のナンパ志望者を指導するという形のフォーラムで、RSDなる世界最大の恋愛塾はここ発祥である。この塾ではPUAsのインフルエンサーが講義を行い、その受講料を生徒に払わせるという形を取っており、これで荒稼ぎをしている。日本と関わりの深い人間でいえば、講師の1人のJulien Blancは「White male fucks Asian women in Tokyo」という講義で、「「ピカチュウ」といいながら女の顔をつかんで股間に押し付けるんだ。最高だった。」などと発言し、アジア人差別として問題となった。しかし、彼は現在も「JulienHimself」というアカウントでYouTuberとしてナンパ術を教える活動を続けている。
PUAsも心理学を用いた恋愛コミュニケーションを多々教えている。会話の際は女性に5秒以上話させず、必ず遮ることで相手を不安にさせて自分を優位に立たせるとか、会話の中に性的なものを連想させる単語を入れながら話し、精神の奥底で欲情させるなど、内容はほぼオカルトというか、むしろやったら嫌われる気がするのだが、これに金を払っている人間がいるというのが気の毒である。
もてない人の闘争
以上の2つのグループ、自分磨きする人たちと小手先で何とかしようとする者たちが、恋愛闘争の結果生まれる。彼らの中にはもしかしたら成功する人がいるかもしれない。しかし、恋愛工学やPUAsなどは受験産業と同じで、闘争が激化するほど肥える。つまり、この産業はもてない人の苦しみが増えるほど得をする構造を持っており、なんの解決にもならない。そもそも、このような奇妙な産業が成立してしまう事自体が恋愛主義の故障である。第1のグループに属するgymcelなども結局はincelの一部であり、彼らもいつ絶望に落ちるか知れたものではない。Incelにはgynocracyという陰謀論が存在し、これは女性が結託して性交を与える男性を選別し、男性を支配しているという妄想である。incelの原動力はこの陰謀論であり、gymcelも基本的にはこの陰謀論を信じているのである。
闘争を激化する要因
また、赤川学が指摘する所によると、女性が上昇婚傾向(自分より社会的地位が上の男性と結婚しようと考える傾向、ハイパガミー)を持っている場合、女性の社会進出が進むと必然的に出世した女性と雇用からあぶれた男性が恋愛市場に取り残されることになる。実際、東大医学部が出した統計では女性の学歴と性経験率は逆相関するという事が分かっている。性淘汰の論理でいけば、この状態が続く限り、女性は階層を下げ、男性は階層を上げることが支配戦略となり、男女平等は進化の論理として達成不可能になってしまう。現在の恋愛システムを続ける限り、この故障は継続する。
また、Incel内部にも男余りを説明する理論が存在する。それは、女性は年上の男性を好み、男性は年下の女性を好むため、少子化傾向にある世の中では数の多い上の世代の男性が数の少ない下の世代の女性を取り合うため、各世代で少しずつ男性が余っていくという論理である。この妥当性は分からないが、底辺YouTuberでメンタリストのDaiGoによると、男性における女性の好みは21歳に集中し、女性の男性の好みは同世代に集中するらしい。これが本当ならば、男性は理想を実現するためにさらに厳しい競争を演じることとなってしまう。
このように、恋愛主義は苛烈な競争を誘発するシステムである。遺伝子を残すために、この闘争を勝ち抜かなければならないのか。そんなに異性が好きなのか。そんなに子供が好きなのか。恋愛や性愛への執着をなくせば、我々は知足や則天去私の領域に移行できるのではないか。ゲームだけやって死ねばいいじゃないか。そう考えた人が闘争から逃走へと移っている。
性的撤退
日本の異性間性交未経験率は2000年代と現在を比べると上昇している。男性においても女性においてもである。2000年代までは他の先進国と同様に減少傾向にあったのが、現在にかけて上昇傾向に転じたのである。男性も女性も18・19歳においては約4人に3人が性交をしたことがない。例えば、フランスでは男女とも17歳弱で50%を超える。性の若年化に対する反転は日本特有の現象である。これが日本人の性的撤退だ。
一方で、攻殻機動隊Ghost in the shellのハリウッド版映画などを見ると、東京の街が風俗のネオンで埋め尽くされているのが印象的だ。東京ほど大っぴらに風俗店やラブホテルが正面に出ている都市も珍しい。こんなに性の反乱している日本において、性的撤退が起こっているというのは矛盾のように思えるかもしれないが、小谷野敦の言葉に示唆がある。
「素人女が、無償のセックスに容易に応じなくなったからこそ、中世の遊女、近世以降の遊郭が栄えたのである」
私は現代についてもこれがいえると思っている。再三指摘しているように恋愛と性愛の結びつきは激しい。日本における風俗の卓越は、日本における恋愛からの退行現象の証拠に他ならないのだ。
BBCが日本の性的退行に関して「No sex please, we're japanese」という特集を組んで報じたことがある。そこでは日本人の退行現象は二次元への疑似恋愛が原因であると結論付けられていた。そんな疑似恋愛をする理由として考えられていたのは、日本の低成長であった。親と同じ生き方をしたくないという若い世代が、恋愛し結婚し子供を産み育てることを放棄したのだと。これは私には納得できなかった。
人新世の「恋愛論」
2020年から東大比較で准教授に着任した斎藤幸平は資本主義の行き詰まりに対し「脱成長」を強調した。実際、中国の寝そべり族など、脱成長は我々世代にとって重要なキーワードになりつつある。競争のある所には脱成長が生まれる。日本人の恋愛からの退行はむしろ恋愛主義自由競争に対する「脱成長」として解釈することもできる。私はこれが最も妥当性があると考える。
恋愛から脱する試みは文学作品を通じても行われている。フランスの作家ミシェル・ウエルベックは作家生活を通じてこの問題に取り組み続けている。彼は『闘争領域の拡大』という小説処女作で恋愛闘争の結果自殺を選ぶ人間を描いた。これが「故障」と「闘争」の提示だったわけだ。その後、彼の作品は「逃走」を提示する事に移行した。『素粒子』では性交をせずに複製することができるようになった未來人類を描いて、恋愛競争が消滅した社会を描いた。このような人間性の変化による恋愛の克服はSFにおいては可能である。サイバーフェミニズムと同じだ。しかし、現実には難しい。とはいえ、彼の思想はポスト・ヒューマンと呼ばれる昨今のトレンドの一つであり、人新世の「恋愛論」と呼ぶに値する。
恋愛からの逃走もまた恋愛
近藤顕彦は初音ミクと結婚したことを宣言した。彼は初音ミクへの想いを結婚と結びつけている点で恋愛主義の強い支配下にある。しかし、恋愛主義を逆手にとって恋愛から逃走した点で興味深い存在ではある。彼の他にも、イギリスで性交しない日本人として注目を浴びた「あの松井」という芸人は現在2次元に対するセクシュアリティを認める社会運動を行っている。彼らは人間以外への恋愛によって現実の恋愛から逃走している。しかし、敢えてきついことを申し上げれば、これは現実逃避に他なるまい。
近藤も、若いころは恋愛を目指していたと言っており、その諦めの末が初音ミクとの結婚であったことをSNS上での発言で認めている。そして彼は恋愛の重要性を訴える人間にしばし反発するツイートを投稿している。恋愛市場に対する未練がなければそんなことはするまい。あえて言えば、彼は競争を辞退したのではなく闘争に敗北して逃走したのである。オタクも二次元への指向性があるというよりは「リアルはクソゲー」といった消極的な動機付けを持っている。彼らがもし現実でモテていたら逃走などしなかったのではないだろうか。その意味で、この逃走は成功の期がありつつも未完成の作業である。やはり逃走は逃走でしかない。
それではいよいよ新たな恋愛システムの構想に入ろう。ここまでに議論で、恋愛主義は本質的なエラーを抱えており、闘争による苦しみがテロや陰謀論を生み出したり、逃走を誘発したりしているということを見てきた。ここからはこれらの問題を解決するような恋愛システムの脱構築を構想していこう。
『服従』という解決はデストピアである
ミシェル・ウエルベックは「逃走」を描いたのちに「構想」に移った。彼が恋愛システムの転換を構想した小説の一つが『服従』である。本作もやはりSFで、イスラーム政権がフランスに生まれたらどうなるかというのが主題だ。彼は恋愛主義の苦しみを超克するために新たな「オーギュスト・コントを土台とした」新しい宗教が必要であるという事をインタビューで発言していたが、まさに『服従』が発売された際のインタビューで「新しい宗教が形成されるどころか、古い宗教が目を覚ますことも大いにありうるのです」と言っている。彼はイスラム教に恋愛問題を超克する可能性を見出したのである。
では、具体的にイスラームがどのように恋愛問題の超克に寄与するのだろうか。作中に現れたイスラム化したフランスでは、女性は全員ヴェールを羽織って外出し、性的刺激を主人公に与えなかった。そのため主人公は性的な問題を次第に気にしなくなっていく。イスラムの厳格な性道徳が現在の性的な過剰競争を鈍化させたのである。これが一点だ。
もう一点、小説の最後で主人公は大学教授で社会的地位が高かったため多くの妻をあてがわれることになる。恋愛と結婚が切り離されたのだ。ここにきて、恋愛と性愛と結婚の全ての要素が別々に解決され、主人公は幸福に近づいていく。ウエルベックはイスラムの恐怖を描いたと俗に言われるが、そんなことはない。彼が書いたのは男にとっての理想郷である。
しかし、今アフガニスタンで問題になっているように、イスラム原理主義の論理は女性差別を前提としている。題名である「服従」という言葉が作中で使われるのは一度だけで、しかも以下の文脈だ。
「女性が男性に完全に服従することと、イスラームが目的としているように、人間が神に服従することの間には関係があるのです。」
つまり彼は女性が男性に服従することによって苦しみがなくなると説いたのである。しかし、ここに来てしまっては、ウエルベックの構想を受け入れることは社会的エリートである多くの東大生にとって難しくなる。人はみな平等だというのが我々の共通の価値でありルールである。今日のエリートにここを譲る人は少なかろう。
子どもが減って何が悪いか! 悪いよ!
男女平等と恋愛主義の相性が悪いことはしばしば指摘されてきた。学歴の高い女性は恋愛経験が少なく、実際女性が社会進出すると少子化が進行するということを赤川学も書いている。赤川は、ならば男女平等を優先し少子化は問題にしないほうがいいと『子どもが減って何が悪いか!』に書き、奇しくも同様の趣旨の発言が先日国連人口基金から出された。
しかし、同書で赤川は少子化の原因の約8割は結婚前の段階とも述べている。少子化の主な原因は結婚離れ、もっと言えば恋愛離れだというのだ。ということは、少子化の解決をあきらめるという事は、多くの日本人が恋愛をあきらめるという事を意味するのではないのか。赤川ははっきりそう書いていないが、私には彼が「女性が社会進出すれば恋愛は難しくなるが、それでいいじゃないか」と言っているようにしか思えない。
2ちゃんねる創設者ひろゆきはAbemaPrimeにて赤川の少子化論に対し「少子化で不安がないって言っている人って頭の悪い人しか見たことがないんですよね」などと発言し、赤川は返答しなかったが、私はむしろこう聞いてみたい。「今、恋愛闘争が原因でテロとか起こっているんですけど、そんななか恋愛離れが進んでも平和な日常が続くと思っているのって、頭悪くないすか?」第一章で見てきたように、現在の恋愛主義システムには故障がある。それを変えずに恋愛離れに突き進もうという考えは加速主義だと私は思う。
恋愛システム再考
男女平等・恋愛主義の結びつきが、現状の故障や少子化を作り出している。ウエルベックは男女平等を取り崩そうと言い出し、赤川はこのまま突き進もうとのたまっている。しかし、第三の道が残されている。それが恋愛主義の変更だ。
しかし、一つだけ言い訳をしておきたい。恋愛主義はイデオロギーだが、恋愛は人間の行う基本的な行動の一つである。どれだけシステムを変えようと、人間は恋愛をする生き物である。確かに「恋愛」という言葉はloveの翻訳語で明治に誕生したものだが、『源氏物語』の登場人物たちは私たちと同じように恋愛に心を悩ませている。恋愛というのは結局定義が難しく、小谷野敦は「この女では嫌だ、あの女がいい、という意識が生まれたときがあったとしたが、それが恋愛の始まりだろう」などと言っているが、では性選択のある全ての動物は恋愛していることになる。ポルノグラフィティの言うように、アポロが月に至ったとしても、我々はジャングルに住んでいた時から同じ愛の形を探しているのかもしれない。いや、スタンダールの言うように恋愛は発展した社会でしか生まれないのかもしれない。しかしいずれにしろ、現在の社会の現実を考えるに、恋愛を消し去ってしまおうなどという事は考えられないことだということを決めておこう。
バルザックの小説に「恋愛結婚した両親の子供がしばしばそうであるように、彼女は美人であった」と書いてある部分がある。外見の良い人には恋愛のチャンスがあり、外見の良い2人から生まれた子供は当然外見がいいということだろう。この一節は恋愛結婚は条件を満たした人間が選んで行う物であったことをよく表している。19世紀前半のバルザックの時代には、外見がよく恋愛において優位にあった人間は自ら恋愛結婚を選ぶことができた。ヴェルナー・ゾンバルトによれば19世紀フランスや15世紀イタリアなど富の蓄積に成功した都市において贅沢として恋愛結婚がはじまったという。スタンダールはフランスの恋愛は虚栄恋愛だとしているが、これはヴェブレンの指摘するように有閑階級において見栄が発達し恋愛が加速するという構造にも符合する。有閑階級がほんの一部で、その中でも恋愛が可能である特性を持つ人間が選択して恋愛に向かい、あるいは崩壊し、あるいは幸福になる。そんな時代だったからこそ、恋愛小説はフィクションとして栄えた。バルザックは2人の人生を交互に選び恋愛結婚がお見合い結婚よりも不幸な終末を迎えることを小説で描いているが、同時代の作家ジョルジュ・サンドはそれでも恋愛結婚を選ぶ方が魅力的に思えるとバルザックに書簡を送っている。彼らは恋愛結婚に憧れていたが、恋愛結婚は実際には一部の人間に開かれた贅沢でしかなかった。
また、恋愛はしばしば出世のための奥の手として使われた。良い家に生まれたものや資産家は基本的に望む結婚を実現できる。しかし身分の低いものや収入の少ないものは困難であった。ここを恋愛という奥の手によって侯爵夫人に取り入り、上流階級の社交界に入るということが立身出世の方法だった。恋愛は基本的な社会規範を跳び超えるためのダイナミズムとしても用いられた。これは富ではなく才能のみで恋愛闘争に挑んだものに与えられた特権であった。つまり、富がなくても才能があればあるいは恋愛に参加できたのである。当然運も必要だが、全ての階級に開かれつつ閉じられている恋愛というのはかなり理想的な恋愛システムではないだろうかと私は思う。
レジャーが国民に与えられるようになったのは36年のフランス人民戦線においてである。以降、先進国の国民は総じて有閑階級へと移行した。贅沢品であった恋愛は徐々に全ての人に開かれていった。60年代に性が解放され、90年代のエイズを通じて性教育が拡充した結果フランスでは初体験の年齢がさらに低下する事態が起こったが、この間見栄や世間体が恋愛主義競争を助長し、今の状況を作り出した。国民が貧困化すれば出生率が上がるという話はよく聞くが、それを説明する論理は社会階層の変動などよりも恋愛にあると私は思う。貧困になれば贅沢品である恋愛は問題でなくなるからだ。しかし、だからといって有閑階級を解体しようというのでは現実性がない。本稿の最後に私が提案するのは、時計の針を単純に巻き戻そうというのではなく、全く新しい発想による過去の再現である。
19世紀、恋愛は贅沢品だった。実は現在もそうである。岡田斗司夫によると今日の若者の恋愛は高級車である。くれるというならもらうけど、別に要らない。一方で、恋愛できない苦しみが文学に登場しているのも今日の特徴である。昔は恋愛の苦しみは良く歌われたが、恋愛できない苦しみを書いた和歌などは私は聞いたことがない。これは、国民が有閑階級になって贅沢品でも手が届くと思ってしまっていることに原因がある。つまり、恋愛が手の届く範囲に存在する高い価値のものというポジションにあるのは、昔は良かったが、ほぼ全員が完全に有閑階級となった現代社会においては都合が悪いのである。恋愛を一部の人が選んでアクセスでき、アクセスした人を妬まない社会にするためには恋愛を贅沢品以外の何かにする必要がある。
切り札としての恋愛
そこで何かいいものはないかと探して思いついたのが人権であった。私たちは人権を持っているが、普段はこれを行使しない。人権を侵害された人は人権を発動することを選択するわけだが、それを我々は妬んだりしない。もちろん、人権侵害があっても自分の人権を発揮しない人もいる。人権は我々の切り札なのだ。これは憲法学の用語で「切り札としての人権」とよぶ。様々な法律的事案を「人権」という言葉で裁こうとすると解釈の余地が大きすぎるので、基本的には具体的な法律によって個別の事例を処理し、その枠組みでは判断しえない大きな人権侵害が発生した場合に切り札的に「人権」という概念を判断のテーブルに出そうという考え方である。
さて、今日我々は皆恋愛するものと考えられている。これが恋愛主義で、故障の原因だった。しかし、恋愛を結婚や性交に通じるための切り札として発動する権利としてとらえ、普段はそれ以外の基準によって社会生活が送られるものとする仮定のもとに制度を設計し、人々も生活を行うのであれば19世紀的な恋愛世界を疑似的に再現できるのではないかと思いついたのである。
もちろん恋愛は拒絶する際にも切り札的に機能する。いくら条件が良くとも、恋愛を理由に結婚等に反対する時、その効力を十分に認める。ロバート・ダールは現在のシステムは拒否権を発動しあうことによって決定が行われるVeto systemに移行しているという指摘をしているが、その恋愛版だ。決められた結婚に反発し自分の恋愛を貫くというロマン主義的逃避行に絶対的な法的効力を与えるならば、『マノン・レスコー』のような悲劇は起こらず、一部の競争を望む人間には競争が与えられ、その他の人間には安らぎが与えられる持続可能な恋愛システムがもたらされるのではないか。
もちろん、恋愛システムを変えるには我々の認識を変えなければならない。しかし、その変化をもし希求するならば、まずは思想を準備し、方法論を準備し、100年単位で社会を変えるような大きな構想を作らねばなるまい。本稿はその第一歩となることを目指すのである。
恋愛主義は現代人の最も大きな妄想の一つである。これは多くの苦しみを生む。東大生だからといってモテる気でいると期待を裏切られるだろうし、友人に恋人ができると焦燥を駆り立てられることになるかもしれない。恋愛は自然な感情だ。その発生はどんな論理によっても抑えられるものではない。だからもちろん、闘争してもいいし逃走してもいい。しかし、どちらを選んだとしても君は現在のシステムの中で恋愛することになるだろう。それが耐えられない人は、来るべき新たな恋愛思想に向けて思索を重ねようではないか。22世紀の恋愛思想はもう始まっているのだから。
(参考文献)
赤川学『これが答えだ! 少子化問題』ちくま新書 2004
ヴァレンシー, モーリス(沓掛良彦/川端康雄 訳)『恋愛礼賛 中世・ルネサンスにおける愛の形』 法政大学出版局 1995
ヴェブレン, ソースタイン『有閑階級の理論 [新版]』ちくま学芸文庫 2016
ウエルベック, ミシェル『闘争領域の拡大』河出文庫 2018
『素粒子』ちくま文庫 2006
『服従』河出文庫 2017
「アガト・ノヴァク・ルシュヴァリエとの対談」『ウエルベック発言集』白水社 2022 pp.269-287
上村くにこ『失恋という幸福 U教授の『恋愛論』講義』人文書院 2003
小谷野敦『もてない男』ちくま新書 1999
澁谷知美『日本の童貞』 河出文庫 2015
スタンダール『恋愛論』新潮文庫 1970
ゾンバルト, ヴェルナー『恋愛と贅沢と資本主義』講談社学術文庫 2000(1912)
バルザック『ゴリオ爺さん』新潮文庫 1972
ブロー、バーン・ボニー『売春の社会史』ちくま学芸文庫 1996
プラド夏樹『フランス人の性 なぜ「#MeToo」への反対が起きたのか』
「少子化ってダメなこと?人口減少で60代が労働力の中心に?ひろゆき×成田悠輔」abema(https://abema.tv/video/episode/89-66_s99_p3390)
「「出生率押し上げより男女平等を」 国連人口基金が提言」日本経済新聞2023年4月19日(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA178CQ0X10C23A4000000/)
BATES, Laura, Men Who Hate Women: From incels to pickup artists, the truth about extreme misogyny and how it affects us all., Simon & Schuster UK, 2020
DELVIN, Kate, Turned on: Science, Sex and Robots, Bloomsbury Sigma 2020
SMITH, Helen, Men on Strike: Why Men Are Boycotting Marriage, Fatherhood, and the American Dream - and Why It Matters, Encounter Books, 2015
UEDA, Peter, «Trends in heterosexual inexperience among young adults in Japan: analysis
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