鳴海は海だった?
鳴海は古来より交通の難所として、鳴海潟がよく歌に詠まれている。海の干満の差を利用した街道が、海岸線に沿って笠寺の丘陵地帯まで伸びていた。満潮時には海になるが干潮時には歩くことができる遠浅の海であった。この潮の満ち干を利用する道は当時の旅人を大いに悩ませたそう。
鳴海の由来は?
鳴海の由来は正確にはわかっていない。文字が無かった頃にも既に「なるみ」の名称が存在した。奈良時代以降「奈留美」「成留美」「鳴身」「成海」 等と書かれてきた。日本武尊が松炬島(今の星宮)と火高(今の大高)とを往復した時に詠まれた歌に登場する「奈留美良乎 美也礼波止保志 比多加知爾」の「奈留美良」の「良」は古来添え字あるいは「浦」の意味に解されているが、アイヌ語の発意でナルミナの変化で「ナ」は海、「ルミナ」は微笑で「おだやかな海」という固有名詞との説もある。
鳴海と日本武尊の東征
古墳時代、景行天皇は三河より東の国が従わないため、日本武尊に征伐に向かうよう命じた。伊勢神宮で草薙神剣を倭姫命より授けられた日本武尊は、大高の氷上山で尾張国を治める乎止与命の館に立ち寄り宮簀媛命を見初めた。海路で東国へ赴き大役を果たして無事に尾張国氷上館(大高)に凱旋し、宮簀媛命と結ばれ、氷上館に滞留することとなった。鳴海では鉾ノ木(ほこのき) の伝承が有名。成海神社では主祭神である日本武尊と宮簀媛命の夫婦神が祀られている。
鳴海には城があった?
安原備中守宗範が社殿を北の乙子山に移転させ、鳴海城を築城した。永禄3年(1560年)桶狭間の合戦の時には、城は落城せず、合戦後に主君義元の首と交換で明け渡し、天正18年(1590年)廃城となった。その後成海神社の御旅所として天神社が祀られ、今に至る。鳴海城跡はこの天神社と、鳴海街道を挟んで西側に鳴海城跡公園がある。