「汐田」は鳴海の中でも最後まで海であった地で、いつ潟から田になったのかははっきりしないが、汐田全体が田になったのは江戸時代初期と推測されている。汐の吹き出た田面の意味。水の流れによって上・中・下に分割した。
【上汐田】
汐田の中でも早くに耕地化され、室町時代には既に耕地化されていたことが文献によって明らかになっている。
旧字は「武者山」「小藪」「五反田」「高繩手」等で、「五反田」は五反の広さの田。「武者山」は往古成海神社の神事を行う費用のために鳴海城主が寄進した田畑であるとの記録がある。「武者山」は「歩射山」が訛ったもので、鎌倉時代から室町時代にかけて各地で歩射の神事が行われた。
【中汐田】
知多郡道が字前之輪より黒末の渡しまで字下汐田と字中汐田の間に通じており、鳴海では宮道・汐田道とも言った。明治時代には幅が七尺で、三日も雨が降れば一面湖の如くになり、通行が止まった。旧字に「ぎろ」があり、中汐田の中の低いところを指したそう。ぎろは高知県や愛媛県の方言で粘土、粘土質の土を言う。愛知県の地名にも多い。
【下汐田】
大川の扇川への圦があった。(大圦)旧字に「治兵衛おこし」「小原新田」「杁先」がある。「治兵衛おこし」は治兵衛という百姓が開墾した土地の意味。「小原新田」は鳴海で最も古い新田。「杁先」は杁の先。
参考文献
榊原邦彦(2021)『名古屋史跡巡り一 鳴海史跡巡り』 名古屋市 中日出版株式会社
榊原邦彦(1984)『緑区の歴史(名古屋区史シリーズ;6)』愛知郷土資料刊行会
榊原邦彦(2000)『緑区の史蹟』 名古屋市 鳴海土風会