2023.02.09 文責【猫跨ぎ】
ミシェル・ウエルベックの小説処女作は『闘争領域の拡大』であるが、これは現代人の闘争が恋愛市場にまで拡大していることを意味する。『闘争領域の拡大』の主題になったのは中年童貞の苦しみだ。主人公の同僚は顔がブサイクであるために、果敢に挑戦を繰り返すも毎回女性に拒絶され、童貞のままであり、そのことに苦しみ続けている。本作のクライマックスで彼は、ナイトクラブで自分の狙った女が格好のいい男にお持ち帰りされ、その二人を尾行し、主人公にそそのかされその二人が砂浜で性交している所を殺しに行く寸前に至る。結局、臆病風をふかし殺害に失敗した彼は代わりに自殺する。童貞である苦しみ、もてないであることの苦しみ、その自意識に耐えきれなかったのである。
ところで、『闘争領域の拡大』が出版されたのは1994年であるが、2015年『服従』が出版された時期に行われた対談「アガト・ノヴァク=ルシュヴァリエとの対談」にこんなやり取りがあった。
ノヴァク=ルシュヴァリエ 小説の領域においては、『闘争領域の拡大』から『服従』までのあなたの作品は宗教的関心に関わる進化を表しているのでしょうか。
ウエルベック そこには多くの段階があります。それでもこの二つの小説は、新しい宗教が必要である、科学的状況とも両立できる宗教が必要であるというオーギュスト・コントを土台にした思想の影響を受けています。
『服従』はますます孤独になっていく主人公がキリスト教への回心に失敗し、イスラム教に改宗する話である。この主人公は孤独にはなっていくが非モテではない。さらに、『服従』は宗教を正面から扱った作品である。二つの小説は、まったく主題の違う作品のようにみえる。しかし、その発想がどちらも、同じ宗教の発想から生まれているとはどういうことなのか。これを紐解くことによって、ウエルベックが性の闘争による苦しみをどのように回避しようとしていたのか、それがどのように変化してきたのかという事が分かってくるのである。
上の問いに答えるために、本評論は以下の構成を取る。まず、次の第1章で、ウエルベックが『闘争領域の拡大』『素粒子』『ある島の可能性』を書いた時点では、超人間主義によって性の苦しみを克服しようとしていたことを見ていく。次に、第2章で『服従』ではカトリックやイスラームなど既存の宗教に可能性を見出していたことを確認する。最終章ではこのウエルベックの変化を総括し、この評論が童貞学として意味のあるものであることに少し言及する。
まず、ウエルベックが『闘争領域の拡大』で示した認識を確認していこう。本作の中にはっきりこう書かれている。
完全に自由なセックスシステムになると、何割かの人間は変化に富んだ刺激的な性生活を送り、 何割かの人間はマスターベーションと孤独だけの毎日を送る。
『闘争領域の拡大』河出文庫 p.101
これは経済が自由化されると富が集中するのと同じ論理である。自由恋愛が起こると、性的資源の保有に格差が生まれる。ウエルベックが示したのはそんな残酷な真実とそれに耐えられなかった男たちの物語である。はじめに紹介したように、『闘争領域の拡大』では最後、もてないことに苦しんだ男は自殺してしまう。さらには童貞ではなかった主人公も孤独感の末、自殺してしまう。ウエルベックは彼らを救うためには、人間を闘争から回避させてくれるような「新しい宗教が必要だ」と考えていたのだろう。
その次の作品『素粒子』では、ウエルベックによる孤独な男たちの救済が始まる。そのために用いられたのは科学技術の革新であった。この小説の前半は相変わらず性の闘争に関する苦しみなどが描かれるのであるが、小説の終末はSFになっており、クローン技術の進化によって人間は人工的に知能を作り、生殖を伴わずに個体を複製することができるようになり、地球上にはこの新人類が卓越し、主人公らのような旧人類は絶滅寸前に至る。つまり、生殖が消えることによって、性の闘争が消滅した世界が生まれたわけである。経済の格差が生まれるならば、お金をなくしてしまえというような暴論であるが、それを科学技術がかなえた。このように科学技術によって人間性を拡大することを超人間主義(トランスヒューマニズム)と呼ぶ。しかし、ウエルベックの超人間主義は従来のものとは少々違う。
従来の超人間主義であれば、人間性は拡張されるわけだから、例えば機械によって性的欲求が満たされるようになる(エクス・マキナのような)ということが考えられる。しかし、ウエルベックにおいては、人間は技術によって生殖や恋愛という人間らしさを失うのである。人間らしさを失い、自意識を失い、闘争を放棄し、ただ生きているだけの状態になる。世界に吸収される。そのような人間のあり方はむしろブライドッティのポストヒューマンに相当する。実際、ブライドッティは従来の超人間主義を批判しThe Posthuman as Becoming-machine(The Posthuman p.89-)というものを提唱していた。ウエルベックが『素粒子』で見せた恋愛の超克はつまり、ポストヒューマンに該当する。これがポストヒューマン童貞なのである。
この『素粒子』の発想が明示的に「宗教」という形で提示されるのは『素粒子』の実質的な続編とも目されている『ある島の可能性』においてである。この小説に登場するエロヒム教という無神論の宗教はクローンによる「永遠の生」を奉じる宗教団体であった。エロヒムはヘブライ語で「神」を意味し、ラエリアンをもととしている。
『闘争領域の拡大』1994年、『素粒子』1998年、『ある島の可能性』2005年。この間、ウエルベックは性の闘争の苦しみを描き続けた。苦しみへの解決として、ウエルベックは「自意識を失い、世界に包摂される」ことを望み、その実現を科学技術に求め、それを最終的には宗教として提示したのである。
しかし、以上の態度は『地図と領土』(2010年)『服従』(2015年)などには受け継がれなかった。『地図と領土』においては、主人公の芸術家としての才能が彼を自意識に縛り付けておかなかった。これはこれで一つの解決であるが、万人に可能なものではない。そして、『服従』であるが、これは一般的にはイスラム教政権がフランスに起こったたらどのようなことになってしまうかという事を書くことで、フランスにおけるイスラムへの恐怖を描写した小説だと認識されている。ウエルベックも、SFは現在の恐怖を反映するもので未来への予測を書くものではないとしてこの認識を追認しているが、冒頭に見たように『闘争領域の拡大』と同じ問題意識によって書かれたのだとしたら、キリスト教やイスラム教が、我々を自意識から救うものとして描かれたとみるべきだろう。
実際、ウエルベックは冒頭に紹介した「アガト・ノヴァク=ルシュヴァリエとの対談」にて以下のように発言している。
世界とつながっているという感覚、無関心な世界の中でよそ者でないという感覚を宗教は 与えてくれますーーそれについてはパスカルが私よりもうまく語っています。
『ウエルベック発言集』白水社 p.274
この時点で、第一章で挙げたウエルベックが宗教に求めたもののひとつ、「世界への包摂」への言及が一つある。しかし、一筋縄れはいかないのは、次の文章があるためだ。『服従』の主人公はユイスマンスの専門家であり、作中では何度もユイスマンスに思いをはせている。特に晩年に彼がキリスト教に回心していたことを気にかけ、以下のように思いを巡らせている。
修道院に彼が惹かれたのは、 肉体の快楽の追求から逃れるためではなかっただろうとぼくは推測した。それはむしろ、 日常生活の些末な厄介事の、人を疲労困憊させる 無気力な反復から自由になることであり、それは、彼が『 流れのままに』で見事に描き出していることすべてだった。
『服従』河出文庫 p.90
ウエルベック自身のなかに、性的な闘争の避難所としての宗教という考えは確かにあった。しかし、彼はユイスマンスにおいてそれを否定している。『服従』の主人公は大学での職を失い、人とのつながりを徐々に失って涙を流しているうちに、自分もキリスト教に回心してみようと考えるに至る。しかし、修道院の生活で2日目にして信仰への懐疑を抑えられず、回心に失敗する。回心の失敗は現実でウエルベック自身についても起こっていたことを、彼は対談で語っていた。素直に信仰を受け入れてしまえば、『服従』もウエルベックも丸く収まっただろう。しかし、そういかない点がウエルベックのひねくれた点である。彼はあくまでも「新しい宗教」を必要とする。それはイスラム教だった。
一夫多妻制のイスラームが性の闘争の解決につながるだろうか。『服従』のなかで、一夫多妻制を正当化する論理として、神はより優れた男のもとに女を集結させることで淘汰を加速させ、それにより生命が完ぺきな形に向かうように仕向けたのだという論理が説明されていた。ウエルベックにとってそれでいいはずはないだろうと思うかもしれない。しかし、ウエルベックの性的な闘争は第1章でも異性の割り当てのようなもので解決することではなかった。今回も、超人間主義の時と同様に、闘争の原因が排除されるということがイスラームによって起こったのである。終盤、主人公がイスラム教への改宗を悟る場面に以下のような文章がある。
この 刺激がなくなれば、 欲望は何か月間かで消え、 セクシュアリティーがあったという記憶まで失ってしまうだろう。
ぼくにしてからが、新政権が女性の衣服を節度を保ったものに変えてからは、少しずつ自分の性的衝動が和らぎ、何日間もそれについて考えないことさえあった。
『服従』河出文庫 p. 257
そう。性の消滅である。今度はウエルベックは、それをイスラームによって起こそうとしたのだ。
ウエルベックにとって、闘争領域の拡大はあくまでも70年代の性の解放以降の事なので会って、それ以前の性道徳を備えたイスラム教は性の欲望の抑制を促進するため、性的な闘争に晒されることによって生まれる自意識、個人主義とは対極のものなのである。イスラム教の精神は中世キリスト教の精神とも通底するものとして、作中では描かれる。中世はロマン主義以前の世界である。ロマン主義恋愛は運命的な一人の人間と出会い恋に落ち結婚するという近代恋愛の諸悪の根源であり、これが成立するためにはピューリタニズムが必要だというのは橋爪大三郎が指摘している。イスラームの一夫多妻制はその恋愛結婚至上主義の前に存在する価値観であり、ここおいて恋愛市場の闘争は存在しない。作中でも、イスラムは西洋近代の思想への攻撃として利用されており、西洋の個人主義や資本主義が攻撃されている。これらは全て、性の闘争の根源となったものであり、ウエルベックが『闘争領域の拡大』の時点から批判の対象としていたものだ。その批判にイスラム教を利用できるという事にウエルベックは気づいたのである。
この背景には「宗教の回帰(Retour du religieux)」と呼ばれるフランス現代社会の背景がある。1989年にフランスで起こったスカーフ事件以降、学校などにおける政教分離原則が厳格化していったのと裏腹に、移民人口の増加やその郊外での暴動などによってイスラム教徒の存在感が増し、それに呼応してカトリックの存在意義も顕在化し始めたという2000年代を通じてフランスで起こった宗教の回帰現象である。ウエルベックがイスラム教に初めて言及しイスラム団体から訴訟されるまでに至ったのは2001年に出版された『プラットフォーム』であり、ウエルベックはそこでは「やはりイスラムがいちばん馬鹿げた宗教だ」などと書いていたが、2015年に至って、彼は徐々にフランスで力を得ていくイスラームの古典的な性道徳に「新しい宗教」たるチャンスを見出したのである。
本評論では、ウエルベックが性の闘争によって生じる困難をいかにして回避しようとしたのかを追ってきた。手段は常に自意識の喪失であり、そのために初期にはポストヒューマン的な主体性を模索し、それを宗教の体系にまで昇華させた。しかし、フランスで「宗教の回帰」が起こると、過去の宗教に問題の解決を求め、カトリックやイスラム教へと向かった。だが、その後の『セロトニン』では、再び加速主義に向かう。
つまり、彼は近代の難を逃れるために近代以後=ポスト・ヒューマンに向かったり、近代以前=イスラームに向かったり、右往左往したのである。『服従』に象徴的な一節がある。
過去は常に美しく、未来も同様なのだ。ただ現代だけが人を傷つけ、過去と未来、平和に満ちた幸福の無限の二つの時間に挟まれて、苦悩の腫物のように常に自分に付きまとい、僕たちはそれ共にに歩くのだった。
『服従』河出文庫 p. 244
ウエルベックにとって、批判の対象は常に70年代から現代までの社会であったが、これはウエルベックにとって常に現代である。ウエルベックがもし別の時代に生まれていたら、彼はその時代の困難を見つけただろう。それも、男性の困難を。本会の研究を通じて、私は19世紀のフランスにも童貞の窮状があったことをすでに知っているし、おそらくウエルベックにもそれはわかっていた。だから彼はもっと前の中世ヨーロッパ世界やそれに近い世界を現代においても実現していると彼が信じているイスラム世界を『服従』で思い描いて見せたわけだが、それも空想でしかあるまい。
また未来に関しても、『素粒子』への批判として、小谷野敦は『退屈論』でセックスは知能が発展しすぎた人間の退屈しのぎであり、複製が性交を伴わなくなれば、それによって人間はまた苦悩すると批判した。ポストヒューマンはいわゆるポストモダン論であり、小谷野が言うように恋愛にポストモダンは訪れていない。ここでもまた、ウエルベックの空想は空想に過ぎないのだ。
性的な闘争において、童貞は弱者である。ここで童貞學研究會にとって大切なのはウエルベックの思想が空想であることを指摘することではなく、ウエルベックという人の存在を正当に評価し、記録することであろう。かつて恋愛をする苦悩を描くのが恋の文学であった。それが今日では恋愛できない苦悩を描くものに変化してきている。ウエルベックの小説は必ず歴史に刻まれるだろう。童貞が苦悩を乗り越えるための革命としての文学はこれからさらに隆盛するだろう。ウエルベックはその嚆矢なのである。