2022.11.30 文責【山岳派】
宮台真司が襲撃されたという報道を受け、いてもたってもいられず、心に浮かんだ宮台が関係する童貞学の議論を雑文として記した。童貞学と宮台の議論は親和性が高い。もちろん、主張が齟齬する部分もあるが、私をはじめとして、東大童貞學研究會の会員は多くが宮台を私淑している。よって、今回の事件に関しては、暴力は許されないという一般的な価値観を飛び越え、敬愛する宮台の状況に同情し、怒り、悲しんでいる。まずはじめにそれを明言しておく。
佐藤俊樹がいつかの講演で「社会学者というのは強烈な魔力を持っている」といっていた。「世の中には自分の事が大好きな社会学者というのが結構います。これはかなりの教祖力がありますよね」「有能な社会学者は部分的なデータを見せて人をだますテクニックをみんな身に着けていると思います」など数々の名言を生み出したが、これを聞いたとき、私は宮台真司や大沢真幸のような学者の顔が思い浮かべたものだった。小谷野敦が宮台にあんなに信者が多い理由が分からないと書いていたことがあったが、答えは単純に宗教だからという事だろう。宮台自身、自分は学生時分ノーム・チョムスキーや廣松渉に「感染」していたとしているし、それをよかったと書いているので、自分が教祖のようになっていることも否定的にとらえていないようである。また社会学自体、デュルケムやウェーバーを教祖のように讃えている節があるし(佐藤もウェーバーが好き)、オーギュスト・コントに至っては晩年に「人類教」なる宗教を生み出し、今でも南アメリカで残存していると聞く。宗教社会学などという領域も存在するが、ラプラスの悪魔みたいなもので、社会学は自身の宗教性をどこまで感知できているのか不明なのである。
ただ、宗教チックだとは言え、もちろん社会学は間違いではない。社会学の積み上げた知の根底を疑えば、それこそポモであり、私の最も嫌うところである。しかし、社会学者のいう事にはしばしば嘘が混じっているという事ははっきりと言えるだろう。厄介なのは、彼らが投げているのがシゴロ賽であるという事だ。高確率で高い目を出すが、たまに目無しになることもあるから不正がばれにくい。適度に正しいこと(データなど)を織り交ぜて時に理論を敷衍して宗教的になるので、相手が今使っている賽がシゴロ賽なのか通常のサイコロなのか判断がつかない。だから、社会学者はしばしば議論に強いのだろうと個人的に思っている。
ウェーバーが価値自由という事を言い、ルーマンなどは社会変革に対して大きなシニシズムを持っていた。人々が行動するのは社会が原因であり、更には自分がそのことを指摘することも社会の影響であると、なんでも「掌の上」自分すらも「掌の上」と相対化するような徹底的な他力本願は、佐藤俊樹の『社会は情報化の夢を見る』などにも見ることができ、反論の余地のないほど議論が閉じている。一方、宮台は自分の行動の原因を社会に求めるには至ってないようである。宮台が自分がADHDであり社会規範から外れていることを強調しているのは、この点に関するひそかな言い訳であろう。
また、宮台が社会学に伝統的なシニシズムと離れているところは、「加速主義」者であるという事だ。社会はなるようにしかならないと社会学者ならば一般的に考えそうなものだが、宮台は変革を希求している。さすがに廣松の弟子だっただけあって、「哲学者は世界を解釈してきたが、大切なのはそれを変革することである」なるマルクシズムを心に抱いているようである。この点で、童貞学は宮台を見習うべきだろう。
私は、社会変革の意志をもって「童貞学」を構想した。第四波フェミニズムの暴走が、男性性を衰弱させ、ミシェル・ウエルベックが指摘するような童貞やもてない男のコミュニケーションの劣化が発生し、現在の「童貞の窮状(being virgin predicament)」が生まれたという問題意識が全ての始まりだったからである。第三波フェミニズムは女性の性愛への自由を主張した点で宮台と相性が良かったわけだが、第四波は性の排除をラディカルに進める側面があり宮台との相性は悪い。童貞学も立場は大体同じである。実際、童貞学は「ルッキズム」の過度な助長などに反対しているが、この理論的支柱は宮台真司の「クソフェミ」批判や、彼の共同体形成の議論から借用している部分が多い。童貞学も、ほぼ宮台教なのである。情けないことだが。
明治時代の『三四郎』や『平凡』の童貞の姿を考えれば、「童貞史」や「童貞文学」につながり、私の専門地域であるフランスや、童貞問題(童貞であることによって個人に生じる問題)の激化が危ぶまれるアメリカに研究の触手を伸ばしたところ「比較童貞学」なんぞが生まれた。しかし、ラクロなどフランスの恋愛小説への言及もやはり宮台が行っていたことである。宮台よ……。
さらに、宮台の書いたことで最も童貞学的理想に近いのは、本会がTwitterで引用しなこともある以下の文章であろう。「傷つきたくないけど、愛に包まれた関係が欲しいーー幼稚すぎる。無論、好きにすればいい。でも、傷つきたくないといい続ける君には、愛によって永続する関係は永久に得られない。」(『14歳からの社会学』)この宮台の発言は、14歳にとってはもちろんエールだろうし、傷ついても行動しようという勇気は確かに昨今の童貞に足りないものである。私にもない。もちろん、その結果「愛によって永続する関係」が手に入るという理念は、眉唾な点がある。小谷野敦が『もてない男』で書いているように、この「永遠の愛」なる理念は昔から存在するが、一人を生涯愛し続けるなどという事はやはり困難であろう。この宮台のロマン主義恋愛チック(小谷野に配慮して「チック」としておく)な理念は、ルーマンやそれを引いた大澤真幸の恋愛論にはないものであるし、宮台はきっと間違っている。しかし、そんな恋愛を信じ、一夫一妻制を尊重し、生まれ変わろうとするのは、童貞学としては「理にかなっている」。宮台は色々と童貞の耳には痛いことを言うが、結局童貞学の「実践的」な側面に非常に親和性があるのである。
さらに、本会の中には、私と考えが全く異なるのだが「童貞・加速主義」を訴える人間もいる。彼曰く、あらゆるポルノの規制を撤廃し、男をポルノ漬けにすることによって、童貞は日常生活を賢者タイムの中で過ごすことになり、すると童貞の病的な自意識をはじめとした童貞の窮状が解決し、色々とうまく生きだすだろうというのである。行くところまで行こうという発想が加速主義的である。
この考えは、少し前に宮台がAbema Primeで発言した「メタバースとユニバースの綱引き」に対応させて考えることができる。つまり、ポルノ漬けによって快楽を得るのは、仮想現実やドラッグによって幸福を得る「メタバース」の幸福。そうではなく、人間関係を構築し、人間の女性を相手に恋に落ち童貞を喪失するというのが「ユニバース」の幸福である。ここで私は、生殖行為は生命の根源的な営みなのでこれを世界とのつながりとみなしたが、彼女によって社会的な承認をあたえられるという面では、ユニバース以前の社会による幸福実現といえるかもしれない。いずれにせよ、童貞学の持つ絶望的な側面は容易に加速主義に結びつき得る。宮台は自身を加速主義者だと言い張るが、では「れいわ新選組」に投票したのは、金を刷りまくって崩壊する日本が見たいからなのか。おそらくそうではないだろう。宮台の発するメッセージは加速主義とは本当は大きくずれている。
このように、ある種トランスヒューマン的童貞を考えると、やはりこのように宮台の議論を踏まえることになったりする。
この記事では、童貞学の宮台に関する議論をざっと思い返して書いた。この記事を書いた動機は、当然、宮台が都立大学で襲撃を受けたというニュースを耳にして、宮台の事を考えていたらいてもたってもいられなくなったという事である。一節目は宮台をはじめとした社会学者の議論に関して、自戒を込めて取り扱い注意な部分を述べたが、以降はやはり宮台への礼賛となってしまった。小谷野には理解できないのだろうが、やはり私は宮台が好きである。だからこの度この記事の文責を買って出た。今回の事件に関しても、暴力を許さないという一般的な価値観以前に、敬愛する宮台が襲われたという事がもっとも腹立たしく、悲しい。命に別状はないという報道もあるが、元気な姿を早く見たいものである。東大童貞學研究會は宮台氏の無事を祈っている。