「古鳴海」は「小鳴海」とも書き、二つは混用されていた。いつからこのように呼んだのかははっきりしないが、江戸時代初期には鳴海の枝村という意味で古鳴海と称されたと推測されている。野並村と古鳴海の間を流れる藤川はかつて鳴海潟の入り江で、『蓬東大記』に「野並の里の汐干を待ちて」とあるように、潮の満ち引きがあった。
旧字に「焼山」「並松」があり、一部が赤禿げた山の意味で、焼き畑に因んだ字名と思われる。「焼山」の旧字には「池下」がある。こちらは新海池ではなく、四郎三池の下という意味。「並松」は「並木松」のこと。
また、古鳴海の別称に「小組」があった。古鳴海を小鳴海と書き、略して組をつけたもの。「小組邸」等とも呼ばれた。
参考文献
榊原邦彦(2021)『名古屋史跡巡り一 鳴海史跡巡り』 名古屋市 中日出版株式会社
Japanknowledge 『日本歴史地名大系』県別閲覧>愛知県 2024年12月14日閲覧 平凡社
榊原邦彦(2000)『緑区の史蹟』 名古屋市 鳴海土風会