この100年前の点字図書は光丘文庫の2階に所蔵されています。
光丘文庫の点字図書には、宗教書、医学書、大日本帝国憲法など、1000点もの点字図書があります。
点字本を開いてみました。
そこには「寄第 号 橘周存氏寄贈 大正十四年十一月十二日」と記されています。光丘文庫が設立された年に寄贈されたものです。
橘周存(たちばな しゅうぞん)氏は、「酒田点字読書会五十年の歩み(昭和53年11月19日発行、発行所:酒田市立光丘図書館・酒田点字読書会)」には、次のように書かれています。
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周存氏は、雲照寺の二男に生れ、四才のときに失明、後医師時岡淳徳に十五年間師事して医学・鍼灸按術を習得して一家をなしました。盲人教育の不備を嘆き、私財を投じて家塾を開き、盲人教育と点字の普及に尽くされました。昭和四年、酒田点字読書会の創設に際し、推されて顧問になっております。
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昭和4年に創設された酒田点字読書会は、現在も活動しています。
このヘレン・ケラー直筆サインのある礼状は、本間美術館に所蔵されています。(礼状は、表装して保管されていますので、常設されていません。)ヘレン・ケラー女史は、昭和23年9月20日、酒田市に訪れており、当時の様子について「酒田市市制50年」に、詳しく書かれています。
当時の様子
幸福の青い烏、ヘレン・ケラー女史を乗せた特別列車「パレスタイン号」が酒田駅一番ホームに85分遅れですべりこんで来たのは、昭和23年9月20日の夜だった。キャドウェル氏が離酒してからニカ月経っている。これまでの訪問者は戦勝国の進駐軍だった。今度は盲・聾・唖の三重苦の苦しみを克服したケラー女史が、ひとりの身体障害者の先輩として、身障者事業に対する協力を求めるキャンペーンのため訪れたのだ。駅前広場にはこの世界的に有名なケラー女史をひと目見ようと二千人の市民が待っていた。
(中略)
寝台車で港の一夜を明かした女史は酒田市琢成小学校で開かれるヘレン・ケラー女史歓迎県民大会に足を運んだ。会場には三千人あまりの聴衆にまじって山形、秋田、新潟の各県から駆けつけた身障者生徒、付き添い300人の姿も見える。
(中略)
日本の次には韓国・中国の訪問の旅が控えていた。歓迎大会が終ったあと、関西に向ったが3日後の26日には旅先の名古屋から本間家に礼状を出している。大会後防れた本間美術館で歓待を受けたが、そのお礼だ。
礼状は表装されて本間美術館にある。3ページにわたってビッシリ、タイプで打たれており、その末尾には署名がある。直線を主体にし、一字一字離して書かれた書体を見ると、盲目の女史が手探りでレターペーパーに署名している姿が浮んでくる。
それを読むと、秘書に代筆させた通りいっぺんの礼状でないことがわかる。本間家では女史を一流の文化人として厚く遇した。女史が興味を示すと思われる美術品の逸品を選択して用意した。本間家の古いたたずまいとこれらの美術品は女史の心を動かしたようだ。
(中略)
ケラー女史が本間美術館を訪れたときのことを本間久治氏は次のように回想する。
正直いってあのときほど面くらったことはありません。美術館旧館(元本間家別荘)の玄関を入って建物の説明を受けると、目の見えない女史は手で、『見』ようと柱や鴨居に手を伸ばし、触れられるのです。今までそんな経験はありませんから、鴨居まできれいに拭き掃除するなんて思いもよりませんでした。つぼや陶器をお見せしてもそうです。手をつぼの中に入れたり、鼻の近くまで持ってきてにおいをかいだりします。ですから、女史の手は見る間に、ほこりでまっ黒になりました。はたで見ていて非常に恐縮しましたが、本人は触覚と嗅覚で『鑑賞』するのに熱中しているようでした。
礼状の翻訳
礼状には、翻訳されたものも同封されており、「本間美術館の37年」(昭和58年8月刊、発行 財団法人本間美術館、9頁)にその全文が書かれています。
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本間様
もし私が言葉を音楽に、花に、陽の光にかえる術(すべ)を持つならば、先週の火曜日、私とトムソン先生に示された、あなた方の心ゆく楽しいおもてなしに対し、このうえない優雅な言葉で貴方やご家族の皆さんに感謝を申し上げられることができるでしょう。
とは申しましても、私が申し上げることが出来ますことは、ただ歴史と芸術と家庭生活とが、その奥ゆかしさの名残りを留めている家での接待の美しさを身にしみて感じたと言うことでございます。私の心は、すべてのものに、すっかり魅惑されて、まだあつくもえております。
……さむらい屋敷の素晴らしさ、着る人を詩情に浸らせるような豪華な剌しゅうをした衣裳、このうえなく貴重な陶器や漆器、私はその夢のような美しさに、ただ感嘆して息がつまるようでございました。
しかも、私たちにあの宝物のいくつかをお贈りくださるというご配慮を示されましたことは、深く深く私の心に感ずるところでごぎいます。私たちなら、あの宝物の貴重さがわかるでしょう、と貴方が強く申されましたことには、まことに心を動かされるおほめの言葉でございまして、私はあの贈物以上に、その言葉に感謝しております。
詩人のような通訳の能力をもっておられる岩崎武雄さまが、私たちより早くお宅を出発いたしましたので、私がギリシャ神話について申し上げたことが、英語から日本語に通訳されるとき、おそらく十分にその意味が伝えられなかったのではないかと、ふと思いついたのです。ですから、まことに勝手ながらこの手紙を岩崎さまに翻訳したものも貴方にお送りしたいと存じます。
あのときも是非お伝えしようといたしましたが、私は子供の頃、いつもギリシャ神話を読んでいたものでございます。そして、いつも思いますには、大きな家が戦争という運命によって、その持主が変りますと、かつてその住人が大切にしていた数々の芸術品は。征服者にも、敗者にも”畏れ”の気持でみられるという、思い出の糸をたぐるのでした。それらの作品は神々の憎悪と復讐とをこめた対象物として考えられ、それ故に、そのまま犯されずに遺ってきたものでございます。
しかし、私は、私の心の錬金術によって、この呪われた考えを、いつも祝福に満ちた期待へと変えてまいりました。すなわち、これらの美の記念品や霊感に充ちた作品は、まことに年久しく、認識されんことを待ち望んでいた無限の生命の面影であり、その面影より生ずる平和と同胞へのいざないが、いつの日か人類は歓喜をもってその心の中に服従することでしよう。
多くの日本の盲人たちに、心の灯をもたらししつつある貴方のお仕事に感謝し、トムソン先生と私は、本間家の奥様並にお嬢さまたち、そして貴方に心から御礼のご挨拶を申しあげます。
1948年9月26日 名古屋観光ホテルにて
来館を記念して植樹したヒマラヤ杉ヘレン・ケラー女史の来館を記念して植樹したヒマラヤ杉が、旧正門前の左側にあります。
ヒマヤラ杉はこの地に根を張り、天にむかって、ゆっくり・ゆっくり、そして、まっすぐに成長しています。
この像は、遊佐町の順仁堂「遊佐病院」の正面玄関の前の中庭にあります。胸像には、「佐藤國蔵之像」と書かれております。胸像の下には、説明板があり、その左側には点字で書かれた説明板がありました。
胸像の下にある説明板には、次のように書かれていました。
『佐藤国蔵は慶応3年(1867年)遊佐町高砂七七医師意泉の次男として生れ、大志を鳥海山に誓い上京、明治20年東京大学医学部別科を卒業、医術開業前期試験合格後失明状態に陥る。止むなく明治22年官立東京盲学校鍼治科入学、更にヴァイオリン科に進み、明治27年「点字唱歌の譜綴り方」を著わし点字楽譜の祖となる。悲運の迂回五ヶ年、医術は進歩し奇しくも開眼、後期試験合格、月光川の鮭のごと遊佐に還って地域医療に灯を掲げ、明治42年(1909年)文明開化の世を太く短い人生を閉じた。』
点字の説明板の点訳
点字板には、次のように書かれていました。
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わがくに てんじ がくふの そ
―― さとー くにぞーの しょーがい ――
さとー くにぞーわ 1867ねん(けいおー 3ねん) 3がつ みっか
ゆざちょー たかさごの いし いせんの じなんと して うまれた。
16さいで じょーきょー とーきょー だいがくで いがくを まなび
ぜんき いじゅつ かいぎょー しけんに ごーかくしたが りょーめを わずらい
しつめい じょーたいに なった ため いがくの しゅぎょーを あきらめ とーきょー
もーあ がっこー(げん つくば だいがく ふぞく もーがっこー)に
にゅーがくし あんま はり ちりょー および ゔぁいおりんを しゅーとくした。
とーじ わがくにでわ くんもー てんじの こーあん ふきゅーが よーやく
ぐたいかしつつ あり くにぞーも てんじ せんてい いいんと して さんかくした。
とくに 「もーじんに おんがくを」と 1894ねん(めいじ 27ねん)
「てんじ しょーかの ふ つづりかた」を へんさんし 「こくみん しょーかしゅー」を
てんやくした。 この ことわ わがくに てんじ がくふの さいしょの ものと
され 「てんじ がくふ ことはじめ」と なった。
しつめいご 7ねん しゅじゅつに よって しりょくを かいふくした のち ふたたび
いがくの しゅぎょーを つづけ こーき いじゅつ かいぎょー しけんに ごーかく いしと
なり 1897ねん(めいじ 30ねん) ききょーし ちちの じゅんにんどーを ついで
ちいき いりょーに じゅーじする かたわら せいしょーねん いくせいにも じんりょく
したが 1909ねん(めいじ 42ねん) 6がつ はつか しんぞー ほっさのため
きゅーせいした。
つくば だいがく ふぞく もーがっこー
おんがくか きょーゆ あだち きんいち しるす
びょーいん せつりつ 30しゅーねんを むかえるに あたり この せんじんの
いぎょーを したい かんしゃを こめ ここに きょーぞーを こんりゅーし
いとくを しのぶ よすがと する。
1984ねん(しょーわ 59ねん) 9か゛つ
くにぞーの まご いちどー
せいさく やながわ ごーいち