地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説

このサイトはブログ「花見川流域を歩く」で2018年9月~10月に連載した「地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説」シリーズ記事を、1つの画面に連続して表示して見やすくしています。別に当時の画面をpdfにしたものも掲載しています。ご感想をいただければうれしいです。(ご感想はブログ「花見川流域を歩く」問い合わせフォームからお願いします。) 2021.08.29

地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説

地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説 その1

8月に「縄文後期イナウ似木製品の意匠と解釈 ~印西市西根遺跡出土品の実見・分析・考察~」をまとめて公表しましたが、このまとめ作業をするなかで地名「千葉」が縄文語起源であり、それもイナウを起源とするものであるという梅原猛の説を知りましたので紹介しつつ数編のシリーズ記事を書いて検討します。

自分にとっては衝撃があり、かつ説得力のある仮説です。この記事では仮説そのものを引用掲載します。

1 仮説 掲載図書

梅原猛著「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001)の「第一の旅 異界の旅へ、鳥、四-鳥その二、イナウの美-「チパ」から「チバ」へ」にこの仮説が掲載されています。

図書 梅原猛著「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001) 

2 イナウの美-「チパ」から「チバ」へ 抜粋引用

著者は帯広在住のアイヌの方が司祭する祭に参加した体験を語るなかで地名「千葉」が「チパ」(アイヌ語でヌササンのある場所)起源であると考え、そう考えると縄文文化が発展した千葉の地名の意味がよくわかると述べています。

そしてイナウは、祈りを捧げる神さまの数だけ作られる。縄でそれぞれを結びつけて、一つの棚状のものにする。これを、「ヌササン」という。「ヌサ」とはイナウの集まり、「サン」とは棚のことである。今はアイヌでもあまり使われなくなった言葉であるが、このようなヌササンのある場所を「チパ」という。つまり、ヌサをおいて神を祀る場所が、チパなのである。かつてはアイヌの家のどこにでも、家の東側にこのチパは設けられていたという。また村全体として神を祀るチパもあったようである。」

「「イナウ」、日本でいう「削り掛け」は、平城京跡からもたくさん出てきたという。かつてバチェラーが見たイナウの並ぶ美しい光景は、古代日本にもあったのであろう。そしてイナウ、削り掛けの並ぶ棚、ヌササンのあった場所、チパに私の想像はおよぶ。「チパ」とは「千葉」に通ずる言葉ではなだろうか。

「日本書紀」の応神天皇の条に、近江(おうみ)に行くとき山城国宇治郡の菟道野(うじの)に立って国見をしたという歌がある。

千葉の葛野(かづの)を見れば百千足(ももちた)る家庭(やには)も見ゆ国の秀(ほ)も見ゆ

この歌の「千葉」とは「チパ」ではないか。葛野は神を祀る場所で、そこにチパがあったのではないか。その下に「百千足る家庭も見ゆ」とあるから、「家庭」というのは家の中で神を祀る場所というのであろう。

また「チハヤフル」は神にかかる枕詞(まくらことば)であるが、これも「チパが古くなっている」、つまり「古い神々がいる」という意味で神にかかるのではないかと考えられる。さらに、氏にかかる枕詞「チハヤビト」、これは武勇の優れた人と従来解されてきたが、やはり「チパヤヒト」つまり「神祭りの霊場に集まる人」という意味で、氏にかかったのではないかと思う。「千葉」をそのように解すると、あの千葉県の「千葉」の意味もよくわかる。「千の葉」という意味では何のことかわからないが、チパのあったところと解すればよくわかる。千葉県は縄文の遺跡の宝庫であり、縄文文化がもっとも発展したところである。」梅原猛著「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001)から引用

チパ(ヌササン)で祈る著者 梅原猛著「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001)から引用 

3 感想

千葉県には縄文時代の遺跡が数千あり縄文文化が花咲いたので、その影響は後世に強く伝わったはずです。縄文人がつかった言葉も地名として数多く伝わってきていると考えています。ただ古い地名が縄文人から伝わってきたと認識できていないだけで学術が進歩すれば数多くの縄文語起源地名が明らかになると考えています。このブログでも過去の幾つかのテーマで検討しています。

千葉が「チパ」起源であり、それが縄文時代の文化から継承されたものであるという梅原猛仮説に強い興味と共感を覚えます。さらにそれがイナウと結びついているので、自分のとってより大切な仮説となります。

地名「千葉」は現在では範囲が「千葉県」まで拡大していますが、当初は現在の千葉市中心市街地付近つまり都川河口付近であったと考えられます。その付近にある縄文時代の遺跡には加曽利貝塚も含まれていて、加曽利貝塚が国特別史跡に指定されていていわば土地に関わる国宝であると考え千葉市がその価値の大きさを行政に活かそうとしている現在、この仮説の意義には大きなものがあると考えます。

都川河口付近の代表的縄文時代遺跡

地名「千葉」はチパ説(梅原猛仮説)の検討について

地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説 その2

2018.09.20記事「地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説」で地名「千葉」がチパ(ヌササン)に由来するという梅原猛仮説を紹介しました。

この仮説は自分の考古歴史趣味における2つのテーマ(縄文時代と古代)を結ぶ可能性があるのでとても強い興味を持ちました。多少時間をかけてじっくり楽しみたいという気持ちになり、その検討項目をピックアップしてみました。

1 梅原猛仮説に関する検討項目

1-1 アイヌ語や古代語に関する検討

・縄文時代の縄文語チパがアイヌ古語語彙チパとして同じ意味で現代に伝わってきているか?

・古代語にチパ(チハ)が存在し、それはヌササンや類似祭壇(幣や梵天等)を意味していたか?

1-2 チパ-チハ-チバ地名が縄文時代に生れた理由

・縄文時代の都川河口付近にチパが多いなどの「地名として残るほどの特別な理由が存在して」チパ-チハ-チバが地名として生まれたか?

・縄文時代の考古遺跡から関連情報を汲み取り、説得力のある仮説をつくる必要がある。

1-3 チパ-チハ-チバ地名が弥生・古墳時代を通じて伝承してきた理由

・地名チパが弥生時代・古墳時代を通じて人々に使われたか?

・弥生時代、古墳時代を通じてチパ-チハ-チバ地名を伝承した「ヒトビト」が存在したことの考古遺跡等による説明をする必要があります。

1-4 参考 全国で残存するチパ-チハ-チバ関連地名

・地名チパ-チハ-チバが生れた類似事例が他の場所に存在するか?

・例 知里真志保の網走(chipasir)語源。

1-5 参考 「千葉」語源既往資料の検討

・「千葉」語源既往資料の整理・検討と評価・批判

今後折に触れて上記検討課題に取り組みたいと思います。

2 「千葉」語源既往資料の把握

手持ち資料を漁ったところ、学術性のある地名「千葉」語源関連資料はおそらくほとんど揃いました。ラッキーです。(一般通俗図書はとりあえず扱わないことにします。)

2-1 大日本地名辞書坂東(吉田東伍、明治40年)復刻本

・邨岡良介「日本地理誌料」の千葉語源諸説紹介の掲載(植物繁茂説など)

2-2 千葉県千葉郡誌(千葉郡、大正15年)復刻本

・千葉が古事記から記述されていること。

2-3 千葉市誌(千葉市、昭和28年)

・「千葉という名称の由来」(武田宗久)掲載…原始時代における「チハ」という同族集団存在の仮説。

2-4 アイヌ語入門(知里真志保、1956年)

・アイヌ古語「chipa」=「inaw-san(幣・棚)」による網走の説明。

2-5 千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館、昭和47年)

・邨岡良介「日本地理誌料」の千葉語源諸説紹介の掲載(植物繁茂説など)

2-6 千葉市史 原始古代中世編(千葉市、昭和49年)

・「千葉という名称の由来」(武田宗久)掲載…原始時代における「チハ」という同族集団存在の仮説。

2-7 千葉市史史料編1原始古代中世(千葉市、昭和51年)

・千葉地名関連古文書抜粋掲載

2-8 角川日本地名大辞典12千葉県(角川書店、昭和59年)

・下総国旧事考の説(植物繁茂説)紹介

2-9 千葉県の歴史通史編古代2(千葉県、平成13年)

・万葉集歌紹介。

3 感想

3-1 梅原猛仮説の非普及

梅原猛仮説の存在は最近偶然知ったのですが、WEBを検索するなどしてもほとんど引用されていません。これまで千葉県民に対する影響力はほとんどないようです。恐らく考古遺物としてのチパ(ヌササン、イナウ)の出土が無かったこと、あるいはチパから派生した木製祭具(幣[ヌサ]、梵天、イグシなど)に注意が払われなかったことによるのではないかと想像します。

3-2 原始時代「チハ」同族集団存在仮説を説いた武田宗久の先見性

梅原猛仮説に共鳴する立場から「千葉」語源既往資料を読むと「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)収録論文「千葉という名称の由来」(武田宗久)の先見性が光ります。この論文の中で地名「千葉」語源として原始時代における「チハ」という同族集団存在仮説を提起しています。この論文は「千葉市史 原始古代中世編」(千葉市、昭和49年)にも再録されています。しかし残念ながらこの論文が掲載されている2冊の図書はともに久しく絶版であり、武田宗久仮説を知る人はおそらく限りなく少ないと想像します。

武田宗久が「千葉」語源に確信を持った背景にはそれまで情報が少なかった縄文時代遺跡を積極的に発掘するとともに弥生時代、古墳時代、奈良平安時代までの通史を全て著述する活動を行い、その体験から「チハ」という同族集団を考えざるを得なかったのだと思います。

「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)収録論文「千葉という名称の由来」(武田宗久)の最初ページ 論文は全6頁

「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)

3-3 梅原猛仮説を構成する3要素

私の想像ですが、梅原猛は武田宗久仮説(原始時代における「チハ」集団の存在)を知っており、知里真志保のアイヌ古語「chipa」=「inaw-san(幣・棚)という説明を本人から直接あるいは間接に聞いていたのだと思います。そうした2つの知識の上に本人のチパにおける祭体験が加わって、地名「千葉」がチパ由来という仮説に到達し、確信を抱いたのだと思います。

3-4 印西市西根遺跡出土イナウ似木製品の大きな意義

印西市西根遺跡出土イナウ似木製品が杭ではなくイナウそのものであると考えましたが、そのような立場にたつと、縄文時代遺跡からイナウが出土したのですから、これまで無視されてきた梅原猛仮説が千葉県民に受け入れられるキッカケになるのではないだろうかと考えます。また見捨てられている武田宗久仮説の先見性に人々が気が付くことになると思います。

千葉=チパ説の根拠 知里真志保の網走語源解説

地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説 その3

梅原猛が地名「千葉」はアイヌ語「チパ」(ヌササンのある場所)を起源とするという仮説を述べています。そのなかで「チパ」がヌササンのある場所という記述の出典や情報源は述べていません。(注 ヌササンとはイナウの集まりでつくった棚、つまり木製祭壇。ヌサを日本語表記すれば幣)

ただ、厳密な証拠はありませんがアイヌ語学者知里真志保の著書「アイヌ語入門 -とくに地名研究者のために-」(初版1956、北海道出版企画センター)に記述されている網走語源情報を梅原猛が利用していると推定しますので、その情報を引用紹介します。

知里真志保は著書「アイヌ語入門 -とくに地名研究者のために-」のなかで永田方正氏の蝦夷語地名解のChipashiri説明(下に引用)を批判して次のような記述をしています。

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「チパシリ」はchipa-sirで、「幣場〔の〕・島」の意であるらしい。*)

*)アバシリ(網走市)は、アイヌ語「ア・パ・シㇽ」(a-pa-sir「われらが・見つけた・土地」)から出たとも、「アパ・シㇽ」(apa-sir「入ロの・土地」)から出たとも云われ、或はアパシリは古くチパシリと云ったが、それも「チ・パ・シㇽ」(chi-pa-sir「われらが・見つけた・土地」)の意であるとか、或いは神鳥が’チパシリ!チパシリ!'と鳴いたという伝説から名つげられたとか、諸説紛々としている。しかし,「チパ」は実は「イなウサン」(inàw-san「幣場」)の古語で、「チぱシㇽ」(chipà-sir「幣場のある・島」)の意に解すべきものであるらしい。アバシリ川の川口に近い海中に帽子岩というのがあって、古くは「ヵむイ・ワタラ」(kamùy-watara「神・岩」)と云った。土地のアイヌは非常にこれを崇拝し、アザラシ狩に出る時は、かならずここに幣を捧げて祈った。そこに捧げた幣が倒れているのを見た場合は、不吉だとして出漁を見合わせて戻った。漁季にはじめてアザラシを捕った時は、ここでイよマンテ(iyómante 魂送の儀式)をとり行つた。この岩が、実は「チぱシル」(幣場のある島)だったらしい。ただ、「チパ」が古語になって、その意が解し難くなるに及んで、民衆はこれを「チ・パ・シル」(われらが・発見した・土地)の意に俗解し、さらに「チ」(chi- われら)を同意の「ア」(a-)に代えて、「ア・パ・シㇽ」(われらが・発見した・土地)としたのであろうと思われる。

知里真志保著「アイヌ語入門 -とくに地名研究者のために-」(初版1956、北海道出版企画センター)から引用

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参考●永田方正氏の蝦夷語地名解のChipashiri説明

Chipashiri;我等ガ見付タル岩[昔シ,アバシリ沼ノ岸ニ白キ立岩アリ,笠ヲ蒙ブリテ立チタル「アイヌ」ノ如シ,「アイヌ」等之ヲ発見シテ「チパシリ」ト改称スト云フ,此白石崩壊シテ今ハナシ,名義国郡ノ部二詳ニス,参照スベシ,或云フ,此ノ岩,神自ラ「チパシリ」「チパシリ」卜歌ヒテ舞ヒタリ,故二地二名クト,或ハ云フ,一鳥アリ,「チパシリ」「チパシリ」ト鳴キテ飛ブヲ以テ地二名クト,「アイヌ」口碑相伝フル処大同小異アリ](地名解475)。

知里真志保著「アイヌ語入門 -とくに地名研究者のために-」(初版1956、北海道出版企画センター)から引用

知里真志保著「アイヌ語入門 -とくに地名研究者のために-」(初版1956、北海道出版企画センター) 写真は2004年発行七刷

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「「チパシリ」はchipa-sirで、「幣場〔の〕・島」の意であるらしい。」と記述していて、「あるらしい」という普通使わないあくまで推定であるとする記述になっています。その理由は現在使われているアイヌ語ではなく、アイヌ古語を推定復元しているのでこのような表現になったと考えます。

梅原猛が使った情報源が判明したと考えます。

同時に、チパのイメージの例がアザラシ猟に出る時の祈願の場であることがわかりました。この情報は千葉地名が発生した時の様子を検討する材料の一つに使えると考えます。

チパ(ヌササン)の最大の役割は、危険や苦労をともなう生業の成功を祈願する場であったのかもしれません。

千葉地方の縄文後期晩期の主要生業は漁労ではなく狩猟であるようですから、千葉地方では狩猟祈願でチパが盛んに利用されたということかもしれません。

全国で同じようにチパが狩猟祈願で使われていたなら、千葉地方だけで地名チパ=千葉が生れる説明は出来ません。従って、千葉地方でだけ狩猟祈願でチパが盛んにつかわれる(東京や茨城では狩猟祈願に別の祭具が使われる)などといったチパに関わる何らかの地域独自性が証明できれば地名「千葉」=チパ起源説の蓋然性が高まると考えます。

この梅原猛仮説を追うことによって自分の縄文時代学習問題意識が研がれると想定できますから、今後の縄文時代学習が楽しみになりました。

地名「千葉」=原史「チハ」同族集団説 武田宗久仮説の先進性

地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説 その4

梅原猛は「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001)のなかで、地名「千葉」がチパ(アイヌ古語でヌササン(イナウでつくった祭壇)の意味)に由来し、それは縄文時代に遡るという仮説を提示しています。

このシリーズ記事ではこの仮説に興味をおぼえて検討しています。

この記事では梅原猛がおそらく仮説構成要素として使ったであろうと推定している武田宗久仮説を引用紹介します。

武田宗久は「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)執筆のなかで論文「千葉という名称の由来」を掲載し、原史時代における「チハ」という同族集団存在の仮説を展開しています。この論文は「千葉市史 原始古代中世編」(千葉市、昭和49年)においても再掲されています。

1 「千葉」名称由来3説と漢字「千葉」が単なる当て字の1つである説明

武田宗久は「千葉」という名称の由来は大要次の3説になるとして、それぞれの説を詳しく説明しています。

1)羽衣伝説に系統を引くもの

2)霊石天降伝説に系統を引くもの

3)草木の葉の繁茂する様を形容したとする説

この3説のうち1)と2)は千葉家の出自が高貴なことや一族の繁栄を念ずる意図から考案されたものとして「ただ千葉家の歴史を説明するための仮託としての用例にすぎない」としています。

3)の説には注目し、次のように記述しています。

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次に草木の葉の繁茂する様に由来を求めようとする説は契沖において最も優れ、『万葉集』の「知婆(ちば)の加豆奴(かづぬ)」(応神天皇の歌)、『知波(ちば)の野(ぬ)』(太田部足人の歌)等をそれぞれ「千葉の葛野」「千葉の野」にあてるというふうに、千葉家成立以前にさかのぼって本市の地名の由来を探求している点に注目すべきものがある。しかし右は「千葉」という漢字にとらわれすぎた解釈であって、既に『万葉集』には知波、知婆、千葉郡などの語を見出し、『日本後紀』には千葉、『延喜式』には千葉、『倭名類聚抄』には、千葉と書いて知波と訓じていて、必ずしも「千葉」という漢字にあてて草木の繁茂する意味に解釈する必要はない。そこで「チバ」という言葉の構成から検討すると、上古には濁音を用いないのが原則であるから、「チバ」は「チハ」からの転音で、この変化はかなり早い時代に成立したらしいこと、「チハ」は「チ」と「ハ」の複合語であろうことを推知することができよう。「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)から引用

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ここで武田宗久が述べていることは、地名「千葉」が千葉家成立以前に遡ることと、漢字「千葉」は単なる当て字の1つであり、漢字導入以前から音「チハ」あるいは「チバ」が存在していたということです。つまり地名「千葉」は漢字「千葉」とは全く無関係に音「チハ」あるいは「チバ」として存在していたという説明です。

漢字「千葉」はなんら地名とは関係がなく、地名の最初は「チハ」あるいは「チバ」という音で存在していたという根本原理がここに書かれており、この根本原理はだれも否定できません。漢字導入以前の地名とその当て字に関する関係は柳田國男もいろいろなところで既にのべています。

漢字「千葉」はその漢字を当てた人が考えた「地名「チハ」あるいは「チバ」への修飾・美化」であり、本当の由来とは全く無関係であると言い切ることができます。ただし沢山の異なる当て字のなかで漢字「千葉」が漢字導入期の人々にとって心地よいという事情があり、漢字「千葉」が生き残ったという経過はあったかと推定します。

この武田宗久の考えを梅原猛が読み、共鳴したと推定します。

2 武田宗久が考える「チハ」の意味

武田宗久は「チハ」の意味を次のように考えています。

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恐らく「チ」は血(ち)、霊(ち)、乳(ちち)、父(ちち)などと音通で血縁を同じくするものの意、「ハ」は歯(は)、葉(は)、端(は)、母(はは)などと通じ呼吸する、繁る、子孫、生れる、末端などを意味し、「チ」と「ハ」の結合からなる「チハヤフル」という「神」の枕詞には神意の烈しさ、畏ろしさ、速さなどを含めた意味をもっていることなどから、「チハ」とは「畏敬する神を同祖とするものの血縁集団」又は「その居住する所」という程の意味があるのではないかと思われるのである。「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)から引用

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この「チハ」の意味を「ヌササンである」と言い換えると武田宗久仮説は梅原猛仮説と同じになります。

3 地名「千葉」成立プロセス

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これを要するに千葉という称呼の成立過程は、まず原史時代において自然に発生した「チハ」という同族集団の汎称から、やがて彼らの居住する所を表す固有名詞として「チハ」ないし、「チバ」が使用され、同時に彼らの氏族は「チバ」氏と呼ばれた。その後「チバ」氏が次第に勢力を蓄えてチバ一円を従えるようになると、「チバノクニ」が一般に知られるようになり、やがて大和朝廷の支配下に服属して、その首長は、「チバ」国造に任命され、彼の率いる人民はその領土と共に、一応収公された形式の下に大私部となって貢納のための労働に従事した。そこで「チバ」氏の首長は一方においては「チバ」国造であると同時に他方では大私部を統率する「トモノミヤツコ」(伴造)でもあったから、その家柄を示すにアタイ(直)の「カバネ」(姓)を公許され、ついには大私部を己の氏とするかのごとくになって、永く朝廷の直轄領土の中に奉仕する地方豪族の一つとなったために、たまたま『日本後紀』には「千葉国造大私部直善人」なる人物が見えるのである。

さて、その後王朝後半期の激しい政治的動乱期に際会して関東八平氏の一族が侵入し、後述するような方法で「チバ」氏の領土を蚕食し、ついには全く旧領を奪取してそこに新しい支配関係が成立した。その領土が「千葉の荘」であり、その新たなる支配者が所謂葛原親王の苗裔「千葉氏」であるのである。すなわちこの第二の「千葉氏」は第一の「千葉氏」の名称をそのまま踏襲することによって、領内の住民と新しい主従関係を結んだが、その出自は単に葛原親王の後裔とする以外に、古くから千葉の土地と深い関係にある高貴にして権威ある家柄であるとの印象を抱かせるために、いろいろな説話や伝承の中に附会して説明する必要があったのである。「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)から引用

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原史時代の「チハ」同族集団が千葉国造にまで繋がっているというまことに雄大でロマンあふれる仮説です。

武田宗久は千葉市誌の原始時代、古墳時代、王朝時代を執筆していますが、原始時代は縄文時代と弥生時代が含まれています。従ってここでの原史時代とは縄文時代・弥生時代を含む時代と考えてよいと考えます。

武田宗久は縄文時代・弥生時代に「チハ」同族集団が居住していて、その集団の系統が千葉国造につながったと考えています。そしてそれが第一の「千葉氏」であると考えています。

武田宗久の地名「千葉」仮説は誠に先進的なものであると考えます。

4 参考 地名「千葉」の位置

和名類聚抄には下総国千葉郡千葉という郷名が出てきます。

和名類聚抄の写本 「千葉県の歴史 資料編 古代」(発行千葉県)から引用

この郷名「千葉」の場所を邨岡良弼は次のように比定しています。

千葉県地名変遷総覧附録 千葉県郷名分布図(邨岡良弼日本地理志料による) 123千葉

この場所は都川と村田川に挟まれた台地に位置しています。この場所付近が古墳時代頃の第一の「千葉氏」と関わることは間違いないようです。

その第一の「千葉氏」のルーツとかかわるかもしれない遺跡を弥生時代・縄文時代へと遡って追ってみる。逆にこの場所付近の六通貝塚等縄文後晩期遺跡から弥生時代、古墳時代へと考古遺跡情報で社会がつながるのか考えてみることが課題となります。

地名「千葉」=チパ仮説検討は、縄文時代-弥生時代-古墳時代-奈良・平安時代へと社会のつながりを意識して考古遺跡を学習するテーマとなりますので、私にとって価値の大きな学習活動となりそうです。

地名「千葉」の起源に関わる4説

地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説 その5

梅原猛は「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001)のなかで、地名「千葉」がチパ(アイヌ古語でヌササン(イナウでつくった祭壇)の意味)に由来し、それは縄文時代に遡るという仮説を提示しています。

このシリーズ記事ではこの仮説に興味をおぼえて検討しています。

この記事では梅原猛説を含めてこれまでの地名「千葉」に関わる説を4つに整理して、今後の検討に便利なようにしました。

地名「千葉」の起源に関わる4説

羽衣伝説系統と霊石天降伝説系統の千葉由来は千葉家の歴史を説明するための仮託としての用例です。千葉家の出自が高貴なことや一族の繁栄を念ずる意図から考案されたものと考えられています。

草木葉繁茂説は契沖の説が最初であり、それを引用するかたちで吉田東伍や邨岡良弼に支持されてきています。

原始集団説は武田宗久の説が梅原猛に引き継がれ、「チパ」=ヌササンという具体的明示的な説明となり説得力を増したものになっています。

私は地名「千葉」の起源に関わる説で検討の俎上にあがるのは草木葉繁茂説と原始集団説の2説であり、それは煎じ詰めれば、契冲の説(1690年)と梅原猛の説(2001年)の2人の説になると考えます。

契冲、梅原猛ともに万葉集の応神天皇の歌を引いて千葉の説明をしています。

応神天皇の歌の解釈の仕方によって、地名「千葉」の起源が違ってくるというある意味で論点がかみ合っている論争が1690年の契冲と2001年の梅原猛で行われているのです。

契冲の応神天皇の歌の考証 武田宗久「千葉という名称の由来について」の部分引用

(レ点等の入った縦書文字のWEBでの表現方法がわからないのでしかたなく画像で表現しました。)

契冲の説明は、「応神天皇の歌のチバは千葉でカヅヌは葛野だ。それはカヅラのツタが伸びて葉が茂っている様子を歌っている。下総に地名「千葉」と「葛飾郡」が隣接しているのは同じ意味つまり千葉は葉が茂っている様子、葛飾郡はカヅラの意味だ。」ということになります。一言でいえば千葉とは千の葉っぱ(沢山のカヅラの葉っぱ)ということになります。契冲は最初からチバに漢字「千葉」を当て、その漢字字義どおりに解釈しています。

一方梅原猛は応神天皇の歌を次のように解釈しています。

「日本書紀」の応神天皇の条に、近江(おうみ)に行くとき山城国宇治郡の菟道野(うじの)に立って国見をしたという歌がある。

千葉の葛野(かづの)を見れば百千足(ももちた)る家庭(やには)も見ゆ国の秀(ほ)も見ゆ

この歌の「千葉」とは「チパ」ではないか。葛野は神を祀る場所で、そこにチパがあったのではないか。その下に「百千足る家庭も見ゆ」とあるから、「家庭」というのは家の中で神を祀る場所というのであろう。

また「チハヤフル」は神にかかる枕詞(まくらことば)であるが、これも「チパが古くなっている」、つまり「古い神々がいる」という意味で神にかかるのではないかと考えられる。さらに、氏にかかる枕詞「チハヤビト」、これは武勇の優れた人と従来解されてきたが、やはり「チパヤヒト」つまり「神祭りの霊場に集まる人」という意味で、氏にかかったのではないかと思う。「千葉」をそのように解すると、あの千葉県の「千葉」の意味もよくわかる。「千の葉」という意味では何のことかわからないが、チパのあったところと解すればよくわかる。千葉県は縄文の遺跡の宝庫であり、縄文文化がもっとも発展したところである。」梅原猛著「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001)から引用

私は契冲説より梅原猛の説の方がはるかに確からしさがあると感じます。